文芸音楽アンソロジー
ただもうそれだけで/硬質アルマイト
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心地よい感触に身を捩じらせながら僕は目を覚ました。蒲団をそのままに体をずらすようにして動かし、上体を起こして窓の外を覗く。外はすっかり暗闇に包まれていて、それだけで何故だか僕の心がきゅっと締まるような気がした。ベッドのすぐ横に置かれたガラス製の机の上にはランプが置かれていて、温かみのある橙色を部屋中に滲ませている。
「目、覚ましたんだ」
隣で蒲団がもぞりと動いたかと思うと、少し乱れた髪のまま彼女が起きて、眠たそうな目を擦りながら半身だけを蒲団から出してそう言った。いつもは真っ白くて陶器のような肌がランプによって橙を映している。その姿はなんだか一つの絵画のような、そんな芸術性があるように思えた。
「君がいない夢を見たんだ。起きたのも多分、そのせい」
ランプの中で揺れる火を見つめながら、僕はぼんやりとそう答える。
「私がいない、か。どんな気持ちになった?」
ベッドの縁に座り、向かいの棚に立てかけられた写真を見つめる。落ち着いた雰囲気のレストランで右手にはめた指輪を掲げ微笑む二人の姿がそこにあった。あれは確か、付き合い始めて丁度一年経った頃に撮った写真だった筈だ。
「何の明かりもないし、温かみもなくて、ただ生きているだけ。そこに理由も何も存在しなくて、呼吸と食事と睡眠と、自分の命をただ機械的に持続させ続けるだけの人間に僕はなり下がっていた」
「でも、多分それは半分だけ、当たりよ」彼女の言葉に、僕はそこでやっと振り向いた。
かたちの良い乳房を右腕で隠して、枕に頭を預けたまま横になる彼女の姿を見て、僕の胸が途端に苦しくなる。僕の言葉に対する返答をした後の彼女は、ひどくさみしそうな表情を浮かべていて、橙の光を受けても尚その姿は冷めていくように思えた。
「ねえ」彼女はそう言うと、後ろから僕を両手で包みこむ。背中に当たった胸の感触が、首元に押し付けられた彼女の柔らかい唇が、そこからすっと吐き出される熱を帯びた吐息が、その全てが僕の意識を震わせていた。
「私が君の傍にいるの、ちゃんと分る?」
わかるよ。そう返すと、首に押し付けられたままの唇が小さく動くのを感じた。ああ、喜んでいるんだねと、僕は彼女の両手をつかむと、そのまま振り返り思い切ってキスをする。程よく膨らんだ唇の感触を味わいながら、ベッドに彼女をそっと、押し倒した。
ほんの少しだけの抵抗をして、それから彼女は何も言わずに僕の成すがままにあおむけに倒れた。膨らんだ二つの胸を眺めながら、それでも僕はただ押し倒したままの彼女を眺め、もう一度キスをする。
「その先は?」
「……分かっているんだろう?」
潤んだ瞳に向かってそう言い返してから僕は手のひらを彼女の胸元に押し付けてみた。それでもやはりその肌にぬくもりは感じられなくて、次第に冷えていくその身体から目を背けたくて、彼女の胸に顔を埋めた。
「音、しないでしょ」
本当は少しだけ聞こえる。でも、この音もじきに消える。
「うん、しない」
「嘘つき」
「……あったかいね」
「嘘つき」
「ううん、本当に、本当にあったかいよ」
「私の目を見てくれない時は、いつも嘘」
鋭くて、何も通用しない鉄壁の壁から言葉を投げかけてくる彼女に、それでもかまわず僕は嘘をつき続ける。認めてしまうことが怖くて仕方ない。目を見たらきっとまた一つ、彼女の「熱」を失うことになるだろう。それが、今とても怖いのだ。
「自分が認めたくないことに対しても、いつも嘘」
頭にそっと置かれた手が上から下へと何度も流れていく。優しく、まるでガラスでも扱うかのように丁寧に撫でるのだ。後頭部のその感触にいつしか僕は目を閉じ、ただその一点を感じようと集中する。
冷たくて、なめらかで、本当に陶器のような彼女の体を抱きながら、それでも僕は否定を続けた。だって今こうして撫でてくれている手は確かに暖かいじゃないか。確かに体温を感じる部位があるじゃないか。
僕は撫でてくれるその手を取り、耳に当てた。彼女は何の抵抗もしなかった。ただされるがままに僕の耳元に手を置く。
「音、するよ」
命が燃える音が、確かにしている。
「本当?」
弱くて今にも消え入りそうな音が、微かに。
「ほんの少しだけど、でもちゃんと聞こえてるよ」
それでも、確かにそれは鳴っていた。
「涙」
目を開けた僕をみて、彼女は微笑んだ。やっと目を合わせてくれたね、と。
彼女は落ち着いた表情で目元に指をやって涙をそっと掬い取り、口に含む。その一連の行動が、あまりにも自然過ぎて、僕はただ見とれてしまっていた。右耳で音を聞きながら。
命の音は、まだ鳴っていた。でも長くないことは、聞いていてちゃんと理解できた。
「君の音はとっても大きくていいね。どこにいてもちゃんと聞こえるから、好きよ」
そう言って彼女は僕がしたみたいに右手を取ると、自分の耳に当ててふう、と息を吐き出した。その息から感じた熱に、僕の心はまたぎゅうと締め付けられてしまう。
「ねえ、もうすぐ私は行ってしまうけど、君は大丈夫?」
耳に当てた手にもう片方の手を添えながら、彼女はそう問いかけてきた。僕は一度だけ、首を横に振った。
「当たり前よね」
申し訳なさそうな、そんな弱々しい笑みを浮かべて俯き、それから僕の背中に手を回すと、胸元に顔をつける。
「だって私も別れたくないもの」
「……君がいなくなるってことは、多分何かが抜け落ちてしまうことなんだ。さっきまで見ていた夢と同じさ。安定していた僕という存在がバランスを崩すことで、そうなったらきっと生きるのが辛くなってしまう」
抱き返すことがとても怖くてたまらなかった。次第に冷めていく彼女の体が、本当に陶器のように、入れ物のように色を失っていく彼女の顔が、そして”ここがどこなのかをちゃんと理解してしまっている”僕がいることが。
「抜け落ちたものを新しく入れ直すことは、きっととても大変なことだと思うわ。その間に沢山迷うこともあるだろうし、そこをすっぽりと埋めてくれるなんてことはない。私と同じカタチをした人なんていないんだもの」
ここで感じている彼女の肌の感触も、少しだけ乱れた、けれど指を通すとさわり心地の良い髪も、柔らかで触れると僕の形になる胸も、僕だけを見つめ、ただ微笑み続けてくれるその表情も、全部、全部もうすぐなくなる。
「でもね、その私のカタチになったものも、やがて君の出会いによって変わっていくし、もしかしたら私じゃ広過ぎてしまったり、狭すぎてしまうものになって――」
この先を言わせたくなくて、僕は彼女の口を塞いだ。強引に塞いでそれからただひたすらに彼女をむさぼり続ける。欲しがり続ける。僕を埋めていたものをまた入れ直すように、抜けかかっているそれを再び押し込むように。
けれど、それは収まることはなく、力強い何かが僕を押し返していく。抵抗なんてできるわけもなく、唇はとうとう熱をなくしてしまっている。吐き出した息や唾液もまるで雪のようで、もうどうしようもないことをやっと理解した僕は固く目を瞑り、とうとう口を塞ぐことをやめた。
「……私は君のカタチのままなんだ。これから変わることがない。私を埋めてくれているのは君であって、他の誰でもない」
彼女は、とても自分勝手だ。残される方はどうでもいいというのだろうか。そう言おうとして、そこでやっと回されていた手が震えていることに気づいた。はっとして顔を見て、目に涙を浮かべていることにも気づいた。
彼女が必死に強がっていたことに僕は気づかないでいた。
我儘なのはどちらだと、唇を強く噛みしめる。
「だから、最後まで、私を満たしていてほしいんだ」
ランプの火が弱くなっていく。部屋を満たしていた橙の温かな光が薄くなり、代わりに暗闇がやってくる。冷たくて冷徹なそれが、しかし確実な目的をもってその灯を刈り取ろうとしていた。
僕は彼女の背に手を回し、きつくきつく、力の限り思い切り抱きしめる。腕の中ですっぽりと収まった彼女は震え、鼻を啜りながら嗚咽を漏らした。
「まだ、ちゃんと聞こえているよ」
「私も、君がちゃんと聞こえてる」
橙の灯が聞こえる。彼女が必死に保ち続け、それでも消えかかっている音のその全てを逃すまいと、僕は「全身」でそれに「耳」を傾ける。
「聞こえる?」
「うん」
「ちゃんと燃えているのが分る?」
「うん」
「僕も聞こえてるよ」
「本当?」
「本当だよ」
命が燃える音がした。
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目が覚めて、どうやら僕は椅子の上で眠ってしまっていたのだと気づく。廊下の灯りは落ちていて、点在する緑の光が床に反射して、それがどこか冷たさを感じさせるおどろおおどろしいものに見えた。
すぐ傍にある部屋が騒がしくなっていく。こんな夜中なのに、なだれ込むように白衣達が入っていく。
僕は唇をそっとなぞり、それから右手を耳に当てた。
―了―
――題材:LUNKHEAD「体温」