Neetel Inside 文芸新都
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 わたしは夢を見る。
 誰かが、わたしのすぐそばで、何かを叫ぶ夢。
 だけど、どれだけ耳を凝らしても、その声が何を言っているのか、わたしにはどうしても分からないのだ。
 
 
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 午後だった。差し込む日差しの傾きで、それが分かった。
 わたしは重たい体をベッドから引き剥がし、枕元のデジタル時計を確認する。午後2時46分。休日とはいえ、少し寝すぎてしまったようだ。
 何か……何かよくない夢を見た気がするが、それを思い出そうとした瞬間、酷く眩暈がした。
 最近はずっとこうだ。
 自室が、まるで他人の部屋のように感じられるのもいつものこと。落下直前のジェットコースターにいるような、寒気を伴う浮遊感に付きまとわれるのも、いつものこと。
 2週間前に調整をすませたばかりだと言うのに、最近のわたしは、調子を崩してばかりいる。心も体も。
 わたしは右手で、軽くこめかみを押さえた。
「過渡期ですよ」
 調整のときに話を交わしたトキタ医師の声が、耳元で蘇る。
指をすべらせ、右耳のうしろ、裏側を確かめた。指先にふれる、すべやかなシリコンの感覚。反対側にも、わたしは同じものを着けている。
「大丈夫、もう少しすれば落ち着きます」
 こころの奥底に沁み入るような太い声。頭の中で、何度も繰り返す。
 調整に行かなくては。
 わたしは立ち上がった。


「過渡期ですよ」
 トキタ医師は、2週間前と同じことをわたしに言う。
「大丈夫、もう少しすれば、落ち着きます」
「前の調整でも、聞きましたよ、それ」
「ありゃ、そうだったかな」
 咎めるような口調になってしまったが、トキタ医師は、さして気にしていないようだ。
「こりゃあ、調整の必要があるのは、僕のほうかもしれませんなあ」
 そんな風に言って、おどけてみせる。
 わたしは笑った。ずんぐりむっくりの体に、小熊みたいな目。愛嬌たっぷりの見た目と、快活な態度で、トキタ医師は院内ではちょっとした人気者だ。神経質になりがちな患者たちにとって、彼の存在は大きな癒しなのだろう。もちろん、わたしにとっても。
 彼の耳の裏にも、わたしと同じものが着けられている。5円玉くらいの直径しかない、シリコン製の小さな電極。DBAG。ディープブレイン……何だっけ。
「じゃあ、今回はちょっと、言い方を変えてみますかなあ」 
 トキタ医師は、そう言って微笑んだ。
「三橋さん、コンタクトレンズって使ったことあります?」
「ええ」
 このところは面倒になってメガネを愛用しているが、昔はよく使っていた。
「あれだって、使いはじめのころは、馴染むまでに時間がかかったでしょう? 異物感があったり、メガネとは見え方が違って戸惑ったり……」
「そうだったかもしれませんね」
「目に異物を入れるわけですから、眼球の形が変わるんです。それによって、見え方も変わってくる。だからしばらくは、細かく調整しなくちゃならない。僕なんかほら、乱視が入ってたから、最初の1か月は結構大変でしたわ」
 だっはっは。と笑う。
 わたしはまた、指先で耳の裏に触れた。電極には今、調整のためにコードが繋がれていた。機械と言うより、何か別種の生き物のようなその質感。
「でも、やっぱり不安です」
 トキタ医師が、笑いを止めてこちらを見た。
「これは、脳に刺激を与えるものでしょう? 目よりも、もっと複雑な……。やっぱり、人によって、合う、合わないがあるんじゃないかって」
「まぁまぁまぁ」
 思わず勢い込んで続けようとしたところを、穏やかに制された。
「そのために、『調整』があるんですよ。確かに、脳は目よりもずっと複雑で、個々の脳に合わせるには、もっと複雑な手順が必要ですな。その間、不快な思いをさせちゃう事もあります。だけど……大丈夫、今の技術は進歩してますから。それに、こう言っちゃうとなんですが……、三橋さんの症状はむしろ調整期の反応としては正常なんですよ」
 ほらね、と言って、トキタ医師は、手に持っていたタブレット端末をわたしの方に見せてくる。
 端末には、人間の脳の3Dモデルが表示されていた。赤から緑までのグラデーションの濃淡で、鮮やかに彩られている。その隣には、様々な数値と、おそらく脳波を示すのだろう、様々な波形が表示されている。
「どうです?」
「どうです、って言われても……」
「びっくりするくらい、順調なんですよ。そりゃもう、経過観察の教科書になるくらい」
 ほんとは患者さんに見せちゃいけないんですけどね、トキタ医師はそう言って、また快活に笑う。
 本当なんだろうか。
 しかし、調整を受けてはじめてから、眩暈が嘘のように治まっていることも確かだった。
「さあ、そろそろ完了です。長話に付き合わせて、すみませんな」
 トキタ医師はタブレットを操作し、わたしの電極に繋がるコードに触れた。
 キラキラした目をわたしと合わせ、
「過渡期ですよ、大丈夫」
 また、同じ言葉を繰り返す。
「もう少しすれば、落ち着きます」


<<プロセス2:自律モードを起動>>
<<モニタリング・調整を開始します>>


 それから一週間。確かに、大きな不調はなかった。眩暈が日々の仕事をおびやかすこともない。
 わたしは今、仕事のあと、母の見舞いに来ている。
 窓の外には、融けた鉄のしずくのような夕日が沈もうとしていた。窓の手前には、簡素なベッド。夕日を受けて、がりがりに痩せた母のシルエットは、濃い影となっていた。
「……でね、こんにちは、って言ったのに、目も合わさずに逃げちゃうのよ」
 消毒液と、石鹸の匂い。
「前は元気に挨拶してくれてたから、ちょっと寂しくなっちゃったわ。反抗期なのかしらね。確か、そろそろ誕生日だったはずよ。今年で5歳になるんだって。ちょっと前まで、あんなに小さかったのに、子どもの成長は早いわねえ……」
 ……それと、微かな老いの匂い。長らく使っていない倉庫に入った時、舞い散る埃と似た匂い。
「そうそう、賢吾から電話があったのよ。珍しいでしょ。いつも電話するのはこっちなのにね。わたしが手術受けたから、心配してるのかしら。全然平気なのにね」
 母は、わたしの言葉を黙って聞いている。認知症が進み、全てが曖昧な状態だ。一時期は互いに大変な思いをしたが、今は介護師のケアもあり、かなり落ち着いている。わたしの話を、黙って笑顔で聞いてくれるくらいには。
 見舞いに来るのは、以前の手術を受けてからは、これがはじめてだ。

 だらだらと続く会話を、携帯電話の振動する音がさえぎった。かばんの中で、マナーモードにした携帯が震えている。取り出して確認すると、また賢吾からだった。どうしたのだろう。
 一旦電話を切り、だいぶ日が傾いていることに気付いた。意外に長く話し込んでしまったらしい。そろそろ夕暮れだ。
「お母さん、じゃあまた来るね」
 枯れ草のような手を握り、わたしは母の耳元で話しかける。
「お世話になります」
 母は、いつもの決まり文句を、蚊の泣くような声で搾り出した。
 彼女はもう随分前から、わたしを実の娘と認識できなくなっている。
 介護師さんに軽く挨拶をして、病室を出た。


「いや、特に用事があるってわけでも、ないんだけどさ」
 電話越しの賢吾の口調は、歯切れが悪かった。
「元気かなあ、と思って」
「あら珍しいわね。心配してくれてるの?」
 少し皮肉を言ってみる。
「やめてくれよ。……色々と忙しくて、なかなか時間がとれないんだ」
 夕暮れ。わたしは帰路についている。道路を走る車はまばらだ。影絵のような街並み。買い物帰りの主婦やら、私服の小学生やらのシルエットが、歩くわたしを追い越していく。
「で、どうなんだよ、手術は。ディープブレイン……何とか」
「ディープ・ブレイン・アジャスト・ギア」
「そう、それそれ。手術後が一番大変だ、って聞くけど」
「最初は眩暈が酷かったけど、今は大分平気。トキタ先生は、月末の調整までには馴染むだろう、って」
「トキタ先生かあ」
 語尾に、微妙な棘が混じる。「俺、あんまり好きじゃないなあ、あの人」
「何で? いい人よ」
「その『いい人』、ってとこが、気に食わないんだ。何だか、作り物くさくないか? あの人の態度」
「そうかしら? 院内では人気者みたいだけど」
 わたしがそう言うと、賢吾は、ふぅん、と不満げに唸った。
「まあ、いいさ。とにかく、元気ならいいんだ。何というか……もっと別人みたいになってるかと思ったからさ」
「バカねえ」
 わたしは笑った。
「トキタ先生も説明してたじゃないの。これは脳神経の働きを補助するものであって、人格をいじったりするようなものじゃないって」
――弱まった水の流れに、ポンプをで勢いをつけてやるようなもんですな。
 トキタ医師の声を思い出す。
「そりゃそうなんだけどさぁ……やっぱりイマイチ信用できなくて」
「大丈夫よ。特に変わったところは、ないでしょう?」
「……うん。少し安心したよ。いつも通り過ぎて、拍子抜けだ」
 それからまた、少し雑談をした。調整期の症状のこと、お向かいに住む美香ちゃんのこと、母の見舞いに行ったこと……。
 今日は話してばっかりだな、とふと思った。賢吾といえば、そんなわたしのお喋りに、少しうんざりしたのか、生返事が増えている。
「ちょっと、聞いてるの?」
「ああ、聞いてる聞いてる。……いや、本当に元気になったね。もう少し大人しい方が良かったかもしれない」
「あら、さっきまで心配してたくせに」
「元気になりすぎるのも問題だなあ。逆に怖いよ。10歳くらいは若返ったんじゃない?」
「褒めても何も出ないわよ?」
 笑いあったところで、家の前に着いた。
「じゃあ、もう家に着いたから、また」
「ああ、わかった」
「……お盆には帰ってくるの?」
「うん、今年は何とか。親父の墓参りにも行かなきゃダメだしね。母さんも気をつけなよ。頭は若返ってても、体はおばあちゃんのままなんだから」
「失礼ね。まだ63よ。パートの仕事だって、まだまだ現役なんだから」
「はいはい。まぁ、そんだけ減らず口が叩ければ、十分か」
 
 
 玄関を開けようとすると、向かいの家のドアが開き、鈴木さん一家が出てきた。
 ご主人の名前は岬さんで、奥さんの名前が香織さん。夫婦に手を引かれて歩く女の子は、今年で5歳になる美香ちゃんだ。これから外食にでも行くのだろうか。
「こんばんは」
 わたしに気付いた香織さんが、折り目正しく挨拶をしてくる。今どき珍しいくらい、柔和な女性だ。
「こんばんは。……外食ですか?」
「ええ、今日は美香の誕生日なんです」
「あら、そうだったの。素敵ねえ」
 そろそろだと思っていたが、まさか今日だったとは。そう思ってみると、美香ちゃんは、普段よりよそゆきの服を着ている。嬉しいのだろう。満面の笑顔で母の手を握り、ぶんぶんと振り回していた。
「美香ちゃん、今年でいくつになったの?」
 わたしが尋ねると、その笑顔が、みるみる強張った。彼女はわたしの質問に答えもせず、両親の後ろに隠れてしまう。
「こら、美香。ちゃんとお婆ちゃんに返事しなさい」
 岬さんが声をかけるが、彼女は母親のワンピースの裾を掴んだまま、動こうともしない。
「すいません、昔はあんなに懐いてたのに、最近どうも人見知りが酷くて」
 香織さんが、困ったように笑う。
「いえいえ、そういう年頃って、誰にでもありますから」
 そこからごく短い、近所づきあい用の雑談を交わす。
 別れ際、美香ちゃんに手を振った。
 ほら、お婆ちゃんにバイバイは? 香織さんが催促するが、美香ちゃんは身じろぎもしない。
 母親の背中から顔だけ出して、ぼそりと言った。
「おばあちゃん、だれ?」
 お向かいの三橋さんでしょ。よく遊んでもらったじゃない。香織さんが慌てた声でたしなめるが、彼女は硬い表情を崩さなかった。


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 わたしはベッドに横になり、久しぶりにやってきた、大きな眩暈に耐えている。
 うめきながら、耳の裏に取り付けられた電極に触れる。
 母のことを思い出した。
 優しかった母。物忘れが増えた母。暴力や深夜徘徊などが酷くなり、別人のようになってしまった母。自分が誰かも分からず、親族が見舞いに来ても気付かず、枯れ木のように座って死を待つばかりの母。
 全てを、わたしはそばで見てきた。
 その時感じたのは、怒りでも悲しみでもなく……恐怖だ。
 わたしもいずれ、こうなるのか。こうなってしまうのか。
 物忘れに気付くたび、母を思い出して怯えるようになった。息子の賢吾に、愚痴を言う回数が増えた。
 そして、DBAG手術を決意したのだ。その担当医が、トキタ医師だった。

「なに、大したもんじゃありません。侵襲式って、昔は脳に直接電極を埋め込んでたんですがね。今はホラ、皮膚と頭蓋骨の間に、チョッピリ電極を通すだけ。簡単なもんですわ」
 
 眩暈は治まらない。寝る前に、病院が処方した睡眠薬を飲んだのだが、まだ効かないのだろうか。
 いや、効いてきてはいるのだろう。頭がぼんやりする。目を閉じると、まぶたの裏が明滅した。
 とりとめのない言葉が浮かぶ。

 調べたこと。
 聞いたこと。
 話したこと。

 ノルアドレナリン。
 アミロイドβの沈着。
 認知機能の急激な低下。
 物忘れ、老化。アルツハイマー。遺伝。

「要は、衰えた脳機能を肩代わりするんですな。神経伝達物質の濃度をモニターし、不全が見られる場合には刺激を加える。同時に、抑うつや睡眠障害などのストレス要因となる反応を除外していくと」
 
 脳深部刺激。予防。改善。

「大丈夫かよ、なんだかんだ言うけどさ……要はそれ、脳をいじくるんだろ?」
 
「おばあちゃん、おびょうきなの? はやく元気になって、またあそぼうね!」

「お世話になります」

 自我の在りか。連続性。わたしは誰?

「脳に電極刺して、リアルタイムで電気を流す。嫌だなあ。母さんが喋ってるのか、機械が喋らせてるのか、分からないじゃないか。やめとけって。考えすぎだよ」

「よく知らん人は、『脳が機械に乗っ取られる』なんて言いますが……。アホらしい話ですわ。DBAGは、もともとあった脳の機能を補てんするだけです。人格がガラッと変わるなんて、そりゃありえませんわ」

「お世話になります」「お世話になります」

 わたしは、わたし。そう、そのはず。そのために、そうであるために、わたしは手術を受けたのだから。

「手術は成功です。あとは1ヶ月、カウンセリングをしながら、細かい調整をしていきましょう。僕の声、聞こえますか?」

「うん。少し安心したよ。いつも通りすぎて、拍子抜けだ」

 誰もがそう言う。わたしだってそう思っている。でも、この眩暈はなに?

「目に異物を入れるわけですから、着けはじめは、眼球の形が変わるんです。それによって、見え方も変わってくる。だから、最初に着けてから、しばらくは細かく調整しなくちゃならないんです」

 眼球。眼球の形。着けはじめは形が変わる。脳はどうなのだろう。

「元気になりすぎるのも問題だなあ。逆に怖いよ」

「お世話になります」

「おばあちゃん、だれ?」

 今のわたしは、わたしなのか。分からない。気付けない。
 わたしには、わたし自身の自我を疑うことができない。

「お世話になります」
「お世話になります」
「お世話になります」

 お母さん、あなたはどうなの?
 わたしは、結局、あなたと――。
 
「大丈夫、もう少しすれば、落ち着きます」


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 わたしは夢を見る。
 誰かが、檻の中に閉じ込められて、何かを叫んでいる夢。
 誰か? 違う。
 
 あれは、わたし自身だ。
 
 どれだけ耳を凝らしても、檻の中にいるわたしが何を叫んでいるのか、わたしにはどうしても分からない。
 きっとこの夢も、目覚めたときには忘れてしまうのだろう。
 今までも、そうだったような気がするから。
 トキタ医師の声が、はっきりと耳元で聞こえた、ような気がした。

「過渡期ですよ」



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Neetsha