Neetel Inside 文芸新都
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文芸音楽アンソロジー
C#m/ポンズ

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C#m



 小柄な少女が布団の中にくるまっている。細く白い足が布団の端からちらりと見える。外に出るのを拒むかのように固く体に巻き付けられた布団は、彼女にとっての鎧のようだった。
「涼子、レッスンの時間でしょ!」
「……」
「お月謝出してあげてるんだから! 行きなさい!」
 その簡素な鎧は彼女の母親によっていとも簡単に武装解除される。引っ張られた布団から転がり落ちるようにして布団から出てきた涼子は、ぼさぼさになった髪の毛を手で梳きながら、お腹に力のこもらない声を出した。
「行きたくない」
「もう、また言ってる……じゃ、もうやめちゃう?」
 涼子の母親はいつもこれを言うが、涼子はそれでも止めない。小さな頃からピアノを習っているので、毎週日曜日にピアノ教室に行くということは習慣化しており、それを止めるというのは何となく気後れしてしまうのだ。
「わかったよぉ……」
 机の横に立ててあるハノンとソナチネと、課題として与えられている楽譜を取り上げた。いつも使っているショルダーバッグにそれを無理矢理突っ込むと、涼子は家を出た。
 昼下がりの脳天気な太陽の光を浴びながら、涼子は道をのろのろと進んだ。異様な物を見るような目つきで散歩中の犬が涼子を見つめたが、涼子のギロリとした目線に驚いて少し早足で飼い主を引っ張っていった。
 涼子の通っているところは個人で経営している小さな教室で、場所は涼子の家からあるいて三分の場所にある。桜庭ピアノ教室。それがその小さなピアノ教室の名前だった。
 チャイムを鳴らすと先生が出てきた。
「こんにちは、先生」
「こんにちは、涼子ちゃん。何だかんだでちゃんと来るわね」
「そうなんですよね」
 呆れたような笑い声をかける先生に、愛想笑いで応える涼子。廊下の奥のピアノ部屋から聞こえるピアノの音が、涼子の胃の底を引っ張るように重くした。
「まだ斗馬くんがやってるから、そこの椅子に腰掛けて待っててね」
 そう明るい声で言い残し、暗い廊下の奥の方へ先生が去っていく。
 涼子は言われたとおりに廊下に置いてある柔らかい椅子に腰を落ち着けると、コンプレックスの1つである自分の大きな手を見つめながら、いつもの様に溜息をついた。
 ――藤代斗馬。
 その少年が、彼女がピアノのレッスンに行くのを拒否したくなる原因だった。





 ショパンのワルツ第七番嬰ハ短調。
 涼子が今の課題として渡されている曲だ。ショパンの曲の中では比較的簡単な曲だ。
 冒頭の六度の和音で奏でられる第一主題が涼子のお気に入りだった。ポーランドの舞曲、マズルカ風のフレーズが続き、美しい響きを耳の奧に残してくれる。
 でも、テンポが上がるピウ・モッソの部分は苦手だった。そのフレーズ自体が嫌いなのではなく、上手く弾けなかったのだ。
「ゆっくりやってみて、一音一音落とさないように」
 先生は声も荒げないし、怒りもしない。ただ、ひたすらに厳しい。弾けていないフレーズはとことん何度も弾かせるし、弾けるようになるまで同じフレーズを繰り返させられる。
 涼子はテンポを少し落として弾いた。指は絡まらずに弾けるが、勢いを削がれたワルツが、力を無くした様に転がっていく。
「一音一音、きちんとならしてね。それと、タッチを均一にするの」
 そうしてるつもりなのに、と涼子は心の中で呟いた。練習しても練習しても涼子は出来なかった。一音一音が収まるべき所に収まらず、指からこぼれ落ちていった。
 小学生二年生の頃から中学二年生の現在までずっとピアノを習っている涼子は、マイペースな性格が影響したのか、上達速度が異様に遅かった。普通の人なら三週間で仕上げる曲を、涼子は一月以上かけて仕上げる。
 気だるそうに単調な音を並べ続ける涼子を見て、先生は少し小さな溜息をついた。
「今日はここまでにしましょうか……次は真ん中のとこまでいきましょうね」
「……はい」
 先生はちっとも嫌な顔をせずに涼子に次までに練習してくる部分を伝える。涼子はそれを黙って聞いていた。そうされることのほうが涼子にとってはむしろ辛かった。
「じゃ、また来週ね」
「ありがとうございました」
 涼子は楽譜を畳んで一息ついた。涼子は脳内をお経のように渦巻いている、遅いテンポのピウ・モッソのフレーズを追い出そうとするように首を振った。
 次の生徒である小学生の女の子が入ってきて、先生と涼子に小さく挨拶をした。涼子もその子に小さく会釈を返すと、ピアノ部屋を出た。部屋の空気と廊下の空気の温度差に少し驚かせながら廊下に出ると、藤代斗馬が椅子の上で器用な体勢で寝ていた。
「おい」
 涼子が低めの声で話しかけると、斗馬は「んあっ」と言葉になっていない声を出して起き上がった。涎をたらした跡が斗馬の口元に付いている。
「涎たれてるよ」
「ああ、終わったの? お経みたいだったから寝てたよ」
「さっさと帰れよ」
 涼子は心底イライラしているような声で言い返しても、斗馬はニヤニヤした顔を崩さなかった。斗馬はこうやっていつも涼子にイヤミを言うために残って聞いているのだ。それが嫌で嫌で仕方が無いのだ。
「練習してるの?」
「してるよ!……ちょっとだけど」
「ふふん。もっと練習しなよ。全然ダメじゃん」
 嫌みな声を伸ばしながら立ち上がる斗馬を、涼子は鋭い目で睨んだ。中学二年生にもなってなぜ小学生の小競り合いの様なことをしなければならないのか甚だ不思議だった。
「そういえばこの曲……あ、なんでもないわ、またな」
「二度と来るなよ」
 私が悪態をつくと、斗馬は笑いながら手を振りながら靴を履き、教室を出て行った。彼がいなくなった廊下はすこし暖かみを増したような気がする、と涼子は思った。





 藤代斗馬は涼子が一年生の時に転校してきた生徒だった。
 端正な顔立ち、すらっとした体躯、長い足、白い肌。見た目は明らかに体育会系ではなかったが、美形という言葉が相応しい少年だった。
「北野市から引っ越してきました。藤代斗馬です」
 一年生の秋頃突然教室に現れた斗馬が、静まりかえった教室ではっきりとした口調ですらすら自己紹介した時、涼子も後の席の女子とこそこそと話をしたものだった。かっこいいよね、と。
 斗馬は教室では人柄も良く、運動も出来るし、話も上手だったし、すぐに友達を増やしていった。一週間も立つと斗馬のことが好きだと行っている女子が二人はいたし、男子も斗馬には一目置くようになっていた。
 でも不思議なことに斗馬は部活には入っていなかった。本人は「新参者が入ったらせっかく築いたチームワークを壊しちゃう」と言っていたそうだ。いずれにせよ、吹奏楽部で地味にホルンを吹いていた涼子は、彼のことを自分とは全く接点を持つはずもない、遠い存在だと思っていた。
 ――はずだった。
「今日って藤代君の誕生日なんだよね。藤代君がそう言ってた」
 斗馬が転校してきてから一月ほど経った日、吹奏楽部の活動を終えた後、校門の前で屯して話していた時に涼子の友達の一人がそう言った。へぇ、という声が薄暗い校門の前にたちあがる。
「それでね、私、ペンあげたんだ」
「へぇー。好感度アップ狙い?」
 涼子が茶化すように言うと、その子は顔を赤くして否定した。
「そ、そんなことないよ。この前そんな話してたら、何かお祝いしてて言われてたんだ。狙ってるなんて話聞かれたら叶絵ちゃんに何されるか……」
「叶絵ちゃんも何かあげるって言ってたよ」
 また違う子がそう呟く。叶絵ちゃんというのは、山本叶絵という女子の中で一目置かれているようなタイプの女の子のことで、気に入らない子をいじめたりするような子だった。涼子はあまり好きではなかったので、関わらないようにしていた。
「叶絵ちゃん、やっぱ告白するのかなー」
「うーん」
 涼子とその友達は頭をひねった。女の子の中ではかなり辣腕をふるう彼女であるが、男の子の前ではチキンになることで有名だった。いずれにせよ涼子にとっては関係の無い話で心底どうでもいい話だったので、涼子は真剣に考えていなかった。
 だが、頭をひねった拍子に音楽室に体操着を忘れたことを思い出した。一日おいておくと汗の臭いで恐ろしいことになる。その匂いを想像して涼子は鳥肌を立てた。
「あ……そうだ、音楽室に忘れ物した。取ってくるから、先帰っといて」
「わかった、またねー」
 ばいばい、と友達に手を振って涼子は音楽室に向かった。日が落ちて暗くなってきた校舎の中は、薄暗く、気味の悪い空気が漂っていた。





 窓から溢れている光が、廊下を橙色に染めている。四階にある音楽室までたどり着くと、涼子の耳にピアノの音が聞こえてきた。
「なんだろう、この曲……」
 嬰ハ短調で重ねられる和音。静かに三拍子で重なり刻みつけられる半音階。それがショパンのワルツ第七番嬰ハ短調であると知ったのは大分後になってからであるが、涼子はそのフレーズに聴き惚れた。
 音楽室の扉の窓から涼子がそっと中を覗くと、藤代斗馬が誰もいない音楽室でグランドピアノを弾いていた。広い音楽室の黒板側に置かれたグランドピアノは、窓から差す西日を受けて、怪しげな影となっていた。
 まずピアノを弾けると言うことに驚いた涼子は、食い入るように斗馬の姿を見つめた。一瞬の揺らぎがあったかと思うと、かなり早いスピードで音符を重ねていく。山の向こうでなっている遠雷の様に刻みつけられる音の波に涼子は震えた。真ん中の穏やかな部分では変ニ長調に転調し、その柔らかな雰囲気をもてあそぶかのようにまた早いフレーズが表れる。
 涼子はこの時点で音楽室の中にそっと足を踏み入れた。斗馬は涼子が入ってきたことに気づいたが、そのまま演奏を続けていた。そして最初の主題に戻り、最後はまた早いフレーズが帰って来る。止めどなく流れる音符の連鎖が空気を切り裂いた。
 演奏が終わると、涼子は思わず拍手してしまった。静まりかえった音楽の教室に、ぱちぱちと乾いた音が木霊した。
「拍手されるほどの曲でもないよ」
「いや、ピアノ、弾けたんだなと思って」
 そう涼子が気の抜けた声で言うと、斗馬は恥ずかしそうに笑った。
「あんまり人に聞かせたくないんだけどね。みんなには内緒にしててよ」
「ええ、なんで隠すの? 私よりずっと上手いのに」
 そう言うと、斗馬はしげしげと涼子の顔を見つめた。涼子は気恥ずかしいような気になって、目を逸らした。
「三浦、涼子さん……であってたよね? 同じクラスの」
「あ、うん……」
「どこかで習ってるの?」
「うん、桜庭ピアノ教室ってところ。この辺りにはそこしかないから……」
「ふーん、じゃ、なんか弾いてみてよ」
 そう言って斗馬は立ち上がって、涼子に近寄って椅子を指さした。涼子は手を前に突き出して拒否の意を示したが、斗馬は何も言わずにうっすらと微笑んだ。涼子は意味もなく顔が赤くなるのを感じ、渋々といった感じでピアノ椅子に腰掛けた。
「じゃあ……今日、誕生日だもんね、特別に、弾いてあげる」
「よく知ってるね」
「女子が噂してた」
「誰かなんかくれるかなと思ってこっそり広めといたんだよ。ペンもらっちゃったよ」
 そう言って楽しそうな顔で笑う斗馬を涼子は眩しいようなものを見る目で見た。やっぱり地味なホルンを吹いている自分とは住む世界が違う男の子なんだろうなと考えていた。
「じゃ……」
 涼子はシューマンのトロイメライを弾いた。「子供の情景」というピアノ作品の第七曲目で、「夢」という意味だ。
 重層的に重なった声部が複雑で緻密な対位法の基に和音を進行させる。女の子の割に手が大きいというコンプレックスを持つ涼子だったが、この曲を攻略するのには役に立った。先生に少し褒められた曲だったので自信を持っていた。
 だが、斗馬は演奏が終わった後、涼子にこう言い放ったのだ。
「うん、ヘッタクソだね」
 楽しそうな顔のままで。





 その後、涼子の桜庭ピアノ教室に藤代斗馬は入った。「自分一人でやってるより人に見てもらってる方が伸びるからね」と腹の立つ口調で言っていたのを涼子は覚えている。練習熱心なのは感心すべき所だが、如何せん涼子に顔を合わせるとすぐに嫌みを言うのでイライラするのだ。
 涼子にとって余計に腹が立ったのは、藤代斗馬は神がかり的にピアノが上手いということだった。ピアノ教室に行ったらピアノ部屋からリストのマゼッパが聞こえてきた時は涼子も流石に舌を巻いた。斗馬は涼子より手も大きく、涼子より曲の完成も早く、初見も出来て、上手い。斗馬が自分のピアノを聞く度に散々に貶すことは彼の実力から考えれば実に正当なことなのだ。ぐうの音も出せない。
 だが、それが涼子にとってものすごく癪に障ることだった。涼子にだって、安っぽくても、ずっとピアノをやっているというプライドくらいはある。あのピアノ教室では最古参で、斗馬が来るまでは最も上手い生徒だった。つまるところ、藤代斗馬という存在はまさに目の上のたんこぶだった。
 だがそれでも涼子はピアノ教室を続けていて、藤代斗馬と出会い嫌みを言われ始めてから一年が経とうとしていた。
 涼子はワルツ第七番を完成させておらず、斗馬に会う度に嫌みを投げかけられていたが、それでも地道に練習していた。ピウ・モッソはミスタッチが減ってきたし、第一主題に少しずつ表情をつける練習をしていた。
 そんなある日のことだ。
「三浦さん」
 涼子が休み時間に次の授業の用意をしていると、あの山本叶絵が涼子に話しかけてきた。
「ああ、かな……山本さん」
「叶絵で良いよ。それより」
 ぐっと目の前にせまってきた山本叶絵の顔を避けるようにして涼子は少し後に身を引いた。今までそこまで話したことはないのに、何の用事だろうかと涼子は訝った。汗で涼子の手が机から滑り落ちる。
「藤代君があなたと同じピアノ教室に通ってて、ピアノ弾けるって本当?」
「な、なんで?」
「あなたの通ってるピアノ教室から、藤代君が出てくるところを見たって人が……」
 一年経ってもまだ藤代斗馬に片思いなのか、これは片思いのレベルを超えてストーカーではないか、などと色んな考えが涼子の脳内を駆け巡ったが、限りなく冷静になるようにして、嘘をついた。
「うん、来てるみたいだね。あんまり話したことはないけど」
 毎日会う度に嫌みを言われているとは言えなかった。それでも山本叶絵はまだ納得していないのか、顔の距離が変わらなかった。
「ふうん……ピアノ弾けるってのも知らなかったけれど」
「あ、それは、恥ずかしいから内緒にしといて、って本人が言ってたの。私は隠してたつもりはないんだけど」
 涼子は必死に弁解した。もしも自分が藤代斗馬と特別な関係になるなどと疑われたりしたら今後の学校生活に関わる。誰かこちらを見ているような気がしたが、厄介毎に関わりたくないのか誰も助けに来なかった。涼子が祈るように山本叶絵の目を見ていると、顔の距離がどんどん開いていった。
「ふうん、まあいいか。三浦さん、何かわかったら私にも教えてね」
「あ、ああ、うん」
 そう言って山本叶絵は踵を返した。涼子は緊張から解き放たれたように溜息をついた。始業ベルが鳴り、廊下や教室に溜まっていた生徒が自分の席へと移動していく。
「私しか知らなかったのか……」
 涼子は誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。





 涼子は最後のピウ・モッソにたどり着いた。
 繰り返される音階に揺らぎを与えながら弾いていく。
 強く、一音一音を刻むように。
 あの日彼が弾いていた様に、空気を切り裂くように。
「うん、大分出来てきたね」
 最後まで弾き終えると先生はそう言って涼子を励ました。涼子は息をゆっくり吐き出しながら肩の力を抜いた。窓から日曜の昼下がりの光がぼんやりと入ってきている。
「第一主題と中間部はまあまあだけど……ピウ・モッソのとこ、もっと気楽に弾けないの?」
「なんか、力んじゃって」
「こう弾きたい、って気持ちがあるのはわかるなー。でも最初はもっときっちり弾いてみたら?」
 涼子は自分の胸の内が言い当てられたようで気味が悪いように感じた。
 あの日の放課後の教室で斗馬が弾いていたワルツ第七番は悔しいくらいに綺麗で、斗馬のことは大嫌いなはずなのに、あの音を自分も出したかった。
「あのね、レッスンはこれで終わりなんだけど、お願いがあるの」
「あ、はい、なんですか?」
「これからちょっと急用で一時間ほど家を空けなきゃならないんだけど、公子ちゃんが三十分くらいしたら来るから、鍵を開けて中に入れてあげて欲しいの。もし時間があったらでいいんだけど……」
 公子ちゃんというのは涼子の一個下の生徒さんのことだ。すこし出っ歯の彼女の顔を想像しながら、涼子は頭を掻きながら先生に返事をした。
「留守番、っってことですか? いいですよ。どうせ暇ですし」
「そう、ありがとう。あ、冷蔵庫に入ってるロールケーキ、食べて良いわよ」
 そう言って先生は部屋を出て行った。私はピアノの椅子に座ったままぼーっとしていた。三十分ほど暇だから何をしていようか。とりあえずロールケーキを食べてこよう。そんなことを涼子がぼんやり考えていると、先生が玄関から出ていく音がした。
 涼子が廊下に出ると、楽譜とにらめっこしている斗馬がいた。
「まだいたのかよ」
「まあね」
 斗馬は楽譜から目を逸らさずに返事をした。そういう一挙手一投足全てがキザに見えて、涼子はイライラするのだった。
「なんでさっさと帰らないの?」
「んー? 聞いてたんだよ。レッスンを」
 そう言って斗馬はうっすらと笑った。
「ピウ・モッソの所……俺が最初にお前に聞かせた時の弾き方真似しようとしてなかったか?」
「な、なんでわかんの?」
「俺のあのアーティキュリエーションの付け方、変だからな。一般的じゃないし真似しない方がいいぜ?」
 涼子はドキリとしながら四日ほど前に山本叶絵に言われたことを思い出す。斗馬がピアノを弾けると知っていたのは涼子だけだった。涼子は着ていたカーディガンの袖を引っ張った。
「なんで、あの時、弾いてたの?」
「なんでだろうね。なんとなく弾きたかったんだよあの曲……でも聞かせたのがお前で良かったよ」
「なんで?」
「なんでもねー」
 そう言って斗馬は目を逸らした。少ししおらしくなっている斗馬を見るのが初めてだったので、涼子は少し可笑しいと思ってしまった。
「あのさ、藤代、今日誕生日でしょ?」
「覚えてたのか……」
「またなんか弾いてあげよっか」
 涼子は、どうせ「お前のヘッタクソなピアノなんて聞きたくねえ」とか言われそうだなと思ったが、思いついたので言ってみた。すると、斗馬は目を逸らしたまま呟いた。
「じゃ……トロイメライで」
「へ……?」
「お前のトロイメライ……真ん中の声部の鳴らし方適当だし、旋律の浮かせ方も雑だし、ヘッタクソだったけど……俺は好きだった、から」
 そう言って斗馬が顔を赤くするので、涼子も空気におされて何となく気恥ずかしくなってしまった。涼子は黙ってピアノの部屋に行き、グランドピアノの前に腰掛けた。あいつの言う通りに弾くのも気分が悪いので、違う曲を弾くことにしよう、と涼子は呟き、手を鍵盤の上に這わせた。
 始まる六度の和声
 交差する白鍵と黒鍵。
 重なる半音階。
 さて、これから彼とどんな話をしようか。
(おわり)

       

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Neetsha