腐女子、往きる
第一幕「夏が来る」
乙女ろおどより南、東京地下鉄有楽町線にて池袋から一駅の「護国寺」に、三世橋の通う高校はある。こういった、商業地区から少し離れた地域というのは昔から教育機関が集合しやすい傾向にあり、有名な所では御茶の水女子大、日本女子大、筑波大支部など、神田川を渡れば早稲田も見えるという薫陶の街である。と、同時に、護国寺駅を出ればすぐに業界最大手との呼び声高い「講壇社」の本社があり、更に三駅も南に下れば「集栄社」にも手が届くという出版社に恵まれた土地柄でもあり、同人誌の印刷を引き受けてくれる小さい印刷所も多数あるので、三世橋にとっては非常に望ましい環境であると言えた。
三世橋は毎朝、約二十五分間電車に揺られて学校に通う。普段ならば、この道中は携帯電話を使って二次創作の小説を捜すか、当たり障りのない書皮の少年少女向け文庫本を読むか、どちらも目ぼしい物がなければ妄想に耽るかのどちらかであるのだが、この日はそのいずれも手につかなかった。
先日、長く在籍していた円環の長より言い渡された決別の「逆」。冷たく突き放され、満身創痍の覚悟も軽くあしらわれ、何もかもを失った所に差し出された青封筒。そして……。
(いかん。あのような奇異な者を相手している場合ではないのだ)
そう念じて頭を横に振り払えど、「懺悔河」忘れられない名前であった。
三世橋がこの道に入ったのは、以前も述べた通り中学一年生の頃だったが、その遥か以前より漫画、動画活劇の類については並の人間よりも深い興味を持っていた。最初は少女漫画から始まったが、やがては集栄社より毎週月曜日発売の週間少年「跳躍」もかかさず読むようになり、初めて「漫画の人物を描く」という意識をして筆を持ったのもちょうどその頃、小学三年生の頃だった。
絵を描く事自体は幼稚園の頃から得意で、褒められて伸び、伸びれば褒められ、良い循環の中で埋めていった落書き帳の数はようとして知れない。小学校においては既に、同級生の中では一番うまいともっぱらの評判で、今でも三世橋が筆を持つ自信の根源はその辺りにある。
意外、と表現するべきか、中学にあがるまで三世橋は「男」の絵を描いた事がなかった。「男同士」に興味はあったが、長らくの間三世橋は女子の絵のみを描き続けてきた。その心理には、「恥」という大和撫子としての感情があるが、それを克服し、自らの手で男を描く事を誇りとする事件が中学一年生の頃にあった。
いわゆる「黒歴史」とも称すべき、思い出しただけで枕に顔を埋めて呼吸を止めたまま死んでしまいたくなるような出来事は両手の指の数より多い三世橋であるが、その事件は今の三世橋を構築する上でも非常に重要な事件であり、円環からの除名はこれに匹敵する大事であった。
三世橋は悩んでいた。
しかし悩んだ末に答えが出るとも思っていなかった。
円環を抜けたからといって、腐女子をやめられる訳はない。
三世橋は腐女子だった。明確に、いつから三世橋がそうなっていたのかは腐女子の定義にもよるが、今、三世橋が腐女子であるという事は紛れも無い事実だったのだ。
「らしくないぜ、三世橋。何やら悩んでいるようだな。一体どうした?」
昼休み、三世橋の机に前の席の椅子をつけ、弁当箱を広げる女子が一人いる。
筆名を「白石 喜理(しらいし きり)」と言い、三世橋と同じく腐女子である。
「……白石、今日は一人にしてくれんか?」
弁当箱を開ける気力すら湧いていない三世橋を無視し、白石はあっという間に三世橋の机を占拠し卵焼きに箸をつける。
「いかにお前が落ち込んでいようと、昼餉くらいは共にせにゃ。何せ俺達は親友だ。何があったってんだ? ほれ、言ってみな」
白石は屈託の無い笑みを浮かべながら、喋りつつ器用にも次々におかずを口に運んでいく。そのあっけらかんとした様子を見て、呆れたのか、諦めたのか、三世橋も弁当箱を開く。
「円環を抜けた」
三世橋の淡白とした報告に、白石は思わず、ちょうど食べていた肉団子を喉に詰まらせた。胸を何度も叩きながら、かろうじて呼吸を取り戻した白石は、合成樹脂水筒のお茶を一気飲みして一息つく。
「抜けたってお前……明坂様の円環をか? なんでまた?」
尋ねられた三世橋は答えず、ただ黙々と白飯を口に運ぶ。その様子を見て、気づく白石。
「ははぁ……喧嘩か?」
「喧嘩などではない」
否定する三世橋に、白石はぐいと顔を近づける。
「ふむ。確かにお前のその顔は、誰かと喧嘩した時のそれではないな。ずっと前に見た事がある。あれは一体何の時だったか……ああ、思い出した。中学の時、同じ学級の男子に絵を描けと命令された時の顔だ」
「なっ……貴様っ! そんな事、まだ覚えていたのか!」
あからさまに取り乱し、見る見るうちに顔を真っ赤にさせた三世橋を見て、白石は腹を抱えて笑い出した。三世橋の頭の中に、例の黒歴史が瞬く間に蘇る。たまにそれを突いて、三世橋をからかうのが、白石の趣味だった。
白石と三世橋。同い年で、中学から同じ学級で、漫画研究部に所属しており、そして腐女子。このように共通点は多く、境遇も似ているが、性格については、2人はむしろ正反対と言えた。
真実一路、謹厳実直な三世橋に比べ、白石は生まれついての調子のりで、飽きっぽく、昨日まであれだけ好きだったじゃんるを簡単に捨て、次の日には全く別の作品に嵌って小物を買い漁るという事も珍しくない。がんだも種子一筋でやってきた三世橋と比べ、白石が今までやってきたじゃんるは本人すらよく覚えていないほどであるが、その時々の愛情は本物であると本人は主張する。
対照的な二人ではあるが、やはり同じ道を歩んでいるという事実は大きいのか、大概において仲は良く、文字通りの腐れ縁という関係に落ち着いている。
ひとしきり笑った後、ずれた眼鏡の位置を直し、白石は緩んだままの口角で三世橋に事情の説明を求めた。三世橋は少し考えた後、「今更隠してもこやつは自分で調べるだろう」という結論に至り、仔細を語り始めた。
「許せん話だ」
全てを聞いた白石は、珍しく真剣な表情で、三世橋の話をこう評した。
「気に入らなければ抜けろだと? 最初にお前を円環に誘ったのは明坂の方じゃないか。しかも何の断りもなしに次の本の方針を決めるとは、横暴すぎる! そもそも『逆』だと!? ますます許せん!」
勢い良く立ち上がり、衆目を集めた白石を宥め、座らせる三世橋。
「しかし明坂様の仰っていた事も分からないでもないのだ」
「何だと?」
「実際、新しいがんだもは既に始まっているし、先日行われた漫画街(年に数回行われる同人誌即売会で、夏に次いで参加者が多い)でも名の知れた円環が新しいがんだもに移っているのだ。状況は非常に悪い」
「それでも、それでもだ。腐女子の誇りというのがあるだろう?」
「だから私は円環を抜けたのだ」
三世橋の言葉に、沈黙する白石。
白石も、三世橋と同様に漫画を描く。先ほども述べたとおり、そのじゃんるは多岐に渡り、一つに拘る事もまず滅多に無いが、腐女子暦としては三世橋と同じくらいに長く、交流関係や即売会など各種催しでの経験はむしろ三世橋よりも豊富にある。三世橋が初めて明坂の円環に参加し、原稿を描いた時などは、助言をもらい、ついでに助手もしてもらった程だ。
白石の実家は比較的裕福であり、時給労働(いわゆるアルバイト)の経験は一切ないが、自宅にある蔵書の数は五千をくだらないという生粋の道楽娘である。しかし肝心の実力に関しては、瑠璃の光も磨きがら、こつこつと努力をするのが苦手な白石はそれなりに上達も遅かった。
綺麗に食べ終えた弁当箱をしまいながら、白石は口を開く。
「だが、ちょうど良かったのかもしれんな」
その言葉に対し、尖った反応を見せる三世橋。
「どういう意味だ? 返答によっては……」
乗り出しかけた瞬間、白石は一冊の単行本をすっと取り出し、三世橋の視線を切った。
単行本には三省堂書店の書皮がかけられており、内容は分からない。
「放課後、感想を聞かせてくれ。それから話をしよう」
白石は不審げな満面の笑みを浮かべてそう言いながら、自分の席に戻っていった。
腑に落ちない三世橋は、それでも始業の鐘を聞き、単行本を机の中に仕舞った。
放課後の漫研部室。三世橋が件の単行本を読み終え、一息ついたのを見計らって白石が声をかけた。
「何を怖い顔している? 気に入らなかったか?」
眉間に皺を寄せた三世橋は白石を視界に捉えつつ、あえてそちらは見ずに答える。
「過激すぎる。学び舎で読む物ではない」
白石が渡した単行本の題名は「純正ろまんちか」。数年前より角河書店より発売されている漫画であり、繊細な人物の感情描写と、刺激的な性的表現、そして衆道(いわゆるホモ)を主軸に置いた、「もろ」な作品である。
「ま、喜んでくれたようで何よりだ」
「喜んでなどいるか」
「しかし、だ、一応は全部読んだのだろう? 三世橋はむっつりだものな」
机の下で貧乏揺すりしたまま無言で腕を組む三世橋を、白石が更にからかう。
ここで、三世橋が腐女子として、男を描く事になったきっかけとなったある事件について語らなければならないだろう。未だ忘れる事が出来ず、白石にいいように弄られる三世橋の黒歴史。その始まりは中学一年生の頃に遡る。
休み時間、手帳に女子の絵ばかりを描いていた当時の三世橋。同級生達からの「あれを描いてくれんか」「こういうのは描けまいか?」という要求を受け、日々その実力に磨きをかけつつ、かといって驕り昂ぶる事もなく、教室内での主役に立つ事もせずにあくまで地味に過ごしていた。
ある日、そんな三世橋の机を、四人ばかりの男子が取り囲んだ。
「なあ、お前さん絵がうまいんだってな? ちょいと、裸の絵を描いてみてくれよ」
しまりのないにやけ顔でそう要求する男達は、教師にも悪い意味で一目を置かれている与太者達である。制服を着崩し、がむを噛み、校庭に唾を吐く事で存在を主張する半端者で、気の弱そうな男子を掴まえていじめまがいの事をしている事もある。その日、男子たちの向けた矛の先には三世橋があった。
否定も肯定も出来ず、せめて慌てているのを悟られぬように不満げに唸る三世橋に、「答えないのなら承諾したという事で良いな」と強引に言い渡し、男子達は去っていった。
一日。三世橋は考えた。
思春期真っ只中の男子にとって、女子の裸体が描かれた絵は正倉院に納められた宝物に価値に匹敵する。三世橋の絵の腕は教室で一番、いや学年で一番と言えるくらいに上達して既に知れ渡っていたし、実際問題、女子の裸を描く事などその時の三世橋には造作も無い事だった。
しかし……。
男子からの要求に答え、それを描いたとなれば同じ女子達からの蔑視は必定。また、自分自身の裸を見られたようでとてつもなく恥ずかしい気分もある。かといって無視すれば、これから先どのような因縁をつけられるか分かった物ではない。何せ相手は、同級生とはいえ無頼の端くれである。本気で傷つけようとしてくれば、三世橋に成すすべは無い。
だが、この時三世橋が取った行動の理由は、それらの論理以前に「絵を描く事を馬鹿にされた」という屈辱を払拭する為だったと見て間違いないだろう。
三世橋は覚悟を決めた。
次の日、
「描けたか?」
と、男子達。目は邪な期待で満ちている。
「ああ、描けた」
三世橋は鞄から一枚の紙を取り出す。
それを受け取った男子達の表情が、見る見る強張っていく。それは一瞬怒りの色を見せ、三世橋の顔を睨むが、三世橋の憮然とした表情を確認すると、次第に恐怖に上書きされていく。
「裸の絵、とだけ言われていたのでな。私が好きな絵を描かせてもらった」
三世橋の絵は、あからさまにその男子達を意識して描かれた人物同士が裸で絡み合っている濃密な男色絵だった。
開眼である。
その後、男子達が三世橋に話しかける事は一切無くなり、学内での平和は保たれた。にも拘らず、それからほとんど毎日、三世橋は家に帰って男子同士を主題にした絵や漫画を描き、それが今も敬愛するがんだも種子に出会い、花開いたという経緯があり、これが三世橋の腐女子道の入り口となった。
舞台は今に戻る。
不機嫌そうに目を瞑る三世橋。脳裏には、円環の事と、先ほど読んだ漫画のあられもない場面が交代交代に押し寄せている。白石は含み笑いをしつつ、こう語りかける。
「昼休み、俺がちょうどいいと言ったのは、つまりこういう事だ」
そしていつになく真剣な表情で三世橋を誘う。
「この『純正ろまんちか』で、一冊俺と描いてみないか?」
三世橋は毎朝、約二十五分間電車に揺られて学校に通う。普段ならば、この道中は携帯電話を使って二次創作の小説を捜すか、当たり障りのない書皮の少年少女向け文庫本を読むか、どちらも目ぼしい物がなければ妄想に耽るかのどちらかであるのだが、この日はそのいずれも手につかなかった。
先日、長く在籍していた円環の長より言い渡された決別の「逆」。冷たく突き放され、満身創痍の覚悟も軽くあしらわれ、何もかもを失った所に差し出された青封筒。そして……。
(いかん。あのような奇異な者を相手している場合ではないのだ)
そう念じて頭を横に振り払えど、「懺悔河」忘れられない名前であった。
三世橋がこの道に入ったのは、以前も述べた通り中学一年生の頃だったが、その遥か以前より漫画、動画活劇の類については並の人間よりも深い興味を持っていた。最初は少女漫画から始まったが、やがては集栄社より毎週月曜日発売の週間少年「跳躍」もかかさず読むようになり、初めて「漫画の人物を描く」という意識をして筆を持ったのもちょうどその頃、小学三年生の頃だった。
絵を描く事自体は幼稚園の頃から得意で、褒められて伸び、伸びれば褒められ、良い循環の中で埋めていった落書き帳の数はようとして知れない。小学校においては既に、同級生の中では一番うまいともっぱらの評判で、今でも三世橋が筆を持つ自信の根源はその辺りにある。
意外、と表現するべきか、中学にあがるまで三世橋は「男」の絵を描いた事がなかった。「男同士」に興味はあったが、長らくの間三世橋は女子の絵のみを描き続けてきた。その心理には、「恥」という大和撫子としての感情があるが、それを克服し、自らの手で男を描く事を誇りとする事件が中学一年生の頃にあった。
いわゆる「黒歴史」とも称すべき、思い出しただけで枕に顔を埋めて呼吸を止めたまま死んでしまいたくなるような出来事は両手の指の数より多い三世橋であるが、その事件は今の三世橋を構築する上でも非常に重要な事件であり、円環からの除名はこれに匹敵する大事であった。
三世橋は悩んでいた。
しかし悩んだ末に答えが出るとも思っていなかった。
円環を抜けたからといって、腐女子をやめられる訳はない。
三世橋は腐女子だった。明確に、いつから三世橋がそうなっていたのかは腐女子の定義にもよるが、今、三世橋が腐女子であるという事は紛れも無い事実だったのだ。
「らしくないぜ、三世橋。何やら悩んでいるようだな。一体どうした?」
昼休み、三世橋の机に前の席の椅子をつけ、弁当箱を広げる女子が一人いる。
筆名を「白石 喜理(しらいし きり)」と言い、三世橋と同じく腐女子である。
「……白石、今日は一人にしてくれんか?」
弁当箱を開ける気力すら湧いていない三世橋を無視し、白石はあっという間に三世橋の机を占拠し卵焼きに箸をつける。
「いかにお前が落ち込んでいようと、昼餉くらいは共にせにゃ。何せ俺達は親友だ。何があったってんだ? ほれ、言ってみな」
白石は屈託の無い笑みを浮かべながら、喋りつつ器用にも次々におかずを口に運んでいく。そのあっけらかんとした様子を見て、呆れたのか、諦めたのか、三世橋も弁当箱を開く。
「円環を抜けた」
三世橋の淡白とした報告に、白石は思わず、ちょうど食べていた肉団子を喉に詰まらせた。胸を何度も叩きながら、かろうじて呼吸を取り戻した白石は、合成樹脂水筒のお茶を一気飲みして一息つく。
「抜けたってお前……明坂様の円環をか? なんでまた?」
尋ねられた三世橋は答えず、ただ黙々と白飯を口に運ぶ。その様子を見て、気づく白石。
「ははぁ……喧嘩か?」
「喧嘩などではない」
否定する三世橋に、白石はぐいと顔を近づける。
「ふむ。確かにお前のその顔は、誰かと喧嘩した時のそれではないな。ずっと前に見た事がある。あれは一体何の時だったか……ああ、思い出した。中学の時、同じ学級の男子に絵を描けと命令された時の顔だ」
「なっ……貴様っ! そんな事、まだ覚えていたのか!」
あからさまに取り乱し、見る見るうちに顔を真っ赤にさせた三世橋を見て、白石は腹を抱えて笑い出した。三世橋の頭の中に、例の黒歴史が瞬く間に蘇る。たまにそれを突いて、三世橋をからかうのが、白石の趣味だった。
白石と三世橋。同い年で、中学から同じ学級で、漫画研究部に所属しており、そして腐女子。このように共通点は多く、境遇も似ているが、性格については、2人はむしろ正反対と言えた。
真実一路、謹厳実直な三世橋に比べ、白石は生まれついての調子のりで、飽きっぽく、昨日まであれだけ好きだったじゃんるを簡単に捨て、次の日には全く別の作品に嵌って小物を買い漁るという事も珍しくない。がんだも種子一筋でやってきた三世橋と比べ、白石が今までやってきたじゃんるは本人すらよく覚えていないほどであるが、その時々の愛情は本物であると本人は主張する。
対照的な二人ではあるが、やはり同じ道を歩んでいるという事実は大きいのか、大概において仲は良く、文字通りの腐れ縁という関係に落ち着いている。
ひとしきり笑った後、ずれた眼鏡の位置を直し、白石は緩んだままの口角で三世橋に事情の説明を求めた。三世橋は少し考えた後、「今更隠してもこやつは自分で調べるだろう」という結論に至り、仔細を語り始めた。
「許せん話だ」
全てを聞いた白石は、珍しく真剣な表情で、三世橋の話をこう評した。
「気に入らなければ抜けろだと? 最初にお前を円環に誘ったのは明坂の方じゃないか。しかも何の断りもなしに次の本の方針を決めるとは、横暴すぎる! そもそも『逆』だと!? ますます許せん!」
勢い良く立ち上がり、衆目を集めた白石を宥め、座らせる三世橋。
「しかし明坂様の仰っていた事も分からないでもないのだ」
「何だと?」
「実際、新しいがんだもは既に始まっているし、先日行われた漫画街(年に数回行われる同人誌即売会で、夏に次いで参加者が多い)でも名の知れた円環が新しいがんだもに移っているのだ。状況は非常に悪い」
「それでも、それでもだ。腐女子の誇りというのがあるだろう?」
「だから私は円環を抜けたのだ」
三世橋の言葉に、沈黙する白石。
白石も、三世橋と同様に漫画を描く。先ほども述べたとおり、そのじゃんるは多岐に渡り、一つに拘る事もまず滅多に無いが、腐女子暦としては三世橋と同じくらいに長く、交流関係や即売会など各種催しでの経験はむしろ三世橋よりも豊富にある。三世橋が初めて明坂の円環に参加し、原稿を描いた時などは、助言をもらい、ついでに助手もしてもらった程だ。
白石の実家は比較的裕福であり、時給労働(いわゆるアルバイト)の経験は一切ないが、自宅にある蔵書の数は五千をくだらないという生粋の道楽娘である。しかし肝心の実力に関しては、瑠璃の光も磨きがら、こつこつと努力をするのが苦手な白石はそれなりに上達も遅かった。
綺麗に食べ終えた弁当箱をしまいながら、白石は口を開く。
「だが、ちょうど良かったのかもしれんな」
その言葉に対し、尖った反応を見せる三世橋。
「どういう意味だ? 返答によっては……」
乗り出しかけた瞬間、白石は一冊の単行本をすっと取り出し、三世橋の視線を切った。
単行本には三省堂書店の書皮がかけられており、内容は分からない。
「放課後、感想を聞かせてくれ。それから話をしよう」
白石は不審げな満面の笑みを浮かべてそう言いながら、自分の席に戻っていった。
腑に落ちない三世橋は、それでも始業の鐘を聞き、単行本を机の中に仕舞った。
放課後の漫研部室。三世橋が件の単行本を読み終え、一息ついたのを見計らって白石が声をかけた。
「何を怖い顔している? 気に入らなかったか?」
眉間に皺を寄せた三世橋は白石を視界に捉えつつ、あえてそちらは見ずに答える。
「過激すぎる。学び舎で読む物ではない」
白石が渡した単行本の題名は「純正ろまんちか」。数年前より角河書店より発売されている漫画であり、繊細な人物の感情描写と、刺激的な性的表現、そして衆道(いわゆるホモ)を主軸に置いた、「もろ」な作品である。
「ま、喜んでくれたようで何よりだ」
「喜んでなどいるか」
「しかし、だ、一応は全部読んだのだろう? 三世橋はむっつりだものな」
机の下で貧乏揺すりしたまま無言で腕を組む三世橋を、白石が更にからかう。
ここで、三世橋が腐女子として、男を描く事になったきっかけとなったある事件について語らなければならないだろう。未だ忘れる事が出来ず、白石にいいように弄られる三世橋の黒歴史。その始まりは中学一年生の頃に遡る。
休み時間、手帳に女子の絵ばかりを描いていた当時の三世橋。同級生達からの「あれを描いてくれんか」「こういうのは描けまいか?」という要求を受け、日々その実力に磨きをかけつつ、かといって驕り昂ぶる事もなく、教室内での主役に立つ事もせずにあくまで地味に過ごしていた。
ある日、そんな三世橋の机を、四人ばかりの男子が取り囲んだ。
「なあ、お前さん絵がうまいんだってな? ちょいと、裸の絵を描いてみてくれよ」
しまりのないにやけ顔でそう要求する男達は、教師にも悪い意味で一目を置かれている与太者達である。制服を着崩し、がむを噛み、校庭に唾を吐く事で存在を主張する半端者で、気の弱そうな男子を掴まえていじめまがいの事をしている事もある。その日、男子たちの向けた矛の先には三世橋があった。
否定も肯定も出来ず、せめて慌てているのを悟られぬように不満げに唸る三世橋に、「答えないのなら承諾したという事で良いな」と強引に言い渡し、男子達は去っていった。
一日。三世橋は考えた。
思春期真っ只中の男子にとって、女子の裸体が描かれた絵は正倉院に納められた宝物に価値に匹敵する。三世橋の絵の腕は教室で一番、いや学年で一番と言えるくらいに上達して既に知れ渡っていたし、実際問題、女子の裸を描く事などその時の三世橋には造作も無い事だった。
しかし……。
男子からの要求に答え、それを描いたとなれば同じ女子達からの蔑視は必定。また、自分自身の裸を見られたようでとてつもなく恥ずかしい気分もある。かといって無視すれば、これから先どのような因縁をつけられるか分かった物ではない。何せ相手は、同級生とはいえ無頼の端くれである。本気で傷つけようとしてくれば、三世橋に成すすべは無い。
だが、この時三世橋が取った行動の理由は、それらの論理以前に「絵を描く事を馬鹿にされた」という屈辱を払拭する為だったと見て間違いないだろう。
三世橋は覚悟を決めた。
次の日、
「描けたか?」
と、男子達。目は邪な期待で満ちている。
「ああ、描けた」
三世橋は鞄から一枚の紙を取り出す。
それを受け取った男子達の表情が、見る見る強張っていく。それは一瞬怒りの色を見せ、三世橋の顔を睨むが、三世橋の憮然とした表情を確認すると、次第に恐怖に上書きされていく。
「裸の絵、とだけ言われていたのでな。私が好きな絵を描かせてもらった」
三世橋の絵は、あからさまにその男子達を意識して描かれた人物同士が裸で絡み合っている濃密な男色絵だった。
開眼である。
その後、男子達が三世橋に話しかける事は一切無くなり、学内での平和は保たれた。にも拘らず、それからほとんど毎日、三世橋は家に帰って男子同士を主題にした絵や漫画を描き、それが今も敬愛するがんだも種子に出会い、花開いたという経緯があり、これが三世橋の腐女子道の入り口となった。
舞台は今に戻る。
不機嫌そうに目を瞑る三世橋。脳裏には、円環の事と、先ほど読んだ漫画のあられもない場面が交代交代に押し寄せている。白石は含み笑いをしつつ、こう語りかける。
「昼休み、俺がちょうどいいと言ったのは、つまりこういう事だ」
そしていつになく真剣な表情で三世橋を誘う。
「この『純正ろまんちか』で、一冊俺と描いてみないか?」
腐女子にとってのじゃんる替えは、その人間によって大きく意義の異なる行為と言える。
単純に、長くそのじゃんるを続けてきた人間ほど、作中の登場人物に対して強い愛情を持っており、須らくある種のこだわりが生まれ、必然、二次創作活動における核となる人気や基盤がしっかりと固まってくる。その分、人間関係の柵(しがらみ)や、じゃんるに対する「飽き」という枷を負って生きる事になるが、これを受け入れてこそ、原作者に顔向けが出来る作品が生まれるのだと、三世橋のような頑固者は考える。
よって、じゃんるを捨て、次のじゃんるに行くというのは、並大抵の覚悟を持っていなければ出来ない事なのである。
一方で、白石のような「消費する事を楽しむ」心意気を良しとする腐女子にとってのじゃんる替えは、言わば日常茶飯事。柳は緑花は紅とも言うように、ごくごく当たり前の事として受け止め、そこに悩みはなく、二股三股も辞さない構えで、一度捨てたじゃんるは、「愛してはいた」と言いつつも、原作本を開く事は二度とない。
三世橋と白石は極端な例であるが、生き方は腐女子の数だけあるとも言える。
「三世橋よ、一緒に薄い本(十八禁同人誌の通称。最近はスマ本とも呼ぶ)を書かんか?」
という具合に、白石が三世橋を誘うのは以前からあった事であるが、じゃんるをはっきりと指定してきた事はこれが初めてであり、三世橋の心が揺れ動いたもこれまた初めての事であった。
三世橋は、今一度自分自身に問う必要があった。何故腐女子としての活動をするのか。二次創作をするのか。明坂の円環に入ったのか。
「私は、仲間が欲しかっただけなのかもしれん」
帰り道になり、ようやく三世橋は、硬く一文字に結んでいた口を開いた。二人は家の方向も同じで、帰宅時はほとんど毎日、白石が赤羽で電車を乗り換えるまでの時間を一緒に過ごしている。
「まだ明坂達に未練があるのか?」
白石の鋭い問いに、三世橋は即座に反応したかに見えた。が、それは解答というよりもむしろ独り言に近かった。
「未練……なのかもしれん」
夕日が傾き、三世橋の頬に紅を差す。電車の窓から見える景色は足早に移ろい、あっと言う間に形を変える。置き去りにされる気分になった三世橋の口調は更に重くなる。
「私が明坂様の円環に入ったのは、仲間が欲しかったからだと思う。同じくがんだも種子を愛する人間が他にもいるのだという事を知って、関わってみたくなった。そしてその関わりを、同人誌という形として残したかった。無論、原作への尊敬を私は未だに忘れてはいない。しかし明坂様達と過ごした日々もまた、懐かしいのだ」
白石は一瞬納得しかけたような表情を見せたが、すぐに眼鏡をくいと上げ、からかうような口調で言う。
「その口ぶり、三世橋は明坂様に恋でもしていたのか?」
「私にその気はない」
「果たしてそうかな。私も自分の身を心配しなくちゃならんかもな」
「安心しろ。例え私がそうだったとしてもお前は選ばんよ」
「言ったな、こいつめ」
笑いあう二人、あと一駅で白石は電車を降りる。
三世橋もそれに気づき、一転して申し訳なさそうな表情を見せる。
「すまんが、さっきの話……」
すかさず、白石がそれを遮る。
「まあ待て。まだ時間はいくらでもある。そう結論を急ぐ必要はあるまい」
「しかし……」と三世橋。
懐中にある青封筒は、例え一人であろうとも「初志を貫け」と主張している。
「とにかく、話だけでも聞いてくれんか? ちょうど今晩、『純正ろまんちか』を愛する者同士で萌語りをしようという話になっておるのだ。それに参加してくれんか?」
「まだ私は一巻しか読んでないのだぞ」
「案ずるな」
と、白石は鞄から素早く二巻から五巻までの束を取り出し、問答無用で三世橋に渡す。
「夜までには読めるだろう」
「ま、待て。白石。貸してくれるのはありがたいが、萌語りに参加など……」
「三世橋は人見知りだからな。安心しろ。おぬしは空電話(そらでんわ。電子計算機と電子網を使ってする電話の事。いわゆるスカイプ)を立ち上げて拡声器の電源を切っておけば良い。俺はとにかくお前に話を聞いてほしいだけだ。話を聞いている内に、その気になる事もあるだろう」
電車が止まり、扉が開く。引き止めてきっちりと断ろうとする三世橋を無視して、白石は強引に言い渡す。
「帰ったら、必ず空電話に署名入場(IDとパスワードを入力してサインインする事)しておけよ。必ずだぞ。これを守らなければお前の親に『御宅の娘さんは男同士のいかがわしい本を一巻から五巻まで持ってますぞ』と密告してやるからな」
「白石!」
「ではまた夜に!」
断ち切るように電車の扉が閉じる。一人残された三世橋は複雑な表情で、先ほどよりも少しだけ傾いた夕日を見ていた。
帰宅すると同時に、普段ならば電子計算機の電源を入れる三世橋だが、この日は気乗りせず、まずは風呂を浴びる事にした。三世橋の母は仕事に従順な専業主婦で、既に台所からは今夜の晩飯である豚汁の出汁のきいた香りが漂ってくる。
風呂からあがった三世橋は、冷蔵庫の中から瓶の果物牛乳を一本取り出し、一気に飲み干す。これは三世橋の幼稚園の頃からの日課であり、常備を欠かした事はなく、三世橋はこの一時を至福の時間であると感じていた。
一息ついた三世橋は、母からの張り付くような視線に気づく。
「……母上。どうされましたか?」
母は安心しきったように言う。
「少しはましになったようね。昨日は元気なかったから、もしかしてそのまま切腹しちゃうのかと思った」
「……ご冗談を」
「友達は大事にしなさい」
「……はい」
冷や汗をかき、一気に湯冷めした三世橋は、自室に戻りおもむろに電子計算機の電源を入れた。
やがて窓七が起動し、空電話への署名入場を済ませると、すぐに白石からの通信が届いた。
『よくきてくれた三世橋』
『話を聞くだけだぞ』
『ああ。分かっている。参加者が揃うまで、しばし待ってくれ』
両耳受話器を装着し、白石から借りた単行本の続きを開く。
純正ろまんちか。確かに、腐女子の一人として、この作品が面白いという事は非常に強く感じる。しかし、「描かれすぎて」いる。と、三世橋は思った。三世橋の二次創作の本領は、無い場所に無い物を見るという事。
三世橋は思う。
(この作品は、完成している)
無論、内容としては男同士の恋愛模様を取り扱っており、際どい場面も多く、一介の腐女子としては萌えざるを得ない状況が提示されている。本来であれば、読めばそれだけ満足出来るという事は実に素晴らしい点であり、賞賛に値するが、こと読者が作者になる二次創作においては、妄想の介入がし辛い作品であるという見方も出来る。
夜四つ半、亥の中刻を過ぎ(22時頃)、いよいよ通話が始まった。白石からの招待を承諾し、言われた通り拡声器の機能は切り、片手に三巻を持ちながら、受話器に耳を傾ける。
『皆様、ご機嫌いかがか? こちらは白石喜理でござる』
白石の声が聞こえた後、五、六人の声が次々に挨拶を繰り返した。こんなに呼んでいたのか、と三世橋は驚く。
『今日この会合にお呼びしたのは皆、俺の友人達ですが、初対面同士の方もおりますゆえ、まずはそれぞれ自己紹介といきましょう。何、緊張する必要はございませんよ。全員が腐女子であり、そして同じ作品を愛する同志ですから』
普段の学校の時よりも饒舌な白石に苦笑いしつつ、三世橋の指は次の頁を開いていく。
『それでは、まずは霧月刹那様から自己紹介をどうぞ』
三世橋は思わず顔をあげた。白石の口にした名前は、この界隈においてはそこそこに有名な描き手の名前で、三世橋も電子帳面(いわゆるホームページ)を週に一度ほどの頻度で検見している。
(白石の付き合いの広さはどうなっているのだ……)
それぞれ自己紹介が済むと、白石が「今日は自分の学友がどうしても皆様の話を聞きたいという事で参加してますが、気にせずよろしくお願いします」と簡単に三世橋の紹介を済ませた。すると、霧月刹那も「あ、拙者も一人、聞くだけの者を連れてきましたが、よろしいですかな?」と言ったので、白石はこれを快諾した。
そして萌語りが始まり、時間はあっという間に子の刻(0時)を超えた。
熟練された腐女子達の口は、止まる事を知らない。女三人寄れば姦(かしま)しいとはよく言った物で、同じ作品を愛する人間達であれば、盛り上がりもひとしおである。
話題は人物萌えから入り、その内容は誰を推しているのか、どこが魅力的なのか、台詞の再現、そこから他の人物との関わりに話は広がって行き、深さも増していく。男が聞けば青ざめるような下世話な話題が入れば士気は一層に高まり、皆、実に楽しそうに男色を語る。
その上、「純正ろまんちか」は今年の卯月より動画活劇化される事が決定されているらしく、話題は尽きる事がなかった。
(やれやれ……白石め、なんと楽しそうに話をするのだ……)
羨ましく思いつつも、三世橋の見解は揺るがなかった。
大きな欠伸をしながら時計を眺め、どうやって会議通話から離席しようかと考えあぐねる。やはり、私にはがんだも種子しかないようだ。と、三世橋はぽりぽりと頭を掻いた。
会話は盛り上がりに盛り上がり、夏には今ここにいる六人で合同誌を出そうという話がまとまりかかっていた。おそらく、明日学校に行ったら白石から誘いの猛攻撃を受けるのだろうな、と訝しがりつつ、「まあ、賓客として一枚絵の提供くらいで折れてもらおう」と決めた。
その時、受話器から今まで会話をしていた六人の声とは違う声がぽつりと聞こえた。
『おぬしらにこの原作を超えられると思うか?』
聞き覚えのある声。それも最近、思いがけない聞き方をした声だ。
『いやいや、何もそんなに大それた事を考えている訳ではありませんよ。ただこの作品を愛する者として……』
白石のもっともな弁明に声は反応する。
『この作品は間違いなく衆道を描いている。さっきからおぬしらの会話を聞いていたが、まるで分かっておらんな。見るべき場所が見えていない。見えない場所を見ようとしていない』
酷く静かで、恐ろしい程の切れ味で、血が噴き出るまで斬られた事にすら気づかない。
(この感覚……間違いない)
三世橋は確信する。
『……霧月さんの友人だと思い大人しく聞いていれば、随分と思い上がった事を仰られますな。では何か? 原作者が二次創作を否定しているとでも申されるか?』
表面上は普段の温厚な白石だったが、言葉の端々からはいらつきが滲み出ている。
『そうだと言えばおぬしらはやめるのか? そうは思えんな。おぬしらは生まれついての腐女子だ。きっとその醜悪な衝動は抑えられん』
しばしの沈黙の後、白石は無言のままその人物を追放した。
(間違いない……懺悔河だ……!)
三世橋の鼠が走る。
単純に、長くそのじゃんるを続けてきた人間ほど、作中の登場人物に対して強い愛情を持っており、須らくある種のこだわりが生まれ、必然、二次創作活動における核となる人気や基盤がしっかりと固まってくる。その分、人間関係の柵(しがらみ)や、じゃんるに対する「飽き」という枷を負って生きる事になるが、これを受け入れてこそ、原作者に顔向けが出来る作品が生まれるのだと、三世橋のような頑固者は考える。
よって、じゃんるを捨て、次のじゃんるに行くというのは、並大抵の覚悟を持っていなければ出来ない事なのである。
一方で、白石のような「消費する事を楽しむ」心意気を良しとする腐女子にとってのじゃんる替えは、言わば日常茶飯事。柳は緑花は紅とも言うように、ごくごく当たり前の事として受け止め、そこに悩みはなく、二股三股も辞さない構えで、一度捨てたじゃんるは、「愛してはいた」と言いつつも、原作本を開く事は二度とない。
三世橋と白石は極端な例であるが、生き方は腐女子の数だけあるとも言える。
「三世橋よ、一緒に薄い本(十八禁同人誌の通称。最近はスマ本とも呼ぶ)を書かんか?」
という具合に、白石が三世橋を誘うのは以前からあった事であるが、じゃんるをはっきりと指定してきた事はこれが初めてであり、三世橋の心が揺れ動いたもこれまた初めての事であった。
三世橋は、今一度自分自身に問う必要があった。何故腐女子としての活動をするのか。二次創作をするのか。明坂の円環に入ったのか。
「私は、仲間が欲しかっただけなのかもしれん」
帰り道になり、ようやく三世橋は、硬く一文字に結んでいた口を開いた。二人は家の方向も同じで、帰宅時はほとんど毎日、白石が赤羽で電車を乗り換えるまでの時間を一緒に過ごしている。
「まだ明坂達に未練があるのか?」
白石の鋭い問いに、三世橋は即座に反応したかに見えた。が、それは解答というよりもむしろ独り言に近かった。
「未練……なのかもしれん」
夕日が傾き、三世橋の頬に紅を差す。電車の窓から見える景色は足早に移ろい、あっと言う間に形を変える。置き去りにされる気分になった三世橋の口調は更に重くなる。
「私が明坂様の円環に入ったのは、仲間が欲しかったからだと思う。同じくがんだも種子を愛する人間が他にもいるのだという事を知って、関わってみたくなった。そしてその関わりを、同人誌という形として残したかった。無論、原作への尊敬を私は未だに忘れてはいない。しかし明坂様達と過ごした日々もまた、懐かしいのだ」
白石は一瞬納得しかけたような表情を見せたが、すぐに眼鏡をくいと上げ、からかうような口調で言う。
「その口ぶり、三世橋は明坂様に恋でもしていたのか?」
「私にその気はない」
「果たしてそうかな。私も自分の身を心配しなくちゃならんかもな」
「安心しろ。例え私がそうだったとしてもお前は選ばんよ」
「言ったな、こいつめ」
笑いあう二人、あと一駅で白石は電車を降りる。
三世橋もそれに気づき、一転して申し訳なさそうな表情を見せる。
「すまんが、さっきの話……」
すかさず、白石がそれを遮る。
「まあ待て。まだ時間はいくらでもある。そう結論を急ぐ必要はあるまい」
「しかし……」と三世橋。
懐中にある青封筒は、例え一人であろうとも「初志を貫け」と主張している。
「とにかく、話だけでも聞いてくれんか? ちょうど今晩、『純正ろまんちか』を愛する者同士で萌語りをしようという話になっておるのだ。それに参加してくれんか?」
「まだ私は一巻しか読んでないのだぞ」
「案ずるな」
と、白石は鞄から素早く二巻から五巻までの束を取り出し、問答無用で三世橋に渡す。
「夜までには読めるだろう」
「ま、待て。白石。貸してくれるのはありがたいが、萌語りに参加など……」
「三世橋は人見知りだからな。安心しろ。おぬしは空電話(そらでんわ。電子計算機と電子網を使ってする電話の事。いわゆるスカイプ)を立ち上げて拡声器の電源を切っておけば良い。俺はとにかくお前に話を聞いてほしいだけだ。話を聞いている内に、その気になる事もあるだろう」
電車が止まり、扉が開く。引き止めてきっちりと断ろうとする三世橋を無視して、白石は強引に言い渡す。
「帰ったら、必ず空電話に署名入場(IDとパスワードを入力してサインインする事)しておけよ。必ずだぞ。これを守らなければお前の親に『御宅の娘さんは男同士のいかがわしい本を一巻から五巻まで持ってますぞ』と密告してやるからな」
「白石!」
「ではまた夜に!」
断ち切るように電車の扉が閉じる。一人残された三世橋は複雑な表情で、先ほどよりも少しだけ傾いた夕日を見ていた。
帰宅すると同時に、普段ならば電子計算機の電源を入れる三世橋だが、この日は気乗りせず、まずは風呂を浴びる事にした。三世橋の母は仕事に従順な専業主婦で、既に台所からは今夜の晩飯である豚汁の出汁のきいた香りが漂ってくる。
風呂からあがった三世橋は、冷蔵庫の中から瓶の果物牛乳を一本取り出し、一気に飲み干す。これは三世橋の幼稚園の頃からの日課であり、常備を欠かした事はなく、三世橋はこの一時を至福の時間であると感じていた。
一息ついた三世橋は、母からの張り付くような視線に気づく。
「……母上。どうされましたか?」
母は安心しきったように言う。
「少しはましになったようね。昨日は元気なかったから、もしかしてそのまま切腹しちゃうのかと思った」
「……ご冗談を」
「友達は大事にしなさい」
「……はい」
冷や汗をかき、一気に湯冷めした三世橋は、自室に戻りおもむろに電子計算機の電源を入れた。
やがて窓七が起動し、空電話への署名入場を済ませると、すぐに白石からの通信が届いた。
『よくきてくれた三世橋』
『話を聞くだけだぞ』
『ああ。分かっている。参加者が揃うまで、しばし待ってくれ』
両耳受話器を装着し、白石から借りた単行本の続きを開く。
純正ろまんちか。確かに、腐女子の一人として、この作品が面白いという事は非常に強く感じる。しかし、「描かれすぎて」いる。と、三世橋は思った。三世橋の二次創作の本領は、無い場所に無い物を見るという事。
三世橋は思う。
(この作品は、完成している)
無論、内容としては男同士の恋愛模様を取り扱っており、際どい場面も多く、一介の腐女子としては萌えざるを得ない状況が提示されている。本来であれば、読めばそれだけ満足出来るという事は実に素晴らしい点であり、賞賛に値するが、こと読者が作者になる二次創作においては、妄想の介入がし辛い作品であるという見方も出来る。
夜四つ半、亥の中刻を過ぎ(22時頃)、いよいよ通話が始まった。白石からの招待を承諾し、言われた通り拡声器の機能は切り、片手に三巻を持ちながら、受話器に耳を傾ける。
『皆様、ご機嫌いかがか? こちらは白石喜理でござる』
白石の声が聞こえた後、五、六人の声が次々に挨拶を繰り返した。こんなに呼んでいたのか、と三世橋は驚く。
『今日この会合にお呼びしたのは皆、俺の友人達ですが、初対面同士の方もおりますゆえ、まずはそれぞれ自己紹介といきましょう。何、緊張する必要はございませんよ。全員が腐女子であり、そして同じ作品を愛する同志ですから』
普段の学校の時よりも饒舌な白石に苦笑いしつつ、三世橋の指は次の頁を開いていく。
『それでは、まずは霧月刹那様から自己紹介をどうぞ』
三世橋は思わず顔をあげた。白石の口にした名前は、この界隈においてはそこそこに有名な描き手の名前で、三世橋も電子帳面(いわゆるホームページ)を週に一度ほどの頻度で検見している。
(白石の付き合いの広さはどうなっているのだ……)
それぞれ自己紹介が済むと、白石が「今日は自分の学友がどうしても皆様の話を聞きたいという事で参加してますが、気にせずよろしくお願いします」と簡単に三世橋の紹介を済ませた。すると、霧月刹那も「あ、拙者も一人、聞くだけの者を連れてきましたが、よろしいですかな?」と言ったので、白石はこれを快諾した。
そして萌語りが始まり、時間はあっという間に子の刻(0時)を超えた。
熟練された腐女子達の口は、止まる事を知らない。女三人寄れば姦(かしま)しいとはよく言った物で、同じ作品を愛する人間達であれば、盛り上がりもひとしおである。
話題は人物萌えから入り、その内容は誰を推しているのか、どこが魅力的なのか、台詞の再現、そこから他の人物との関わりに話は広がって行き、深さも増していく。男が聞けば青ざめるような下世話な話題が入れば士気は一層に高まり、皆、実に楽しそうに男色を語る。
その上、「純正ろまんちか」は今年の卯月より動画活劇化される事が決定されているらしく、話題は尽きる事がなかった。
(やれやれ……白石め、なんと楽しそうに話をするのだ……)
羨ましく思いつつも、三世橋の見解は揺るがなかった。
大きな欠伸をしながら時計を眺め、どうやって会議通話から離席しようかと考えあぐねる。やはり、私にはがんだも種子しかないようだ。と、三世橋はぽりぽりと頭を掻いた。
会話は盛り上がりに盛り上がり、夏には今ここにいる六人で合同誌を出そうという話がまとまりかかっていた。おそらく、明日学校に行ったら白石から誘いの猛攻撃を受けるのだろうな、と訝しがりつつ、「まあ、賓客として一枚絵の提供くらいで折れてもらおう」と決めた。
その時、受話器から今まで会話をしていた六人の声とは違う声がぽつりと聞こえた。
『おぬしらにこの原作を超えられると思うか?』
聞き覚えのある声。それも最近、思いがけない聞き方をした声だ。
『いやいや、何もそんなに大それた事を考えている訳ではありませんよ。ただこの作品を愛する者として……』
白石のもっともな弁明に声は反応する。
『この作品は間違いなく衆道を描いている。さっきからおぬしらの会話を聞いていたが、まるで分かっておらんな。見るべき場所が見えていない。見えない場所を見ようとしていない』
酷く静かで、恐ろしい程の切れ味で、血が噴き出るまで斬られた事にすら気づかない。
(この感覚……間違いない)
三世橋は確信する。
『……霧月さんの友人だと思い大人しく聞いていれば、随分と思い上がった事を仰られますな。では何か? 原作者が二次創作を否定しているとでも申されるか?』
表面上は普段の温厚な白石だったが、言葉の端々からはいらつきが滲み出ている。
『そうだと言えばおぬしらはやめるのか? そうは思えんな。おぬしらは生まれついての腐女子だ。きっとその醜悪な衝動は抑えられん』
しばしの沈黙の後、白石は無言のままその人物を追放した。
(間違いない……懺悔河だ……!)
三世橋の鼠が走る。
中央本線、吉祥寺駅より徒歩十分の所に、ある漫画家の一戸建てがある。昨年に建ったばかりの新築で、その先鋭的外観と、漫画家自身の知名度から何度か取材が来た事もあるちょっとした名所に、この日、十人ばかりの腐女子が集まっていた。
腐女子らはいずれもこの世界においてはそこそこ名のある者達で、最低でも単独で新刊五百部は頒布する(同人誌は「売る」物ではなく「お金を頂いて配る」物)実力者たちばかりである。
吹き抜けの、開放感のある一階の洋居間で、卓子の上に紅茶を並べて円を成して座る腐女子達の輪に、未だこの家の持ち主である漫画家の姿はなく、雰囲気はいたって重苦しい。
いかに多くの部数を頒布する名うての腐女子なれど、専業漫画家との地位の差は非常に大きく、いくら待たされても文句を言える立場ではない。漫画家の助手による案内によって席についたは良いものの、漫画家自身の顔はまだ拝んでおらず、当然機嫌の良し悪しも分からず、挨拶も済んでいない上ではこの緊張感も無理はない。
その中に、三世橋の属していた円環の副長、岸辺もいた。
土曜日。乙女ろおどでの一件より都合二日後の事になる。
「ま、ま。皆さんそう固くならずに、間もなく先生も仕事を終えて二階から下りてくるでしょう」
先立って口を開いたのは、この面子の中において最も多い頒布数を誇る筆名「霧月 刹那(きりつき せつな)」である。先生、と呼んだ家主とは古くからの顔なじみであり、原稿を手伝った経験も数え切れない程にある。
「しかし、俺……いえ、拙者、先生にこうして招待されるのは初めてでして、どういった話があるのかも皆目見当つきません。何も用意が出来ていないのですが……」
岸辺がそう言うと、霧月はふふ、と短く、しかし馬鹿にした風ではない微笑みを浮かべ、
「ま、おそらく次の夏の話でしょうな。専業漫画家として売れた後でも、先生は毎年夏と冬には参加しておられますから、次のじゃんるは何が良いかといったご相談をなされたいのかと」
繰り返しになるが、同じ腐女子といえど、専業漫画家と、同人書きでは比べ物にならないほどの地位の差がある。無論、同人誌とは自分の趣味である事を前提として描かれているが、上への繋がりを求める彼女ら中堅所の円環にとっては、広報が非常に重要となり、こういった茶話会への参加はいわば好機。「先生」に気に入られれば、おのずと新しい読者が自分の作品を目にする機会も増え、発行部数は増えるという算段である。
それと、岸辺の緊張の理由として、「先生」について恐るべし「ある噂」をつい先日聞いており、真偽は定かではないが、ともすれば自分にその「被害」が及ぶ可能性についての懸念もある。しかしこれはあくまで噂に過ぎず、岸辺自身も半信半疑。また、口に出して誰かに尋ねるのも非常に躊躇われる話題なので、今は口を噤んでいる。
「明坂様はお忙しいのですかな?」と、霧月。
「ええ、はい。どうしても抜けられぬ用事があるという事で、私が代わりに」
「ふむ。まあ、岸辺様も円環暦は長いでしょうから、問題は無いでしょう」
まったりとした霧月の柔らかな口調に、岸辺の緊張の糸は次第に絆されていく。
家主である漫画家と明坂は高校時代からの旧友らしく、今でもその交流は続いている。立場としては既に天と地ほども離れてしまったが、そこは同じく腐女子。会えば男色の話で盛り上がるので、胸中のしこりが多少あれども関係は何とか続いている。
岸辺が使いに出された理由は明坂の多忙であるが、多忙の理由は次の「夏」の事であった。何せ今まで長らくやってきた好番いの「逆」をやるというのだから、関係各円環への連絡は瑣末事ではない。慎重に報告し、趣旨を理解してもらい、可能ならば助力を請わなければならない。夏はまだ遠いが、無駄に使える時間はない。
しばらくの後、二階の扉が開く音がした。腐女子達はひそひそ声の雑談すら止め、神妙な面持ちで主役を待つ。一度は弛緩した岸辺であったが、現れた漫画家の姿を見て絶句し、再び冷や汗を垂らした。
漫画家、里見四八(さとみよんぱち)。
腐女子界においてその名を知らぬ者はおらず、十年前に発行した跳躍系の同人誌は、噂によれば一万部を売り上げたとされている。現在は商業漫画家として第一線で活躍しつつも、先に霧月が述べた通り夏と冬には欠かさず参加するという甲斐性があり、他の腐女子からの尊敬も十分に得ている。
そのように華やかな人物の仕事姿は、初めて見た岸辺にとって衝撃そのものだった。
解れて破けた上下の化繊作務衣(いわゆるジャージ)姿で、眼鏡は瓶の底よりぶ厚く、髪は触らなくても分かるくらいにごわごわとしている。目の下には深い隈が刻まれ、眼窩は落ち窪み生気はまるでない。
たった今、修羅場を潜ってきた女の姿がそこにあった。
「待ったか?」
里見の第一声に、全員が同時に首を振る。集合から半刻ほど(約一時間)が経過していたが、それを口にする者は誰もいない。
「普段はもう少し身なりに気を遣っているんだが、な」
以前、雑誌の取材で撮られていた写真の中の「美人漫画家」として紹介されていた里見を思い出した岸辺は、目の前にある本人との余りの差に閉口する。詐欺に近いな、と思いつつも、化粧の偉大さを確かめる。
「いえいえ、何を仰られるやら。先生にお目通り出来ただけでも私は大変に満足ですよ。ねえ、皆様もそうでしょう?」
霧月のあからさまなおべっかに、我も我もと全員が頷く。
「左様か」
里見が上座に座ると、台所から助手が出てきて各人の空いた茶碗に紅茶を足した。
一息つき、緊迫した空気も若干和らいだ頃合を見計らい、岸辺が立ち上がった。
「里見先生。お初にお目にかかります。拙者、明坂主催の円環で副長をしております岸辺十と申します。不調方者ではありますが、どうぞ、お見知りおきを……」
淀んだ暗い瞳で岸辺を見る里見。その虚無な表情を見た岸辺の笑顔が引きつりかけた時、霧月が助太刀に入った。
「明坂様は多忙でいらっしゃられないとの事で。ですが里見先生、なかなかどうして岸辺君は優秀ですよ。例のがんだも種子『逆』の件、思いついたのは他でもない岸辺君なのだそうです」
里見の表情は変わらない。石膏で固めたように、感情を失くしている。
「本来ならば『逆』は腐女子にあるまじき背信行為ですが、新番組の零々に対抗して。『あえて』やろうというその策略、じゃんるに対する愛情と心意気。先見の明があると思われませんか? 里見先生」
里見はようやく岸辺から視線を外し、椅子の背もたれに体重を預けた。
紅茶を少し口に含み、何度かゆっくりと瞬きをした後、低い声でこう呟く。
「腐女子の道は一筋縄ではいかん……明坂の口癖だったな」
否定とも肯定ともとれない言葉ではあったが、無為の沈黙よりはいくらか楽なように思え、岸辺もようやく呼吸を取り戻す。
「好きにやれ」
そうして会話の打ち切りを宣言した里見に、すかさず霧月が別の話題を提供した。
「この前私が貸しました携帯電子遊戯(いわゆるゲーム。この場合はPSP、DSなどの携帯機を指す。無論BL)はお遊びになられましたかな?」
「解決(クリア)した」
おお、と腐女子達がざわめき立ち、それが静まるのを待って、霧月が尋ねる。
「して、ご感想は?」
本日、最も長い沈黙。
目を瞑り、微動だにしなくなると、里見はますますその存在感を増す。
御宅の多い昨今、花形職業である漫画家を目指す人間はそれこそ腐るほどいるが、同人描きから始め、大手出版社に拾われ、長く業界に腰を下ろす人物はほんの一握りである。無論、創作の第一条件は何かを表現しようとする初期衝動であるが、作品を作るという行為を飯の種にしようと一度思えば、膨大なる才能が必要になってくる。
そんな数少ない天才が、里見四八、この人物である。
里見の発する並々ならぬ威圧感に、寿命を削られるような思いの岸辺だったが、周りの腐女子もそれは同じのようで、胸に手をあてて動悸を抑えている者もいる。
ようやく、里見が口を開く。
「萌えた」
腐女子の理念その物である。
堰を切ったように、腐女子達が言葉を発した。「人物の描写はいかがでしたか?」「物語の展開は?」「音楽も大変に良いと聞きましたが」「あの、その、具体的に男子達は『どこまで』致されるのですか?」などなど、電子遊戯に対する質問をきっかけに、矢継ぎ早の問いを繰り出す。里見はそれに口数少なく答えつつ、的確に論じる。
会話についていけない岸辺だったが、ある腐女子が「『夏』は電子遊戯を題材に一本描かれますか?」という質問をした時ばかりは、空気が変わったのを感じ、注意深く里見を観察した。
「まだ考えておらんよ」
と、里見。腐女子達は一斉に、「里見先生が描かれるならば是非私も……」「ええ、帰りにでも購入してみる所存です」と食いついた。
「しかし『夏』に関しては、我一人の意見では、な……」
里見が言いかけ、席を見渡す。そこにいない人物に気づき、隣に座った霧月に尋ねる。
「おや、奴がいないようだが……遅刻か?」
霧月の表情が変化した。明らかに狼狽し、これまでの流れとは逆に、周りの腐女子に救いを求める視線を送る。
「いえ、今日はその、来られないとの事で……」
今度は里見の表情も一変する。二階から降りてきた時よりも険しい、疲労よりも怒りが先行した硬い顔貌。腐女子達は押し黙り、気まずそうに紅茶を口に含む。
「……何故だ?」
「それが、あの、私にも皆目……」
「嘘を申すな」
「……」
「言え。さもなくば……」
「わ、分かりました。とはいえ、これが直接の原因であると確定している訳ではないのですが、実は、昨日、とある腐女子の空電話会議に参加致しまして、そこでちょっと、問題が……」
「……問題?」
一層険しくなる里見は、今にも殺しそうな勢いで霧月を睨む。
「参加者で『純正ろまんちか』について萌語りをしていました所、突然彼女が口を開きまして、会議通話の議長である白石という方に、その、暴言を……」
岸辺からしてみれば、「奴」「彼女」が誰を指しているのか分からないが、明坂が来られないという話を聞いた時の反応との違いからして、余程に重要な人物なのだろうとは察した。しかし為す術はないので、今はとばっちりを受けないように祈るしかない。
霧月の説明では埒が空かぬと見たのか、里見は勢い良く立ち上がり、化繊作務衣の物入れより携帯電話を取り出し、親指で二度だけ牡丹を押して耳に当てた。眉間に寄せた皺がもうこれ以上は深くならない程になった時、通話が始まった。
「申し申し。懺悔河か?」
電話の相手、つまり「奴」、「彼女」とは紛れも無い懺悔河悔の事である。
「……何故来ない? ……何? ……何だと!?」
声を荒げる里見から、全員が視線を外す。今の里見に一度睨まれれば失禁もありうる。
「我が円環を、抜ける……だと? 正気か、懺悔河。この世界、お前が思っているほど広くはないぞ」
禍々しささえ漂う脅しに、岸辺は他人事ながら恐怖に顔を歪ませる。
と、同時に、里見に関する「例の噂」も思い出し、相手が腐女子である事もあって、もしや、と想像を膨らませる。
途端、里見の語気が緩む。そしていきりたった眉毛はしなだられるように下がり、一転して情けない声でこう言う。
「……懺悔河。頼む。考え直してくれんか? ……先日の事は、すまなかった。お前にその気が無い事は知っていたが、それでも自分を抑えられなかったのだ。許してくれ。二度としない」
やはり、そうだったのか。と、岸辺は確信する。
「待て! 懺悔河! 切るな! 待たんか! ……あっ!」
通話は途切れ、里見が戻ってきた。
その表情をちらりと見た岸辺は息を飲む。
閻魔である。
周りの腐女子達は後難を恐れ、誰一人として口を開かず、ひたすら俯いている。
漫画家、里見四八に関する噂。それは、彼女が薔薇を愛する腐女子でありながら、同時に同性愛者、つまり百合の手の者ではないか、という疑いだった。
腐女子らはいずれもこの世界においてはそこそこ名のある者達で、最低でも単独で新刊五百部は頒布する(同人誌は「売る」物ではなく「お金を頂いて配る」物)実力者たちばかりである。
吹き抜けの、開放感のある一階の洋居間で、卓子の上に紅茶を並べて円を成して座る腐女子達の輪に、未だこの家の持ち主である漫画家の姿はなく、雰囲気はいたって重苦しい。
いかに多くの部数を頒布する名うての腐女子なれど、専業漫画家との地位の差は非常に大きく、いくら待たされても文句を言える立場ではない。漫画家の助手による案内によって席についたは良いものの、漫画家自身の顔はまだ拝んでおらず、当然機嫌の良し悪しも分からず、挨拶も済んでいない上ではこの緊張感も無理はない。
その中に、三世橋の属していた円環の副長、岸辺もいた。
土曜日。乙女ろおどでの一件より都合二日後の事になる。
「ま、ま。皆さんそう固くならずに、間もなく先生も仕事を終えて二階から下りてくるでしょう」
先立って口を開いたのは、この面子の中において最も多い頒布数を誇る筆名「霧月 刹那(きりつき せつな)」である。先生、と呼んだ家主とは古くからの顔なじみであり、原稿を手伝った経験も数え切れない程にある。
「しかし、俺……いえ、拙者、先生にこうして招待されるのは初めてでして、どういった話があるのかも皆目見当つきません。何も用意が出来ていないのですが……」
岸辺がそう言うと、霧月はふふ、と短く、しかし馬鹿にした風ではない微笑みを浮かべ、
「ま、おそらく次の夏の話でしょうな。専業漫画家として売れた後でも、先生は毎年夏と冬には参加しておられますから、次のじゃんるは何が良いかといったご相談をなされたいのかと」
繰り返しになるが、同じ腐女子といえど、専業漫画家と、同人書きでは比べ物にならないほどの地位の差がある。無論、同人誌とは自分の趣味である事を前提として描かれているが、上への繋がりを求める彼女ら中堅所の円環にとっては、広報が非常に重要となり、こういった茶話会への参加はいわば好機。「先生」に気に入られれば、おのずと新しい読者が自分の作品を目にする機会も増え、発行部数は増えるという算段である。
それと、岸辺の緊張の理由として、「先生」について恐るべし「ある噂」をつい先日聞いており、真偽は定かではないが、ともすれば自分にその「被害」が及ぶ可能性についての懸念もある。しかしこれはあくまで噂に過ぎず、岸辺自身も半信半疑。また、口に出して誰かに尋ねるのも非常に躊躇われる話題なので、今は口を噤んでいる。
「明坂様はお忙しいのですかな?」と、霧月。
「ええ、はい。どうしても抜けられぬ用事があるという事で、私が代わりに」
「ふむ。まあ、岸辺様も円環暦は長いでしょうから、問題は無いでしょう」
まったりとした霧月の柔らかな口調に、岸辺の緊張の糸は次第に絆されていく。
家主である漫画家と明坂は高校時代からの旧友らしく、今でもその交流は続いている。立場としては既に天と地ほども離れてしまったが、そこは同じく腐女子。会えば男色の話で盛り上がるので、胸中のしこりが多少あれども関係は何とか続いている。
岸辺が使いに出された理由は明坂の多忙であるが、多忙の理由は次の「夏」の事であった。何せ今まで長らくやってきた好番いの「逆」をやるというのだから、関係各円環への連絡は瑣末事ではない。慎重に報告し、趣旨を理解してもらい、可能ならば助力を請わなければならない。夏はまだ遠いが、無駄に使える時間はない。
しばらくの後、二階の扉が開く音がした。腐女子達はひそひそ声の雑談すら止め、神妙な面持ちで主役を待つ。一度は弛緩した岸辺であったが、現れた漫画家の姿を見て絶句し、再び冷や汗を垂らした。
漫画家、里見四八(さとみよんぱち)。
腐女子界においてその名を知らぬ者はおらず、十年前に発行した跳躍系の同人誌は、噂によれば一万部を売り上げたとされている。現在は商業漫画家として第一線で活躍しつつも、先に霧月が述べた通り夏と冬には欠かさず参加するという甲斐性があり、他の腐女子からの尊敬も十分に得ている。
そのように華やかな人物の仕事姿は、初めて見た岸辺にとって衝撃そのものだった。
解れて破けた上下の化繊作務衣(いわゆるジャージ)姿で、眼鏡は瓶の底よりぶ厚く、髪は触らなくても分かるくらいにごわごわとしている。目の下には深い隈が刻まれ、眼窩は落ち窪み生気はまるでない。
たった今、修羅場を潜ってきた女の姿がそこにあった。
「待ったか?」
里見の第一声に、全員が同時に首を振る。集合から半刻ほど(約一時間)が経過していたが、それを口にする者は誰もいない。
「普段はもう少し身なりに気を遣っているんだが、な」
以前、雑誌の取材で撮られていた写真の中の「美人漫画家」として紹介されていた里見を思い出した岸辺は、目の前にある本人との余りの差に閉口する。詐欺に近いな、と思いつつも、化粧の偉大さを確かめる。
「いえいえ、何を仰られるやら。先生にお目通り出来ただけでも私は大変に満足ですよ。ねえ、皆様もそうでしょう?」
霧月のあからさまなおべっかに、我も我もと全員が頷く。
「左様か」
里見が上座に座ると、台所から助手が出てきて各人の空いた茶碗に紅茶を足した。
一息つき、緊迫した空気も若干和らいだ頃合を見計らい、岸辺が立ち上がった。
「里見先生。お初にお目にかかります。拙者、明坂主催の円環で副長をしております岸辺十と申します。不調方者ではありますが、どうぞ、お見知りおきを……」
淀んだ暗い瞳で岸辺を見る里見。その虚無な表情を見た岸辺の笑顔が引きつりかけた時、霧月が助太刀に入った。
「明坂様は多忙でいらっしゃられないとの事で。ですが里見先生、なかなかどうして岸辺君は優秀ですよ。例のがんだも種子『逆』の件、思いついたのは他でもない岸辺君なのだそうです」
里見の表情は変わらない。石膏で固めたように、感情を失くしている。
「本来ならば『逆』は腐女子にあるまじき背信行為ですが、新番組の零々に対抗して。『あえて』やろうというその策略、じゃんるに対する愛情と心意気。先見の明があると思われませんか? 里見先生」
里見はようやく岸辺から視線を外し、椅子の背もたれに体重を預けた。
紅茶を少し口に含み、何度かゆっくりと瞬きをした後、低い声でこう呟く。
「腐女子の道は一筋縄ではいかん……明坂の口癖だったな」
否定とも肯定ともとれない言葉ではあったが、無為の沈黙よりはいくらか楽なように思え、岸辺もようやく呼吸を取り戻す。
「好きにやれ」
そうして会話の打ち切りを宣言した里見に、すかさず霧月が別の話題を提供した。
「この前私が貸しました携帯電子遊戯(いわゆるゲーム。この場合はPSP、DSなどの携帯機を指す。無論BL)はお遊びになられましたかな?」
「解決(クリア)した」
おお、と腐女子達がざわめき立ち、それが静まるのを待って、霧月が尋ねる。
「して、ご感想は?」
本日、最も長い沈黙。
目を瞑り、微動だにしなくなると、里見はますますその存在感を増す。
御宅の多い昨今、花形職業である漫画家を目指す人間はそれこそ腐るほどいるが、同人描きから始め、大手出版社に拾われ、長く業界に腰を下ろす人物はほんの一握りである。無論、創作の第一条件は何かを表現しようとする初期衝動であるが、作品を作るという行為を飯の種にしようと一度思えば、膨大なる才能が必要になってくる。
そんな数少ない天才が、里見四八、この人物である。
里見の発する並々ならぬ威圧感に、寿命を削られるような思いの岸辺だったが、周りの腐女子もそれは同じのようで、胸に手をあてて動悸を抑えている者もいる。
ようやく、里見が口を開く。
「萌えた」
腐女子の理念その物である。
堰を切ったように、腐女子達が言葉を発した。「人物の描写はいかがでしたか?」「物語の展開は?」「音楽も大変に良いと聞きましたが」「あの、その、具体的に男子達は『どこまで』致されるのですか?」などなど、電子遊戯に対する質問をきっかけに、矢継ぎ早の問いを繰り出す。里見はそれに口数少なく答えつつ、的確に論じる。
会話についていけない岸辺だったが、ある腐女子が「『夏』は電子遊戯を題材に一本描かれますか?」という質問をした時ばかりは、空気が変わったのを感じ、注意深く里見を観察した。
「まだ考えておらんよ」
と、里見。腐女子達は一斉に、「里見先生が描かれるならば是非私も……」「ええ、帰りにでも購入してみる所存です」と食いついた。
「しかし『夏』に関しては、我一人の意見では、な……」
里見が言いかけ、席を見渡す。そこにいない人物に気づき、隣に座った霧月に尋ねる。
「おや、奴がいないようだが……遅刻か?」
霧月の表情が変化した。明らかに狼狽し、これまでの流れとは逆に、周りの腐女子に救いを求める視線を送る。
「いえ、今日はその、来られないとの事で……」
今度は里見の表情も一変する。二階から降りてきた時よりも険しい、疲労よりも怒りが先行した硬い顔貌。腐女子達は押し黙り、気まずそうに紅茶を口に含む。
「……何故だ?」
「それが、あの、私にも皆目……」
「嘘を申すな」
「……」
「言え。さもなくば……」
「わ、分かりました。とはいえ、これが直接の原因であると確定している訳ではないのですが、実は、昨日、とある腐女子の空電話会議に参加致しまして、そこでちょっと、問題が……」
「……問題?」
一層険しくなる里見は、今にも殺しそうな勢いで霧月を睨む。
「参加者で『純正ろまんちか』について萌語りをしていました所、突然彼女が口を開きまして、会議通話の議長である白石という方に、その、暴言を……」
岸辺からしてみれば、「奴」「彼女」が誰を指しているのか分からないが、明坂が来られないという話を聞いた時の反応との違いからして、余程に重要な人物なのだろうとは察した。しかし為す術はないので、今はとばっちりを受けないように祈るしかない。
霧月の説明では埒が空かぬと見たのか、里見は勢い良く立ち上がり、化繊作務衣の物入れより携帯電話を取り出し、親指で二度だけ牡丹を押して耳に当てた。眉間に寄せた皺がもうこれ以上は深くならない程になった時、通話が始まった。
「申し申し。懺悔河か?」
電話の相手、つまり「奴」、「彼女」とは紛れも無い懺悔河悔の事である。
「……何故来ない? ……何? ……何だと!?」
声を荒げる里見から、全員が視線を外す。今の里見に一度睨まれれば失禁もありうる。
「我が円環を、抜ける……だと? 正気か、懺悔河。この世界、お前が思っているほど広くはないぞ」
禍々しささえ漂う脅しに、岸辺は他人事ながら恐怖に顔を歪ませる。
と、同時に、里見に関する「例の噂」も思い出し、相手が腐女子である事もあって、もしや、と想像を膨らませる。
途端、里見の語気が緩む。そしていきりたった眉毛はしなだられるように下がり、一転して情けない声でこう言う。
「……懺悔河。頼む。考え直してくれんか? ……先日の事は、すまなかった。お前にその気が無い事は知っていたが、それでも自分を抑えられなかったのだ。許してくれ。二度としない」
やはり、そうだったのか。と、岸辺は確信する。
「待て! 懺悔河! 切るな! 待たんか! ……あっ!」
通話は途切れ、里見が戻ってきた。
その表情をちらりと見た岸辺は息を飲む。
閻魔である。
周りの腐女子達は後難を恐れ、誰一人として口を開かず、ひたすら俯いている。
漫画家、里見四八に関する噂。それは、彼女が薔薇を愛する腐女子でありながら、同時に同性愛者、つまり百合の手の者ではないか、という疑いだった。
週末、特に今日のような日曜日に、三世橋が外出をする事は滅多に無い。前にも述べた通り、何せ三世橋の通う高校の周りは「その手の物」に溢れており、漫画、小説の類から音劇円盤(いわゆるドラマCD)、各種電子計算機関係の物まで、学校の帰りにちょいと駅を選んで降りればそれで事足りる。その上、時給労働も行っていないので、休日はほとんどの時間を自分の為に使えるという、何と最早世間一般からすれば羨ましい生活を三世橋は送っているのである。
しかし今日は事情が違った。
二日前、白石が主催した空電話での萌会議において、謎の腐女子懺悔河怪と予期せぬ再会を果たした三世橋は、即座に懺悔河に対し個人的に通信を送った。理由は明確。発言の撤回を要求したのである。
懺悔河は白石達の「純正ろまんちか」解釈がまるで為っていないと叱咤した。
「申し申し。拙者、三世橋光と申す」
『ふむ。聞いた事が無いな。誰だね?』
「……先日、乙女ろおどの喫茶店『風来堂』にて、貴殿の受け問答に答えた者と言えばお分かりか?」
『ほう。あの時の怒れる腐女子か。今日も何やら怒っておるな』
「貴殿がした先ほどの発言、撤回していただきたい」
『……何故?』
三世橋は画面の前で両目を大きく見開き、その向こう側にいる相手を威圧するように言った。
「人の趣味に対してとやかく口を挟むのは、真の腐女子のする事ではない」
『……』
「それぞれに楽しみ方があるのだ。貴殿も腐女子の一人ならば、好きなじゃんるの一つや二つあるだろう。それを誰かに否定されたらどういう気分になる? 我らは所詮、日陰者。どんな場においても礼節を弁えねばならん」
『……』
言葉は返ってこないが、拡声器を切っている様子はない。真面目に聞いているのか、それとも例の妖しい微笑みで馬鹿にしているのか。三世橋もこれ以上何かを言うつもりはなく、ただ無言の圧力をもって撤回を求める。
(悪態をついて逃げるか、素直に謝るか……どちらかだな)
と、三世橋が考えていると、しかし帰ってきたのはこんな言葉だった。
『日曜日、明け八ツ(昼の二時頃)に秋葉原まで来い。そうしたら撤回も考えてやろう』
「……何だと?」
『いいか、八ツだぞ』
そして送られてきたのは統一資源位置指定子(いわゆるURL。ホームページの場所を示す文字列)で、それを最後に通信は途絶え、その後は三世橋がいくら呼びかけようとも応答はなかった。
かくして、三世橋の外出が決定したのである。
東京、秋葉原。
御宅女子の聖地が池袋の乙女ろおどとするならば、御宅男子の聖地はここという事になる。
昨今電波映写機(いわゆるテレビ)で各種放送媒体(いわゆるマスコミ)が秋葉原を取り上げ、活況を煽ってきた影響もあってか、昔からの御宅からすれば軽佻浮薄とも揶揄される人口の流入により、電気街としての面も今はすっかり薄れている。それに連れて御宅女子の姿を見る機会も増え、この街を歩く事もそう不自然な事ではなくなったが、昔気質の腐女子、つまり三世橋のような人間にとっては、この街をたった一人で訪れる事はある種の暴挙ともいえる行為であった。
何せ駅を一度出れば助平遊戯(いわゆるエロゲー)の破廉恥な広告が堂々と来る者を出迎え、大人用玩具を取り扱う怪しげな五階建ての店が否応なしに視界に飛び込んでくる。更に周囲は二次元女子の春画に近い絵をあしらった紙袋を堂々と提げる男子が複数人で街を闊歩しており、皆一様に肩下げ鞄を装備し、眼光はぎらついている。
(なんという事だ……日本は一体……)
眩暈を覚え、その場に倒れそうになった三世橋であったが、かろうじて堪え、一歩を踏み出す。三世橋の目的は当然、懺悔河に会う事である。
懺悔河の送ってきた統一資源位置指定子を開くと、その先には電子地図があり、とある雑居楼閣の場所が示されていた。こうなれば、とことんまでやりあわなければ気が晴れぬ。日曜日に女子一人をこのような街に呼び出すなど失礼極まりないが、まずは会わなければそれについての謝罪させる事すら出来ない。三世橋が地図を印刷し、懐に収めた頃には既に覚悟は定まっていた。
(やれやれ、妙なことに首を突っ込んでしまったな……)
などと思いつつ、指示された場所にたどり着くと、そこは三階建ての雑居楼閣で、全ての階が男子向けの家政婦喫茶(いわゆるメイド喫茶)で埋まっていた。
唖然とする三世橋。
(冗談ではない! ここに入れという事か。死ねと言っているような物だ……!)
周囲を警戒しつつ、地図を何度も確かめながら困り果てる三世橋。罠に嵌められたのだろうか、と思った矢先、雑居楼閣から一人の家政婦が出てきた。
「時間通り。よくきたな」
にこりと微笑む家政婦を見ても、最初、三世橋はそれが自分をここに呼び出した張本人であるとは気がつかなかった。何せその格好は、頭には猫耳。髪型は御宅受けが良いと評判の馬の尾を模した洋風下げ髪(いわゆるポニーテール)で、格好は中世風幼生色(ゴシックアンドロリータ。いわゆるゴスロリ)の強い白黒対照の家政婦服で、化粧も派手めであり、全体的に浮世離れした空気感を纏っている。
しかしその切れ長な目の妖艶さは、間違いなくあの日「風雷堂」で出会った腐女子、懺悔河の持ち物であり、相手も三世橋の顔を知っているようである。三世橋は思わず声をあげる。
「お、おぬし、まさかここで働いておるのか!?」
「……そうだが? 何をそこまで驚く必要がある」
素っ気無く答える懺悔河。三世橋の口は空回りし、二の句が継げない。
「いいからとにかく入れ。もうすぐ仕事終わりだから、店内で待っていろ。わざわざ来てくれた礼に茶を奢ってやろう」
首を横に振る三世橋の腕をぐいと掴み、そのまま強引に階段を上っていく。踏み外しそうになりながら、後退は出来ず、気づけば三世橋は席に座らされていた。
言うまでもなく、初めての家政婦喫茶体験である。
店内は、これまた中世風幼生色を彷彿とさせる白と黒を基調とした落ち着いた飾りつけであり、席同士の空間はゆったりと取られ、椅子の座布団はまことやわらかく、清掃の行き届いた店内であったが、客はやはり三世橋を除いて男子のみであった。
(針のむしろに座らされている気分とはこの事か……)
縮こまり、目立たないように目立たないようにと努めるが、やはり女一人が家政婦喫茶に座っているのには奇妙な違和感がある。相当な物好きか、あるいは「その手」の者ではないか、という卑下た視線も感じる。かといってきょろきょろと周りを見回せば、ますます怪しいと睨まれるのが関の山。ここは耐えるしかあるまい、と三世橋は唇を噛み締める。
「ご主人、待たせたな。確か薄焼き卵寿司(いわゆるオムライス)で良かったな?」
家政婦姿の懺悔河が、別の客が座っている卓子に注文を運んでいる。接客中もこれといって特に媚びた様子のない懺悔河の堂々たる凛々しさに、三世橋は思わず感服する。
「赤茄子煮調味料(いわゆるケチャップ)で名前を書いてやろう。名を申せ」
「あ、えっと、たけしです」
「了承した」
黄色い卵焼きに真っ赤な文字で「しげる」と描く懺悔河の自由さに、三世橋再び感服。
「三世橋、待たせたな。紅茶で良かったか?」
「ああ……しかし、仕事中も常にこうなのか?」
「こう、とは?」
「その、何というか……」
手振りを加えて話そうとするが、うまく表現出来ず、懺悔河が察する方が早かった。
「ああ、この店は他と違ってあまり萌え萌えとした店風ではないのではないのでな。これで十分やっていけている」
(そんなものだろうか……)
余りの展開に目的を見失っていた三世橋がそこにいた。
時給労働が終わり、私服に着替えた懺悔河と共に、三世橋は店を出た。「どこか落ち着いて話せる場所はないか」という三世橋に対し、「ならば、知り合いの家政婦喫茶が近くに……」と言いかけたのを遮って、欧米肉入り大判焼き王者(いわゆるバーガーキング。秋葉原支店)の看板を見つけ、懺悔河の手を強引に掴みそこに入った。
一番小さい肉入り大判焼きと蜜柑飲料を頼み、席につく二人。
第一声は懺悔河だった。
「おぬしには悪いが、私は、自分以下の実力の人間に対してした発言を撤回したり、謝罪したりするつもりはない」
そのたった一言で、席から立ち上がり、胸倉を掴みそうになる衝動が三世橋の中で巻き起こったが、寸での所で堪える。休日昼間の秋葉原でする腐女子同士の喧嘩ほどみっともない物はない。
「……実力、とはつまり、漫画の出来を言っているのか?」
「それ以外、私たちに何がある?」
「言葉を返すようだが、漫画、いや、創作活動全般において、『どちらが上』などという考え方それ自体が甚だ間違っているのではないか」
「好みの問題か?」
「それもある。だがそれ以上に、最も重要なのは自分が表現したい事が出来たかどうか、だ。描く事は常に自分との戦い。作品に対する評価など、付属品に過ぎん」
「青いな」懺悔河は含み笑いを浮かべ、「おぬしは青すぎる」
苛立ちの色を隠せない三世橋であったが、自分の言っている事に間違いはないという自負がある分、最初よりは随分と冷静でいられた。というより、この所、「逆」の件もあって怒ってばかりいるが、普段はむしろ温厚な方なのである。
「いいか三世橋」一転し、諭すような口調の懺悔河。「自分が表現者である以上、受け手の存在は必要不可欠なのだよ。おぬしが描き、誰かが読む。それが為されぬならば、その作品は存在していないのも同じ。おぬしは人類が滅亡した後の地球で、たった一人残ってしまったとしても描き続けるとでも言うのか?」
「……極論すぎる。話にならん」
「おぬしの意見も似たような物。結局は稚児が駄々を捏ねてるだけに過ぎんよ」
重苦しい沈黙が二人の間を行き来する。
やがてそれを壊したのは、懺悔河のたった一言だった。
この瞬間まで何もかもが謎に包まれ、実に人間離れした懺悔河であったが、そのたった一言を口にしたほんの一時は、ある種見事なまでに人間臭く、今の今までありえなかった「信頼」という感情を三世橋は思わず抱いてしまったのである。
懺悔河は首を横に曲げ、直角九十度の横顔を三世橋に向けて、顎に手を当て口元を隠しつつ、こう言い放った。
「つまり、だ。私と一緒に同人誌を書き、その出来が良ければお前の実力も認めてやらん訳でもない……という事になる」
今度は一方的に押し付けられた沈黙をどう扱っていいやら分からない三世橋。
言った後、提灯に火が点ったようにどんどん頬を染めていく懺悔河。
そんな二人の間に、割って入る人物がいた。
烈火を身に纏った修羅の漫画家、里見四八である。
しかし今日は事情が違った。
二日前、白石が主催した空電話での萌会議において、謎の腐女子懺悔河怪と予期せぬ再会を果たした三世橋は、即座に懺悔河に対し個人的に通信を送った。理由は明確。発言の撤回を要求したのである。
懺悔河は白石達の「純正ろまんちか」解釈がまるで為っていないと叱咤した。
「申し申し。拙者、三世橋光と申す」
『ふむ。聞いた事が無いな。誰だね?』
「……先日、乙女ろおどの喫茶店『風来堂』にて、貴殿の受け問答に答えた者と言えばお分かりか?」
『ほう。あの時の怒れる腐女子か。今日も何やら怒っておるな』
「貴殿がした先ほどの発言、撤回していただきたい」
『……何故?』
三世橋は画面の前で両目を大きく見開き、その向こう側にいる相手を威圧するように言った。
「人の趣味に対してとやかく口を挟むのは、真の腐女子のする事ではない」
『……』
「それぞれに楽しみ方があるのだ。貴殿も腐女子の一人ならば、好きなじゃんるの一つや二つあるだろう。それを誰かに否定されたらどういう気分になる? 我らは所詮、日陰者。どんな場においても礼節を弁えねばならん」
『……』
言葉は返ってこないが、拡声器を切っている様子はない。真面目に聞いているのか、それとも例の妖しい微笑みで馬鹿にしているのか。三世橋もこれ以上何かを言うつもりはなく、ただ無言の圧力をもって撤回を求める。
(悪態をついて逃げるか、素直に謝るか……どちらかだな)
と、三世橋が考えていると、しかし帰ってきたのはこんな言葉だった。
『日曜日、明け八ツ(昼の二時頃)に秋葉原まで来い。そうしたら撤回も考えてやろう』
「……何だと?」
『いいか、八ツだぞ』
そして送られてきたのは統一資源位置指定子(いわゆるURL。ホームページの場所を示す文字列)で、それを最後に通信は途絶え、その後は三世橋がいくら呼びかけようとも応答はなかった。
かくして、三世橋の外出が決定したのである。
東京、秋葉原。
御宅女子の聖地が池袋の乙女ろおどとするならば、御宅男子の聖地はここという事になる。
昨今電波映写機(いわゆるテレビ)で各種放送媒体(いわゆるマスコミ)が秋葉原を取り上げ、活況を煽ってきた影響もあってか、昔からの御宅からすれば軽佻浮薄とも揶揄される人口の流入により、電気街としての面も今はすっかり薄れている。それに連れて御宅女子の姿を見る機会も増え、この街を歩く事もそう不自然な事ではなくなったが、昔気質の腐女子、つまり三世橋のような人間にとっては、この街をたった一人で訪れる事はある種の暴挙ともいえる行為であった。
何せ駅を一度出れば助平遊戯(いわゆるエロゲー)の破廉恥な広告が堂々と来る者を出迎え、大人用玩具を取り扱う怪しげな五階建ての店が否応なしに視界に飛び込んでくる。更に周囲は二次元女子の春画に近い絵をあしらった紙袋を堂々と提げる男子が複数人で街を闊歩しており、皆一様に肩下げ鞄を装備し、眼光はぎらついている。
(なんという事だ……日本は一体……)
眩暈を覚え、その場に倒れそうになった三世橋であったが、かろうじて堪え、一歩を踏み出す。三世橋の目的は当然、懺悔河に会う事である。
懺悔河の送ってきた統一資源位置指定子を開くと、その先には電子地図があり、とある雑居楼閣の場所が示されていた。こうなれば、とことんまでやりあわなければ気が晴れぬ。日曜日に女子一人をこのような街に呼び出すなど失礼極まりないが、まずは会わなければそれについての謝罪させる事すら出来ない。三世橋が地図を印刷し、懐に収めた頃には既に覚悟は定まっていた。
(やれやれ、妙なことに首を突っ込んでしまったな……)
などと思いつつ、指示された場所にたどり着くと、そこは三階建ての雑居楼閣で、全ての階が男子向けの家政婦喫茶(いわゆるメイド喫茶)で埋まっていた。
唖然とする三世橋。
(冗談ではない! ここに入れという事か。死ねと言っているような物だ……!)
周囲を警戒しつつ、地図を何度も確かめながら困り果てる三世橋。罠に嵌められたのだろうか、と思った矢先、雑居楼閣から一人の家政婦が出てきた。
「時間通り。よくきたな」
にこりと微笑む家政婦を見ても、最初、三世橋はそれが自分をここに呼び出した張本人であるとは気がつかなかった。何せその格好は、頭には猫耳。髪型は御宅受けが良いと評判の馬の尾を模した洋風下げ髪(いわゆるポニーテール)で、格好は中世風幼生色(ゴシックアンドロリータ。いわゆるゴスロリ)の強い白黒対照の家政婦服で、化粧も派手めであり、全体的に浮世離れした空気感を纏っている。
しかしその切れ長な目の妖艶さは、間違いなくあの日「風雷堂」で出会った腐女子、懺悔河の持ち物であり、相手も三世橋の顔を知っているようである。三世橋は思わず声をあげる。
「お、おぬし、まさかここで働いておるのか!?」
「……そうだが? 何をそこまで驚く必要がある」
素っ気無く答える懺悔河。三世橋の口は空回りし、二の句が継げない。
「いいからとにかく入れ。もうすぐ仕事終わりだから、店内で待っていろ。わざわざ来てくれた礼に茶を奢ってやろう」
首を横に振る三世橋の腕をぐいと掴み、そのまま強引に階段を上っていく。踏み外しそうになりながら、後退は出来ず、気づけば三世橋は席に座らされていた。
言うまでもなく、初めての家政婦喫茶体験である。
店内は、これまた中世風幼生色を彷彿とさせる白と黒を基調とした落ち着いた飾りつけであり、席同士の空間はゆったりと取られ、椅子の座布団はまことやわらかく、清掃の行き届いた店内であったが、客はやはり三世橋を除いて男子のみであった。
(針のむしろに座らされている気分とはこの事か……)
縮こまり、目立たないように目立たないようにと努めるが、やはり女一人が家政婦喫茶に座っているのには奇妙な違和感がある。相当な物好きか、あるいは「その手」の者ではないか、という卑下た視線も感じる。かといってきょろきょろと周りを見回せば、ますます怪しいと睨まれるのが関の山。ここは耐えるしかあるまい、と三世橋は唇を噛み締める。
「ご主人、待たせたな。確か薄焼き卵寿司(いわゆるオムライス)で良かったな?」
家政婦姿の懺悔河が、別の客が座っている卓子に注文を運んでいる。接客中もこれといって特に媚びた様子のない懺悔河の堂々たる凛々しさに、三世橋は思わず感服する。
「赤茄子煮調味料(いわゆるケチャップ)で名前を書いてやろう。名を申せ」
「あ、えっと、たけしです」
「了承した」
黄色い卵焼きに真っ赤な文字で「しげる」と描く懺悔河の自由さに、三世橋再び感服。
「三世橋、待たせたな。紅茶で良かったか?」
「ああ……しかし、仕事中も常にこうなのか?」
「こう、とは?」
「その、何というか……」
手振りを加えて話そうとするが、うまく表現出来ず、懺悔河が察する方が早かった。
「ああ、この店は他と違ってあまり萌え萌えとした店風ではないのではないのでな。これで十分やっていけている」
(そんなものだろうか……)
余りの展開に目的を見失っていた三世橋がそこにいた。
時給労働が終わり、私服に着替えた懺悔河と共に、三世橋は店を出た。「どこか落ち着いて話せる場所はないか」という三世橋に対し、「ならば、知り合いの家政婦喫茶が近くに……」と言いかけたのを遮って、欧米肉入り大判焼き王者(いわゆるバーガーキング。秋葉原支店)の看板を見つけ、懺悔河の手を強引に掴みそこに入った。
一番小さい肉入り大判焼きと蜜柑飲料を頼み、席につく二人。
第一声は懺悔河だった。
「おぬしには悪いが、私は、自分以下の実力の人間に対してした発言を撤回したり、謝罪したりするつもりはない」
そのたった一言で、席から立ち上がり、胸倉を掴みそうになる衝動が三世橋の中で巻き起こったが、寸での所で堪える。休日昼間の秋葉原でする腐女子同士の喧嘩ほどみっともない物はない。
「……実力、とはつまり、漫画の出来を言っているのか?」
「それ以外、私たちに何がある?」
「言葉を返すようだが、漫画、いや、創作活動全般において、『どちらが上』などという考え方それ自体が甚だ間違っているのではないか」
「好みの問題か?」
「それもある。だがそれ以上に、最も重要なのは自分が表現したい事が出来たかどうか、だ。描く事は常に自分との戦い。作品に対する評価など、付属品に過ぎん」
「青いな」懺悔河は含み笑いを浮かべ、「おぬしは青すぎる」
苛立ちの色を隠せない三世橋であったが、自分の言っている事に間違いはないという自負がある分、最初よりは随分と冷静でいられた。というより、この所、「逆」の件もあって怒ってばかりいるが、普段はむしろ温厚な方なのである。
「いいか三世橋」一転し、諭すような口調の懺悔河。「自分が表現者である以上、受け手の存在は必要不可欠なのだよ。おぬしが描き、誰かが読む。それが為されぬならば、その作品は存在していないのも同じ。おぬしは人類が滅亡した後の地球で、たった一人残ってしまったとしても描き続けるとでも言うのか?」
「……極論すぎる。話にならん」
「おぬしの意見も似たような物。結局は稚児が駄々を捏ねてるだけに過ぎんよ」
重苦しい沈黙が二人の間を行き来する。
やがてそれを壊したのは、懺悔河のたった一言だった。
この瞬間まで何もかもが謎に包まれ、実に人間離れした懺悔河であったが、そのたった一言を口にしたほんの一時は、ある種見事なまでに人間臭く、今の今までありえなかった「信頼」という感情を三世橋は思わず抱いてしまったのである。
懺悔河は首を横に曲げ、直角九十度の横顔を三世橋に向けて、顎に手を当て口元を隠しつつ、こう言い放った。
「つまり、だ。私と一緒に同人誌を書き、その出来が良ければお前の実力も認めてやらん訳でもない……という事になる」
今度は一方的に押し付けられた沈黙をどう扱っていいやら分からない三世橋。
言った後、提灯に火が点ったようにどんどん頬を染めていく懺悔河。
そんな二人の間に、割って入る人物がいた。
烈火を身に纏った修羅の漫画家、里見四八である。
歴史が始まる刻がある。
偉大な人物が、偉大な事を成し遂げたまさにその瞬間より遥か以前に、物事が動き出した切っ掛けという物がある。
三世橋光と懺悔河怪が、喫茶「風雷堂」にて初めて相対した時がそうである。といえば話は簡単で済む。が、いくら才能に溢れる若い腐女子の出会いといえども、しかしただそれだけでは、近代に入り飛躍的に肥大化した男色市場は揺るがない。莫大な熱が生まれるとも、そのままではただ無闇やたらに発散され、影響は皆無である。
その熱を注ぐ方向は一つに定められなければならない。
つまり、二人の向かうべき方向を定めたのは、他でもない里見四八であったという事になる。
「探したぞ」
そう凄む里見の眼中には、魔性の腐女子、懺悔河しか今はない。
「おや、つい昨日に円環を抜けると申しあげたばかりですが、もうお忘れですか? 里見先生」
余裕の口ぶりで対抗する懺悔河であったが、額から流れる一すじの汗は嘘をつけなかった。今、この空間の気圧を何倍にも重くしている原因を懺悔河は知っていた。三世橋の前でもある。
「赦さん。赦さんぞ懺悔河。我の円環に戻ると言え」
「無茶を仰る。我侭を通すのは編集相手だけにしてくださいな」
まるで心底呆れたように顔を背けた懺悔河であったが、里見の表情を見ている内に気おされてしまうのを恐れての事である。
「何故だ」
と問う里見に、懺悔河、
「理由は先生ご自身がよくご存知でしょう?」
の一言に、里見は眉尾を下げる。対した相手を圧殺する鬼の、その実恐ろしく脆い仮面の裏側がちらと垣間見える。
「それについては謝っているではないか。戻ってこい。お前ほどの才能、我が円環以外のどこで描き、ぶつけられるというのだ。懺悔河。この通りだ」
垂れた頭のつむじを覗き、懺悔河からいよいよ余裕が消えた。
壮言にして温厚、慄然にして軟弱。両面性の間には紛れもない狂気がある。
この里見という人物と懺悔河が出会ったのは、遡る事およそ一年前の事になる。
その年も「夏」に参加していた里見。円環は無論、鎧戸前壁際(人気のある超大手円環が配置される場所。人が外まで並ぶ)であり、売り子も自ら買って出た信頼のおける六、七人が交代で行っているので、ぶらぶらと他の円環を見て回っていた。
その時である。
(あれは……なんだ?)
里見の視界に入ったのは、渦高く積まれた写生帳(いわゆるスケッチブック)であった。机の上を占拠し、売り子も頭の天辺しか見えない。だというのに、客の列は無いし同人誌も売れている様子はない。
奇妙である。
これは腐女子に限った事ではないが、同人誌即売会にて参加者が頒布者に頼み込み、持ってきた写生帳を渡し、絵を描いてもらうという伝統がある。人気のある円環の場合、即売会開催中は常に頼まれた写生本の処理に追われているというのも珍しくないが、里見ほどの人物となると、いちいち依頼を受けていてはきりが無い為、事前に受け付けない旨を告知してある(それでも頼みに来る輩がいるので、里見はあまり自らの円環にいない)。
奇妙というのは、写生帳を積み上げられるほどに人気のあるはずの円環であるにも関わらず、肝心の同人誌がさっぱり売れていないという点である。場所も島中(あまり人気のない円環が配置される場所)、売り子も一人。で、あるにも関わらず絵を描くのに忙しいというのは、いかにも矛盾していた。
「もし……少し見させてもらってよろしいか?」
里見が声をかけると、写生帳の奥に座っていた懺悔河は顔をあげず、「どうぞ」と素っ気無く答えた。刷りたてと思わしき新刊を手に取り、ぱらぱらと捲る里見。
(荒削りではあるが、良い霊感を持っている。何より線が光っている。原著ではなく、人気のあるじゃんるの二次創作をすればおのずと繁盛しそうだな……)
考えつつ、思わず立ったままで十頁も読んでしまった。
「あの」
その声に我に返り、里見が顔をあげる。
「貴殿は写生本をお持ちか?」
と、質問され、初めて顔を見る。
切れ長の眼に、つやの無い黒髪と、野暮ったい花柄のつなぎ服(いわゆるワンピース)に帆布の股引(ももひき。この場合はジーンズ)。いかにも根暗な腐女子といった風体であるが、それにしてはその立ち振る舞いはやけに堂々としている。
「自分の所に戻ればある、が?」
「持ってきてはくれんか?」
思わぬ台詞を聞き、いよいよこれは興味が出てきた。
「これだけあってまだ引き受けるのか?」
「まあ、暇なんでな」
「実に奇怪だ。これだけ写生本の依頼がある円環だというのに、正直言ってまるで流行っているようには見えん。人気のある円環なのではないのか?」
懺悔河は何気なしに答える。
「これはさっき色んな円環を回ってな、写生帳の渡しを断られた人に声をかけて預かってきたのだ。まあ半分は拒否されるだろうと思っていたのだが、意外にも快く渡してくれる人が多かった」
言い終わると同時、「あの……先ほど写生帳を渡した者でござるが……」と、一人の腐女子がやってきた。積まれた山から一冊を取り出し、「ああ、覚えてますよ。確か……この写生帳でしたな?」写生帳を受け取ると、その腐女子はぱらぱらと捲り、絵を見つける。横目で見ていた里見も思わず唸る。短時間で描いたにしては上出来であり、きちんと要求にもこたえているらしい。
「わ……誠ありがとうございます!」
声をあげて喜ぶ腐女子。
「いえいえ、暇でしたから」
と、素っ気無い懺悔河。腐女子は視線を落とし、全く売れていない新刊を見つめる。
「あの……、これ、一冊買わせて頂いてもよろしいですか?」
「はぁ、どうぞ。五百円」
そのやりとりを目の当たりにした里見は衝撃を受ける。
盲点であった。
魑魅魍魎の弱小円環が名をあげるには様々な方法があるが、このような手は今まで一度も見た事がない。人気が出てきてから、ようやく頼まれるはずの写生帳を、逆に自ら引き受け、人気を出す。しかも相手は一度は誰かに断られて行き場をなくした写生帳である。持ち主が恩義を感じるのは自然な事だ。
その日、里見は懺悔河に自らの素性を打ち明け、円環に誘った。当初は渋っていたものの、売れ残った約二百部の新刊を全て里見が買い取るという条件で首を縦に振った。
以来、里見の主催する円環「倫敦日和」にて、懺悔河は活動を続けており、「あの里見先生お墨付き」というのもあって、人気はうなぎ上りだった。
しかし。
つい一週間ほど前の休日、懺悔河は里美に自宅へと誘われた。普段は住み込みで働いている助手達が一人もいない事に不審を覚えた懺悔河であったが、気にせず二階に上がり里見の私室の扉を開くと、そこには一糸纏わぬ漫画家の姿があった。
里見は硬直したままの懺悔河を台布団に押し倒し猛烈に行為を迫ったが、懺悔河はこれを頑なに拒み、やっとの思いで脱出した。
これが懺悔河が円環を離反した理由である。
「あいにくであるが……」
頭まで下げ、恭しく懇願する里見に対し、懺悔河がかけられる言葉はこれだけだった。無名だった自分を拾い上げてくれただけではなく、同人書きのいろは、絵を描く技術を教えてくれた事に感謝はしていたが、それとこれとは別の話。懺悔河には「その気」がない。
顔をあげた里見は、鋭い視線で懺悔河に問う。
「……懺悔河。我が円環を出て一体どうするつもりだ。まさか腐女子をやめる訳ではあるまい」
懺悔河は毅然と答える。
「こやつと組む」
何の前触れもなく、準備も出来ず、桧舞台に放り出された三世橋は、殺意の篭った里見の視線に圧され、言葉を詰まらせる。入店した時から懺悔河しか眼中にない里見からしてみれば、隣に座っていた三世橋など、取るに足らない腐女子仲間だと思っていただけに、懺悔河の発言は起爆剤となった。
「貴様……名前は?」
高圧的に尋ねられ、五秒ほどの間があいてから、三世橋は答える。
「私、三世橋光と申す」
「……懺悔河と組むのか?」
「いやその、私も今聞いたばかりで……」
よくよく考えてみれば、三世橋は懺悔河の要求に否定も肯定も返していない。にも関わらず「組む」と言い切った懺悔河の度胸は本物である。
「組むのか、組まないのかと聞いておる」
三世橋は懺悔河に視線を送る。懺悔河は「好きにしろ」とでも言いたげに、強迫も懇願もない無垢な視線を返してくる。
(一体私にどうしろと……)
状況すらよく飲み込めていない三世橋にとってみれば無理もない。
「む。三世橋、とな……?」
里見が気づく。
「貴様、明坂の円環に所属していた高校生か?」
思わぬ所で思わぬ名前を出され、うろたえつつもこれには首肯する三世橋。
「昨日、岸辺とやらから聞いた。『逆』をするという話に乗れず、円環を抜けた腐女子だったな。つまりどこにも所属していない、と」
言った後、首を捻り何かを考える里見。
そして決定事項を告げる。
「三世橋とやら、勝負だ。おぬしが『逆』を嫌い『あすきら』を通すというのならば、その覚悟、我が『きらあす』で迎え討つ。決戦は『夏』だ」
歴史の始まりであった。
偉大な人物が、偉大な事を成し遂げたまさにその瞬間より遥か以前に、物事が動き出した切っ掛けという物がある。
三世橋光と懺悔河怪が、喫茶「風雷堂」にて初めて相対した時がそうである。といえば話は簡単で済む。が、いくら才能に溢れる若い腐女子の出会いといえども、しかしただそれだけでは、近代に入り飛躍的に肥大化した男色市場は揺るがない。莫大な熱が生まれるとも、そのままではただ無闇やたらに発散され、影響は皆無である。
その熱を注ぐ方向は一つに定められなければならない。
つまり、二人の向かうべき方向を定めたのは、他でもない里見四八であったという事になる。
「探したぞ」
そう凄む里見の眼中には、魔性の腐女子、懺悔河しか今はない。
「おや、つい昨日に円環を抜けると申しあげたばかりですが、もうお忘れですか? 里見先生」
余裕の口ぶりで対抗する懺悔河であったが、額から流れる一すじの汗は嘘をつけなかった。今、この空間の気圧を何倍にも重くしている原因を懺悔河は知っていた。三世橋の前でもある。
「赦さん。赦さんぞ懺悔河。我の円環に戻ると言え」
「無茶を仰る。我侭を通すのは編集相手だけにしてくださいな」
まるで心底呆れたように顔を背けた懺悔河であったが、里見の表情を見ている内に気おされてしまうのを恐れての事である。
「何故だ」
と問う里見に、懺悔河、
「理由は先生ご自身がよくご存知でしょう?」
の一言に、里見は眉尾を下げる。対した相手を圧殺する鬼の、その実恐ろしく脆い仮面の裏側がちらと垣間見える。
「それについては謝っているではないか。戻ってこい。お前ほどの才能、我が円環以外のどこで描き、ぶつけられるというのだ。懺悔河。この通りだ」
垂れた頭のつむじを覗き、懺悔河からいよいよ余裕が消えた。
壮言にして温厚、慄然にして軟弱。両面性の間には紛れもない狂気がある。
この里見という人物と懺悔河が出会ったのは、遡る事およそ一年前の事になる。
その年も「夏」に参加していた里見。円環は無論、鎧戸前壁際(人気のある超大手円環が配置される場所。人が外まで並ぶ)であり、売り子も自ら買って出た信頼のおける六、七人が交代で行っているので、ぶらぶらと他の円環を見て回っていた。
その時である。
(あれは……なんだ?)
里見の視界に入ったのは、渦高く積まれた写生帳(いわゆるスケッチブック)であった。机の上を占拠し、売り子も頭の天辺しか見えない。だというのに、客の列は無いし同人誌も売れている様子はない。
奇妙である。
これは腐女子に限った事ではないが、同人誌即売会にて参加者が頒布者に頼み込み、持ってきた写生帳を渡し、絵を描いてもらうという伝統がある。人気のある円環の場合、即売会開催中は常に頼まれた写生本の処理に追われているというのも珍しくないが、里見ほどの人物となると、いちいち依頼を受けていてはきりが無い為、事前に受け付けない旨を告知してある(それでも頼みに来る輩がいるので、里見はあまり自らの円環にいない)。
奇妙というのは、写生帳を積み上げられるほどに人気のあるはずの円環であるにも関わらず、肝心の同人誌がさっぱり売れていないという点である。場所も島中(あまり人気のない円環が配置される場所)、売り子も一人。で、あるにも関わらず絵を描くのに忙しいというのは、いかにも矛盾していた。
「もし……少し見させてもらってよろしいか?」
里見が声をかけると、写生帳の奥に座っていた懺悔河は顔をあげず、「どうぞ」と素っ気無く答えた。刷りたてと思わしき新刊を手に取り、ぱらぱらと捲る里見。
(荒削りではあるが、良い霊感を持っている。何より線が光っている。原著ではなく、人気のあるじゃんるの二次創作をすればおのずと繁盛しそうだな……)
考えつつ、思わず立ったままで十頁も読んでしまった。
「あの」
その声に我に返り、里見が顔をあげる。
「貴殿は写生本をお持ちか?」
と、質問され、初めて顔を見る。
切れ長の眼に、つやの無い黒髪と、野暮ったい花柄のつなぎ服(いわゆるワンピース)に帆布の股引(ももひき。この場合はジーンズ)。いかにも根暗な腐女子といった風体であるが、それにしてはその立ち振る舞いはやけに堂々としている。
「自分の所に戻ればある、が?」
「持ってきてはくれんか?」
思わぬ台詞を聞き、いよいよこれは興味が出てきた。
「これだけあってまだ引き受けるのか?」
「まあ、暇なんでな」
「実に奇怪だ。これだけ写生本の依頼がある円環だというのに、正直言ってまるで流行っているようには見えん。人気のある円環なのではないのか?」
懺悔河は何気なしに答える。
「これはさっき色んな円環を回ってな、写生帳の渡しを断られた人に声をかけて預かってきたのだ。まあ半分は拒否されるだろうと思っていたのだが、意外にも快く渡してくれる人が多かった」
言い終わると同時、「あの……先ほど写生帳を渡した者でござるが……」と、一人の腐女子がやってきた。積まれた山から一冊を取り出し、「ああ、覚えてますよ。確か……この写生帳でしたな?」写生帳を受け取ると、その腐女子はぱらぱらと捲り、絵を見つける。横目で見ていた里見も思わず唸る。短時間で描いたにしては上出来であり、きちんと要求にもこたえているらしい。
「わ……誠ありがとうございます!」
声をあげて喜ぶ腐女子。
「いえいえ、暇でしたから」
と、素っ気無い懺悔河。腐女子は視線を落とし、全く売れていない新刊を見つめる。
「あの……、これ、一冊買わせて頂いてもよろしいですか?」
「はぁ、どうぞ。五百円」
そのやりとりを目の当たりにした里見は衝撃を受ける。
盲点であった。
魑魅魍魎の弱小円環が名をあげるには様々な方法があるが、このような手は今まで一度も見た事がない。人気が出てきてから、ようやく頼まれるはずの写生帳を、逆に自ら引き受け、人気を出す。しかも相手は一度は誰かに断られて行き場をなくした写生帳である。持ち主が恩義を感じるのは自然な事だ。
その日、里見は懺悔河に自らの素性を打ち明け、円環に誘った。当初は渋っていたものの、売れ残った約二百部の新刊を全て里見が買い取るという条件で首を縦に振った。
以来、里見の主催する円環「倫敦日和」にて、懺悔河は活動を続けており、「あの里見先生お墨付き」というのもあって、人気はうなぎ上りだった。
しかし。
つい一週間ほど前の休日、懺悔河は里美に自宅へと誘われた。普段は住み込みで働いている助手達が一人もいない事に不審を覚えた懺悔河であったが、気にせず二階に上がり里見の私室の扉を開くと、そこには一糸纏わぬ漫画家の姿があった。
里見は硬直したままの懺悔河を台布団に押し倒し猛烈に行為を迫ったが、懺悔河はこれを頑なに拒み、やっとの思いで脱出した。
これが懺悔河が円環を離反した理由である。
「あいにくであるが……」
頭まで下げ、恭しく懇願する里見に対し、懺悔河がかけられる言葉はこれだけだった。無名だった自分を拾い上げてくれただけではなく、同人書きのいろは、絵を描く技術を教えてくれた事に感謝はしていたが、それとこれとは別の話。懺悔河には「その気」がない。
顔をあげた里見は、鋭い視線で懺悔河に問う。
「……懺悔河。我が円環を出て一体どうするつもりだ。まさか腐女子をやめる訳ではあるまい」
懺悔河は毅然と答える。
「こやつと組む」
何の前触れもなく、準備も出来ず、桧舞台に放り出された三世橋は、殺意の篭った里見の視線に圧され、言葉を詰まらせる。入店した時から懺悔河しか眼中にない里見からしてみれば、隣に座っていた三世橋など、取るに足らない腐女子仲間だと思っていただけに、懺悔河の発言は起爆剤となった。
「貴様……名前は?」
高圧的に尋ねられ、五秒ほどの間があいてから、三世橋は答える。
「私、三世橋光と申す」
「……懺悔河と組むのか?」
「いやその、私も今聞いたばかりで……」
よくよく考えてみれば、三世橋は懺悔河の要求に否定も肯定も返していない。にも関わらず「組む」と言い切った懺悔河の度胸は本物である。
「組むのか、組まないのかと聞いておる」
三世橋は懺悔河に視線を送る。懺悔河は「好きにしろ」とでも言いたげに、強迫も懇願もない無垢な視線を返してくる。
(一体私にどうしろと……)
状況すらよく飲み込めていない三世橋にとってみれば無理もない。
「む。三世橋、とな……?」
里見が気づく。
「貴様、明坂の円環に所属していた高校生か?」
思わぬ所で思わぬ名前を出され、うろたえつつもこれには首肯する三世橋。
「昨日、岸辺とやらから聞いた。『逆』をするという話に乗れず、円環を抜けた腐女子だったな。つまりどこにも所属していない、と」
言った後、首を捻り何かを考える里見。
そして決定事項を告げる。
「三世橋とやら、勝負だ。おぬしが『逆』を嫌い『あすきら』を通すというのならば、その覚悟、我が『きらあす』で迎え討つ。決戦は『夏』だ」
歴史の始まりであった。