金で買った女たち
第一話 初めて入れた女
高校を卒業した俺は声優の専門学校に入り、かねてからの憧れだった東京での一人暮らしを始めた。すぐにでもプロになれると思っていたが、なんの成果もつかめないまま一年が過ぎ、あっという間に卒業してしまった。この頃には声優になる意志もすっかり薄れていた。
やるべきことがなくなり、まず困ったのは生活費のことだ。一年だけの約束で親から仕送りを貰っていたが、このままでは送金を止められてしまう。考えた俺は、もともと大学進学を希望していた親に「声優で食べていくのは無理そうだから、予備校で一年勉強して大学に入る」と訴え、もう一年の仕送りと予備校の学費を手に入れた。実際に予備校の入学手続きはしたが、前期・後期で分割払いができたので、どうせ行かなくなるだろうと、とりあえず前期分だけを支払った。案の定、四月が終わる頃には、まったく予備校に行かなくなり、学費として貰った金の半分は、記録的な猛暑だったその年の夏、エアコンの購入に使った。
こうして俺は、生活に十分な金を確保し、予備校に行かなくなってからは完全な自由の身となった。真面目に通学していた専門学校時代とは違い、いつ寝て、いつ起きてもよくなった俺の生活は急速におかしくなっていく。朝の情報番組を見てから眠り、夕方のニュースがやっている頃に起きるのが習慣になった。
世間では阪神大震災や地下鉄サリン事件が起き、社会不安が増していた。当時は千代田線沿線に住んでいたが、サリン事件以降、網棚に荷物がまったく置かれなくなり、同じ車両の乗客を互いに警戒し合うような空気が蔓延していた。
まともな社会から外れつつあった俺は、敷きっぱなしの布団の上で、ぼんやりとオウム関連のテレビを見ながら、コンビニ弁当やインスタントラーメンばかり食っていた。布団の周りには、前日に食ったコンビニ弁当の空容器がほったらかしになっていたり、高く積み重なったマンガとエロ本が雪崩を起こしたりしていた。飯を食う以外は、何度も読んだマンガを繰り返し読み、エロ本に手を伸ばしてはチンコをいじっていた。
当時の俺は社会や将来への不安より、童貞のまま二十歳になる、いわゆる「やらはた」の方がよほど怖ろしい問題だった。何とかしてセックスがしたい、誰でもいいからセックスがしたい。そんなことばかりを来る日も来る日も考えていた。
だが、高校でも専門学校でも連絡を取り合う友人一人作れず、万年床でオナニーばかりしているような男に彼女などできるはずがない。それでもセックスがしたいと強く願っていた俺が、風俗の存在に思い至るのは当然の流れだった。
風俗へ行こうと決めた翌日、俺は銀行から五万円をおろして、夜の歌舞伎町へと向かった。思い返せば、この時の俺は無知極まりなかった。ソープとヘルスとピンサロの区別もつかず、風俗情報誌の存在さえも知らない。歌舞伎町を選んだのは、そこしか風俗街を知らず、以前に新宿を歩いた時、そういう店を見た気がするという心許ない理由からだった。
こうして二十歳を目前に控えた十九歳の六月、俺は「歌舞伎町に行けばやれる」と、ただそれだけを考え、久々の山手線に揺られていた。
新宿駅で山手線を降りた俺は「笑っていいとも!」の収録場所として有名なスタジオアルタのある東口へと向かった。夜の九時を過ぎた程度では人の減る気配はない。人混みは苦手だったが、これからやろうとしていることに気分が高揚しているせいか、不安は感じなかった。
東口を出た俺は明るい方から逃げるように、アルタとは逆方向へと歩き出した。おぼろげな記憶に従い、駅前のガード下を抜け、薄暗い道を進んでいく。一人で見知らぬ道を歩く時、これは夢ではないかと感じることがあるが、連続性を持つ日常から分断されているという点で、夢と今の状況はよく似ていた。
同じような場所をさまよううち、頭の中で目印にしていた建物を見つけた。その建物の向かいにある、ビルに挟まれた細い路地を抜けると、目指していた風俗街に出ることができた。派手な呼び込みのいるキャバクラ通りとは違い、ぱっと見はいくらか寂れただけの通りだ。後で知ったのだが、ここは歌舞伎町の中でも外れの方で、あまりいい店はない場所だった。
だが、そんなことを当時の俺が知るはずもない。若い女の写真が所狭しと飾られている店の外壁を見ているだけで心臓は激しい鼓動を打ち、足はぶるぶると震え、自分でうるさいと感じるほどに鼻息は荒くなっていた。
目当ての店がない俺は、とりあえず通りを歩いてみた。この道は飲み屋街にも繋がっているらしく、普通の女も当たり前のように歩いている。そのせいで、店の壁にある料金表や女の写真をまともに見ることができず、何の情報も仕入れられないまま、俺は通りの端まで来てしまった。
「あれ?こっちの道じゃなかったか?」といった感じの下手な小芝居を打ち、もと来た道を反対方向に歩く。目を引く店の料金表を横目で睨みつけるが、その見方がわからない。俺は「50分14000円」のような、風俗店の基本的な料金体系すら知らなかったのだ。
通りの端まで来るたび、俺はわざとらしく小首を傾げ、時に舌打ちをしてみせた。行ったり来たりを何度も繰り返す、おどおどした二十歳前のガキ。客引きからすれば、こんなあからさまなカモは、そうそういなかったことだろう。
「お兄さん、いい娘いるよ。よかったら遊んでいかない?」
テレビやマンガのセリフそのままだが、そんなことに気付く余裕はない。話しかけてきたのは、威圧感のないチビのおっさんだった。おっさんは卑屈な笑いを浮かべ、俺の機嫌を窺いつつ手にした写真を見せてくる。俺はしょぼくれた風情のおっさんを見下し、歌舞伎町に慣れている風を装って、三枚の写真を受け取った。写っていたのはグラビアアイドル並に魅力的な下着姿の女だった。
「これ、やれんの?」
俺はうわずる声で、精一杯の虚勢を張っていた。
「ええ、やれます、やれます」
「いくら?」
「本当は50分18000円だけど、もう遅いから特別に15000円でいいですよ」
俺は写真をもう一度見つめた。どの女も現実では会ったこともないようなレベルの高さだったが、1枚目のとろんとした目の女は、特に俺の好みだった。
「どうですか?」
おっさんが探るような目をして聞いてくる。俺は平静を装って答えた。
「じゃあ、この人でお願いするわ」
「はい、ありがとうございます。そしたら、こちらになりますんでついてきて下さい」
愛想よく答えたおっさんは、俺から手際よく写真を奪い返すと、すたすた先を歩き始めた。俺は黙ってその後をついていく。おっさんは風俗店の集まる通りを迷いなく突っ切り、明かりの少ない方へと、さらにずんずん進んでいった。道行く人が少なくなるにつれて、俺の不安は次第に大きくなっていった。
「あの、店はどのへんなんでしょう?」
「ああ、すみません。すぐそこですから」
敬語になってしまった俺を嘲りもせず、おっさんはにこやかに答えた。だが、歩みを止めることはなく、その足取りはむしろ早まっている。
これ、やめた方がいいんじゃないか? まだ金も払ってないし、逃げた方がいいんじゃないか? そう思いながらも、踏ん切りのつかない俺は黙っておっさんの後をついていく。溢れ出す不安を抑えるのに精一杯だった俺は、たまたま声をかけられた客引きのおっさんに自分の運命を預けてしまったのだ。人の気配のない、ぽつぽつと外灯があるだけの道路を、俺とおっさんは無言で歩き続けた。
「すいません、ずいぶん歩かせちゃって。じゃあ、ここから中に入っていってください」
おっさんは頑丈そうなコンクリの建物に近づき、入り口の分厚いガラス扉を開いて俺に中へ入るよう促した。建物の外壁には窓が無く、これまで見た店のように女の写真が飾られているわけでもなければ、看板さえも出ていない。扉の内側には、重たげな黒いカーテンが引かれていて中を窺い知ることはできなかった。
おっさんはカーテンの裾を引き笑顔で頷いた。俺は吸い込まれるように建物の中へと入っていく。粘った汗が全身に染み出していた。
薄い壁に挟まれた狭い廊下の先には、入口と同じような分厚い黒カーテンが掛かっていた。怖々進んでいくと目の前でカーテンが細く開き、神経質そうなおっさんが顔を覗かせた。おっさんは俺の姿を確認すると、無言でカーテンを引き、奥に戻っていった。
俺は、無愛想なおっさんの態度に戸惑い、びくびくしながら仕切りのカーテンまで進んだ。カーテンの奥をそっと覗くと、すぐ正面の壁に医者の受付のような小さい窓があり、その向こうからさっきのおっさんがこちらを見ていた。薄い壁に囲まれた空間は一畳ほどの広さしかなく、おっさんと目が合ってしまった俺は、おそるおそる窓の前まで進んだ。
「いらっしゃいませ」
意外にもおっさんは丁寧な口調だった。いくらか緊張が緩んだ俺におっさんは言葉を続けた。
「では、前金でお願いします。入場料と合わせて22000円です」
「え? あの、呼び込みの人に15000円でいいって言われたんですけど」
そう言った途端、俺を見るおっさんの目が据わった。俺は一瞬で足が震え出し、まばたきが止まらなくなった。
「呼び込みがなんて言ったか知らないけど、うちはこの料金なんだよ。あのね、もう女の子も用意しちゃってるんだよね」
「あ、わかりました。すいません。じゃあ、それで」
俺は媚びた笑みを浮かべ、22000円を渡した。おっさんは受け取った金を持って、部屋の奥にあるドアの向こうへ姿を消した。
一人取り残された俺は大きく息を吐いた。だが、その息を吐き切る間もなく俺の左側にあったドアが乱暴に開き、たったいま金を渡したおっさんが顔を出した。
「部屋に案内します」
おっさんはドアを大きく開き、身を堅くした俺をあきれた顔で待っている。ドアの向こうは明かりが消えていて真っ暗だ。俺はおっさんの後に続いて建物のさらに奥へと進んでいった。
実際に奥へ入ってみると、そこは完全な暗闇ではなく薄明かりはあることに気づいた。中央に通路があって、左右にいくつかの部屋がある。部屋の中からは人の話し声が聞こえ、動く気配も感じた。通路と部屋を仕切っているのは、俺たちが脇を通ると揺らめくほどの薄いカーテン一枚だけだった。
「じゃあ、ここで待ってて。すぐ女の子来るから」
おっさんは一番奥の空いた部屋に俺を入れると、カーテンを閉めて去っていった。部屋の壁際には、黒いマットの敷かれたパイプベッドが置かれている。所々が破れたマットからは黄色いクッションが飛び出していて、その上には、雑に畳まれたシーツが乗せてあった。
俺はベッドの端に座って、天井近くに備え付けられているテレビを見た。ニュースステーションで久米宏が喋っている。上を見て気付いたが、この部屋はデパートの便所のように、仕切り板が上まで届いていない。隣や通路とは、申し訳程度に仕切られているだけだった。
「……あの……しゃくってもらえませんか……?」
隣から男の低い声がした。そこだけ聞いた俺にさえ意を決して言ったことが伝わってくる。それにしても丸聞こえだ。
「あー、ごめーん。それ、だめなの」
まるで相手にしていない様子の女の声。俺は自分が言われたかのようにカッとなった。会話の途切れた隣の部屋から、シャッシャッシャッシャッシャッと、一定の早いリズムを刻むかすれた音がする。この時はぼんやりとしかわからなかったが、男のチンコを女が手でしごいていたのだろう。
男が言っていた「しゃくってくれ」とは、尺八、今でいうフェラチオのことで、つまりは口でしてくれという意味だ。高い金を払って、早く出せと言わんばかりのクソ女にチンコをしごかれるのが、どれほど悲しくて腹立たしくて傷つくことなのか、当時の俺は知る由もなかった。
俺はテレビに目を戻した。女はまだ来ない。もう10分以上待たされていた。
「この後、天気予報です」
テレビの久米宏が言った。当時、ニュースステーションの天気予報は、大石恵が担当していた。俺はニュースステーションの天気予報だけを録画したビデオを作るほど、大石恵が大好きだった。この時も天気予報が終わるまでは女が来なければいいと思っていた。
願いが届いたのか、天気予報が始まっても女は来なかった。いつもと変わらず美しい大石恵を見ながら「大石恵にとっての今日は、いつも通りの仕事をするいつも通りの日なのに、俺にとっては初めて女とヤる特別な日なんだよなあ」なんてことを考えていた。
大石恵の天気予報が終わっても、女は来なかった。隣からはまだ、シャッシャッシャッシャッと例の音が聞こえてくる。
「……あの……しゃくってもらえませんかね……?」
「……」
「……しゃくってもらえませんかね……?」
「しつこいっ!!!」
隣から女の絶叫が聞こえてきた。全力の拒絶。男はそれきり黙ってしまった。他人事なのに、俺まで傷ついた気がした。
もう30分は待っている。すっかり消耗した俺は「何が女の子用意しちゃっただよ。ニュースステーションも終わったし、もう、金返してもらわなくていいから帰ろうかな……」と本気で考え始めていた。その時、何の前触れもなく、俺のいた部屋のカーテンが開いた。
「お前、誰だよ?」と、まず思った。入ってきたのは一応女だった。だが俺の見た写真の女とは似ても似つかないババァで、俺の母親でも通るような年に見えた。
「あのさー、このままだと7000円なのね」
ババァはいきなり喋り出した。
「はい?」
「だから! アタシが貰えるのは7000円しかないの! 10000円で口、もう10000でやらせてあげるけど、どうすんの?」
いきなり金の話で、しかもキレられた。ババァ殺すぞ、と思ったが、この時の俺はやけに冷静だった。消耗しきっていて感覚が麻痺していたのかもしれない。
「あ……すいません。もう、帰りの電車代しかないんですよ」
「クレジットカードとか持ってないの?」
「持ってないです」
鋭い舌打ちが鳴る。俺は泣きたくなって、死にたくなった。なんで金払ってババァとセックスしなきゃなんねぇんだよ? お前、もう女じゃなくて、ババァだろうが? ババァがセックスすんなよ! 気持ち悪ぃんだよ!! 殺すぞ、ババァ!!
そんなことを考えながら、俺はヘラヘラと笑っていた。心と表情が完全に分離してしまったみたいに、怒りも悲しみもまったく表情に繋がらなかった。こんな感覚を味わったのは、後にも先にもこれ一度きりだ。もう、何でもいいから早く終わらせて帰りたかった。終わらなくていいし、始まらなくてもいいと思っていた。
「あ、じゃあ俺、帰ります。金ないとダメなんですよね?」
駆け引きとかそういうことではなく、この時の俺は本当に心の底から帰りたかったのだ。
「帰らなくてもいいよ。寝て」
ババァが言った。思考能力が無くなっている俺は逆らうこともせず、言われるまま固いパイプベッドへ横になった。
「脱ぎなよ」
ベッドの端で足を組んで座り、頬杖をついたババァが俺をつまらなそうに見下ろしている。俺は寝たままズボンとパンツを膝まで下ろした。
「うわ! 何これ、かぶってんじゃん」
しぼんだ俺のチンコを見て、心底気持ち悪そうにババァが言う。俺は全身が冷たくなる感覚に襲われた。それでも俺は「わちゃー」とおどけてヘラヘラ笑っていた。ババァは俺のチンコをつまんで、皮をむいた。
「うっわ、中もきったね。白くなってんじゃん。これやばいって」
「わちゃー」
「わちゃーじゃないっての。これやばいわ。病院行った方がいい。ほんと酷いよ。洗ってんの、これ?」
「一応、洗ってるんですけどねー。そんなやばいっすか?」
「やばいって。終わってるよこれ。あー、ついてない。気持ちわるい」
ババァは汚れのこびり付いた箸でも洗うかのように、俺のチンコをつまんで上下に強く動かした。この頃はまだ、チンコの中身がパンツに当たるだけでも痛かった時期だ。当然、ババァのやり方では痛みしか感じなかった。
「なかなか固くなんないね。お酒飲んできたの?」
「いや、飲んでないですよ。緊張しちゃったのかなー、すいませんね、ホント」
なんで俺はここまで卑屈だったのかと、いま思い出してもハラワタが煮えくり返ってくる。もう風俗で遊んでいるという気持ちは完全に消えていて、どうしたらこの地獄のような時間を終わらせられるのか、そればかりを考えていた。
俺は目を閉じてエロいことを考えようとしたが「おっぱい、おっぱい」という言葉しか浮かんでこない。頭をフル回転させて家のエロ本を思い出し、ようやくチンコが固くなり始めた。
その時、俺はふと思いつき、ババァに言った。
「すいません、電車賃ギリギリなんで1万までしか出せないんですけど、入れるのダメですかね?」
俺は「やらはた」を回避するという当初の目的を思い出していた。なんだっていい。とにかく童貞だけは卒業してやろうと考えたのだ。ちなみにこの時の俺はまだ、素人童貞という言葉を知らない。
俺の提案にババァの目の色が変わった。最初にした7000円の話は、おそらく本当なのだろう。
「・・・・・・まあ、いいよ。じゃあ、前金で1万。出して」
2、3秒考えて、ババァは俺の提案を呑んだ。俺は財布から諭吉を出して渡す。ババァが金をフロントに置いてくる間、俺は勃起したチンコを出したまま仰向けで待っていた。また長いこと待たされるのかと思ったが、今度はすぐに戻ってきた。
「コンドームつけるよ」
「あ、はい」
コンドームを使うのもこの時が初めてだった。ババァは俺のチンコにコンドームをつけると色気も迷いもなく、膝丈のスカートをたくし上げてパンツを下ろした。ババァの濃い陰毛とだぶついた腹が見えた。
パンツを脱いだババァは俺に跨り、和式便所でウンコをする時のようにしゃがむと、片手を床に突き、もう片方の手で俺のチンコを掴んだ。ごそごそと動いていたかと思うと、ババァはもう一段階、腰を下げた。
「あれ? いま、入ってるんですか?」
「ん……? 入ってるよ」
こんなババァでも、入れることにはまだ多少の意味が残っているのか、いくらかうっとりとした様子で言った。俺はそんなババァを心の底から気持ち悪いと思った。
ババァは腰を上下させていたが、俺は何も感じなかった。ゆるすぎて入っている気がまったくしないのだ。本当に入っているのか疑わしくなり、頭を起こして自分のチンコを見た。濃い陰毛の向こうで、俺のチンコは間違いなくババァの股に咥え込まれていた。
「ねぇ……気持ちいい……?」
「んっ……すげぇ、気持ちいいです……」
この時の俺は神がかっていたとしか思えない。気持ちよくも何ともないのに、顔を歪めて身をよじり「ああっ! 最高だ!」という演技を全身でしていたのだから。世界中の人間がこれくらい他人に気を使えば、戦争なんて絶対に起こらないだろう。もっとも、これだけ他人に気を使わなければいけない世界なら、俺が先陣を切って殺し合いを始めてやる。
しばらくババァは腰を上下させ、俺はサル芝居を続けた。だが、入れるという目的を果たした俺は気が抜けてしまったのか、なんとか勃起はしているものの、まったくもってイク気配がない。もともとサービス精神など持ち合わせていないババァは「ハァー! もう終わり。このチンコ、ダメだわ」と言って俺から離れ、ベッドの端に腰掛けると俺のチンコを力任せに握り、激しく上下に手を動かし始めた。
出せば終われる。俺は再び目を瞑って、エロ本のお気に入りページを思い浮かべた。チンコへの刺激からかすかに感じる快感に集中する。小さな快感は背骨のあたりでじわじわと固まって、チンコの方へとせり上がってきた。
「あ、イキます」
俺はそう言って、コンドームに射精した。気持ちが乗らなかった時と同じ出方で、残尿感のような感覚がチンコに残った。
ババァが精液の入ったコンドームを引っ張ると、パチン、と音を立ててチンコからコンドームが外れた。……終わった。俺は思わず大きなため息をついた。ババァは俺のチンコに大量のティッシュペーパーを乗せ、ひと仕事終わったと言わんばかりに、煙草に火を付けていた。
俺はドロドロのチンコを拭き、前の客のゴミが残ったままのゴミ箱に使用済みティッシュを捨てると、パンツとズボンを履き、荷物を持って立ち上がった。こんなクソみたいな場所からは、一刻も早く離れたかったのだ。
「あ、じゃあ帰ります」
そそくさと部屋を出ようとする俺に、ババァはちょっと笑って「見送りぐらいするよ」と言って、まだ長い煙草を、焦げ跡の目立つ厚いガラスの灰皿で揉み消した。俺はこの時始めて、このババァと普通の会話をしたように思い、その瞬間、俺の嫌悪感はピークに達した。
「いや、いいですよ。お世話様でした」
俺はババァの顔も見ずに横をすり抜け、薄いカーテンを開き、暗い通路に出た。すっかり暗闇に目が慣れた俺は、まっすぐ出入口に向かう。途中の受付には、さっきのおっさんがまだいて、無表情のまま「ありがとうございました」と言った。なぜか俺はおっさんに会釈をして、黒く分厚いカーテンを通り抜けた。最後の狭い通路を進み、もう1つのカーテンも通り抜けて外に出た。入った時はあんなに長く感じた通路が、出る時は驚くほど短かった。
俺は逃げるようにその場を後にした。あまり道を覚えていなかったが、薄暗い通りを早足で歩いているうちに、運良く見知った通りまで戻ることができた。新宿駅前のガード下が見えるあたりまで来て、ようやく俺は落ち着いてきた。無事に帰れたという実感がじわじわ湧いてくると、よく拭かなかったせいでベトベトしている股が気持ち悪くて仕方がなかった。結局この夜、気持ちがいいと思えたことは、何ひとつとしてなかった。だが曲がりなりにも俺は、こうして童貞を捨てることができたのだった。
時々、あのババァはまだ生きているのかと思うことがある。生きていたとしても、きっと幸せにはなっていないだろう。あの年で、あの場所にいるということが何を意味するのか、おぼろげながらも今の俺には理解できている。会いたいと思うわけではない。そもそも顔をまったく覚えていない。ただ、どうしているのかと思うことがあるというだけだ。
あのババァに、声だけ聞こえた隣の部屋の女、しゃくってくれの男。あの瞬間、あそこにいたはずの人間たちは、今ではその存在さえ確かではない。そんな時間があったと言えるのは、世界中で俺だけであり、俺が忘れてしまったら、あの経験はなかったものになってしまうのだろう。
実際、風俗に通いつめた4年間でも、その存在すら忘れてしまった風俗嬢たちがたくさんいる。おそらくは忘れたことにさえ気付いていない経験も腐るほどあるのだろう。そんな中で、あのババァの存在は記憶から消えなかった。きっと俺が死ぬまで、この記憶は消えないのだろう。
さらに、この話を書き上げたことで、俺の経験は見知らぬ誰かの頭にも残る可能性が出てきた。ババァが死んでも、俺が死んでも、ババァと俺との体験談だけが誰かの記憶に残るのかもしれないのだ。
それは非常に気味の悪いことだという気がしてならない。