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表紙

鬼を食べる
排他的博愛論

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 さて、とある殺人鬼に纏わるお話を少ししよう。
 「殺人鬼」だなんて突然にこのような心臓に悪い単語を見せられて、ぎょっとされた方ももしかしたら中にはいらっしゃるかも知れないが、実際はそこまで血腥(ナマグサ)い話でもないのでどうかご安心頂きたい。
 食事前であったとしても決して食欲に支障をきたす物語ではない事くらいならば保障出来るし。
 それどころか、物語が閉じた頃には。
 仕方ないくらい。
 空腹で。
 仕方ないくらいかも分からない。
 なぜかと問われればそれは、僕ほど腹を空かせている事を切実に訴えている存在も珍しいから。
 そこに尽きようというものだ。
 お腹が空くのは動物的に健康な証拠であり、余り食欲ばかりが行き過ぎてしまうのもどうかと思うが、しかし自然な事ではあると思う。かく言う僕も風邪を引いた時、食欲が有るなら大丈夫だと親に言い聞かされて育った口だ。
 食べなければ死んでしまう。そんなのは当然の話。霞を食べて生きていけるスキルなどは大多数の方が持ち合わせてなどいないだろうし、僕もご想像の通りにその類を漏れない。
 ならば空腹とは、痛覚と同じように生きていく上で必要不可欠な身体からの電気信号、SOSの一つだ。
 いや、それを言ってしまえば大概の神経伝達は生命維持に関わってくるのだろうけれども。
 だが、こと生命活動に直結している意味合いにおいてのみ鑑みれば、数ある生体信号の中でも前述の二つ――空腹感と痛覚は別格ではないだろうか。
 そんな誰でも理解している事を今更ながらに改めて言葉にしてまで僕が何を言いたいのかといえば、それは空腹中枢の重要性を訴えていると、そんな理解でほぼ間違いはない。
 空腹を痛みと同列に語るのはいささかオーバーではないだろうかとは自分でも気付いているのだけれど、こればかりは少しくらい装飾過多気味に語っておいても良いような気がする。
 なぜならそれはこれからお相手をさせて頂く語り部の持つ、唯一無二とも言えるアイデンティティについての話だから。
 欠食。
 僕に関して多少の理解を持っている人たちは僕をしてそう表現するし、僕自身もそれは決して間違いではないと、むしろ自認する構えだ。
 繰り返し言う。僕は常に空腹だ。いや、空腹だなんて表現が生温いな。言い直さなければならないだろう。もっと……そう。
 「飢」えて。
 「餓」えている。
 ここまで言ってもまだ足りないくらいかも分からない。何度言っても足りるものではないのかも知れない。
 食べても食べても、満ち足りない。
 食べても食べても、食べ飽きない。

 ……ああ、僕じゃなくて殺人鬼の話だったか。

 話を戻そう。
 事後になって僕が人伝いに聞いた話を総合すると、「彼」はかなり優しい性格だったようだ。
 とても人当たりが良く、何よりも思いやりに長けていた、らしい。一を言わせず十をこなし、誉めて、叱り、諭す事が出来る人格者。そういう――まあ、話を聞けば聞くほど殺人鬼なんて輩とは縁遠そうな人物像を僕に抱かせる男だった。
 気が利いて、気兼ねさせず、気苦労なく、気持ちの良い。およそ内面的にはパーフェクトではないだろうか。嫌みなまでに善人でありながら、誰からも嫌われていない。
 そう。事件後、聞き込みをしていて何より驚いたのは、彼に関してマイナスの感情を抱いていた人が一人もいなかった事だ。
 どうしてあの人がこんな事になってしまったのか。彼についての話を聞かせてくれた近隣の住人達は皆、判で捺したように彼に纏わる回想をそう締めくくった。
 虫も殺さぬとまでは言わないが、しかし人を殺すようなタイプには彼らの証言からは確かに見えてこない。いや、昨今ではそういった人こそが犯罪に走りやすいともよく聞く話ではある。
 だが、もしもそれが真実であるならば、人を殺しそうな人間と殺しそうにない人間との間には幾ばくの差違も無い。真か偽かなどとの問答はここではさて置いておくとして、自分が人を殺せる人間だ、という想像は余り気持ちのいいものではないように思う。
 結局は殺意の有無、動機の部分が両者を分かつ決定的な一線になるのだろうか。
 多分、そうなのだろう。幸か不幸か、僕は数奇な人生を歩んでいながらいまだに人を殺した事がないのでこの辺りは憶測で語る事しか出来ない。
 殺意。
 殺す、という確固たる意思さえ有れば。
 人を殺すのに刃物はどうやら要らないらしい。
 しかし、そんな結論を出すにしても、それはそれで何かオカしい気もする。なぜなら、これから僕が語ろうと思っている彼には人を殺す理由が無かったのだから。
 絶望的なまでに、希望的な程に、彼からはそこが欠落している。
 金銭面、生活面、人間関係。全てにおいて問題無し。
 近所付き合いも今時珍しいくらいに頻繁で、隣人に貰った夕食のお裾分けが入っていたタッパーを、綺麗に洗うだけでは飽きたらずお菓子を詰めて返すような気遣いの男が。
 何を血迷ったか。
 殺人鬼。
 ここ最近において、朝のニュースを騒がせた連続殺人の犯人だ。
 いや、だけれども。
 これは彼について調査した唯一の一般人である僕にしか気付けない事であろうが、客観を総合して創り出したその印象はとても不自然だった。揺らぎが無いとでも言えば分かって貰えるだろうか。話を聞いた一人一人の発言に全くブレが無いというのはどうにも引っ掛かる。自然とはそもそも不格好がデフォルトだ。
 木々がどれ一つ同じ形をしていないように。
 僕たち人間は誰一人同じ心を持っていない。
 五人の隣人が居ればそれぞれとの距離感、人間関係といったものがそこには個別に有って然るべきで。で、あるにも関わらず。
 彼に関する彼らの印象には――差異が無い。それは彼がどの隣人ともまるっきり同じ関係を作っていたと、そう言えるのではないだろうか。
 言葉にこそ簡単に変換出来るそれは、しかし実行など不可能に近い。人は多種多様で、その出会いの中に生まれる距離感……空気とも言うべきものはそこにしか無いものだ。
 唯一。そう呼ばれるべき、尊いものを。
 それを彼は。
 統一し。
 均一し。
 画一してみせた。
 そんな事は、少なくとも僕には出来ない。出来る訳がない……それこそ、完璧でなければ。
 完璧……そう、完璧だったのかも知れない。優しさにおいて。その一点において完璧だった。そんな彼。
 優しさ、とは分け隔てがないと言い換える事も出来るのだろうか。愛の反対は無関心だという、かの名文句が真実であるのならば、誰にだって優しい人間とは誰にだって等量の関心を抱いていると、そういう事になる。
 だけど。
 それは「誰にだって無関心」と何が違う?
 そんなものは、優しさとはきっと呼べない。
 難癖を付ける隙すら見つからない。誰一人、悪く言わない。そんなアクロバティックな立ち回りは、心の有り様は……それは、決して普通じゃない。
なるほど。
 ならば、話は簡単だ。
 普通じゃないなら、異常なだけだろう。
 ――殺人鬼。
 ――人を殺す、鬼。
 結果から言えば、彼はそういう異常だった。いや、今もって尚、異常な殺人鬼だ。
 彼は累計で十六人の人間を十六日の内に殺し、そしてそんな彼の殺した中には僕の友達も一人、居た。
 まあ、僕は別にその事について恨み言を言う気は無い。そもそも殺人鬼なんて天災のようなものに、事件が終わりを迎えた今となっては何の感慨も残ってはいないのだから。
 友達が「殺された」と表現しないのは僕のそんな部分が理由なのだろう。
 人は、死ぬ。
そんなのは当たり前でありふれている。
 ありふれて、溢れて、溢れ返って。今、この瞬間にもどこかで誰かは死んでいる事だろう。
 それがたまたま僕の友人だっただけの話だ。
 それが偶然に殺人鬼によるものだったって、たったそれだけの話じゃないか。
 人が人を殺すのだって、そんなものは僕の住んでいる国でも日常的に行われている。そこに何の不思議が有る?
 よくある事。
 そんなのでは僕らの食指は動かない。
 期待外れ、とはきっとこんな時に使う言葉なのではないだろうか。
 殺人鬼に向けて使う言葉として「それ」は不適当だと知りながら、それでも僕らガキ共は口を揃える。

 ああ、骨折り損も良いところだ。
 ああ、つまらない下らない。
 ああ、期待していたのだけどなあ。

 こんな事を本心から口にする、僕らは決して普通じゃない。
 普通じゃないならそれは……異常なだけだ。
 殺人鬼と、同じように。
 鬼と、同じように。
 自覚の有無は、何の問題にも解決にもならない。
 僕らは鬼に餓えている。

 「藤原が襲われて殺されたんだってさ。ほら、例の殺人鬼。巷大賑わい。満員御礼。毎朝ニュースやってるヤツ。いや、俺はおはよう占いしか見ないけど」
 いつもの朝、学校から一番近いコンビニのフランチャイズ名が印字されたビニール袋の中身を僕の机の上に広げつつ、藤原がそんな事を言ったものだから僕は呆れた。
 席に着いたままに上目遣いで少年を見上げる。
「えっと……誰が襲われたって?」
「稀に見るよい子で、ご存命であれば恐らく日本経済の救世主になっていたであろう、藤原久人(フジワラヒサト)クンであります」
 机上を賑やかす、その中から冷めたホットドッグを選択した僕の手の動きをチラ見して、机の端に置いてあった小銭をホットドッグの金額分だけ接収しながら、藤原久人は言う。
 呆れ返った。
「殺されちゃったんだ?」
「死んだ死んだ。もう、マジ死んだ。背後からグッサリ。吐血ドッサリ。あー、まだ身体の中身が軽い気がするっての」
 いかにも体育会系らしいガッシリとした体を震わせながら、そのクラスメイトはそんな事を言って。僕は手の中の食物にケチャップとマスタードを塗布しながら、その顔を見るのも止めてぼんやりと疑問を口に出す。
 マスタードは二袋。オーケー、ちゃんと貰ってきてるな。
「生きてるじゃん?」
「いや、確かに死んでたのは……えっと、大体三時間くらいか? でも、バッチリ死んでたって。生き返ったけどな」
 生き返った。
 生き返った……ねえ。眉唾って言葉に上位互換は有っただろうか?
「……ああ、そう?」
「なんだよ、なんだよ。親友が殺人鬼に殺されたにしちゃリアクション薄いな。もっとこう、椅子からずり落ちるとか腰を抜かすとかしてくれよ」
「つまらない冗談はそのくらいにしとけ、久人。僕にリアクション芸なんて期待する方がどうかしてる」
 うんざりしながらそう応えると、少年は一口サイズの小さな菓子パンを二つ、口に放り込んで忙しく咀嚼した後に、制服の襟元を開きながら僕の机に肘を置いた。
 前の席は当然のように彼のものではなく、そしてこれもまた当然と彼の占領下に置かれる。僕の知った事では無いながらも、その机と椅子の持ち主に少しばかり哀愁を感じずにはいられない。
 秋だから、だろうか。季節柄センチメンタルになっていたとしても不思議は無いな。
「あ、リアクション云々なんだ、論点? 殺人鬼じゃなくて?」
「決まってるだろ。突拍子が過ぎるんだよ。殺された? 馬鹿馬鹿しい。殺人鬼? 大概にしろよ。そんなもの居る訳ないじゃないか。久人、君はアニメか漫画の見過ぎじゃないのかい?」
 藤原久人。図体ばかり大きくて、中身はまるで子供である。サイズが合っているにも関わらず、筋肉質な彼が着ると七五三に見えなくもない制服は、一体何の自己主張をしているというのだろう。
 藪から棒に頓狂な事を言いたい年頃なのは理解出来なくもないが、それにしたってお互い十七歳にもなるのだから多少は落ち着きを要求しても良いはずだ。それともこの男、高校生らしい発言は出来ない病気か何かなのか?
 高校生活三年間などはどうせ一瞬にして過ぎ去ってしまうのに、大人の階段を全力で逆走してどうする。人生とは下り一方通行だと思っていたが、それすら僕の勘違いなのかも知れないと久人を見ていると勘違ってしまいそうになる。
「いや、殺人鬼の存在から否定するかよ?」
「はっ! 非、現実的過ぎる。吐くならもう少しマシな嘘を吐くんだね」
「……お前って周りを見ないタイプだよな」
 僕の親友を自称する少年はわざとらしく溜息を一つ。
「そんなのは今更、君に言われるまでもない」
「だよなだよな」
「しかしだね。少しばかり言わせて貰うと、だ。周りなんか見なくとも生きていける。周囲との迎合などはしたい人間にだけさせておけば良い」
 座禅を組んで自分と向き合っているだけで悟りが開ける世の中だ。
 間違ってはいけない。内向的は褒め言葉。寂しいという感情は即ち、甘えだ。
「朱に交わって赤くなるようなヤツは只の惰弱だよ」
「おうおう、吼えるねえ。ま、その考え方には賛同しないでもないが。けど、少しくらいは見とくべきだと思うぜ」
「へえ。どうしてだい?」
「置いてかれるからさ。なあ、なんで今、教室にお前と俺しかいないか知ってるか?」
 言われて気付く。静かだ。雑音が混じらぬ二人きりの会話というのは、それは別に嫌いではないので意識していなかったが。そう言えばホームルームももう間近だというのに二年三組の教室には僕ら以外に誰もいない。
 いや、教室単位、どころの話ではないようだ。まるで世界に僕らしかいないみたいに、校舎中がひんやりと静まりかえっている。
 静か――過ぎる。まるで建物自体が殺人鬼におびえているようだ。
「……おや?」
「おや、じゃねえよ。なんで今の今まで気付かないんだ? 今日はなんと、臨時休校なんだぜ?」
「臨時……休校?」
 初耳だった。残り一口の、かつてホットドッグであったマスタードケチャップパンに齧り付く手も止めて、久人の顔を覗き込む。
「そーだよ。殺人鬼絡みでな。連続殺人犯、市内だし。っつーかさ。こんな重要な事をなんでお前は知らないの?」
 そんな不思議そうな顔をされてもこっちが困る。返す返す、初耳なのだから。
「マジで?」
「マジで」
 ペットボトルのミルクコーヒーを豪快に飲み下しながら、ニヤニヤと笑う少年の目元はしかし、嘘を吐いて笑っているようにはどうにも見えない。
 どちらかと言えば、本当に僕が知らない事を面白がっている感じ。
「いや、そうは言うけどね。休校の連絡なんて無かったよ? こういうのってさ、前日のホームルームなり早朝に電話連絡なりが有るものじゃないの?」
「七限終わりのチャイムと同時に教室から消える、ホームルームぶっちぎり組のお前が何言ってやがる。それと電話の方はアレだ。お前、緊急連絡網跳ばされてるんじゃないか?」
 誰かも知らぬクラスメイトに地味な嫌がらせを受けていた……。なんだ? 僕はもしかして自覚が無いだけでいじめられっ子だったりしたのか?
 衝撃の新事実発覚の瞬間だった。……いや、高校生にもなっていじめなどという下らない遊びは真剣に勘弁して貰いたい。それも本人が気付くかどうかの線を狙うなんて相当性質が悪い。
「マジで?」
「マジで」
 本日二度目のやり取り。間髪入れずに返ってくる肯定から藤原と僕の間柄を察せられるというものだろう。祖母の作る糠漬けのようにこなれていた。
「俺んトコには来たし、電話連絡」
 ん? 電話連絡が来たって事は休校の事実を藤原は知っていたんだよな。なら、なんで学校来てるんだよ、コイツ。暇なのか、馬鹿なのか。ああ、暇で馬鹿なんだな。納得。
 ホットドッグを食べ終えた僕に紙ナプキンが差し出される。少年のそつの無い気遣いに少々感心しつつも、しかしそれをおくびにも出さずに僕はボトル缶のアイスコーヒーに手を伸ばした。
 アルミのキャップを捻りながら思い返してみる。
「そう言えば確かに正門は閉まっていたな……」
 どうしてそこで気付いて回れ右しなかったのだろう、僕。低血圧が悪いのか。きっとそうだ。体質的な問題なんだからこれはもう仕方がないと割り切ろう。そうしよう。
 よし、自己弁護完了。
「裏門もな。ご丁寧に鍵掛かってたぜ。で、どうやって入ったんだよ、お前」
「乗り越えた」
「正門の柵をか? 結構な高さ有るじゃん、アレ。なんでそんなにアクティブに馬鹿なんだ?」
 うるさい。言われずとも自己嫌悪の真っ最中だから黙っていてくれ。
「そういう久人はどうやって入ったんだよ」
「乗り越えた」
「なんでそんなにアクロバットに馬鹿なんだよ……」
 馬鹿の相手は矢張り馬鹿だった。さて、この場合はどちらがより馬鹿なのだろう。休校を知っていながら学校に侵入したヤツの方がレベルの高い馬鹿だと思うのだが、どうか?
 ん? レベルの「低い」馬鹿、なのか? 日本語はこの辺りのニュアンスがどうも難しい。
 僕は溜息を吐いた。
「ねえ、久人。同病相哀れむ、って知ってる?」
「いや、ただの類友だ」
「……友? いや、異論は無いけどね」
「ただ、俺の場合は乗り越えるのにより背の低い裏門を選んだからな。お前の方がレベルの高い馬鹿だぜ」
 どうもこの場合、レベルは「高い」が正しいらしい。どうでもいいけど。
 でもって、そっちはどんぐりの背比べというヤツだ。
 コンビニ袋の中身を二人で軒並み消化して、僕らは一緒のタイミングで顔を見合わせる。考えている事はどうやら一緒らしい。
「……帰るか」
「そうしよう」
 無為な時間を過ごしてしまったこのがっかり感は帰って不貞寝でもすれば綺麗さっぱり忘れてしまえないかな。うん。そう思い込むよ、僕は。
 降って湧いた休日だと、そう前向きに捉えてしまえば別段悪い話でもないさ。
 自分を騙すのは得意中の得意だし。
「ああ、そう言えば。殺人鬼ってマジなの?」
「休校の事実を頑なに受け止めたくないのは分かるがな。だが、インフルエンザが流行ってる予兆がどっか教室の隅っこででも育っちゃいたか?」
「いや、それは無いけど」
 第一、そういうのが蔓延していたら先ずいの一番に罹るのが僕だし。体の弱さにはクラスメイトの間でも定評が有った。仮病八割、いつも病欠の口実を探しているのは公然の秘密とやらではあるが。
 ちなみに保健室の簡易ベッドが一つ、常に空けられているのは僕のためだったりする。お陰でどの棚に傷薬やら風邪薬やらが有るのかを覚えてしまった。
 聞くところによると裏保健委員長とか影で呼ばれてるそうで、これに関しては甚だ不本意。
 ……裏ってなんだよ、裏って。ちょっと強そうだぞ。
「流行病じゃないとしたら、後は天災くらいしか臨時休校になりそうな理由はないわな」
「天災……ねえ」
 殺人鬼と天災。
 きっと久人的には地震や台風の事を指して天災と言っているのだろうが、しかし僕にしてみれば、どっちも似たようなものに思える。
「俺が覚えている限りでは天災らしい天災も無し。こんだけ言えば『殺人鬼』の話だって幾ら頑固者のお前であってもそろそろ信じられるってなモンだろ?」
「帰ったら久しぶりにテレビでも付けてみる事にするよ」
「……まだ疑ってるのか?」
 帰宅する為だろう。一足早く席を立った久人はいまだに座り込んだままの僕をジト目で見下しつつ、二人で食べ散らかした朝食のゴミで丸々と膨らんだコンビニ袋を教室の後方隅に有るゴミ箱目掛けてバスケットボールの要領でシュートする。ゴミ箱の位置を確認する事も無く。
 見蕩れる程美しい放物線を描いてそれはゴールに吸い込まれた。
「巧いモンだ。背中に眼でも付いているのかい?」
「その背中の眼とやらは一々服を脱がなきゃならないのが欠陥だな。今のは秘技、そっぽ向いてシュート」
「うるせえよ。何が『秘技』だ、馬鹿野郎」
 もう少しネーミングを考えたらどうだろう。結構凄い特技の筈なのに、ひとえに名前のせいで間抜けな技に見えてくる。
「ちなみに床に落ちてる缶をリフティングの要領で手を使わずゴミ箱に捨てる事も出来る。こっちは『奥義』だ」
 ほとほとハイスペックな男である。
 勿論、無駄に。
「その抜群の運動神経をお持ちの藤原久人クンはなぜに手芸部なんだろうな」
「手芸舐めんな」
「人生舐めんな」
 阿と言えば吽の呼吸。もしかしたら僕とコイツは仲がいいのかも知れないな、などと錯覚してしまいそうになる。
 危ない危ない。
「大体、お前は自分の体付きを鏡で眺めて何も思わないのか? 部室でゴツい身体を縮めてちまちまと刺繍に勤しんでるお前を廊下から見掛ける度に、なんとなくもの悲しい気持ちになってしまう僕の心情を少しでも慮った事は有るのか?」
「今、流行らしいぜ。乙女系男子」
「知ったことか!」
 吼えたその声は誰もいない校舎内によく反響した。山彦とか小学生ぶりかも知れない。
「まあ、さ」
 久人は頬を掻きながら呟く。
「悪かったよ」
「いや、分かってくれたら良いんだ。僕だって他人の趣味に本気でダメ出しをする気もない。こちらこそ、大人気無かった。そこは謝る」
 大人じゃなくて高校生だとかは、それは言いっこ無し。高校二年生。十七歳。微妙な年頃なんだ、僕たちは。
「ん? 違う違う。そうじゃなくて。そこじゃなくて」
 少年は前の机に無造作に置いてあった学生鞄からごそごそと紙切れを取り出す。教科書を筆頭に学習用具が入っているにしてはその鞄は余りに薄い。
「置き勉?」
「当然だろ。教科書なんてあんな重たいモン、持ち歩けるかよ。馬鹿らしい」
 馬鹿らしい、という耳慣れた言葉も本物の馬鹿が言うと重みが違った。その本物の馬鹿は一枚の紙を僕に見せ付ける。
 緊急連絡網、とその一番上に印字されていた。こんなものを僕に見せて一体何を……いや、ちょっと待て? 僕の名前の一つ上……見覚えが有るな。
 藤原……久…………人?
「連絡をわざと跳ばしたのは、ああ、ソイツは俺が悪かった」
「まさかのお前がいじめっ子か!」
 悪いと思って後から自首するくらいなら、最初からそんなガキ臭い悪戯するんじゃねえ!
「いやいや。少しでも学校に来て勉学に励んで貰いたいって、俺なりの愛の鞭だ」
「恥ずかしく無いと書いて無恥だよな、ソイツは!」
「まあ、本音は突然学校が休みになって暇だったから誰かからかおうと思ってだな……」
「本音過ぎるわ!」
 三連ツッコミ。ぜえぜえと肩で息をする僕。襟を掴んで締め上げようと立ち上がったのだが、いかんせん僕と久人では身長差が四十センチ近くも有り、それは苛んでいる絵にはどう足掻いても見えない。
 どちらかと言うと、背の低い女の子が懸命にのっぽの彼氏にキスをしようと頑張っている、そんな構図に傍から見たら取られかねない気がする。
 そう、気付いてしまった。
 気付かなければ良かったと心底から思う。ほら、廊下を全力ダッシュする小気味の良い足音が当然のように聞こえてきたじゃないか。
 音速に喧嘩を売るような弾丸ライナーは、ああ、そんな事が出来るヤツなんてこの学校には一人しかいない。
 廊下に木霊するのは塩化ビニールの靴底がリノリウム製の床タイルに叩きつけられる音と、少女による狂喜の絶叫。
「激写ああアアッッッ!!」
 廊下に罅(ヒビ)が入りそうな急ブレーキを学校指定の内履きスリッパでこなし、扉が吹き飛ぶのが先か枠が崩壊するのが先かを賭博の対象に出来るだろう勢いで教室の後ろの戸が開けられる。
 足元からの砂煙(こんなエフェクトがコンクリート建造物内で起こりうるものかと思われたかも知れないが、コイツに関して言えばそれがデフォルトだった)に巻き上げられ仁王立ちでカメラ付き携帯電話を僕らに向けて構える、ウェーブした黒く長いカーテンのような髪が特徴的な少女。
 僕たちの視線の先に、ソイツは有り得ないレベルの存在感を放ちながら現れた。
 お察しの通り、類友だったりする。
 ……頭が痛くなってきた。なんでだよ。なんでこんなのばっかりなんだ、僕の周りは?
「……どうして学校に居るの、かしく?」
 自分の事も棚に上げ、久人の襟から両手を離す事も忘れたままに呆ける僕だった。その僕に締め上げられている少年も……こちらもまあ茫然自失なのは僕と似たり寄ったりだ。そして、質問の合間も彼女の右手からはカシャリカシャリと絶え間無くカメラのシャッターを模した電子合成音が響き渡る。
 肖像権など、この類には訴えても無駄だったり。
「愚問! 愚かな問いと書いて愚問! アタシはどこにでも現れる!」
 妖怪みたいな女だった。
「たとえ火の中、水の中! そこに男同士の絡みが有る限り!」
 戦隊ものっぽい、なんだかよく分からないポーズを決めて少女は叫んだ。言うまでも無いだろうが、その右手に握られた携帯電話は絶賛継続稼動中だ。
 電話で変身する特撮ヒーローを、その姿に思い出さずにはいられない。
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃん! アタシは必ず現れる!」
 ……呼んでない。ちっとも、これっぽっちも呼んでないぞ、僕たちは。
 上刎(ウエハネ)かしく。とても生理的に嫌悪感を催して仕方が無い妖怪の、それが名前だ。
 未だフリーズを続ける僕に向かって、一足先に現実へと回帰した久人がポツリ、呟く。
「今、流行らしいぜ。腐乱系女子」
「だから、そんなのは僕の知ったことじゃねえんだよ!」
 吼えたその声は誰もいない(さすがにもう他に居ないよな?)校舎に反響した。二度目の山彦だったが、しかしそこにまるで価値を見出せない僕がいる……これが感受性の鈍化だろうか。
 まだ十代なのに。ちくしょう。その内にもし僕が何にも感動出来なくなってしまったらコイツらのせいにしてやる。

 さて、仕切り直し。
 僕に久人、そしてかしくを含めた三人は、なぜか僕の机を中心にして(かしくなどは隣の机を我が物顔で椅子代わりにしていた)向かい合っていた。
「で? なんだってかしくは臨時休校なのにココにいるのかな?」
「だから、愚問だって言ってるよね?」
 ニヤリと笑う、少女は鬱陶しそうにその腰まで届く黒髪を右手で払った。シャンプーの残り香らしいベリー系の匂いが辺りに振り撒かれる。
「強いて答えるなら……萌えの匂いがした、ってトコ? うん、アタシの鼻には確かに届いたんだよねえ、二人の男が戯れている時に発する独特の香りが」
 腐乱臭、ってヤツだろうか。僕の鼻にはかしくが纏う女子特有の甘ったるい香りしか届かない訳だが、どうやら彼女の嗅覚は僕らとは根本的に違うらしい。
 人間離れにも程が有るよなあ。
「いや、これくらいは腐女子必須スキルだから。半径一キロくらいは余裕でカバーしてるよね、皆」
「嘘も大概にしろ。じゃなくて。勘弁してくれ。勘弁して下さい」
 そんな臭いをさせたかも知れないのは謝る。でも、もうシャッターチャンスなんか作らないからどうか帰ってくれないだろうか。
 こちらを向いて前の椅子に座る久人を見……いやいや、無いって、男同士とか。ホント、無いから。筋骨隆々なんてむさ苦しいだけだろう?
「質問を取り違えてないか? 俺たちが聞きたいのは、どうして『こんな時』に学校に居るのか、ってンだぜ? 殺人鬼の話……聞いてない訳じゃないだろ、上刎サンよ?」
 久人が話を振ると、待ってましたとばかりに満面の笑みでかしくは頷いた。
「聞いた。萌えるよね」
 ……その特殊な感覚は僕には何度死んで生き返っても理解出来そうに無い。馬鹿は死ななきゃ直らないが、腐女子には死んでもなれそうにない自身に少しほっとする。
 それと同時に不安になった。この女、大丈夫だろうか。頭とか、人生とか。
「違った違った。『燃』えるよね」
 燃える。
 上刎かしくの持つ、特殊な「性癖」はその一言にこれでもかと詰め込まれていた。
「殺人鬼が? 燃える?」
 久人が歯に物を詰まらせたような曖昧な表情で質問したその言葉に、かしくは笑う。
 少女はこれ以上無いほどに、鮮やかに、そして場違いな微笑みを披露した。
「うん、殺人鬼が。燃える。そう言ったよ、アタシは」
 これ以上の異常は無いほどに、かしくは鋭く笑って。
「上刎、お前……言っちゃなんだが気持ち悪いぞ?」
「理解してるよ、藤原クン。言われなくても。でも、抑えられそうにないなあ。アタシはね、ドキドキして仕方無いのさ。殺人鬼。鬼だよ、鬼。サイッコーじゃんね」
 抑える気もきっと無いのだろう。少女はあっけらかんと、殺人鬼の来訪を手放しで喜んでいた。傍から見ても、誰が見てもその表情は演技には取れないだろう。
「何が最高なのか分からんぜ。なんだ? 死にたいのか? 俺たちの年頃によく居る間接的自殺願望の持ち主だったりすんのか、お前?」
 間接的自殺願望。誰かに殺されたいと考える嗜好の事だ。統計など取った事は無いが、久人の言う通り高校生においては比較的患者率は高く、しかしてそれは別に特異なものとも言えない。
 「死にたい」とは人間の根源欲求の一つなのだから。多感な時期であればこそ、そういったものに罹ってしまっても軽度であれば人格的には逆に健全であろう。
 だが――違う。そうじゃない。久人のかしくに対する推測は的外れも良い所。自殺願望? そんな甘っちょろいステージにこの少女はいない。そんなステージを彼女は通り過ぎている。とっくのとうに。
 かしくは黒いストッキングに覆われたすらりと長い足を、その中身が僕に見えるように(間違いない。この女、わざとやってやがる)組み替えて、薄く笑む。
 それはランジェリー姿のチェシャ猫のよう。
「ああ、違う違う。それはアタシの領分じゃないよ、藤原クン。死にたがりは、アタシの属性じゃあない。幾ら欲張りなアタシでも他人の嗜好まで取ろうとは思わないし。自分の嗜好で手一杯、ってね」
「誰か、他に死にたがってるヤツを知ってるのか?」
 久人が間髪入れずそう聞いてきたが、その質問を僕らは黙殺した。
 人にはその人の領域が有る。死にたがりの少女の事は、何がどう間違っても久人の領域とは重ならないだろう。
 そして、それより何より、確認しておきたい事が有る。
「――かしく」
 僕は問い掛けた。
「殺人鬼が出没してるって話は本当なんだね?」
「いえっさ」
 いや、これは聞くまでもない事だ。この少女がこうしてこんな場所に居る以上。
 何か非日常的な事が僕らの住む街に起こっていて、それの捜索を彼女がしている所までの推理は容易だった。
「いつから?」
「今日で八日目かな。ただ、公式発表だから、真偽は分からないけど。八日で八人。一日、一人。律儀にそのルールを守ってるみたい、殺人鬼さんは」
「……ふうん。まあ、気を付けてよ」
 適当に心配しているような言葉を投げてみる。欠片も心は篭っていない。心配など、彼女に関してはするだけ無駄な事を僕は知っていた。そんな僕と少女に怪訝な目を向ける少年一人。
「……何の話してんだ、お前ら? 気を付けるって……何にだよ?」
「いや、久人には関係無いよ」
「そうそう、藤原クンには関係無い話」
 まさか、本当の所を言う訳にもいかないだろうし。きっと……この辺りが線引きだ。
 普通と異常の線引きとして、上等だろう。
 僕とかしくの態度は割とあからさまな拒絶だったと思う。しかし、それに対しての追及は少年の口からは出て来なかった。
「ん……まあ、いいけどな。ただ、危ない橋だけは渡んなよ」
 日頃持て余し気味の好奇心に振り回されるのが常である僕と、同年齢である事実を疑問視してしまいそうな程、久人の分のわきまえ方は高校生離れしている。相手にとって踏み込まれたくない一線が彼の目に見えているかのようだ。
 もしくは、好奇心が欠落しているのか。ああ、こちらの方が有りそうな話かも知れない。
 とは言え、前提が「僕の隣人」であるのだから、ある種それで当然。久人のような普通に普通の高校生が僕のような人間の近くにいる為には、その類の少しずれた感性は必須事項なのだろう。こればかりは選ばれるべくして、と言って言えなくもない。
 しかし、それが稀有な性格なのは間違いないが。
 まあ、つまり僕には友人が少ない。
 モットーは少数精鋭だ。
 その選ばれし精鋭である所の一人。上刎かしくは片膝を立て、そこに両手を寛げながら僕を見ていた。僕を見ながら、けれど久人には一瞥もくれず口を開く。
「危ない橋? それって五条大橋の事? あそこまだ刀狩りなんてやってたんだ?」
 かしく、馬鹿な台詞には目を瞑ってやるから、とりあえずパンツ隠せ。
「……武蔵坊弁慶は不死身じゃあなかっただろ」
「死んだね。すげー死んだね。アタシ的には理想の死に様だよ、弁慶。藤原クン知ってる?」
「弁慶の立ち往生、だったか?」
「そうそう。愛する男を逃がす為、死してなお追っ手の前に立ちふさがる! くぅーっ、痺れるぜ!」
 愛する男、じゃねえよ。義経と弁慶までお前にかかっちゃ変態的恋愛妄想の餌食か。
 ……いや、もう、どうでもいいからホント、パンツ隠せ。
 それは見ろと言われて見たいモンじゃなくて、見せてくれと言って見たいモンなんだ。その辺りの妙、というヤツをどうかこの女には分かって貰いたい。
 押し売りに良い顔をするのは先ず間違いなくマイノリティ(少数派)。そして僕は基本的にマジョリティ(多数派)だ。
 そんな思いを込めて少女を睨み付ける。が、僕はテレパシストではないので彼女がそんな僕の声ならざる訴えに耳を貸すはずも無い。だからと言って、口に出してパンツを隠せと言うのもそれはそれで、何と言うか、こう、憚られるのだった。
 あーあ。人間っていうのは、ほとほと分かり合えないよなあ。
「ん? さっきからなーんかむずむずと視線を感じるんだけど? 主に太ももの付け根の辺りにだね。どうしてかな?」
「むずむず、とか言うな」
 かしくのこういう、おちゃらけた発言にも付き合う事丸一年。大分慣れ親しんだものではあるが、それはだけど僕ばかりであり。久人を見てみろ。真っ赤だろ? いい加減にしておかないとその内に逆セクハラで訴えられるぞ?
「見てもいいし、たっちゃってもいいけどさ。それは自然な反応だし。アタシの溢れる魅力が罪作りってコトでそこは別に何も言わないんだよ」
 作る罪は間違いなくセクシャルハラスメントだ。なんて、脳内で注釈を入れている間にもかしくの妄言は続く。
「でもね。臨戦態勢になったその息子クンは是非、藤原クンに使ってあげて欲しい」
「嫌だよ! だから男同士なんて何が面白いって言うんだ!?」
 でもって真面目腐った顔で腐り切った台詞を口走るんじゃねえよ。
「女に対して使ったら只の生殖行為になっちゃうじゃんか? そこに愛は有るのかい?」
 ……ダメだ。僕とは違う星の言語を使われては先ず意思疎通から困難が過ぎる……。郷に入りては郷に従え、なんて美しい日本語すらもどう伝達していいかすら分からないとか、本当に人間は分かり合えない生き物なのだなあ、としみじみ思う。
 いや、そもそもこの女本当に人間か?
「そこに劣情を伴わないからこそ、お互いを愛する、ただそれだけのピュアな心が輝くのだと、いつになったら理解して貰えるのかなあ?」
 うんうん、と少女は頷いて。悪いけれど僕にはそれをどうしても純愛だとは思えそうにない。
 思いたくもないし。
 気持ち悪い。端的に言って気味が悪い。他人の趣味に口は出さないというのが僕の信条なのだけれど、それにしたってしかし、これは無いなあ。
 ……。
 …………いや、やっぱ無いよ。うん。
「藤原クン」
「え? この話の流れで俺に矛先が向くって、それはどゆ事?」
 そっぽを向いて他人の振りを決め込んでいた久人の額から、分かりやすく血の気が引いていく。そもそも三人しかいない教室で、他人の振りなど通る道理も無い事に、なぜ少年は気付かないのか。
 ああ、馬鹿だからか。
 うん、馬鹿だもんな。
 納得。
「理想なのよね」
 まるで恋する乙女のように、少女は悩ましげに溜息を吐いて。
「藤原クンとシロちゃんの身長差……萌え」
 ……やはり、少女の薄い唇からは妄言しか出ては来なかった。
 もう、その口を縫い付けるべきだと僕は割と本気で思う。食事なんかチューブでいいじゃん。彼女の現在の主食であるファストフードよりは、病院の流動食の方が栄養のバランスもよっぽど優れている事だろう。
 隔離病棟を有する精神病院は近くに無いのが嘆かわしい。
 ちなみに。シロちゃんとは僕のニックネームだ。ちゃん付けは……これはまあ……うん。僕、背がちょっと……その……皆まで言わせないで貰えたら助かる。
「なんだろ。そう、まるで義経と弁慶みたいな! 美女と野獣ならぬ美少年と野獣! これに萌えずにいられるような女は女として失格よね!」
「お前は人として失格だよ」
「誰が野獣だ、誰が」
 ダブルつっこみ。
 でも、野獣発言の方はちょっと否定が厳しい僕がいた事は内緒。チラリ、久人の方を見る。
 羨ましいと、思った事が無いとは言わない。
 男らしい体格。男らしい声。男らしい身長。そういったものを羨んだ事が無いとは、口が裂けても言えない。
 だけど、それは。
 自分には無いものを欲しがるという、それは。
 僕らが日常的に行っている事で。
 それが夢と呼ばれるものと幾ばくの差異も無いと気付いた時に、そういうのは、もう、止めた。
 持ち得ないものを求めるよりも、手に入るものを求める方がまだ建設的だったからだ。
 なんてね。
「何? さっきから弁慶の話ばかりだけれど、かしくはそんなに彼が好きなの?」
「大っ好きぞな。いや、真面目な話。彼は守ったんだからね、力の限りに」
 死してなお、立ちはだかる。
 体中の血液を失おうと、血管に意思だけを流して立ち続ける。そこに憧れる気持ちは僕みたいなのにも少しは理解出来た。
 僕みたいな人でなしにも、そんなものに共感出来るような人間らしさが少しとは言え残っていた事に……いや、これこそ本当に妄言だ。残っている訳、ないのだろうな。
 これは、一年前の僕の残滓でしか……きっと、そうだ。ただの懐古。よくある回顧。
「愛する男を!」
 ……あれ?
 ……真面目な話じゃなかったの?
 ……ちょっと感動しそうな僕が居ただけに彼女の言葉は落胆も良いところ。うんざりと口を開く。
「……かしくは生き様そのものが立ち往生だから、いまさら弁慶に憧れなくても大丈夫だよ」
「そう? そんなん真正面から言われるとさしものアタシも照れちゃうなあ」
 えへへ、困ったなこりゃ、などと口にしながら頬を分かり易く赤く染め、少女は頭を掻いた。
 ……ああ、コイツも馬鹿だ。分かってはいたけどやっぱり類友だ……。
 立ち往生。
 褒め言葉としての用法こそレアケースである。
「確かに。上刎とはこれまであんまり話した事無かったけども、なんかこうやって話してみると存在が常に大往生、って感じたよな」
 大往生。
 褒め言葉でなど決して有りはしない。
「殺すな殺すな」
「くひひ。だが、割と的を射ている気がするねえ、我ながら」
「違いない。人生万事天中殺、とかそんな言葉をかしくと話してると頭に浮かべずにはいられないからな」
「あ……あれ? もしかして、さっきからアタシ、地味に馬鹿にされてる?」
 気付くのが遅いと思う。僕と久人は顔を見合わせて笑った。まるで友人同士であるかのように。悪友のように、笑い合った。
「でもさ」
 僕は言う。
「死ぬんなら大往生は理想だな。一人で、勝手に、死にたくない?」
「そうかな」
 彼は言う。
「死ぬんなら誰かに殺されたいね」
「いやいや」
 彼女は言う。
「死ぬんなら誰かを守って死ぬべきでしょ」
 三者三様、僕らの価値観は違う。
 一人一人、違う顔で、違う名前で、違う心を持って産まれている。
 この世界の、不思議。

 「さて、と。それじゃアタシはもう行くね。ここに居ても実りは無さそうだし。期待外れだったなあ。まったく、もう」
 勝手に期待しておいて何を言うか。僕がそう詰るよりも早く、かしくは座り込んだ姿勢から折り畳んだ左足で机を蹴った。跳躍する。机の脚が軋む音をバックグラウンドミュージックに、教室の端、窓際まで彼女は跳んだ。
 僕の机は廊下側。目算、約五メートル。縦で言うなら天井スレスレを。助走無し、構え無しで。純粋な脚力のみをもって少女は跳び越えた。
 相変わらず、出鱈目な身体能力である。
「アイツって人間かどうか、たまに疑わしくなるよな」
 対面で久人がしみじみと呟く。僕から見れば久人も十分にハイスペックではあるのだが、それでもかしくは次元が違う。
 住んでいるステージが、そもそも久人とかしくでは違うのだからそれは詮無い話だろうけれど。
「疑問を抱くのは同意するけれど、それでも辛うじて人間ではあるだろうね。黒のガーターベルトなんて人間の女の子じゃないと付けないさ」
「見たのか?」
「跳んだ時にチラッとね。故意じゃない。偶然見えたんだよ。いや、見せたんだろうな。となるとやっぱり故意なのかも知れない。にしたって『僕の故意』じゃない」
 かしくの方を見ながら、ぼんやりと言う。少女は窓を開け放ち、スリッパから外履きに履き替えている所だった。
 足をゆるゆると扇情的に上げて。一々、僕の視線の先に「そういうの」を配置するのは忘れずに。何のサービスかは知らないが、まるで嬉しくないのだからそれは単なる押し付けでしかない。
 ここで嬉しがっては負け。人として。
「俺の方からはまるっきり見えなかったぜ?」
「見せても良い相手、っていうのが決まってるんじゃないの、かしくの中では?」
 いやはや、迷惑な話だ。どこをどう間違えて僕はアイツのターゲットにされたのだろう。
 記憶に御座いません。
「ちなみに、下着の色は?」
「ストッキングと同じ。黒のレース……久人? 聞いてどうするの、そんな事?」
「いや、こういうのは聞いておかないとな。お約束っつーか、予定調和っつーか、なんかそんなトコだ」
「……へえ」
 チラリと横目で少年を覗けば、彼も僕と同じで少女に視線を向けていた。頬杖を突いて、見つめていた。
 ゆっくりと、久人は口を開く。
「黙ってれば……日本人形みたいに綺麗なんだけどな、上刎」
 それは僕も度々思う。「美人」という言葉も「残念な」が付くと大分意味合いが変わってくるというのは、かしくと付き合い出してから学んだ事だ。
「あ、シロちゃん。いや、藤原クンでもいいけどさ。アタシが行ったら窓閉めておいてよ!」
「アイアイ、マム」
「それじゃね。新たな萌えがアタシを呼んでいるっぽいからこれにてしつれー」
 少女は窓の桟に足を掛けて見事な脚線美を僕らに披露し、そこで何かを思い出したように振り向いた。
「ああ、シロちゃん。ともちゃんが最近会いに来ない、って怒ってたよ。そろそろ顔見せに行ってあげたら?」
 それが捨て台詞。今度こそ彼女は窓枠を蹴って、跳び出した。
 何も無い、中空に。黒く長いストレートの髪をさせるがままに秋風に遊ばせて。
 ――ここは三階。
「……ホント、出鱈目だよな」
 久人はうんざりと、言った。僕たちの視線の先には揺れるカーテンばかりでそこに少女の姿は既に無い。
「まあ、かしくだし」
「そんな一言で済ませようとするお前も大分毒されてるぞ? 考えてもみろ。どこの世界の高校生が……あーっと、十メートルくらいか? の自由落下をして無事に済み、いや、百歩譲って無事であったとしてもその行為を日常的に下校手段として採用するとか……オカしいだろ?」
 なるほど、久人の言う事は正しい。その訴えに僕としては異論を挟めない。
 どこの世界の。なんて言われなくても、分かっているさ。
 少年の世界では、かしくのような存在は。
 異常で。
 異端で。
 異質で。
 つまり。
 藤原久人と上刎かしくの住んでいる世界は異なっている。
 そんな事は分かり切っていた。
「あの女は……オカしいよ」
 吐き捨てるように。耳に届いた少年の声は聞こえていない振りをして、僕は席を立つ。無論、かしくの開けた窓を閉める為だ。
「類は友を呼ぶ、ってさ」
 開いた窓から戯れに頭を出してみる。グラウンドには、もうかしくの姿は無かった。きっと新たな萌えとやらに突っ掛かりに行ったのだろう。思い浮かべた四文字熟語は近所迷惑。
「金言だよね」
「なんだ? 何が言いたいんだ、お前。上刎の友人である自分にもそこから飛び降りるのなんか朝飯前……とでも言いたいのか? 普通はな、そーいうの自殺って言うんだよ」
「いやいや、違う。僕にはそんな真似は出来ないよ。出来ない」
「だよな……ああ、ビビった」
 でも。
 でも、久人は知らないけれど。
 僕はもっと高い所から飛び降りている、その最中。
 口には、出さない。言っても、仕方が無いから。
 誰かに助けて貰おうとも思ってはいない。差し出された手を、きっと僕は払いのける事だって目に見えている。
「あれ? そういやさ。そもそも上刎は臨時休校の学校にどんな用が有って来てたんだ?」
「かしくの言葉を借りれば、そこに萌えの匂いがしたから、じゃない?」
「な訳ねーだろ。上刎の足がいくら速かろうと、あのタイミングで出没出来る道理なんざない。そう考えると……アイツは、はなっから学校に来ていたんだよ」
「そうだね」
 適当に相槌を打ちながら窓枠に腰掛ける。注意深く上半身を外に傾けると、途端、気持ちのいい風が僕を包んだ。
 微かに紅葉の香りがする。呼び起こされる苦い記憶。ああ、そうか。もう、そんな季節か。そうだよな。よくよく思い返せばあれから一年も経つんだ。
「でも、だ。そんなのは尋常じゃないだろ。だって」
「今、市内には殺人鬼が闊歩しているから?」
「ああ……ああ、そうだ」
「……ふうん」
 僕は少しづつ背筋を逸らしていく。バランスを崩さないようにしながら。
「まあ、かしくだし」
「だから、その一言でなんでも済ませられると……」
「久人」
 その内に、視界では天地が逆転していた。
「殺人鬼、なんて。言っても所詮、人間じゃないか」
「人間? 俺らと同じ、か?」
「そ。同じ。鬼なんて付いても鬼じゃあない。鬼の名前を借りた只の連続殺人犯、だよ。だったら」
 少し、頭に血が上って朦朧としてきたが、けれどそれは耐えられないようなモノじゃない。
 どころか、心地良いくらい。日常では味わえない感覚はどうにも癖になる。
「だったら、かしくなら大丈夫。知ってると思うけど彼女は人間離れしてるから。久人が危惧してるのは、きっとこういう事だろう?」
 眼上の街は、殺人鬼に怯えているのかとても静かで。眼下の秋空は青く清んで、海のようだ。
 動いているものがちょっと視界には見当たらないから、世界に二人しかいないように錯覚してしまいそう。それが錯覚だなんて理解しているけれど、僕はそこに溺れてしまいたくなるんだ。
「上刎かしく――喧嘩中毒者(バトルジャンキー)は殺人鬼と喧嘩をしたがっていて、それであちこち徘徊しているんじゃないのか、ってさ」
 身体を起こすと、天地が戻ってくる。身体の血液が正常に回り始め、なぜだろう、そこに喪失感を覚えた。
 日常は居場所として温過ぎて。日常はつまらない。脳味噌はそう訴えてきている。いけないな。非日常がどうも癖になっているみたいだ。これじゃ少女の事を何も言えやしない。
「ああ。なんだ、気付いてたのかよ」
「事の真偽はかしくに聞いてみるしかないけれど、ともあれ、学校の近くには確かに居たのだろうね」
 殺人鬼の出没する街に、嬉々としてたった一人で。
「……俺もさ。上刎は多分、さっきお前が言った通りで殺人鬼を探してるんだと、そう、思ったんだよ。でもな」
「でも、何?」
「普通、有り得ないだろ、そんなの。だってよ、相手は殺人鬼だぜ? 人殺しだぜ? そんなのに、なんで自分から向かっていくんだよ。突っかかっていくんだよ。超意味分かんねえじゃん」
「ん……まあね。その辺りの感覚はかしくにしか分かんないよ。共感するのも、彼女が対象じゃ無理な話だし」
 僕は嘯いて、久人の座っている席に近付く。
「そろそろ帰ろう。かしくなら心配無いから。保証する。それよりも、だ。実はも何も僕たちの身の方が危ないだろ?」
「そりゃ……そうだな」
 絵に描いたような憮然とした表情で、かしくの件に納得いっていないのは誰が見ても明らかだった。それでも久人は帰宅の旨に関しては了承したらしい。
「確かに、そうだ」
「もしも久人がこのまま学校に居座りたいなら悪いけれど、僕は殺人鬼に興味は無いよ。関心も無い。だから先に帰らせて貰う」
「俺だって無えよ。っと、待て待て。置いてくんじゃねえ。一緒に帰ろうぜ……ああ、そうだ、角隠(ツノカクシ)」
 珍しく名前で呼ばれ、何事かと構えた所に鞄が投げ込まれた。それは計算されたように、僕の両手の中にすっぽりと納まる。そっぽ向いてシュート、の応用だろう。
「鞄さんきゅ。で、何?」
「お前、上刎とは連絡取り合う仲なんだろ?」
「そうだね。彼女の電話番号くらいは知ってる。それが?」
「だったらさ。俺の代わりに気を付けろって言っといてくれよ。アイツみたいなスーパーウーマンには余計なお世話かもしんないけどさ」
 久人は肩に自分の鞄を担ぎ、そして僕の肩を軽く小突いた。
「アイツだって……そりゃすげえけど、それでもやっぱ、な」

「女の子だし」

 ああ、なるほど。
 藤原久人。
 彼は……いいやつなのか。
 いいやつだから。
 だから、僕は彼の友達にはなれないのだろうな。
 解り合っては、染め合ってしまうから。
 同じステージに立たなければ、友情は、成り立たない。

       

表紙

きすいと 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha