朝起きると町が水沈していた。
「あらまあどうしましょおとうさんなんていうかしらごみだしもまだだしきょうはにわのくさむしりをするつもりだったのにいったいこれはどういうことなのおむかいのふじいさんはごぶじかしらやつぎさんやにのみやさんにもごれんらくしなくちゃいけないわねそれにしてもなんでこうなったのかしらきのうまではぜんぜんふつうだったしてれびもなにもいってなかったのにこまったわねえどうしたらいいのかしらけいさつにれんらくしたほうがいいのかしらねえ翔子」
今年で六十になる母が、となりでなんらかの言葉を垂れ流していた。最後に聞き取れたわたしを呼ぶ声にとりあえずあいまいにうなずきながら、わたしは二階の窓から変わり果てた住宅街の光景を見下ろしていた。
水は澄明だった。真夏の白い陽光に刺し貫かれて、アスファルトの黒い水底が晒されていた。生ぬるい風がさざ波を起こし、反射光をまき散らしながら静かに広がって、我が家の玄関ドアを超えたあたりの外壁で一本の境界線になった。わたしは窓から身を乗り出して、それを確かめた。水深、だいたい三メートル半。
「なにしてるの翔子あぶないじゃないのもどりなさい」
甲高い声と共に枯れ木のような感触が、わたしの二の腕をつかんだ。
「やめなさいよいいとしになってなにをはしゃいでいるのうっかりおちでもしたらどうなるかわからないのよおかあさんもおとうさんももうとしをとったのだからあまりしんぱいさせるようなことはやめてちょうだい」
とっくに日は高いのに、父親は起きてこない。母のただならぬ気配を感じ取り、狸寝入りを決め込んでいるのだろうか。定年してからというもの、父は人が変わったようにものぐさになった。そのぶんを補うように、母の言葉は多くなった。その対象はいつもわたしで、わたしはといえばいつからかそれを半自動的に聞き流すようになっていた。
母の雑音をのぞけば、あたりは静かだった。いつもなら聞こえてくるはずの車の音やいってきますの声や子供のはしゃぎ声やご近所のおしゃべりが、きょうは一切聞こえなかった。雀やカラスや蝉たちさえも声をひそめていた。お向かいの藤井さん宅も、いつもなら旦那さんが生垣に水をやっている時間だが、その門はきょうは固く閉ざされていた。自慢の生垣が、単色塗りのような人工的な緑色のまま、いまは水のなかで揺らめいていた。
スウェットの中で、携帯電話が震える。画面に表示されていたのはバイト先の上司の電話番号だった。
わたしは少し驚く。……携帯、まだつながるんだ。
しかし、応じようとしたタイミングで、呼び出しは切れてしまった。切り替わった画面を見てようやく、わたしは他にも何件も着信履歴があったことに気付く。
大半は隆司からだった。LINEの未読メッセージが大量に溜まっている。赤い吹き出しの中に表示されたその件数を見ただけで、わたしは少しげんなりした。
『いま家?』
『すぐ避難したほうがいい』
『外にいたりしないよね? 迎えに行こうか?』
『とりあえず電話でて』
『警察呼ぶよ』
『おーい』
『寝てんの? 一言でいいから見たら連絡して』
うんぬん、かんぬん。
ニュースサイトのリンクも送られてきていた。それからご丁寧に記事の解説も。(だったらわざわざリンク奥ってくる意味ないじゃん)。南極の氷がどうとか、高潮がなんたらかんたらとか、沿岸部がどうこうとか。頼みもしないのにいろんな情報を収集して、わたしに送り付けてきていた。
メッセージに既読サインがついたのを確認したのか、間髪入れずに追加のメッセージが飛んできた。
『見てる? 翔子だよね? 今どこ?』
『家』
『そかそか いや既読つかないから超心配した』
『寝たら?』
『そっちはどう? お母さんとかお父さんとか平気なん?』
『寝たら?』
また着信。
今度は隆司から。
間髪入れずに通話終了のボタンを親指で叩く。
『ごめん電波わるい』
『無事なんだよね? それだけ確かめたくて』
『ぶじ』
そこまで返すと、わたしはLINEを閉じた。
背後では母が相変わらずなにかをつぶやいている。
「けいたいでんわつかえるのちょうどよかったわわるいけどささきさんにきょうおみやげもっていくのむずかしいっていってくれないもちろんむこうもわかってるとはおもうけどねんのためにおつたえしておかないとしつれいになるでしょああそれにしてもこのままじゃごはんもつくれないしいったいどうしたらいいのかしらそうだちょっとけいさつにでんわしてどうにかならないのかきいてみてよねえ翔子」
また着信が来た。
バイト先の上司からだ。出勤の話だろうか。あのコンビニもたぶん水没してると思うからその連絡だろうか。今月の給料はどうなるんだろう。
LINEの通知音。『そっちの状況だけ聞かせて』
「ねえちょっときいているのこっちもいろいろれんらくしたいのよわかるでしょいろいろとようじがあるんだからこまるのはあなたもおなじなのよだいたいあなたはいつもいつもおやのいうことをききもせずいいとししてふらふらふらふらと」
頭を振り、顔をあげる。
青い空。
透明な水面。
反射する光が目を射抜いてわたしのなにかを溶かす。
バイト先からの通話を切ると、わたしは携帯電話を窓から放り投げた。
時が停まる。
音が消える。
――とぽんっ。
間抜けな音をたてて、それはアスファルトの底へと沈んでいった。
一拍遅れて甲高い声で叫ぶ母を尻目に、わたしもまた窓から身を乗り出した。
「翔子――」
声が一瞬で遠ざかり――訪れたのは水しぶき。
透明なしずくが視界に散り、反射して束の間空中に虹を描く。
冷たい。
だけど、心地いい。
舐めてみた水滴は塩辛った。
隆司のわかりにくいあれこれよりもわかりやすい。
つまりは海がやってきたのだ。私の町に。
二階の窓から母がなにかを叫んでいた。相変わらずなにを言っているのかわからなかった。その後ろから、ようやく起きてきたパジャマ姿の父親がひょっこり姿を現す。その目が驚きにまん丸く見開かれるのを私は見る。
「……なにやってんだ、翔子、おまえ」
「お父さんもこっちに来なよ」
わたしは笑う。
「気持ちいいよ、冷たくて」
その一言を皮切りに、隣にこの四月に越してきた矢次さんの家の二階から、母の制止を振り切って三人の子供たちが飛び降りる。ざぱざぱざぱんとリズムよく水しぶきがあがり、一拍遅れて笑い声が弾けるように空気を揺らす。
お向かいの藤井さんの奥さんが、鼻をつまんで静かに着水する。その後ろではいつもしかめ面の藤井さんの旦那さんがびっくりしたような顔でたたずんでいる。
それから、はす向かいの池谷さんの息子さん、二軒となりの五所川原さんのおじいちゃん、ひだりどなりの二宮さんの飼っている犬――いろんな家の二階から、いろいろな人が飛び出してきて、水面を叩き、揺らした。舞う水しぶき。響く歓声。水に落ちた誰もかれもが笑っている。それを聞きながら、わたしは愉快な気もちになる。
そうだおしまいなのだ。もう全部おしまい。なんとなく惰性でやってきた「生活」ってやつを続ける必要はなくなったのだ。海がやってきて、ぜんぶ沈めて洗い流してしまった。そういうことにしようじゃないか。そういう結論にしておこうじゃないか。だってきっと誰もがのぞんでいたんだ。こういう穏やかな結末を。それでいいじゃないか。もういいじゃないか。
「気持ちいいわね!」
いつの間にかわたしの隣にいた、藤井さんの奥さんが言った。
「なんだか子供のころに戻ったみたい」
「最初からずっと子供なんですよ、わたしもあなたも、みんなみんな」
適当なことを言うと、佐々木さんは「そうね」と言って頬を染める。
それが本当に少女のようだなと、わたしは思う。
※※※
やがて無粋な音を立てて飛んできた報道ヘリに、わたしたちは満面の笑顔で手を振った。