さて、若干唐突ではあるが、ここで里山健人について少し前置きをしておこう。
今までの話にも何度か苗字だけは出てきていた、一ヶ月ほど前に結婚した俺の友人である。
奴は樫谷と同じく学生時代からの付き合いで、社会人になってもよく顔を合わせている面子の一人だ。
しかし、俺と里山はそれほど親しい間柄というわけではない。腐れ縁などとこっぱずかしい単語を使うつもりもないが、たまたま同じグループに長い時間いただけの底の浅い友人だ。
そもそもの話、俺は里山が苦手なのだ。
里山は樫谷とは違う意味でお節介な奴だった。いや、説教臭いと読んだ方が正しいだろう。
たとえば、樫谷は俺を時たま『いいやつ』のように買い被ったりすることもあるが、基本的には俺の性格に口出しするようなことはない。ましてや、矯正しようなどとは絶対に思わないし言い出さない。それは、樫谷と一緒にいて楽だと思う理由の一つでもある。
逆に里山はそれを、他人に強要しようとするときがあるのだ。
当然のように正論を振りかざし、『正しいということは考えれば分かるのだから、そうしないのはおかしい』という論調を崩さない。
そして厄介なことに、それを奴はきちんと自分で体現しているのだ。
だから俺はこの時、その話を、ハナから信じてはいなかった。
「不倫って、里山が?」
何の冗談かと思った俺に対して、隣に立つ明石さんの表情も半分冗談で言っているように見えた。
「いや、おかしいってのはね、私も分かってるんだけど」
困ったような顔でそう前置きをして、一回煙草に口を付ける。吐き出した灰色の煙は喫煙所の淀みに紛れてすぐに見えなくなった。
「和沙とこのあいだ食事した時にね、そんな事を言ってたから……」
豊田との一件から二週間ほど経った、会社の喫煙所でのことである。
実のところ会社で初めて会ったあの時以来、明石さんとはこのように何度か顔を合わせていた。気を付けてみれば気が付くもので、二、三日に一度は社内で通りすがったりすることもある。
しかし結局のところ、職場で短い時間、たまに交わす雑談や挨拶なんてのは面白くもない話ばかりで、特筆すべき進展など何一つなかったのだ。
ところが今日は、どうも趣きが違うようだった。
「和沙さんって……里山の奥さんでしたっけ」
拙い記憶をまさぐって答える。里山の嫁にあたる和沙さんとは、付き合っている段階ではほとんど面識がなかった。
「そう、私からすると大学時代の後輩なんだけどね。ほら、あの子仕事辞めちゃったから暇らしくて、新居にこの間呼ばれたの」
新居――新築建て売りの一軒家を購入したという話は、俺も披露宴の時に聞いていた。
「なるほど。……いやでも、それは無いと思いますけどね」
「私もね、新婚一ヶ月でいくらなんでもそれはって言ったんだ。でも、和沙がどうにも不安そうだったから。……ねぇ、健人さんってどんな人なのかな?」
ノーフレームのメガネの真ん中を鉤爪のように曲げた人差し指で押し上げながら、明石さんは言う。
「どんな……少なくとも俺の知る限り、『不倫』なんて言葉が一番似合わない男ですよ」
俺は、自分の持つ里山のイメージを話して聞かせた。
里山は、俺からすれば偽善者のように見える時もある。暑苦しくて押しつけがましい奴で、空気を読むのもうまくない。空回りしている場面だって良くあった。だが奴はどうしようもないくらいに正しくて、いい奴であることは確かなのだ。
新婚だからとかそんなことを抜きにしても、俺には里山が他の女とへらへら遊んでいる姿なんて欠片も想像できなかった。
むしろ、人の不誠実にぶちぶちと説教を垂れる方が似合っている。
「んー。そっか」
話を聞いて、明石さんは腕を組み上を見ると溜め息と一緒に煙を吐き出す。
彼女の細い顎をつうと、一筋の汗が流れた。七月に入り暑さは増すばかりだ。
風通しがいいとはいえ、この喫煙所に降り注ぐ殺人的な日差しはくっきりとした陰陽を地面に描き出し、俺たちはそれを避けるように日陰に寄り集まっていた。
明石さんは考えあぐねているのか黙ってしまう。少し寂しい話だが、俺の言葉の真偽を疑っているのだろう。
まぁ彼女からしてみれば、良くも知らない男の話なんかより自分の後輩を信じるのは当然だ。
「逆にこっちが聞きたいんですけど、なんでアイツにそんな疑いがかかってるんですか?」
予想していた質問だったのか、明石さんはすぐに肩をすくめて見せた。
「それが、どうも最近休日出勤が急に増えたらしいの。結婚前はほとんど土日休みで確定だったみたいで、おかしいって思ったみたい」
「でもそんなの、急に忙しくなったとかでしょう? よくある話じゃないですか」
「それがね、平日の帰宅時間はそこまで遅くないらしいんだ。だから、凄い忙しいーって感じでもないのに、休日に引っ張ってるのが解せない、と」
「なるほど」
それなら話の筋は通る。普通、休日出勤なんてできるだけ避けるものだ。少なくとも俺ならば、前日前々日と終電で帰ることになったとしても休日に食い込まないようにするだろう。
しかも、里山は営業職だ。受注書を書いたり客先への資料をまとめたりと、事務仕事が全く無いというわけではないが、それにしたって土日に持ち越すものが多い職種ではない。たまたま一日というならいざ知らず、『休日出勤が増えた』などと言われてしまうほどなら確かに不自然だ。
「それで、木多君にお願いがあるんだけど……」
申し訳なさそうな口ぶりで、だが結論は決まっていると言わんばかりの眼力で、明石さんは俺を見上げてきた。内容なんて聞くまでもない。
わざとらしく溜め息を吐き出して、「やりますけど、貸しにしときますからね?」と恩着せがましく言った俺に、
「美味しいお酒ぐらいならいくらでも奢ってあげるから」と返す明石さんはひどく清々しく、失礼な表現かもしれないが男前に見えた。
●
これを切っ掛けに明石千尋と仲良くなろう――なりたいという考えは、確かにそのとき頭の中にはあった。
だがそれは、恋慕や下心といったものとはちょっとベクトルの違うことだったように記憶している。
俺はこの時期、自分の職場での立ち位置に一抹の不安を感じていた。四月付で配属された新興部署が、四半期を終えて未だ軌道に乗れていなかったからだ。
営業と技術の両方の役割を併せ持つ。肩書きだけだとめんどくさそうなことこの上無く聞こえる職務だが、ところがどっこい始まってみるとすることが無いのだ。
仕事を取ってくるのは正規の営業の持ち回りだし、営業は正規の技術に仕事を振る。俺たちのような中途半端な役どころに回ってくるのは、せいぜい雑務の延長のような仕事ばかり。何故こんな部署を作ったのか、上の人間を問い詰めたくなるほどのハブられっぷりだった。
上の人間はそのうち役割分担ができてきて、立ち位置が定着してくると考えているようだったが、俺はそこまで楽観的に捉えられない。
部署自体の地盤も固まっていない中、ほぼ毎日定時で帰れるという仕事量は先行きの見えなさを際立たせるのに十分過ぎた。
だからこそ、これが切っ掛けにならないかと考えた。
たとえば明石さんの部署へ引っ張ってもらおうだとか、そこまで過度な期待はしていない(失礼だが、明石さんにそんな権限はないだろう)。だが、今まで関わりの無かった他部署の人間と、関わりどころかプライベートな借りまで作れるチャンス。これは何かの時に、役に立つのではないだろうか。
そんな後ろ暗い思いが、確かにあった。
勘違いして欲しくないが、里山の件が気になっていなかったという訳ではない。何も頼まれなかったとしても、樫谷を通して探りぐらい入れていただろうと思う。
あれほど幸せそうな結婚式を挙げていた里山が、本当に不倫なんかしているのか。していたとしても、何かしらの特別な理由が必ずあるはずだ。
そう考えていた俺は、今思えば里山のことを買い被っていたのかもしれない。
『不誠実だが悪くない』。そういう信条で生きていた俺にとって、『正しいから悪くない』という里山の在り方は、ある種の憧れと煩わしさを俺の中で同居させていたから。
●
探りを入れる、と一言に言っても方法は様々だろうが、今回は話が話だけに電話などでは聞けないだろう。できれば一対一の状況が望ましく、相手に酒が入っていれば口が軽くなるかもしれない。
という訳で、またも新宿にやってきてしまった俺は、改札前の柱に寄りかかるとポケットから煙草の箱を取りだしかけて、駅が全面禁煙なことを思い出し手を止めた。
そもそも、サシで話をするという状況を飲み以外で考えられない自分が悪いのではあるが、ここ最近あまりにもワンパターン過ぎる気がしてならない。
新宿という場所もまた考え物である。大規模な乗換駅の宿命ではあるが、複数の人間と待ち合わせているのに都合のいい場所はいつも同じ、というのは思考の停滞や劣化を招くのではないか。
まぁ、有り体に言えば飽きてきただけなのだが。
「大体、酒だってタダじゃないんだよな。ここ最近出費もかさんでるし、そういう意味でもいかがなものか……明石さんには相当ねだらせてもらわないと……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら先月の収支を思い返していた俺に、後ろから声がかかる。
「よっす。ぼーっとしてなにしてんだよ?」
声をかけ肩を叩いてきた男は、当たり前だが里山であった。
短く刈り込んだ天然パーマは、学生のころからほとんど変わっていない。俺と同じく理系出身だというのにどことなく体育会系を思わせる浅黒い肌と――おそらく今も筋トレくらいは続けているのだろう――Yシャツの上からでも分かる筋肉質な体は、今でも衰えていないようだった。
「いや、ちょっと金勘定してた」
「なんだよ今から飲むっていうのに、その景気の悪い考えはよぉ。……あ、言っとくけど、俺は奢らないからな」
そんなつもりは毛頭無かったのだが、正直そうなってくれると凄まじくありがたい。
「ケチケチすんなよ、新婚だろ?」
「こないだ式あげたばっかなんだからケチケチするに決まってるだろうが。いくらかかったと思ってんだよ」
「そんなこと言って……結構ご祝儀で戴いたんじゃないのか? プラスになるやつも結構いるらしいじゃん、アレ」
実際、里山の結婚式は豪勢で、有名ホテルで行われた披露宴は大分手の込んだものだった。もちろんそれに伴って招待客も多く、会社の上司であろう人間を何人か見かけた。
だが、里山はあっさりと首を横に振る。
「ねーよ。ぶっちゃけ、向こうのお義父さんは結構包んでくれてたんだけどな。まぁ現実は、トントンにも程遠いもんだ」
「世知辛い話だな」
「いやいや、それが普通だろ。ご祝儀で元取るなんてそもそも失礼な話だし」
「そりゃあそうだけどさ。実際自分がするってなったら躊躇する値段だろ、結婚式って。だったら、少しはその辺に期待持ったっていいだろ?」
そう言った俺に返す里山の顔は、嘘ではなく満足げに見えた。
「俺も和沙と計画立てる前は、式なんて高いばっかりで無駄遣いもいいトコだと思ってたけどよ。やったらやったでいい思い出になったし、後悔はしないぜ、きっとな」
それから居酒屋に入るまでの間も自然と式や新婚生活の話が主になったが、里山の表情や発言に違和感を感じることもなく、明石さんから聞いた話を忘れそうなほど、里山はただの新婚ノロケ野郎にしか見えなかった。
これは何かの間違いだろう。そう俺は確信した。
不倫なんてことをしている人間がこんな嬉しそうに結婚のことを話せるなら、俺はもうこの世界に善人が存在するだなんて信じられなくなってしまう。
「ほら、ここだ」
そういう里山に付き従って、和風に彩られた入口を潜りすぐの階段で地下へと降りる。
入った店は、創作料理を売りにしている和風の居酒屋だった。
財布が厳しいとは言っていても、この間豊田に連れられたようなチェーン店丸出しの安居酒屋には最近ではあまり入らない。それは俺たちが年を取ったことの証明だろう。
安っぽい見栄と言ってしまえばそれまでだが、年齢や立場に則した場所を選んでいくのは一種のエチケットだ。ケチって安い店を選ぶのが悪い訳ではないが、やはり雰囲気や客層を選ぼうと思ったらそれなりの値段はかかる。
学生時代のようにバカやって一晩騒ぐ体力がなくなったこの歳だからこそ、『落ちつき』のような形の無いものにお金を落とせるようになった。
子供は二十歳で大人になるのではないと、自覚する。二十歳で『子供』を卒業して、そこからこういった『大人』を少しずつ学ぶのだろう。
「そういえばさ」
席に着くなり、俺はそう切り出した。
十中八九、明石さんが言っていたことは何かの勘違いなのだろう。だったら、先に冗談っぽく確認をして言質をもらい、後腐れなく今日の飲みを楽しみたい。
「ん?」
里山はメニューから顔も上げず答える。
「この間、式で会った明石さんて覚えてるか? 明石千尋さん」
「ああ、覚えてるよ。っていうかこの間家に来たしな」
そう言えばそうか。和沙さんが家に呼ぶような間柄なら里山だって顔を合わせているだろうし、家に知人を挙げるなら当然旦那に話しを通すはずだ。
「あの人、俺と同じ会社なんだよ。知らなかったか?」
「えっ、ホントか?」初耳だったのか、ようやく里山は顔を上げる。
「そうだったんだよ、俺も偶然会って驚いた。それで、この間お前の家に行った時の話も聞いたんだけどな?」
ポケットから煙草を取り出してとりあえず机に置く。話の途中で来た店員からおしぼりを受け取りビールを注文しつつ、俺もメニューに目を落とした。
「なんか最近忙しいんだって? 休日出勤が多いとかでさ」
「ああ、まぁ……な。なんだ、そんな話人にしてるのかアイツ」
ふと。一瞬だけ里山の言葉に引っ掛かりを感じた。
『不倫でもしてるんじゃないかと嫁さんが心配していたらしいぞ』……と、そこまで一気に言おうと思っていた俺は、なんとなく不穏なものを感じて言い方を改めることにする。
「独身時代より遊べてなくて寂しいーって言ってたらしいぞ? あんまりほったらかしにすると、不倫だとか言われるんじゃないか?」
不倫、という言葉が出たまさにその瞬間のことだった。笑顔で聞いていたはずの里山の顔から、みるみる内に表情が消えていったのは。
突然の変化に、俺の方が一瞬うろたえてしまう。
「な、なんだよ?」
問われてようやく、自分がマズい反応をしたことに気付いたらしい。
俺の視線を避けるように目線を外すが、その様子がすでに不自然そのものだった。
妙な沈黙が場を包んでしまう。里山も胸中穏やかではないだろうが、俺も同じようなものだった。
さっきまでとは打って変わって、完全にクロとしか思えない反応だ。さっきまでの様子と矛盾するとしても、何もないとはとても思えない。
「まいったな……マジかよ」
思わず口からこぼれる。いきなりこんな空気になるとは全く予期していなかった。
唐突に突っ込んだ俺も悪かったのかもしれないが、里山にしたって隠すのが下手すぎる。何かやっているにしても、もう少し対応の仕方があっただろう。そう思わずにはいられない。
相変わらず沈黙を保つ里山に、俺は気持ちを切り替え声をかける。
「で、なんかやってるわけ?」
「いや、俺は……」
そこまで言って、里山はまた黙ってしまう。顔も俯けたまま、視線も合わせないまま。
里山は、何かをやっているのだろう。それは人に言えない後ろ暗いことで、『不倫』という言葉に過敏に反応してしまうようなことなのだ。
だが俺はまだ――甘いのかもしれないが――里山が『不倫』そのものをしていると思うことができなかった。さっきまでの態度や、今この状況になっても何も言わないこと、そして俺の知っている里山健人という友人の性格からして、俺はそういう考えに至った。
俺の中での里山は、どうしようもなく善人なのだ。それを安易に覆してしまうことはできなかったし、したくもなかった。
「はーーーーぁあ。よし、分かった」
長い溜息を吐いて、俺はあることを決めた。
「飲もう!」
「……は?」
ポカンとした顔をする里山を、ピッと指差す。
「俺は今日、お前と面白おかしく飲みに来たんだよ。別にそんなくらーい話を聞きに来た訳じゃない」
嘘っぱちだが。まさにそこを聞き出しに来たわけだが、それはもう置いておくことにした。
明石さんは俺にとって、同じ職場の人であるというそれだけでしかない。和沙さんに至っては、里山の嫁というだけだ。感情移入も何もあったものではないのだ。
俺はあくまで、里山の友人だ。明石さんが和沙さんの言うことを優先して信じるように、俺も里山がそこまで悪くないと信じよう。
いや、悪かったとしても、友人の味方でいよう。その方が俺らしい気がする。
「……そうだな、飲むか」
そう言って里山は顔を挙げ、都合よく店員がビールを運んできた。受け取った時には、形だけだが笑みを浮かべている。
今はそれで十分だ。後は酒が何とかしてくれる。
「それじゃあ今日もお疲れ、乾杯!」
「乾杯!」
明日、明石さんにどうやって取り繕おうか。そんな頭の隅に浮かんだ考えを、俺たちは琥珀色の命の水で洗い流した。