踊るには朱過ぎる月の夜に
プロローグ:藍野蒼太のはなし
月夜の下、藍野蒼太はただ眼前に映るその遺体を眺めていた。手にしたひと振りのナイフは血に塗れ、一滴、二滴と足元に赤い雫が落ちる。まるで喉が渇いていたかのようにその液体を地面は受け入れて、啜っていた。
蒼太にとって、この状況はあまりにもイレギュラー過ぎた。本来自分は傍観者であり、「あちら側」に決して属してはいないと確信していたし、度々このような奇怪な出来事に遭遇することはあれど、自身がその舞台役者になることは一度もなかったからだ。
「嘘だ、君はいつだって壇上にいたよ」
遺体が笑う。薄ら開かれた目に生気はなく、一突きにされた左胸から服を伝って湧き出るおびただしい量の血液が彼を中心として地面を赤く染めていた。確実に絶命していておかしくはない。だが彼は喋った。力なく投げ出された彼の右手が震えると、握りしめて拳を作った。
「ただ、君が手を下す前に、他の誰かが手を下してしまうだけ」
「違う、僕は――」
それ以上は、何も言えなかった。いや、言うことができなかったという方が正しいかもしれない。遺体はゆらりと立ち上がると、頭部を左右に振り乱し蒼太に向かっていく。まるでただ食することだけを求め、かろうじて繋がった欲望を満たすべく彷徨い続ける生きた屍のごとく、彼は一歩、また一歩と時間をかけて歩を進める。
蒼太は左手に握っているナイフを正面に向け、右手をそっと添えた。迎撃しかない。逃げようとすればできたが、しかしこいつはどこまでも追いかけてくると、そう確信していた。幽鬼の如く迫る遺体に対してしてやれることは一つだけ。
もう一度「殺し直す」こと。それが自身に課せられた役目なのだと、向かってくる遺体、それから鈍い光を放つナイフとを順に見て、それから深く呼吸した。
一歩、また一歩を確実にこちらに歩み寄るのを見て、蒼太もまた一歩、もう一歩と足を踏み出す。真正面に構えたナイフが、月の光を受けて赤く光る。何故赤い光なのか、どこか淫靡的であるその光に疑問を覚えつつ、きっとこの異常に蝕まれているせいだと自分に言い聞かせた。彼はナイフを更に強く握りしめ、今ここで起こっている状況は全て偽物だと必死に呟き続ける。
刺せ、足を刺せ、両腕を刺せ、首を刺せ、顔面に叩き込め、脇腹を刺すんだ。とにかく【全て万遍無く刺せば、奴はもう動かない】筈だ。
やがて抑え切れなくなった胸の内の黒い感情と真っ青になった恐怖が口から悲鳴となって流れ出した。彼は地面を思い切り蹴りあげ、眼前に迫る遺体の顔面にナイフを突き立て、しかしそれだけでは終わらない。彼は右手で遺体の頭部を掴むとナイフを引き抜き、続いて喉を掻っ切った。
何もかもが赤くて、何もかもが黒くて、なのに全てを吐き出し感情を受け入れた自身の頭だけはやけに冷静で、真っ白だった。
気がつくと、遺体は再び死んでいた。幾つもの傷口が彼をじっと見つめ、しかし何も言わず、責めることもしない。ただそこに佇んで彼を見つめるだけだ。
蒼太は乱れた呼吸を落ち着かせながら、左手に堅く握りしめたナイフに目をやった。深紅に染まった月がくっきりと映っている。彼はそれから空を見上げ、そして目を見開いた。
真っ赤な月だ。先ほどまであれほど夜空に似合う色をしていた月が、まるで絵の具で乱暴に塗りたくられたみたいに染まっていた。
「君の瞳は、とても美しい」
遺体の言葉に、彼はたじろいた。やっと気づいたのだ。眼前に倒れた斬殺死体が、自分自身がナイフで殺し尽したそいつが、藍野蒼太であることに。
「水の淀んだみたいな真っ暗なその瞳。ああ君であることを、僕は誇らしく思うよ」
藍野蒼太はそれっきり喋らなくなり、今度こそ本当の遺体となった。藍野蒼太は手にしていたナイフを投げ捨てると、眼前でやっと絶命した藍野蒼太を見つめ、近づいて瞼を下してやった。
恐怖心よりも、昂揚感が勝っていることに、彼は気づいていた。