仮面ライダー響鬼「異説伝・宿命の天地」
「霧の山 白の迷路」
一ノ巻 「導く運命」
1,
その日、甘味処「たちばな」は、珍しく忙しかった。
早くから客が出入りし、店を切り盛りする日菜佳や香須美はてんてこまいだった。
下町の古き良き佇まいを残したこの店は、昭和五年の創業以来、変わらぬ味で一部の客に
定評があるらしい。
明日夢はそう人から聞いた。
人から聞いた、というのは、彼は食事が目的でこの店に来たのではなかったからだ。
彼が用があるのはその裏口、「たちばな」のもう一つの顔だった。
「こんにちは。」
「あー、明日夢君、いらっしゃい!」
彼を笑顔で出迎えたのは、この店の主人である立花勢知郎だった。
柔和な笑顔を向ける主人に挨拶して明日夢は店の中に入っていった。
「おやっさん、今日はヒビキさんたちは?」
「ああ、魔化魍退治に行ってるよ。もうすぐ帰ってくると思うけど」
勢知郎は答えた。
この店が凶悪な怪物”魔化魍”から人々を守る組織”猛士”の基地だとは誰が思うだろうか。
彼ら”猛士”は人を襲う凶悪な怪物”魔化魍”から人々を守るために作られた組織である。
見た目はただの茶店だが、その内部には研究室、会議室、魔化魍のデータを集めた資料室など、
猛士基地としての機能が満載なのだ。
明日夢は”鬼”そして”猛士”の存在を知るまで、正直自分が誰かに守られて生きてきた
などとは顧みたこともなかった。
この、市井に暮らす人々となんら変わらぬ人達が自分を守ってくれていたのかと思うと、今でも何とも不思議な感じがする。
明日夢は作業着の作務衣を手に取り、着替えながらそう考えた。。
「明日夢君、お店の接客頼むね」
「はい!」
明日夢は元気に返事をして、たちばなの店内へ出ていった。
「いらっしゃいませ」
客が入ってきたのを見て、明日夢は声をかけた。
やってきたのは、20代くらいの若い男である。
「ご注文は何にいたしましょうか?」
「あ、いやいや…そっちじゃなくて、ちょっと勢知郎さんいるかな」
「あ、はい」
親しげな口調で話すところを聞くと、きっと勢知郎の知り合いだろう。
明日夢は勢知郎を呼びに行った。
「おーっ、これはジンキくん。久しぶりだね~」
呼び出された勢知郎は、男の顔を見るなりにこにこと話しかけた。
”……鬼の人だ”
名前を聞いて明日夢はピンときた。
”鬼”は独り立ちが認められた時に固有の”鬼名”を襲名する。鬼名は師匠の鬼から受け継いだ物や、自ら名乗る物など様々である。
”鬼”は正式に襲名した時点で、平時でも鬼名を名乗るようになる。その名前は必ず終わりが”キ(鬼)”で締められている。
「吉野の会合以来ですよね。2年ぶりくらいですかね」
「そうだね~」
二人はにこやかに話している。
「ただいま~」
おもむろに戸を開けて入ってきたのは、明日夢にも勢知郎にも見知った顔だった。
「ヒビキさん!お帰りなさい」
「おっす」
ヒビキは明日夢に向けて”シュッ”と、手を振る独特の挨拶をした。
「ヒビキさん、お久しぶりです」
ヒビキはジンキの顔を見ると、一瞬怪訝そうにしたが、すぐに満面の笑顔になった。
「ジンキ、どうしたんだよお前?わざわざ吉野から何しに来たんだ?」
「ヒビキさん、今年はコウサイの当番でしょ?だから上の人たちが呼んで来いって」
「そうだったっけ……あ~、面倒臭いなぁ~」
ヒビキは頭をかきながらつぶやいた。
ホント、ヒビキさんって正直っていうか、遠慮がないというか……。
明日夢はヒビキの様子を見ながら苦笑した。
「さぼんないようにって、お目付役でよこされたんですよ。明日出発しますから」
「え?明日から?もう行くの?」
「そうです」
「え~、俺今日仕事から帰ってきたばっかなのになぁ~」
ヒビキの表情にはうんざりという感じがありありと出ていた。
「コウサイ、って何ですか?」
横で二人の会話を聞いていた明日夢は勢知郎に聞いた。
「香斎、だな。一年に一度、吉野にある本山に全国の”鬼”達が集まって、労をねぎらうために大きな宴会を開くんだ。
そこで鬼達は情報を交換したり、互いの無事を確認したりする。ま、実質鬼同士の連絡会みたいなもんだな。」
”つまり、ヒビキさんは今回の幹事って訳か…”
明日夢は一人で納得した。
「立花さんは香斎に行ったことあるんですか?」
「いいや、香斎には鬼しか行けないんだ。実際私も行ったことは一度もないねぇ」
香斎の行われるのは毎年旧暦の盆である。
「あの、ヒビキさん…」
「ん?」
「香斎って、どこで何をやるんですか?」
明日夢が聞くと、ヒビキは微妙に苦い顔をした。
「それは……ちょっと教えられないな」
明日夢はヒビキの返答に意外な顔をした。
「それって鬼の間で決まりでもあるんですか?人に言うとまずいとか…」
「いや、いろいろと、面倒くさくてさ…」
「いったい何があるんですか?何をするんですか?」
質問する明日夢を制止して、ヒビキは悪戯っぽく人差し指を口に当て、明日夢に笑いかけた。
「ナ・イ・ショ」
そう一言言い残して、ヒビキは店の奥へと入っていった。
2,
かくして三日後、ヒビキは香斎から戻ってきた。
会合では充分に実のある話が出来たと見えて、ヒビキは終始上機嫌だった。
「お帰りなっさい~!」
ヒビキに声をかけたのは、立花勢知郎の次女、日菜佳だった。
「も~う、ヒビキさんがいなくて寂しかったですよぅ~」
「ごめんね~。ちょっと忙しくてさ。ははは」
ヒビキと日菜佳はたがいに冗談を言い合い、笑いあった。
「ハイ、これお土産」
ヒビキは出迎えた明日夢に箱のような物を渡した。
それは、料理の沢山入った折り詰めだった。
「食べきれないから持ってきちゃった」
芋の煮物に、かぼちゃの天麩羅、じゃがいもの揚げ物など、どういう訳だか野菜料理しか入ってない。
「ヒビキさん、あの、香斎でどんな話してきたんですか?」
「んー?それはまぁ、いろいろだな」
ヒビキは適当な言葉でごまかそうとした。
「ヒビキさん、香斎っていったい何処で…」
「あー、その話はあとあと。俺疲れっちゃってるからさ…じゃ、またな」
ヒビキはそれだけ言い残して店の奥へと入っていった。
「あの…日菜佳さん」
「ん?」
明日夢は少々しゅんとした表情で、日菜佳に言った。
「ヒビキさんは…僕がうっとうしいから、あんな言い方したんでしょうか…?」
考えてみれば、自分はいつもヒビキの足を引っ張っていた。ヒビキがうっとうしいと思うのも当然だろう…。
ヒビキさんから見たら、僕は邪魔な部外者でしかないんだ…。
「別に……邪魔だからとか、そういう訳じゃないと思うよ」
「じゃあ、なんでですか?」
「人に聞かれたら”知らない”と答えるのが慣例なんですよ。そういうことになってるらしくて」
日菜佳は声を落とした。
その様子は、いつも明るい日菜佳に似つかわしくない、不穏な感じがした。
「鬼以外の人間には内容も言わない、場所も教えない決まりになってるんです」
……そういえば、持ってきた「土産」も、香斎で出された普通の料理の詰め合わせだった。
普段のヒビキならその土地その土地の名物を買うことが多いのに、これは故意に場所を隠すために用意したものとしか
思えない。
「日菜佳さんは、本当に知らないんですか?」
勢知郎は難しい顔をしてしばらく逡巡し、ひっそりとつぶやいた。
「私もよくは知らないけど…なんでも、鬼の生まれる聖地なんだそうですよ」
「鬼の聖地…」
明日夢は思わず口に出して唱えた。
ヒビキ達を初めとする、人間を遙かに凌駕する超人の生まれる場所。
いったいどんな所なんだろう…?
行ってみたい、ヒビキさん達、鬼の生まれた聖地に…。
明日夢はまだ見ぬ聖地の光景に、想像を膨らませ目を輝かせた。
1,
その日、甘味処「たちばな」は、珍しく忙しかった。
早くから客が出入りし、店を切り盛りする日菜佳や香須美はてんてこまいだった。
下町の古き良き佇まいを残したこの店は、昭和五年の創業以来、変わらぬ味で一部の客に
定評があるらしい。
明日夢はそう人から聞いた。
人から聞いた、というのは、彼は食事が目的でこの店に来たのではなかったからだ。
彼が用があるのはその裏口、「たちばな」のもう一つの顔だった。
「こんにちは。」
「あー、明日夢君、いらっしゃい!」
彼を笑顔で出迎えたのは、この店の主人である立花勢知郎だった。
柔和な笑顔を向ける主人に挨拶して明日夢は店の中に入っていった。
「おやっさん、今日はヒビキさんたちは?」
「ああ、魔化魍退治に行ってるよ。もうすぐ帰ってくると思うけど」
勢知郎は答えた。
この店が凶悪な怪物”魔化魍”から人々を守る組織”猛士”の基地だとは誰が思うだろうか。
彼ら”猛士”は人を襲う凶悪な怪物”魔化魍”から人々を守るために作られた組織である。
見た目はただの茶店だが、その内部には研究室、会議室、魔化魍のデータを集めた資料室など、
猛士基地としての機能が満載なのだ。
明日夢は”鬼”そして”猛士”の存在を知るまで、正直自分が誰かに守られて生きてきた
などとは顧みたこともなかった。
この、市井に暮らす人々となんら変わらぬ人達が自分を守ってくれていたのかと思うと、今でも何とも不思議な感じがする。
明日夢は作業着の作務衣を手に取り、着替えながらそう考えた。。
「明日夢君、お店の接客頼むね」
「はい!」
明日夢は元気に返事をして、たちばなの店内へ出ていった。
「いらっしゃいませ」
客が入ってきたのを見て、明日夢は声をかけた。
やってきたのは、20代くらいの若い男である。
「ご注文は何にいたしましょうか?」
「あ、いやいや…そっちじゃなくて、ちょっと勢知郎さんいるかな」
「あ、はい」
親しげな口調で話すところを聞くと、きっと勢知郎の知り合いだろう。
明日夢は勢知郎を呼びに行った。
「おーっ、これはジンキくん。久しぶりだね~」
呼び出された勢知郎は、男の顔を見るなりにこにこと話しかけた。
”……鬼の人だ”
名前を聞いて明日夢はピンときた。
”鬼”は独り立ちが認められた時に固有の”鬼名”を襲名する。鬼名は師匠の鬼から受け継いだ物や、自ら名乗る物など様々である。
”鬼”は正式に襲名した時点で、平時でも鬼名を名乗るようになる。その名前は必ず終わりが”キ(鬼)”で締められている。
「吉野の会合以来ですよね。2年ぶりくらいですかね」
「そうだね~」
二人はにこやかに話している。
「ただいま~」
おもむろに戸を開けて入ってきたのは、明日夢にも勢知郎にも見知った顔だった。
「ヒビキさん!お帰りなさい」
「おっす」
ヒビキは明日夢に向けて”シュッ”と、手を振る独特の挨拶をした。
「ヒビキさん、お久しぶりです」
ヒビキはジンキの顔を見ると、一瞬怪訝そうにしたが、すぐに満面の笑顔になった。
「ジンキ、どうしたんだよお前?わざわざ吉野から何しに来たんだ?」
「ヒビキさん、今年はコウサイの当番でしょ?だから上の人たちが呼んで来いって」
「そうだったっけ……あ~、面倒臭いなぁ~」
ヒビキは頭をかきながらつぶやいた。
ホント、ヒビキさんって正直っていうか、遠慮がないというか……。
明日夢はヒビキの様子を見ながら苦笑した。
「さぼんないようにって、お目付役でよこされたんですよ。明日出発しますから」
「え?明日から?もう行くの?」
「そうです」
「え~、俺今日仕事から帰ってきたばっかなのになぁ~」
ヒビキの表情にはうんざりという感じがありありと出ていた。
「コウサイ、って何ですか?」
横で二人の会話を聞いていた明日夢は勢知郎に聞いた。
「香斎、だな。一年に一度、吉野にある本山に全国の”鬼”達が集まって、労をねぎらうために大きな宴会を開くんだ。
そこで鬼達は情報を交換したり、互いの無事を確認したりする。ま、実質鬼同士の連絡会みたいなもんだな。」
”つまり、ヒビキさんは今回の幹事って訳か…”
明日夢は一人で納得した。
「立花さんは香斎に行ったことあるんですか?」
「いいや、香斎には鬼しか行けないんだ。実際私も行ったことは一度もないねぇ」
香斎の行われるのは毎年旧暦の盆である。
「あの、ヒビキさん…」
「ん?」
「香斎って、どこで何をやるんですか?」
明日夢が聞くと、ヒビキは微妙に苦い顔をした。
「それは……ちょっと教えられないな」
明日夢はヒビキの返答に意外な顔をした。
「それって鬼の間で決まりでもあるんですか?人に言うとまずいとか…」
「いや、いろいろと、面倒くさくてさ…」
「いったい何があるんですか?何をするんですか?」
質問する明日夢を制止して、ヒビキは悪戯っぽく人差し指を口に当て、明日夢に笑いかけた。
「ナ・イ・ショ」
そう一言言い残して、ヒビキは店の奥へと入っていった。
2,
かくして三日後、ヒビキは香斎から戻ってきた。
会合では充分に実のある話が出来たと見えて、ヒビキは終始上機嫌だった。
「お帰りなっさい~!」
ヒビキに声をかけたのは、立花勢知郎の次女、日菜佳だった。
「も~う、ヒビキさんがいなくて寂しかったですよぅ~」
「ごめんね~。ちょっと忙しくてさ。ははは」
ヒビキと日菜佳はたがいに冗談を言い合い、笑いあった。
「ハイ、これお土産」
ヒビキは出迎えた明日夢に箱のような物を渡した。
それは、料理の沢山入った折り詰めだった。
「食べきれないから持ってきちゃった」
芋の煮物に、かぼちゃの天麩羅、じゃがいもの揚げ物など、どういう訳だか野菜料理しか入ってない。
「ヒビキさん、あの、香斎でどんな話してきたんですか?」
「んー?それはまぁ、いろいろだな」
ヒビキは適当な言葉でごまかそうとした。
「ヒビキさん、香斎っていったい何処で…」
「あー、その話はあとあと。俺疲れっちゃってるからさ…じゃ、またな」
ヒビキはそれだけ言い残して店の奥へと入っていった。
「あの…日菜佳さん」
「ん?」
明日夢は少々しゅんとした表情で、日菜佳に言った。
「ヒビキさんは…僕がうっとうしいから、あんな言い方したんでしょうか…?」
考えてみれば、自分はいつもヒビキの足を引っ張っていた。ヒビキがうっとうしいと思うのも当然だろう…。
ヒビキさんから見たら、僕は邪魔な部外者でしかないんだ…。
「別に……邪魔だからとか、そういう訳じゃないと思うよ」
「じゃあ、なんでですか?」
「人に聞かれたら”知らない”と答えるのが慣例なんですよ。そういうことになってるらしくて」
日菜佳は声を落とした。
その様子は、いつも明るい日菜佳に似つかわしくない、不穏な感じがした。
「鬼以外の人間には内容も言わない、場所も教えない決まりになってるんです」
……そういえば、持ってきた「土産」も、香斎で出された普通の料理の詰め合わせだった。
普段のヒビキならその土地その土地の名物を買うことが多いのに、これは故意に場所を隠すために用意したものとしか
思えない。
「日菜佳さんは、本当に知らないんですか?」
勢知郎は難しい顔をしてしばらく逡巡し、ひっそりとつぶやいた。
「私もよくは知らないけど…なんでも、鬼の生まれる聖地なんだそうですよ」
「鬼の聖地…」
明日夢は思わず口に出して唱えた。
ヒビキ達を初めとする、人間を遙かに凌駕する超人の生まれる場所。
いったいどんな所なんだろう…?
行ってみたい、ヒビキさん達、鬼の生まれた聖地に…。
明日夢はまだ見ぬ聖地の光景に、想像を膨らませ目を輝かせた。
二ノ巻 「白い迷路」
3,
白鵬玄山。
吉野の北に位置するこの聖山は、左右に広がる稜線が空に飛び立とうとする大鵬のように見えることからその名が
付いたと言われている。
明日夢達がふもとの停留所でバスを降りたとき時も、その山は白鵬の名の如く山頂から裾野まで真っ白な霧に覆われていた。
「はぁ、結構遠かったなぁ…」
山麓の空気を胸一杯吸い込みながら、明日夢はつぶやいた。
「明日夢く~ん、何も私まで連れてこなくてもいいじゃないですか~」
日菜佳も悪態を付きながらバスを降りた。
「だって、場所知ってるの日菜佳さんだけじゃないですか。絶対僕と一緒に行ってもらいますから」
「…明日夢君て、大人しい顔して結構大胆よね…」
日菜佳が明日夢を恨めしそうに見た。
そんなとき、二人の姿を見て声をかけてきた者がいた。
「こんな朝早くから、何処に行くんだい?」
にこにこと笑顔を浮かべて、杖をついた老人であった。
「僕たち、白鵬玄山に行きたいんですけど…」
白鵬玄山、という単語を聞いて、老人は少し眉をひそめた。
「あんた達、あそこに一体何のようで行くんだね?」
「あ、ちょっとオリエンテーリングで…」
「…あそこは、昔から鬼が出るって言われとる」
「鬼が出る…」
明日夢と日菜佳は顔を見合わせた。
「あの山は、一体どんな山なんですか?」
老人は少し考え込んで明日夢に答えた。
「あの山には、地元の人間は滅多に足を踏み入れないんだよ。儂も、子供の頃からあの山の麓に住んでるが、
一度もあの山の霧が晴れた所を見たことがないんだ…あんた達も素人なら、あまりあの山に深入りせんほうがええよ」
「…どうも、ありがとうございました」
明日夢は丁寧に一礼した。
去っていく老人を見送りながら、明日夢は少し不安な気持ちになった。
4,
山の入り口に立つ深紅の鳥居を、明日夢はしげしげと見上げた。
「一体、何処に行ったらいいんでしょうか」
日菜佳は地図を広げたが、白鵬玄山に関する詳しい案内はどこにもない。
「香斎をしてたんだから、ヒビキさんたちがどっかに集まれる場所があると思うんだけど…」
そう言いかけて、日菜佳はふと言葉を切った。
「そういえば…この山の何処かに”殯岩戸(もがりいわと)”っていうものがあるって聞いたんだけど」
「殯岩戸?」
明日夢は日菜佳に近づいた。
「岩戸って、あの”天の岩戸”の岩戸ですか?昔の日本神話に出てくるヤツ」
「たぶんそうだと思う」
「”殯”ってどういう意味ですか?」
「昔、王様とか位の高い人が亡くなると、死後に新しい世界への復活を願って、一定期間遺体を宮へ安置したの。
それが”殯”っていうんだって」
「そうですか…」
生から死、死から生へと渡る葬礼と復活の場所。
人から鬼が生まれる聖地…。
きっとこの場所には、自分の想像以上の秘密が隠されているに違いない。
不安な気持ちとは裏腹に明日夢の胸は否応なしに高鳴った。
明日夢と日菜佳は山道を黙々と登り始めた。
その景観は、まるで雲に顔を突っ込んだようだった。
「すごい…」
山に満ちる清浄な大気は、琥珀の欠片を散りばめたように煌めいている。
雲の間から日差しが降り注ぎ、濃霧の白と木々の緑が天も地もなく解け合う様は、まるで天国を想起させた。
最初にその香りに気づいたのは日菜佳だった。
「…なんだか、いい匂いがする」
明日夢は足を止め、周囲の空気を吸い込んだ。
言われて辺りを嗅ぐと、湿った霧の中に甘く、どこか気だるい香りがする。
「花の香りかな」
「この匂い……どこか南国っぽくない?ほら、食べたパパイヤとか、マンゴーとか、そんな感じ」
明日夢は足下や景色に注意を向けた。すると、緑の苔に覆われた木々の根元にぽつんと橙色の点を見つけた。
それは橙色の花の集まりだった。花弁の形は菫に似ている。
「へぇ…綺麗な花」
日菜佳はその花を引き抜いた。
「ちょっと!勝手に摘んだらまずいんじゃないですか!?貴重な高山植物だったらどうするんですか」
「あ、ゴメン…ま、まぁ抜いちゃったもんはしょうがないって事で…ね?」
日菜佳は花に鼻を近づけた。
「うーん!いい香り!ほら、明日夢君もどうぞ」
日菜佳は明日夢の顔に花を近づけた。
よく熟れた果物に似た、熱帯の甘いムスクが鼻をついた。
「珍しい花よね」
「うん…」
少なくとも、明日夢はこれと同じ花を見たことがない。この山にしか咲かない植物なのだろうか。
「一本くらいなら持ってってもいいじゃない、ね?ね?」
「…それじゃ、一本だけですよ」
明日夢はしぶしぶ日菜佳に了承した。
明日夢達はその後、殯岩戸を目指して延々と山を歩き続けた。
しかし、歩けど歩けど同じような景色ばかりで、全く目的地に辿り着く気配がない。
「どうしよう、ひょっとしてあたし達迷っちゃったんじゃ…」
日菜佳が不安そうな声で言った。
明日夢の顔にも冷や汗が伝い始めた。周辺の景色に全く見覚えがない。
……どうしよう。ひょっとして僕達、このまま帰れないんじゃ……?
明日夢の心を恐ろしい想像がよぎった。
3,
白鵬玄山。
吉野の北に位置するこの聖山は、左右に広がる稜線が空に飛び立とうとする大鵬のように見えることからその名が
付いたと言われている。
明日夢達がふもとの停留所でバスを降りたとき時も、その山は白鵬の名の如く山頂から裾野まで真っ白な霧に覆われていた。
「はぁ、結構遠かったなぁ…」
山麓の空気を胸一杯吸い込みながら、明日夢はつぶやいた。
「明日夢く~ん、何も私まで連れてこなくてもいいじゃないですか~」
日菜佳も悪態を付きながらバスを降りた。
「だって、場所知ってるの日菜佳さんだけじゃないですか。絶対僕と一緒に行ってもらいますから」
「…明日夢君て、大人しい顔して結構大胆よね…」
日菜佳が明日夢を恨めしそうに見た。
そんなとき、二人の姿を見て声をかけてきた者がいた。
「こんな朝早くから、何処に行くんだい?」
にこにこと笑顔を浮かべて、杖をついた老人であった。
「僕たち、白鵬玄山に行きたいんですけど…」
白鵬玄山、という単語を聞いて、老人は少し眉をひそめた。
「あんた達、あそこに一体何のようで行くんだね?」
「あ、ちょっとオリエンテーリングで…」
「…あそこは、昔から鬼が出るって言われとる」
「鬼が出る…」
明日夢と日菜佳は顔を見合わせた。
「あの山は、一体どんな山なんですか?」
老人は少し考え込んで明日夢に答えた。
「あの山には、地元の人間は滅多に足を踏み入れないんだよ。儂も、子供の頃からあの山の麓に住んでるが、
一度もあの山の霧が晴れた所を見たことがないんだ…あんた達も素人なら、あまりあの山に深入りせんほうがええよ」
「…どうも、ありがとうございました」
明日夢は丁寧に一礼した。
去っていく老人を見送りながら、明日夢は少し不安な気持ちになった。
4,
山の入り口に立つ深紅の鳥居を、明日夢はしげしげと見上げた。
「一体、何処に行ったらいいんでしょうか」
日菜佳は地図を広げたが、白鵬玄山に関する詳しい案内はどこにもない。
「香斎をしてたんだから、ヒビキさんたちがどっかに集まれる場所があると思うんだけど…」
そう言いかけて、日菜佳はふと言葉を切った。
「そういえば…この山の何処かに”殯岩戸(もがりいわと)”っていうものがあるって聞いたんだけど」
「殯岩戸?」
明日夢は日菜佳に近づいた。
「岩戸って、あの”天の岩戸”の岩戸ですか?昔の日本神話に出てくるヤツ」
「たぶんそうだと思う」
「”殯”ってどういう意味ですか?」
「昔、王様とか位の高い人が亡くなると、死後に新しい世界への復活を願って、一定期間遺体を宮へ安置したの。
それが”殯”っていうんだって」
「そうですか…」
生から死、死から生へと渡る葬礼と復活の場所。
人から鬼が生まれる聖地…。
きっとこの場所には、自分の想像以上の秘密が隠されているに違いない。
不安な気持ちとは裏腹に明日夢の胸は否応なしに高鳴った。
明日夢と日菜佳は山道を黙々と登り始めた。
その景観は、まるで雲に顔を突っ込んだようだった。
「すごい…」
山に満ちる清浄な大気は、琥珀の欠片を散りばめたように煌めいている。
雲の間から日差しが降り注ぎ、濃霧の白と木々の緑が天も地もなく解け合う様は、まるで天国を想起させた。
最初にその香りに気づいたのは日菜佳だった。
「…なんだか、いい匂いがする」
明日夢は足を止め、周囲の空気を吸い込んだ。
言われて辺りを嗅ぐと、湿った霧の中に甘く、どこか気だるい香りがする。
「花の香りかな」
「この匂い……どこか南国っぽくない?ほら、食べたパパイヤとか、マンゴーとか、そんな感じ」
明日夢は足下や景色に注意を向けた。すると、緑の苔に覆われた木々の根元にぽつんと橙色の点を見つけた。
それは橙色の花の集まりだった。花弁の形は菫に似ている。
「へぇ…綺麗な花」
日菜佳はその花を引き抜いた。
「ちょっと!勝手に摘んだらまずいんじゃないですか!?貴重な高山植物だったらどうするんですか」
「あ、ゴメン…ま、まぁ抜いちゃったもんはしょうがないって事で…ね?」
日菜佳は花に鼻を近づけた。
「うーん!いい香り!ほら、明日夢君もどうぞ」
日菜佳は明日夢の顔に花を近づけた。
よく熟れた果物に似た、熱帯の甘いムスクが鼻をついた。
「珍しい花よね」
「うん…」
少なくとも、明日夢はこれと同じ花を見たことがない。この山にしか咲かない植物なのだろうか。
「一本くらいなら持ってってもいいじゃない、ね?ね?」
「…それじゃ、一本だけですよ」
明日夢はしぶしぶ日菜佳に了承した。
明日夢達はその後、殯岩戸を目指して延々と山を歩き続けた。
しかし、歩けど歩けど同じような景色ばかりで、全く目的地に辿り着く気配がない。
「どうしよう、ひょっとしてあたし達迷っちゃったんじゃ…」
日菜佳が不安そうな声で言った。
明日夢の顔にも冷や汗が伝い始めた。周辺の景色に全く見覚えがない。
……どうしよう。ひょっとして僕達、このまま帰れないんじゃ……?
明日夢の心を恐ろしい想像がよぎった。
三ノ巻 「震える霊風」
5,
「ど、どうしよう…」
ふと、明日夢の目に霧に紛れて赤いものが映った。
…あれってもしかして…。
「…日菜佳さん、あれ、鳥居ですよ」
「え?鳥居?」
日菜佳が目を凝らすと、確かに谷の中腹に木々に紛れて鳥居が立っていた。
「よかった~。とりあえずあそこで道を聞いてみましょ」
二人は安堵の息を吐きながら鳥居の方向へ向かっていった。
数十分後、二人は山道を歩いて鳥居のある場所へ辿り着いた。
そこは紛れもない神社だった。
鳥居があり、本殿と社務所があり、手水処と玉砂利の敷かれた開かれた庭がある。
深い霧の中に佇む古い社は、まるで絵巻の中から飛び出したような神秘的な雰囲気を感じさせた。
得体の知れない山中から人の気配が感じられる場所に出て、とりあえず二人は安心した。
「誰かいますかね…」
明日夢は中に向かって歩き出した。
「あれ?この狛犬、なんか変じゃない?」
日菜佳は、神社の入り口に置いてあった一対の像を見ていた。
その像は体こそ犬のような形だったが、猿のような顔に、蛇のような造形の尻尾までくっついている。
像を見つめていた明日夢ははっと気づいた。
「これってもしかして、鵺(ぬえ)じゃないですかね」
「鵺?」
鵺とは顔は猿、体は狸、虎の手足と蛇の尾を持つといわれる怪物である。
「平家物語」には、源頼政という武士が、清涼殿に毎夜出没する鵺を山鳥の尾で作った尖り矢で退治したという
逸話が残っている。
「しかし、どーしてそんな怪物がこんな所に?」
「わかりませんね。魔除けのつもりなんでしょうか」
明日夢は首を傾げた。
「本殿のほうに行ってみましょうか」
それからしばらくの間、明日夢と日菜佳は境内を歩き回った。
神社の中では、奇怪な代物を至る所で見つけることができた。
岩に彫られた件(くだん)の彫刻や、牛頭鬼と馬頭鬼をかたどった仁王像のようなものまであった。
「これじゃまるで、神社と言うよりお化け屋敷よねぇ」
日菜佳が歩きながら嘆息した。
それらのものは全く謎に満ちていたが、不思議と気味悪さは感じなかった。
「すいませーん、誰かいませんかー?」
「どうかしましたか?」
突然声をかけられて、明日夢は振り返った。
そこにいたのは、袴を着た年輩の男だった。たぶんこの神社の神主だろう。
「すいません、あの僕達、道に迷っちゃって…」
明日夢の言葉を聞くと、神主は柔和な笑みを浮かべた。
「今夜はここに泊まっていかれたらいいですよ。第一、こんな時間じゃ山歩きに慣れてない人が下山するのは危険すぎます」
言われて見ると、もう空は薄闇に包まれ始めている。
「え?でも私達、お金持ってないし…」
「いいんです。ここは人が滅多に来ませんから。さ、どうぞ」
神主の言葉を聞いて、二人はしぶしぶ足を進めた。
結局、明日夢達二人は神社の世話になることになった。
夕食に出されたのはありふれた精進料理だったが、神主の心尽くしが充分に感じられた。
夕食が終わった後、二人は六畳ほどの客間に案内された。
箪笥に机が一つ、布団が二つだけの質素な部屋だったが、それがかえって清潔さを感じさせた。
柔らかな月の光が、障子の向こうから射し込んでくる。
「はぁ~、めっちゃ疲れたぁ~」
そう言うなり、日菜佳は掛け布団の上に飛び込んだ。
「普段あんまり運動してないからじゃないですか?」
「失礼ね~、ちゃんとダイエットのためにランニングしてるわよ」
日菜佳は口を尖らせた。
「明日夢ク~ン、相部屋だからって変なことしないでよね~」
「僕はそんな悪趣味じゃありません」
「あー、言ったなー!このこのー!」
二人は下らないことを言い合い、夜半過ぎまでふざけあった。
こうして山の夜は更けていった。
6、
夜半過ぎ、何かに導かれるかのように、明日夢は足の動くまま寝室を出た。
社務所と本殿は長い廊下で繋がっていて、廊下の壁は格子状になっている。
明日夢は月明かりの中、長い廊下を本殿に向けて一人で歩いていた。
空気は霧に包まれてしんと静まり返り、山からはあの、薄甘い花の香りがかすかに漂ってくる。
「寒いな……」
夏とは言え、山の気温はかなり低く、明日夢に肌寒さを感じさせた。
社の周りはあまりにも静かで、自分の独り言さえも凍り付いて床に落ちてしまいそうだ。
空が霧に覆われているせいで、星はあまり見えない。
不思議だった。ほとんど現実感がない。
気が付くと明日夢は本殿の祭壇の前に立っていた。
「これは…」
暗い祭壇の向こう側には、合掌している木彫りの像が立っていた。
像の前には供え物の花や菓子、水や酒が綺麗に並べられている。
その像は、今までどの神社や寺でも見たことがない形だった。
この顔は…
「鬼だ」
その像は響鬼そっくりだ。
鬼神の像は穏やかに佇んでいた。まるで、山に訪れる旅人達を見守っているかのように。
「その像は、初代の鬼だと言われています」
明日夢はぎょっとして振り返った。
神主がランプを持って明日夢の側に立っていた。
「魔化魍を滅ぼすために、捨身祈願して鬼の力を得た修験者だそうですよ」
「最初の鬼…」
明日夢は粛然と面持ちで鬼神の像を見上げた。その像はかなり古く、作られてから何百年も経ってるように思えた。
「この花は?」
明日夢は木像の前に捧げられている花を見た。山中で咲いていたあの花である。
「これは黄水月花といいましてね。この山でしか咲かない花なんですよ」
「あの、ヒビキさんって人、知ってますか?」
神主は意外そうな顔をした。
「この間の香斎の幹事だった人ですね…君はヒビキさんと知り合いなんですか?」
「はい」
明日夢は力強く返事した。
「教えて下さい。ヒビキさんと、この山の関わりを…」
ヒビキの過去にどんなことがあったのか、それが知りたい。
「いいでしょう。…少しだけならあなたにお話しても…。」
神主はしばらく考えて、明日夢に話し始めた。
7,
ヒビキ、いや、日高仁志がこの山に来たのは、もう15年以上も前になる。
鬼になる人間はこの白鵬玄山で「覚醒の儀」を受ける。
”覚醒の儀”を受ける者は儀式の三日前から魚と肉を断ち、斎戒沐浴して身を清める。
儀式の前日には神官や巫女など関係者が社に集合し、儀式の成就を祈願する。
準備は着々と進められていた。
儀式の前日、仁志は白装束を纏い、部屋に一人座っていた。
「日高君。君は、儀式が怖くないのかい」
神主は仁志に向かって問いかけた。
「別に、今更びびったってしょうがないじゃないですか。この時のために覚悟はしてきましたし」
仁志は神主の言を軽く笑い飛ばした。
「無理をしなくてもいい」
「オレ、とっても嬉しいんですよ。だって、鬼になるのずっと憧れてたし。ほんと感謝してます」
そういう仁志の拳は、心なしか震えていた。
「…そうか」
彼はここで幾人もの鬼志望者を見てきたが、大抵は緊張しているか、恐怖に怯えているかのどちらかだった。
仁志のように自然体でいられるのはごく希な人間である。
…いや、自然体でありたいと強がっているのかもしれない…。
…いい鬼になってくれるといいが…。
彼は仁志の前途を願わずにはいられなかった。
------そして、儀式の朝がやってきた。
覚醒の儀には儀を受ける者、その師、神官や巫女など全部で二十人前後の人間が参加する。
衣装は全員白衣、白袴、白足袋で統一され、先頭に並んで歩く。
供え物である御酒、御饌、果物、花を御膳に持った神官が付いて歩いていく。
白装束の列は粛々と山道を進む。
「…ついたぞ」
白い霧の中、そびえ立つ岩戸をヒビキは見上げた。
岩戸の中に入れるのは儀を受ける者とその師のたった二人だけ。
後に残された神官と巫女達は、覚醒の儀を受ける者の無事を祈願して、香を供え祭文を捧げるのだ。
「どうぞご無事で」
「-----行って来ます」
仁志は顔にかかったわずかな憂いを振り払って、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべた。
-------時は来た。
耳に残る重い音を残して、手により岩戸が閉められた。
8,
神主から話を聞き終わり、明日夢は本殿を出た。
白い霧に覆われた山道。人目を避けるように建立された神社。狛犬の代わりに設置された鵺、牛頭鬼と馬頭鬼。
そして、廟堂の奥に安置された鬼神の象。
ここに祀られているのは鬼。仕えるべき神は、いない…。
--------なんだろう。
自分は何か、重大な事実を見落としているような気がする…。
自分は響鬼への信を疑ったことは一度もない。だが…。
胸の奥にもやもやしたものをかかえながら、明日夢は寝室へ帰った。
翌日、朝を迎え、明日夢と日菜佳は神社を出た。
「はぁ~、山の空気は気持ちがいいねぇ~」
「あの、日菜佳さん」
「はい?」
「あの岩戸…もう一回探してみましょう」
「ええ!?この山の中また歩き回るの!?」
「なんか…放っておけないんです。どうしても見つけたくて…すいません、もう一日だけお願いします!」
日菜佳を見つめる明日夢の目は真剣だった。
5,
「ど、どうしよう…」
ふと、明日夢の目に霧に紛れて赤いものが映った。
…あれってもしかして…。
「…日菜佳さん、あれ、鳥居ですよ」
「え?鳥居?」
日菜佳が目を凝らすと、確かに谷の中腹に木々に紛れて鳥居が立っていた。
「よかった~。とりあえずあそこで道を聞いてみましょ」
二人は安堵の息を吐きながら鳥居の方向へ向かっていった。
数十分後、二人は山道を歩いて鳥居のある場所へ辿り着いた。
そこは紛れもない神社だった。
鳥居があり、本殿と社務所があり、手水処と玉砂利の敷かれた開かれた庭がある。
深い霧の中に佇む古い社は、まるで絵巻の中から飛び出したような神秘的な雰囲気を感じさせた。
得体の知れない山中から人の気配が感じられる場所に出て、とりあえず二人は安心した。
「誰かいますかね…」
明日夢は中に向かって歩き出した。
「あれ?この狛犬、なんか変じゃない?」
日菜佳は、神社の入り口に置いてあった一対の像を見ていた。
その像は体こそ犬のような形だったが、猿のような顔に、蛇のような造形の尻尾までくっついている。
像を見つめていた明日夢ははっと気づいた。
「これってもしかして、鵺(ぬえ)じゃないですかね」
「鵺?」
鵺とは顔は猿、体は狸、虎の手足と蛇の尾を持つといわれる怪物である。
「平家物語」には、源頼政という武士が、清涼殿に毎夜出没する鵺を山鳥の尾で作った尖り矢で退治したという
逸話が残っている。
「しかし、どーしてそんな怪物がこんな所に?」
「わかりませんね。魔除けのつもりなんでしょうか」
明日夢は首を傾げた。
「本殿のほうに行ってみましょうか」
それからしばらくの間、明日夢と日菜佳は境内を歩き回った。
神社の中では、奇怪な代物を至る所で見つけることができた。
岩に彫られた件(くだん)の彫刻や、牛頭鬼と馬頭鬼をかたどった仁王像のようなものまであった。
「これじゃまるで、神社と言うよりお化け屋敷よねぇ」
日菜佳が歩きながら嘆息した。
それらのものは全く謎に満ちていたが、不思議と気味悪さは感じなかった。
「すいませーん、誰かいませんかー?」
「どうかしましたか?」
突然声をかけられて、明日夢は振り返った。
そこにいたのは、袴を着た年輩の男だった。たぶんこの神社の神主だろう。
「すいません、あの僕達、道に迷っちゃって…」
明日夢の言葉を聞くと、神主は柔和な笑みを浮かべた。
「今夜はここに泊まっていかれたらいいですよ。第一、こんな時間じゃ山歩きに慣れてない人が下山するのは危険すぎます」
言われて見ると、もう空は薄闇に包まれ始めている。
「え?でも私達、お金持ってないし…」
「いいんです。ここは人が滅多に来ませんから。さ、どうぞ」
神主の言葉を聞いて、二人はしぶしぶ足を進めた。
結局、明日夢達二人は神社の世話になることになった。
夕食に出されたのはありふれた精進料理だったが、神主の心尽くしが充分に感じられた。
夕食が終わった後、二人は六畳ほどの客間に案内された。
箪笥に机が一つ、布団が二つだけの質素な部屋だったが、それがかえって清潔さを感じさせた。
柔らかな月の光が、障子の向こうから射し込んでくる。
「はぁ~、めっちゃ疲れたぁ~」
そう言うなり、日菜佳は掛け布団の上に飛び込んだ。
「普段あんまり運動してないからじゃないですか?」
「失礼ね~、ちゃんとダイエットのためにランニングしてるわよ」
日菜佳は口を尖らせた。
「明日夢ク~ン、相部屋だからって変なことしないでよね~」
「僕はそんな悪趣味じゃありません」
「あー、言ったなー!このこのー!」
二人は下らないことを言い合い、夜半過ぎまでふざけあった。
こうして山の夜は更けていった。
6、
夜半過ぎ、何かに導かれるかのように、明日夢は足の動くまま寝室を出た。
社務所と本殿は長い廊下で繋がっていて、廊下の壁は格子状になっている。
明日夢は月明かりの中、長い廊下を本殿に向けて一人で歩いていた。
空気は霧に包まれてしんと静まり返り、山からはあの、薄甘い花の香りがかすかに漂ってくる。
「寒いな……」
夏とは言え、山の気温はかなり低く、明日夢に肌寒さを感じさせた。
社の周りはあまりにも静かで、自分の独り言さえも凍り付いて床に落ちてしまいそうだ。
空が霧に覆われているせいで、星はあまり見えない。
不思議だった。ほとんど現実感がない。
気が付くと明日夢は本殿の祭壇の前に立っていた。
「これは…」
暗い祭壇の向こう側には、合掌している木彫りの像が立っていた。
像の前には供え物の花や菓子、水や酒が綺麗に並べられている。
その像は、今までどの神社や寺でも見たことがない形だった。
この顔は…
「鬼だ」
その像は響鬼そっくりだ。
鬼神の像は穏やかに佇んでいた。まるで、山に訪れる旅人達を見守っているかのように。
「その像は、初代の鬼だと言われています」
明日夢はぎょっとして振り返った。
神主がランプを持って明日夢の側に立っていた。
「魔化魍を滅ぼすために、捨身祈願して鬼の力を得た修験者だそうですよ」
「最初の鬼…」
明日夢は粛然と面持ちで鬼神の像を見上げた。その像はかなり古く、作られてから何百年も経ってるように思えた。
「この花は?」
明日夢は木像の前に捧げられている花を見た。山中で咲いていたあの花である。
「これは黄水月花といいましてね。この山でしか咲かない花なんですよ」
「あの、ヒビキさんって人、知ってますか?」
神主は意外そうな顔をした。
「この間の香斎の幹事だった人ですね…君はヒビキさんと知り合いなんですか?」
「はい」
明日夢は力強く返事した。
「教えて下さい。ヒビキさんと、この山の関わりを…」
ヒビキの過去にどんなことがあったのか、それが知りたい。
「いいでしょう。…少しだけならあなたにお話しても…。」
神主はしばらく考えて、明日夢に話し始めた。
7,
ヒビキ、いや、日高仁志がこの山に来たのは、もう15年以上も前になる。
鬼になる人間はこの白鵬玄山で「覚醒の儀」を受ける。
”覚醒の儀”を受ける者は儀式の三日前から魚と肉を断ち、斎戒沐浴して身を清める。
儀式の前日には神官や巫女など関係者が社に集合し、儀式の成就を祈願する。
準備は着々と進められていた。
儀式の前日、仁志は白装束を纏い、部屋に一人座っていた。
「日高君。君は、儀式が怖くないのかい」
神主は仁志に向かって問いかけた。
「別に、今更びびったってしょうがないじゃないですか。この時のために覚悟はしてきましたし」
仁志は神主の言を軽く笑い飛ばした。
「無理をしなくてもいい」
「オレ、とっても嬉しいんですよ。だって、鬼になるのずっと憧れてたし。ほんと感謝してます」
そういう仁志の拳は、心なしか震えていた。
「…そうか」
彼はここで幾人もの鬼志望者を見てきたが、大抵は緊張しているか、恐怖に怯えているかのどちらかだった。
仁志のように自然体でいられるのはごく希な人間である。
…いや、自然体でありたいと強がっているのかもしれない…。
…いい鬼になってくれるといいが…。
彼は仁志の前途を願わずにはいられなかった。
------そして、儀式の朝がやってきた。
覚醒の儀には儀を受ける者、その師、神官や巫女など全部で二十人前後の人間が参加する。
衣装は全員白衣、白袴、白足袋で統一され、先頭に並んで歩く。
供え物である御酒、御饌、果物、花を御膳に持った神官が付いて歩いていく。
白装束の列は粛々と山道を進む。
「…ついたぞ」
白い霧の中、そびえ立つ岩戸をヒビキは見上げた。
岩戸の中に入れるのは儀を受ける者とその師のたった二人だけ。
後に残された神官と巫女達は、覚醒の儀を受ける者の無事を祈願して、香を供え祭文を捧げるのだ。
「どうぞご無事で」
「-----行って来ます」
仁志は顔にかかったわずかな憂いを振り払って、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべた。
-------時は来た。
耳に残る重い音を残して、手により岩戸が閉められた。
8,
神主から話を聞き終わり、明日夢は本殿を出た。
白い霧に覆われた山道。人目を避けるように建立された神社。狛犬の代わりに設置された鵺、牛頭鬼と馬頭鬼。
そして、廟堂の奥に安置された鬼神の象。
ここに祀られているのは鬼。仕えるべき神は、いない…。
--------なんだろう。
自分は何か、重大な事実を見落としているような気がする…。
自分は響鬼への信を疑ったことは一度もない。だが…。
胸の奥にもやもやしたものをかかえながら、明日夢は寝室へ帰った。
翌日、朝を迎え、明日夢と日菜佳は神社を出た。
「はぁ~、山の空気は気持ちがいいねぇ~」
「あの、日菜佳さん」
「はい?」
「あの岩戸…もう一回探してみましょう」
「ええ!?この山の中また歩き回るの!?」
「なんか…放っておけないんです。どうしても見つけたくて…すいません、もう一日だけお願いします!」
日菜佳を見つめる明日夢の目は真剣だった。
四ノ巻 開く岩戸
9,
神社を出て、明日夢と日菜佳は山を歩き続けていた。
「明日夢君、一体どうやって岩戸を見つける気なんですか?」
「もしかしたら…」
明日夢は神妙な顔をした。
「…この花です。この花に秘密があるんですよ。見て下さい」
明日夢は岩に咲いている橙色の花を指さした。
「この花が?どうかしたの?」
「ずーっと繋がって群生しているでしょう?高い場所に行くにしたがって群生してる量が増えていってる」
「それが…?」
「もしかしたら、この花の咲いてる元に岩戸があるかもしれません」
「…まさか?」
「だってこの花、この山にしか咲かない花なんでしょう?だったら、岩戸の秘密に関係があるかも…」
「そんな馬鹿な…って言っても、行くんだよね、明日夢君は」
「…すいません」
「…しょうがないなぁ」
日菜佳は苦笑いを浮かべた。
二人は黄水月花をひたすら追って歩き続けた。膝まである川を渡り、大きな岩の転がる道を抜け、年月を経た大木が鬱蒼と生い茂る森を通り
やっと山頂に近いところで岩戸らしき物を見つけたときは、すでに日が中天に差し掛かっていた。
「ここかぁ…」
そこには大きな洞窟の先端に苔むした巨大な二枚岩が並んでおり、まさに「岩戸」と呼ぶにふさわしい貫禄で立ちはだかっていた。
群生する黄水月花と白い霧に囲まれて、岩戸は重苦しい沈黙を湛えていた。
「これが殯岩戸…」
明日夢は岩にそっと手を当てた。
幾多の鬼の誕生を見守ってきた歴史の重みが、手のひらの感触から伝わってくるようだった。
「あーお腹空いた!明日夢君、なんか食べる?」
「なにか食べ物あるんですか?」
「明太子とシャケのおにぎり。昨日のだけど。お茶もあるよ」
「じゃ、頂きます」
明日夢と日菜佳はおにぎりをほおばりながら、しばしの昼食時を楽しんだ。
おにぎりを食べ終えた明日夢は、岩の前に立ってつぶやいた。
「この岩、開きますかね?」
「どーなんだろう…鬼の人なら簡単に開くと思うけど…」
「とりあえずやってみましょう。日菜佳さんも手伝って下さい」
明日夢と日菜佳は岩の隙間に手を入れた。
「行きますよ!せーの!!よっ!!」
二人は力一杯岩戸を引っ張った。すると、岩がわずかに動いた。
「もう一回!!せーの!!」
二人が何度か力を入れて岩を引っ張った結果、間に何とか人が一人は入れるほどの隙間が出来た。
明日夢はおそるおそる中をのぞき込んだ。
中はかなり広いらしく、何処まで続くか分からない漆黒の闇だけが広がっていた。
明日夢は荷物からヘルメットと懐中電灯を出し、ヘルメットを頭にかぶった。
「行きましょう」
洞窟を見据えながら、明日夢は力強く言った。
10,
一歩踏み込んだ明日夢に襲ってきたのは、じめじめした黴のにおいとむせかえるような花の甘い匂いだった。
明日夢は足下に向かって懐中電灯を照らした。
「うわっ!」
そこにはびっしり一面に、あの橙色の花が咲いていたのだった。
岩肌を覆うその姿は、まるで橙色の絨毯のようである。
太陽の光が一筋も射さないこの洞窟内に、一体どうやってこれだけの花が繁殖したのだろうか。
「明日夢君、足下に気をつけてね」
明日夢と日菜佳は洞窟の奥へと歩みだした。
洞窟の内部はかなり大きく、行けども行けども出口が見つからなかった。
途中に壁画のような、文字のような物が描かれている岩壁があったが、詳しくは分からなかった。
ただ、随所に蝋燭のかすや松明が燃えた灰のような物があったことから、人間の出入りがあったことは確認された。
奥へ行けば行くほどあのむせ返るような甘い匂いが強くなってくる。
「なんか…魔化魍でも出そうな気配ですね…」
「まさか、鬼の聖地に魔化魍は出ないでしょ」
そういう日菜佳の顔にも冷や汗がわき出ていた。
じっとりした湿気に覆われた洞窟は、まるで自分の行く道が暗黒の世界に繋がっているかのような錯覚をおこさせた。
明日夢と日菜佳は苔や花が生えた岩肌に何度も足元を取られそうになりながら、真っ暗な洞窟をなんとか奥へと進んでいった。
「ちょっと、これ見て!」
岩壁に挟まれた狭い道を抜けると、とたんに見晴らしのいい開けた場所があった。
その広場を取り囲むように木製の豪華な朱塗りの柱が四本立てられていた。地面には石畳が敷かれ、柱と柱の間には細工された軒が
渡されていた。
岩壁がくりぬかれて、そこには小さな鬼神の像が祀られていた。
「…こんなの作ってたんだ」
「きっとこれも、鬼を祀る社として作られたんでしょうね」
日菜佳は、社の岩壁に彫りつけられていた文章を見つけた。
「何?これ?漢字ばかりで分からないんだけど…」
日菜佳はてで文字に付いたゴミを手で払い落とした。
「えーと、どれどれ…」
日菜佳は文章をメモ帳に書き写した。
成鬼的者入朱紅色麻雀大門 対落神樹身一和合
在一日和鬼的精融合 在二日血 在五日肌肉 在六日骨 以八天皮
在十日完全的鬼生落下了
「なんだこりゃ…全然わからないや」
石の社からは三つの道が延びており、その終点の岩壁には絵のようなものが描かれていた。
そのうちの一つ、中央の岩壁には赤い染料で鳥のような絵が描いてある。
よく見ると、その岩壁の中心には縦に一直線に裂け目のような物が入っている。
「まるで扉みたいね…でもこの鳥はいったいなんなのかしら?」
「火の鳥…じゃなさそうだし…あ、もしかしてこれ、朱雀かも」
朱雀とは、四聖獣の一つで季節においては夏、方位においては南を司る。
試しに他の岩壁も調べたが、左の岩壁には青い龍、右の岩壁には白虎のような絵が描いてあった。
「つまり、こっちは南って事?」
「そうみたいですね」
「…どうして南側の壁だけ扉みたいになってるんだろう?」
「そうだ、さっき壁に描いてあった文章…」
日菜佳はメモ帳を開いた。
”成鬼的者入朱紅色麻雀大門 対落神樹身一和合”…
「…つまり、これが”朱雀の門”だとすると、このなかに”落神樹”ってものが入ってるってことなのかしら…」
日菜佳が朱雀の絵に手をかけた、その時、
…ドォオンッ…
どこかで何か重い物が、岩にぶつかったような音がした。
「何だろう?」
「落石じゃないですか?」
ドオォン…ドオォンッ…
再び音がした、ぶつかった…というより、何かに突進しているように思える。
音の感覚は短くなり、次第に大きくなっていった。
「やだ、こんなに落石多いのかしら?」
「違う…これ、岩じゃない!」
ドォン…ドォン…ドォンッ!
「きゃぁっ!」
激しい衝撃音が朱雀の岩壁を揺らした。
何者かが数回朱雀の岩壁を揺らした後、突如、轟音とともに裂け目から触手のような物体が外に踊り出てきた!!
9,
神社を出て、明日夢と日菜佳は山を歩き続けていた。
「明日夢君、一体どうやって岩戸を見つける気なんですか?」
「もしかしたら…」
明日夢は神妙な顔をした。
「…この花です。この花に秘密があるんですよ。見て下さい」
明日夢は岩に咲いている橙色の花を指さした。
「この花が?どうかしたの?」
「ずーっと繋がって群生しているでしょう?高い場所に行くにしたがって群生してる量が増えていってる」
「それが…?」
「もしかしたら、この花の咲いてる元に岩戸があるかもしれません」
「…まさか?」
「だってこの花、この山にしか咲かない花なんでしょう?だったら、岩戸の秘密に関係があるかも…」
「そんな馬鹿な…って言っても、行くんだよね、明日夢君は」
「…すいません」
「…しょうがないなぁ」
日菜佳は苦笑いを浮かべた。
二人は黄水月花をひたすら追って歩き続けた。膝まである川を渡り、大きな岩の転がる道を抜け、年月を経た大木が鬱蒼と生い茂る森を通り
やっと山頂に近いところで岩戸らしき物を見つけたときは、すでに日が中天に差し掛かっていた。
「ここかぁ…」
そこには大きな洞窟の先端に苔むした巨大な二枚岩が並んでおり、まさに「岩戸」と呼ぶにふさわしい貫禄で立ちはだかっていた。
群生する黄水月花と白い霧に囲まれて、岩戸は重苦しい沈黙を湛えていた。
「これが殯岩戸…」
明日夢は岩にそっと手を当てた。
幾多の鬼の誕生を見守ってきた歴史の重みが、手のひらの感触から伝わってくるようだった。
「あーお腹空いた!明日夢君、なんか食べる?」
「なにか食べ物あるんですか?」
「明太子とシャケのおにぎり。昨日のだけど。お茶もあるよ」
「じゃ、頂きます」
明日夢と日菜佳はおにぎりをほおばりながら、しばしの昼食時を楽しんだ。
おにぎりを食べ終えた明日夢は、岩の前に立ってつぶやいた。
「この岩、開きますかね?」
「どーなんだろう…鬼の人なら簡単に開くと思うけど…」
「とりあえずやってみましょう。日菜佳さんも手伝って下さい」
明日夢と日菜佳は岩の隙間に手を入れた。
「行きますよ!せーの!!よっ!!」
二人は力一杯岩戸を引っ張った。すると、岩がわずかに動いた。
「もう一回!!せーの!!」
二人が何度か力を入れて岩を引っ張った結果、間に何とか人が一人は入れるほどの隙間が出来た。
明日夢はおそるおそる中をのぞき込んだ。
中はかなり広いらしく、何処まで続くか分からない漆黒の闇だけが広がっていた。
明日夢は荷物からヘルメットと懐中電灯を出し、ヘルメットを頭にかぶった。
「行きましょう」
洞窟を見据えながら、明日夢は力強く言った。
10,
一歩踏み込んだ明日夢に襲ってきたのは、じめじめした黴のにおいとむせかえるような花の甘い匂いだった。
明日夢は足下に向かって懐中電灯を照らした。
「うわっ!」
そこにはびっしり一面に、あの橙色の花が咲いていたのだった。
岩肌を覆うその姿は、まるで橙色の絨毯のようである。
太陽の光が一筋も射さないこの洞窟内に、一体どうやってこれだけの花が繁殖したのだろうか。
「明日夢君、足下に気をつけてね」
明日夢と日菜佳は洞窟の奥へと歩みだした。
洞窟の内部はかなり大きく、行けども行けども出口が見つからなかった。
途中に壁画のような、文字のような物が描かれている岩壁があったが、詳しくは分からなかった。
ただ、随所に蝋燭のかすや松明が燃えた灰のような物があったことから、人間の出入りがあったことは確認された。
奥へ行けば行くほどあのむせ返るような甘い匂いが強くなってくる。
「なんか…魔化魍でも出そうな気配ですね…」
「まさか、鬼の聖地に魔化魍は出ないでしょ」
そういう日菜佳の顔にも冷や汗がわき出ていた。
じっとりした湿気に覆われた洞窟は、まるで自分の行く道が暗黒の世界に繋がっているかのような錯覚をおこさせた。
明日夢と日菜佳は苔や花が生えた岩肌に何度も足元を取られそうになりながら、真っ暗な洞窟をなんとか奥へと進んでいった。
「ちょっと、これ見て!」
岩壁に挟まれた狭い道を抜けると、とたんに見晴らしのいい開けた場所があった。
その広場を取り囲むように木製の豪華な朱塗りの柱が四本立てられていた。地面には石畳が敷かれ、柱と柱の間には細工された軒が
渡されていた。
岩壁がくりぬかれて、そこには小さな鬼神の像が祀られていた。
「…こんなの作ってたんだ」
「きっとこれも、鬼を祀る社として作られたんでしょうね」
日菜佳は、社の岩壁に彫りつけられていた文章を見つけた。
「何?これ?漢字ばかりで分からないんだけど…」
日菜佳はてで文字に付いたゴミを手で払い落とした。
「えーと、どれどれ…」
日菜佳は文章をメモ帳に書き写した。
成鬼的者入朱紅色麻雀大門 対落神樹身一和合
在一日和鬼的精融合 在二日血 在五日肌肉 在六日骨 以八天皮
在十日完全的鬼生落下了
「なんだこりゃ…全然わからないや」
石の社からは三つの道が延びており、その終点の岩壁には絵のようなものが描かれていた。
そのうちの一つ、中央の岩壁には赤い染料で鳥のような絵が描いてある。
よく見ると、その岩壁の中心には縦に一直線に裂け目のような物が入っている。
「まるで扉みたいね…でもこの鳥はいったいなんなのかしら?」
「火の鳥…じゃなさそうだし…あ、もしかしてこれ、朱雀かも」
朱雀とは、四聖獣の一つで季節においては夏、方位においては南を司る。
試しに他の岩壁も調べたが、左の岩壁には青い龍、右の岩壁には白虎のような絵が描いてあった。
「つまり、こっちは南って事?」
「そうみたいですね」
「…どうして南側の壁だけ扉みたいになってるんだろう?」
「そうだ、さっき壁に描いてあった文章…」
日菜佳はメモ帳を開いた。
”成鬼的者入朱紅色麻雀大門 対落神樹身一和合”…
「…つまり、これが”朱雀の門”だとすると、このなかに”落神樹”ってものが入ってるってことなのかしら…」
日菜佳が朱雀の絵に手をかけた、その時、
…ドォオンッ…
どこかで何か重い物が、岩にぶつかったような音がした。
「何だろう?」
「落石じゃないですか?」
ドオォン…ドオォンッ…
再び音がした、ぶつかった…というより、何かに突進しているように思える。
音の感覚は短くなり、次第に大きくなっていった。
「やだ、こんなに落石多いのかしら?」
「違う…これ、岩じゃない!」
ドォン…ドォン…ドォンッ!
「きゃぁっ!」
激しい衝撃音が朱雀の岩壁を揺らした。
何者かが数回朱雀の岩壁を揺らした後、突如、轟音とともに裂け目から触手のような物体が外に踊り出てきた!!
五ノ巻 解ける秘密
11,
触手は日菜佳の足に絡みつき、その体を軽々と持ち上げた。
洞窟の中一杯に、日菜佳の絶叫が響き渡った!
触手は日菜佳を天井まで引っ張り上げて、さらに弄ぼうとしている。
「日菜佳さんっ!!」
駆けつけた明日夢は触手に持ち上げられ、そのまま岩壁に勢いよく叩き付けられた。
「ぎゃっ!」
明日夢の鼻から一筋、生暖かいものがこぼれ落ちた。
「う、う…」
明日夢は朦朧とした意識の中で、必死にバッグからあるものを取り出した。
この登山のために購入した、小型のサバイバルナイフである。
「この…日菜佳さんを離せっ!!」
明日夢は必死の形相で触手に斬りかかった。
ナイフの刃が触手に食い込み、ぬるい体液が明日夢の服に飛び散った。
「この、このっ!!」
明日夢は暗闇の中、わずかな明かりだけを頼りにナイフを振り回した。
二、三回手応えがあった後、しばらくして石扉の向こうから獣の呻き声のような音が聞こえ、どさりと日菜佳が倒れる音がした。
明日夢は洞窟の床に倒れ込んだ日菜佳に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「う、うん…」
明日夢は懐中電灯で日菜佳を照らした。
軽い擦り傷などが多少あるようだが、骨折や大きな出血などはないようだった。
明日夢がほっと息を付いた瞬間、石扉からさらに大きな音がした。
とてつもなく大きな物体が、壁にぶつかるような音…。
「ま、まさか…」
明日夢の額から一筋の脂汗が流れた。
次の瞬間、朱雀の石扉が吹き飛び、触手の本体が姿を現した!
それは、まるで植物とも動物とも付かない形をしていた。
あまりに巨大なその緑色の塊には、表面に赤々とした血管が這っていて、それがとくとくと脈打っていた。
塊からは何本もの触手が伸びており、まるで気味の悪い球根のように見えた。
その姿を間近に見た二人は、思わず絶叫していた。
…化け物だ…この岩戸が封じていたのは、こいつだったのか!
初めて魔化魍を見たときと同じ、全身が痺れるような戦慄が明日夢に襲いかかった。
「うわ…こ、こっちに来る!」
日菜佳は必死で腕だけで後ずさった。痛めた足は思うように動かない。
緑色の塊は長い触手をぬらぬらと揺らしながら、明日夢達に近づいてくる。
明日夢は出口に向かって飛び出したい気持ちをこらえて、塊に向かってナイフを構えた。
「く、くそ!来るなら来い!」
明日夢の手が震えている。強がってはいるが武器はたかだかナイフ一本、何mもある怪物との力の差は明らかだった。
丸太のように太い触手が鞭のようにしなり、明日夢に向かって唸りをあげて向かってきた。
…殺される!
全身を刺すような恐怖を感じて、明日夢は思わず両目をつぶった。
12,
その瞬間、死を覚悟した明日夢の前を一閃、赤い煌めきがよぎった。
赤い煌めきは触手にぶつかり、触手の注意を明日夢から逸らした。
あれは…
明日夢は空を飛ぶその物体に見覚えがあった。
「…アカネタカ!」
それは、まぎれもなく鬼達が使役するディスクアニマル、アカネタカの姿だった。
後続からは次々と他のディスクアニマル、リョクオオザル、ルリオオカミなどがやってくる。
一体誰が…
明日夢が振り返ると、そこにはあの神主が立っていた。
「…神主さん!」
「まさかとは思いましたが、やっぱりここに来てよかった」
そういうと、神主は懐から変身音叉・音角を取り出した。
音角を鳴らし、神主は音角を額に当てた。
瞬間、神主の体が青色の炎に包まれた。
放出された力が風となって髪を巻き上げる。
「-----鬼」
考えてみれば当たり前だった。鬼の元締めである人間が普通の人であるはずがない。
「落神樹よ、鎮まりなさい。この人達は敵ではありません」
鬼となった神主が口笛を吹くと、緑色の塊---------落神樹は攻撃をやめ、大人しく洞窟の奥へと下がっていった。
「怪我はありませんか?」
神主は明日夢達の方に向き直った。
「あ、はい…ちょっとすりむいたくらいで」
明日夢は袖で鼻血を拭き取った。
「貴方達が急に入ってきたので、落神樹が怯えて攻撃してきたのでしょう」
「ごめんなさい…僕達が、勝手にここに入ったせいで…」
明日夢は頭を下げた。
よろよろと立ち上がった日菜佳が、神主に質問した。
「神主さん…あれは一体?なんでこんな所に魔化魍が?」
「あれは魔化魍ではありません」
神主は言い切った。
「鬼になる人間は、この落神樹の”実”に入り、鬼になるのです」
「…え?」
明日夢と日菜佳はしばし沈黙した。
「入るって……あの、あの……化け物の中に!?」
すっかり顔色を失った日菜佳がまくしたてた。
神主…今は変身して鬼となった彼が、落神樹について話し始めた。
落神樹の”実”に当たる部分、胞胎に吸収された人間は、管枝を全身に接続されて、鋼身鉄骨の新たなる肉体へと
変貌する。通常は十日間ほど落神樹の中で眠り続け、「鬼」となって生まれ落ちるのである。
胞胎に入った者は、肉体に直接草樹の霊気を注入され、一日にして鬼の精と融合する。
二日に血、五日に筋肉、六日に骨、八日で皮膚を形成し、十日にして完全な「鬼」の肉体へと生まれ変わるのだ。
生まれ落ちた鬼は一人前の「鬼」として師に新たな名を与えられる。
”鬼”になるためには、鍛えあげた肉体も当然だが、己の肉体の変貌に絶えうる事の出来る強靱な意志の力が必要となる。
それが、鬼になるために必要な秘儀の全てだったのだ…。
「いつの時代からかは分かりませんが、こうして落神樹の力を利用して、私達は鬼を造り出してきたのです。」
神主は静かに呟いた。
13,
明日夢と神主は、足を痛めた日菜佳を肩で支えながら殯岩戸を出た。
明日夢の脳裏には、いつかのヒビキの姿が映っていた。
「ナ・イ・ショ」
人差し指を口に当てて悪戯っぽくヒビキは笑った。
そうか、ヒビキさんは、このことを知られたくなかったから内緒にしてたのか…。
これから鬼として生きるのか、それとも…
明日夢は白い霧の満ちた天を見上げた。太陽は厚い雲に隠れて見えなかった。
明日夢が自らの進む道について決断を下すのは、もう少し先の話になる。
~霧の山 白の迷路~ 完
11,
触手は日菜佳の足に絡みつき、その体を軽々と持ち上げた。
洞窟の中一杯に、日菜佳の絶叫が響き渡った!
触手は日菜佳を天井まで引っ張り上げて、さらに弄ぼうとしている。
「日菜佳さんっ!!」
駆けつけた明日夢は触手に持ち上げられ、そのまま岩壁に勢いよく叩き付けられた。
「ぎゃっ!」
明日夢の鼻から一筋、生暖かいものがこぼれ落ちた。
「う、う…」
明日夢は朦朧とした意識の中で、必死にバッグからあるものを取り出した。
この登山のために購入した、小型のサバイバルナイフである。
「この…日菜佳さんを離せっ!!」
明日夢は必死の形相で触手に斬りかかった。
ナイフの刃が触手に食い込み、ぬるい体液が明日夢の服に飛び散った。
「この、このっ!!」
明日夢は暗闇の中、わずかな明かりだけを頼りにナイフを振り回した。
二、三回手応えがあった後、しばらくして石扉の向こうから獣の呻き声のような音が聞こえ、どさりと日菜佳が倒れる音がした。
明日夢は洞窟の床に倒れ込んだ日菜佳に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「う、うん…」
明日夢は懐中電灯で日菜佳を照らした。
軽い擦り傷などが多少あるようだが、骨折や大きな出血などはないようだった。
明日夢がほっと息を付いた瞬間、石扉からさらに大きな音がした。
とてつもなく大きな物体が、壁にぶつかるような音…。
「ま、まさか…」
明日夢の額から一筋の脂汗が流れた。
次の瞬間、朱雀の石扉が吹き飛び、触手の本体が姿を現した!
それは、まるで植物とも動物とも付かない形をしていた。
あまりに巨大なその緑色の塊には、表面に赤々とした血管が這っていて、それがとくとくと脈打っていた。
塊からは何本もの触手が伸びており、まるで気味の悪い球根のように見えた。
その姿を間近に見た二人は、思わず絶叫していた。
…化け物だ…この岩戸が封じていたのは、こいつだったのか!
初めて魔化魍を見たときと同じ、全身が痺れるような戦慄が明日夢に襲いかかった。
「うわ…こ、こっちに来る!」
日菜佳は必死で腕だけで後ずさった。痛めた足は思うように動かない。
緑色の塊は長い触手をぬらぬらと揺らしながら、明日夢達に近づいてくる。
明日夢は出口に向かって飛び出したい気持ちをこらえて、塊に向かってナイフを構えた。
「く、くそ!来るなら来い!」
明日夢の手が震えている。強がってはいるが武器はたかだかナイフ一本、何mもある怪物との力の差は明らかだった。
丸太のように太い触手が鞭のようにしなり、明日夢に向かって唸りをあげて向かってきた。
…殺される!
全身を刺すような恐怖を感じて、明日夢は思わず両目をつぶった。
12,
その瞬間、死を覚悟した明日夢の前を一閃、赤い煌めきがよぎった。
赤い煌めきは触手にぶつかり、触手の注意を明日夢から逸らした。
あれは…
明日夢は空を飛ぶその物体に見覚えがあった。
「…アカネタカ!」
それは、まぎれもなく鬼達が使役するディスクアニマル、アカネタカの姿だった。
後続からは次々と他のディスクアニマル、リョクオオザル、ルリオオカミなどがやってくる。
一体誰が…
明日夢が振り返ると、そこにはあの神主が立っていた。
「…神主さん!」
「まさかとは思いましたが、やっぱりここに来てよかった」
そういうと、神主は懐から変身音叉・音角を取り出した。
音角を鳴らし、神主は音角を額に当てた。
瞬間、神主の体が青色の炎に包まれた。
放出された力が風となって髪を巻き上げる。
「-----鬼」
考えてみれば当たり前だった。鬼の元締めである人間が普通の人であるはずがない。
「落神樹よ、鎮まりなさい。この人達は敵ではありません」
鬼となった神主が口笛を吹くと、緑色の塊---------落神樹は攻撃をやめ、大人しく洞窟の奥へと下がっていった。
「怪我はありませんか?」
神主は明日夢達の方に向き直った。
「あ、はい…ちょっとすりむいたくらいで」
明日夢は袖で鼻血を拭き取った。
「貴方達が急に入ってきたので、落神樹が怯えて攻撃してきたのでしょう」
「ごめんなさい…僕達が、勝手にここに入ったせいで…」
明日夢は頭を下げた。
よろよろと立ち上がった日菜佳が、神主に質問した。
「神主さん…あれは一体?なんでこんな所に魔化魍が?」
「あれは魔化魍ではありません」
神主は言い切った。
「鬼になる人間は、この落神樹の”実”に入り、鬼になるのです」
「…え?」
明日夢と日菜佳はしばし沈黙した。
「入るって……あの、あの……化け物の中に!?」
すっかり顔色を失った日菜佳がまくしたてた。
神主…今は変身して鬼となった彼が、落神樹について話し始めた。
落神樹の”実”に当たる部分、胞胎に吸収された人間は、管枝を全身に接続されて、鋼身鉄骨の新たなる肉体へと
変貌する。通常は十日間ほど落神樹の中で眠り続け、「鬼」となって生まれ落ちるのである。
胞胎に入った者は、肉体に直接草樹の霊気を注入され、一日にして鬼の精と融合する。
二日に血、五日に筋肉、六日に骨、八日で皮膚を形成し、十日にして完全な「鬼」の肉体へと生まれ変わるのだ。
生まれ落ちた鬼は一人前の「鬼」として師に新たな名を与えられる。
”鬼”になるためには、鍛えあげた肉体も当然だが、己の肉体の変貌に絶えうる事の出来る強靱な意志の力が必要となる。
それが、鬼になるために必要な秘儀の全てだったのだ…。
「いつの時代からかは分かりませんが、こうして落神樹の力を利用して、私達は鬼を造り出してきたのです。」
神主は静かに呟いた。
13,
明日夢と神主は、足を痛めた日菜佳を肩で支えながら殯岩戸を出た。
明日夢の脳裏には、いつかのヒビキの姿が映っていた。
「ナ・イ・ショ」
人差し指を口に当てて悪戯っぽくヒビキは笑った。
そうか、ヒビキさんは、このことを知られたくなかったから内緒にしてたのか…。
これから鬼として生きるのか、それとも…
明日夢は白い霧の満ちた天を見上げた。太陽は厚い雲に隠れて見えなかった。
明日夢が自らの進む道について決断を下すのは、もう少し先の話になる。
~霧の山 白の迷路~ 完