Neetel Inside 文芸新都
表紙

不正解の人生
3.罪悪の程度

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「という訳で、あの時の女とメシ食いに行くことになったんだよ」
「おいちょっと待て。お前、今なんか大事なとこすっ飛ばしただろ」
 事の経緯を説明した俺に、樫谷は電話の向こう側から突っ込みを返す。
 あのメールのやり取りから二日経ち、今は水曜日の夜だ。ふと、事の元凶であるところの樫谷にも報告しておくべきだと思い立ち、俺から電話したのであった。
「何が?」
「何がじゃねぇよ! なんでそのやり取りの後でメシ行くことになってんだよ。明らかにおかしいだろ」
 ちなみに樫谷には、俺と彼女のメールの内容を大まかにではあるが伝えてあった。
 それを踏まえて考えれば確かにおかしい、おかし過ぎる。俺はあの女に不快感を感じこそすれ、好意だとか、親しみだとか、今後そういったものを深めていきたいだとか、そんなことは今でも全く思っていないのだから。
 ならば何故だと聞かれると、上手く言いくるめられたとしか言い様がない。
 あの後の彼女の文面は、清々しいくらい『私って都合のいい女です』アピールとしてしか取れないもので、最初は不快を隠しもせず拒否していた俺も恥ずかしながらそれに釣られてしまったわけで、そんなアレはもちろん樫谷には話していないわけで。
「まぁ……タダ飯に付き合うくらいいいかなと思っただけだよ」
 俺のセリフに「ふぅん」と納得しきれない返事を返した樫谷には、なんとなく想像がついたのだろう。
「名前なんだっけ。その子の」
「えっと、豊田愛美」
「お前から聞いた話だけだから分かんないけどさ。それでもその豊田さんて子、相当めんどくさいと思うぜ?」
「知ってるよ」
 短く答えると、樫谷のため息がこもったようなノイズになって耳元に届く。
「木多さぁ。まさかとは思うけど、こないだ食いそびれた据え膳を頂こうってハラじゃないだろうな?」
「えー……」
 言われてふと、豊田愛美の姿が頭の中で再生される。
 酔いで赤くなっていても分かる、化粧映えするであろう色白の肌。普段はふわっとまとめていたらしい明るい茶髪は、地面に寝そべったせいで広がってボサボサだった。
 素面で面と向かうことが無かったため顔はあまり覚えていないが、標準以上には整っていたような気がする。
 言われてみれば、情報があの夜しかないということを差っ引いても悪くなかったように思えた。
「……そんなわけないだろ」
 だとしても、俺の口から出たのは否定の言葉だ。
「メールでのセリフを鵜呑みにする程バカじゃねぇよ。それにそういう女とどうこうするって、それこそめんどくさい展開になりそうじゃないか」
「だから、メシ行くだけだって十二分にそうなるぞって言ってんだよ!」
 再度聞こえる溜め息。こちらとしては分かっていてやっているのだから、樫谷に対して少し申し訳なくなってくる。
 豊田愛美の好意表明が冗談の産物だったとして、それはそんなことをほぼ初対面の人間に言えるほどアホ女だったというだけの話だ。しかし冗談じゃなければいいのかと言えば、それはそれでもっと酷いと言わざるを得ない。
 初対面で、冗談以上の好意を持てる人間なんて最悪だ。短慮とかそういうレベルではなく、思慮が『無い』。勘だけで生きているようなもんだろう。
 別に俺は、一目惚れを否定しているつもりはない。相手の外見がもの凄く好みで、ごくごく短期間で人を好きになることは、まぁ稀ながらあるかもしれない。
 だとしても、その好意を口に出した時点で豊田愛美は俺の中で『終わって』いた。
 人の嫌悪から目を逸らし、相手の都合だけをかわして、自分の好意を吟味もせずひけらかす人間は、アホを通りこして大馬鹿の極みだ。
 そして俺は、頭の悪い人間が大嫌いなのだった。
「分かってるだろ? 俺がああいうタイプ嫌いだって」
「分かってるよ。だから、分からないんだ。なんでわざわざ、嫌いなタイプの女に会うのかってな」
 それを知りたいのは俺も同じだ。押されて、釣られて、流されたとしたって、今の俺は樫谷の制止を振り切っても彼女に会いに行く気でいる。
 あんな合わない相手、あんなイラつく相手に会いたい理由なんて、はっきりした言葉では見つからない。だからこそ、会った時に何か分かるのではないかという期待があった。
 ……などと言いつつ、ただの下心だろうという予測も立ちつつ。
「頼むから、俺をあんまり驚かせないでくれよ? 次に連絡した時『付き合うことになった』とか言われたら、流石に笑えない」
 この間は、不誠実なことを許容するようなことを言っていたくせに、真剣に厄介事になりそうだと分かるとすぐに手のひらを返して心配する。
 本当にこいつは余計なおせっかいをするなと、含み笑いを噛み殺しながら答えた。
「分かってるって、こないだ言われたばっかじゃねぇか。『俺が好きかどうかが重要』……ってことだろ?」

   ●

 その相手が好きだから付き合う、なんてことを最後にやったのはいつのことだっただろう。少なくとも大人になってから、そういうことは全く無くなってしまったように思う。
 彼女が欲しいから、脈がありそうな女を探して付き合ってみる。誰かとそういう雰囲気になったから、流れで付き合うことになった。
 そんな『なあなあ』なことばかりやっていたが、それを悪いと――不純だと思ったことは一度もない。
 俺と同じようなことをやっている人間は、明らかな少数派というわけでは無いだろう。むしろ、多数派と言ってもいいかもしれない。
 彼女が欲しい。彼氏が欲しい。そういったよく聞くセリフからして、好きな人はいないのに恋人は欲しい人間が使うものだ。
 自分が好きになった人が、自分を好きになってくれる。または自分を好きになった人を、自分が好きになれる。そんな条件が付き合う前に達成されていることの、なんとまぁ難しいことか。
 両想いになってからでなければ付き合えないし、付き合わない。……なんてセリフは、相手を選べる少数派が上から目線で言っているだけの理想――妄言だ。
 そういうことを言う奴に限って、絶え間なく恋人がいたりする。少なくても数カ月に一度は気を向けられ、恋愛に関わる機会が人より多い人間だったりする。努力なんてせずとも、待ち時間など無くとも、次々と皿が目の前に運ばれてくるのなら、そりゃあお眼鏡に適う料理だって見つかりましょうよ。
 まぁごく稀に、本心からそういう奇跡が起こるのを待っているとぬかすクソみたいな聖人がいるのだが、それは俺にとっては論外だ。
 恋人が欲しい、恋愛がしたいという前提があるなら……さらに言えば、結婚相手を吟味できる時間を無駄にしたくないのなら、俺たちは結局のところ、手当たり次第に多くを試していくしか選択肢は無い。
 付き合うということは、言ってしまえばただの口約束だ。
 相手に踏み込んでいいレベルを、友達や知り合いからワンランク上げる通行証だ。
 家や、車や、会社などと同じ。踏み込んで、立ち入って、合わなければ別れればいいだけの話。それにはそれなりの手間が伴うだろうが、だからと言って何もしないのはただの馬鹿だ。
 俺は超能力者じゃない。奇跡のような出会いが頻繁に転がっているほどラッキーでもない。選べる立場だと自分を過信するなんて以ての外だし、かといって完全に納得できなければ必要無いと、恋愛を人生から切り捨てられるほど聖人でもない。
 だから、俺は今でも思っている。人生において長いスパンで考えれば、交際の始まりにおいて『不誠実』でいることこそが、『正解』であるのだと。

   ●

 あれからちょうど一週間経った、金曜日の午後七時過ぎ。先週と同じように降り立った新宿東口の駅前はそれはもう混雑していて、知り合いであったとしても簡単に見つけられないような有様だった。
 豊田愛美と待ち合わせたのはこの駅前。目印のようなものは特に決めておらず、着いてから電話で連絡を取る手はずだった。
 しかし、そもそも俺は彼女の顔をしっかりと覚えていないのだ。この間と今日で同じ服装のわけはないだろうし、髪だってちゃんとしているだろう。正直言って、今現在の彼女と俺の中の彼女では符合する部分がほとんど無いはずだ。
 一駅二駅ずらして、もっと合流しやすい待ち合わせにした方が良かったのではないか、そう思った時ポケットの中でケータイが震えた。
 人ごみに流されるままに歩きつつ、なんとかケータイを取り出して通話ボタンを押すと、まず聞こえてきたのは強烈なガヤ音だった。
「木多さん、どうもです!」
 豊田の声もそれに負けず大きい。俺は思わずケータイを耳から五センチほど離した。それでも十二分に聞こえるほどの声量だ。
「どうも。……凄いうるさいんですが、今どこです?」
 挨拶もそこそこに聞き返すと、しばらくの間騒音だけが耳に届く。
 どうも周りの音から察するに、彼女はまだホームにいるようだった。この時間帯の新宿のホームだ。彼女が何線を使っているかまでは知らないが、どこも帰宅ラッシュで大変なことになっているに違いない。
 大分間が空き、叫ぶような豊田の声がケータイから発せられる。
「えー? すいませんよく聞こえないです! ちょっとこっちうるさくてー」
「今、ホームですか? 何口か分かってますか?」
「えー!? 聞こえないです!」
「…………」
 俺は黙って通話を切った。
 このくらいは、まぁ、予想の範疇だ。苛立ったというレベルまでもいかない。幸い、今日も時間には余裕があるのだ。
 人波が落ち着いたところで一息付いていると、しばらくして豊田からの着信があった。
「はい」
「あ、木多さんですか? すいません、さっきはなんだか急に切れてしまって」
「いえいえ、混んでるところからかけてたみたいでしたし。今は大丈夫ですか?」
「はい! もう外なんですが、木多さんは今どちらですか?」
 そこからの合流は容易かった。駅前から少し離れた、本屋の出入り口を指定して待ち合わせたのだ。
 俺が待っている形になったのが良かったのだろう。道路の向こう側から手を振ってきた豊田は、とても先週道端に倒れていた女と同一人物には見えなかった。正直な話、目が合って会釈されるまでそれが豊田だと確信できなかったくらいだ。
 この間のように私服ではなく、明るいグレーのスーツに身を包んでいたのもそれに一役買っていた。
 身なりを整えた豊田の外見は俺よりも五つくらいは年下――二十代前半くらいに見えた。化粧はやや濃いめだが肌はまだ若々しく、何より所作が子供っぽい。
「もしかして、豊田さんって大学生?」
 店までの道中で、俺はそう切り出した。いい加減この女に敬語を使っているのもバカバカしく、それを矯正したかったのもある。
「違いますけど、そんなに若く見えます?」
 言ってから、この年代に対して『若く見える』は褒め言葉か疑問だなと思う。彼女の表情からどう思ったかは読みとれず、俺も特に褒めるつもりで言ったのではないのだが。
 豊田が大学生の年齢でないことから考えると、大人に見えていない、イコール子供っぽ過ぎると言っているように受け取られないだろうか。……などと深読みしてしまうのは、俺が豊田を好ましく思っていないからか。
「いや、着てるスーツ、リクルートっぽかったから」
「あー、言われてみればそうですね。でもその前に、大学の就活でこんな髪の色、絶対許されないですよ」
 そう言って彼女は、自分の明るい茶髪をちょいと摘まんで笑う。
「でも、あながち間違ってないですよ。今日私、面接受けてましたから」
「じゃあフリーター?」
「はい。まぁ今日の面接もダメでしょうし、しばらくはバイトや派遣でちょいちょいって感じで」
「はー、なるほどね」
 別にフリーターだから見下したという訳でも無いのだが、なんというか、余りに見た目のイメージ通りで逆に俺は驚いてしまった。
 というか、フリーターの就職活動でもその髪の色はアウトだと思うのだが……。
 そうこうしている内に、豊田が予約していたらしい店に到着した。
 ここで一旦断っておくが、俺は今日、彼女をズタボロに罵倒し平身低頭で謝罪させ、意気揚々と凱旋するために来たわけではない。あくまで豊田愛美に対する自分の興味を、納得できるところへ置いておきたかったためである。
 だからこそ、俺は店員の前では平素を装い、靴を丁寧に下駄箱にしまい、個室の掘りごたつに足を突っ込むまで無言を決め込んでいたわけだ。
「お前さ、バカだろ」
 開口一番、真正面から豊田を見詰めながら俺がそう言わずにいられなかったのは、単純に俺の未熟さゆえである。
 席に着くなり罵られた豊田は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。そんなことを言われる謂れなどカケラもないと思っている顔だ。
 俺はさもガッカリしたように溜め息を吐き出し、子供に説明するようにゆっくりと、だが声色は少し強めに言葉を紡ぐ。
「お前は、今日、なんのためにこの場に俺を呼んだんだ?」
「……え、と。木多さんにこないだ迷惑をかけたので、そのお詫びに? です」
「だよなぁ。じゃあ、自分が俺にどういう迷惑をかけたかは覚えてるか?」
 覚えているのは知っていた、メールで聞いていたからだ。
 しかしこの手の手合いは、自分のどこが悪かったのか、という点について思い違いをしていることが多々ある。
「酔った私をホテルまで連れてってもらったこと、ですよね?」
「そうだな」
「……えーと、はい……その節は本当にすみませんでした」
 きっと豊田はその滑りの悪い脳味噌を精一杯回転させ、今自分が何を怒られているのか必死に考えていることだろう。
 だが、それではダメなのだ。自分の取った行動によって相手がどう思うのか、どう受け取る可能性があるのか、そういった想像が行動を起こす前にできていなければいけない。
「それで俺は、今日もアンタの面倒を見なきゃならんのか?」
 周囲をわざとらしく見回しながら、俺は彼女にそう告げた。
 そう、酔って失敗した詫びに飯を奢ると言われ来てみれば、まさか通された店が居酒屋だとは誰が想像できたろう。
 反省の色が無いどころの騒ぎではない。これはもう、宣戦布告と捉えられても仕方ないレベルだ。
 しかし、豊田は相変わらずきょとんとした顔でこちらを眺めていた。『まさかそんな所を突っ込まれるとは』と思っているだろう顔だ。手元に広げられたメニューは、しっかりとアルコール類のページが開かれている。
「え、いや、大丈夫ですよぅ、今日は潰れるほど飲んだりしないですから」
 片手をパタパタと、妙におばさんっぽく動かしながら豊田は笑ってそう返す。
「この間は……まぁ、ちょっと嫌なことがあって、失敗しちゃっただけで……もともと、お酒は弱くないんです。ホントですよ?」
 ああ、ダメだこりゃ。俺がそう思ったのも無理は無いはずだ。間にテーブルを挟んでいなければ、メールの通り手でもあげてやろうかと思ったほどだ。
 お通しの枝豆を持ってきた店員に「生二つで!」とキッパリ言いきったこの女には、何を言っても無駄だと俺は悟った。
 ビールのジョッキが二つ、それほど待たずに運ばれてくる。豊田はすでに俺になど目もくれず、目の前の琥珀に視線を奪われっぱなしの様子だ。本当にお前は何しに来たんだ。
「じゃあ、乾杯しましょうよカンパイ」
 はしゃぐ豊田を前にして、俺はまだ笑っていた。いや、こんな状況だからこそなのか。
 俺は何となく分かりかけていた。今日ここへ来た理由――豊田に会いたかった理由について。
「今日も一日お疲れさまでーす! カンパーイ!」
 次の瞬間、ばしゃっと、なんとも間抜けな音が個室の中に響いた。
 騒がしい居酒屋の店内で、不自然な静寂が俺たちの間に流れる。
 クロスカウンターのようにすれ違ったジョッキは、俺の手にあるものだけが大げさに傾いていた。もちろんそれは、故意に行われたものだ。
 頭からずぶ濡れの女を目の前にして、俺が若干も動揺していなかったかと言えばもちろんそんな事はない。自分がしでかした初めての惨事に頭は真っ白になりかけだった。のどは乾いてカラカラだ、一口くらい飲んでからにすればよかった。
 呆けていた豊田が、急に咳こみだす。どうやらビールが鼻に入った様子だ。
 ここで『ごめんなさい』と言うべきだろうか。謝り、店員を呼びタオルを借り、クリーニング代でも払うべきだろうか。
 いや、そうじゃあない。俺の口元は、まだ笑みと呼べるものをかろうじて浮かべている。
 そうするべきだと思ったのだ。不思議だが、彼女に対して接するときはそれが『正解』のような気がした。
「やっぱり俺は、お前が大嫌いだわ」
 空のジョッキを置いて頬杖を突く。罪悪感を殺した、精一杯の虚勢だった。

       

表紙

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Neetsha