かくも遅咲き短篇集・弐
天国に至るステップ/つばき
最初は、誰かがステップを踏んでいるんだと思った。夢の中で。
それは軽妙で、いかにも楽しげで、人の心をやすやすと誘い出して連れて行くような喜びに満ちたリズムを刻んでいた。飛び立っていきそうなのに不思議な厚みをそなえていて、心臓の拍動のように強くやわらかく重みがある。地面を這うように響き、のたうち、弾け、ふくらみ共鳴して、やがて意図のあるつらなりへと育っていく。
音楽だ。誰かが喜びをもって踊っていた。踊り狂っていた。リズムに取り憑かれ、ステップに夢中になって、汗を光らせ目を潤ませて熱っぽい空気に身をうずめ、命を持つあらゆるものと溶け合おうとして。
そのダンスを見てみたい、そう思って目を開いた。
目に映ったのはいつもの見慣れた安アパートの汚い天井だった。二階から鈍い物音が聞こえてくる。規則性のない複数の足音が響くたび、安普請の建物全体がわずかに揺れていた。そういえば引越のお知らせが掲示板に貼られていたな、と枕もとの目覚まし時計に目をやると七時を差している。土曜の朝七時。
あ、と思った瞬間にテーブルの上の携帯電話がけたたましく鳴った。ベッドに寝そべったまま無理矢理手を伸ばすと肩がつりそうになり、慌てたせいでバランスを崩して床に落ちた。寝起きの身体に衝撃が響く。うなりながら着信に出た。
「おはよう。今日は早かったね」
少し意外そうな声だ。
「起きてたんだよ」
「へぇ」
「二階で引越しをしてるみたいで物音で目が覚めた。ついさっき」
「こんな早くから?」
「そう。ついでにベッドから落ちた」
「その上私の声まで聞けるなんて素敵な目覚めだね」
「夢を見てた気がする」
「どんな?」
少し考えてから言った。
「たぶん、なにかのダンスの夢」
「それって私の影響かな?」と彼女は言った。
急いで顔洗い、着替えて部屋を出る。彼女はアパートの敷地の手前で待っていた。ジーンズにスニーカーを履き、淡い桜色の厚手のパーカーを羽織っている。髪を後ろでひとつに束ねて黒地になにかのロゴの入ったキャップをかぶっていた。表情が見えにくく、白くて長い首がよく目立つ。
「おはよう」
改めて言うと彼女は頷いて歩き始めた。女の子にしてはかなり速いペースだ。それについていく。
「引越しのトラックなんかいないけど」
彼女が辺りを見回す。
「まだ片付けの途中なんじゃないかな」
「それで、ダンスの夢ってなに?」
「別に夢ってわけでもなくて、二階の足音がステップに聞こえたってだけなんだけど」
「どんなステップ?」
「いやわからない。なにか面白いリズムだったけど。ものすごく楽しそうで夢中になってるような感じの」
「ふーん。いいね、踊ってみたいね」
彼女はそう言って足裏で軽く地面をはじき、軽快に二、三歩跳ねた。細く薄く強い身体がしなる。後ろで束ねたまっすぐな髪が揺れる。毛先の痛んだ茶色い髪の向こうにうなじがちらちらと覗いた。ジーンズに包まれたタイトな下半身のラインからどうにか目を逸らす。十代の女の子の後姿はなにか無防備すぎて、見つめると息が詰まってしまう。
ペースを速めて隣に並んだ。人気の少ない朝の住宅街は嫌いじゃない。何もかも目覚めているのにまだ一日が始まっていない、穏やかな欠落感が心地よかった。黙ったまま歩いていくとやがて小さな川に突き当たる。弓なりに曲線を描き先へ消えていく川沿いの道には、つぼみの膨み始めた桜の木が並んでいる。
「そろそろ咲くかな」
さくらさくら、と彼女がハイテンポで歌いながらステップを踏む。川沿いのゆるやかなカーブを、身体を半回転させながら跳ねるように進んでいく。たたたん、たん、たんたんたん。足音がきれいにリズムを刻む。
「楽しそうだね」
声をかけると彼女は踊りながら頷いた。
「サカガミ君も踊ればいいのに」
「俺はいいよ」
「そういうと思った。なんで?」
「俺には無理だから」
「そういうと思った」
彼女はステップをやめる。少し先で立ち止まったまま小さく言った。「無理じゃないのに」
「無理だよ。どうやればいいのかもわからないし」
「楽しいなって思うままに身体を動かせばいいんだよ。そうすればダンスになるから」
「俺がやってもみっともないだけだよ」
「自意識過剰だよね、やたらと」
「わかってるよ。でもやりたくないんだ」
「うん」
立ち止まった彼女に追いついてしまう前に僕は足を止める。
「まあそういうことってあるよね。わかっててもやりたくないこと。わかっててもやっちゃうこと。わかんないけどやっちゃうこと」
彼女が言った。黙っているあいだに、大きな鞄を担いだ高校生の男子が自転車で通り過ぎて行った。
「気にしなくてもいいよ。前にも言ったけど、男の子の中には戦士と乙女がいるんだよ」
何も答えられなかったけれど、無視しているわけではないことを示すため彼女を見ていた。キャップの小さなつばの下で小粒の黒い瞳が愉快そうに光っている。
「まだわからなくてもいいよ。ゆっくりで。とても健全だと思う」
彼女はそう言って前を向く。また長い髪が尾のように左右に揺れた。
健全になりたい、と口走ったどうでもいい酔っ払いの愚痴を、そのとき彼女は聞き逃さなかった。
「健全? 健全ってどういうこと?」
「なんでもいいんだよ。とにかく健全でありたいんだよ」
いつの間に彼女がそばにいたのかも覚えていなかった。脳髄を浸食するような音楽と人の熱気で溢れたダンスホールで、無理矢理自分を連れてきたはずの先輩はどこかに姿を消していた。でもそんなのどうでもよかった。ハイボール二杯で完全に酔っ払っていたからなんだって構わなかった。知らない女の子に話しかけられていることも、自分が普段なら絶対に来ないような場所に身を置いている居心地の悪さも。
「健全だって。こんなところでそんなこと言ってるひと初めて見た」
薄暗い紫色の照明の中でくすくす笑う女の子はどう見てもせいぜい二十歳になったばかりという感じなのに、その場の雰囲気にごく自然に馴染んでいた。少しだけ化粧をした目元、身体にぴったりと添うニットのセーターとジーンズ。
「健全ってたとえばどういうこと」
「たとえば……たとえばさ、みんな適当にするようなことをきちんと考えるだとか」
「うん」
「正直に喋るとか」
「うん」
「誠実であるとか……」
「うん」
「なんかうまく言えないけどそういうようなことだよ」
「大事なことだね」
「でも誰も守ろうとしてない」
「そうかな。案外そうでもないかもしれない」
「守ってるやつなんか見たことない」
「単にあなたが見つけてないだけじゃない?」
僕は彼女を見る。彼女も僕を見ている。
突然、すぐ傍で何人かの集団が雄たけびを上げた。驚いて体が震える。叫んだ連中は周囲のことも構わずに楽しげにげらげらと笑っている。全員がひどく酔っ払っているらしい。真っ赤な顔にだらしない表情を浮かべ、身体をくねらせて踊っている。
なんだよあいつら気持ち悪い。なんでそんなに楽しげなんだ。
「あなたは踊らないの?」
女の子が言った。心をくすぐる悪戯っぽい声だ。でも首を振る。そんな気分になれない。第一身体だって動かない。
「どうして?」
「俺なんか踊ったってみっともないだけだよ」
「あのね。はっきり言うけど、ここでは誰もあなたのことなんて見てないよ」
「そうだとしても、みっともないのは嫌だね」
酔っているせいか気が大きくなっていた。女の子にこんな態度をとるのは初めてだ。よく見ると相手はそれなりにかわいかった。美人とはまた違うのだろうが、快活そうな目元と少し尖った口元は悪くない。
「ふーん。あっそう。じゃあいいけど」
彼女はこちらをちらりと見てから、するりと繭から抜け出すようにテーブルを離れ、激しいドラムの音にあわせて踊っている集団に分け入った。そして一度あたりを見回してから、一緒に踊り始めた。
途端に、彼女の動きが一変する。急に重力が変わったみたいだった。首を振り、手を打ち鳴らし、リズムに合わせて膝を折る。弾けるように髪が踊る。リズムが直接叩き込まれているみたいに、身体のあらゆる箇所が音にあわせて機敏に揺れる。周囲が思い思いに身体を動かしている中で、彼女の動きは際立っていた。少なくとも僕にはそう見えた。
やがて彼女は無邪気に腕を広げ、恍惚とした表情で口元に笑みを浮かべ、いつの間にか始まったドラムソロにあわせてステップを踏んでいた。タップダンスみたいだ。踵を床にぶつけたかと思うと、跳ねるようにつま先で蹴り出す。変則的な動きはそれでもまとまりのあるリズムに支配されていた。ここちよさそうに、踊りそのものになったみたいに彼女は跳ね回り、回転し、手を鳴らし、腰を突き出し、肩を反らす。長い髪が揺れて広がる。それさえもダンスの一部のように見えた。毛先まで神経の通った生き物みたいだ。
いつのまにか、ドラムの音が彼女の足音にしか思えなくなっていた。彼女がそれを生み出し、反響させ、空間に満遍なくめぐらせているのだ。彼女はこちらをまったく見ていなかった。ただ一人でこの上もなく楽しそうに踊っていた。時間をふっ飛ばし言葉を失って。天国で踊っているみたいに。そして気がつくと、周囲が彼女を見つめていた。僕と同じように。けれどその視線さえ届かないところに彼女はいた。
やがて踊り疲れて額から汗を流しながら、ふらふらとおぼつかない足取りで彼女がテーブルに戻ってくるまで、僕は呆けたまま彼女を見つめていた。
彼女は置きっぱなしにしていたコーラの瓶をあおり、息をついてからこちらを見る。
「ね、どうだった? みっともないかな?」
「いや」
口を開いてみて、自分の喉がからからに渇いているのに気がついた。
「すごかった」
「本当に?」
「うん。あんなの見たことない」
「それは大げさだなぁ」
彼女は天を仰いであははははと豪快に笑った。頬が上気して目が潤み、細胞ぜんぶが弾けるように呼吸しているみたいだった。興奮して喜んでいた。それはもうどうしたって、たまらなく魅力的な様子だった。
「そうじゃなきゃ人生経験が不足気味なだけかな。ね、あなたっていくつ? 大学生だよね?」
「この春から大学院生。二十二歳」
「そっか。名前は?」
「サカガミヒデトシ」
「サカガミ君か。私はコヌカミサキ。十九歳」
「コヌカ?」
「小糠雨、のコヌカ。変な名前だよね」
「初めて聞いた」
「うん。ねぇ、ここ出ない?」
コヌカミサキはそう言ってちらりと周囲を見る。
「ずっと踊ってたから疲れちゃったし、熱いし、外の風に当たりたくなってきちゃったし」
先輩のことをちらりと考えた。たぶん構わないだろう。今頃はもう僕を連れてきたことなんか忘れているはずだ。明日の昼にどこかで目覚めた頃もしかしたら思い出すかもしれない。それに自分だって早くここを出たかった。彼女のダンスが終わった今では、騒がしくて頭の痛くなる空間というだけだ。
「じゃあ出ようか」
立ち上がると彼女もついてきた。ホールの扉をくぐり、狭い階段を降りると、鼓膜に叩き込まれていた音楽が次第に遠ざかっていく。原色の照明に慣れていた目も薄暗がりに漂白される。酔いは多少マシになっているようだ。
外に出ると空気は随分冷えていた。三月になったかばかりで、日中は暖かくても夜になれば冬と変わらない。隣に並ぶ彼女はいつの間にかダウンジャケットを羽織っている。
「ねえねえ、私、お酒が飲みたい」
彼女は楽しげに言う。なるほど財布として連れ出されたわけだ、と反射的に思ったが、
「コンビニに売ってるかな。スプモーニ飲みたいけど。なかったら適当なチューハイでいいや。おごるからさ、サカガミ君買ってきてくれないかな。ほら私未成年だし」
「それならさっきのところで飲めばよかったのに」
「踊るときはお酒なんか要らないし、万が一未成年だってバレて出入り禁止とかになったら嫌じゃん。踊れなくなっちゃう。最近そういうのけっこう厳しいから」
まあまあ健全でしょ、と彼女は言って笑った。
結局すぐ近くのコンビニでウーロン茶とグレープフルーツのチューハイを買った。代金は僕が出した。コンビニの駐車場で二人で缶を開けた。日付が変わるくらいの時間で、空は暗く、星が光っている。まだ微かに頭痛の残る気だるい身体に、冷えた空気が気持ちよかった。
コヌカミサキはチューハイの缶を平気な顔であおっている。初対面の女の子とこうして外でお酒を飲んでいるのは変な感じだ。これからどうすればいいんだろう。居心地も悪かった。何を話せばいいのか考えても出てこない。黙ったままひたすらウーロン茶を飲む。
「ねえ、どうしてあのホールに居たの?」
彼女が話を振る。
「連れてこられたんだよ。研究室の先輩に」
「そっか。そんな感じだよね。自分から来てる感じじゃなかったし」
「まぁ思いっきり浮いてただろうし、居心地だって悪かったよ」
「そりゃ、あんなにつまらなさそうにしてたら目立つよ。でもすごいね、大学院生って。頭いいんだ」
「別に頭が良くなくてもなれるよ。大した大学じゃないから」
「そう? よくわからないけど。私フリーターだし」
「そうなんだ。ダンスの学校とかに通ってるのかと思った」
「まさか。全然。そんなとこ勿体無いし、お金もかかるし。私、家から逃げ出してるから食べていくだけで精一杯」
そうさらりと言われてしまう。
確かに人生経験が足りないのだろうと思う。自分とは馴染みのない境遇にいる相手に対して、何を言えばいいのかわからなくなってしまう。
「でも時々思いっきり踊りたくなるからさ、贅沢してああいうところで踊るの。気分がいいし。普段は友達と市役所の裏とかで練習してるんだけど」
「そっか」
「うん。ねえ、怒らないでね。当ててみてもいい?」
「なにを?」
「サカガミ君がホールに連れてこられた理由」
彼女は横目でちらりとこちらを見て、まばたきしてから言った。
「彼女に振られたから、とか」
思わず黙る。なんでわかるんだ。
「なんでそう思うの」
「なんとなく。女の勘? 雰囲気とかそういうの」
彼女はチューハイの缶を地面に置くと、スニーカーで踏みつけて潰した。
「当たってた? もしかしたらそれって『健全であること』と関係あるかな?」
僕は黙ったまま、同じようにウーロン茶の缶を潰す。そして二人分の潰れた缶を傍らのゴミ箱に捨てた。どう答えればいいのかわからなかった。言いあぐねて地面を見ていると、コヌカミサキが言った。
「ごめん。ちょっと厚かましかったね」
いや、とどうにか答えて、それから黙り込んでしまう。
コンビニの明かりで照らされている彼女の横顔から目をそらした。煙草が吸えれば間が持つのにな、と思う。
「行こうか」
コヌカミサキは歩き出す。駅の方角へ向かっていると知ってそのまま隣を歩く。
「コヌカさんちは近くなの?」
できるだけ先ほどの空気を引きずらないように努めた。
「うん。二駅だし、駅からも近いよ。サカガミ君は?」
「うちも三駅だから」
そういえばそろそろ終電だ、と思い出す。
「そっか。じゃあ、私の家でいい?」
「え?」
「だってホテルだとお金かかっちゃうし。サカガミ君そもそも一人暮らし?」
「そうだけど……えっと」
「あれ?」
コヌカミサキは不思議そうに目をしばたかせる。
「もしかして全然そんなつもりじゃなかった?」
「そりゃそうだよ」
「なんで?」
「なんでって、会ったばっかりだし、単に一緒に外に出ただけで……」
「そっか。私はそういうつもりで出ない? って誘ったんだけどな」
彼女は立ち止まり、意識しての媚態なのかそうじゃないのか、こちらを軽く見上げながら「私じゃ嫌?」と訊いてくる。
「嫌とかそういうんじゃなくて」
「だったら何?」
「だから……」
反射的に、ジーンズに包まれたかたちのよい足を見てしまう。それからダウンジャケットの下の身体を思い出す。控えめな胸の膨らみ。薄手のニットがぴったり張り付いていたしなやかで細い腰のくびれ。思わず唾を飲み下す。
「コヌカさんだって俺なんかだと嫌だろ」
「嫌じゃないよ。だから誘ったんだけどな」
「なんで? どこが?」
「どこが、って……面白そうな人だと思ったから」
「それだけ?」思わず口調が強くなる。「それだけでこういうことするの?」
こちらの調子がむしろ意外だというように彼女は少し首をかしげた。
「だって、別に彼氏にしようとかそういうんじゃないんだよ。ちょっと気持ちいいことして、楽しくなって、ってだけでしょ? 心配しなくても、私、後々めんどくさいことにしたりしないよ」
反射的に胸がむかついた。苛立っているのだと思ったが、すぐに違うとわかった。口の中が苦い。たぶん、自分は傷ついているのだと思った。でもそんなことを言えば笑われてしまいそうな気がした。
「ああ、でもそっか。サカガミ君はこういうことしたくないんだね。健全だから。それに、彼女と別れたばっかりだから」
「そうじゃなくて、それ以前の問題だよ」
「それ以前ってなに。道徳とか倫理とかそういうの?」
コヌカミサキはそっと顔を近づけてくる。女の子にしては背が高いから、それほど目線は低くない。すぐ近くで、訴えかけるような瞳で、困ったようにまばたきをする。
「ね、そんなのって案外どうでもいいよ。これってすごく健全だよ。だから、だめ?」
十分すぎるくらいの誘惑だった。潤んだ目、それを縁取るマスカラで質量を備えた睫毛が静かに上下する。少し尖らせた口元。上気した頬。震えるような息。それがこちらの口元にかかる。微かに酒の匂いがして、生暖かく湿っている。気がつくと腕に相手の指が添えられている。指先が軽くジャケットの袖を引っかく。誘っているのだ。全身で。作為的に、本能的に。相手の本能を誘き出そうと懸命になって。
頭が混乱する。脳がちりちりして指が震えた。衝動的に涙が出そうになる。駄目だ。
気持ち悪い。
「駄目なんだよ」
呟いたが、声はほとんど掠れていた。
「え?」
「無理なんだ。ごめん。本当に」
叫んで振り払いたくなる衝動をどうにか堪える。腕が震えた。
「どうしたの、サカガミ君」
コヌカミサキがぎゅっと腕を握る。
「ごめん。許して。離して。無理だから」
意識が乱れる。息が震える。動揺するな、と自分に言い聞かせる。バカらしい。簡単に受け流せ。でも無理だ。
「ねえ、変だよ。大丈夫?」
「そうだよ。変なんだよ。無理なんだよ」
相手の指をほどこうと腕を払う。後ずさりする。
「できないんだよ。無理なんだ。相手がどうこうじゃなくて、役に立たないんだよ。そういうときになると。だからいくら誘われたって無理なの。頑張られたって無理なんだよ。こっちだって頑張ろうとしてるんだよ。嘘じゃなくて。でもできないんだよ」
「サカガミ君」
「一人だったら平気なんだ。家だと平気でAV見ながら抜けるんだよ。凡庸で健全で普通の男だよ。別に魅力がないとかそんなんじゃなくて、ただ気持ち悪いんだよ。それがそんなに駄目なのかよ」
「駄目じゃないよ」
コヌカミサキは僕の手を思い切り引いた。予想外の力に思わずよろめくと、彼女は僕を真正面から抱きしめた。
「ごめんね。大丈夫だから。いいんだよ」
駅までの道沿いに小さな公園があった。コヌカミサキは僕をそこに連れて行き、ベンチに座らせた。気分はもうだいぶ落ち着いていたが、心配そうに僕の手を引いていく女の子の言うままになっていた。
頭の芯が不思議に痺れていた。感情を暴発させたからだろう。酔いも手伝ったとはいえ、知り合ったばかりの女の子の前で。微かな後悔と、同時に少し心地よい諦めのような気持ちもあった。ほてった頬が風に冷やされていく感覚だけに集中していた。何も考えたくなかった。
「飲む?」
隣に座ったコヌカミサキが自販機で買ったペットボトルを差し出してくる。僕は首を振る。
彼女は自分で蓋を開けて一口だけ飲む。
「私ね、考えたんだけど」
僕は黙ったまま機械的に小さく頷く。
「私とサカガミ君は協力し合えるんじゃないかなって」
「協力」
力なく繰り返す僕に彼女は強く頷く。
「そう。お互いにちょうどいいかもしれない」
コヌカミサキの横顔はごく真面目に見えた。
「健全になりたい、って言ったじゃない。私もそうなれたらなって思ったの。さっき。とはいえ、サカガミ君の言う健全と私の目指す健全はぜんぜん別のものなんだろうけど」
「はあ」
「私ね、初めてだったの。断られたの」
「それは、こういう風に誘ったときに?」
「そう」
どのくらいの人数なのか気になったが、さすがに訊けなかった。
「誘わなくても大抵はそういう流れになるし。男の人ってみんなそうだと思ってた」
「まぁ大体そうだけど」
「でもサカガミ君は違ったでしょ」
「それは別に俺が立派な人間だからってわけじゃないよ」
「わかってる」
彼女は足を組みかえて、真剣な目で前を見据えたまま喋る。
「私ってね、バカだから嫌いな人がいないんだ。だから簡単にそういうことができる。でもサカガミ君は女の子とエッチなことが出来ない。ただし身体の都合じゃなくて精神的な問題で。だよね?」
「うん、まぁ」
妙な居心地の悪さを喉の奥に無理矢理飲み込んで返事をした。
「それで誰に何を言われたのかは聞かないけど、気にすることないと思うよ。うん。私はいいと思う。健全になりたいって思うのも素敵だと思う」
「素敵じゃないよ。情けないだけだよ。男の癖に」
「大丈夫だよ」
コヌカミサキは前かがみになって、僕に顔を向けてのぞきこむようにした。長い髪が肩からさらりと滑り落ちる。さきほどの媚態とは違う目の輝きがこちらを見据えている。子犬みたいだ。
「男の子の中には、戦士と乙女がいるんだよ。変じゃないよ」
「なにそれ」
「いろんな人を見ていて私が思ったこと」
「何かの受け売りとかじゃなくて」
「そう」
「でも俺の中には乙女なんかいないよ。戦士だっていないし」
「そうかな。でも、どっちもいなくたっていいよ。とにかく大丈夫だよ」
彼女はそう言って、さすがに照れくさいのかぎこちない様子でペットボトルをもう一口飲んだ。
「とにかく、私はサカガミ君の中の『健全でありたい部分』が気になるんだ。だからしばらくやってみようよ」
「何を?」
問われて彼女はまばたきをする。
「何か……何か、健全なこと」
それから土曜日の朝七時、考えられうる限り世界が最も健全で穏やかな時間に、コヌカミサキは歩いて二十分ほどの僕の家までやってきては携帯を鳴らすようになった。
毎週、僕たちは並んで散歩をしながら(コヌカミサキは時々ステップを踏みながら)いろんな話をした。僕の話の方が圧倒的につまらなかった。平凡な家庭に生まれ育ち、それなりの努力をしながらそれなりの学校に入り、就職を避けて大学院に進んだ。今までできた彼女は二人。高校時代の彼女にはあっという間に振られ(気の迷いだったと言われた)、大学四年になってようやくできた彼女には半年経っても手を出さないという理由で泣かれ、喚かれ、最終的には罵倒されて別れ(個人的な侮辱として受け取られたらしい)、怒涛の卒業研究でなんとか気を紛らわせているところその慰めと称して研究室の先輩に飲みや麻雀に付き合わされるようになり、あのダンスホールに連れて行かれた。そんな話をしながら、冴えない人生のありふれた見本のようだとつくづく思った。起伏に乏しく全部が中途半端だ。
「女の子とエッチなことするのが駄目なのって、なにか理由は思い当たらないの?」
コヌカミサキは天気の話でもするみたいに質問する。だから僕もなにげないふうに答える。
「自分でもいろいろ考えたけど、別に理由はない」
「性欲はあるんだよね?」
「あるよ」
「親が厳しかったとか、夫婦仲がよくないとか?」
「ごく普通だよ。親父はどこにでもいるような典型的なエロ親父だし、母さんはちょっと口うるさいけど明るくて元気で、たまに喧嘩しながら仲良くやってる」
「絵に描いたみたいな家庭」
うらやましい、とコヌカミサキは何の感慨も込めずに呟く。なんと言えばいいのかわからなくて、「恵まれてるとは思うよ」とだけ答えた。
コヌカミサキの人生は僕に比べれば少し波風のあるものだったらしい。
十六歳のときに両親が離婚した。もうとうに冷め切っていたから意外性はなかった。父親に引き取られることに決まったものの、なぜか両親は一緒に暮らし続けた。家庭内別居だ。それぞれに恋人がいるらしかった。まるで機能していない家庭にうんざりして、高校を卒業する前から無理矢理家を出た。コンビニの深夜勤務とファーストフードのアルバイトの掛け持ちでぎりぎり食べている。怪我や病気は今のところないが先はわからない。やがて五つ年上の兄が引きこもりになったことを知る。何度も実家に帰るうち、兄が自分だけは部屋に入れてくれるようになる。でもほとんど喋らない。だから自分の話を色々する。昔の話をすると感情が動くらしく、いつまでも思い出話をしたりする。けれどそれで感情が昂ぶってやがて暴れだす。厳しかった父親への怒りが爆発する。そうなったら静かに部屋を出ていくしかない。以前は月に二度くらい尋ねていたけれど、段々と面倒くさくなってしまい最近はまったく顔を見せていない。その状態が二年ほど続いている。
「なんとかしてあげたいとは思うけど」
声が曇る。
僕が十九だったなら、そんな重たいものをなんとかしてあげたいなんて思う余裕さえないだろうな、と思った。自分のことで手いっぱいで心を痛めもしないだろう。
そう口にすると彼女は首を振った。
「私だって別に普段は忘れてるもの。たまに都合よく思い出して心を痛めてるふりをしてるだけで。結局自分のことで手いっぱいなんだよ」
彼女は顔をしかめてうつむく。
「みんながお兄ちゃんのことをほったらかしにしたからだ、って思ったはずなのに、結局私もほったらかしにしてる側の一人なんだってことが、時々堪らなくなって全部忘れたくなるの」
コヌカミサキのそんな事情を聞かされても、僕にできることは何もなかった。凡庸な人生しか持たない僕では気の利いた言葉さえ浮かばないのだ。
彼女と過ごしていると、なにげないタイミングで会話が途切れることがたびたびあった。そんなとき僕たちはただぼんやりと歩いていた。それで特に困ることもないのも不思議だった。以前つきあっていた女の子とはこういう感覚はなかったな、とふと思った。いつも何かを話したり喜ばせたりして好かれなければと焦っていた気がする。後半はずっとぎくしゃくしていたせいもあるだろう。
自分の話をこんな風にするのも初めてなら、誰かの話をこんな風に聞くのも初めてだった。くすぐったいようで肌に馴染む不思議な時間だ。欠けていることを隠す必要がなくて、どこかで許されている気にさえなる。
少し先で、彼女は軽やかに朝の道を歩いていく。あの夜から三週間が経っていたが、あれからまだ一度も彼女の踊りを見ていない。歩きながら彼女が小さくステップを踏むたびに、あの夜の記憶の余韻が脳の奥で揺らめいていた。音楽を生み出すような不思議な動き。喜びにあふれたダンス。
もう一度見てみたい。
「ねえねえ、どこまでなら大丈夫なの?」
ふくらんだつぼみをつけた桜の枝を眺めながらコヌカミサキが言う。
「どこまでって?」
「エッチなこと。あ、言いたくなかったら別にいいけど。好奇心みたいなものだから」
「全部だよ」
「全部」コヌカミサキは何かを言おうとして、何かを飲み込むように黙ってから口を開く。
「でも欲求はある」
「あるよ。相手が目の前にいなければね」
「目の前に女の子がいたらダメなの?」
「今までのことを考えたらたぶんそうだと思う」
「他人に自分をさらけ出すのが怖いとか、それかプレッシャーみたいなものがあるのかな?」
「そうかもしれない」
それについて考えようとすると、嫌な記憶と不快感が反射的に蘇ってくる。そのせいで考えが続かない。
「いざその時になると……なんだか気持ちが悪くなる」
「嫌悪感?」
「そう」
「一体何に対しての?」
「わからない。ただなんだか全部がバカらしいような気がしてきて」
「バカらしい、か」
彼女は何かを考え込むように黙る。僕も黙る。
やわらかな風が吹いていた。春の予感を含ませた三月の終わりの風だ。まだ気温は風の暖かさに追いついていない。それでも春だ。肌の表面が冷えても、桜が咲いていなくても、春は確実にやって来ていた。
「それに関しては何も言ってあげられない」
コヌカミサキは珍しく小さな、控えめな声で呟いた。
「私はバカらしいと思ったことはあんまりないけど。もちろん時々はあるけどね。相手によって変わったりするとは思う。でもまぁ世間的に見れば随分いい加減なことしてるんだろうし、私の意見はアテにならないだろうし、たくさん考えるのはきっといいことだよね」
僕は返事をしない。
「私はそういう時に踊るんだよ」
彼女は少し足を差し伸ばし、また軽やかにステップを踏んだ。
「誰にも教わったことないのに、気がついたら自然に身体を動かしてた。小さい頃から。考える代わりに踊るみたい。息をするのも忘れてしまうくらいに必死でね。そうしたらうまい具合に自分がなくなって、不安とか焦りとかが全部溶けるんだ。天国にいるみたいに」
「息をするのを忘れるくらい夢中になったことなんかないよ」
「そんなのもったいないね」僕の答えにコヌカミサキは笑って、
「きっと本当はすごく素敵で……幸せなものなんだろうし、そうあってほしいと思うよ」と言った。
何かものごとが三回続けば、それはしばらく続くものだと認識して、その先を期待する。
コヌカミサキがやってくる土曜日の朝のことも、最初は半信半疑だったくせに、三回目が来たなら四回目もあるのだろうと自然に期待している自分が居た。よくわからない経緯で始まったよくわからない約束だったのに。
でもその次の週、コヌカミサキは現れなかった。一緒に桜が見られると楽しみにしていたのに。電話さえなかった。こちらからかけようと思ったが躊躇われた。七時半まで待って、それから一人で散歩に行った。川沿いの道には桜が咲いていた。さくらさくら、と歌いながらステップを踏むコヌカミサキのことを思い浮かべた。それは春の風と桜の花びらがいかにも似合いそうな光景だった。
飽きられたのか、うんざりされたのか、それとも何か事情があるのか、考えてもどうしようもなかったし、正直考えるのも面倒くさかった。第一、あんな勢いだけの約束を律儀に三回守ってくれただけでも不思議なくらいなのだ。
僕はまた自堕落な春休みを続けた。先輩から誘われて麻雀に顔を出し、酒を飲み、何もない日は一日家で寝たままパソコンをいじってはアニメを見たり漫画を読んだりしていた。上の階の部屋に新しい住人が引越し来たがなんの挨拶もなかった。社会人の男の一人暮らしのようだ。猶予期間の春休みはあっという間に終わり、桜が咲いて散って、僕をふった女の子は卒業して人生の新しい段階へ進み(どうなったのか詳しくは知らない)、僕は大学院の入学式を済ませ、新学期が始まった。
その人生に取り立てて不満はなかった。僕には家庭内別居する両親もいなければ引きこもりの兄も居ない。ここしばらくはとりあえずただ大人しく数式やらグラフやらに埋もれていればいいのだ。そのうち就職活動が始まるのだろうけど、これまでだってうまくやってきたし、これからもうまくやっていけるだろうと思う。ダンスもセックスも出来ないけれど。
新学期になってから歓迎会と称した研究室の飲み会が何度か開かれた。先輩の暇つぶしでもあり、他の大学から進学してきた学生との交流の場でもある。その中に、少しコヌカミサキに似ている女の子がいた。サシキさんは長い黒髪ですらりと背が高く、目元がすっきりしていて快活そうに喋る。でももちろんコヌカミサキより大人びていたし態度もずいぶん落ち着いていた。
飲んでいる最中、コヌカミサキを思い出しながらつい彼女の方をちらちらと見てしまう。けれど期待するまでもなく、サシキさんと微妙な関係になることはなかった。彼女の右手の薬指にはシンプルなリングが光っていたし、最初の飲み会で彼氏が居ることも公言していた。穏やかで優しく無理のない素敵な女の子だった。彼女の彼氏はマトモなセックスをするのだろうし、彼女自身も色んな男と寝たりはしないだろう。
当然ながらコヌカミサキと会った回数よりも、サシキさんと顔を合わせる回数の方が遥かに多くなっていく。そうやってコヌカミサキの面影は少しずつ薄れ、サシキさんの印象が強くなっていく。こんな風に人は忘れていくんだなと思った。偶然の出会いなんてものは結局のところ偶然以上にはなり得ないのだと。
また夢を見る。ダンスの夢だ。
踊っているのはコヌカミサキだ。あの日と同じようにぴったりと身体に添うニットとジーンズを着て、スニーカーを履いている。長い髪にほんの少しの化粧。音楽はない。ドラムだけが鳴っている。いや、それだけで音楽だ。空間が揺れる。膨らむ。張り詰めては渦を生む。その真ん中にコヌカミサキがいる。スポットライトを浴びて手を広げ、微笑みながらステップを踏んでいる。つま先で跳ね踵を鳴らし、首を傾げて肩を反らす。どうやったらそんな動きが出来るのだろうと不思議に思う。コヌカミサキは音楽そのものになっている。
突然、ドラムの音が不規則になった。テンポも急激に遅くなり、地を這うように微妙な拍子が続いていく。予測不能の変拍子。でも彼女は余裕の表情を崩さない。ゆったりした動きで身体を揺らす。髪がさらさらと流れる。空間を突くようなドラムの音、途端に身体は跳ねる。
まるで天国にいるみたいだ。
踊りたい、と思った。その隣に加わりたい。でも駄目だ。身体が動かない。見下ろすと僕の身体には腕と足がなかった。動かないわけだとどこかで納得する。視線の先でコヌカミサキは踊っている。光の中汗を輝かせながら。羨ましい、と思った。いや違う。妬ましいのだ。あるいは寂しいのかもしれない。踊れないことが。スポットライトを浴びることができないのが。
コヌカミサキは踊り続けていた。いい加減体力も尽きてしまうんじゃないかと心配になっても、まだステップを踏み続けていた。だんだん見ているこちらが不安になってきた。そんなペースがいつまでも続くわけがないのだ。いつか踊りをやめなければいけないのに。
やがて尋常でない量の汗が彼女の額を流れ出した。ジーンズやニットもところどころまだらに汗で染まっている。でもコヌカミサキは踊るのをやめない。息が切れて苦痛の表情を浮かべながら、それでも、音楽と一体になって踊り続けている。
やめさせなければ。
立ち上がろうとしても足がない。声を出そうとした。叫んで伝えようとした。もう彼女の身体が限界に来ていることを。息を吸う。なぜか肋骨が痛かった。そこで初めて、僕の鼓動ももう限界なくらい強く早く鳴り続けていたことに気がついた。痛みをこらえて声帯を震わせた瞬間、突然照明が消えて完全な闇が訪れた。
鈍く低い物音で目が覚めた。
目を開くと部屋の中はほとんど真っ暗だった。カーテン越しに外灯の光の存在を確認する。心臓がどきどきと鳴っていた。息も乱れ、額にはうっすら汗が滲んでいる。
二階の住人が何か重いものでも落としたのだろうか。物音の残響が耳の奥に残っていたが辺りは静かだ。
息をつき、枕もとの携帯を手に取る。頭を動かすとずきずきと痛んだ。血管が膨らんではちりちり収縮している。時刻は二十三時の少し手前だった。少しずつ記憶が蘇ってくる。夕方先輩に飲みに連れて行かれたものの、途中で悪い酔いして具合が悪くなって帰って来たのだ。そしてそのまま布団に倒れこんだ。
明日の朝まともに起きられるだろうか、と考えて明日は土曜日だと気がつく。早起きする必要はない。たぶん明日もコヌカミサキは来ない。来週の土曜もその次も。きっともうずっと。このまま会うことはないのだろう。
そのとき突然、激しい虚無感が胸を覆った。
自分の内側で何かがぼろぼろと崩れ落ちていく音が聞こえる気さえした。自分がひどく孤独な気がしたし、恐らくはそれは事実なのだった。僕は不完全で、ねじれていて、関わるものごとを何一つまともにできず、それどころか台無しにしてしまう。誰も彼もが通り過ぎていくだけだ。軽やかに踊るコヌカミサキが遠くに見えた。僕は寂しかった。どうしようもなく寂しくて情けなかった。余りに唐突にそれに気がついて愕然とした。なんだ、今まで何も見ていなかっただけなのか。
携帯電話を開く。ひと月近く前の朝七時の着信はまだ残っていた。それを眺めてしばらく迷う。いくつかのものごとを考えた。もう遅い時間だとか最初になんと言うべきかだとか。でも実際にはそれを考えようと繰り返しているだけで、まるで思考が進んでいないことに気がついた。もういい。なにも考えない。発信ボタンを押す。これでもし出なかったなら、コヌカミサキのことは完全に忘れようと思った。本当に完全に。
呼び出し音が鳴る。二回。三回。息をつめて待っている。ぷつり、と音が途切れたので反射的に口を開こうとした。けれど留守番電話の応答音声が流れ始めた。失望と安心が胸に湧いた。そのどちらが大きいのかは切ってから考えようと耳を離した。
その瞬間に人の声がした。
「……サカガミ君?」
コヌカミサキの声だ。
息を呑む。声が出そうにない。咳払いをする。
「ごめん、遅くに」僕は言う。
「ううん」彼女は答える。
それで少しだけ会話が途切れる。
「どうしたの、急に」
彼女は感情の読めない声で問う。まるで何事もなかったみたいに。
「なんでもないんだ。いや、違う、心配になったんだ」うろたえながらなんとかそう言った。「急に来なくなったから。でもいいんだ、それでいいんだったら構わないし」
要領を得ない。コヌカミサキはしばらく黙っていた。僕も黙る。電話が切れてしまわないか不安に思いながら。
「ごめんなさい」
やがて彼女が小さな声で言う。消え入りそうな声だ。
「謝る必要はないけど」
「ううん」
彼女も何度か小さく咳払いをした。声が少し曇っている。
「サカガミ君」
「うん」
「会いに行ってもいい?」
「うん、じゃあまた明日の朝に――」
「そうじゃなくて、今から」
「今? これから?」
「そう」
「じゃあ遅いから俺が行くよ」
「いいの。私が行く。だから待ってて」
しばらく黙っていると相手が重ねる。
「大丈夫だから」
それから二十分ほどでコヌカミサキはやってきた。薄手のパーカーとジーンズ、スニーカー。キャップはかぶっていない。アパートの前で待っていた僕と目を合わせないようにうつむいて、薄暗い外灯の下を歩いてくる。
目の前まで来てようやく彼女は目線を上げた。自分のひどい格好が気になった。酔ってそのまま寝転んでいたから服は皺になっているし、髪は乱れている。目だって充血しているかもしれない。
「電話をくれてありがとう」コヌカミサキは言った。声はやはりかすれていた。
「部屋に上がってもいい?」
彼女はちらりと一瞬だけ僕の目を見る。
「散らかってるけど」
「いいよ。気にしない。それに、何もしないから」
そう言って目を合わせないまま薄く笑った。
電話を切ってから慌てて片付けはしたが、部屋は十分に混乱していた。とりあえず洗濯物をかごに入れて洗面所に隠し、食器類は流し台に放り込み、教科書や雑誌はベッドの下に追いやってどうにか場所を作った。でも何もかも雑然として汚いままだ。
コヌカミサキは僕の部屋を見ても特に何も言わなかった。黙ったまま部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
「座って」
クッションを渡すとようやく思い出したみたいにテーブルの前に座り込む。
「何か飲む?」
尋ねても彼女はただ首を振る。僕は手持ち無沙汰のまま、彼女から距離を開けてベッドの前に座った。
そして痛々しいくらいの沈黙が降りてくる。
二人で歩いていたときの沈黙とは違う。心臓は痛いくらい鳴っていて居心地が悪かった。緊張なんかしたくなかった。でもしないわけにはいかない。
「ねえ、サカガミ君」
コヌカミサキは床を見つめたまま静かに呟く。
「前に、エッチなことは全部ダメって言ってたよね。全部って、どこからどこまで?」
僕は彼女を見る。思わず息を呑んだ。
「全部? ハグも? キスも?」
答えられずにいると、彼女はすっと立ち上がる。そしてこちらを見ないまま手を伸ばし、紐を引いて照明を消した。途端に部屋が暗くなる。
「コヌカさん」
「ね、試してみてもいい?」
暗がりの中で衣擦れの音と共に彼女のシルエットが近づいてくる。動けないままでいると、傍にしゃがみこんでそっと寄り添ってきた。人の体温が急に近づく。それから吐息の気配。腕にそっと指が添えられる。二の腕に女の子のやわらかい身体が押し付けられた。
「待って」
「試すだけだよ。それ以上はしないから」
かすれた声が耳元で囁く。
「駄目だ」
「嫌」
彼女は僕の胸元に手のひらで触れる。そしてそこに滑り込ませるように身を寄せて頬をつけた。温かい身体が腕の内側に潜り込んでくる。人の匂いが鼻腔をくすぐる。手足が固まったように動かない。彼女を止めないのは戸惑っているからだけじゃない。たぶんどこかで期待しているからだ。そして期待する自分を汚いと思った。頭がくらくらする。酸欠になりそうだ。
「ね、大丈夫だよ。天国みたいだから。踊るのと同じくらい気持ちいいの。辛いことも怖いこともなくて、一番安心して気持ちよくて楽しいんだよ」
そっと耳に息を吐きかけられた。首筋を震えが伝う。手足が痺れるように熱かった。呼吸が乱れる。身体の底から突き上げてくるような衝動をやり過ごそうと、できるだけ深く長く息を吐いた。嫌悪感が胸の内側で渦巻いている。質量を持った、重くのた打ち回るような渦だ。でも彼女にひどいことをしたくなかった。だから飲み込むようにしてそれを堪える。
コヌカミサキは速い呼吸を繰り返しながら小さく身体を震わせていた。しがみつくように僕の胸元に頬を寄せ、背中に腕を回し、じっと押し黙っていた。でもやがて呼吸が少しずつ乱れ始める。こらえるように喉を鳴らして耐えていたのが、段々と嗚咽が混じるようになってくる。コヌカミサキは泣いていた。なるべくしゃくりあげないようにしながら、静かに泣いていた。
「どうして抱きしめてくれないの?」
切迫した口調で彼女は囁く。
「私は今、誰かに抱きしめられて、キスされて、大事にされたいんだよ。わからないの?」
「でも」
「でもじゃなくて。だってでもなくて」
「でも、俺はそれをするのにふさわしい相手じゃないと思う」
僕がコヌカミサキのなんだというのだろう。僕にはまだ、彼女を抱きしめてキスして大事にする資格なんてない。
それから彼女はいっそうひどく泣いた。でもそれは激しいというよりは、すすり泣きが言葉を失わせているに過ぎなくて、その静かさが却って痛々しかった。しがみつく相手が僕しかいないのだと思った。ずっと迷っていた。腕を伸ばして抱きしめるべきなのかどうか、そしてこの迷いが単なる自己満足なのかどうか。むしろ思い切り抱きしめたかった。嫌悪を超えてそう強く思った。でもそれが今、本当に誠実なことだとは思えない。胸元が涙と吐息であたたかく湿っていく。
そうやって迷い続けているうち、コヌカミサキは少しずつ泣き止み始めた。波が徐々に激しさを失うように、すすり泣きはゆっくりとおさまっていく。
「怖い」
彼女はゆっくりと頬を僕の胸から離して呟いた。体温が少し遠ざかる。
「どうして?」僕はゆっくりと問う。
「サカガミ君、何もしてくれないから」
彼女は服の袖で目元を拭う。
「会うけど、話すけど、それ以上のことがないから。私そんなふうにされたことがなくて」
「どういうこと」
コヌカミサキは首を振る。
「わからない。ただ不安になるの。このままでいいのかな、これがちゃんと続くのかなって。何もしないままでも平気なのかなって。でもサカガミ君はエッチなことが出来ないって言うし、どうしていいのかわからなくなった」
「だって……友達だよ。まだ」
彼女の言う意味がよくわからなかった。
「俺ができるできない関係なく、そういう間柄じゃないよ」
「うん。でも、それが続くとも思えないし、自分が……」
彼女は反射的に俯いた。
「少しは、自分が大事にされてるのかなって思ったの。でもそんなものにふさわしい人間じゃないから。私が。だったらエッチする方が楽なの。私の存在価値がはっきりするから」
何を答えるべきなのかわからなくなった。僕が黙っていると、彼女はまた泣き始めた。時々肩をぴくりと震わせながら。
夜は深まり続けていた。時間は密度を更に濃く重く練り上げてゆっくりと流れていく。沈黙もまた重い。うつむいて袖を目に当てている彼女を見ているうちに、先ほどの夢を思い出した。いつまでも踊り続けるコヌカミサキを。誰かに止められるまで、限界が来ても踊り続けようとする彼女を。
「たぶん、目の前にいると……疑問の方が大きくなるんだよ」
気がつくと自然と口が開いていた。コヌカミサキは僕の声で顔を上げてこちらを見た。カーテン越しの外灯の光で、目が少し腫れているのがわかる。
「自分が本当に相手のことを好きなのか、相手もそうなのか、あるいはそういうことをしたいだけなんじゃないかって考え出すと、悪酔いしたみたいになってきて、気持ち悪くなるんだよ」
「うん」
彼女はかすれた声で僕の話に相槌を打つ。
「それで吐き気がするんだ。いつも。迷うんだよ。欲求が強ければ強いほど」
「うん」
「みんなが平気だとしても、どうして自分がそうなってしまうのかわからないんだ」
うん、とまたコヌカミサキは目を伏せたまま頷いた。
「どこかで変わらなくちゃとか、ずっとこのままかもしれないとか、時々考える。でもすぐに忘れてしまう。どうにかなるんだろうと思って。付き合っていた女の子にも話そうとしたけど、うまくいかなかった。いつも泣かれて、最終的にはすごく傷つけたんだと思う。そうやって辛いことだってあったのに、俺はすぐ忘れようとするんだよ。でもコヌカさんが」
僕は一度つばを飲む。大して話しているわけでもないのに喉が痛い。
「話を聞いてくれたから。考えたいと思ったし、うまく忘れられなくなった」
泣きそうになっている自分に気がついて、短く息を吐いた。
コヌカミサキは一度大きく頷いた。それから鼻をすすり目元を拭い、息を整えようと深く吸い込んで、少し止めたのちゆっくりと吐き出した。それからそっと口を開いた。
「お兄ちゃんが自殺したの」
落ち着いた静かな口調だった。
「半年前、家を出てたんだって。親に借金して。アルバイトを始めて。一人暮らしを始めたんだって。私、全然知らなかった。それで先月連絡があったの。睡眠薬を飲んで手首を切ったところをたまたま尋ねていった母親が発見したって。変な話だよね。いつもいつもほったらかしにしておいたくせに、そんなときだけちゃんと見つけて」
コヌカミサキはそっとベッドにもたれかかる。そして僕の肩に軽く頭をのせた。
「アルバイト先ではそれなりに頑張っていたみたい。対人関係が苦手な人だからうまくいかないことも多かったみたいだけど、助けてくれる人もいたって。でも手首を切っちゃった。今も入院してる。精神科の方だけどね。私、お兄ちゃんの気持ちがわかるの。ある日急に頑張れなくなっちゃうんだよ。それまでなんとかしてても、どうにか出来ていても、急に頑張り続けていくのがすごく怖くなるんだ。糸が切れるみたいに。そしてどうしようもなく不安になるの。足元の地面がなくなっちゃう。今このとき、自分が何をどうすればいいかわからなくなっちゃう」
話しながら、またコヌカミサキは泣き始めているようだった。でも時々鼻をすするだけで口調は淀みない。
「このまんまの生活をずっと続けられるかだってわからない。家族のこともどうすればいいのかわからない。だから不安になったら踊るの。その間は何も考えてなくていいから。そして時々、踊ったあとで男の人と寝る。一回だけ。一度寝たらその人とはもう会わない。向こうも元々そのつもりだし。そしたらね、すごく大事にされてる気持ちになれるんだよ。大体の人は親切にしてくれるし、あったかくて親密で気持ちいいの。それが一回きりしか手に入らないってわかってたら怖くない。きれいなものなんて、一回きりでいいの。そうじゃないと怖いから」
「怖い?」
「怖いよ。いいことがずっと続くなんて思えない。なくしたらどうしようって不安になる」
「だから来なくなった?」
尋ねると彼女は頷いた。
僕たちはしばらく肩を寄せ合ったままで呼吸をしていた。辺りにはなんの音もなかった。あらゆるものが息を潜めて夜の深さを見つめていた。今はどのくらいの時刻なのだろう。ふと、音楽が欲しいな、と思った。楽しげで踊りを誘うような喜びに溢れた音楽。それにあわせてコヌカミサキが踊るのだ。
「また、コヌカさんが踊るのを見たい」
気がついたらそう口にしていた。うん、と彼女もぼんやりと返事をする。
「何もうまく言えないけど、確かじゃないけど、一度きりじゃ嫌なんだ。また見たい。音楽に合わせて楽しそうに踊るところ」
「本当?」
「本当に」
「嬉しいな」彼女は吐息だけで笑う。「嬉しい」
そう言って僕の胸元に身を寄せた。ごく自然に、子犬が母犬にそうするみたいに。僕はほんの少しだけ迷って、彼女の肩に手を回した。力をこめないように気をつけながら。
女の子はこんなにも小さくて細かったんだな、と思った。この身体があんなに強く踊るのだ。奇跡みたいだと思う。温かくてやわらかくて、懸命に呼吸しているひとつの肉体のことを。
「もうわかったと思うけど、俺は戦士でも乙女でもないよ」
「うん」
「強くもないし純粋でもないんだ」
「わかってる」くすくすと彼女は笑う。
「でも一緒に考えよう。なんとかなるよ」
「なんとかなる? どうやって?」
「それはわからないけど」
素直に答える次は小さく声を立てて笑った。
「ちゃんとした答えを出してあげられなくてごめん」
僕は謝る。コヌカミサキは腕の中から僕を見上げた。
「じゃあ、私もごめんね」
そう言って嬉しそうに微笑む。
初めて見る表情のような気がした。
「でもこうしてたら、ちょっとずつ勇気が出ると思わない?あったかくてやわらかくてやさしくて」
「うん」
「だから、サカガミ君は偉いね」
僕は返答に困って彼女を見下ろす。彼女は心地良さそうに目を閉じていた。
「ずっとこういうものを我慢して、ごまかしもせずに、一人で頑張ってきたんでしょ? 強くって偉い」
思いもかけない言葉だったからか、思いもかけないかたちで感情が動いた。不思議なくらい目の奥が熱くなって、制御する間もないうちに涙が零れてきた。視界が滲む。ひどく格好悪い。どうすればいいのかうろたえた。
強くも偉くないよ、情けないよと言おうとした。でも言葉のかたちになったかはわからない。コヌカミサキはずっと小さく相槌を繰り返していた。僕の嗚咽や呻きに答えて。
頭が痺れ、鼻や喉が熱くなって、いつしか泣いていることに没頭して、彼女が腕の中に居ることも忘れそうになるくらいに意識が溶けた頃、遠くで囁き声がした。
「ねえ、息してる?」
目が覚めるとまだあたりは暗かった。真夜中だ。
コヌカミサキは僕の肩に寄りかかったまますうすうと小さな寝息を立てていた。僕は彼女を起こさないようにそっと抱える。細い身体は見かけよりも案外重い。よろめきながらベッドに寝かせると、彼女は呻きながら寝返りをうってまた眠りに潜っていった。
無理な体勢で寝ていたから身体が痛かった。立ち上がって首を伸ばす。随分長い間身体を使っていなかった気がする。こんなに深く呼吸をしたのも、記憶にある限り初めてのような気がした。単なる錯覚だろうか。
傍らのベッドで眠るコヌカミサキは完璧な眠りについている。七時になったら、彼女を起こして歩きに行こうと思った。もう桜は散っているけれど風は暖かく、川沿いの道には春が残っているはずだ。気持ちのいいステップの音が自然と耳裏で再生された。
あるいは雨が降ったなら、雨音にあわせて彼女が踊るのを見よう。身体が、髪が、弾けて跳ねるのを見ていよう。僕もそのうちに隣で踊りだすかもしれない。それも悪くない。
窓辺に寄って少しカーテンを開けた。まだ朝の気配は遠い。空は深く眠っている。世界のあらゆるものが眠っている。けれど僕だけが静かにはっきりと覚醒していた。身体は予感を捉えて疼いていた。手足に血液が巡っていくのがありありとわかる。我慢できなくなって、僕はその場で少しだけステップを踏んだ。ぎこちなく。まずは足音を立てないように、一人でひっそりと。
***
資料という名の懺悔文
足音、というお題から最初に連想したイメージは、なぜか「生命力」でした。
生命力とダンスのステップが私の内側で繋がっていたからかもしれません。とりあえず、それを題材にしてお話を書いてみようと思って冒頭を書き始めました。
今回の「めあて」。前回の企画ではお題を抽象的に使ったので、今回は敢えてわかりやすく使うこと。シビアなトラウマを容易に使わないで、なるべく普通の(でも少しだけ欠けたところがある)人々を登場させること。会話を中心に据えてみること。結末をもう少し穏やかで希望の持てるものにすること。寂しくなってしまうようなものではなくて。
そんなことを意識しながら書いていましたが、一番大きな挑戦は性行為のことをくだけた呼び方をしている点かもしれません。長い間抵抗のあったことなのですが。でもそんなの誰にも理解できないポイントですね。
そしてなんとなく書いているうちに、気がつくと今までに書いた中で一番長い短編になりました。相変わらず結末を知らないまま書き始めるので、いったいいつどのように終わるのか戦々恐々としていました。息継ぎが下手なので読みにくかろうと思います。推敲も不足しているので文章もところどころつまずきます。良くない意味で軽いです。せめてあと一週間あれば、という後悔はすべて不徳の致すところ、自業自得です。すみませんでした……
着手している期間の通勤時間、それから書いているときも時折、上原ひろみさんのDancando No Paraisoという曲を聴いていました。タイトルもほとんどそこから引っ張ってきたようなものですね。私が聞いていたのは2011年の東京JAZZでの演奏ですが。
http://www.youtube.com/watch?v=Qgpw75x3QhU (参考)
まったくの私事ですが、お題締め切りの前日に足を怪我してしまい、かなり長い間満足に歩けない状態で書いていました。お題が「足音」なのになんだか皮肉だなと思いながら。今は引きずりつつもようやくちょっとずつ歩いて、外へ向かい始めているところです。
最後までお読みくださったのなら幸甚です。