「夏休みの宿題について説明します。夏休みの宿題っていうか課題は――」
三時間目くらいの、すごく中途半端な時間の授業――ってか、終業式前恒例の学級会議みたいなのってなんでこんなに眠いんだろうって思いながら、俺は静かにハゲ担任の言葉を聞くフリだけして脳みそだけ眠らせている。
ってかこういう状態って無い? あまりにも眠くて、聞いてる演技をしつつぼーっとしているっていうか、もうむしろ寝ているような状態。頭の中がまわりの音声を認識してないって感じ。なんか脳みそだけ寝てて、体は起きてるような、そんな。
ああ、思考能力が落ちている。うっかりしてプリントを落としかける。
「んじゃー安西からこういう順番で、プリント音読ー」
「はーい、えーっと、夏休みの約束。1、夏休みには村祭りなどの行事が多く――」
っていうかいつも思うが、夏休み前に配られる「夏休みの約束」的なプリントって必要あるのか? どう考えても常識しか書いていないし、当たり前すぎて言うまでも無いような内容ばっかりじゃん。 それを八年間も毎年毎年読み合わさせて、教師も面倒くさくないのだろうか。
ぼんやりと窓の外の空を見上げる。少し霞がかかったような空の青色。近くの山々の向こうの空に、手を伸ばせば届きそうなぐらい立体感のある入道雲が見える。
俺はいまだに、雲が水蒸気の塊だと信じられない。だって、どう見てもふわふわしているから。上に乗れそうなくらいに質感があるから。
俺は大あくびをした。
俺の住んでいる田舎町には学校が一つしか無い。それがこの西小・中学校である。この学校は小学校と中学校が一緒になったもので、いわゆる小中一貫制ってやつである。
まあそう言うと大層な物に聞こえるが、ただ単に村の子供が少ないからそうせざるを得ないと言うのが一番の理由だ。
校舎は昔懐かしな感じが漂う、映画にでも出てきそうなくらいに古臭い木造の校舎。山際にあって、校庭がだだっ広い。まわりは数件の民家と畑に囲まれている。ちなみに耐震対策は微妙である。この前あった小さな地震で昇降口の上にある時計を風雨から守るための屋根がぼろりと落ちた。幸いにも夜だったからケガ人は出なかったものの、これが俺たちの登校する時間とかぶっていたらと考えると、それこそ大変なことである。
生徒数は小学部で四十七名、中学部で三十六名。職員数は用務員をあわせて9名。生徒の人数のわりに多いように思われるけど、内一名が用務員で、ほかの八名で全クラスの担任をしたり教科担任をしたりして忙しそうだ。
田舎町は嫌いじゃない。でも、やっぱりテレビとかで見るような部活とか、演劇コンクールや合唱コンクールをしてみたい。そういう青春を送りたいって思うこともある。
でもぶっちゃけ、あきらめ気味でもある。こんだけ生徒数が少ない上で合唱コンクールとか演劇コンクールとかやっても、悲惨な結果になるのは目に見えているんだから。
ただ、部活ぐらいはやりたいよなあ。部活は少人数でもできるんだから。部員が十人しかいない吹奏楽部とかも聞いたことがあるし。ま、大人の事情ってやつなんだろうな。
田舎町の夏。春生まれの俺が生まれて、十四回目の夏。今年もうだるような暑さを近所の沢で過ごすのだろう。
近所の森の中の沢はとっても水が冷たくて、気持ちいい。人がいないのがまたいいんだ、あそこは。
――まあ、人はいない。人間はいないけど、ね。
口元が緩む。同時に浮かんでくる、人ではない友人の顔。
――今日こそ会えるかなあ。
夏の昼前。外からはまだ大人しい蝉の声が聞こえ、太陽は次第に力をつけて行く。夏の真っ盛りのころとまでは行かないが、やはりなかなかに暑い。じっとりと湿気が肌を包む。肌が結露しているような気がする。だが幽かに開けた窓から流れてくる風は近くの森で冷やされたのか冷房のように冷たかった。
でももうしばらくしたらこの涼しい風も、森の冷却機能は夏の日差しに負けて熱風となるだろう。そうなる前に楽しんでおくのがこの季節の過ごし方だ。涼しいうちに、涼んでおく。それで、夏の暑さを耐え忍ぶ。
ああ、風が気持ちいい――。
「はい次……おーい……おーい吉野、聞いてるか?」
「わっ」
ハゲ担任がいきなり俺に声をかける。「なんですか?」と言ったらクラスに笑い声が広がった。隣の席の山田という女の子がくすくす笑いながら教えてくれたのだが、どうやら先生がプリントの読み合わせのために生徒たちに句点で区切ってプリントの文章を読ませているらしく、席順的に俺が次の行を読むはずが、ぼーっとしていて気付かなかった、というわけらしい。
「目ぇ開けながら寝てたの?」
山田が前髪の隙間から好奇心に満ちた目を俺に向けてくる。全くその通りである。俺は頭を掻いた。
「悪ィな、そうみたい」
「へえ、器用だねー。普段はハサミも上手に使えないのにね?」
余計なお世話だと言おうとしたところで、ハゲが俺に「早く読め」とわりと厳しめの口調で言う。俺はあわてて机の上に広げられた無数のプリントのうち一つを適当に取って読み上げる。
「なっ、夏休みの約束!」
「そこはもう安西が読んだぞー」
「あっ」
目を遣ると、出席番号が一番早い安西が俺を見てにやにやしながら手を振っている。坊主頭に光があたってテカテカしている。笑うなハゲ。あっ、担任も笑った。お前も笑うなハゲ。
「おいー、吉野はやくよめしー」
クラスで一番足が速い幡野がにやつきながらもバンバンと足を床に踏み鳴らして抗議する。きっとヤツは早く授業を終わらせて走り回りたいのだろう。
なんだか妙な恥ずかしさにかられ、俺はプリントを置いた。すかさず山田がどこを読めばいいのか教えてくれたから助かった。
「ほらここ、最後から五番目のやつ」
「さんきゅ、助かった」
山田が指差したところにかかれている一文。内容は、「外出時の約束」について。
「外出する際は必ず親に許可を取り、行き先と帰りの時間を伝えるようにしましょう!」
小学生のころから長期の休みのたびに言われ続けているこの一言。心の中で「そんなことするかよ」と思いつつ、声高々に読み上げた。
「よし、元気でいいぞ。さっきまで寝てたやつとは思えないくらいだ」
担任の一言に、俺は真っ赤になってうつむく。クラスからまた笑い声が上がった。
*
散々恥かいた帰り道。なんか他のクラスにも俺のボケ話が伝わっているらしく、廊下を歩くと指差されて笑われた。ものすごく恥ずかしかった。
「ねえ、今日吉野がさ……」
「えー、ほんと? そんなヤツなのアイツ?」
ってか指差して笑うやつも笑うやつだ。おかげで逃げるように飛び出してしまい、上履きを学校に忘れた。戻る気になんてなれるわけない。
大体話にいらんおまけがつきすぎているのだ。
「よだれたらして寝てた」
ならまだいいけれど(実際ちょっと垂れたから)、
「よだれ垂らして寝てて、先生に話しかけられた瞬間に『もう朝?』とか言ってたって」
っていうのはちょっと言いすぎなんじゃねえの? 誇張表現じゃねえの?
まあ、今日から夏休みだ。「1」だらけの通知表はかばんの中で異常な重さを持っているけれど、ずっと笑われ続ける恥ずかしさにくらべたらどうってことないじゃないか。
でもまあどうせ夏休みが終わればみんなも俺の恥ずかし話を忘れるわけだから――でも忘れてなかったらどうしよう。そう考えるとまた恥ずかしくなって、俺は畑の真ん中で頭を抱えた。全く、今に始まったことじゃないけど俺はバカだ。
広い農道を、白く土で薄汚れたトラックが排気音をブロロロと鳴らしつつのんきに走っていった。荷台にはたくさんの木を切るための機材を載せて。そういえば、近所の竹山さんが自分の土地にある荒れ放題の竹やぶを切り開いて畑を作るとかなんとか言っていた気がする。
「はあ……」
まあ、どうこう考えても自分が悪いんだ。なるようになれだ。
空に向かってため息をついたとき、家の鍵を忘れたことに気付いた。
「あっ」
一応かばんを開けて調べてみるが、いくらひっくり返しても無い。ポケットの中も探したけれど、無いものが見つかるはずも無い。
これは参った。よくよく考えれば、今朝母親に「今日から社員旅行だから、三日くらい家あけるね」と言われていたのだ。でもいつも鍵を持ち歩いていない俺はうっかり鍵を、そう、玄関脇のキーボックスに入れたままにしていた。しかも思い出してみればあのキーボックス、半年以上あけていない。これは俺が悪いとしか言いようが無いな。
頼みの綱である妹は最近あんまり家に帰ってこない。なんか彼氏ができたそうで、そいつの家に行っているらしいのだ。彼氏の家は知らないし、行きようがない。そもそも妹が家の鍵を持っているか? 持っていないと思う。
うちの両親は特別用心深いから、絶対に家の鍵は全て閉まっている。この村に、俺の親戚はいない。隣町まで行けばいるにはいるのだが、隣町まで行くバスはとっくのとうに終わっている。高い山と深い森の中の田舎町のバスは一日一本しかないのだ。
――参ったなあ。
とりあえず、一度家に行ってみて全ての雨戸やら窓やらが開いていないか確かめよう。
でも、全部開いていない可能性のほうが高い。だめだったら、もう最後の手段として親友の家に行くしかない。
そう考えると、ちょっとだけだけど――家の窓が一つも開いていないでほしいなって思った。
案の定、家の窓は一つも開いていなかった。屋根に上って屋根裏の窓まで確認したけど、ご丁寧なことに全て鍵がかけられ、所によってはかんぬきまでかけられていたのだ。なんか異常だ。いや、うちでは通常だ。
さて、家からは閉め出されたようなものである。
逆に言えば、俺はこの村の中で自由になった。何をしても親は知らないのだ。許可なしで外泊だってできてしまう。お金は少し持っているから、好きなものを買い食いしたりできる。一日中遊んだって誰にも怒られない。まさに自由。
だが、気弱な俺は自由になったからといってそんなにバカをする気にはなれなかった。万引きとかはしちゃいけないと思うし、他人の家に迷惑をかけるわけにも行かないからそんなに人の家におじゃましたくもない。遊ぶような年齢でもない。
となると行くところは一つ、森の沢になるのだが――ちょっと遠いから、一回一休みして、学校までの三十分の往復の道と今日の大恥で疲れた心を癒し、それからいこうと思う。
とりあえず、家の玄関わきの水道で顔を洗った。水は思ったよりも冷たかったとはいえ、生ぬるい。ねっとりとからみつくような水だけれども、ぜいたくは言ってられない。きれいな水であればいい。
「おーい、正輝くーん」
ふと名前を呼ばれて振り返ると、家の前の農道に見覚えのある軽トラが停まっている。水のしずくが地面に落ちた時、軽トラの窓からひょっこり出てくる頭。
「どーした、珍しいじゃないか家の前で洗顔なんて。親に閉め出されたか?」
麦藁帽子をかぶった、日焼けしたおばさん。クラスメイトの田村んとこのおばさんだ。この人は人が良くて、いつも頼りにしている。
「閉め出されたわけじゃないんですけど……」
「そういや美津子さんが社員旅行だかなんだか言ってたねえ……まさか、鍵忘れたとか?」
ご明察である。苦笑いして頷くと、おばさんは大笑いした。
「じゃ、家入れないわけだ」
「そうなんですよねー。ほんとバカで困りますね」
こんなことになるなら庭の植木鉢の中に鍵を隠してればよかったかもしれない。だが、なってしまったことに取り返しはつかない。おばさんは人のいい笑顔で「そういえば」と言う。
「今日学校で居眠りして、寝ぼけて先生とお母さん間違えたんだって?」
――そんなことになってたのか。
「いや、たしかに寝てましたけど……」
「いいのいいの、間違いは誰にだってあるよ」
弁解の余地すら与えられない俺に、おばさんはおにぎりを二つ投げてくれた。
「昼飯に食いなー、ごめんね、泊めてあげたいけどうち家族多くて」
「ああ、いいんです……ありがとうございます!」
じゃあねー、と言いながら軽トラが離れていく。進む方角はこの村唯一の住宅街だ。田村の家は父、母、父方の両親、母方の両親、そして七人兄弟と家族が多く、それが小さな家に住んでいる。それでも人のいいおばさんは家に入れない俺を家に泊めようと考えてくれた。ありがたくて涙が出る。
とりあえずラップに包まれたおにぎりをかばんにしまって、俺はまた水を両手で受け、ばしゃばしゃ音を立てて顔を洗った。
田んぼの真ん中にあるって言ってもおかしくないくらい他の家からはなれたところにある俺の家は築五十年の日本家屋である。
築五十年とはいっても何度も改修工事を行ったから耐震対策とかはばっちりなのだが、ちょっとたてつけが悪く障子が開きにくかったり、扉が勝手に開いてしまったり、理解不能な設計があったりする。
だって、玄関のとなりに風呂があるんだもん。しかも風呂の水はいまだに薪で炊いていて、その水はこの水道から出している。蛇口も無いのだ。
なぜ風呂だけは昔のままなんだと両親に聞いたことがあるが、風水的に悪いだかなんだか言っていた気がする。つまり、詳しいことは忘れた。
顔を洗ったらとりあえずはさっぱりした。思春期らしいにきび面には洗顔が一番だ。少しずつ冷たくなってきた水をがぶがぶ飲み、一息ついて、頭も洗ってしまう。服がだいぶ濡れたけれどもそれが逆に気持ちよかった。
髪は短いからすぐに乾く。だが濡れた服はなかなか乾かない。沢に着くまで、乾かないといい。そうすれば少し涼しい。だが森は涼しいから逆に寒くなってしまうかもしれない。
さっきと比べて、蝉の鳴き声が強くなってきたな。それだけ夏に近づいているということだろう。この一瞬にも、夏はゆっくりと日本列島に歩み寄ってきているのだ。
清清しい気持ちで空を見上げると、光が目にしみて痛かった。
夏が、来る。
水底に沈む
一話 御封じの森
山に囲まれた土地というのは、夏は暑く冬は寒い。そんなことは覚悟の上で生きているけれど、俺は毎年信じてもいない神様に祈る。
――どうか明日は今日より涼しい日でありますように!
だが、空に向かって叫んだ祈りも湿気をたくさん含んだ空気に消えるだけで、神様は答えてくれなかった。
俺の住む町は四方を山で囲まれている。それぞれの山には名前があり、東西南北の順に鈴姫山、春姫山、白姫山、彩姫山という。それぞれの山はそれぞれに山の名前にちなんだ伝説を持っていて、それが民俗学的に相当な意味があるらしい。
具体的に言うと、鈴姫山には歌が上手い姫様の伝説、春姫山には春に生まれた女の子の伝説、白姫山には白蛇に見初められた娘の伝説、彩姫山には妖怪退治をした姫の伝説があるのだ。地元では「四姫伝説」と呼ばれていて、山もまとめて四姫山と呼ばれる。
民俗学に興味の無い俺からすれば、とってもどうでもいい伝説である。でもクラスメイトの一人によると、この四つの伝説にこめられた謎を解いて全てを関連させると、伝説の神獣の遺体の隠し場所がわかるとかなんとか。なんという御伽噺だろう。
まず伝説の神獣っていうのがわからない。友人の話によると、その肉を少し食べただけで全ての病やケガがたちどころに治ると言われている妖怪の死体らしい。そんなすごい妖怪が死ぬのかって、まずそれが疑問だけど。
まあでも、興味がないわけではない。誰だって宝探しという言葉が持つ独特のわくわく感には憧れる。男子なら当然だ。
舗装されていない土埃の舞う道を歩く。夏の匂いというのだろうか、どこかしけった、しかし乾燥し切ったような不思議なにおいがあたりを包む。春の花の匂いや冬の煤のにおいとは違う、水のにおいに似た匂い。俺の大好きな匂いだ。
あぜ道を、虫取り網を持った少年たちが走っていく。白いランニングに黒い半ズボンをはいて麦わら帽子を被り、まだ日焼けを始めたころの少年の全身からは夏の雰囲気が漂っている。
少女たちは少年から渡された虫かごを持ち、その後ろを追いかける。白いワンピースが目に鮮やかだ。俺は不意に教科書に載っていた一つの小説を思い出す。
俺が今向かっているのは町の真北の彩姫山だ。
彩姫山は四つの山の内で最も未開の土地が多い場所である。理由は山中に深い樹海があり、重装備でないと深部まで立ち入れないという事。彩姫山の樹海は富士の樹海に相当するか、それ以上に深く、方位磁針も役に立たなくなる。
だから正確な地図は一つも無い。正確ではないが、途中までの地図ならあるのだが、同じような木々が立ち並ぶ中ではどこがどこだかわからなくなり、しまいには迷って飢え死に、というわけだ。
あそこの山に、例の「宝探し」の件で入っていった遺跡荒らしや研究家、考古学者は多い。だが彼らの内で帰ってきたのはたったの三名のみで、三名ともわけのわからないことをつぶやきつつ死んでしまった。三人に共通しているのは、体に無数の傷があるのと気が狂ってしまったことで、あとは三人の山に入った時代も性別も違う。
なかでも有名なのは二人目の女で、こいつは明治時代に山に入ったらしい。気丈で頭の良い、各方面から期待されていた学生だったという話だ。
山に入ったときは十人の友人を従えて「すぐに宝を抱えて帰ってくる」と言っていたそうだが、山を出た時には素裸で、仲間の一人の首を抱えて半狂乱になり「水底に赤が」と叫んでいたそうだ。彼女もそれから三日後に死んだ。破傷風だったそうだが、三日間も悶え苦しんだ末に死んだなんて恐ろしい。
そんなことが何度もあったから、彩姫山の樹海は「御封じの森」と呼ばれている。いや、もしかしたらかなり昔からそう呼ばれているのかもしれない。御封じの森という言葉が馬鹿たちの好奇心を刺激し、ますます事件を連鎖させてしまっているのかもしれない。
まあ――どちらにせよ、俺は全ての原因を知っているのだが。
ぼわぼわと草の生えたあぜ道やぬかるんだ農道を一時間ほど歩き続けると、北の樹海の入り口に着いた。この付近は旧民家を数軒残すのみで、あとは荒地同然だ。この御封じの森には相当なことが無い限り誰も近寄らない。
そりゃあ、馬鹿じゃなければ誰だって入ったら出て来られない森なんかに近づきたくないだろう。ここに入るのは俺だけ。俺の、いわば巨大な秘密基地みたいなものである。農道も途切れ、砂利と少しこげた土ばかりの土地を俺は歩いて行く。
樹海の様子をたとえるとするならば、育ちすぎたブロッコリーが町にいきなり現れるような感じだ。どういうわけか少しずつ木々が生えるというわけではなくて、植林したかのように突然に現れる巨木の数々。今の今まではのどかな田舎町だったのに、映画のセットみたいに唐突に始まる樹海は明らかに異質のもの。だがそれが、彩姫山樹海、通称「御封じの森」なのだ。
樹海のまわりは小さな鳥居や謎の立て札、破魔の札などが貼られた鉄製のフェンスなどで囲われている。色あせた立て札には「立ち入り禁止」と書いてあり、フェンスは緑色の塗装が剥げて、赤錆に侵食されはじめている。ところどころに有刺鉄線が張られたりして、いかにも「立ち入り禁止区域」な雰囲気だ。
だがこれは、地元民たちが何の気なしに作ったただの仕切りに過ぎない。本当の、領域としての区切りは別にある。
それがこの町では有名な「大鳥居」である。黒に近い緑色の森を背景に、一点、すぐにそれとわかる巨大な赤色。町の反対側にいてもわかると言われているくらいに色鮮やかで、非常に目立つ。
なんでも遠く離れた所のありがたい御神木を切って作ったらしく、高さは二十メートル近くある。塗られている紅い塗料はこの鳥居が作られた江戸時代から一度も塗り替えられていないそうだが、全く色あせない鮮血のような赤色である。
聞いた話によれば、江戸時代、御封じの森付近にあった小さな集落が大火事になってほとんど燃え尽きた際もできたばかりのころのこの鳥居だけは焼けなかったそうだ。まわりが火の海に包まれる中、鳥居だけが静かに立っている。そんな風景を想像するたび、俺の心臓がドクンと跳ねる。
――めちゃくちゃかっこいい風景だろうな。
俺は鳥居の下に立ち、鳥居を見上げる。何度見てもこの鳥居の雰囲気には気おされる。ただの建造物なのに、偉大な人物の前に立っているときのように自分が恥ずかしくなったりなさけなくなったりする。それだけ作った人が偉大なのだろうか、俺にはわからない。
何より、この鳥居の異様なのは柱の間に巨大な注連縄がかけてあることだ。
この注連縄、大人が三人がかりで抱えてやっと抱えきれるぐらいの太さがあり、これもまた古い物で一度も替えられていないのだが少しも劣化していない。わらの色をした特製の注連縄と鳥居がある森というのは、毎日のように来ている俺でもやっぱり恐い。
まるで下界と樹海を区別するかのようにおかれた鳥居は、今日も静かに俺を見下ろしていた。
――また馬鹿な人間が来たぞ、とでも言うようだ。
俺は初めてここに来たときのように、鳥居に向かって深く礼をする。
「今日も、沢までの道を安全に過ごせますように!」
声高々にそう叫ぶと、何百年もこの町を見守っている鳥居が微笑んだ気がした。
巨大な注連縄をくぐるとしばらくは石畳が敷かれているが、やがてそれも途切れて獣道になる。半分は俺がつけた道で、半分は俺の友達が作ってくれたものだ。彼は草刈りなどが得意だから、俺が足の皮膚を切らないようにと草を切ってくれた。ありがたい話である。
ここに入るといつも思うのだが、木々が生い茂って空が見えないくらいになっているせいか、真夏でも異常に涼しい。時々寒いと思うくらいだ。まるで冷蔵庫の中のように冷え込み、ひどい日なんかは唇が真っ青になってしまう。
ここの樹海は本当に人間の手が入っていないから、木は奇妙なほどによく伸び、ときどき巨大なキノコやトンボなどを見る。一度なんかは絶滅したはずの狼を見かけてしまった。恐ろしいが、見てしまったもんは見てしまったのだ。
足元に生えている草は踏んでもすぐにまたまっすぐに戻る。生命力の強さが、下界のそれとは比べ物にならない。
一歩一歩を、俺は慎重に歩いた。この森ではすぐに方向感覚を失ってしまう。たよりとなるのはこの獣道と己の勘だけだ。幸いにも、俺は勘だけは良い。あとは人間コンパスと言われるくらいに方向感覚が優れている。
でも、どんなに熟練した探索家でも遭難してしまう森だ。俺みたいな中学生男子が遭難しない保障も無い。
半袖の腕に刺すようにつめたい風がぶつかり、はじけていく。俺は自分の体を抱きしめるようにして歩いて行く。カバンが、すごく邪魔だった。
足元はぬかるんでいる。湿地なのだ。この湿地を抜けてしばらく歩くと、高さが一メートルくらいの岩の崖がまるで階段のように連続する場所に着く。それを下りきると巨大な崖がある。そこを右に曲がり、岩地蔵のところを左に曲がってしばらくしたらさらに左に曲がった所に、沢はある。
つまりは崖のまわりを大回りして、崖の上の大きな池から水が落ちてくるところまで行く、というわけだ。
歩きながら毎度毎度思うが、この道のり、けっこう大変だ。巨大な崖を大回りする、と言葉にしてしまえばものすごく簡単なのだが、実際に歩いてみれば当然ながらけっこうな距離があり、早いときでも一時間、遅くて三時間はかかってしまう。
まあ帰路は簡単だ。友達が送ってくれるから、気持ち的にも、そして距離的にも近くなる。だから辛いのは行く道だけで、帰り道はむしろ楽しい。だからこれを過ぎてしまえば、あとは楽しいことだらけ。そうでもしないとこの長い道のり、精神的に辛い。
今日の森は少し賑やかだった。鳥はいつもよりも元気に飛び回って、風は木々を揺らして踊る。岩から湧き出している泉のまわりに獣たちは集まり、どこからか幽かに歌う声も聞こえてきた。
――あの声は山姫かな。それとも、木霊たちかな。
木の幹に大きな蝶がとまっていた。青色の羽を持つ、美しい姿の蝶である。たおやかな翅をゆっくりと揺らし、木から染み出る樹液を吸っていた。
その時、俺は気付く。俺しか通らないはずの獣道に、明らかに俺の物ではない、深い足跡があることに。しかもそれはまだ少し地中から染み出す水分で湿っていて、存在を主張している。
――この道、近い内に誰か通ってる。
俺がこの前この森に来たのは数週間前である。珍しい時期にある期末テストのおかげでなかなかここに来れなかったのだ。だから、足跡が湿っていることはありえない。二日もたてば表面が乾いて、白くなるはずなのである。
一瞬、俺はこの森を壊そうとしている侵入者の可能性を考えたが――それだったら、森の精や獣たちがこんなに落ち着いているわけが無い。それじゃあ、また誰か冒険しに入ってきて、死んだのか。
もしかしたら、それが理由で森が少し賑やかなのか? 獣たちは人間の死を喜ぶから。
居ても立ってもいられない気分になった。せめて俺がこの町にいる間、つまり俺が生きているあと七十年か八十年の間は――誰もこの森で死んでほしくない。
俺は森の真ん中に立ち止まり、大きな声で叫んだ。
「辰巳ッ、辰巳はいるかッ?!」
森のざわめきが、やむ。風さえも無い無音の空間の中で俺はさらに叫ぶ。
「辰巳、いるんだろ? どうせ俺が疲れるのを見て楽しんでるんだろ? 出て来い、話がある、辰巳!」
森にいるすべての生物の視線が、俺に注がれている。生物だけじゃない、もう死んでしまった者たちまで俺に注目しているようだ。恥ずかしいような気持ちになったが、かまわずに大声を出し続ける。
「辰巳ッ、話がしたいんだ!」
「うるせーやい」
ポン、という空気の弾ける音がした。何も無い空間に、漫画みたいな煙が立つ。それの中心から、インクを水に落としたみたいな感じで茶色い色が広がり――質量を持っていく。
「大声出さんでもきこえるぜぃ、ほらほら、お前の大声で木霊が驚いてるぜ」
陽気で軽快な声に驚いて辺りを見回すと、巨木の枝が風もないのにぐらぐら揺れている。ああ――怒ってる。
「ご……ごめんよ」
「まっ、お前だから許すってよ」
目の前には、茶色い獣が――宙に浮いていた。
「……クダ!」
耳も小さい、体もちいさい、尻尾だけはふさふさで、鼻先は白い色。獣のくせに、人の言葉を喋る。
管狐は小さな瞳でにんまり笑い、俺の肩に乗る。
「ま、歩きながら話そうぜぃ」
――どうか明日は今日より涼しい日でありますように!
だが、空に向かって叫んだ祈りも湿気をたくさん含んだ空気に消えるだけで、神様は答えてくれなかった。
俺の住む町は四方を山で囲まれている。それぞれの山には名前があり、東西南北の順に鈴姫山、春姫山、白姫山、彩姫山という。それぞれの山はそれぞれに山の名前にちなんだ伝説を持っていて、それが民俗学的に相当な意味があるらしい。
具体的に言うと、鈴姫山には歌が上手い姫様の伝説、春姫山には春に生まれた女の子の伝説、白姫山には白蛇に見初められた娘の伝説、彩姫山には妖怪退治をした姫の伝説があるのだ。地元では「四姫伝説」と呼ばれていて、山もまとめて四姫山と呼ばれる。
民俗学に興味の無い俺からすれば、とってもどうでもいい伝説である。でもクラスメイトの一人によると、この四つの伝説にこめられた謎を解いて全てを関連させると、伝説の神獣の遺体の隠し場所がわかるとかなんとか。なんという御伽噺だろう。
まず伝説の神獣っていうのがわからない。友人の話によると、その肉を少し食べただけで全ての病やケガがたちどころに治ると言われている妖怪の死体らしい。そんなすごい妖怪が死ぬのかって、まずそれが疑問だけど。
まあでも、興味がないわけではない。誰だって宝探しという言葉が持つ独特のわくわく感には憧れる。男子なら当然だ。
舗装されていない土埃の舞う道を歩く。夏の匂いというのだろうか、どこかしけった、しかし乾燥し切ったような不思議なにおいがあたりを包む。春の花の匂いや冬の煤のにおいとは違う、水のにおいに似た匂い。俺の大好きな匂いだ。
あぜ道を、虫取り網を持った少年たちが走っていく。白いランニングに黒い半ズボンをはいて麦わら帽子を被り、まだ日焼けを始めたころの少年の全身からは夏の雰囲気が漂っている。
少女たちは少年から渡された虫かごを持ち、その後ろを追いかける。白いワンピースが目に鮮やかだ。俺は不意に教科書に載っていた一つの小説を思い出す。
俺が今向かっているのは町の真北の彩姫山だ。
彩姫山は四つの山の内で最も未開の土地が多い場所である。理由は山中に深い樹海があり、重装備でないと深部まで立ち入れないという事。彩姫山の樹海は富士の樹海に相当するか、それ以上に深く、方位磁針も役に立たなくなる。
だから正確な地図は一つも無い。正確ではないが、途中までの地図ならあるのだが、同じような木々が立ち並ぶ中ではどこがどこだかわからなくなり、しまいには迷って飢え死に、というわけだ。
あそこの山に、例の「宝探し」の件で入っていった遺跡荒らしや研究家、考古学者は多い。だが彼らの内で帰ってきたのはたったの三名のみで、三名ともわけのわからないことをつぶやきつつ死んでしまった。三人に共通しているのは、体に無数の傷があるのと気が狂ってしまったことで、あとは三人の山に入った時代も性別も違う。
なかでも有名なのは二人目の女で、こいつは明治時代に山に入ったらしい。気丈で頭の良い、各方面から期待されていた学生だったという話だ。
山に入ったときは十人の友人を従えて「すぐに宝を抱えて帰ってくる」と言っていたそうだが、山を出た時には素裸で、仲間の一人の首を抱えて半狂乱になり「水底に赤が」と叫んでいたそうだ。彼女もそれから三日後に死んだ。破傷風だったそうだが、三日間も悶え苦しんだ末に死んだなんて恐ろしい。
そんなことが何度もあったから、彩姫山の樹海は「御封じの森」と呼ばれている。いや、もしかしたらかなり昔からそう呼ばれているのかもしれない。御封じの森という言葉が馬鹿たちの好奇心を刺激し、ますます事件を連鎖させてしまっているのかもしれない。
まあ――どちらにせよ、俺は全ての原因を知っているのだが。
ぼわぼわと草の生えたあぜ道やぬかるんだ農道を一時間ほど歩き続けると、北の樹海の入り口に着いた。この付近は旧民家を数軒残すのみで、あとは荒地同然だ。この御封じの森には相当なことが無い限り誰も近寄らない。
そりゃあ、馬鹿じゃなければ誰だって入ったら出て来られない森なんかに近づきたくないだろう。ここに入るのは俺だけ。俺の、いわば巨大な秘密基地みたいなものである。農道も途切れ、砂利と少しこげた土ばかりの土地を俺は歩いて行く。
樹海の様子をたとえるとするならば、育ちすぎたブロッコリーが町にいきなり現れるような感じだ。どういうわけか少しずつ木々が生えるというわけではなくて、植林したかのように突然に現れる巨木の数々。今の今まではのどかな田舎町だったのに、映画のセットみたいに唐突に始まる樹海は明らかに異質のもの。だがそれが、彩姫山樹海、通称「御封じの森」なのだ。
樹海のまわりは小さな鳥居や謎の立て札、破魔の札などが貼られた鉄製のフェンスなどで囲われている。色あせた立て札には「立ち入り禁止」と書いてあり、フェンスは緑色の塗装が剥げて、赤錆に侵食されはじめている。ところどころに有刺鉄線が張られたりして、いかにも「立ち入り禁止区域」な雰囲気だ。
だがこれは、地元民たちが何の気なしに作ったただの仕切りに過ぎない。本当の、領域としての区切りは別にある。
それがこの町では有名な「大鳥居」である。黒に近い緑色の森を背景に、一点、すぐにそれとわかる巨大な赤色。町の反対側にいてもわかると言われているくらいに色鮮やかで、非常に目立つ。
なんでも遠く離れた所のありがたい御神木を切って作ったらしく、高さは二十メートル近くある。塗られている紅い塗料はこの鳥居が作られた江戸時代から一度も塗り替えられていないそうだが、全く色あせない鮮血のような赤色である。
聞いた話によれば、江戸時代、御封じの森付近にあった小さな集落が大火事になってほとんど燃え尽きた際もできたばかりのころのこの鳥居だけは焼けなかったそうだ。まわりが火の海に包まれる中、鳥居だけが静かに立っている。そんな風景を想像するたび、俺の心臓がドクンと跳ねる。
――めちゃくちゃかっこいい風景だろうな。
俺は鳥居の下に立ち、鳥居を見上げる。何度見てもこの鳥居の雰囲気には気おされる。ただの建造物なのに、偉大な人物の前に立っているときのように自分が恥ずかしくなったりなさけなくなったりする。それだけ作った人が偉大なのだろうか、俺にはわからない。
何より、この鳥居の異様なのは柱の間に巨大な注連縄がかけてあることだ。
この注連縄、大人が三人がかりで抱えてやっと抱えきれるぐらいの太さがあり、これもまた古い物で一度も替えられていないのだが少しも劣化していない。わらの色をした特製の注連縄と鳥居がある森というのは、毎日のように来ている俺でもやっぱり恐い。
まるで下界と樹海を区別するかのようにおかれた鳥居は、今日も静かに俺を見下ろしていた。
――また馬鹿な人間が来たぞ、とでも言うようだ。
俺は初めてここに来たときのように、鳥居に向かって深く礼をする。
「今日も、沢までの道を安全に過ごせますように!」
声高々にそう叫ぶと、何百年もこの町を見守っている鳥居が微笑んだ気がした。
巨大な注連縄をくぐるとしばらくは石畳が敷かれているが、やがてそれも途切れて獣道になる。半分は俺がつけた道で、半分は俺の友達が作ってくれたものだ。彼は草刈りなどが得意だから、俺が足の皮膚を切らないようにと草を切ってくれた。ありがたい話である。
ここに入るといつも思うのだが、木々が生い茂って空が見えないくらいになっているせいか、真夏でも異常に涼しい。時々寒いと思うくらいだ。まるで冷蔵庫の中のように冷え込み、ひどい日なんかは唇が真っ青になってしまう。
ここの樹海は本当に人間の手が入っていないから、木は奇妙なほどによく伸び、ときどき巨大なキノコやトンボなどを見る。一度なんかは絶滅したはずの狼を見かけてしまった。恐ろしいが、見てしまったもんは見てしまったのだ。
足元に生えている草は踏んでもすぐにまたまっすぐに戻る。生命力の強さが、下界のそれとは比べ物にならない。
一歩一歩を、俺は慎重に歩いた。この森ではすぐに方向感覚を失ってしまう。たよりとなるのはこの獣道と己の勘だけだ。幸いにも、俺は勘だけは良い。あとは人間コンパスと言われるくらいに方向感覚が優れている。
でも、どんなに熟練した探索家でも遭難してしまう森だ。俺みたいな中学生男子が遭難しない保障も無い。
半袖の腕に刺すようにつめたい風がぶつかり、はじけていく。俺は自分の体を抱きしめるようにして歩いて行く。カバンが、すごく邪魔だった。
足元はぬかるんでいる。湿地なのだ。この湿地を抜けてしばらく歩くと、高さが一メートルくらいの岩の崖がまるで階段のように連続する場所に着く。それを下りきると巨大な崖がある。そこを右に曲がり、岩地蔵のところを左に曲がってしばらくしたらさらに左に曲がった所に、沢はある。
つまりは崖のまわりを大回りして、崖の上の大きな池から水が落ちてくるところまで行く、というわけだ。
歩きながら毎度毎度思うが、この道のり、けっこう大変だ。巨大な崖を大回りする、と言葉にしてしまえばものすごく簡単なのだが、実際に歩いてみれば当然ながらけっこうな距離があり、早いときでも一時間、遅くて三時間はかかってしまう。
まあ帰路は簡単だ。友達が送ってくれるから、気持ち的にも、そして距離的にも近くなる。だから辛いのは行く道だけで、帰り道はむしろ楽しい。だからこれを過ぎてしまえば、あとは楽しいことだらけ。そうでもしないとこの長い道のり、精神的に辛い。
今日の森は少し賑やかだった。鳥はいつもよりも元気に飛び回って、風は木々を揺らして踊る。岩から湧き出している泉のまわりに獣たちは集まり、どこからか幽かに歌う声も聞こえてきた。
――あの声は山姫かな。それとも、木霊たちかな。
木の幹に大きな蝶がとまっていた。青色の羽を持つ、美しい姿の蝶である。たおやかな翅をゆっくりと揺らし、木から染み出る樹液を吸っていた。
その時、俺は気付く。俺しか通らないはずの獣道に、明らかに俺の物ではない、深い足跡があることに。しかもそれはまだ少し地中から染み出す水分で湿っていて、存在を主張している。
――この道、近い内に誰か通ってる。
俺がこの前この森に来たのは数週間前である。珍しい時期にある期末テストのおかげでなかなかここに来れなかったのだ。だから、足跡が湿っていることはありえない。二日もたてば表面が乾いて、白くなるはずなのである。
一瞬、俺はこの森を壊そうとしている侵入者の可能性を考えたが――それだったら、森の精や獣たちがこんなに落ち着いているわけが無い。それじゃあ、また誰か冒険しに入ってきて、死んだのか。
もしかしたら、それが理由で森が少し賑やかなのか? 獣たちは人間の死を喜ぶから。
居ても立ってもいられない気分になった。せめて俺がこの町にいる間、つまり俺が生きているあと七十年か八十年の間は――誰もこの森で死んでほしくない。
俺は森の真ん中に立ち止まり、大きな声で叫んだ。
「辰巳ッ、辰巳はいるかッ?!」
森のざわめきが、やむ。風さえも無い無音の空間の中で俺はさらに叫ぶ。
「辰巳、いるんだろ? どうせ俺が疲れるのを見て楽しんでるんだろ? 出て来い、話がある、辰巳!」
森にいるすべての生物の視線が、俺に注がれている。生物だけじゃない、もう死んでしまった者たちまで俺に注目しているようだ。恥ずかしいような気持ちになったが、かまわずに大声を出し続ける。
「辰巳ッ、話がしたいんだ!」
「うるせーやい」
ポン、という空気の弾ける音がした。何も無い空間に、漫画みたいな煙が立つ。それの中心から、インクを水に落としたみたいな感じで茶色い色が広がり――質量を持っていく。
「大声出さんでもきこえるぜぃ、ほらほら、お前の大声で木霊が驚いてるぜ」
陽気で軽快な声に驚いて辺りを見回すと、巨木の枝が風もないのにぐらぐら揺れている。ああ――怒ってる。
「ご……ごめんよ」
「まっ、お前だから許すってよ」
目の前には、茶色い獣が――宙に浮いていた。
「……クダ!」
耳も小さい、体もちいさい、尻尾だけはふさふさで、鼻先は白い色。獣のくせに、人の言葉を喋る。
管狐は小さな瞳でにんまり笑い、俺の肩に乗る。
「ま、歩きながら話そうぜぃ」