Neetel Inside 文芸新都
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気晴らし2:「透明交差点」

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最初は赤。次にパステル。



青色。



灰色。



最後は――――透明。







     

 立ちすくんでいた。

 輪郭のにじんだ世界。ふにゃふにゃの地面。水底のような、青い空気。息を吐けば、口から泡が吹けそうだ。ここはどこだろう。
 赤い服を着ていた。パーティー用の、真紅のドレス。スカートの裾が長くて、ひらひらと揺らめく。なんだか、発情期の鳥みたいだ。
 首をめぐらし、あたりの風景に眼をこらした。焦点が、遠ざかったり、近づいたり……でもだんだん、分ってくる。大都会の、ここは……交差点? そうだ。交差点だ。そう思ったとたん、視界がはっきりと形になった。ねずみ色の、大きなスクランブル交差点。四方には、ちゃちな玩具みたいなビル。足もとには、あちこちに伸びる横断歩道。空を見上げる。信号はない。代わりに、紺色に染まった空が広がっていた。これは夜明け前だ。そう思ったけれど、あたりはそれよりはもっと明るい。足もとの影は、四方に伸びていた。
 記憶はなかった。だけど、そのことにわたしは、疑問も不安も抱かなかった。理由は分らないけど、わたしはここにいるべきだし、いなければいけない。そういう確信があった。
 案の定、しばらく待っていると、交差点を一人の男がやってきた。記憶はないけど、知っているのだ、これから起こることを。彼はこの後、わたしの目の前まで歩いてきて、じっとわたしの目をのぞきこむはずだ。
 すぐ、その通りになった。わたしは彼の瞳を正面から見つめる。黒真珠のような彼の瞳。そのなかに、わたしの顔が映っていた。おなじような黒い瞳を持ち、微笑むと八重歯がのぞく、セミロングヘアの女の子。その女の子の瞳には、また彼が映っていて……

 記憶が流れ込んできた。彼がわたしを見ている記憶。居酒屋? たくさんの人の笑い声。向かい側に、彼が座っている。その目とわたしの目が、ふと出会う。わたしは彼の名前を思い出す。彼とわたしの関係も。わたしは大学の新入生で、彼はサークルの先輩だ。そしてここは、サークルの新入生歓迎会。彼はまだわたしを見つめている。わたしはさりげなく目を逸らし、手もとにあったウーロン茶のグラスを飲む振りをする。彼も目を逸らし、隣にいた同級生とバカ話を始めた。だけどわたしは知っていた。その途中途中で、彼はわたしの方を見ている。わたしもときどき、彼に視線を返した。一言二言、話をしたような気もする。
 飲み会の終わり際、彼がそばに来て、何気ない調子で言った。
「連絡先教えてよ」
 わたしはうなずき、携帯電話を取り出す。無言での、短いやり取り。わたしは、それから、自分の名前を思い出す。
「○○ちゃん、だね。これからよろしく!」
 その声が含んだ微かな緊張も、わたしは自分のことのように思い出せる。

 彼は、それからしばらくわたしを見つめ、やがて歩き去っていった。その後ろ姿を見つめる。彼はビルの角を曲がり、そして消えた。けれど、気配はいつまでも、そこに残っていた。きっとまた来るだろう。なんとなく、そういう気がした。
 予感はすぐ、現実になった。彼はそれから、たびたびわたしの元を訪れた。いつも目の前まで歩いてきて、そして見つめあう。そのたびに少しずつ、わたしの記憶はよみがえってきた。

 それは、春先、花見でバカ騒ぎをする彼を、友達と笑いながら見ている記憶。夏空の下、冷たい缶ジュースを飲みながら、彼と雑談を交わす記憶。秋口、辛いことがあったわたしの隣で、彼が何を言っていいのか分らない、という気持を必死で押し殺し、黙って座り続けている記憶。冬の朝、白い息を吐きながら、彼と手をつないで家路を急ぐ記憶……
 わたしの服は、もう真紅のドレスなんかじゃなかった。それはローリーズファームのゆったりしたワンピースになったり、ジーナシスのパーカーになったり、彼がプレゼントしてくれた、ツモリチサトのコートになったりした。
 彼が目をのぞき込むたび、わたしは心の底から深い幸せと喜びに満たされる。そして、まるでその気持に答えるかのように、灰色に見えた交差点が、少しずつ夢のような淡い色に染まっていくのだった。空は甘い桃色。ビルは、パステルカラーを集めたコラージュ。アスファルトを裂き、虹色のチューリップが咲き乱れる。鳥たちがその上を、楽しそうにさえずり、飛び交っていく。わたしは彼が来ない間、横断歩道の白線を歩き、一人お気に入りの歌を歌うのだった。きっと彼にもこの声は届いている……
 そう思っていた。

 やがて、彼の服装が、スーツに変わった。
 同時に、わたしをのぞきこむ彼の表情も、なんだか変わってきた。疲れた、青白い顔。なんだか、少し怖い。だけど、彼の手に肩をつかまれると、目をそらすことができなかった。
 記憶の中でも、わたしたちの関係は少しずつバランスを失いつつあった。彼の心はささくれ立ち、わたしの些細な一言で、簡単に暴れ出した。言い合い、泣き言。彼は謝り、後悔し、そして二人は疲れきって眠りにつく。
 彼は目が覚めた朝、かつての愛情を一時思い出し、まだ寝ているわたしの髪をそっとなで、また出かけていく。
 だけど、そんな生活の繰り返しは、ふたりの暮らしに少しずつ暗い影を落していった。そして、わたしの世界にも。
 飛び交う鳥は、さえずりをやめ、飛び去った。永遠を約束したはずの花は枯れ、かわりに禍々しいツタが地面を這う。ビルはひび割れた墓標だった。あたりは暗く、すべてが憂鬱な蒼に染まる。わたしは立っていながら、深海の底に沈んでいくような気がした。
 もう来ないで。
 だけど、彼は来るのだ。まるでそれが、彼にとって義務であるかのように。悲しい記憶を引きずって……
 そんな日々が続き、やがて終わりが来た。
 その日、わたしは、今までみたことのないような、よそ行きの服を着ていた。
 眼の前には、スーツを着た彼。その色は黒かった。闇のように、喪服のように。
 悲しい顔で、彼はわたしを見つめる。そして、記憶が流れ込む……

 狭い部屋だ。六畳。ワンルーム。机には吸殻。床には、散らばった服と下着と、よく分からない書類。彼の部屋だ。そこで、二人は向き合っている。
 わたしは、ダンボールを持っている。両手で一抱えほどの。そのまま玄関で靴を履こうとして、少しよろめく。彼が不機嫌そうに、だけどその裏に少しの寂しさを込めて言った。
「無理すんなよ。やっぱりあとで送るから。俺が持っていってもいいし」
「いい」
 だけど、わたしの声は固いままだ。目すら合わそうとしなかった。そのまま無理やりドアを開けて、体ごと放りだすように、外に出る。
 彼はわたしの背中をしばらく見つめ、ゆっくりとドアを閉める。
「さよなら」
 ドアを閉める瞬間、彼が呟いた言葉に、返事は帰ってこない。
 音を立ててドアが閉まる。
 それで、おしまい。
 わたしと彼の話は、これでおしまい。

 ……だけど、わたしの世界は消えないままだ。
 彼は目をそらし、足早にビルの陰へと消えていった。
 蒼く沈んだ交差点に、わたしは一人取り残された。途方に暮れて。
 だが、それからも、彼はときどき、わたしのところにやってくるのだった。ただ、前のように見つめあうことはなかった。
 例えば、ある日は足早にやってきて、通り過ぎざま、ちらりと横目で見るだけで、そのままビルの向こうに姿を消した。別の日は、ほとんど掴みかからんばかりの形相で、わたしの方が目をそらしてしまった。
 わたしの前に、長いこと膝をついたまま、じっとうつむいたままの日もあった。彼は何かを言いかけ、そのたび、ためらうように口を引き結んだ。何を言いたかったのか、わたしにはわからなかった。彼自身にも、わからなかったのかもしれない。
 それから、長い時間が経った。
 彼が来る頻度は、だんだん減ってきた。わたしの近くまで来ず、遠くから眺めているだけの日もある。
 そして、交差点はまた、いつのまにか姿を変え始めた。
 二人が付き合っていたあのころ、幸せだったあのころの風景を、再現しはじめたのだ。空は明るく輝き、ビルに色が灯り、鳥がどこからかやってきて飛び交う。……だけど、それはやっぱり、前と同じ交差点ではなかった。
 そこからは、色彩が、すっぽりと抜けていたのだ。
 この世のすべての幸せをあつめたようなあの色とりどりの世界は、すべて灰色のまだら模様に変わっていた。鳥はもう、かつての明るい歌を歌わなかった。主題は同じでも、その旋律はどこか物悲しいのだ。長調をそのまま短調に置き換えたように。
 色褪せ、煤けた色のジオラマ。わたしはそこで一人、掠れた横断歩道を歩き、昔の歌をもう一度歌ってみようとした。だけど、思い出せなかった。
 ごくたまに通り過ぎる彼の顔は、以前とはずいぶん違っていた。幼さが抜け、無謀な青年から、一人の大人の顔になっていた。彼はもう、私に目をくれることはなかった。それよりむしろ、風景をゆっくり眺めることの方が多かった。かつて幸せだったころの残響。よく似ているけど、決してもとの輝きを放つことはない、幻。
 わたしは、その交差点の全体図に立つ、一つのランドマークでしかない。いや……違う。彼は、そう思いたいだけだ。私は気付いていた。ビルを眺める彼の視線が、ちらちらとわたしを伺っていることに。まるで最初に出会ったときのようだ。わたしはそう思って、我慢できずに吹き出してしまう。それを見て、彼も少し、笑ったような気がした。
 それから、また少し、時間が過ぎた。

 ある日、わたしのところにやってきた彼は、初めて彼以外の誰かを連れていた。
 穏やかな顔をした、彼と同じくらいの年齢の女性。ベージュ色のブラウスを着て、彼に大人しく手を引かれている。
 彼はわたしの前に立つと、わたしたちが別れてからはじめて、わたしの瞳を正面から見た。
 その瞬間、わたしは自分が誰なのか、何のために生れたのかを理解した。
 新たな記憶は流れ込んでこなかった。代わりに脳裏に揺らめくのは、彼と出会ってからの記憶。彼がくれた記憶。彼が留めておいた、わたしの記憶。六畳ワンルームであのドアを閉めた瞬間に時に終わった、彼と彼女の物語。

 わたしは、彼がかつての恋人と積み重ねた記憶そのもの。
 彼が無意識の中で作り出した、恋人の虚像だ。

 過去のイメージが、奔流のように蘇る。だけど、そのディテイルは、もう、思い出せない。仕方のないことだ。記憶はやがて、薄れて消える。そういうものだ。
 そうか。わたしは今日、彼がここにやってきた意味を悟る。
 彼は、新しい人と、新しい記憶を生きることを決めたのだ。
 過ぎた思い出と、いつまでも生きていくことはできない。

 わたしの意識が、過去の旅路から戻ってきたとき、彼はまだ、私を見つめていた。その瞳は、少し寂しそうだった。
 わたしは口を開き、彼に問いかける。
「もう、平気なんだね」
 彼は目を見開いてわたしを見た。でも私は知っている。記憶の残響が作り出す声なんて、自分を納得させるためのごまかしに過ぎないことを。わたしは、記憶の中にある恋人の声を再生して、彼にとって都合のいい言葉を呟いているだけだ。だけど……だけど、そういう嘘をつくことくらい、許されてもいいと思う。例えそれが無意識のペテンだとしても、彼が自分自身を振り切るには、必要なことなのだ。
 だから。
「すぐ忘れるよ」
 そう言って、わたしは彼に向かって微笑んだ。幸せも悲しみも、やがてカレンダーに溶けていく。そういうものなのだということを、誰よりも、わたし自身が知っている。
 彼は泣き笑いのような顔で、わたしを見た。

 その瞬間、風がなくなって、すべての時間が止まる。
 鳥はくちばしを開いたまま空中に静止し、咲き乱れるチューリップが、風にそよいだそ格好のまま、彫像のように固まる。あの日と同じパーティードレスの裾も、風にはためいたまま止まる。
 そして私は、世界が色を取り戻すのを見た。
 ビルの壁から、パステルカラーが滲み出す。空は明るい桃色だ。チューリップは、7つの色彩に踊り、真紅のドレスがまぶしく輝いた。
 何もかもが、あのときと同じだった。永遠を誓い合った日々。確かにつないだ手の体温。互いに見つめあう、優しく潤んだ目と目――
 
 だけどそれも、一瞬のこと。
 世界はまた灰色に戻り、一時停止を解いてまた、動き始める。
「さよなら」
 彼は、わたしにつぶやき、歩き出した。連れて来た女性を、一人そこに残して。
 わたしの手が、足が、全身が、消えていく。交差点のビルが、色褪せた鳥が、花畑が消えていく。いや、消えるんじゃない。透明になるだけだ。透明になって、この街に融けるんだ。
 彼が連れて来た、新しい女性。彼女の交差点は、いつまで残るだろう。
 この広い街にある、他の交差点のことを思う。
 そこにはきっと、わたしの知らない彼の父や、母や、友人たちがいるのだろう。
 そのうち、彼によく似た小さな子供がどこかに立ち、彼はその子供のいる交差点を通っては、目を細めるようになるのかもしれない。
 
 いつの日か、この記憶の街にも終わりがやってくる。
 その日までに、あといくつの交差点が出来るだろう。
 いくつの交差点が融けてゆくのだろう。

 ぼやけた世界の境界を、彼の背中がゆっくりと遠ざかっていく。
「さよなら」
 私の声は、消え行く街の中に紛れて消えてゆく。
 

 それは、スロウモーションで過ぎていく。
 いつか見た風景が、誰かの色に変わる――



 参考:【初音ミク】透明交差点【オリジナル曲】(http://www.nicovideo.jp/watch/sm16851355)
    「透明交差点」を歌ってみた。KK(http://www.nicovideo.jp/watch/sm21979584)

       

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