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表紙

リーン王国物語
あかね月亭主人の霊

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 とある大陸に賢王リーンの治める国があった。しかしリーン王は五十余歳と若くして亡くなってしまう。
 唯一の後継者はまだ幼く、また女児であったため先王の腹心・フレズヴェルクが暗躍し宮中をその手中におさめる。
 それではあきたらず姫を亡き者にし、冠を我が頭頂へと画策するフレズヴェルク。
 計画を漏れ聞いたひとりの騎士が姫を守るべく連れ出し王宮を出奔したのであった。


 さて所変わってリーン王国が王都より西へいった場所にトマスンという町がある。
 東西にのびる街道沿いに旅籠や飯屋などが八十軒ほど立ち並ぶ宿場町だ。都市と都市を結ぶ街道沿いだけあって人の出入りはそうとうのものである。
 来ては去ってが基本の宿場町に親子連れがやってきてどういう手腕かとんとん拍子に話を進めレストランをオープンしたのはこのひと月のうちのことであった。
 今は夜も更けてきたといった頃だが、そのレストラン・カルミソはすでに馴染みになった客が幾人もやってきて陽気に騒いでいた。
「いや、しかし旦那。店を開きたいと言い出したときはどうかと思ったがなかなかの腕前じゃあないか」
 小太りの男がそう言いながら食べているのはさほど手のこんでいないステーキであった。
 受けて旦那、店の主人のアンドレは言う。
「こういう顔していますから料理人だなんて言いますとたいてい驚かれるんですがね。そりゃあ腕前の方には自信をもっているんですよ」
 「こういう」というのは精悍な顔つきに巌のような体躯のことである。ひとめでは無骨にも見えるが目鼻立ちは整っているし、よい年月が刻まれたと思われる顔であった。なんにせよ彼のことを知らない人間が一目見て料理人だと言う者はまずいないだろう。
 小太りの男のむかいに座る禿頭の親父が、
「そうだ。そうだよ。新しくレストランが開いたってんで覗いてみりゃあ傭兵みたいな旦那が包丁を握ってるじゃないか。最初はたまげたもんだが今じゃ二日とあけてあんたの料理を食わないと調子がおかしくなっちまうときたもんだ」
 と賞嘆する。
「そんなことを言っておじさんが前にきたのは四日も前のことなのだから大人って都合がいいのね」
 水のおかわりをコップに注ぎながらそんなことを言うのはアンドレの一人娘マリーだ。
 プラチナブロンドの透けるような金髪をくくって、顔立ちは麗質をそなえた少女である。まだ十余歳だというのにその美しさは瞠目するものがあった。
「そういう気概はあるんだけんど俺たちゃ家に帰ればこわーいカカアが目を三角にして待っているのさ。ほんとのところ毎日だってマリーちゃんに会いたいってのに許しちゃくんねえ。なあ」
 まわりの男に同意を求める禿げた親父。調子のいいことを言いつつさりげなしにマリーの肩に手を伸ばす。すけべえなのだ。
 その時。なにかが男の顔の前を鋭く疾《はし》った。
「うっ」
 額に嫌な汗をにじんでくる。なにかが通りすぎていったほうを見ると包丁が壁に深々と突き刺さっていた。
「お客さん。触らないでくださいってのがわからないですか? なにせうちの娘は生娘ですから汚らしいハゲ親父に触らたってドキドキを恋の高鳴りだと勘違いしかねない」
 アンドレの双眸の光、炯々と男を射すくめる。それはとても一介の料理人の目付きではなく禿げた親父は頭の先から爪の先まで震え上がって息もできない。
 くるりと向きなおるとまるで別人のような柔和な顔で、
「さ、今日はもうおあがりになって。夜も更けてきましたし、お客さんたちも火酒に体を乗っ取られてきたようですから」
 と、マリーに言うのだ。
「わかったわ。でもね、パパ。わたしだって恋のときめきくらいはわかるわ」
 と、意味ありげな表情をつくった。
 客らに声をかけられるのに手を振りながらマリーは二階へあがっていった。
「アンドレの旦那は相変わらず過保護がすぎるね」
 これまでも何度かこういうことがあって、そのたびにアンドレは今のようにとても客にするような態度ではない行動にでるのだった。
 普段は言葉遣いも丁寧で温厚なだけあってアレさえなければねえ、という声もあるし、
「あれは堅気じゃないよ」
 なんて言い出すものもいた。
 わが子は目に入れても痛くないなんて言うものもいるけれど、しかしどうしてアンドレの場合にいささか目を光らせすぎな気もしなくはない。
「マリーちゃんのこととなると別人みてえに眼の色を変えちまう。包丁を投げられるくらいならまだいいが、焼けたフライパンでケツを殴られたときはこんな店二度とくるかと思ったもんだ」
 それでも。
「一度おぼえた味を舌がわすれてくれねえんだからお前さんの腕はたいしたもんだよ」
 と、禿げた親父は語った。
「しかしお前さん。口はよく回るが節度ってもんがない。かわいいたってマリーちゃんはまだ十余歳。男の酒の相手なんてさせたくないってのが親心だろう」
「それならそれで新しいカカアはやくもらえばいいだろう。旦那の顔なら後添えだっていいって女が山ほどいるだろうよ」
 小太りの男が二階を仰ぎみて
「だからお前は節度がないっていってんだ。マリーちゃんに聞こえるだろうよ」
 とため息をついた。
 アンドレはただ繕った笑顔で
「娘もそうでしょうが私もまだそういう気にはなれなくて」
 と言うだけだった。


 その日は雨ということもあって店の中に客はひとりきりしかいなかった。
「しかし急に降ってくるんだものな」
 と、客はマリーに手渡されたタオルでぬれネズミの体をふきながらぼやいた。
 この客は同じ町内のヌチ屋という梅干し屋で働く男だった。暑い時期だと旅の間に弁当が腐ってしまうのでそれを防ぐ術として梅干しをいれておくのだ。そういうわけでこの宿場町には東の端と西の端に一軒ずつ梅干し屋がある。
 ヌチ屋の評判はなかなかのもので街道をずっと東に行ったところにある都市に住む貴族のナニガシとも取り引きがあるとか。
 まあ、それは置いておいて。
 トマスンのはじまりは一軒の旅籠屋で、そこから街道にそってどんどんと広がっていき今の宿場町となったのだ。だからおなじトマスンの町内といっても東と西の端と端じゃあちょっとした距離であった。
 ヌチ屋は東の端に店を構えており、この一面を白くする雨の中を帰っていけばとてもぬれネズミじゃあすまない。
 そういうわけで雨宿りに寄ったわけであるが、折しもあれ昼時でアンドレたちが昼食をとろうとしていたときだった。
 店の真ん中の丸テーブルには湯気立つうまそうな料理が並んでいる。
 それを見て男は思わずゴクリとつばを飲み込んだ。実はさっき飯をくったばかりであるのにどういうわけか腹が鳴る。
「旦那、俺にもそこのテーブルに並んでるのとおなじもの」
 ついつい注文をしてしまった。
 それから、
「はっ」
 となって懐の中を確認する。それなりの額を持っているから、
(まさかと思うが二十を越えるとうことはあるまい。貴族様のでいりするレストランでもあるめえし)
 と思うのだがなにせ並んでいるのが「見たこともない」料理であるから不安になってくる。
 注文してしまったし、アンドレももう作り始めているから今さら取り下げることもできない。
「ええい」
 半ばやけになって席に着く男だった。
 男が考えていることなどマリーにはわからないからそんな様子を不思議そうに眺めているのであった。

 少しして運ばれてきた料理を男は無我夢中で頬張った。
「うまい」
 それ以外いいようのない味であったという。
 箸の動きをとめないままに、
「ここにレストランをだすって聞いたときはどうかな、と思ったもんだが。いや、うまい!」
「どうして? ううん。おいしいのはわかっているの。レストランのことよ」
「どうしてってそりゃあ、ここは前もレストランを……」
 言いさして男は目を大きく開いて「しまった」とでも言うように顔を青くした。
 うまいうまいと言って食べていた料理はまだ皿の上にこんもりと残っているし、他に注文した品もアンドレが作っている最中であったのに、
「あ、いや。なんでもないんだよ。それじゃあ」
 と、まくしたて、テーブルの上に持ち金の半金、十ゾロタを置くと慌てて店を去っていってしまった。
「あ」
 まだ雨は振っていた。どころか窓を打つ雨音はいっそう激しいものになっていた。
 アンドレもマリーも逃げるように去っていった男をぽかんと見つめるほかなかった。
 アンドレはテーブルにおかれた大金を手にとって、
「こころづけにしちゃあ多すぎる」
 ひとりごとのようにつぶやいた。が、そのまま懐へしまいこんだ。
 アンドレたちは客が来て中断してしまった自分たちの中食を再開するべく、はじによけておいたテーブルを真ん中に戻し、温められるものは温め直し、角杯にぶどう酒をそそいだ。
 アンドレはマリーの椅子を引き、席に座ってもらうと自分も向かいの席に座った。
 食べながら話すのはもちろんさっきの男の奇行のことである。
「どうしたのかしら? あの様子はちょっとただならぬものを感じるわ」
「わかりませぬ。しかしなにかあるようで」
「そうらしいわね。アンドレはなにか聞いていないの?」
 アンドレは口に運びかけた角杯をテーブルに戻し、ふかく頭を下げた。
「もうしわけございません。なにぶん急いでいたので。いえ、言い訳にもなりません、そのようなこと」
 この店を用意したのはもちろんアンドレである。が、急ぎの仕事だったので下調べは十分ではなかった。
 マリーが眉を少しだけつりあげた。といっても怒っているのはアンドレの仕事の不手際ではなく、
「誰があなたを責めているというの? お客さんの様子が変だからなにかがあるかもしれないわね、という話をしただけでしょう」
 アンドレの態度を怒っていた。
 それでも面を上げず、
「ですからいわくありともしらずにこんな店を買ってしまったことを」
 言下にマリーが口をはさむ。
「アンドレは真面目がすぎるのよ。そうときまったわけではないじゃない」
 ため息混じりに言った。
 しかしアンドレもかたくなであった。
「あの様子では確かになにかがあると私の勘もいっております」
「それは勘とは言わないのではなくて」
 そもそも、とマリーは言う。
「わたしは一文無しの小娘ですし、このお店を買ったお金もあなたの懐中からでたものだもの。たとえこの家に悪魔の呪いがかけられていて魂をじわりじわりと蝕まれていくようなことがあったって私が非難できるいわれはないのではなくて」
 アンドレがあわてて今にも少女の細い体にしがみつくのではないかという悲痛の色をもった声で懇願する。
「小娘などと。いわれなどと。そのようなことをおっしゃらないでください」
 マリーはひどく真面目なアンドレの鼻の頭を指で押しつぶし、子どもの、年相応に幼いこどもの声音を用いて。
「ねえ、『パパ』。もう少し『パパ』らしくしてほしいのだけれど」
 されるがままに、
「妻もいなければ娘もいない私でありますし役者ほど器用でもございません」
 このふたりが親子ではないことはすでに明白であったと思う。親子というのは人の前で演じる偽りでしかない。
「だから真面目だと言うのよ。アンドレが友人や年下の部下と接していたときのように話せばいいのよ。私だってうまくやれているつもりはないけれどその喋り方はいけないわ。私のお父様だってふたりきりになれば甘やかでまろみのある声でしゃべりかけてくれたわ」
 マリーは声の沈んでいくのを必死でこらえようとして明るい調子をだそうとしたがそれはひどくいびつな、聞いているものの胸を締め付けるものとなった。
 アンドレは自分の不甲斐なさを呪った。このような声を。このような顔をさせるために側にいるのではない。
(ああ、どうして俺はこうなのだ。もっと気のつく器用な男であったなら。いや……)
 いくら自身の性格を呪ったところでそれがマリーのためになるものでもない。
 ならば変える努力をしようと、少しでも気を和らげていただくために変わろうと決意をした。
「いい? いいでしょ? わたしとあなたがどこのだれでどうしてこんなところにいるのか、それがバレてしまっては元も子もないのだもの。どうしてもというのなら命令もするけれど、アンドレにはすごく感謝をしているし、さっきも言ったとおり私はただの小娘でしかないからなるべくならそういうことはしたくないのよ。だからこれはお願いだけれど、親子らしく接してちょうだい」
 言われたアンドレは跪いてうやうやしくその手をとろうとしかけたが、すんでのところで思いとどまって立ちあがった。決意をした出鼻からこれである。
 気恥ずかしさをごまかすために咳払いをしたにもかかわらず結局、
「承知しました」
 が、口からでた言葉であった。
 マリーの非難するに目にあたふたとどう言い直すのが正しいのかを考える。しかし、それを見つけるよりも早くマリーがくすりと笑って、
「まあいいわ。人間きゅうにかわれるものでもないでしょ」
 ちょうどその折、入口の鐘がカランコロンと音をたてて客が入ってきた。
 マリーはそそくさとそちらへ歩いて行く。生まれついてのレストランの娘だとでもいうような自然な動きであった。
 しかし。
(ならば同じことがあなたにも言えるのではないですか)
 思えど、マリーの胸中をわって見ることはアンドレにはできないのであった。
 雨はよりいっそう強さを増したように思われた。



 一晩のあいだ振り続けた雨も明け方にやみこの日はカラッとした暑い日であった。
 レストラン・カルミソの四軒となりに旅籠屋ゲンゴロウという宿がある。
 主人のゲンゴロウとその妻、娘、それに何人かの奉公人のいるトマソンでも大きい部類にはいる旅籠である。
 だす飯が特にうまいということもないし、部屋が格別に綺麗というわけでもない。ただゲンゴロウの妻と娘は美人である。
 このふたりがわざとらしく店先の掃き掃除なぞをしていると通りかかった旅人がすいすいと吸い込まれていく。トマスンよりも一つ先のここよりも規模の小さい宿場町、エガラかテーナで宿を取ろうと思って先を急いでいる者もころっと気の変わる色香をはなっている。
 たいていの男であれば夜になると「遊び」にでかけるわけだが旅籠屋ゲンゴロウへ泊まる男どもはでかけようとはしない。
 女を買いに行くよりも妻と娘を見ているほうがいいのだ。無論、抱けもせぬし、触れもしない。それでもひと目見ようと四苦八苦するのだから男というのは困った生き物である。
 さて主人のゲンゴロウはガタイのいい大男で、アンドレも並の人より頭ひとつ大きいのだがそのアンドレよりもさらにでかい。加えて横幅もあるし顔中に生えた髭が熊のようであった。
 歳のほどはアンドレよりも六ツか七ツ上なのだけれど頭が上がらぬ。ゲンゴロウはアンドレに旧恩あって
「とても足を向けて寝られない」
 のである。
 長らく会っていなかったからアンドレが今何をしているかを知らないし、マリーのことも娘だと信じきっている。
 そのゲンゴロウのもとをアンドレは朝早くから訪ねていた。
 昨日の客の不審な行動の意味を探るためであった。
 しかし尋ねると、
「いいえ、言いませぬ。申しませぬ。私がとめるも聞かないであの店を買ったのはアンドレ様でございます」
 と言うのだった。
 なにやら非常なわけがあってアンドレが娘を連れて自分のもとをたよってきてくれたときのゲンゴロウの喜びようは大変なものであった。子どものようにはしゃぎまわり果てにはわんわんと泣き出した。その様子はゲンゴロウの気性をよくしる妻も困惑するほどだった。
 それから事情も聞かずに一番いい部屋に泊めたし――しかもそのとき泊まっていた客を放り出してだ――店を出したいとアンドレが言った時も一も二もなく協力した。
 ところの元締めに話を通したのもゲンゴロウだし空いている土地や店を紹介したのもゲンゴロウだ。
 アンドレが今のカルミソのある場所を選んだのは元がレストランで内装がすべて整っていたことと元締めが強く進めたこともあった。そもそも一から建てている暇はないし、空き家を改装する手間すら惜しかったのだから全てが整ったカルミソはこれ以上ない物件であった。
 ゲンゴロウも元締めを連れ立ってカルミソの店舗を案内しているときはにこにこしていたにもかかわらず、夜になって旅籠に戻るととつぜん、
「あそこだけはいけません」
 と言いだしたことにアンドレはひどく驚いたことを覚えている。
 マリーにはああ言ったアンドレであったが怪しいとわかりつつ前述の理由もあってゲンゴロウの反対を押し切ってカルミソを買ったのであった。元締めも大喜びでかなり値引いてくれたことも大きい。
「お前の言うことを無視したのは悪いと思っている。ただどうしても急いでいたのだし、一見すると悪いところのない店でもあったろう」
「店がどうのというのじゃありませんのです。いえ、もう言いませぬ。どうせ私がことなど信じてはくれませぬのだから言いませぬ」
 ゲンゴロウ、熊のような大男のなりをしていじけているのだった。
 アンドレはかわいいものでも見るような目をして苦笑する。やわらかで女に愛をささやくような甘美な色を持った声で語りだした。
「悪かった。私が悪かったから機嫌をなおしておくれ。俺もあそこに店を構えている身なれば、いつまでも知らずにいるわけにもいくまい。遅かれ早かれ結局は知ることになるのならお前が口から聞きたいと思ってこうしてやってきたのだよ。お前が話してくれぬのならば俺はここを頑として動かぬし、機嫌がなおるというのなら頭を下げよう」
 いいざま膝を折って地に伏し両手をついてふかく頭を下げた。
「だからどうか知っていることを全て話しておくれ」
 それを見てゲンゴロウはあわててアンドレの体を抱き起こそうとすがりつく。
「なにを!? なにをなさいますか。さ、ささ。お顔を上げてください。さあ」
「わかったと言ってくれるまでは」
 そう言って熊のようなゲンゴロウの力にも微動だにもしない。ゲンゴロウは今にも泣きそうに顔を歪めている。
「わかった。わかりましたから、どうか。どうか。アンドレ様にそうまでされては私が恩知らずの人非人と指をさされてしまいます。さ、どうか顔を上げてくださいますよう」
 ゲンゴロウがそう言うとアンドレはとたんに顔を上げて立ち上がった。ゲンゴロウの肩に腕を回して、
「お前はいいやつだな。うん。お前ほど信用のできるやつを俺は他に知らない」
 そう言われてゲンゴロウは相好を崩す。
「さあ話しておくれ」
 うながされてゲンゴロウは語りだす。
「あそこは前もレストランをやっていましてね。前といってもアンドレ様のやってくるほんの少し前までですから本当につい最近までです」
 その頃のレストランの名前は「あかね月亭」といって店主の男はファゴットといった。
 田舎訛りの強い言葉遣いだったがとても人当たりがよく、いつも目を細めて笑っているそんな男だったそうな。そういう人柄だからゲンゴロウはもちろんのこと町の人々からもたいそう好かれていたそうだ。
 だが、いかんせん肝心の料理の腕はめっきりであった。
 ゲンゴロウ曰く、
「最初はそういう味付けの料理が異国のどこかにあるのかな、と思うんですがね。箸を進めていくうちに『ああ、これはまずいのだね』とわかるんでさ」
 という味らしい。
 当然そんな味で客がやってくるわけもなく、年中無休にもかかわらずひらいてんだかしまってんだがわからないという状態だったそうだ。
 そんなことで生活が立ちゆくのか疑問なのだが、
「それがどういうわけか羽振りがよくて。うちの娘もよく髪留めやらなにやらを買ってもらったり。うちだけじゃあなくてこのへんの子どもはみんなそうですよ。小さいガキどもにはおもちゃを買ってやったりですね。おかしなこともあるもんだなあ、とみんなで話をしていたんですよ」
「ほほう」
 とてもじゃないが開店休業状態のレストランの主人の金回りではない。
「けどね。勘違いなされちゃあ困るんですがね。悪さをするようなやつではないんですよ。というよりそんなことのできる男じゃあねえ。それは私どもがよくよく知ることですから」
 噂ですがね、とゲンゴロウ。
「どこぞの貴族様の妾腹の子じゃないかって。それなら仕送りがよほどのものでしょうからあの羽振りのよさも納得のいく。まあ、馬鹿げた噂ですが」
 と、もう一度言った。
「……そうか」
「どうかないさいましてか? 顔色がすぐれないようですが」
「いや、大事ない。続きを頼む」
 アンドレを気遣いつつも言われたとおりに話を続ける。
「どこで噂をききつけたのか無頼浪人が三人、町の外れの空き家に住み着きまして。ええ、今もです」
「そいつらの手にかかった、と」
「はい」とゲンゴロウはうなずいた。
 まあよくある話だ。
 前リーン王の生きていた頃はかなり豊かであったから仕事を求めて他国から人が入ってきていた。それが今は税の徴収が厳しくなり雇用も減った。
 そうなるとまっさきに首になるのが異国民で、そういったやつらが徒党を組んで悪さをすることが多くなった。
 とうぜん全部が全部ではないし、王国民の中にも卑劣なものはいる。
「ただですね、証拠がない」
 浪人どもはさっそくファゴットの店に入り浸り因縁をつけては暴れたり、ゆすりをしはじめたのだという。
 しかしファゴット、なかなか気丈の男で金はないの一点張り。頑としてうなずかない。それに腹を立てて浪人どもは殴る蹴るの好き放題。
「仮にも腰に剣を帯びている連中ですから私どもにはどうすることもできませんで。そこでみんなで金をより集めて剣客を雇ったんですがね」
 これが返り討ちにあってしまった。子分の二人はたいしたことがないのだが、親分のダダンという男、これがなかなかの使い手なのだ。運さえあれば大貴族の配下として仕えていただろうし、護国の騎士ともなりえただろう実力である。
 それがこうして無頼悪人と成り下がっているのだから人の運命とはまことに奇妙である。
 しかし、それはそれ。これはこれ。どうであろうと悪人には違いない。
「そうこうしているうちにファゴットが死んでいるのが見つかりまして」
 そういうゲンゴロウの目から涙がボロボロと流れ落ちていた。
「死因は?」
「刀傷がバッサリと。前後の状況を考えればやつらが殺ったのは間違いないことでしょうが、なにぶん証拠がない。何度も言うようですがね。証拠がないのですよ。それに腕が立つもんですから無理やり引っ捕えることもできない」
 そういうわけで公的権力にはどうすることもできないのだとゲンゴロウは言う。
 栄えていてもしょせんは宿場町だから警吏にもたいした使い手はいないし、王国直轄の都と違い独自の裁量で、時には取り調べもなしに斬り捨てることのできる特権持ちもいない。
 だからあくまでも捕縛して、その罪を明らかにしなければならない。
「そんなわけで生かしておいたって損こそあれ得なんざひとっつもありゃあしないやつらでもしょっぴくこともできないんでさ」
 歯がゆそうにゲンゴロウは言う。その目の奥にアンドレに対する期待がうつっているのを見て取ったが彼はなにも言わなかった。
「ふうん。わかった。わるかったな」
「いえ、もう。気をつけてくださいまし。やつら店のどこかに金が隠してあるんじゃないかって」



 その晩。
 アンドレがゲンゴロウから聞きだした情報をマリーに伝えると、
「許せない」
 思いつめた顔でつぶやいた。
「あなたはどう考えて?」
「ここには長くはいられないでしょうね。もとよりそのつもりでしたがそれよりも早く。御身に危険の及ぶ可能性がありますゆえ。そうしますと懐のほどが心もとないためどこかでまたとどまることになりますが承知ください」
 アンドレが言い終わらぬうちからマリーはジトリと目を細くして彼を見据えていた。非難の色が濃く瞳にうつっている。
 気づきながらアンドレは素知らぬ顔をしている。まんじりと見つめ合ったまま時だけが過ぎていく。
 耐えかねたのはマリーだ。
「アンドレ。私はだれだ?」
 真剣な声音であった。アンドレはしばらくのあいだ黙っていたがやがて、
「私の娘のマリーです」
 マリーがカッと血を上らせて声を張り上げる。
「アンドレ!」
「家もなき、力もなきとおっしゃったのはあなたです」
「ならばなぜ我が足もとにかしずく」
「それは」
 答えに詰まる。
 マリーの目には力がこもり、凛凛とした顔つきに、発せられる声の荘厳さは十余歳の娘のものではない。それは決して後天的には獲得することのできない気高さであった。
 アンドレはしばらく見ることのなかったマリーの、いや主の姿にわずかばかり気圧される思いであった。
「確かに私は今の自分がなにも持たない小娘だと言いました。なれど私はリーンの娘、マリエッタ・リーン。たとえ見えずとも王冠は常に我が頭頂にあるのです」
 身をやつしていようともその体に流れる血と精神は変質することはない。
「は」
 片膝立ちでマリーが足もとにひれ伏すアンドレ。
「父王はそれが罪であればたとえ誰のどんなものだとしても罪として適切な処置を下していましたことはむしろ私よりあなたのほうがよく知っているはず。父亡き今、その役目は唯一無二なる後継者である私のもの。そうですね?」
「おっしゃるとおりで」
「ならば言わずともわかりますね」
「は」



 その後、幾日かは平穏に過ぎたし、アンドレとマリーはそれまでどおり親子を演じていた。
 あいかわらずレストランは好評でアンドレが腕をふるった料理を食べるために時には店の前に列ができることもあった。
 この日も客は長蛇をなしてそれを捌ききったのは昼を三時間も回った時のことだった。
 店内に残っているのは馴染みの客が何人か。
 つまみに頼んだ小料理と酒を片手にチョモットという白身魚の食べ方についてくだらぬ議論を交わしていた。
「けど旦那。チョモットはやっぱり塩焼きにかぎるぜ。引き締まった肉厚の身。素材の味を活かすためには塩焼きだよ」
 客の向かいの席に座っているアンドレが自分の作ったつまみに手を伸ばしながら応える。
「私は煮付けが好きですけどねえ。ぶどう酒と一緒に身が崩れるまでやわらかく煮込むんです。すると舌がとろける。とろける」
 客はそのさまを想像してゴクリと唾を飲み込んだ。
「そりゃあうまそうだ」
 そのテーブルにふくれっ面のマリーが寄っていき、
「ここは寄り合い所じゃないんだからもっとなにか頼んでくださいよ。パパも仕事をする!」
 アンドレは後ろ頭をかきながら不承不承といった体で立ち上がる。客たちは娘に頭の上がらない情けない父親を見て笑ってはマリーに向かって言う。
「今からこれじゃあこいつはおっとろしいカカアになるぞ」
 そんな折、カランコロンと入口の扉につけた鐘が鳴り、客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 振り返って出迎えたマリーの声は半ばで途切れる。客たちの笑いも消えた。一瞬だがアンドレが剣呑な表情を見せる。それはすぐにいつもの客の前でする柔和でどこか弱々しげな笑顔に戻った。
 入ってきたのは件の無頼漢どもであった。
 すかさずマリーの前にでたアンドレがささやき声で、
「二階にあがっていてください。さ、早く」
 マリーは黙ってうなずいて小走りで駆けていく。
 それを見て無頼漢の子分と思しきふたりが言葉汚く、
「ああん。なんだ? 客がきたんだぞ、客が」
「俺たちにゃあ給仕はいらねえってのか? なあ」
 アンドレは腰低く彼らの前に出て、
「いえね。娘は朝から調子が悪くて。今も休ませようと話をしていたんですよ。ねえ?」
 話を振られた客がぎこちなくうなずいた。
「そうかい。そうは見えなかったけどなあ」
 と言う無頼漢の言葉には応えず、
「さ、ささ。こちらの席へどうぞ。少し時間はかかりますがね、チョモットの煮付けなんかおすすめですよ」
 席へ案内するのだった。
 見た目とは裏腹に弱腰なアンドレを見て無頼どももちょろいと思ったのだろう。ニヤニヤと汚らしい顔を歪めている。
 メニューの上から順にひと通り作るように命令し、運ばれてきた料理をまるで一週間ぶりに食べ物を口にするとでも言うかのように次々と胃の中にかっこんでいく。さんざん食い散らかして、そのうえ皿はわるは痰は吐くは、アンドレに手を上げるはと好き放題した挙句、
「こんなまずい料理で金をとるのか」
 なんて陳腐ないちゃもんをつけて代金を払わずに帰っていった。
 その間中、アンドレはニコニコと笑顔を浮かべ文句のひとつ、反抗的な目付きや強制されて仕方なくという不満気な様子をみせることはなかった。
 とにかくせっせと働いて弱腰な態度で従順であった。
 店の隅でおとなしくしていた客たちもさすがにその態度には呆れ返るものがあったという。
 それでもかける言葉は、
「いや、旦那。下手に逆らわないでよかったよ。あいつらときたら腰の剣にものを言わせてやりたい放題だから」
 どうしようもないのは重々わかっているのだった。
 しかし客の言葉は耳に入っておらず黙然と考えにふけっていた。
(様子見といったところか。しかし頭領が大物気取りで黙りこんでいたのは気に入らぬ)
 そんなことはどうでもいいとばかりに首を振り振り。
(切ってしまってもいいが。ここの前の主人……ファゴットとか言ったか。化けてでてはくれないだろうか)



 その晩。
 アンドレの発言にマリーは笑いに笑い腸がよじれるといった具合でむしろ苦しいといった体で息絶え絶えであった。
 そんなマリーの様子を見てもアンドレは真面目な顔で、
「冗談を言ったつもりはないのですが」
 と言う。
 ようやくどうにか笑いも収まって声を出せるようになったマリーが、それでもあえぎ混じりに、懐疑的な眼差しでアンドレを見た。
「だって化けてでるって幽霊ということでしょう? サンクチュアリの神事官じゃああるまいし」
 隣国にある神々の聖域とされるサンクチュアリには熱心な信徒が列をなし神事官たちの説く神の教えを聞きたがるという。そこにいる神事官は神の姿が見え、声を聞けるという話をマリーは耳にしていたが信じてはいない。
 しかしアンドレは。
「なにも霊的能力は神事官や巫女だけのものではありませんよ。僧は修業によって邪霊を祓う力を得ますし、生まれ持っているものもおります」
「ならあなたにはその力があるというの?」
 それはなにも特別なことではないという風に自然にうなずいた。
「このアンドレ、剣を持たせれば並ぶものなく、馬にまたがれば風よりも速く、包丁を握れば王族の舌をも満足させ、神という神のお告げに耳をかたむけ、霊という霊と交感することができるのです」
 前三つはマリーも知るところであるし、納得もいく。四騎士の一角として名を馳せたアンドレの武芸が抜きん出ていることはとうぜんのことであるし、料理の腕前を知ったのは最近のことだが事実マリーの舌を唸らせるものだ。
 しかしアンドレに霊能力があるという話は宮中にいた頃から一度として耳にしたことのないマリーだからうそぶくアンドレに対して、
「あなたでもそんな冗談が言えたのね」
 と、まるで本気にしない。
 アンドレが口を開きかけて突然。室内に風が吹いた。カラコロと鐘が響き、いつのまにか入口の扉が開いていた。
 ひとりの男がものを言わず入ってくる。
 日をまたいだ夜更けである。とうぜん店は閉まっている。
 アンドレはマリーを背に隠すように立った。
「いらっしゃい、と言いたいところですけど今日はもうおしまいでして。すみません。旅の方ですか? ……そうはみえませんけども。まあなんにせよ、泊まるところをお探しなら四軒むこうに旅籠がありますからそちらへどうぞ。あいにくうちは料理しかやっていませんので」
 と早口に一気にまくしたてた。
 見たところ武芸のできる男ではない。武器はない。調理場の包丁くらいだが素手でも組み伏せる自信はある。
 しかし、
(得体のしれない)
 なにかがあった。
 返事をしない男を訝しんでアンドレがもう一度、声をかけようとした時。
 マリーが絶叫した。
「いじわるはやめてよ!」
 先日みせた威厳のかけらなどどこにもなく年相応に幼い顔を恐怖に歪め今にも泣きそうな顔だった。いや、涙の雫がこぼれていないだけで泣いているといっていい。
 が、アンドレには彼女の大音声で発した言葉の意味がわからない。
「はい?」
「本気にしなかったのは私がわるかったわ! だから、お願い。やめてちょうだい」
「おっしゃっている意味が飲み込めませんが」
「だれかいるふりをして私を怖がらせるのはやめてと言っているの!」
 いやいや、と首を振るマリー。
 アンドレは呆気に取られつつ、
「……マリー様には彼が見えていないので?」
 と言う。
 こうまで自分が言っていつまでも悪ふざけを続ける男でないことはマリーはわかっている。だからおそるおそる尋ねる。
「……じゃあ、だれか本当にいるの?」
「肉厚の頬をした気のよさそうな男が。ほら、そこに」
 と、指をさすが、その先はマリーには虚空でしかなかった。
「見えないわ」
 と、首を振る。
 アンドレが虚空へ向かって語りかけるのをマリーは黙って見ていた。目をぎゅっとつむり、アンドレの背中にしがみついている。信じていないといっても目の当たりにすればおそろしかった。いや、見えてはいないのだが。
「ちょいとお前さん。お前さんはもしかするとここの前の主人じゃないかい? そうだろう?」
 言うなり、ぼうと青白い鬼火がいくつも灯って返事が帰ってくる。
「オラがみえるのかい?」
「さっきからそう言っているだろう」
「ホントにみえるのかい?」
「みえるとも。昔からみえてみえてしょうがないというほどみえるとも。それこそ生きている人間と区別のつかないほどのことさ」
「そうかい。みえるのかい。みえるのかい」
 男――前店主のファゴットは二度も三度もうなずいて顔をほころばせている。
 一方、マリーはふるえる声で、
「私にはみえないわ。みえないの。ねえ、アンドレ。からかっているのではなくて? ねえ」
 未だにそんなことを言う。がみえないのだから仕方がない。マリーでなくても今の光景――虚空へ向かってひとり言を言っているアンドレの姿を見れば気が狂ったとこそ思えど、幽霊と話しをしているなどとは思いもよるまい。
「嬉しいねえ。まただれかと話ができるとは思っていなかったからねえ。嬉しいねえ」
 本当に嬉しそうに何度も口にしている。
「あの世に行けばいくらでも話せるだろう」
 アンドレが言うと途端にファゴットの顔が曇る。ふるえる声で、
「けどオラァ、死んでも死にきれるものじゃあねえ」
「恨みか?」
 首を振る。
「この町のみんなは気のいい人ばかりでオラにもやさしくしてくれるんだ。そんなみんながあの無頼ばらに苦しめられていると思ったら死んでも死にきれねえ」
 肩がわなわなとふるえ心底口惜しいという面持ちで、
「お前さん、強いんだろう? 剣を持てば誰にも負けないくらい。オラが敵《かたき》とは言わないけれど、あの悪党ども切っておくれ」
 はっと顔色が変わりアンドレは鋭く目を細めて、
「聞いていたのか? いつから?」
「ずっとだ。お前さんたちがきてからずっと」
「貴様!」
 ファゴットが答えた瞬間、アンドレの体から殺気がぶわっと吹き出で、もはや現世《うつしよ》の体を持たない霊魂であるファゴットの体すらすくみあがらせた。
「で、でも聞いてないだ! そっちの綺麗な女の子がお姫様だなんてオラ聞いてないだ」
 とっさの弁解は弁解にはなっていなかったが、その間抜けな正直さにアンドレは毒気を抜かれた。
「なあ、どうせオラ死んじまって誰とも話せないのだし、あんたがヤツらをやっつけてくれたらきっと成仏するから誰にも話せないさあ。なあ、頼むよ。オラが隠した金もお礼にやるから。どうせ死んじまっては金もなんもありゃしないのだから。」
 とそこでアンドレの表情が変わる。
「そう! 金だ。どうしてお前は金を持っている? 持っているならどうしてそれを浪人どもにわたさなかった? 命ばかりは助かったやもしれないぞ」
 応えてファゴットが身の上を語りだした。
「オラが父ちゃんは貴族様だあ。母ちゃんは父ちゃんのお屋敷で働いてたさ。父ちゃんスケベでカカアがいるのにオラが母ちゃんに手だして、そんでオラが生まれただ」
「噂は本当だったのか。しかし貴族ってのはどうしてこう。いや、言うまい」
 貴族である父親は妻との間に未だ子どもがなかったのでファゴットのことをずいぶんとかわいがってくれたらしい。しばらくして妻との間にもうけたは子が女であったため、父親はファゴットを跡継ぎとする考えを示したが妻が激怒。正妻であるという優越感が妾とその子を許せていただけに過ぎないのだからそんなことを言いだせば当然の様相である。
 結局、ファゴットとその母は田舎に送り返されてしまった。そのかわり。
「毎月いっぱいお金さ送ってきてくれるんだあ。んだから、オラが稼いだ金ではないけど怪しい金じゃない。な。だから、頼むよ」
 アンドレは答えない。自分で化けて出てこいといったアンドレだがあまり乗り気ではなかった。沈思している間に服の裾を引っ張るものがいた。むろんそれはマリーなのだが、
「ねえ、アンドレ。アンドレ。何を話しているの? 私にはまるでわからないのだから教えてちょうだい。ねえ」
 アンドレにとってはあまりにまざまざと存在するのでその姿、その声がマリーに届いていないことなどすっかり忘れていた。
 はなしの内容を説明するとマリーはこともなげに言う。
「なにも悩む必要はないじゃない。こうして――私にはみえないけれど――証人がいるのだから」
「死人は証人にはなりません」
「もう! そんなことを言ってあなたはやりたくないだけでしょう。たしかに他のことに関わっている余裕はないかもしれないけど、目の前に困っている民がいてそれを無視するようでは玉座に戻った時とてもお父様に顔向けできないわ」
 見透かされていた。答えに窮するアンドレにマリーは厳粛に言い放った。
「マリエッタ・リーンが命じます。騎士アンドレ。我が民を苦しめる無頼悪人を切りなさい」
 ずいぶんと物騒な命ではあるがその権利がふたりにはあった。
 こう言われてしまえばアンドレにはもはや選択肢はない。
「は。しかと拝命致しました」
 と、言いつつも不承不承といった体だ。
 くるりと振り返りファゴットに詰め寄る。
「我が剣を捧げた主がこうおっしゃっているからやってやる。やってやるがその前に金だ! 金の在り処を言え!」
 尋常ならざるものがあってマリーも慌てるほどであった。
「アンドレ? 変よ、あなた」
「言いたくありませんがこいつらは無責任なのです。以前に二度、悔いの残った霊魂の手助けをしてやりましたが無念が晴れると報酬を渡さずに成仏していったのです。そういうやつらなのです」
 するとファゴットは不服げに、
「オラ、そんなことしないだ。それにどうせやっつけてくれなきゃ金は渡せないさあ」
「どういうことだ」
 アンドレとファゴットがふたりでなにやら話し込み、しばらくして。
「そういうことなら明日。いや、明後日の晩だな」
 アンドレが言うのだった。



 翌々日の夜。
 漆黒の闇の中を音もなく動くものがあった。
 アンドレである。襷を結び、腰には剣を一振り落とし差しにかけている。東方の剣術使いが好んで使う片刃のカタナで、刀と書く。リーン王に仕える以前、諸国を廻っていた時に手に入れたものである。二尺三寸一分、つまり七十センチで銘は知らぬが相当の名刀といってよい。
 行く先は町外れの無頼漢どものねぐらであることは明白であった。
 戸口まで忍び寄ると、それを蹴破り押し入った。中で酒を盛っていた浪人どもは今の今までまるで気づかない。驚倒の出来事に事態を飲み込めぬといった体であった。
 アンドレは物言わず電光のごとく抜き打った初太刀でまずひとり斬り伏せるとさらに。
「あ」
 と、言う間もなくふたり目も斬り倒してしまった。
 子分ふたりを斬られてようやく親分のダダンが怒声をあげる。
「てめえ……なにもんだ!」
 しかし振り返ったアンドレの顔を見て急襲の驚愕の上をいく驚きに体を固めることになる。
 あの平身低頭なレストランの主人が今、剣をふるって討ち入ってきたのだ。それはダダンにとって驚き以外のなにものでもない。
 それを見てアンドレは声もなくフッと笑った。眼光は鋭く、また冷たく。
 ダダンは眼光に射られすくむ体を奮い起こして、
「鋭!」
 と、裂帛の気合とともに打って出た。
 一方、アンドレは初太刀とは逆にひどく緩慢にみえる動作で大刀を下段に構え、すくい上げるように振るった。
 光芒一閃。
 ダダンは剣を振り上げたままに前のめりに倒れ伏し、うめき声もあげずに絶命した。胸から咽喉、顎の先へかけて疾《はし》った斬線から血が溢れでていた。
 手練の技と言うほかない。町人どもには相当の使い手にうつったダダンもアンドレにかかれば、
「赤子の手をひねるようなもの」
 であった。
 アンドレは懐から紙を取り出し剣についた血を拭き鞘に収めると、床に転がる死体を脇へ押しやりはじめた。
 それから部屋中央の床板を何枚かはずし、
「しかし、よくもまあ」
 呆れ半分、感心半分でつぶやいて床下に隠された木箱を取り上げた。
 これこそがファゴットの金箱なのであった。
 生前、ファゴットは無頼どものやり口がひどくなるにつれいつか殺されるだろうと覚悟していたという。
 そののちに家捜しされるのは明白でこのまま店の中に金を隠しておいてはいけないと考えた。
 そこで無頼どもの出歩いているうちに忍び込み、床下に金箱を隠したのだった。
 灯台下暗しということわざにあるとおりやつらもまさか自分が家の真下に目当ての金箱があるとは思うまい。
 そしてついぞ気づくことなくこの世を去ったわけである。
「なかなかどうして大した男だ」
 アンドレもファゴットを認めざるを得ない。


 金箱を肩に抱え駆け戻るとすでに、出立の準備を済ませたマリーが荷車の荷台の上にちょこんと座って待っていた。本人はもちろんマリーもアンドレが「帰ってこない」などとは微塵も思っていない証拠である。
「お寒かったでしょうに」
 と、アンドレが声をかけるもマリーは振り返りもしない。
 首をかしげて主人の顔をうかがうと呆然とかたまっていた。
「いかがなさいました?」
 ゆっくりぎこちない動作でマリーはアンドレに顔を向けた。
「……ついさっきよ」
「はあ」
「みたのよ」
「はい?」
「私にもみえたのよ!」
 アンドレが浪人どもを斬ったちょうどその頃。
 フッとファゴットの姿がはっきりとマリーの前にあらわれ穏やかに笑うと何も言わずに消えていったそうな。
「いい人そうだったわ」
 しみじみと語った。
 

 次の日の朝、町外れの空き家で無頼どもの死体が飯の世話をさせられていた町人の娘によって見つけられた。
 真夜中のうちの出来事らしく証拠もなにもない。殺られたのは無頼悪人ということもあってろくろく調べもせずに調査は打ち切られた。
 ただ事件とレストランの親子が同日の夜に消えるように去っていったことが無関係ではないということを誰も口にはしなかったが知っていた。

       

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Neetsha