Neetel Inside ニートノベル
表紙

Soul Sisters
Rough and Rumble

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 ヨモツヘグイ、漢字で書けば『黄泉竈食』となる。
 元を辿れば日本神話、イザナギの黄泉下りの中に登場する語で『死者の国で煮炊きされたものを口にすること』だが、霊能力者の間では『他人の魂力が籠められた食べ物を飲み込むこと』を指す。
 これの恐ろしいところは魂の防御システムが作用しないところだ。
 たとえ一般人でも、体内に魂力を注がれれば魂は抵抗する。桜と牡丹のような例は稀有であり、普通は身体の中に魂は一つ。侵入しようとすれば力押しか、ハーメルンの笛の音のように時間をかけて干渉する必要がある。
 しかし「食べる」という行為はそもそもそれを体内に取り込もうとしている、故にすんなりと入り込むことができ、十分な魂力を持っていても一度取り入れてしまえば排除は難しい。
 とはいえ『食べ物に魂力を籠め、維持し続ける』というのはそうそうできるものではなく、ソソギ――魂力を何かに籠める霊能力者をこう呼ぶ――の中でも一握り。
「の、はずなんだけどねェ。相当タチ悪いの引いちゃった」
 さすがのベイビーの笑みにも苦味が混じる。
 『白木単』が連れ去られてから一夜明けて。
 夏の日差しが降り注ぐ正午過ぎ、ベイビーたちは突き止めたマンションの前にバンを停めてテンフィンガーとザンギリの「作業」が終わるのを待っていた。
「ヤクって言ってもモノは魂力籠めてあるだけのラムネだからサツじゃどうにもできないし、依存性も折り紙つき、ね……」
 資料をぱらぱらと捲るモジャもやはり渋面。
「それに加えて魂力の増幅。あと多分『本体』への服従くらいはオマケで仕込んであると思う。まァ要するに凄くヤバい」
「大丈夫ですかね、あの娘たち」
「多分今ならドナー・ドリーマーで喰っちゃった魂力を引きずり出せるレベルだと思うんだけどねェ。万一本体が直々に漬けてたら手遅れかも」
「いや、ヤクのほうじゃなくて」
「あーそっち? わざわざ女子高生攫ってヤク漬けにするんだから処女のままのが高く売れるでしょ。開通済みなら知らんけど」
「気分悪い話しないでくれます?」
 バンの助手席に座るセンサーが苛立った声を上げる。
「初心だねェサッちゃん」
「こんな仕事してるのに」
 エロオヤジ2名の汚い笑いにセンサーはため息をつく。顔が見えないのが幸いだった。
「「おーい」」
 ごつごつと窓ガラスが叩かれる。テンフィンガーとザンギリだ。
「「終わりました」ッス」
 窓を開けてやると二人揃って親指を立てた。
「じゃ、行きますかァ」
 ベイビーたちが車から降りていく。対して「作業」に従事していた二人は一旦バンに乗りこみ、必要なものを持って出てくる。
「改めて確認するけど、今回はかなり――いや、すっげェ面倒くさい」
「それ車の中でやりません?」
 モジャが手を挙げて提案するが、ベイビーは聞こえないフリをする。
「ハコはこのマンションの402号室。敵は少なくともハーメルン、それに加えて霊能力者のひとりは確実にいるはず。客もいたら敵として数えたほうがいいねェ。とにかくそいつらを突破して、桜ちゃんと牡丹ちゃんを奪還する。できれば生きて」
「できれば、って」
「冗談冗談。向こうから『商品』に傷つけるこたァないって。んで、それ以外にもいくらか制約がつく」
 ベイビーは指を三本立てる。
「第一に、『ドナー・ドリーマー』は殆ど使えない。ヨモツヘグイ抜くなんてのはボクも初めてだ、魂力はできるだけ温存したい」
 指が一つ折られる。
「第二に、不殺。コレは依頼人からの要望。ザンギリくんは特に気をつけてねェ」
「ウッス」
「んで最後。これが多分一番深刻だけど、モジャくんも使えない可能性がある」
「えっ?」
 虚を突かれた表情のモジャ。
「正直言って、ハーメルンは格が違う。こんだけの人数がいれば簡単に負けることはないだろうけど、あいつの『笛』を聴き続ければみんな危ない」
「だから、僕が対抗する必要がある、と」
 真剣な面持ちのモジャ。
「だからモジャくんは霊丸……そんな顔するなよォ、魔貫光殺砲は撃てないと思ってほしい。ある程度のサポートはできるだろうけどねェ」
 魔貫光殺砲(ベイビーは霊丸と呼ぶが)はモジャの切り札であり、凝集した音に変わる寸前の魂力を撃ち込む技だ。
 魂に触れれば音として炸裂しそれが人なら鼓膜を破り、霊相手ならばかなりのダメージとなる。
 この五人の中では唯一、遠距離攻撃といっていい代物だがいくらか「溜め」が必要であり、そしてそれはハーメルン相手には大きすぎる隙だ。
「つまり、相当なクソゲーッスね」
 ザンギリが滅入った表情で呟く。
「だねェ」
 それでも、ベイビーの笑みは崩れない。
「まァ、なんとかなるっしょ」
 そう言ってエントランスへと歩き出した。
 またか、といった表情で残りの四人が続く。

「新客来ますけどそっち大丈夫すか」
 テルはリビングのインターホンを切り、奥の和室に呼びかけた。
 返事は舌打ちで返ってきた。中にいるハーメルンとかいう奴は機嫌が悪くなるとこうだ。昨日拉致ってきた女子高生が何やら面倒なことになっているらしい。
 すごい奴だというのは分かっているが、このハコを任されているのは俺だ。勝手なことをされても困る。それにラムネを喰わせりゃどんな女もいずれ堕ちるんだ、喰わせときゃいいのに。
 リビングの机に座る同僚が雑誌から顔を上げ分かるぞ、といった視線を向けてくる。ありがたいがその雑誌が盗撮系なのが色々と台無しだ。
 玄関のほうのチャイムが鳴った。サンキュ、と目だけで示して玄関のドアを開けに向かう。
 新客らしいが、ここで喰うとなったらどうしようか。
 ここでキメる客用の部屋には既に二人入っている。ちょっと入れるには多いか、と思いながらチェーンを外してドアを
「「開けるな!」」
 同僚とハーメルンの声が重なった。え、と思うが既に鍵まで開けてしまっていて、
 あ、と思う間もなく扉が外から引き開けられ、金髪の男がいたと思ったときにはバチンという音と衝撃が来てテルの意識は途切れた。
「警察だ! 麻薬取締法違反で捜査する!」
 大声が響き渡り、入って二つ目の部屋から慌てたような物音が響く。
 一方、リビングにいる男は平然としたものだった。
「ドラマの見すぎだろ今のは。モノホンはあんなこと言わねえよ」
 そして、わざわざ魂力を使って叫ばない。
 これは荒事の始まりだ、と机の上に置いてある『品物』――食玩についてくるようなチャチなラムネの袋を開け、その全てを一気に口の中に入れた。
 時を同じくして、一際大きな舌打ちと共に祭囃子のような笛の音が和室の襖越しに響いてくる。
 廊下を歩いてくる三つの足音のうち二つが一瞬怯んだように立ち止まり、その様子に異常を感じたらしきもう一つも止まった。
 この隙を逃す理由なし。
 素早く立ち上がり、部屋の隅に置いてある自分の商売道具をふたつバッグから引き出す。
 何があったのかサイレンが聞こえ始めた、ああ魂力使ってやがるな。さっきも大声出してたし音使いか。
 音使い。
 そんなものが自分に対抗するのかと思うとどうしようもなく笑えてきた。
 躊躇わず声に出して笑い始める。相手が三人だからという不安が欠片も沸いてこない。むしろ全員まとめてぶち殺す。脳天をかち割って即死させる。両手に握る商売道具に少々魂力を籠めすぎている気もするがそれがどうしたぶち殺す。襖の向こうからまた舌打ちが聞こえたがそれがどうしたぶち殺す、ああおっと危なかった。片方和室に向けるところだった。
 扉の前で何やら待機してるようだがしゃらくせえ、こっちから行ってやる。
 手を離す。オーバードーズ寸前のやり方で増強された魂力を籠めに籠めた3番アイアンと4番アイアンがドアに向けて飛び立った。
 続けざまに数発打ち込めばたちまちドアは蝶番ごと吹き飛んだ、しかし一旦退かれている。感覚が研ぎ澄まされて魂力を使っている奴の位置は手に取るようにわかる、まずは音使い――――いや、何か飛んでくる。
 魂力は対して強くない、まずはこいつをぶっ飛ばす。狙い済ました3番アイアンの一撃が、
 鈍い音がした。当てたのは魂ではない、実際に質量のある
「壁か」
 この薄い壁の中を潜行するのはなかなか技術がいるはずだ。なかなかやるな、と感心しつつ3本目、適当に取ったウッドで出てくるところを狙い撃つ構え。普段ならまともに戦えるだけの魂力を籠めるには二本が限界だが、今なら三本いける。飛び出るところを一撃、また避けられた。
 出てきたのは手。追撃を仕掛けるが次々と回避され、じわりじわりと距離を詰められる。いくら魂力を感じられているといってもこちらは見えていないはず。高速で振るわれるゴルフクラブをなぜこうも簡単に、
「窓だ阿呆!」
 窓?
 襖の中から声がした。振り返ってみれば、確かにわずかながら魂力が籠もっている。
 なるほど、こいつで見ていた、というわけか。
 牽制のために飛ばしているアイアンを一本戻し、窓を叩き割る。寸前で逃げられた気配はあるがまあいい。これで奴はもう死んだようなものだ。
「ぶち殺す」
 声に出してみる。ラムネに髄まで侵された魂にゾクゾクと快感が走るのを感じた。

     

「ばれましたね」
 こちらを向いた男を視ながらセンサーが呟く。ひとまず窓ガラスから視覚を戻したはいいが、これでいよいよあちらを偵察する手段はなくなった。
「マジで?」
 テンフィンガーの引きつった笑み。
 平常時ならまだ戦えただろうが、ハーメルンとモジャの魂力がぶつかり合うこの環境では魂力から相手の位置を正確に探るのは難しい。退くことすらままならぬ一方的な攻撃が始まっていた。
「ヤバそォ?」
 ベイビーとザンギリが牽制に飛ぶゴルフクラブの目と鼻の先、玄関入って二番目の部屋から顔を出す。警察が来たというのを間に受けて動転するヤク中二名を仕留めたところだ。
「ヤバいなんてもんじゃなっ、あっ、ッソ!」
 テンフィンガーが歯を食いしばる。
 その右手小指、第一関節から先がどす黒く変色していた。
 これはその部位の魂がダメージを受けた証。この程度ならまだ全身の魂力から見れば些細なもの、戻せば治るが引き戻しが発生するほど損傷すれば障害が残りかねない。
「……大体分かった。じゃ、増援頼むわザンギリくん」
「アイッサー」
 ザンギリが部屋から飛び出す。ゴルフクラブを恐れずその真正面に陣取り、同時にベイビーが扉から手だけを出してヤク中のひとりの財布をぶん投げた。
 その財布には『ドナー・ドリーマー』によって魂力が籠められている。反射的にゴルフクラブがそちらへと向かった隙をザンギリはするりとすり抜けた。
 壊れた扉を避けてリビングに飛び込みその手に持つ得物――――金属バットをまずは一発、手近に浮いていたゴルフクラブに向けて振るう。鈍い音と共にゴルフクラブは地面に叩きつけられ、しかし再び浮き上がる。
「んだテメェ」
 ゴルフバッグの隣に立つ男がぎろりとザンギリを睨んでくる。マトモじゃない眼をしていたが、その程度でザンギリは怯まない。
「警察どぅえーす」
 ピースサイン。どこまでも相手をおちょくっているが、イッちゃってる奴にはこれぐらいしたほうがやりやすい。
「ざッけんじゃねえぞォ!」
 飛来するゴルフクラブ、だが大振りにすぎる。片方は避け、もう片方は受け止める。重いは重いが、これならまだ受けられる。
 飛び退って距離を取りつつ、机を挟んで向かい合う。これで避けにくい下段からの攻撃はしばらく心配しなくていい。
 今のうちに場を観察する。扉はこの部屋をちょうど二分する位置にあり、入ってきた方から見て左側に敵が、右側に自分がいる格好だ。
 こちら側にはキッチン、行き止まりだから逃げ込むのは自殺行為。武器になりそうなものもなく、強いて挙げるならヤカンがひとつだ。
 向こうには和室に続く襖、恐らくそこに拉致られたJKがいる。テンフィンガーの『手』はどうなったか知らないが、向こうがオレと睨み合っている以上はなんとかなったんだろう。むしろ嫌そうな表情をしているから向こうで戦ってるのかもしれない。ザンギリはそう推測する。
 推測。
 本来ザンギリには不向きだが、そうせざるを得ない――魂力のぶつかり合いにおいてそれ以外の手段を持たないからだ。
 そう、彼は霊能力を持たない。この場にいる人間の中で唯一、腕っ節のみを買われて雇われている。
 霊が見えないため同行できない仕事も多いが、魂力が少ないことは時として利点となりうる。先ほどゴルフクラブをすり抜けたのだって、霊能力者であれば漏れ出る魂力で察知されていただろう。
 むしろザンギリからしたら霊能力者は戦りやすいとすら言える。何せあいつらとは殴り合ったらまず負けないしよく分からん弱点も多い――ほら。
 男がちらりとこちらを見た後、ゴルフクラブを一本手元に戻した。更に、先ほど自分がすり抜けたクラブも廊下のほうから戻ってくる。
 トバシとソソギはそれぞれ一長一短と言われている。トバシは「魂をそのまま飛ばす」ことが最大の利点であり欠点、一方ソソギは魂をそのものではなく魂力に変えて何かに籠める。そこで立ち塞がるのが「燃費の悪さ」だ。
 籠めた物は「自分」という慣れた器ではない、その分どうしても魂力の消費は大きくなる。ドーピングの助けを借りてすらそれは変わらない。
 故に奴は牽制せざるを得ない。打ち合いになれば先にダウンするのは自分だと分かっているからだ。
 そして、テンフィンガーはうまくやったらしい。2本も戻しているのが少々わざとらしいが、誘いだとしても乗ってやる。
 手始めに、机の上のエロ雑誌をぶん投げた。持っているクラブで払われる、だがそれでいい。
「バーカ」
 雑誌は注意を「防御」に向けるため。雑誌を囮としてどこから襲ってくるかに意識を向ける一瞬、決定的な隙ができる――もう一本に。
 一気に飛び出してバットを振り下ろす。三本のうち唯一男の手になく、男を守るように飛んでいたゴルフクラブは再び地面に叩きつけられ、今度はそこを踏みつけた。
 持ち上げようとする力を感じるが無駄だと悟ったらしい、男の手にあった二本が飛んできた。左右から迫るそれを寸前で回避、したと思ったが回転の勢いで柄が襲ってきた。
 辛うじてバットで受けたが、まずい。さっきより遥かに速くて重い。思い出せばドアを破壊する威力、甘く見すぎたか。
 続いて上段と横薙ぎの組み合わせ、これは本当にやばい。上段を避けて横は受ける、受ける、無理だこれは。バランスを崩したところに真上に振りかぶられた三本目が見えた、ああこれは死――――
「横!」
 横ってなんだ「よおぉぉぉっ!?」振り下ろされるクラブの軌道が少し逸れる、必死で頭を動かす、避け、た!
 助かったことを感謝している暇はない、起き上がって得物を構えてみれば、サングラスをかけて笑う男が一人。
「あいつ潰すぞ」
「ウッス」
 テンフィンガーを守るように、ザンギリは一歩前に立つ。
「ナァマ言ってんじゃねえぞぉ!?」
 口ではそう言っているものの、奴の動きはどうにもおかしい。ゴルフクラブのうち二本は再びその周囲を奇妙な動きをしながら浮かび、残る一本は近くにあるものの攻撃というよりは接近を拒むかのようだ。
「グラサン持ってけ」
 おもむろにテンフィンガーが言う。いきなりで面食らうが、
「サッちゃんの『チョコレート・パンク』使用済み」
 その一言で合点がいったザンギリはテンフィンガーから素早く外して装着し、戦況を視る。
 彼女の霊能力は感覚を飛ばすというその特殊性ゆえ、何かに憑依するという形を取る。そして憑依されたものは魂力を感じられるようになる。つまり、サングラスに憑依すればそのサングラスを通してザンギリにも魂の動きをある程度視ることが可能なのだ。
「おぉ」
 覗いてみて、思わず声が漏れる。
 テンフィンガーの『手』が床から飛び出し、喉笛を狙う。ゴルフクラブがそれに合わせて防御するが、『手』はそれをすいと避けると天井に潜る。続いて壁から現れた『手』が背後から狙うがまたも妨害、しかし今度は床へと消える。
 奇妙と見えたのは変幻自在の攻め手に対応していたからで、視えてしまえば賞賛すべきといえる見事な防御だった。
「あのクラブがどれほど強かろうと、床も天井も突き抜けられない。こんだけ接近しちまえばもう負けねえよ」
 テンフィンガーの『スロウイン・ファストアウト』の射程は3m強。長いほうではないが、逃げ場がないこの状況においては無限と同じだ。
 ザンギリがバットを構える。既に『手』への対処でいっぱいいっぱいのところに彼が飛び込めばどうなるかは、火を見るより明らかだ。
 テンフィンガーと呼吸を合わせてタイミングを図る。流石にクラブで牽制してくるが、一本ならどうにでもなる。
 今こそ、と『手』がさらに加速した。一気に踏み込んで、
 舌打ちと共に視界が一瞬覆われた。
 ザンギリもクラブも『手』も、皆その圧力に静止する。
 光の発生源は襖の向こう、和室の中。
「白木、単ぇッ!」
 苛立ちに満ちた声が聞こえる。ザンギリには感じられぬ圧倒的な魂力に、残りの二人がぶるりと震えた。

     

 ハーメルンの舌打ちはいよいよ回数を増してきた。
 六畳の和室にはハーメルンと中央に転がされた「白木単」、そして空のペットボトルとコンビニ弁当。昨日から丸一日、トイレを除いては和室から出ずにラムネを食わせては拐してきたこの女の鞄を漁り、「白木単」という人間のことを知って拘束を強めている。
 いつも通りの手順のはずだが今回は例外続きだ。まずニコタマというだけで手間がかかるというのに、何が起きたか訳のわからん奴らがカチコミをかけてきた。これは明日の引渡しに影響が出かねない。ああ腹が立つ。
 どういう手合いか知らないが、音使いの動きからして自分がいることはバレているらしい。その上テルはおろかジロまで苦戦しているようだ。これは面倒なことになったと思いつつ、念のため携帯を確認してみる。圏外。
 ザンギリとテンフィンガーの設置した装置によって、一時的にこの周辺の通信はジャミングされている。それを探す手間まであるのか、とまた舌打ちが漏れる。
 腹いせに目の前の女の口にラムネを限界すれすれの量ぶちこむ。魂が悲鳴を上げてハーメルンの拘束から逃れようとするが、ふたつの魂を抑えこむなどハーメルンにとっては朝飯前――
 ちり、と微かな熱さを感じた。
 魂を抑えつける『妖精』を介して伝わるそれに気を取られて拘束がほんの少し緩む。その隙を突くようにして、ふたつの魂が力を増した。
 するりと身体から魂が抜け出る。事態が理解できない、といった顔で目を開けて周りを見渡すその少女の名は白木桜、ではない。
「……え?」
 何が起きたか、飛び出てきたのは牡丹。
 最後に入れ替わってからずいぶんと『何も感じない』まどろみの中にいた気がする。そこからいきなり目覚めるとサイレンが響く見たこともない部屋にいて、しかも桜みたいに浮いていて、自分を見下ろしている。
 くるりと振り向くと、驚愕の表情で自分を見上げる人間と目が合った。四十そこらに見える、痩せぎすの女。
 その顔が憤怒に歪む。舌打ちと共に全身から凄まじい魂力が放出されて、思わず身をすくめた次の瞬間、衝撃が来た。
 身体じゅうが熱くなって、空中で少し後ろに飛ばされる。何があったのかと見てみると、漫画で見るような妖精が目の前を飛んでいた。この子が?
「白木、単ぇッ!」
 ハーメルンは怒りに任せて女の名を叫ぶ。身体より溢れ出る魂力を止めようともせず、目の前に浮かぶ魂に『妖精』を差し向けて再び掌握しようとする。
 名前の力は強い。
 それは言うなれば魂の鍵。名前を呼ぶことは生まれ持つ魂の防御機能を無視することであり、見たり聞いたりといった次元には収まらない干渉を受ける。
 霊能力者たちがふざけていると取られかねないようなニックネームで呼びあうのもそのせいだ。彼らの名は最大の秘密であり、裏の人間達が霊籍を作らないのには本名を握られないためという意味合いも大きい。
 裏を返せば、ハーメルンは今その力に頼らざるを得ないのであり――そして目の前の少女はそれをも耐えた。
 両目を瞑り身体を丸めて、腕を目の前で交叉させる。一目見て分かる防御の姿勢、そんなものは何の役にも立ちはしないはず。だが事実、また熱と共に光が弾けて『妖精』を払いのける。
 そこで一気にクールダウンした。
 怒りが過ぎると冷静さが戻ってくる、ハーメルンはそういう性質だ。小さい舌打ちと共に、小娘の異様な点に頭を巡らせる。
 名前を以って支配できなかったのはおそらく『真名』があるのだろう。奴らはニコタマ、自ら名付けた可能性は十分にある。それはまだ納得できる、だがあの防御力はなんだ?
 小娘の魂力はなかなかだが、あれより強い魂でも自分は容易く支配できる。そもそもトバシなら『妖精』相手に立ち向かえるほどの霊能力があってもすぐにガス欠で引き戻しが来るはず――
 あ。
 まさか、と思って身体のほうに触れてみる。やっぱりだ。気付かないとは不覚だった。
 ラムネは魂に効く麻薬、最初の数回は魂が慣れないせいで醒めぬ酩酊が続く。だから『妖精』を身体のほうから抜いていた。
 しかしこいつもまた霊能力の持ち主――トバシやがった、自分の姉妹。
 ならばもう一度身体に戻すまで。小娘は薄目を開けてこちらの様子を窺っているようだが、もう遅い。『妖精』を戻して、残っているほうの魂を抑えつけるとたちまちもう片方も引き戻されて身体に収まった。
 両方を抑えようとすればさすがの自分でも及ばない可能性がある、だが片方ならばまだまだ余力が残る。
 さて、とハーメルンは「切り札」を解放した。
 掌から現れたのは『妖精』の持つ笛。ただし、そのサイズは人間のそれだ。
 ここまでするのはいつ以来かと考えながら、笛を口に当てる。
 普段の『妖精』の吹く笛は霊能力者にしか聞こえない、だがこいつは違う。霊能力の有無を問わず聴いた者の魂を侵食して意識を飛ばす最終兵器だ。被害もそれなりに出るだろうが、こちらは『商品』さえ無事ならそれでいい。
 吹きはじめると、まずはすぐ側で戦っていた奴らの魂力が失せた。クラブの落ちる音がするが、文句を言いに来る下の階の住人も既に意識が飛んでいるだろう。
 音使いのほうはしばらく粘る姿勢を見せていたが、やがてサイレンの音が掠れて消えた。
 まともに魂力が感じられなくなったのを確認して、演奏をやめる。時間にすればほんの一分ほど、たったそれだけで今日この一室で起こった戦いは終結した。
 さて、と携帯を手に立ち上がる。『妖精』の射程は十分、少々手間だが一旦ジャミングの範囲外まで行ってこのハコの元締と連絡を取ろう。拉致は一流でも尋問は不慣れだ、こいつらが何者かはプロに任せればいい。
 襖を開ければ男三人が倒れている。ジロのゴルフクラブで腕の一本でも折っておくかと思ったが、やはり専門外なのでやめておく。そういうヨゴレは肉体しか武器のない奴らのすることだ。
 廊下には女と男が一人ずつ。女のほうはおそらく霊能力者、不健康そうな顔色をしているが見れない顔ではない。商品価値ありだ。男は知らん。
 よく見れば部屋の中にもひとりいるようで、半開きの扉から手だけが見える。まあ男だろうから気にする必要はない。
 足下に転がる人間たちを踏まないように(踏んでもいいが感触が嫌いだ)廊下を通って外へ、
 扉からおもむろに手が伸びてきた。
 足を掴もうとしてくるのを避けられたのはまさしく偶然の産物という他なく、上げたはいいが足を下ろす場所で迷っている隙を突いて立ち上がられる。
「まいったねェ」
 そこにいたのは右手にスタンガンを持った、にたにた笑う天然パーマの男――ベイビーだ。
「避けられちゃうとは思わなかった。それでも詰みだぜェハーメルン。キミが何をしようがボクのスタンガンの方が速い」
 じり、と距離を詰められて、玄関側へ一歩下がる。無意識のうちに舌打ち。なんだ。どうしてだ。あの攻撃をどうして耐えた。
「女性だったんだねェハーメルン。ボク女の子には優しくする性質だからなんだったらもう一回あの笛試してみるゥ? 効かないけど」
 そう言ってベイビーは心底楽しそうに笑う。
 真っ赤な嘘である。
 ベイビーは『ドナー・ドリーマー』によって侵食しようとしてくる魂力を「引きずり出し」、そこにモジャの『ポップ』による防御が加わった結果辛うじて意識を失わなかったにすぎない。あと少しハーメルンが演奏を止めるのが遅ければ逆にベイビーが詰んでいた。
 だがそれをおくびにも出さず、あくまで自分の能力が遥かに上にあるかのように見せかける。スタンガンを避けられればおしまいなのにも拘らず、だ。
 ハーメルンはじりじりと玄関に向けて後退する。足下に転がるふたりのせいでベイビーも少々動きにくい、それが膠着を生んでいる。
 しかしそれもいよいよ終わり。ハーメルンの背後にあるのはドア、そして鍵はかかっている。
 ちらりと目をやってそのことを確かめると、
「喰らえ!」
 せめてもの不意打ちとばかりに、手にした携帯をベイビーの顔面目がけて投げつける。
 ベイビーはそれを意にも介さない。ひょいと軽く避けて、一歩踏み込む。右手を突き出すとハーメルンはびくりと身体を強ばらせて懸命に避けようとする、その無防備な脛にまずは一発。
 がくん、とハーメルンが声にならない悲鳴と共に蹲る。
「おいおいド素人かよォ」
 ここまで露骨な手に引っかかられるとかえって張り合いがない。
 そして、この程度の悪あがきしかできないのもだ。
 背後から迫る『妖精』は限界まで気配を消そうとしていたようだが丸分かり、手の甲で容易く弾かれる。既にベイビーは『ドナー・ドリーマー』によってハーメルンの笛の影響を脱している、そこまで含めての詰み宣言だ。
 丸めた身体にもう一度蹴る真似をしてやると面白いようにびくりと反応する。恐怖した魂に恐るるものなし、さてとどめのスタンガンを――――
叩き落とされた。
 全くの不意打ちに気付いたときには遅く、腕をひねられ拘束される。
「遅えぞ起きんのがよ……」
 舌打ちと主に涙の滲むハーメルンが悪態をつく。
「っせえ」
 それにメンチを切るのはテル、それも魂のみの。
 悪あがきと見せて放った『妖精』の真の目的は全身のトバシであるテルを目覚めさせること。スタンガンで気を失った人間の魂に触れるのは容易い、普段はあまりやらないことだが行きずりに叩いていくだけで簡単に起きてきた。
「さて」
 ハーメルンが立ち上がると、ぎりぎりと歯を食いしばりまずは一発、ベイビーの腹に拳を叩きこんだ。
 素人のパンチとはいえ胃の中身がせり上がる、顔面にブチ撒けてしまった方がいいかと思ったがひとまず堪えた。
「何が詰んでるだカス野郎、調子乗りやがって。死ねよ」
 唾を吐きつけられる。テルが嫌そうな顔をするが押さえてろ、の一言で黙らせて、
「あたしの魂力が効かねぇだかなんだか知らねえがよ、ガス欠寸前じゃねえかお前」
 ベイビーの意識を刈り取る『妖精』が迫る。
 さすがのベイビーもこれまでかと思ったその時――ぽん、という音がした。
 何かと思うが、テルに拘束されているせいでそちらを向くことができない。だが、すぐに事態は飲み込めた。
 まだ頂点に達していなかったのかというほどに怒りで歪んだ顔のハーメルンの下に『妖精』が戻っていく。
 その身体が、白く燃えていた。
「やるじゃないのォ」
 そこから感じられる魂力は紛れもなく、白木牡丹のそれ。
「……まあね」
 テルの背後から聞こえる声が応えた。

     

 やってみたらできた、としか言いようがない。
 ふと気がつけばまた身体が浮いていた。トバシは魂力を感じやすい、というのは本当で、壁を隔てた向こうからふたりくらいの魂力が伝わってくる。そのうち片方は間違えようもない、あのおばさんと『妖精』。もう片方は誰だかわからないけれど、そのことがまず問題だ、さっきまではテンフィンガーさんの魂力を確かに感じていたのに。
 何が起こったのかと部屋から飛び出してみると、廊下にモジャさんとサッちゃんさん? が倒れていてまずはそれに驚く。さらにベイビーさんが男の人に捕まっていて、そこに『妖精』が向かっていく。
 思わず手が出た。
 しかし指先は飛び回る『妖精』に届かない――と思った刹那、身体じゅうが熱くなる。その熱は奔流となって伸ばした手へと伝わり溢れ出た。白い炎がぽん、と弾けて妖精を包み込む。
 一番驚いているのは出した本人、次いでハーメルン。テルは完全に事情を飲み込めておらず、ベイビーの頭もまだ理解には至っていない。
 そんな中最も冷静にこの事態を「感じて」いたのは誰かといえば、
 ――――よくやったぁっ!
 牡丹をトバしている桜に他ならない。
 やはりニコタマ故か距離を無視して届く万感籠めた叫びに、牡丹の顔もほころぶ。
「……まあね」
 タイミングよくベイビーからの賞賛がきたこともあって、口に出して応える。
 一度できてしまえば今度は抑えられない。ぱちぱちと身体じゅうから火の粉が漏れるに任せて、ひたとハーメルンを見据える。一見して憑き物が落ちたかのような無表情、だがあの女に憑けるものなど居やしない。本質は牡丹に負けじと炯々たる光を宿す眼球に籠められし圧縮された怒りと敵意、それがこちらを狙っている。
 当然挟まれたテルとベイビーはたまったものではない。身体のあるベイビーはともかくとしてテルはうっかり何かを喰らってしまえばタダではすまないのだ。
「なァ」
 ベイビーはそこにつけこみにいく。
「ボクを解放してくれればキミの安全は保障するけど、どォだい」
 ハーメルンもテルも目を見開いた。何を言っているんだこいつは。そもそもテルには裏切る理由がない。ハーメルンは紛れもないクズだ、だが恐ろしく強い。こんな状況は何の問題もなく乗り切ってくれるはず――か?
 微かな疑念。
 そうは言うが、現にあいつはここまで追い詰められているじゃないか。それにこのJKを拘束することもできていない。今捕まえている男はもう魂力が大して残っていないのは間違いない、だがあの炎。あれならハーメルンに勝てるんじゃないのか? だからこそこんな無茶苦茶を提案して、
 いや。
 時間にすれば五秒にも満たぬ思考、しかしテルはそんなことをしてしまった己の不明をどこまでも悔いた。ただでさえキレやすいハーメルン、それが怒りを抑えつけているところへ刺激する要素は少しでもあってはならないのだ。ただの一瞬も悩んではならない、それが唯一の生きる道だった。だが打算を求めてしまった以上もう駄目だ。既にハーメルンの目には自分は味方とは映っておらず、
 だったら、まとめて消してしまっても問題はない。
 再びその手に『笛』が現れる。ない鳥肌が立ちそうになってベイビーの拘束が緩むが、そんなことを気にしている場合ではない。
「させない」
 そんなテルと笑みを引っこめたベイビーを庇うように牡丹が前に出た。その身体から漏れる炎はますます輝きを増し辺りを煌々と照らす。この『笛』がヤバいのは知っている、それでも今の自分なら十分立ち向かえると信じていた。
 そしてそれが最高に気に触る。
「ッッせぇんだよこのクソガキ! ちょっと鬼火に目覚めたからって調子こいてんじゃねえぞオラァ!」
 一丁前のような口を利くガキがハーメルンは嫌いだ、ましてそれが自分に対して恐怖していないのであれば尚更。怒りも一周すれば冷静になる、だが更に踏み込めば爆発する。
「こちとらてめえぐらいの使い手なら何度も潰してんだぞ! いいからとっとと黙ってヤクに溺れて腰振れや――――」
 いよいよ熱くなりすぎた、というのが正しい。
 怒りに我を忘れかけたせいで啖呵も長くなる、視野も狭くなる。それでも牡丹が何をしてこようが対応できるはずだったが、その後ろにいたベイビーには全く注意を向けていなかった。
 テルは最早巻き込まれまいと拘束を解いている。自由になった右手でハコの客をスタンガンで気絶させた際にくすねておいたラムネ、そのありったけを『ドナー・ドリーマー』で音もなく袋から引きずり出してぶん投げる。
 二十粒ほどの甘い散弾は当然ダメージというほどのダメージは与えられない。狙いは怒りながら叫ぶハーメルンの口に一粒でもいいからラムネを放り込むこと。
 そして、それは見事に成った。
 飲み込むことはできない。初めてこれを食った奴がまともに意識を保てないのはよく知っている。だからといって吐き出すにしてもその瞬間だけは『笛』を吹くことができない。
 つまるところ、ほんの一瞬だけハーメルンの切り札たる『笛』は無効化された。身を焼く怒りから一転、焦りに目が泳ぐ。
 そこまで牡丹は理解できていない、だがハーメルンが明らかに焦っているのは見て取れる。
 この好機を逃す理由などあるものか。
 さっきの感覚を思い出す。身体じゅうの熱を一気に収束させていく。自分でも抑えきれないほどに輝く腕の熱量を流れのまま撃ち出す――――
 掌から火の玉が生まれた。
 彗星が如く炎の尾を引き、ハーメルン目がけてその魂を灰燼に帰せんという勢いで飛んでいく。
 だがハーメルンの決断も早かった。ラムネを吐くと同時に笛を持たぬ『妖精』を繰り出し盾とする。
 両者がぶつかり合い火の玉が炸裂した。目を開けていられないほどの光、それは『妖精』を包み込み焼き尽くし魂力の波動となって辺りの魂を震わせる。
 『妖精』は抵抗するがそれも限界か、炎の中で徐々にその身を削られやがて薄れて消えた。
 だが、それまでだった。
 牡丹渾身の火の玉はハーメルン本体にはダメージらしいダメージを与えられておらず、『笛』はなおも健在だ。
 今のでだいぶ魂力を消耗しはしたが、『笛』をあと一度吹くことはできる。
 勝った。
「馬鹿だねェ」
 ハーメルンの顔に笑みが浮かぶ、そこを狙ってベイビーが右手を突き出した。既に床のスタンガンは回収している、たとえハーメルンがどれほど凄まじい魂力の持ち主であろうと油断した瞬間に叩き込んでやればおしまいだ――
 とでも思っているに違いないのだ。
 こいつのやりそうなことはもう学んだ、不意打ちのタイミングさえ分かっていればいくら自分でも避けられないわけではない。ドアを背にしながらも巧く回避し、
 その手に何も握られていないことに気付く。
「仲間を捨てるような真似するなんて、さァ」
 テルが牡丹をすり抜けて現れる。その光り輝く半透明の手にはスタンガン、それを確認したときにはもう遅い。
 放電の音と共にぐるりと世界が回り、恐るべき笛使いの意識は切断された。
 だが念のためもう一発。流れる電気に意識はなくとも身体が反応しびくりと跳ねる、その反応を見てようやくテルはスタンガンを下ろした。
 一気に場の空気が弛緩する。途端に牡丹の身体の光と熱が引いていって、魂も身体の方に引き寄せられていった。それを見届けたベイビーは大きくため息をつくと、
「おつかれィ」
 右手をテルに向けて差し出す。
「……俺がこうするって保証、あったのか?」
 火の玉が放たれたその時、ベイビーはその光に紛れてスタンガンを拾い上げていた。そして意外なことにそれをテルへと放ってきたのである。
 驚きながらも受け止めたテルに向けてベイビーはただ一言「時間差」とだけ言って、ハーメルンに突っ込んでいった。
 もしテルが意味を理解しなかったり、理解しても裏切りを選択しなかったり、ハーメルンが間に合ったりすれば犬死にと分かっていて、だ。
「正直ない。けどさァ」
 即答したベイビーが笑って続ける、
「絶対嫌いでしょコイツのこと」
 予想外の返答に虚を突かれて、それから笑みが漏れる。
 間違いなく理由はそれだけではない、だが計算の一部には確実にそれも含まれていたのだろう。つくづく人徳のないババアだ。
 無性に笑えてきて、スタンガンを持ち替えてベイビーの手を握る。
「安全は保障する、んだよな」
「もちろん。このラムネについて教えてくれればねェ」
 臆面もない笑顔でそう付け加えるベイビー。
 心の中でハーメルンのように舌打ちする。
 やっぱり食えない奴だった。

     

 結局のところ、何が起こったかは最後までよく分からなかった。
 憶えているのは意識全てをかき混ぜられるような眠りとそこから目覚めたときに感じた敵意、そしてそれを焼き尽くさんとする炎。その炎が何であるかを理解するのに理屈はいらなかったし、そこから先は果たして自分の意志だったのか自信はない。あのときの自分は牡丹だったような気もするし、逆に自分が牡丹であった気もする。
 とはいえそんなことを思うのはもうしばらく後のことで、今の桜はごちゃごちゃと散らかった和室の中で自分の置かれた状況を理解しようと努めている。
 ひどく汗をかいているけれどひとまず服は乱れていないし、どこかが痛いわけでもない。かなりのだるさまで含めてひどい風邪から回復したときのような感じだった。
「……とにかく助かったんです、よね」
「その辺は安心してくれていいよォ」
 そう答えるベイビーの手には『依頼人』から渡された札。文字のひとつも書かれていない簡素すぎるデザインは万が一にも出所が割れないようにするため、予め決められた形に折ることで連絡手段として機能する。今の状態はもちろん「完遂」だ。
 あえてひけらかしているのは背後に立つテルへの牽制も籠めてだが、テルからしてみればそんなものがなくとも今更どこへ逃げられるわけでもない。捕まってしまえばひとまず洗いざらいゲロするまでの安全は確保されるはずだ、と信じてちらりと後ろのジロに視線を向ける。今なお『笛』を喰らったまま意識が戻る気配はなく、戻ったとしても両手足を拘束され目と口を塞がれた状態ではソソギは何もできやしまい。
 ジロの横には未だ目覚めぬザンギリが転がり、二人を見張るようにテンフィンガーが口寂しそうな顔をして胡坐をかいている。『手』がかなりのダメージを受けている今煙草を取り出すのは辛く、欲求不満は続く。
 センサーは椅子にぐったりと身体を預けており、モジャは万一のため同じく拘束されたハーメルンとハコの客達に付いている。財布の中身を漁っているのは金目当てではなく個人情報を探すためだ。
 各々が無言で、桜とベイビーだけが会話を続けている。
「――――てことはもうそのラムネ、ですっけ? それの効き目は切れてるんですよね」
「もちろん。『ドナー・ドリーマー』は完璧だから、ネ」
 親指を立てる。そう言うにはあまりに危ない量の魂力でヨモツヘグイを「引きずり出した」ことはベイビーだけが知っておけばいい話だ。
 桜は微妙に引いた笑みを浮かべているが、意識が自分に向いているならそれでいい。ここまでなんとか誤魔化しているが聞かれたら困る事柄などいくらでもある。例えば「霊能力者を攫ってどうするのか」だとか。能力によっても色々あるが、桜の場合「使い道」はひとつだ。あまり大きい声では言えないが、トバシとヤるのは病み付きになるらしい。
「ところで、もうすぐ迎えが来る時間だから荷物をまとめといてくれると嬉しいな。だいぶ散らかされちゃってるみたいだから」
 桜が口を開こうとするタイミングを見計らって要求を差し込む。虚を突かれたように周りを見渡して、思っていた以上に私物が転がされていることに気がつくと慌てて片付けだす。
 ひとまず余計なことは聞かれずに済むと安堵しつつリビングのほうを向くと、センサーが片目だけで訴えてきた。到着。マジでェ、と心の中で呟いて向こうの仕事の速さに舌を巻く。逆に考えればそれは表がこいつらに対してどれほどお冠かということを如実に示しており、
「なァ」
 何とはなしに、振り返ってテルに話しかける。
「幸運を祈るぜ」
 それをどう受け取ったかは知らないが、うんざりしたようにテルは笑った。敢えて真意を読むことはせずに笑い返す。テンフィンガーも苦笑い、センサーはここを見ている片目を眇める。桜も手を止めてこちらを見ているが意味がよく分かっていないらしい。
 チャイムが鳴った。念のためセンサーに伺いを立てる、シロ。
「ハイハァイ」
 閉めたままの玄関の鍵を開けに行く。テルの横をすれ違う。目は合わせない。

 なんだかよく分からなかった。
 部屋の隅に散らばっていたプリ(変顔のが多かったので殺意を覚えた)を回収している途中で普段着のおじさんにしか見えない一団がやってきて、塩を撒かれたり水を飲まされたりエンガチョをさせられたり魂力を放つ変な文字の書かれた紙を見せられたり札を握らされたりニコタマなのかと驚かれたりした。渡された着替えのサイズが合っていたのが一番不気味だった。
 それらが済んだらスモークガラスの車に乗せられて家の近所で下ろされた。質問は全部はぐらかされて、チャリはマンションに戻っていることと「今回のことは忘れた方がいい」みたいなことを言って車は走り去って行ったけれど、そうできるならそうしたい。
 誘拐されて変な薬を飲まされた、なんてとんでもないことで、本来ならもっと泣いたり叫んだりするべきところなのだろうけど、ずっと意識がなかったせいで自分のことと感じにくいのだ。むしろ今のおじさんたちのほうがよほど怖い。みんな終始ニコニコしていたけれどどう見ても猫を被っていた。
 多分牡丹はもっと色んなことを感じていたのだろうけれど。
 あの炎が嘘のように眠る牡丹の魂は凪いでいる。それをわざわざ起こすのも忍びなくて、今はとりあえずシャワーが浴びたかった。
 一旦考えるのを止めて、我が家に向けて歩き出す。時間は午後二時、でたらめに降り注ぐ日差しを浴びているのはお肌によろしくなかった。そんなことを気にしているくらいが自分はいいのだと思う。

「殺られたァ!?」
 流石に声が大きくなる。
 始末にやってきた表の連中がハーメルンたちを厳重に「拘束」した上で走り去っていって、やれやれと思ったところでもたらされた報せ。
「車中で、だそうですよ。笛吹きのほうは無事らしいが、男ふたりは喉をざっくりと」
 テルとジロが殺された。それも霊能力によって。
 それがどれだけのことかなど説明されるまでもない。ここに来ていたのは「表」とは名ばかりの、自分達と大差ない仕事も平気でこなすような連中だ。そんな手合いの使う車に生半可な能力が通るわけがない。
「縁切りはしたんですがね――いやはや、向こうもやるもんだ」
 ベイビーたちにその報せをもたらした男はやれやれとばかりに頭を掻く。彼は四十を少し過ぎたかというその風貌に違わぬベテランであり、霊能力者相手の戦いもそれなりに場数をくぐっている。
 霊能力というのはお互いを知れば知るほど強く作用する。牡丹がハーメルンに対して出した火力もハーメルンが牡丹を『知った』からこそ、とも言える。
 人と人ならこれは大抵「縁」と呼ばれ、男はそういった「縁」を切断することを専門としている。そうすれば霊能力を用いて位置を特定されることも難しくなるし、暗殺の危険も減る。だが平然とそれを乗り越えられた形だ。
「ちなみに、『喉をやられた』ってのはどうやって?」
「ああそれなんですがね――そちらのお兄さん、いるでしょ」
 指差されたテンフィンガーが何事か、という風にかけていたサングラスを持ち上げる。
「あんたの霊能力に似てるそうですよ。方法までは分からないが、『赤い手』が見えた、って」
 その一言に、ベイビーたちが凍りつく。『赤い手』といえば、裏ではハーメルンほどではないがちょっと知られた殺し屋で、トバシとしては異様なまでの射程の広さだとか、知名度の割に正確な能力を知るものがいないだとかの話と共に語られる。
 何らかの形であのふたりと縁を結んだのだ。おそらくはあいつらの上司から貰った情報で。
「ラムネ屋、とんでもないのを囲ってるねェ……」
「シャレにならないじゃないですか。ハーメルンはさすがにプロ、ってことですかね」
「だねェ」
 苦笑して、男の方を見る。
「この仕事さ、オリるわけにはいかないんでしょ?」
「それは流石にウチも困るね。あんたがいないとここから先は立ち行かんのだろ」
 男はなんでもないことのように言って、帰り支度を始める。
 ここに残ったのはまだ仕事に絡むベイビー以外の縁を切るはずだからで、それをやらないということは
「あくまで裏は裏で、か」
「ったりめえよ」
 頑張れ、とでも言いたげに背中を叩かれる。冗談ならいいのにと思う。

       

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Neetsha