Neetel Inside 文芸新都
表紙

新都社作家の後ろで爆発が起こった企画
「僕」/近松九九

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 後ろで爆発が起こった。僕は驚いて振り返った。
 薄紫色のきらきらとした何かの欠片が、ゆっくりと柔らかい草の上に落ちていく。一面の草原。そよ風に揺れる。見上げれば空には雲一つない。緑色と青色の世界。
 僕は何の気なしに欠片の一つを拾い上げた。その瞬間、ひゅうと温かくも冷たくもない不思議な感じの風が僕を撫でた。気持ち悪い。僕は両の瞼をそっと閉じた。風の音がやけに大きく感じられた。
 風がやんで瞼を開くと、先ほどの薄紫色の欠片は綺麗に消え去っていた。きっとあの風が連れ去ってしまったのだろう。嗚呼……さようなら。消えてしまった欠片を何故だか少しだけ愛おしく思った。
 行先はどこだ。果てしなく続く緑と青に、僕は困惑した。僕はどこに行けば良い。僕は何を目指せば良い。思い出そうにも頭の中は真っ白で、考えようにも僕は僕自身を知らな過ぎた。
 一分か一時間か一秒か一日か。良く分からない時間だけ悩んで、僕はようやっと歩き出した。とはいえ結局目的は思い出せなかったし思いつかなかったので、ただただ気まぐれに方向を選び進み始めただけだった。歩きながら、そもそもどうせ一面緑と青であるのだから、どちらへ行こうと同じだろうと思った。悩む必要なんてなかったと僅かに後悔した。
 一時間か一秒か一年か一日か。良く分からない時間だけ歩いて、僕はようやっと緑と青以外の色を見つけた。それは雲のようにふわふわとした、まぁるい薄紅色の何かだった。緑色と青色の空間に、ぽつんと一つだけ浮かんでいる。奇妙な光景だ。異質な風景だ。けれども僕は、不思議と目頭が熱くなるのを感じた。ざわわと心が揺れる。理由もわからずつぅぅと零れ落ちる水滴を、指先でそっと拭い取った。
 一体これはなんなのか。僕は滴のついていない方の手で、薄紅色の何かの表面を撫でた。柔らかくも固くもなく、温かくも冷たくもない、不思議な感じ。そこに確かにあるのに、まるで何もないかのような、奇妙な感覚。
 気づけば緊張からか、僕は息を止めていた。いけない、いけない。ほぅっ、と内側にこもった空気を外側に押し出す。代わりに新鮮な空気を外側から内側に入れた。温かくも冷たくもない空気は、深く吸い込んだところで何の感動も与えてくれなかった。
 行くべきところもやるべきことも分からないので、僕は薄紅色の何かを優しく抱き、柔らかい草の上に座り込んだ。柔らかくも固くもなく、温かくも冷たくもない薄紅色の何かは、重たくも軽くもなく、まるで空気を抱いているかのような気分になった。それでも僕は、この薄紅色の何かを手放そうという気にはならなかった。好きだからとか、愛おしいからとか、そんな積極的で素敵な想いではなく、ただ何となく、何故かどうしても、手放してはいけないような気がしたのだった。
 一分か一年か一時間か一か月か。良く分からない時間だけ座り込んで、僕はようやっと立ち上がる気になった。座ることに飽きたわけではない。薄紅色の何かがいらなくなったわけでもない。目の前から、どうやら人らしき影が近づいてきているようなので、失礼のないように立ち上がろうと思っただけの事だった。
 人のような影はまさしく人で、もっと詳しく言えば白髪でしわしわのおじいさんだった。おじいさんは僕を見つけると、皺だらけの顔にさらに皺を寄せて、嬉しそうによたよたと近づいてきた。どうやら右足が上手く動かないらしい。可哀想に。
 こんにちは。おじいさんが言った。こんにちは。僕も言った。おじいさんは僕をしげしげと眺めてから、こんなところで人に会えるなんて思いもしませんでした、と目を細めて微笑んだ。そんなおじいさんに対して、こんなところでも人に会えないなんて思ってはいませんでした、と僕は無意識のうちに返答していた。
 はて、僕はそんなことを考えていただろうか。疑問に思い首をかしげる。ずぅっと昔は考えていたかもしれない。理由も根拠もなく、そんな気がした。
 おじいさんが不意に、あらら、とおかしな声を上げた。あなたがその手に持っている薄紅色の雲は、私の思い出なのです。おじいさんは不意におかしなことを言い始めた。
 これがあなたの思い出なのですか。僕は薄紅色の何かをおじいさんの前に差し出した。ええ、私の大切な思い出の一つなのです。おじいさんは深々と頭を下げてから、薄紅色の何かを両手で大切に受け取った。
 ああ、よかった。おじいさんが掠れる声で喜びを詠った。良かった……あの人との思い出……壊れてしまう前に、見つけられてよかった……。
 僕は何だか良く分からなかったけれども、幸福そうなおじいさんを見て、良いことをしたのだと誇らしくなった。緑と青の世界が、いつもよりずっと美しく見えた。
 ポンッ、――と音がした。
 それが爆発の音だと気づくのに少しかかった。
 それがおじいさんの手元から聞こえた音だと気づくのに、もう少しかかった。
 それがおじいさんの思い出である薄紅色の何かが爆発した音だと気づくのに、ずいぶんと時を要した。
 あらら、とおじいさんがおかしな声を上げた。あらら、と僕も同じようにおかしな声を上げた。
 爆発してしまった薄紅色の何かは、きらきらとその色の欠片となって、ゆっくりと草の上に落ちていく。僕はこの光景を見たことがあるような気がした。何度も……何度も……嫌になるほど……。
 おじいさんが悲鳴を上げた。空を裂かんばかりの大きな悲鳴だった。涙を流していた。身体中の水分を使い切ってしまいそうなほどの、大量の涙だった。誰かの名前を呼んでいた。愛しさのこもった、だからこそ悲痛な呼び声だった。
 薄紅色の欠片がすべて草の上に落ち終えたと同時に、温かくも冷たくもない風がひゅうと僕らの周りを吹き抜けた。欠片が消えていく。同時に、おじいさんの悲鳴と涙も消えていった。まるで最初から、悲しみなんて存在していなかったかのように、跡形もなく。
 はて、私はどうして泣いていたのでしょう。おじいさんが不思議そうに首をかしげた。濡れた頬を不思議そうに触っていた。
 僕は何も言えなかった。口に出すべき言葉が分からなかった。沈黙を守り続けた。
 では私は行きますね。おじいさんが突然にっこりとほほ笑んだ。思い出を探さなくては……消えてしまう前に……。
 歩き出そうとしたおじいさんは、自分の右足が上手く動かないことを忘れていたのか、バランスを崩し、そちら側に大きく弧を描いて倒れた。あいたたた、と照れ臭そうに笑む。僕もつられて笑いながら、倒れたおじいさんに手を差し伸べた。
 ありがとうございます。おじいさんが僕の手を掴もうとした。が、その手は不思議なことに僕の手をすり抜けた。僕の手にはどういうわけか、おじいさんの手の代わりに、いくつもの薄紅色の何かが握られていた。
 あれれ、と僕はおかしな声を上げる。あああ、とおじいさんが苦しそうな声を上げた。
 おまえか。おまえが思い出を……。おじいさんが顔を真っ赤にして怒鳴って来た。僕はただただ首を傾げ続けた。
 おじいさんが僕に掴みかかってくる。僕はよけることができず、正面からおじいさんを受けたはずだったが、衝撃は微塵も感じられなかった。代わりにおじいさんが柔らかい草の上に崩れ落ちていた。おじいさんは苦しそうに、悔しそうに呻いていた。
 僕はどうして良いかわからず、とにかくこの右手にある薄紅色の何かをおじいさんに返そうと、そっとそれをおじいさんの傍らに置いた。
 ポンッ、――と音がした。
 いくつもあった薄紅色の何かが、残らず爆ぜた。
 きらきらと美しい欠片が、緑色の草原に降り注いだ。
 おじいさんの掠れた悲鳴が、どこまでも響き渡った。
 欠片がすべて舞い落ちるまで、おじいさんは叫び、僕は泣いた。ごめんなさいと叫び、ごめんなさいと泣いた。
 温かくも冷たくもない風が吹き、欠片がすべて消え去ると同時に、おじいさんの姿も見えなくなった。嗚呼、消えてしまったのだな。嗚呼、消してしまったのだな。僕はもう一度ごめんなさいと空に啼いた。なんとなく、自分が何者であるかを理解した。
 きっといつまでも。
 たぶん永遠に。
 どこまでも限りなく。
 僕は「僕」を続けなくてはいけないのだろう。
 緑と青だけが果てしなく続くこの世界で……。
 終わりを迎えた人たちの思い出を消していく……。
 考えるだけで嫌気がする。吐き気を催す。僕は僕が嫌いになりそうだった。
 ――なるほど。
 一年か一秒か一生か一瞬か。良く分からない時間だけ考え込んで、僕はようやっと僕が僕を嫌いにならない方法を思いついた。
 胸に手を当てる。
 胸に手を潜らせる。
 温かくも冷たくもなく、柔らかくも固くもなく、軽くも重くもない、そんな薄紫色の何かを――そんな薄紅色の思い出を――取り出して、緑と青だけの世界に投げ捨てた。
 じゃあね、僕。
 僕はつぶやいて歩き出す。
 いらない記憶に背を向けて……。
 

 後ろで爆発が起こった。僕は驚いて振り返った。
 
 
 
 


       

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