月明かりが薄雲に陰る夜半。
円角寺の隠れ身の結界はそのシンプルな効能とは裏腹に、非常に強固で煩雑な術式で編まれていた。妖魔カイをして解析を断念させたと言えば、その構造の複雑さもうかがい知れよう。
また同時に、幾日もその結界の破壊のみに心血を注ぎ、そして打ち砕いた木乃峰結衣の心胆と才覚もあえて言うに及ばないだろう。立体的な幾何学図形で編まれた術式の意味を正確に把握し、彼女の僅かな妖力のみで結界を解呪したのだ。
何日かぶりに肺に入れた外界の空気、その清々しさを全身で味わう。
安堵の吐息、そう形容するにはあまりにか細い呼吸を幾度か繰り返し、彼女は気付く。
式者の気配に。その殺気に。
気取った時には式者は駆けだしていた。
互いの視線が絡まる。一瞬、式者が表情を曇らせたように見えたが、次の瞬間には決意の眼差しが彼女を射竦めた。
晒されたまま首の呪印、それを見れば誰だって彼女を殺しに来る。
分かっていたことだ。あの結界を砕いたところで、外界に安住の地などないことは分かっていた。
式者が一息に距離を詰める。その腕がしなる。振るう刀は正確無比に彼女の首もとを狙っている。
殺さないと誓った。何があっても同志の血ではこの手を汚さないと。
その同志の一人が、彼女に刃を振るう。
「『界』」
顔も知らない仲間の凶刃を受け止める。
刃と細い首を別つ壁。水晶から剥離したような小さな結界――彼女の妖術。
眼前の式者が目を見開く。少女の唱えた得体の知れない魔術が妖術だとは認識できずに。理解しようとしたところで理性が否定する。巫女の式者が妖術など扱うはずがないと。
彼は少女から素早く飛び退いた。
わななく口元がゆっくり声を絞り出す。
「……妖魔……なのか?」
結衣は答えず、代わりに帯に留められた小刀を抜き放った。
妖魔の手に落ちた人間と式者が交わすべき言葉がないように、彼女もまた彼らと交わすべき言葉を持っていない。どれほど言葉を積み重ねたところで、言葉一つで妖魔の手先となる人間を殺さないわけにはいかないから。
逃げ出すこともまたできない。背を向けて安易に逃げ出せるほど、対峙した男の式者は弱くない。
殺せない。逃げ切れない。交わす言葉はない。同じ人間だからこそ。
その虚しさを払うのは、白刃の一太刀でしかあり得ない。木乃峰結衣は直感的にそれを理解している。
「くそ……! まだ子供じゃないか!! なんでこんな、こんなぁ……!」
対照的に、青年の式者は始めて対峙する妖魔堕ちが少女であることを呪った。そうしたところで何が変わるわけでもないとわかっていながら、そうせざる得なかった。
呪詛の言葉を吐き散らし、彼は結衣に突進する。手にした刀を低く構え、逆袈裟に切り上げようと突進する。
刀と体に魔力が宿っている。先のような奇襲の一撃ではなく、全力の、魔を持つ存在を確実に屠る一閃。剣撃は重く、『界』の障壁を容易く砕いて結衣の胴体を両断するだろう。
(こんな人……決して強くはない式者なのに、)
結衣は小刀を握りしめ、腕を振りかぶる。
(全然生き残れる気がしないのは、)
その左手に妖術を編む。
(……私が弱いからだ……)
妖術が使えるようになったからと言って、別段彼女は特別に強くなったわけでもない。
当たれば妖魔を容易く壊せる巫女の力の代わりに、小回りの利く妖術を手に入れただけだ。それも妖鬼に届かぬ中級妖魔の。そんなもので何かを為せるほど、彼女の生きている世界は易しくない。扱える妖力だって、ほとんどは結界の解呪に使ってしまっていて残っていない。
少女の体を引き裂く凶刃が迫る。
「ぁああああああ!!!!!!!」
雄叫びをあげ、式者は剣を振り払う。
その体躯を両断せんと風を切る剣撃、それを目掛け、細い小刀に今ある限りの妖力を込めて振り下ろした。
「『潰』!」
青と菫色の魔力が中空で弾けた。閃光の瞬間、互いの目と目とがあう。哀しさと怒りに満ちた青年の式者の視線と、冷淡なほど鋭利な結衣の眼光が交錯する。
(たぶん、この人は優しい人なんだろうな)
殺されてもいいかと思った。
剣の軌道こそ変えたものの、彼女の細腕は小刀ごとはじき飛ばされ、無防備にその体を晒していていた。
青年は切り上げた刀を即座に肩の辺りまで掲げ、体の捻るように振り回す。
体勢を崩した少女にその刀を受け流す術はなく、防御の結界もその鈍重な斬撃に砕かれる。
「『界』」
けれど彼女は叫ぶ。抗うことしか許されていないかのように。
式者は構わず刀を振り抜いた。もはやその剣が止まらないことは知れていたから。
鮮血の迸る生暖かい感触、彼の手が最初に知覚するはずのそれは、けれど突然の衝撃に阻まれた。
刀は止まっていた。彼女を覆うはずの結界は見えない。だが振るった腕が弾かれていた。
何が起きたのか理解が追いつかない。
一瞬の呆然、その隙を突くように、結衣は姿勢を低く肩から式者の懐に飛び込んだ。タックルを喰らって後退した彼の視界に、小さな菫色の結界が映る。
刀を持つ腕の軌道を完全に読み切り、剣撃ではなくその根本、手許を止めた『界』の結界。己が身を覆うように使うはずの結界を、相手の動きの抑制に使うという土壇場の機転は、単純な発想ながら背筋を寒くさせるほど冷静で、致命的な一手だ。
潜り込んだ彼の懐で、結衣は小刀の柄を思い切りみぞおちに叩きつけた。
「かはっ……!」
苦悶の声を頭の上で聞きながら、空いていた左腕で思い切り彼の肝臓あたりを横殴りする。
「ぐぇっ……! あ……」
彼が握りしめていた刀が地に落ちる。悶絶して倒れ伏したところに、小刀を投げ捨てた結衣の右の拳がもう一度みぞおちにめり込み、彼は泡を吹いて気絶した。
結衣は荒く呼吸を繰り返す。どうにか生き残れたという実感が少しもない。いつ首と胴が切り離されておかしくないような緊張感が体から抜けない。
倒れて気を失っている青年を食い入るように見つめ、自分の境遇を頭に叩き込んだ。逆立つような神経の張りを収め、冷静さを取り戻す。
一時の安全を確保したとはいえ、妖力も体力もほとんど残っていない。それに空腹が酷かった。何かを口に入れてから、ゆっくりと休みを取らねば倒れてしまう。
倒れ伏した男を前に逡巡し、そしてゆっくりと彼に近づいた。
「盗人かな。……こんなことをしておいて、今更か……」
気を失っている青年の体をまさぐり、ジャケットの左右ポケットに収まった携帯食料と飲料水を見つけた。緊急用のものだろう。
位相のずれた空間にあるモノは全て虚像に過ぎないのだという。喩えそこで川に流れる水を飲んだところで、一瞬だけ喉が潤うだけで、しばらくすると体内に取り込まれた分の水分は幻のように消え失せてしまう。だから式者は位相のずれた空間に潜る際には必ず不測の事態に備え食料を携行する。
目論見通りの物を盗ると、彼女は素早く身を翻した。
平べったい水筒の蓋を開け、水を一口飲む。じんわりと広がる冷たさと潤いに体が歓喜している。一気に飲み干したい衝動を抑え、ちびりちびりと舌先にその感触を覚えさせるように水を飲んだ。続いて携帯食を手に取る。それはチョコレート味のやや粘り気のあるクッキーのようなもので、先の戦闘で砕け粉々になっていた。普段ならば全く魅力を感じないそれも、今は思わず唾を飲むほどの食欲をそそられた。パッケージの封を引き千切るように開けると、中身を口の中に流し込んだ。渇いた口内の水分を吸うが、同時に甘みも広がった。よく噛みしめながら咀嚼し、時間をかけて嚥下する。さらに一口水を流し込み、結衣は踵を返した。
とても満腹とは言えない。水だってまだまだ飲み足りない。けれどこれ以上食料を浪費したくもなかった。しばらくは位相のずれた空間にいるしかないのだ。悪戯にもとの世界に戻ったところで、式者に見つかれば殺されかねない。むしろ式者が多く妖魔との見分けが簡単についてしまう分だけ、戻るのは危険に思えた。
もし結衣の話を聞いてくれる人間がいるのなら、それは葛原丘宮の両親だけだ。
けれど彼女は迷う。
両親とはいえ、彼らもまた式者なのだ。
信じてはいる。それでも話は聞いてくれると。他の人間のように出会った瞬間、言葉も交わすことなく殺し合いが始まることはないと。
けれどもしも。
もしも両親がその刃を向けるのなら。その時は、今度こそ潔く死のう。
うつむきながら、結衣は一歩を踏み出す。投げ捨てた小刀を拾い、鞘に収めて腰帯に戻す。
「……『改』」
自らの妖力を消し、結衣はふらふらと円角寺の庭内を出て、葛原丘へと向かった。
葛原丘の神社に近づくにつれて、異臭が漂い始めた。異臭、いや、腐臭だと分かっていた。肉の腐る臭いには、嗅いだ覚えがあったから。
足は自然と小走りになっていた。山中の細い道を、躓きながら足早に駆け抜けた。
まさかという思いが、信じたくない気持ちが膨れ上がっていく。
もはやそれは確信に変わっていたのに、その目でどうしても確かめたかった。
、、、、
境内に踏み込んだ。ボロ屑のように朽ちた人の体らしき物が鎮座していた。
四肢をもがれたらしい肉の塊が二つ。一つは首から上がなく。一つは見るに堪えないほど変わり果てた顔が冗談のように乗っていた。抉れた地面になぎ倒された木々。砕かれた鳥居、剥がれた瓦の屋根。戦闘の痕跡と、その結果。それが一度に目に入った。
認識した。
その全てを目に焼き付ける。
最後の理解者になり得た両親の姿を、余すことなく記憶に刻み込んだ。
――ああ……。
心の奥底で漏れ出した声は、自分のものとは違ったものに聞こえた。
叫び出せるような気がした。涙が零れてしまうだろうと思った。自分の中のナニカがガラガラと崩れ落ちるのだと思った。
そんなものはとうになかった。
もはや正常な反応を示せるほど、彼女にマトモなモノは残っていなかった。
――『私には何もない』
この道の先には、彼女の生きていく道の先には何もない。ありきたりで暖かな日常も、滾るような闘争も。何かがあるとすれば、それは無為で虚しい復讐か、過去を偽り忘れた上に積み重ねられる虚無の未来だ。そしてそれは幻よりもなお儚く消散する未来で、結局のところ無と同義だ。
浅はかで、しかし救いのない絶望は、けれど彼女の命を投げ出させない。
首の呪印が彼女を縛るから。
逃げ出すことも、あの妖魔に逆らうこともできない。
それなら。
信じるしかないと、結衣は断じた。あの時、解を見つけてやると強がった時のことを思い出す。糸の切れた人形、そう思わせる無気力で不可解に愉快そうな表情を作った。
どこかに応えがあるのだと。この救いのない状況をどうにかする終止符がこのバカでかい結界の中のどこかに転がっているのだと。
信じよう。
あるいは。
狂信しよう。
その終止符とやらを見つけるために、この体をボロボロにしよう。
ここらを仕切るくそったれな鬼を殺すほどの力も。この鬱陶しい結界を張った鶴陵を殺害する力も。そのどちらもないけれど。
無目的に盲目的に利己的に狂信的に抗ってみせよう。行く当てのない道を歩く、その邪魔になるもの全てと。
◆◆◆
ホウキの屋敷、その主の部屋に、五人の妖魔が座している。
屋敷の主人、ホウキ。その妖姫トウ姫。また客人の円角寺のカイとケンキのエン姫。
そしてもう一人の男の妖魔はケンキの使いだった。
織田原での一連の事件をホウキに伝え、ケンキの提案を伝えに馳せ参じたのである。
曰く。五百蔵の式者を手中に収め、鶴陵の懐刀、鳴神晶をも下した今を除いて好機は他にない。二日後、東と北から釜倉に攻め込み、鶴陵を討ち取らんと。
他に織田原での子細を伝えると、妖魔は黙して額を床にこすり付けた。
「……楽にせよ」
ホウキの唸るような低い声に、毅然と妖魔はホウキを見据えた。三百年を生きる妖魔の許、他の妖鬼への使者を任される者の気迫はまさに剛胆と言えた。ホウキは傘下の妖魔の顔を浮かべ、これほどの資質を持つものがいたら多少気も楽になるだろうと心中に苦笑する。
「カイよ」
「はっ」 、、、
凜と応える男を見て、そしてこれもだ、とホウキは思う。ケンキの使いが屋敷に着くなり、他の妖魔が様子を見に行くのを尻目にホウキの許に駆けつけ、「ケンキ様の使いの者でしょう。おそらくは密命を帯びてのこと。彼の者の話を耳に入れるのでしたら、多少のお力添えができるかと。どうかご一考を」と耳打ちした。この男の状況把握能力と行動力は他の妖魔の追随を許さない。その能力を買ってホウキはカイをこの場に招いた。
傘下でもない妖魔をそのように重鎮の如く扱えば、忠義を誓う者から不満が出る。そうと分かっていても、第一に状況を察し、最短で意志を明確にするその男の口を閉ざしたくなかった。幸いほとんどの妖魔が使いに気を取られているその一瞬ならば、カイの挙動に気付く者も少ないだろう。ホウキはカイを先に一室に向かわせたのだった。
「わしが取るべき指針を述べよ」
「はい、それでは僭越ながら申し上げます。鶴陵付きの鳴神は我らにとって大いなる脅威であり、これが取り除かれた今はまさしく好機に他なりません。ケンキ様がホウキ様に信頼を置いているのは明白であり、」カイはちらりとエン姫を見やった。「使者をみてもホウキ様に大きな期待をかけられていることは自明でありましょう。神奈河の妖鬼たる者がこの提案を飲まぬとならば生涯臆病者と笑われましょうや。しからばすぐさま傘下の妖魔を寄せ集め、横濱の騎狗鬼の名をかの巫女に教えやらねばなりますまい」
「ふむ……。相手はあの鶴陵だ。徒らに我が臣下を散らすは愚策。ならばカイよ、お主は今後、我らが生き延びる策があるのだな?」
戦うことは簡単だ。一声ホウキが声をかければ、彼に忠誠を誓う妖魔はその身が果てるまで鶴陵に喰らい付こうとするだろう。けれど鶴陵は恐ろしく強い。人の領分をとうに超えた力を持っている。妖鬼二人がかりでようやく殺せるかどうかという人間だ。その者の前に同胞はゴミクズのように殺されていくだろう。そんなことを容易く命じることができるほど、ホウキは傍若無人の主ではなかった。勇猛で聡明な近しい者ほど、盃を交わした数も多い。そして刀を手にとれば、主のために我先と先陣を切るような者ばかり。愚かで頼もしい臣下に死ねと同義の言葉を軽く言えるはずもない。
カイとてそんなことは百も承知だ。だがあえてホウキは、脅すように念押しして聞いた。おそらく策の一つや二つはあるのだろう。しかしそれが行く末を託せるものであるか否か。
「ありません」
はっきりとしたカイの答えは、けれども何を意味するところか一瞬ホウキにはわからなかった。数瞬黙し、ようやくそれが「策はあるのだな?」という問いへの答えだと気付いた。
「無策ということか?」
「はい。……正確には細かな策は幾つかあります。けれどいずれも鶴陵をねじ伏せる切り札になりえないでしょう」
「なぜそれで先のような進言をした?」
怒気の籠もったホウキの声にもカイは毅然とした態度を崩さない。
「それしか手がないのです。他にどのような選択肢がありましたか? まさか臆して逃げることもできますまい。鳴神を折ったと言っても鶴陵は未だ健在であり、かの巫女がいる以上我らは常に各個撃破の憂いを断ち得ないのです。鶴陵が鳴神なしでの戦闘体勢を整える前に、妖鬼様方で強襲を仕掛ける他ありません。本来ならば今すぐにでも鶴陵に攻め込みたいところです。二日の猶予は、かの巫女に与える時間としては長すぎる。ですがこれはもはや致し方ないでしょう。焦って混乱を招くより、妖鬼様により確実に鶴陵を挟撃できる方がまだいくらかマシです。二日後の決戦は先の見えない一手ではありますが、しかし絶対の一手です。結界の中を逃げ回ることはできるでしょう、けれど目的のない逃避など自殺よりも悪手になる。ならば覚悟を決めて臨み、その中で最善手を考え打ち続けるしか生き残る道ないでしょうが!」
後半、熱の籠り始めたカイの説得に、ホウキだけではなくその場にいた全員が聞き入っていた。ケンキの使いは格上の鬼にこうも堂々と言い放つ妖魔を驚愕と僅かな畏敬を込めて凝視し、妖姫二人は珍しく語気を荒げるカイを驚きの表情でじっと見つめていた。
「……ふん、気鋭の若造にそこまで言われるか。良いだろう」
ホウキは傍らにあった剣戟を掴み取ると、荒々しく立ち上がった。
「ケンキ様に伝えろ。二日後に八幡の宮で、とな」
言うなり、位相を傘下の妖魔が居住する空間へとずらした。
ホウキが部屋を仕切る麩を蹴破り、剣戟を床に突き立てると、何事かと傘下の妖魔がホウキを見入った。そこにいた妖魔の群れを見渡す。長年連れ添った顔も何人か見ることができる。鶴岡の結界が張られて以来、屋敷の主の部屋の周りには、いつも大勢の妖魔がたむろしては式者への反撃をあーでもないこーでもないと論じていた。
「待たせたな」
心なしか享楽の混じったホウキの一声に、その場の空気が一瞬で変質した。
「戦だ。鶴陵の首を狩りに行くぞ」
淡々と、だが抑圧から開放されたような力強い妖鬼の宣言は、瞬く間に妖魔の熱狂を呼び起こした。これまでホウキの命でじっと耐え続けてきた横濱の妖魔達は、大手を振って行える殺戮に歓喜した。ホウキの元で多数飼われている大狗の妖魔は遠吠えをあげ、その狗を駆って屋敷から飛び出した着物持ちの妖魔は、周辺にいた式者数名を瞬く間に血祭りにあげた。狂乱する横濱に妖魔達の騒ぎが響き渡る。ホウキが怒鳴る「明後日だ! 貴様ら、酒を用意せよ!!」「あいあいさー!」陽気な妖魔の声がそこかしこで返ってくる。
そんな乱痴気騒ぎを屋敷の中でひどく冷静に眺めている男が居た。組んだ腕をだるそうに暗紅色の腰帯の上に乗せようようとしている、乗るはずもないと分かっているのに。
彼に一人の淫魔が近づいた。髪は脱色したような金色で、はだけた着物は如何にも娼婦といった風情を醸し出している。
「たくさん死ぬだろうね」
淫魔、キョウはその痩身の男に向かってぼそりと囁いた。
「一人でも残りゃあマシだろうなァ……」
しかめっ面のまま、カイはつまらなさそうに答えた。
◆◆◆
釜倉。
結衣の居る葛原丘宮より南東、鶴陵八幡宮に式者の人だかりが出来ていた。
壮年の式者達はこぞってその顔に不満をあらわにし、宮の前に立つ一人の女に迫っていた。
黒のレギンスパンツに品の良い白のシャツ、濃緑のショートジャケットを羽織ったその女性は、見た目にはちょうど遊び頃の大学生といった風貌で、血なまぐさいこの場所にはひどく不釣合だ。整った目鼻立ちも色艶をもった長い黒髪も、漂う色香も、誘惑的な瞳と唇とカラダも、なにもかもがこの場にそぐわない。
そのちぐはぐな印象がさらに式者の群衆を苛立たせるのだろう。彼らが投げかける詰問は怒りで震えていた。
「鶴陵、ようやく姿を現したか! 今まで何をしていた!?」「鳴神の嬢さんがいなくなったんだぞ! あんたの護衛だろう!? どれだけ事態が緊迫しているか分かっているのか!?」「そんなことはどうでもいい! 早くこの結界を解け! 鶴陵の護衛なき巫女など妖魔は恐れない、妖鬼が攻めてくるぞ!!」「おい、どうするんだ、この責任! なんとか言え!」
口々に浴びせられる罵倒。鶴陵と呼ばれた彼女は初めこそ宥めようと試みたものの、その勢いに押されて、いい加減鬱陶しくなったのか「わかった! わかったー!! だまれー!!!」と叫んだ。
仮にも最高レベルの式者の一喝に、有象無象の式者は口を閉じることを余儀なくされた。
「皆さんが鶴陵の巫女である私に不満がたくさんあるのは承知致しました。ですが、」
やはり場違いな笑顔満点で話始めた彼女に、強面の式者が掴みかかる。
「姉ちゃん? 舐めてんのか? とっととあのバカでかい結界を解けば良いんだよ? なぁ? あ!? 殺されたいのか?」
彼女はその腕を掴んでひねあげ、男を片手で放り投げた。無論そんな無茶苦茶な投げ方は男の腕の筋肉を断裂させ、関節もぐぎゃぐじゃと不快な音を立て破壊したが、彼女はそれを気に留める様子はない。
「私にも事情があるので、どうか皆さんもう少しお付き合い願います」
ぺこりと丁寧に頭を下げる彼女を、式者達は得たいの知れないもののように見つめた。反応は十人十色だ。頭を下げられ困惑する者、怒りが収まらないが、暴力にも訴えることができずに立ち尽くすもの。諦めたように帰っていく者。
その中で中年の男がぼそりと切り出した。
「ふ、ふざけんなよ……。もう何人死んだと思ってるんだ。お前は、お前らは害悪だ。人間の敵だ……!」
彼女は笑顔で返す。
「あははは、面白いことをおっしゃいますね。ですが残念ながら私らが鶴陵を名乗り始めて以来、人畜無害であったことなど一度もありませんよ。例えばこのように」
鶴陵の巫女がその手を翻すと、その場に立っていた式者全てに魔力で編まれた棒状のモノが突き刺さった。白い光輝を放つその棒はさながら天使が打ちおろした杭のようで、正確に彼らの心臓、頭と言った急所を貫いている。ほとんどの者は呆然の内に命の灯火を消し、数人が不可解と驚愕と嫌悪の混じった瞳で彼女を見据えた。
「な……んで……?」
「うふふ。システムの都合上、そろそろ死んでもらわないと不都合なんです。ごめんなさい!」
わけの分からないことを言い放つ鶴陵の言葉を理解する前に、彼らはあっさりと息絶えていった。
残っているのは、さきほど投げられた強面の男だけだ。地面に這い蹲りながら必死に痛みに耐え、片手で立ち上がろうとしている。
その男が憎悪を込めて彼女を睨んだ。
「なんだ? お前は何がしたいんだ……?」
「おや、まだ意識がありましたか。普通の人なら激痛で失神しそうなものですが、さすがに神奈河の式者は優秀ですね。しかしそのあなたでもアレを見て私のやりたいことがわからないですか?」
彼女が指差す先には、神奈河を天高く覆う結界があった。
男は鼻で笑った。
「ハッ、あの結界をみて何を、」
「おや、あなたにはアレが結界に見えるのですね? 前言撤回、まだまだ式者の方には精進が必要です!」
彼女は不必要に愛らしく微笑み、そしてコツコツと男に向かって歩きだした。
「一体どうしてただの妖魔を封ずるだけの結界にあれほど複雑な術式が必要でしょうか? それもあなたがたが理解できないほどに。アレが結界であるのなら、なぜこんなバカでかい大きさに? まさかケンキの場所がわからなかったという言葉をそのまま信じているわけではないのでしょう? それにもし鬼退治と行くなら、ゴウキ、ホウキと弱い者から強襲して各個撃破すれば良いだけじゃないですか? アレは必要だからあの大きさで存在するのです。それを結界だと考えるなんて、全くもってナンセンスです」
「じゃあなぜ出れない!? 結界ではないのなら、」 、、、、、
「出ることなどできませんよ。だってあの障壁の向こうには世界がないのですもの。そう言ってもわかりせんか? アレは演算機ですよ、でなければこれほど大きなものを創りあげる必要はないでしょう?」
「……なんだ……? 何を言ってるんだお前は?」
「うふふ……私は龍が見てみたいのです。妖龍という奴です。たっくさん妖魔を殺すと妄念が折り重なって生まれるそうですよ。心躍りませんか? 私はぜひその龍というものを見てみたいのです! 正確にはその根源ですけど。……まァ、残念ながら今回は失敗しそうですがね」
「龍? 鶴陵ッ!! 貴様らやはり人間に仇なすものか!?」
「いえいえ、私たちはハレある人類の一員にして、人々の幸福を願う者ですよ。少々人畜有害ではありますけれど。そうですね、人類を蛇と例えるのならば、我らはその毒牙のようなものです。あしからず!」
そう言って彼女は――八鶴院沙瑛は男に光輝の杭を打ち込んだ。
「けれど妖魔の檻の主が鬼退治とは、ふふ、世界はいつも滑稽で馬鹿馬鹿しいものね」
蠱惑的な微笑みが、彼女の端正な顔を彩る。
【残り17日】