踊るには朱過ぎる月の夜に
「キスの味」
「キスの味」
――手の上なら尊敬のキス。
――額の上なら友情のキス。
――頬の上なら愛情のキス。
――唇の上なら愛情のキス。
――閉じた目の上なら憧憬のキス。
――掌の上なら懇願のキス。
――腕と首なら欲望のキス。
――さて、その他は、みな狂気の沙汰。
(グリル・パルツァー「接吻」より)
――手の上なら尊敬のキス。
――額の上なら友情のキス。
――頬の上なら愛情のキス。
――唇の上なら愛情のキス。
――閉じた目の上なら憧憬のキス。
――掌の上なら懇願のキス。
――腕と首なら欲望のキス。
――さて、その他は、みな狂気の沙汰。
(グリル・パルツァー「接吻」より)
一
目覚ましの耳障りな音で藍野蒼太は目を覚ました。
真っ赤な月も、ナイフもない。刺された傷跡も見当たらない。曖昧な意識の中で目覚まし時計の時刻とそれらを確認し、ゆっくりと息を吐き出してから上げた頭を再び枕に落とした。
「あの不快な世界はここにはない」
天井に向けてそう呟いた彼は、少ししてかっと目を見開いた。布団を撥ね退け口元を手で押さえて自室を飛び出し、一目散にトイレに駆け込み便器に顔を向け、それから腹の奥底からせり上がってきたものを思い切り便器に吐き出す。
乱れた呼吸と胃液によって荒れた喉の焼けつくような痛みに顔をしかめ、それでも止まることのない嘔吐感に彼はただ便器に顔を向け続けるしかなかった。
最悪の夢だった。定期的に自分を殺す夢を見てはいたが、今日の夢はとびきりのやつだった。夢の中での感触がやけに生々しすぎて、まるで本当に人を殺してしまったような、そんな感覚が覚醒後もべったり両手にとこびりついている。
暫く吐き続けては壁に背を預けると大きく息を吸い込み、静かに吐き出す。まだ吐き気は残っているが、すっかり胃の中のものを吐き出してしまったからか、もう出てくるものはなさそうだ。
暫くトイレの壁にもたれていると、やがて気分も落ち着いてきた。蒼太は手を伸ばしてタンク横のレバーを下ろし、酸の匂いのする便器の中を洗い流す。水流の音と冷たいフローリング、背にした壁が心地良くて、彼はしばらく天井の照明具を見上げていた。
一度も染めたことのない黒髪は、トイレの窓から差し込む光を受けて艶やかに輝いている。すとんと落ちたストレートの髪と、瘠せ型で白い肌、少し長い睫毛と、一見するとどこか女性的にも見える外見。蒼太はそれらを嫌っていた。
良くいえば真面目な、悪く言えば全てそこそこに済ませてしまう特徴のない青年。それが彼だった。自身に関わることならばともかく、自ら進んで殺人を選ぶ程おかしくはなっていないと自負していた。
暫くして、蒼太は壁を支えにして立ち、もう一度レバーを下して水を流す。中央にぽっかりと空いた口に透明無色の液体が流れ込んでいく様を見つめ、それから間もなく継ぎ足される水を見て、癒されるのを感じた。
トイレを出て、隣に設置された洗面所の前に立つと蒼太は顔を洗った。吐き気が治まっても口の中に広がる酸味が気に入らず、口を二、三度濯いた。水を吐き出すといくらか口の中がすっきりした気がする。三度目に口に含んだ水を洗面所に吐いたところで、やっと酸味が消え、同時に空っぽになった胃が空腹を訴えて鳴っていた。食欲はまともに機能しているらしい。
――随分と酷い目に遭った。
蒼太は頭をぼりぼりと掻き、向かいの小さなキッチンの前に立った。
シンク横の小さな冷蔵庫を開け、卵を二つ取り出し、二つしかないコンロの片方にフライパンを置いて火を点けた。嘔吐した後すぐに朝食の準備に取り掛かっている自分に違和感を感じなくなったのはいつだろうか。朝に悪い夢を見て吐く癖はかれこれ数か月続いている為、彼にとっては「吐いた後空になった胃に適当な食事を詰め込む」ところまでが日常であり、そんな日常を望んだ覚えは決してないのだが、夢を選ぶことはどうやってもできないので、不条理ながら彼はこの一連の行動を「日常」と認めざるを得なかった。
小麦色になるまで焼いた二枚のトーストの上に焼き立ての目玉焼きを乗せ、昨夜余らせたレタスと薄くスライスしたトマトを皿に盛り付ける。缶詰のシーチキンの蓋を開けると盛りつけられたサラダの中央に落とした。
二枚の皿を両手に自室に戻ると、中央のアクリル性のテーブルに置いて、息を吐き出しながら蒼太もテーブル前に胡坐をかいた。
ベッド横で電源を入れていたポットからは湯気が出ている。蒼太はコーヒーを淹れ、正面に置かれたテレビの電源を入れると、有り合わせで作られた料理達の前で両手を合わせてからトーストに齧り付いた。
【――ごめんなさい、本日の最下位は乙女座の貴方、この不幸を吹き飛ばす為に、パフェを食べるといいかも!】
「ふうん……。最下位、ね」
丁度点いたチャンネルのニュース番組の中で、化粧の乗りきっていない眠たそうな顔で精一杯笑顔を作るキャスターがカメラの前で手を振っている。彼は占いの内容に顔を顰めトーストを一口齧る。朝から嘔吐に見舞われその上占いは最下位。すこぶる悪い日になりそうだ、と彼は薄切りのトマトを一口で飲みこむ。
占いに気分を悪くしてチャンネルを変えると、男性キャスターが神妙な面持ちで、画面の端から手渡された紙面に目を通していた。どうやら速報のようだ。
【たった今入りましたニュースですが、本日五時頃、○○市の山にて遺体が発見されたとの情報が入りました。発見された遺体は各部位に分けられ、それぞれ山に散って――】
随分な殺し方をするものだと、蒼太は二枚目のトーストを齧りながら思った。何故見つかるような場所に棄てるのだろう。もっと何かうまい棄て方があるはずだ。こんなニュースを見るたびにそう思うのだが、きっとそんな事件が起きたとしてもまず遺体が見つからないのだから、このように大々的にニュースが行われることはないだろうし、なにより彼らが欲しがるのは美味しくて、インパクトのある事件だ。
そんなことをぼんやり考えた後、ふと枕元の携帯に視線を向けた。多分、あと三十秒もすればきっと……。
「――三、二、一」
――ジャスト三十秒。彼が数字を数え終わると同時に携帯のディスプレイが明滅を始め、ミューズのスターライトが部屋中に響き渡る。着信に対して反応が鈍いので目一杯の音量にしているが、こうしてちゃんと起きているとやはり少し耳障りだと蒼太は顔をしかめる。しかし音量を下げてしまうと着信に気づかず、結果唯一連絡をとっていると言ってもいい人物の期限を損ねてしまいかねない。
蒼太は暫くディスプレイの名前を覗き、やがて覚悟を決めると応答のボタンを押すと耳に当てた。
「おはよう蒼太君、さっきのニュースは見た?」
スピーカーごしに聞こえる女性にしては少し低めの声は、朝から元気でくっきりとしていた。性別を知らない人がこの声を聞いたら、半分くらいの人間は性別を勘違いするのではないだろうか。
「このタイミングだ。多分君の見ていた番組と僕の見ていた番組はほぼ同じだろうね」
「あら、じゃあ私と貴方はあの速報見てたのね。なら説明する必要はなさそうね」
「ああ、だができたら、この話は学校でするってことにできないかな。丁度朝食をとっているところでね」
「奇遇ね、私も丁度父と母と弟と、四人で仲良く朝食よ」
電話の主は嬉々としてそう語る。対して蒼太は非常に面倒くさそうに眼を細めると、発信停止ボタンを押して電話を切った。このまま続けていても行きつく先は同じだ。会話の内容も同じだろう。ならば学校で会った時に聞く方が幾分かマシだ。
通話を切った相手の名前を眺めて、蒼太はもう一度深くため息をついた。
――篠森紫乃。
黒いキャミソールチュニックが歩く毎に揺れ、真っ赤なミュールの踵が鳴った。チュニックから覗かせる肌はその真っ黒い服装によって更に白く見え、まるで紡ぎたての絹のようだった。くっきりと浮き出た鎖骨が歩く毎に髪の間から顔を覗かせ、時折見える首元がすれ違う男性の心をくすぐった。
紫乃とすれ違った男性はほとんどが振り返り、彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めてしまう。例え人込みのなかでもそれは変わらない。彼女の姿勢良く歩く姿、歩く毎に揺れる長い黒髪と白い肌、穏やかでいつも潤んだ水っぽい瞳、紅いのルージュの引かれた口元、そのどれもがまるで一枚の絵のようにぴったりとはまっているのだ。
だが、振り向いたとして声をかける男性は一人としていない。いかに整った容姿をしていて、男性の下心を掴むには十分すぎるほどの身体をしていたとしても、それらを台無しにしてしまうほどのものが彼女にはあった。
紫乃は食堂の入口前で立ち止まると髪を一度かき上げ、それから壁に身を預ける蒼太の姿を見つけると、口元に笑みを浮かべ小さく手を振った。蒼太は彼女の姿を見て手を振り返した後、憂鬱そうに身体を起こし、ふらふらとやってきた彼女の顔を見る。
「今朝ぶりかしら」
「今朝ぶりだね」
紫乃の言葉をそのまま繰り返すようにして答えると、彼女はにこりと笑ってそれから蒼太の手を取り、それから食堂へと連れられて行く。蒼太はもう周囲の視線を気にすることはやめていた。というよりも気にしたとして彼女との関係が変わることは決してない。むしろ何も考えずに「どこか影のある女性に気に入られ振り回される男」として見られてしまった方が、彼女に対する話題に律儀に応答し、心身共に疲れ果てるよりかはましだと思ったのだ。
食堂は随分と混み合っていて、キッチンで額に汗を浮かべながら調理を行う中年男性と、次々とやってくる食券に狼狽している女性店員の姿が遠くからでも良く見えた。席は大半が埋まっている。あえて昼休憩の終了前後の時間を狙ったのだが、どの生徒も蒼太と考えは同じようだった。昼よりも次の授業の時間帯を食事にする方が、落ち着いて食事を採ることができる。
二人はそのまま食堂の最奥に置かれたテーブルに腰かける。奥の方に手が回っていないのか、零れた麺やカレールーがテーブルにこびり付いて随分と不衛生に見えた。見かねた蒼太は傍の給水機でコップ二つに水を入れ、ついでに濡れた布巾をカウンターでもらって戻ると自らテーブルを拭った。
「今日電話した時、貴方電話が鳴るって気づいてたでしょ?」
やっと落ち着けたと思ったところで、突然紫乃はそう呟くと目を細める。しかし口元は笑みの籠ったものであるから、どうやら不愉快とかマイナス的思考からの問いかけではないらしい。蒼太はそう察すると正直に頷く。やっぱり、と彼女は喜ぶと頬づえをついて蒼太をじっと見た。
「もう随分と付き合いも長くなってきたから、私の行動も大分読めてきたと思うの」
「随分と言ったってまだ五カ月かそこらだし、はっきりと分かるわけじゃない。ただなんとなく、電話がくると思ったらかかってきただけ。それだけのことだよ」
「別にいいの。少なくとも、蒼太君の中に私が少しでもいるってことが嬉しかっただけだから」
そう言うと彼女は立ち上がり、給水機横の券売機へと行ってしまった。一人残された蒼太は暫く黒いチュニックが揺れるのを眺め、やがて席を立つと券売機へと向かった。
「それで、朝のニュースだけど」
「死体がバラバラだった事件だね。最近は連続した失踪事件も起きてるし、少し世間が慌ただしいね。それで、そのニュースがどうしたの?」
「犯人は、目立ちたかったのかしらね」
ミートソースのスパゲティにカレーライス、それぞれオーダーした料理と共に席に戻ると、紫乃はそう言って顎に人差し指をあてる。彼女と指をそれぞれ見てからそっぽを向いてさあ、と適当に返事を返し、蒼太はカレーをスプーンで掬う。
「遺体の処理なんて、もっと効率のいい隠し方が絶対にあると思うの。だって失踪者って年に十万近くいるって言われてるのよ。その中に確実に殺害されて、巧妙に隠されて二度と誰の目にも届かないよう処理された人だっている筈よね。蒼太君が言っていたけど以前、行方不明者が次々と出た事件、覚えてるかしら」
「半年前だったっけ、確か週に一人のペースで失踪者が出ていたね。男が四人と女性が三人ランダムに。遺体はおろか向かう先も分らない。おまけにその行方不明者は決まって一人でどこかへ出かけるし、あえて人を撒こうとしてるみたいで居場所もつかめないままだったとか」
「それがすべて他殺だったとしたら、とても素敵だと思わない?」
素敵、とは一体何を指すのだろうか。そう思うと蒼太は紫乃の言葉に頷くことはできなかった。しかし効率のいい隠し方に関しては蒼太も同感だった。早朝のニュースを見て多分同じことを考えていたのだろう。蒼太の目から同意の言葉を感じ取った紫乃は、瞬きを二度して、それから続ける。
「それに、死に対して興味がなさすぎるのよ。怨恨であったり咄嗟の気分であったり」
「興味って、例えば?」
「愛、とか。愛ゆえに命すら欲しくなってしまう」
彼女の言葉を聞いていると頭が痛くなってくる。蒼太はカレーを手早く片付けるとコップに半分ほど残っていた水を飲み干した。
いつものことだ。彼女は「愛のある死は美しい」と力説し、それから本題に入る。少なくとも目の前のカレーに手をつけにくくなるような内容が、この先に待っているのだ。この五か月間、蒼太が紫乃と行動を共にして理解したことだった。
「それで、何か素敵な死に方でも見つけてきたの?」
蒼太は最早日常的となった一言を彼女に問いかけた。
彼女の水気の多い瞳が、目の前の蒼太を映し、紅色のルージュが光に照らされ、妖しく揺れる。
「食べてもらって一つになるって、とても素敵なことだと思わない?」
先に食事を済ませておいて良かったと、蒼太は心底思った。
彼女はやっとスパゲティに口をつけ始める。ミートソースをかき混ぜパスタによく絡ませると、器用にスプーンとフォークで巻き取り、啜る音を出さずパスタを口にして咀嚼する。蒼太は少しでも気分を変えたくて再びカウンターに向かうと、レジ横のクーラボックスから炭酸飲料を取り出し小銭を女性店員に支払うと、キャップを開けてぐいと煽った。
甘ったるい味と目の覚めるような炭酸の刺激を受けて、いくらか気分が良くなった気がしたが、それでもまだ彼女の話が全て終わっていないことを思うと、蒼太の気は晴れそうになかった。
二
蒼太の利用する白鷺町の隣に、黒鵜という町があった。
昼間だというのにシャッターの降りた店ばかりが並んだ町だ。夜になってもこの風景が変わることはない。まるでこの町だけ時間が止まっているかのようなのだ。ゆっくりと死んでいくというのは、こういうことなのかもしれない。初めてこの街に降り立った時、蒼太はそう思った。
電車の扉が開く。蒼太、続いて紫乃が降りたが、他にこの駅で降りる者はいなかった。乗車していた数人から物珍しそうな目で見られたが、そういう場所なのだと蒼太は別段気にすることなく出発した電車を見送った。電車の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、二人は改札を出た。
講義を終えてからやってきたので陽はもう半分ほど隠れており、橙色が町中を照らしている。真横から差し込む陽でビルに影が生まれ、周囲を暗く隠す。人気の少ないことも併せてその影は一層奇妙で陰鬱な空気を周囲にまき散らす。
紫乃は重く冷たい空気の中に足を踏み入れると、振り返って笑った。蒼太は何も言わず歩き出すと、彼女の横に並ぶ。
「素敵なお店を見つけたの。とても美味しいコーヒーと料理を出してくれる個人経営の店なんだけど、蒼太君、お腹は空いているかしら?」
彼は頷く。それは良かったと紫乃は笑った。
こんなシャッター街で店を開くなんて変わった店主もいるものだと、蒼太は周囲を眺めながら思った。それなりに働いている人間も住んでいる人間もいるが、ここで落ち着こうなんてそう思いはしないし、何より少し歩けば隣に白鷺町もあるのだから、特にここに留まっている必要はない。仕事終わりにわざわざ白鷺町にやってくる会社員もいるくらいなのだから。
「それで、昼に君の言っていた話とその店はどうリンクするのかな」
「ええ、そうね、その話もしないといけないわね」
紫乃は体を捻ると隣を歩く蒼太の腕に抱きつき、そっと微笑んだ。夕暮れに照らされた笑顔が、片方に影を落とす。蒼太は知っていた。今、彼女は酷く喜んでいる。
紫乃はつま先立ちになると体を蒼太に預け、そのまま彼と唇を合わせた。決してキスではないと蒼太は理解している。この間に愛情は何もない。ただこうすることで貴方は私のものだと言っているのだ。
誰もいない寂れた町の真ん中で、二人は暫くそのままでいた。それ以上のことは何もしない。抱きつくことも、舌を入れることも。ただ蒼太は彼女の体を支え、彼女は彼の腕に手を回し、目を閉じたまま唇を重ね続ける。
唇が離れた。
紫乃は蒼太から離れて、それからもう一度微笑む。丁度顔の片方に影が差す位置で、普段とても美しいその顔が酷く不気味に見えたのは、しかし気のせいではないのだろう。紫乃はポーチに手を入れ白いハンカチを取り出すと、蒼太の唇を拭う。彼の唇から紅色が落ちて、代わりにハンカチが唇の形に紅く染まった。
「視えたんだね」
蒼太ははっきりとした口調で言った。拳を握りしめ、語気を強めて、まるでその言葉を口にすることを嫌う様に、憐れむ様に、淡い水色をした声だった。紫乃は弾むように頷いた。一緒に揺れた黒髪がばさりと縦に揺れ、彼女の背中に再び降りる。
「そう、視えたの。【素敵な人】が」
二人の前に出てきたステーキはとても分厚くて、プレートから飛び出してしまいそうなほどだった。申し訳程度に飾られたコーンとブロッコリーが隅で窮屈そうに身をよじり、中央のそれを恨めしそうに見つめているようだった。蒼太は目の前でじゅうじゅうと肉の焼ける音を堪能し、それからナイフを突き入れてみる。彼が想像していた以上に、肉は柔らかく、するりと切り落とすことができた。こんがりと焼き目のついた外観とは違って、ほとんど生に近い真っ赤な肉が切れ目から顔をのぞかせる。思わず向かいに座る紫乃を見るが、彼女は彼の驚きに対してさほど興味を示していないようで、さっさと肉を等分切ると口に運んでいた。
肉汁がプレートの上で踊る。
切り落とされた肉が焼けていく。
ごくりと喉を鳴らした後、蒼太はまるで薄いガラスでも手にしているみたいに丁重にその肉を口に入れ、ゆっくりと噛み締める。じわりと口内に広がる旨みと柔らかと食感に思わず声が出そうになった。
「お兄さん、旨そうに食べるじゃないか」
「黒鵜町でこんな美味しいものを食べられるなんて思わなかったから、驚きました」
「紫乃ちゃんが連れて来た子が、美味しく食べてくれる子で良かったよ」
カウンターから店主はそう言うとにっこりと笑みを浮かべた。
茶色い短髪に、黒井シャツとジーパン、その上から白いエプロンを着た男性だった。白いエプロンは所々にくすんだ赤や油が滲んでいて、見たところ洗った様子もない。店内を見てみるが、やはりこの土地柄か客に恵まれている様子もないため、洗う暇がないわけでもなさそうである。随分と衛生が悪いようだが、腕前は一人前で、注文まで居心地の悪さを感じていた蒼太も店主の身なりに何も言わなくなっていた。
「この店はいつから?」
肉を切り分けながら蒼太は問いかけ、切り分けた肉を口にした。とろりと口の中でとろけていく肉の旨みが口の中に広がっていく。
店主は腕を組み暫く考え、それから部屋の隅にかかったカレンダーに目をやった。
「本当につい最近なんだ。二、三か月くらいかな。以前はもっと遠くでやっていたんだけど、気がついたら常連さん、すっかりいなくなっちゃったし、飽きられちゃったんだろうね。だから場所を変えてみようと思いきってこっちに来てみたんだ」
「やけに思い切りましたね」
「お客さんの評判はそれなりにもらえてたから、場所を変えればきっとまた常連客も増えるんじゃないかってね」
コーヒーを持ってこよう。にこやかにそう答えると店主はカウンターの奥へと消えて行った。その背中を見送った後、蒼太は切り分けた肉を平らげ、幸せそうに息を吐き出した。
「いやあ旨かった。値段もそれなりだし、余裕がある時に寄りたいね」
「でも、常連にはならないでね」
蒼太の随分前に食事を終え、口元を拭ってから一言も言葉を口にしないままでいた紫乃が、やっと口を開いた。
「紹介したのに常連にはなるなって……。君はよく来るんだろう?」
「ええ、常連よ。いつも窓際の席に座って、特別にサイズの小さなステーキを焼いてもらって、それからコーヒーを飲みながら本を読んでいるわ」
彼女は窓際の隅を指差す。窓際に二人用のテーブルが設置され、紅色のクロスがかかっている。
「私用に用意してくれたそうよ。いつも使ってくれるからって」
「随分と気に入られているようだね」
その言葉を聞いて、彼女はふふ、と声を洩らして笑う。
「ねえ蒼太君、気に入るって、どういうことだと思う?」
問いかけられて、蒼太は少し視線を宙に浮かせた後、口元をナプキンで拭ってから言う。
「相性の良い人、とか」
「ようするに好意を持てる相手ってことよね」
「君は、店主に好意を持たれていると」
彼女は頷いた。
「まだ開きたての店に偶然女性が入り、そして常連になった。声をかければ笑顔で返事を返してくれるし、くだらないことで談笑もできる。客が来なくても寂しさは紛れるし、おまけに美味しいと言って自分の料理を食べてもらえる。もっと人の来る素敵なお店になるといいですねと言って、次の日に友人を連れてこの店にやってきた。これだけのことをして、気になるかそれ以上にならない男性はいるのかしら」
彼女はそう言うと、黒のチュニックの胸元を指でゆっくりと下していく。鎖骨を降りて、それほど大きくはない膨らみが姿を現わす。その途中で蒼太は彼女の手を掴んで、それからひどく哀しそうな目で彼女を見つめた。
その目を、待っていたとばかりに目を細めて眺めた後、今度はうっとりとした恍惚の表情を浮かべ、彼の指を一つ、また一つと丁寧に剥がした。その手を紫乃は握り返し、自らの太腿にその手を置く。
「肉を食べている時、貴方はどんな気持ちだった?」
「とても美味しかったし、幸せだったね」
「―食べられた方―もきっと自分を味わってくれたことに幸福を感じてるわ」
紫乃はそう言うと自らのプレートに置かれたフォークを手にし、先をぺろりと舐める。その時、ふと彼女がここに来る前に言っていた言葉を思い出し、蒼太ははっとした。
「安心して、貴方が食べたのも、私が食べたのも普通のお肉よ。店主さんが【愛情を込めて】調理してくれたお肉」
「ならどうして突然、そんな話を?」
「さあ、でもそう思うととても面白いじゃない。ねえ、少なくとも私が―そういうことに鋭い―ことと―遭遇しやすいこと―を貴方は知っているでしょう」
水っぽい潤んだ瞳で蒼太を見つめ、彼女はそう言った。喜びに満ちた瞳は、このまま雫になって眼球から流れ落ちてしまいそうなほど光を受けて輝いている。そんな非現実的な想いを蒼太は抱いた。
「ああ、知っている。君はそういうことに巻き込まれやすいし、巻き込まれる可能性の高い場所を―見つけること―ができる」
蒼太の言葉に紫乃は頷くと、彼の手で自身の腹部に触れる。
日常的とは言えない状況、つまりは非日常的な出来事、人物に遭遇しやすい。
それが彼女の妙な体質であり、特性でもあった。死の匂いがする場所に対して特に鼻が利き、そういった場所を見つける度に彼女は蒼太を連れて現場に向かった。
非日常的な状況で「迷いたがる癖」が、彼女にはあった。
蒼太はそれを理解し、そして何度も非日常へ同行していた。
しかし彼女は連れて行くだけで全てを語ろうとはしない。蒼太は彼女が嬉しそうに非日常に遭遇し、「運悪く」被害を被ることを待ち侘びる間に、その状況に杭を打ってしまわなくてはならない。彼女が非日常に迷い込みながら今もこうして生きながらえているのは、一重に彼の尽力の賜物でもあるのだった。
「待たせてすまない。折角来てくれたことだし、材料にも期限があるからね、サービスだ。是非食べてほしい」
店主は奥から戻ってくると、果物やチョコレート、アイスクリームの乗ったパフェを二つ、プレートに乗せて器用にバランスをとりながらカウンター前までやってきた。それから二人の前に置くと、気を抜いてしまったのか、パフェが一瞬傾いてしまい紫乃の指にチョコレートがかかってしまった。
「ああすまない。すぐ拭くものを用意しよう」
「大丈夫、気にしないでください」
紫乃はチョコレートのかかった人差し指を咥えると、丁寧にチョコレートを舐めとる。それからゆっくりとした動作で口から指を抜いた。湿り気を帯び、唾液でぬらりと光る指先を見せながら、蒼太に向けて目を細めて微笑む。今にも滑り落ちてしまいそうに潤んだ瞳が、蒼太の顔を映して揺れていた。
「舐めるだけじゃいけない。ほら、おしぼりを使うと良い」
店主は彼女にそう言って蒸かしたてのおしぼりを渡した。暖かい、と小さな声で零す彼女を、蒼太はまた先ほどのような酷く哀しそうな目をして見つめた後、視線を逸らすと目の前に置かれたパフェを手にした。
スプーンでアイスを掬って口に入れると、ひんやりと刺すように冷えたアイスの感触と甘味を口一杯に感じながら、彼は目を閉じた。
パフェを食べ終えて、最後に出てきた熱いブラックコーヒーを飲みながら二人はすっかりリラックスして寛いでいた。紫乃は窓際の席に座って文庫本を読んでいる。蒼太はそんな彼女の穏やかな横顔を見ながら、本を読んでいる時だけは大人しく、そしてとても美しく見えるのに、と彼女には聞こえないように呟いた。
「満足してくれたかな」
片手にコーヒーを持って店主が現れた。両手が湿っているところを見ると、どうやら奥で後片付けをしていたようだ。窓の外はすっかり陽が落ちて暗くなっている。黒鵜町は人通りが極端に少ないからか暗くなると街灯の明かりでさえ寂しく見えた。誰も下を通らず、ただ地面だけを照らす街灯は果たして、自身の役目に何か疑問を持ち始めてはいないだろうか。蒼太はくだらないことを考え、お代わりしたコーヒーを飲み干す。
そろそろ帰路に就かないと遅い帰宅になってしまう。蒼太は一人暮らしであるから特に時間に対する制約はないが、紫乃の方は違う。特に以前起きた問題によって、すっかり両親が彼女に対して神経質になっている。それはある程度顔の知れている蒼太と行動していても例外ではないようで、先ほどもどこにいるのかと彼宛てに連絡が入ったばかりだった。不安の色を浮かべた声をなんとか宥め、電話を切った後、蒼太はどっと沸いた疲労に思わず息を吐き出してしまった。
「とても美味しかったです。これだけ素晴らしい味にできるってことは、料理の研究も沢山しているのでしょうね」
そろそろ帰宅の準備をしようと立ち上がって、ふと蒼太はそんな話題を振ってみた。店主はしばらくじっと蒼太を見つめ、首を振った。口元には笑みが浮かんでいるところを見ると、単なる照れから生じる形だけの否定のようだ。
「食べるっていう行為はとても素晴らしいことだ。美味しければ笑うし、満足しても笑える。不味かった時以外は確実に笑ってもらえる行為だ。それに食材だって元は生きている。料理が不味かったら客にも失礼だし、食材にも失礼だ。だからこそ私は全てが幸福になるような料理を作りたいと、そう思って調理に励んでいるよ」
「食事を愛しているんですね」
「ああ、料理を愛して、食材を愛して、全てに愛情を注ぐことを信念にしている」
「素晴らしいと思います」
彼の熱意を聞いて、蒼太は席を立った。蒼太が動いたのを見て紫乃も手にしていた本に栞を挟み、鞄に差し込む。
黒鵜駅の改札に到着した時、時刻は既に七時を回っていた。実家暮らしの彼女が無事家に到着するのは多分九時頃。門限ギリギリになると考えると、少し長居し過ぎたかもしれない。蒼太は携帯で時刻を確認し、閉じた後、改札を通り抜ける彼女の背中に声をかける。
「門限、間に合いそうかな」
改札を挟んだ向こう側の彼女は振り返ると無表情のまま彼のことを見つめる。
「大丈夫、さっきから何度も携帯が鳴っているし、黒鵜駅にいることと、電車に乗ることを伝えれば向こうも安心すると思うわ」
「それは良かった。悪いけど、少し用があってね。今日は一人で帰宅してもらってもいいかな」
紫乃は頷いた。彼女は口を閉ざして蒼太を暫く見つめた後、そっと手を振った。こっそり彼女の母親に居場所を連絡した件は秘密にしておこう。蒼太は口に出さず呟くと、手を振り返す。
「ばいばい」
「ああ、ばいばい」
再び電車へと向かおうとした紫乃が、ふと思い出したかのように足を止め、振り返ると彼に向けて微笑みかけた。その表情がどんな時よりも柔らかで、暖かく見えたのは、多分気のせいではないだろう。蒼太はなんとなくそう思った。紫乃は暫くもったいぶるように笑みを振りまいた後、下りの電車がやってきた音がすると、一度そちらを見てから柔らかな口調でこう言った。
「もし―愛してもらえる時―が来たら、蒼太君も愛してもらえるようお願いするね」
それから、彼女は下りのプラットフォームへと駆けて行ってしまった。蒼太は後姿に手を振りながら、暫く何も言えないでいた、十人かそこらのよれたスーツを着た男女が改札にやってくると、皆手を挙げて立つ蒼太の姿を見つめ、しかし疲労に塗れた視線はすぐに地面へとスライドすると、横を通り過ぎるようにしてビル街とは逆の住宅街へと消えて行ってしまった。
最後のあの笑みは多分心の底から出た笑みだ。彼女が変わってしまうまでに見ることのできた、壊れてしまう前の彼女に、久々に会えた気がした。
色のついていない真っ白いキャンバスみたいだと蒼太は思った。ついこの間までは真っ赤に染まっていたのに、今はすっかり色が抜け落ちてしまっている。彼女が見せた真っ白い笑顔は、真っ赤な時よりも弱々しいが、それでも幸福であることを主張していた。
このキャンバスに青色を塗ることはできないと、蒼太は分かっていた。
さて、と蒼太は振り返ると暗闇に包まれ表情を変えた黒鵜町を見据える。路上を辛うじて照らす街灯が、灯りの消えたビルのガラスに映っている。時折走り抜けていく車のヘッドライトとテールランプが現実と虚無の街灯達に色を足していく。それはどこかパレードじみたものであるようにも感じられた。これから始まることは、そんなパレードなんてものが似合うものではない。蒼太は目を細め、先ほど歩いてきた道を見据える。
――出る杭は打たなければならない。
彼が行動理念として掲げることにした、しかし愛する彼女に背く行為。全ては彼女を生かすためだ。
再び店の前に到着すると、丁度店主がシャッターを閉めようとしていたところだった。先ほどと変わらない薄汚れたエプロンを身に付けシャッターを下ろす姿は、とてもではないが、料理をしている人間のようには見えなかった。せいぜいアルバイトか清掃員といったところだろう。
「おや、先ほどの、紫乃ちゃんのお友達じゃないか」
どうも、と簡潔に返事を返して、彼はゆっくりと彼に近づく。
「悪いけどもう閉店なんだ。また明日にでも来てくれれば、話相手にもなるし、料理も出すよ」
「いえ、一つ、伺いたいことがあって来ました」
「なんだい?」
「ある肉のある部分は、オーブンで焼くととてもとろけて美味しいと聞いたことがあります。けれどその肉がなんであるか思い出せないんです」
それまでにこやかであった店主は訝り、顔をしかめた。蒼太は続ける。
「店主さんは肉に詳しいみたいですから、どんな肉なのかご存知ないかと思って……」
「そうだね、いやしかし、オーブンで焼くと、か。その情報だけじゃどの肉かうまく判断するのは難しいな。私より腕の良い料理人でも判断が難しいんじゃないだろうか」
「誰に聞いたのか、ですか」
「そうだね」店主の返答に、熱は感じられない。
「確か、ええと、そう、アルバートさんだ」
その言葉に、店主の目は大きく開かれた。彼の言いたいことが一体何であるのかをはっきりと確認できたようだ。店主はため息を一つつくと、閉じかけていたシャッターを上げる。
「話を聞かせてもらおう。君が何故そう思うのかも含めて、ね」
店の扉を開けると店主は彼を招く。蒼太は小さくお辞儀をした後、彼の横を通り抜けるようにして、店内に再び足を踏み入れた。鼓動が早くなっていくのを感じる。
鞄に忍ばせた小さなナイフを使わずに済むことを。これは杞憂であり、彼女の感知能力が外れることを、彼は強く願った。
蒼太の利用する白鷺町の隣に、黒鵜という町があった。
昼間だというのにシャッターの降りた店ばかりが並んだ町だ。夜になってもこの風景が変わることはない。まるでこの町だけ時間が止まっているかのようなのだ。ゆっくりと死んでいくというのは、こういうことなのかもしれない。初めてこの街に降り立った時、蒼太はそう思った。
電車の扉が開く。蒼太、続いて紫乃が降りたが、他にこの駅で降りる者はいなかった。乗車していた数人から物珍しそうな目で見られたが、そういう場所なのだと蒼太は別段気にすることなく出発した電車を見送った。電車の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、二人は改札を出た。
講義を終えてからやってきたので陽はもう半分ほど隠れており、橙色が町中を照らしている。真横から差し込む陽でビルに影が生まれ、周囲を暗く隠す。人気の少ないことも併せてその影は一層奇妙で陰鬱な空気を周囲にまき散らす。
紫乃は重く冷たい空気の中に足を踏み入れると、振り返って笑った。蒼太は何も言わず歩き出すと、彼女の横に並ぶ。
「素敵なお店を見つけたの。とても美味しいコーヒーと料理を出してくれる個人経営の店なんだけど、蒼太君、お腹は空いているかしら?」
彼は頷く。それは良かったと紫乃は笑った。
こんなシャッター街で店を開くなんて変わった店主もいるものだと、蒼太は周囲を眺めながら思った。それなりに働いている人間も住んでいる人間もいるが、ここで落ち着こうなんてそう思いはしないし、何より少し歩けば隣に白鷺町もあるのだから、特にここに留まっている必要はない。仕事終わりにわざわざ白鷺町にやってくる会社員もいるくらいなのだから。
「それで、昼に君の言っていた話とその店はどうリンクするのかな」
「ええ、そうね、その話もしないといけないわね」
紫乃は体を捻ると隣を歩く蒼太の腕に抱きつき、そっと微笑んだ。夕暮れに照らされた笑顔が、片方に影を落とす。蒼太は知っていた。今、彼女は酷く喜んでいる。
紫乃はつま先立ちになると体を蒼太に預け、そのまま彼と唇を合わせた。決してキスではないと蒼太は理解している。この間に愛情は何もない。ただこうすることで貴方は私のものだと言っているのだ。
誰もいない寂れた町の真ん中で、二人は暫くそのままでいた。それ以上のことは何もしない。抱きつくことも、舌を入れることも。ただ蒼太は彼女の体を支え、彼女は彼の腕に手を回し、目を閉じたまま唇を重ね続ける。
唇が離れた。
紫乃は蒼太から離れて、それからもう一度微笑む。丁度顔の片方に影が差す位置で、普段とても美しいその顔が酷く不気味に見えたのは、しかし気のせいではないのだろう。紫乃はポーチに手を入れ白いハンカチを取り出すと、蒼太の唇を拭う。彼の唇から紅色が落ちて、代わりにハンカチが唇の形に紅く染まった。
「視えたんだね」
蒼太ははっきりとした口調で言った。拳を握りしめ、語気を強めて、まるでその言葉を口にすることを嫌う様に、憐れむ様に、淡い水色をした声だった。紫乃は弾むように頷いた。一緒に揺れた黒髪がばさりと縦に揺れ、彼女の背中に再び降りる。
「そう、視えたの。【素敵な人】が」
二人の前に出てきたステーキはとても分厚くて、プレートから飛び出してしまいそうなほどだった。申し訳程度に飾られたコーンとブロッコリーが隅で窮屈そうに身をよじり、中央のそれを恨めしそうに見つめているようだった。蒼太は目の前でじゅうじゅうと肉の焼ける音を堪能し、それからナイフを突き入れてみる。彼が想像していた以上に、肉は柔らかく、するりと切り落とすことができた。こんがりと焼き目のついた外観とは違って、ほとんど生に近い真っ赤な肉が切れ目から顔をのぞかせる。思わず向かいに座る紫乃を見るが、彼女は彼の驚きに対してさほど興味を示していないようで、さっさと肉を等分切ると口に運んでいた。
肉汁がプレートの上で踊る。
切り落とされた肉が焼けていく。
ごくりと喉を鳴らした後、蒼太はまるで薄いガラスでも手にしているみたいに丁重にその肉を口に入れ、ゆっくりと噛み締める。じわりと口内に広がる旨みと柔らかと食感に思わず声が出そうになった。
「お兄さん、旨そうに食べるじゃないか」
「黒鵜町でこんな美味しいものを食べられるなんて思わなかったから、驚きました」
「紫乃ちゃんが連れて来た子が、美味しく食べてくれる子で良かったよ」
カウンターから店主はそう言うとにっこりと笑みを浮かべた。
茶色い短髪に、黒井シャツとジーパン、その上から白いエプロンを着た男性だった。白いエプロンは所々にくすんだ赤や油が滲んでいて、見たところ洗った様子もない。店内を見てみるが、やはりこの土地柄か客に恵まれている様子もないため、洗う暇がないわけでもなさそうである。随分と衛生が悪いようだが、腕前は一人前で、注文まで居心地の悪さを感じていた蒼太も店主の身なりに何も言わなくなっていた。
「この店はいつから?」
肉を切り分けながら蒼太は問いかけ、切り分けた肉を口にした。とろりと口の中でとろけていく肉の旨みが口の中に広がっていく。
店主は腕を組み暫く考え、それから部屋の隅にかかったカレンダーに目をやった。
「本当につい最近なんだ。二、三か月くらいかな。以前はもっと遠くでやっていたんだけど、気がついたら常連さん、すっかりいなくなっちゃったし、飽きられちゃったんだろうね。だから場所を変えてみようと思いきってこっちに来てみたんだ」
「やけに思い切りましたね」
「お客さんの評判はそれなりにもらえてたから、場所を変えればきっとまた常連客も増えるんじゃないかってね」
コーヒーを持ってこよう。にこやかにそう答えると店主はカウンターの奥へと消えて行った。その背中を見送った後、蒼太は切り分けた肉を平らげ、幸せそうに息を吐き出した。
「いやあ旨かった。値段もそれなりだし、余裕がある時に寄りたいね」
「でも、常連にはならないでね」
蒼太の随分前に食事を終え、口元を拭ってから一言も言葉を口にしないままでいた紫乃が、やっと口を開いた。
「紹介したのに常連にはなるなって……。君はよく来るんだろう?」
「ええ、常連よ。いつも窓際の席に座って、特別にサイズの小さなステーキを焼いてもらって、それからコーヒーを飲みながら本を読んでいるわ」
彼女は窓際の隅を指差す。窓際に二人用のテーブルが設置され、紅色のクロスがかかっている。
「私用に用意してくれたそうよ。いつも使ってくれるからって」
「随分と気に入られているようだね」
その言葉を聞いて、彼女はふふ、と声を洩らして笑う。
「ねえ蒼太君、気に入るって、どういうことだと思う?」
問いかけられて、蒼太は少し視線を宙に浮かせた後、口元をナプキンで拭ってから言う。
「相性の良い人、とか」
「ようするに好意を持てる相手ってことよね」
「君は、店主に好意を持たれていると」
彼女は頷いた。
「まだ開きたての店に偶然女性が入り、そして常連になった。声をかければ笑顔で返事を返してくれるし、くだらないことで談笑もできる。客が来なくても寂しさは紛れるし、おまけに美味しいと言って自分の料理を食べてもらえる。もっと人の来る素敵なお店になるといいですねと言って、次の日に友人を連れてこの店にやってきた。これだけのことをして、気になるかそれ以上にならない男性はいるのかしら」
彼女はそう言うと、黒のチュニックの胸元を指でゆっくりと下していく。鎖骨を降りて、それほど大きくはない膨らみが姿を現わす。その途中で蒼太は彼女の手を掴んで、それからひどく哀しそうな目で彼女を見つめた。
その目を、待っていたとばかりに目を細めて眺めた後、今度はうっとりとした恍惚の表情を浮かべ、彼の指を一つ、また一つと丁寧に剥がした。その手を紫乃は握り返し、自らの太腿にその手を置く。
「肉を食べている時、貴方はどんな気持ちだった?」
「とても美味しかったし、幸せだったね」
「―食べられた方―もきっと自分を味わってくれたことに幸福を感じてるわ」
紫乃はそう言うと自らのプレートに置かれたフォークを手にし、先をぺろりと舐める。その時、ふと彼女がここに来る前に言っていた言葉を思い出し、蒼太ははっとした。
「安心して、貴方が食べたのも、私が食べたのも普通のお肉よ。店主さんが【愛情を込めて】調理してくれたお肉」
「ならどうして突然、そんな話を?」
「さあ、でもそう思うととても面白いじゃない。ねえ、少なくとも私が―そういうことに鋭い―ことと―遭遇しやすいこと―を貴方は知っているでしょう」
水っぽい潤んだ瞳で蒼太を見つめ、彼女はそう言った。喜びに満ちた瞳は、このまま雫になって眼球から流れ落ちてしまいそうなほど光を受けて輝いている。そんな非現実的な想いを蒼太は抱いた。
「ああ、知っている。君はそういうことに巻き込まれやすいし、巻き込まれる可能性の高い場所を―見つけること―ができる」
蒼太の言葉に紫乃は頷くと、彼の手で自身の腹部に触れる。
日常的とは言えない状況、つまりは非日常的な出来事、人物に遭遇しやすい。
それが彼女の妙な体質であり、特性でもあった。死の匂いがする場所に対して特に鼻が利き、そういった場所を見つける度に彼女は蒼太を連れて現場に向かった。
非日常的な状況で「迷いたがる癖」が、彼女にはあった。
蒼太はそれを理解し、そして何度も非日常へ同行していた。
しかし彼女は連れて行くだけで全てを語ろうとはしない。蒼太は彼女が嬉しそうに非日常に遭遇し、「運悪く」被害を被ることを待ち侘びる間に、その状況に杭を打ってしまわなくてはならない。彼女が非日常に迷い込みながら今もこうして生きながらえているのは、一重に彼の尽力の賜物でもあるのだった。
「待たせてすまない。折角来てくれたことだし、材料にも期限があるからね、サービスだ。是非食べてほしい」
店主は奥から戻ってくると、果物やチョコレート、アイスクリームの乗ったパフェを二つ、プレートに乗せて器用にバランスをとりながらカウンター前までやってきた。それから二人の前に置くと、気を抜いてしまったのか、パフェが一瞬傾いてしまい紫乃の指にチョコレートがかかってしまった。
「ああすまない。すぐ拭くものを用意しよう」
「大丈夫、気にしないでください」
紫乃はチョコレートのかかった人差し指を咥えると、丁寧にチョコレートを舐めとる。それからゆっくりとした動作で口から指を抜いた。湿り気を帯び、唾液でぬらりと光る指先を見せながら、蒼太に向けて目を細めて微笑む。今にも滑り落ちてしまいそうに潤んだ瞳が、蒼太の顔を映して揺れていた。
「舐めるだけじゃいけない。ほら、おしぼりを使うと良い」
店主は彼女にそう言って蒸かしたてのおしぼりを渡した。暖かい、と小さな声で零す彼女を、蒼太はまた先ほどのような酷く哀しそうな目をして見つめた後、視線を逸らすと目の前に置かれたパフェを手にした。
スプーンでアイスを掬って口に入れると、ひんやりと刺すように冷えたアイスの感触と甘味を口一杯に感じながら、彼は目を閉じた。
パフェを食べ終えて、最後に出てきた熱いブラックコーヒーを飲みながら二人はすっかりリラックスして寛いでいた。紫乃は窓際の席に座って文庫本を読んでいる。蒼太はそんな彼女の穏やかな横顔を見ながら、本を読んでいる時だけは大人しく、そしてとても美しく見えるのに、と彼女には聞こえないように呟いた。
「満足してくれたかな」
片手にコーヒーを持って店主が現れた。両手が湿っているところを見ると、どうやら奥で後片付けをしていたようだ。窓の外はすっかり陽が落ちて暗くなっている。黒鵜町は人通りが極端に少ないからか暗くなると街灯の明かりでさえ寂しく見えた。誰も下を通らず、ただ地面だけを照らす街灯は果たして、自身の役目に何か疑問を持ち始めてはいないだろうか。蒼太はくだらないことを考え、お代わりしたコーヒーを飲み干す。
そろそろ帰路に就かないと遅い帰宅になってしまう。蒼太は一人暮らしであるから特に時間に対する制約はないが、紫乃の方は違う。特に以前起きた問題によって、すっかり両親が彼女に対して神経質になっている。それはある程度顔の知れている蒼太と行動していても例外ではないようで、先ほどもどこにいるのかと彼宛てに連絡が入ったばかりだった。不安の色を浮かべた声をなんとか宥め、電話を切った後、蒼太はどっと沸いた疲労に思わず息を吐き出してしまった。
「とても美味しかったです。これだけ素晴らしい味にできるってことは、料理の研究も沢山しているのでしょうね」
そろそろ帰宅の準備をしようと立ち上がって、ふと蒼太はそんな話題を振ってみた。店主はしばらくじっと蒼太を見つめ、首を振った。口元には笑みが浮かんでいるところを見ると、単なる照れから生じる形だけの否定のようだ。
「食べるっていう行為はとても素晴らしいことだ。美味しければ笑うし、満足しても笑える。不味かった時以外は確実に笑ってもらえる行為だ。それに食材だって元は生きている。料理が不味かったら客にも失礼だし、食材にも失礼だ。だからこそ私は全てが幸福になるような料理を作りたいと、そう思って調理に励んでいるよ」
「食事を愛しているんですね」
「ああ、料理を愛して、食材を愛して、全てに愛情を注ぐことを信念にしている」
「素晴らしいと思います」
彼の熱意を聞いて、蒼太は席を立った。蒼太が動いたのを見て紫乃も手にしていた本に栞を挟み、鞄に差し込む。
黒鵜駅の改札に到着した時、時刻は既に七時を回っていた。実家暮らしの彼女が無事家に到着するのは多分九時頃。門限ギリギリになると考えると、少し長居し過ぎたかもしれない。蒼太は携帯で時刻を確認し、閉じた後、改札を通り抜ける彼女の背中に声をかける。
「門限、間に合いそうかな」
改札を挟んだ向こう側の彼女は振り返ると無表情のまま彼のことを見つめる。
「大丈夫、さっきから何度も携帯が鳴っているし、黒鵜駅にいることと、電車に乗ることを伝えれば向こうも安心すると思うわ」
「それは良かった。悪いけど、少し用があってね。今日は一人で帰宅してもらってもいいかな」
紫乃は頷いた。彼女は口を閉ざして蒼太を暫く見つめた後、そっと手を振った。こっそり彼女の母親に居場所を連絡した件は秘密にしておこう。蒼太は口に出さず呟くと、手を振り返す。
「ばいばい」
「ああ、ばいばい」
再び電車へと向かおうとした紫乃が、ふと思い出したかのように足を止め、振り返ると彼に向けて微笑みかけた。その表情がどんな時よりも柔らかで、暖かく見えたのは、多分気のせいではないだろう。蒼太はなんとなくそう思った。紫乃は暫くもったいぶるように笑みを振りまいた後、下りの電車がやってきた音がすると、一度そちらを見てから柔らかな口調でこう言った。
「もし―愛してもらえる時―が来たら、蒼太君も愛してもらえるようお願いするね」
それから、彼女は下りのプラットフォームへと駆けて行ってしまった。蒼太は後姿に手を振りながら、暫く何も言えないでいた、十人かそこらのよれたスーツを着た男女が改札にやってくると、皆手を挙げて立つ蒼太の姿を見つめ、しかし疲労に塗れた視線はすぐに地面へとスライドすると、横を通り過ぎるようにしてビル街とは逆の住宅街へと消えて行ってしまった。
最後のあの笑みは多分心の底から出た笑みだ。彼女が変わってしまうまでに見ることのできた、壊れてしまう前の彼女に、久々に会えた気がした。
色のついていない真っ白いキャンバスみたいだと蒼太は思った。ついこの間までは真っ赤に染まっていたのに、今はすっかり色が抜け落ちてしまっている。彼女が見せた真っ白い笑顔は、真っ赤な時よりも弱々しいが、それでも幸福であることを主張していた。
このキャンバスに青色を塗ることはできないと、蒼太は分かっていた。
さて、と蒼太は振り返ると暗闇に包まれ表情を変えた黒鵜町を見据える。路上を辛うじて照らす街灯が、灯りの消えたビルのガラスに映っている。時折走り抜けていく車のヘッドライトとテールランプが現実と虚無の街灯達に色を足していく。それはどこかパレードじみたものであるようにも感じられた。これから始まることは、そんなパレードなんてものが似合うものではない。蒼太は目を細め、先ほど歩いてきた道を見据える。
――出る杭は打たなければならない。
彼が行動理念として掲げることにした、しかし愛する彼女に背く行為。全ては彼女を生かすためだ。
再び店の前に到着すると、丁度店主がシャッターを閉めようとしていたところだった。先ほどと変わらない薄汚れたエプロンを身に付けシャッターを下ろす姿は、とてもではないが、料理をしている人間のようには見えなかった。せいぜいアルバイトか清掃員といったところだろう。
「おや、先ほどの、紫乃ちゃんのお友達じゃないか」
どうも、と簡潔に返事を返して、彼はゆっくりと彼に近づく。
「悪いけどもう閉店なんだ。また明日にでも来てくれれば、話相手にもなるし、料理も出すよ」
「いえ、一つ、伺いたいことがあって来ました」
「なんだい?」
「ある肉のある部分は、オーブンで焼くととてもとろけて美味しいと聞いたことがあります。けれどその肉がなんであるか思い出せないんです」
それまでにこやかであった店主は訝り、顔をしかめた。蒼太は続ける。
「店主さんは肉に詳しいみたいですから、どんな肉なのかご存知ないかと思って……」
「そうだね、いやしかし、オーブンで焼くと、か。その情報だけじゃどの肉かうまく判断するのは難しいな。私より腕の良い料理人でも判断が難しいんじゃないだろうか」
「誰に聞いたのか、ですか」
「そうだね」店主の返答に、熱は感じられない。
「確か、ええと、そう、アルバートさんだ」
その言葉に、店主の目は大きく開かれた。彼の言いたいことが一体何であるのかをはっきりと確認できたようだ。店主はため息を一つつくと、閉じかけていたシャッターを上げる。
「話を聞かせてもらおう。君が何故そう思うのかも含めて、ね」
店の扉を開けると店主は彼を招く。蒼太は小さくお辞儀をした後、彼の横を通り抜けるようにして、店内に再び足を踏み入れた。鼓動が早くなっていくのを感じる。
鞄に忍ばせた小さなナイフを使わずに済むことを。これは杞憂であり、彼女の感知能力が外れることを、彼は強く願った。
三
八時を回ると、外との対比でか蛍光灯がやけに明るく、部屋中が白色を孕んだように見えた。隅の紅色のクロスがかかったテーブルも、先ほど食事をしていたカウンターも、全てが眩く見える。先ほどまで頼りない街灯の下にいたというのもあるが、目に見えて店内の空気が変わったのを、蒼太は感じていた。
店主はカウンター前の丸椅子に腰かけ、エプロンのポケットからシガレットケースとジッポのライターを取り出し、一本口に咥えると火をつけ、煙を天井に向けて吐き出した。君もどうだい、とケースを差し出され、蒼太は何も言わずただ頷くと、一本手にして口に咥える。店主の傍に寄ると先端に火をつけ、それから煙を吸い込んだ。大分重いやつだ。煙を吐き出した後蒼太の視界が若干くらりと揺れた。
「さて、何から話そうか」
「貴方が本当に人を食べたかどうか」
「君が最も気になっている部分だと思うが、その前に何故私が人を食っているなんて馬鹿げた考えに至ったのかを聞かせてほしい」
煙を吐き出しながら店主は興味に満ちた目でこちらを見ていた。否定もしなければ肯定もしない。蒼太は暫く考える。紫乃の特異体質について言ったとしてそれは大した理由付けにはならないだろう。ならばどういった点を見て思ったのか。
―でっちあげる―必要がある。
「まず、常連が消えたって部分が気になったんです。僕が今日食べたステーキ定食も、コーヒも丁寧に作られていて美味しかった。それに貴方の接客だって物腰が柔らかくて受けも良い。値段もリーズナブルで、常連が突然消えるなんておかしい」
「それまで最悪の態度で常連が消えるほどのミスを犯した可能性は?」
「料理に対して聞いた時、貴方は目の前が客であることすら忘れてただ熱く語っていた。少なくとも料理を批判されて問題を起こしたりしたとして、あれほど料理に情熱を持っている姿を見れば少なくとも常連は「批判した側に非がある」と思うかもしれない。少なくとも常連が一斉に消えるなんてありえませんよ」
店主は何も言わず、煙草を咥えてふむ、とただ頷いた。
「そして、三か月前にここにやってきたと言ったけれど、その更に三か月、丁度半年前に他県で謎の失踪事件が起きている」
それなりに問題になった事件だったため、検索すればすぐに出てきた。携帯というものは随分と便利だと久々に思った。それまで時計代わりにしか思っていなかった為尚更だ。
「簡単に調べたのですが、そのうちの三名が最後にステーキハウスに出入りしていたことがあり、それを理由に聴取を受けている。更にマスコミに流れたことで暫くニュースでも取り上げられていたようですね。」
「ステーキハウスではなく喫茶店ではなかったかな。女性が三人もステーキハウス、紫乃ちゃんのような常連がそういるわけがないよ」
店主が笑って答え、それから固まった。
「僕は行方不明者のうち三人、と言ったつもりですが」
「……そうだね、三人と言っていたね」
「少なくとも、その喫茶店の常連は行方不明者のうち三名なわけですね」
店主は頷いた。
「なら多分、「食べられたのはその三人」だと、僕は思っています」
店主がじっと見つめるなか、蒼太は鞄からポケットにこっそりと移し替えたナイフの柄を握る。
「この事件、未だに遺体は発見されていない。定期的な頻度で失踪しているのにも関わらず、まるで一人一人が勝手に決まったスケジュールで蒸発していることから連続性のあるものとみられているけど、三件以外はすべて別だったらどうなるんだろう」
煙草の灰が床に落ちた。店主は特に気にする様子もなく、蒼太に携帯灰皿を渡す。
「模倣されたんじゃないかと思うんです」
煙草を携帯灰皿に叩き込むと僕は息を大きく吸った。でっちあげの解れた糸だらけの考察を、まだ彼は聞いてくれている。それも真剣にだ。
ありがたい、と蒼太は思った。これまで何度かでっちあげで犯人を決めつけたが、大体は襲われるか逃亡された。ここまで長く話を聞いてくれたのは彼が初めてだった。
「週に一度の失踪事件が起きた中で、誰かがこの流れに乗じてもうひとり失踪しても問題ないと考えた。狂気は伝染し、結果としてその後数人予期せぬ失踪者が現れた為に事件は大事になってしまった。結果、うち女性三人がよく通っていた店に関連性があると考えられ、捜査の足が運んでしまったのではないかと」
「なるほど、週一で起こる失踪で周囲が混乱し、関連性があるのかどうかもややこしくなったままその店主は聴取をかけられ、しかし証拠が全く出ないことで開放された。しかし聴取をかけられたことと、着実に人が失踪していく恐怖、常連が消えた事実から客足も冷め、商売のしようがなくなったことで彼は店を閉じてしまったと」
「証拠が出なかった理由は、もう消化されてしまったからだと」
「どこかに埋めたとは思わないの?」
「貴方は食材、特に肉に対して強い愛情を持っている。食べることができるのに、それを捨てようなんて考えないと思ったんです」
話し終えた蒼太を、店主はじっと見つめている。どっと空気が重くなった気がして、蒼太は彼とじっと目を合わせたままポケットの折りたたみ式のナイフに触れた。
ごくり、生唾を飲み込む。
店主は、声を上げて笑った。すっかり短くなった煙草をアルミ製の灰皿に押し付けると、身を仰け反らせて手を叩く。
「いやあ面白い、穴だらけだが、よく繋げたね。でっちあげて形にした君の想像力、楽しませてもらったよ」
それから彼は二本目の煙草に火をつけ、旨そうに煙を吐き出した後、顔色一つ変えずに蒼太を見て言った。
「ああ、食ったよ」
まるで日常的な出来事のように言うものだから、蒼太は少しの間その言葉が理解できず、暫く店主の顔を見つめてしまった。特に狂気を孕んだ目でもなければ、やつれてもいない。罪悪に苛まれた人間の目でもない。本当に日常をただたんたんと過ごし、やりがいのある仕事を続けている男の人間味のある温かな瞳だ。
「人を?」
改めて蒼太は問いかける。
「ああ、人を」
まさかこんなことを打ち明けることになるとは思わなかったと、店主は茶色の短髪を掻いた。しかしその顔はどこか嬉しそうだった。
「物心付いた時から、肉に対して異常な執着があった。豚肉、鶏肉、牛肉、羊、食用でありながらどれも歯ごたえから臭い、味と全て違う。子供の頃から肉料理の素晴らしさにすっかりとりつかれて、気がついたら調理師免許を取得して料理の研究に没頭してたよ。どう調理すれば最も美味しくなるのか、焼き加減は? 切り落とす時の角度は? 肉料理がどこまで極上のものにできるかをね」
「そんな中で、人肉に出会った理由は?」
「特に理由は無かったよ。店を開いて、ある程度の常連ができた辺りで、一人の女性に好意を抱かれた。それまで異性に好意を抱かれたことも、抱いたこともなかったからすっかり舞い上がったよ。ただ肉のことしか考えていなかった自分でも、他人を愛せるものなのだとね」
二本目の煙草が終わろうとしていた。店主は物惜しそうに短くなった煙草を見つめ、灰皿に押し付けて消した。
「でも違った。彼女を始めて抱いた時、快楽に身を委ねながら、ふと思ってしまった」
「この肉を調理したら、どんなに美味しいのか、と?」
店主は頷いた。
「太腿、臀部、乳、頬、とね。腹に手をやりながら内臓はどうしたら旨いかと考えてしまった時は、思わず笑ってしまったね」
自らの腹部に手をやって、それから何度か摩る。
「でも愛していた。始めて好意を抱けた相手だったから。だが一緒にいても、抱いてもどこかぽっかりと穴が空いてしまっていて、何をしても埋まらない。もっと彼女に対して求めている欲望がある」
「それが、食欲だったと」
店主は頷いた。
「ああ、私は彼女を食べたくて仕方なくなっていたよ。愛する女性を肉としか認識できなくなってしまっていた。そのうち抱くこともうまくできなくなってしまった。けど愛し続けたかった。ずっと愛し合いたくて、その為には、こうするしかないと答えが出てしまった」
腹をさする店主の顔は、非常に穏やかで、後悔の色はまるでないようだった。
「肉切り包丁を掲げた時、彼女、笑ったんだ。貴方の中で生きられるんでしょう? ならそれでいいって。涙も流さず、命乞いもせず、ただ目を閉じて微笑んだ」
店主は目を閉じ、その時の光景をフィードバックする。
切断した頭部を両手で大事に抱え、眠ったように穏やかに目を閉じ絶命した彼女の唇に、そっとキスをする。血の気の失せていく途中の唇はまだ暖かかった。生暖かい血液に染まっていくエプロンを眺め、それから頭部を失った女の肉を見て、下腹部が堅くなったこと、気づけば射精をしていたこと。全てが鮮明に彼の中で蘇る。
「その日、彼女の臀部を焼いて食べた。とても旨かったよ。どんな肉よりも旨かった。舌先で溶けていくんだ肉が。じわりと口の中に旨味が広がっていく。そこでやっと私の中にぽっかりと空いていた穴が埋まっていくのを感じた」
あとは君の言うとおりだと、彼は語った。
「残りの二人は、人生に思い悩んでいた。だから死んだ後も私が面倒を見続ける。決断ができたらおいでと言っておいた」
「二人は食べられることを知っていたんですか?」
「ただの死体になって朽ちるよりは良いと答えたよ。彼女達も狂っていたんだろうね」
彼はそれだけ言うと、席を立ってカウンターの奥に入っていく。途中で蒼太を手招きし、奥へと消えていった。蒼太は警戒しつつも、彼の手招きに従うことにし、カウンターの奥へと足を踏み入れる。あの身なりからは予想ができないほど丁寧に掃除が行き届いているキッチンだった。コンロにこびり付いた炭は丁寧に落とされ、シンクを覗き込むと顔の輪郭がよく分る。生臭さや肉の臭いは丁寧に除かれ、料理道具は丁寧に棚にかけられて保管されていた。多分閉店後に行うつもりだったのだろう。シンク横に砥石と包丁が置かれていた。もう研ぐ必要がないくらいに光を受けて輝いているが、どうやら店主としてはまだ満足のいくものではないらしい。
キッチンを抜けると地下に下りていく階段があった。むき出しのコンクリートで出来た鋭い段差が見ていて痛い。
階段を下りていくと、目の前に大きな分厚い扉があって、その扉の隙間から冷気が漏れている。どうやら大型の食糧保存用の冷蔵庫らしい。
「こっちに来てから、まだ誰も食べてはいないんだ。なんにせよ私は本当に愛情を注げる肉にしか興味がない。自分の最高の腕を発揮できる肉しか使いたくないんだ」
そうして前置きを述べると、彼は分厚い扉のレバーを下ろし、体を使ってその扉を開いた。
充満していた冷気が解放され、肌寒さに蒼太は思わず身体を強張らせた。まだ冬には早い時期だが、冬の寒さを凌駕する冷気が白い煙のような姿になって冷蔵庫の中から飛び出してくる。まるで妖精のようだ。蒼太はとめどなく流れ出る冷気の姿を見ながら、そんなことを思った。
それから奥を見て、蒼太は目を見開いた。
裸の女性が釣られている。既に事切れているようで唇から何まですべて青紫に変色しているが、急速に冷やされた結果なのか、ふと目を覚ましてこちらに視線を向けてくるのではないかと思うほど、丁寧に保存されていた。艶のあるセミロングの黒髪に、かたちの良い乳房、太りすぎずやせ過ぎる丁度良い肉体。
「彼女は、こっちに来て始めて私を愛してくれた人なんだ」
うっとりと、恋人を見るかのような目で店主は釣られた女性を見つめる。蒼太は彼が新たな恋人を眺めている間、一言も喋らなかった。二人の間を邪魔してはいけないと、なんとなく思った。
扉は閉じられ、全てを語りつくして満足したのか店主は蒼太に向けて笑みを零すと、レバーを上げて錠をした。
「そうだ、君が私を問い詰めようと思った理由は、紫乃ちゃんかい?」
蒼太は頷いた。
「紫乃のことを愛するつもりはありますか?」
単刀直入にそう聞くと、彼は首を横に振った。
「私にとって食べることは愛情表現だ。しかし彼女は食べられたいと思いつつ、私を受け入れるわけでもないようだった。理由が愛でなければ、私は決して食べようとは思わない」
「そうですか」
「随分と安心した表情をしているね。彼女がとても大切なようだ」
笑みを浮かべる店主に向けて、蒼太は首を横に振った。怪訝な表情を浮かべる彼に向けて、蒼太は寂しげに微笑んだ。
「もし、紫乃の命を奪うつもりだったら、僕は貴方をどうにかして殺さなければならなくなっていました。犯罪に興味はないし、したくもない。でも、彼女を護るためにはそうせざるを得なくなる。望まない犯罪を犯さずに済んだことにほっとしているんです」
淡々とした口調で答えた蒼太を店主はしばらく見つめて、それから頭を掻きながら彼を見つめる。その瞳には、どこか同情に似た色が混じっていた。そんな瞳に映る自身の姿を見て、蒼太はそっと笑みを浮かべた。
「紫乃ちゃんもそうだが、君も随分と壊れているようだ」
八時を回ると、外との対比でか蛍光灯がやけに明るく、部屋中が白色を孕んだように見えた。隅の紅色のクロスがかかったテーブルも、先ほど食事をしていたカウンターも、全てが眩く見える。先ほどまで頼りない街灯の下にいたというのもあるが、目に見えて店内の空気が変わったのを、蒼太は感じていた。
店主はカウンター前の丸椅子に腰かけ、エプロンのポケットからシガレットケースとジッポのライターを取り出し、一本口に咥えると火をつけ、煙を天井に向けて吐き出した。君もどうだい、とケースを差し出され、蒼太は何も言わずただ頷くと、一本手にして口に咥える。店主の傍に寄ると先端に火をつけ、それから煙を吸い込んだ。大分重いやつだ。煙を吐き出した後蒼太の視界が若干くらりと揺れた。
「さて、何から話そうか」
「貴方が本当に人を食べたかどうか」
「君が最も気になっている部分だと思うが、その前に何故私が人を食っているなんて馬鹿げた考えに至ったのかを聞かせてほしい」
煙を吐き出しながら店主は興味に満ちた目でこちらを見ていた。否定もしなければ肯定もしない。蒼太は暫く考える。紫乃の特異体質について言ったとしてそれは大した理由付けにはならないだろう。ならばどういった点を見て思ったのか。
―でっちあげる―必要がある。
「まず、常連が消えたって部分が気になったんです。僕が今日食べたステーキ定食も、コーヒも丁寧に作られていて美味しかった。それに貴方の接客だって物腰が柔らかくて受けも良い。値段もリーズナブルで、常連が突然消えるなんておかしい」
「それまで最悪の態度で常連が消えるほどのミスを犯した可能性は?」
「料理に対して聞いた時、貴方は目の前が客であることすら忘れてただ熱く語っていた。少なくとも料理を批判されて問題を起こしたりしたとして、あれほど料理に情熱を持っている姿を見れば少なくとも常連は「批判した側に非がある」と思うかもしれない。少なくとも常連が一斉に消えるなんてありえませんよ」
店主は何も言わず、煙草を咥えてふむ、とただ頷いた。
「そして、三か月前にここにやってきたと言ったけれど、その更に三か月、丁度半年前に他県で謎の失踪事件が起きている」
それなりに問題になった事件だったため、検索すればすぐに出てきた。携帯というものは随分と便利だと久々に思った。それまで時計代わりにしか思っていなかった為尚更だ。
「簡単に調べたのですが、そのうちの三名が最後にステーキハウスに出入りしていたことがあり、それを理由に聴取を受けている。更にマスコミに流れたことで暫くニュースでも取り上げられていたようですね。」
「ステーキハウスではなく喫茶店ではなかったかな。女性が三人もステーキハウス、紫乃ちゃんのような常連がそういるわけがないよ」
店主が笑って答え、それから固まった。
「僕は行方不明者のうち三人、と言ったつもりですが」
「……そうだね、三人と言っていたね」
「少なくとも、その喫茶店の常連は行方不明者のうち三名なわけですね」
店主は頷いた。
「なら多分、「食べられたのはその三人」だと、僕は思っています」
店主がじっと見つめるなか、蒼太は鞄からポケットにこっそりと移し替えたナイフの柄を握る。
「この事件、未だに遺体は発見されていない。定期的な頻度で失踪しているのにも関わらず、まるで一人一人が勝手に決まったスケジュールで蒸発していることから連続性のあるものとみられているけど、三件以外はすべて別だったらどうなるんだろう」
煙草の灰が床に落ちた。店主は特に気にする様子もなく、蒼太に携帯灰皿を渡す。
「模倣されたんじゃないかと思うんです」
煙草を携帯灰皿に叩き込むと僕は息を大きく吸った。でっちあげの解れた糸だらけの考察を、まだ彼は聞いてくれている。それも真剣にだ。
ありがたい、と蒼太は思った。これまで何度かでっちあげで犯人を決めつけたが、大体は襲われるか逃亡された。ここまで長く話を聞いてくれたのは彼が初めてだった。
「週に一度の失踪事件が起きた中で、誰かがこの流れに乗じてもうひとり失踪しても問題ないと考えた。狂気は伝染し、結果としてその後数人予期せぬ失踪者が現れた為に事件は大事になってしまった。結果、うち女性三人がよく通っていた店に関連性があると考えられ、捜査の足が運んでしまったのではないかと」
「なるほど、週一で起こる失踪で周囲が混乱し、関連性があるのかどうかもややこしくなったままその店主は聴取をかけられ、しかし証拠が全く出ないことで開放された。しかし聴取をかけられたことと、着実に人が失踪していく恐怖、常連が消えた事実から客足も冷め、商売のしようがなくなったことで彼は店を閉じてしまったと」
「証拠が出なかった理由は、もう消化されてしまったからだと」
「どこかに埋めたとは思わないの?」
「貴方は食材、特に肉に対して強い愛情を持っている。食べることができるのに、それを捨てようなんて考えないと思ったんです」
話し終えた蒼太を、店主はじっと見つめている。どっと空気が重くなった気がして、蒼太は彼とじっと目を合わせたままポケットの折りたたみ式のナイフに触れた。
ごくり、生唾を飲み込む。
店主は、声を上げて笑った。すっかり短くなった煙草をアルミ製の灰皿に押し付けると、身を仰け反らせて手を叩く。
「いやあ面白い、穴だらけだが、よく繋げたね。でっちあげて形にした君の想像力、楽しませてもらったよ」
それから彼は二本目の煙草に火をつけ、旨そうに煙を吐き出した後、顔色一つ変えずに蒼太を見て言った。
「ああ、食ったよ」
まるで日常的な出来事のように言うものだから、蒼太は少しの間その言葉が理解できず、暫く店主の顔を見つめてしまった。特に狂気を孕んだ目でもなければ、やつれてもいない。罪悪に苛まれた人間の目でもない。本当に日常をただたんたんと過ごし、やりがいのある仕事を続けている男の人間味のある温かな瞳だ。
「人を?」
改めて蒼太は問いかける。
「ああ、人を」
まさかこんなことを打ち明けることになるとは思わなかったと、店主は茶色の短髪を掻いた。しかしその顔はどこか嬉しそうだった。
「物心付いた時から、肉に対して異常な執着があった。豚肉、鶏肉、牛肉、羊、食用でありながらどれも歯ごたえから臭い、味と全て違う。子供の頃から肉料理の素晴らしさにすっかりとりつかれて、気がついたら調理師免許を取得して料理の研究に没頭してたよ。どう調理すれば最も美味しくなるのか、焼き加減は? 切り落とす時の角度は? 肉料理がどこまで極上のものにできるかをね」
「そんな中で、人肉に出会った理由は?」
「特に理由は無かったよ。店を開いて、ある程度の常連ができた辺りで、一人の女性に好意を抱かれた。それまで異性に好意を抱かれたことも、抱いたこともなかったからすっかり舞い上がったよ。ただ肉のことしか考えていなかった自分でも、他人を愛せるものなのだとね」
二本目の煙草が終わろうとしていた。店主は物惜しそうに短くなった煙草を見つめ、灰皿に押し付けて消した。
「でも違った。彼女を始めて抱いた時、快楽に身を委ねながら、ふと思ってしまった」
「この肉を調理したら、どんなに美味しいのか、と?」
店主は頷いた。
「太腿、臀部、乳、頬、とね。腹に手をやりながら内臓はどうしたら旨いかと考えてしまった時は、思わず笑ってしまったね」
自らの腹部に手をやって、それから何度か摩る。
「でも愛していた。始めて好意を抱けた相手だったから。だが一緒にいても、抱いてもどこかぽっかりと穴が空いてしまっていて、何をしても埋まらない。もっと彼女に対して求めている欲望がある」
「それが、食欲だったと」
店主は頷いた。
「ああ、私は彼女を食べたくて仕方なくなっていたよ。愛する女性を肉としか認識できなくなってしまっていた。そのうち抱くこともうまくできなくなってしまった。けど愛し続けたかった。ずっと愛し合いたくて、その為には、こうするしかないと答えが出てしまった」
腹をさする店主の顔は、非常に穏やかで、後悔の色はまるでないようだった。
「肉切り包丁を掲げた時、彼女、笑ったんだ。貴方の中で生きられるんでしょう? ならそれでいいって。涙も流さず、命乞いもせず、ただ目を閉じて微笑んだ」
店主は目を閉じ、その時の光景をフィードバックする。
切断した頭部を両手で大事に抱え、眠ったように穏やかに目を閉じ絶命した彼女の唇に、そっとキスをする。血の気の失せていく途中の唇はまだ暖かかった。生暖かい血液に染まっていくエプロンを眺め、それから頭部を失った女の肉を見て、下腹部が堅くなったこと、気づけば射精をしていたこと。全てが鮮明に彼の中で蘇る。
「その日、彼女の臀部を焼いて食べた。とても旨かったよ。どんな肉よりも旨かった。舌先で溶けていくんだ肉が。じわりと口の中に旨味が広がっていく。そこでやっと私の中にぽっかりと空いていた穴が埋まっていくのを感じた」
あとは君の言うとおりだと、彼は語った。
「残りの二人は、人生に思い悩んでいた。だから死んだ後も私が面倒を見続ける。決断ができたらおいでと言っておいた」
「二人は食べられることを知っていたんですか?」
「ただの死体になって朽ちるよりは良いと答えたよ。彼女達も狂っていたんだろうね」
彼はそれだけ言うと、席を立ってカウンターの奥に入っていく。途中で蒼太を手招きし、奥へと消えていった。蒼太は警戒しつつも、彼の手招きに従うことにし、カウンターの奥へと足を踏み入れる。あの身なりからは予想ができないほど丁寧に掃除が行き届いているキッチンだった。コンロにこびり付いた炭は丁寧に落とされ、シンクを覗き込むと顔の輪郭がよく分る。生臭さや肉の臭いは丁寧に除かれ、料理道具は丁寧に棚にかけられて保管されていた。多分閉店後に行うつもりだったのだろう。シンク横に砥石と包丁が置かれていた。もう研ぐ必要がないくらいに光を受けて輝いているが、どうやら店主としてはまだ満足のいくものではないらしい。
キッチンを抜けると地下に下りていく階段があった。むき出しのコンクリートで出来た鋭い段差が見ていて痛い。
階段を下りていくと、目の前に大きな分厚い扉があって、その扉の隙間から冷気が漏れている。どうやら大型の食糧保存用の冷蔵庫らしい。
「こっちに来てから、まだ誰も食べてはいないんだ。なんにせよ私は本当に愛情を注げる肉にしか興味がない。自分の最高の腕を発揮できる肉しか使いたくないんだ」
そうして前置きを述べると、彼は分厚い扉のレバーを下ろし、体を使ってその扉を開いた。
充満していた冷気が解放され、肌寒さに蒼太は思わず身体を強張らせた。まだ冬には早い時期だが、冬の寒さを凌駕する冷気が白い煙のような姿になって冷蔵庫の中から飛び出してくる。まるで妖精のようだ。蒼太はとめどなく流れ出る冷気の姿を見ながら、そんなことを思った。
それから奥を見て、蒼太は目を見開いた。
裸の女性が釣られている。既に事切れているようで唇から何まですべて青紫に変色しているが、急速に冷やされた結果なのか、ふと目を覚ましてこちらに視線を向けてくるのではないかと思うほど、丁寧に保存されていた。艶のあるセミロングの黒髪に、かたちの良い乳房、太りすぎずやせ過ぎる丁度良い肉体。
「彼女は、こっちに来て始めて私を愛してくれた人なんだ」
うっとりと、恋人を見るかのような目で店主は釣られた女性を見つめる。蒼太は彼が新たな恋人を眺めている間、一言も喋らなかった。二人の間を邪魔してはいけないと、なんとなく思った。
扉は閉じられ、全てを語りつくして満足したのか店主は蒼太に向けて笑みを零すと、レバーを上げて錠をした。
「そうだ、君が私を問い詰めようと思った理由は、紫乃ちゃんかい?」
蒼太は頷いた。
「紫乃のことを愛するつもりはありますか?」
単刀直入にそう聞くと、彼は首を横に振った。
「私にとって食べることは愛情表現だ。しかし彼女は食べられたいと思いつつ、私を受け入れるわけでもないようだった。理由が愛でなければ、私は決して食べようとは思わない」
「そうですか」
「随分と安心した表情をしているね。彼女がとても大切なようだ」
笑みを浮かべる店主に向けて、蒼太は首を横に振った。怪訝な表情を浮かべる彼に向けて、蒼太は寂しげに微笑んだ。
「もし、紫乃の命を奪うつもりだったら、僕は貴方をどうにかして殺さなければならなくなっていました。犯罪に興味はないし、したくもない。でも、彼女を護るためにはそうせざるを得なくなる。望まない犯罪を犯さずに済んだことにほっとしているんです」
淡々とした口調で答えた蒼太を店主はしばらく見つめて、それから頭を掻きながら彼を見つめる。その瞳には、どこか同情に似た色が混じっていた。そんな瞳に映る自身の姿を見て、蒼太はそっと笑みを浮かべた。
「紫乃ちゃんもそうだが、君も随分と壊れているようだ」
四
早朝の電話を受け、昼過ぎに学食前で待っていると、変わらず黒のチュニックを身につけた紫乃がやってきた。潤んだ瞳をこちらに向け手をふる彼女に、彼もまた手を振り返す。心なしか不機嫌とうだが、蒼太には大体その理由に予想がついていた。
蒼太と店主の会話から数日して、いつものように店を訪れた紫乃に、店主はそっと君を食べるつもりはないと告げたらしい。紫乃は酷く傷ついたようで、暫く何度も彼に懇願したが、最後に冷蔵庫の奥を見せられた時、全てを納得し、それからいつも通り彼女専用の小さなステーキを平らげ、窓際のテーブルで暫くコーヒーを飲みながら文庫本を読んだ後、帰宅していったという。
この出来事を蒼太はこっそり店主から聞いた。あの夜からどうも店主に気に入られてしまったようで、何かにつけて世話を焼こうとしてくるのだ。特に、小型のナイフを携帯し、それで「もしもの際の対処」を試みようとしていたことを聞くと彼は大笑いした。何度か対処できたと言っても彼は信じようとはせず、しまいにはキッチンからサイズの大きいナイフを一本持ち出すと蒼太に手渡したのだった。研いだばかりで掠っただけでも、それなりの傷を与えることを見込めるだろう。そう店主は言っていた。
店主と蒼太は互いに気まぐれに連絡を取り合っているが、紫乃は変わらず常連として店に居座っているそうだ。口コミで少しづつ客足もついている辺り、彼にとって【愛すべき】人物ではないにしても、店のマスコットとしては丁度良いのかもしれない。蒼太はぼんやりとそんなことを思った。
「結局食べてもらうことができなかったわ」
「仕方ないよ。あの店主、恋人がいるようだしね」
奥のテーブルはやはりいつものように食べカスに、誰かがコップの中身をぶちまけたのだろう、小さな水溜まりが一つ。蒼太はカウンターに向かうと濡れ布巾を一つ店員のおばさんから受け取り、荒れ放題のテーブルを拭いてからやっと座る。一方紫乃は特に気にするといった様子もなく鞄を机の上に置くと、さっさと券売機へと向かって行ってしまった。随分と機嫌が悪いな。アイスでも買って機嫌取りでもしておこうかな。蒼太はむすっとしたまま券売機に小銭を投入する彼女を見て溜息を吐いた後、しかし無事事が済んだ事に安堵し、笑みを浮かべ、それから券売機に並ぶ為に、蒼太は席を立ったのだった。
昼食をとり、その後入れていた講義を真面目に受けてから二人は大学を出た。黒鵜町に比べたらそれなりに人もいるし、活気づいた店も多い。ゆっくりと濃紺に塗りつぶされていく空を眺めながら、二人は何一つ言葉を交わさずに歩き続けていた。白鷺駅の前は客引きと定時帰り達で溢れていた。たった一駅違うだけでここまで町並みに変化が生じるのだから不思議なものだ。
「今日も行くのかい」
「ええ、蒼太君も来る?」
彼女に頷きを返す。紫乃はそう、と一言だけ呟くとそれっきり何も言わなくなり、ただ白鷺駅を眺めていた。
「昨日、恋人を口にしたそうよ」
その口調は平淡で、まるで日常的な出来事を切り取ったようにも聞こえた。
「そっか、なにか感想は言っていたのかな」
「幸せかって聞いたの。そうしたら、彼、今はとても満ち足りているよって言っていたわ」
そう、とだけ返答すると蒼太も一緒になって白鷺駅を眺める。彼女にとっては今はこちらではなく、あちらが日常なのだと、彼はちゃんと理解していた。
今のところ彼女はこちらに戻ってくるつもりはない。かろうじて僕自身がこちらに残っているから行き来しているだけで、本音を言えばきっと彼女はずっと向こうに居座りたいと思っているに違いない。蒼太はちらりと紫乃を横目に見た。
水分を多く含み潤んだ瞳が揺れている。彼ら二人の間を一筋の風が通り抜け、彼女の髪をそっと攫う。胸元くらいまである髪が踊った。合間から見えた彼女の首筋と鎖骨を眺め、途端に胸が苦しくなって目を逸らした。あの華奢な体に腕を回せる日は決して来ないのだと、ちゃんと分っているつもりで、理解した上で隣にいるつもりだった。しかし悶え胸を?き毟りたくなるほどの衝動は時折悪戯に蒼太に微笑みかけてくる。
「いいのよ」
ふと、紫乃が喋る。蒼太が再び彼女を見ると、しかし横顔は無表情のまま白鷺駅を見つめていた。彼女だけ時間が止まってしまったみたいで、今聞こえた言葉も、単なる自分の願望だったのではないだろうかと戸惑う。
悩んだ末に蒼太は紫乃の傍に寄ると、そっと左手を握った。彼女の表情は変わらず、ただ前を見つめたままだ。例え自身の願望でなかったとして、彼女のあの言葉が示した意味は更にもっと踏み込んだものであると分かっていた。そうやって彼女は蒼太を使って自らを貶めることで、死ぬことができなかった気持ちを、彼に自分の死を見せつけることができなかった気持ちをどうにかしようと思ったのだ。
けれど、蒼太ができるのはここまでだった。手を握る以上のことは僕からはできないと、すればあの日を再び思い出してしまう。彼は駅の方を再び見た。握り返された手が震えていることに気づいたが、彼は何も言わず、ただその手を握り返す。
五か月前にこの場所で、彼女の恋人で、蒼太の兄である紅一が死んだ。
「ねえ」
かけられた声と共に、蒼太は彼女の手に力が込められたのを感じた。
「なんだい」
「もし本当に食べられていたとしたら、私と紅一さん、どっちが美味しかったのかしら」
――藍野紅一。
その名を出すと、彼女はほろりと涙を流し、それから笑う。声は微かに震えているようだった。蒼太は目をそっと閉じて、彼女の左手の感触を右手に感じながら、この体温を失いたくない、と思った。
紅一は既に死んでいる。二人は死体を確かに確認し、更に間接的ではあるが兄を【食べて】いる。結果彼女は壊れ、蒼太はその彼女の拠り所であり、憎悪を向ける相手となった。そうして蒼太に憎悪を向けることで、都合の悪いことを全て忘れ、そして全てを投げ出して命を断とうと考えているのだ。酷く残酷で、苦しみぬいた上で死ぬことのできそうな、そんな殺され方をされて。
彼女が非日常を感知できるようになったのは、きっとその強い願望によってだろう。希望通り残忍な死に方に自ら足を踏み入れることができるのだから。
しかし彼女はそう簡単に殺されることができないでいる。彼女自身の願望とは全く逆の願望を持った男が隣にいるためだ。
死を見せたい相手が、何を捨ててでも篠森紫乃を生かそうとする。
「君が美味しかったに決まっているよ」
蒼太はたった一言返事をして、それから手を離すと一人白鷺駅へと歩いて行く。いつもこうなのだ。思い通りに死ねなかった日は、彼女は決まって兄と自分を比べる。そうして自分が兄以下であり、最低の人間であることを確認したがり、そして最後は何も言わずその場で涙を流し続けるのだ。
紅一が死んだ日、彼女は蒼太に「貴方にだけは泣きわめく姿を見せたくない」と怒鳴った。それ以来彼は彼女が泣く時は決まって距離を置くようになった。
「何度でもあちらに行けば良い。必ずこちら側に連れ戻してあげるから」蒼太は彼女に聞こえないよう小さな声で呟くと、さっきまで彼女の手を握っていた掌を眺め、それから愛おしそうに頬にあてた。
その死と彼女が決別できるまで、蒼太は彼女の傍にいると決めていた。好意を持ちながら、決して叶うことがないと知っているその相手の傍に、少しでもいる為に。
早朝の電話を受け、昼過ぎに学食前で待っていると、変わらず黒のチュニックを身につけた紫乃がやってきた。潤んだ瞳をこちらに向け手をふる彼女に、彼もまた手を振り返す。心なしか不機嫌とうだが、蒼太には大体その理由に予想がついていた。
蒼太と店主の会話から数日して、いつものように店を訪れた紫乃に、店主はそっと君を食べるつもりはないと告げたらしい。紫乃は酷く傷ついたようで、暫く何度も彼に懇願したが、最後に冷蔵庫の奥を見せられた時、全てを納得し、それからいつも通り彼女専用の小さなステーキを平らげ、窓際のテーブルで暫くコーヒーを飲みながら文庫本を読んだ後、帰宅していったという。
この出来事を蒼太はこっそり店主から聞いた。あの夜からどうも店主に気に入られてしまったようで、何かにつけて世話を焼こうとしてくるのだ。特に、小型のナイフを携帯し、それで「もしもの際の対処」を試みようとしていたことを聞くと彼は大笑いした。何度か対処できたと言っても彼は信じようとはせず、しまいにはキッチンからサイズの大きいナイフを一本持ち出すと蒼太に手渡したのだった。研いだばかりで掠っただけでも、それなりの傷を与えることを見込めるだろう。そう店主は言っていた。
店主と蒼太は互いに気まぐれに連絡を取り合っているが、紫乃は変わらず常連として店に居座っているそうだ。口コミで少しづつ客足もついている辺り、彼にとって【愛すべき】人物ではないにしても、店のマスコットとしては丁度良いのかもしれない。蒼太はぼんやりとそんなことを思った。
「結局食べてもらうことができなかったわ」
「仕方ないよ。あの店主、恋人がいるようだしね」
奥のテーブルはやはりいつものように食べカスに、誰かがコップの中身をぶちまけたのだろう、小さな水溜まりが一つ。蒼太はカウンターに向かうと濡れ布巾を一つ店員のおばさんから受け取り、荒れ放題のテーブルを拭いてからやっと座る。一方紫乃は特に気にするといった様子もなく鞄を机の上に置くと、さっさと券売機へと向かって行ってしまった。随分と機嫌が悪いな。アイスでも買って機嫌取りでもしておこうかな。蒼太はむすっとしたまま券売機に小銭を投入する彼女を見て溜息を吐いた後、しかし無事事が済んだ事に安堵し、笑みを浮かべ、それから券売機に並ぶ為に、蒼太は席を立ったのだった。
昼食をとり、その後入れていた講義を真面目に受けてから二人は大学を出た。黒鵜町に比べたらそれなりに人もいるし、活気づいた店も多い。ゆっくりと濃紺に塗りつぶされていく空を眺めながら、二人は何一つ言葉を交わさずに歩き続けていた。白鷺駅の前は客引きと定時帰り達で溢れていた。たった一駅違うだけでここまで町並みに変化が生じるのだから不思議なものだ。
「今日も行くのかい」
「ええ、蒼太君も来る?」
彼女に頷きを返す。紫乃はそう、と一言だけ呟くとそれっきり何も言わなくなり、ただ白鷺駅を眺めていた。
「昨日、恋人を口にしたそうよ」
その口調は平淡で、まるで日常的な出来事を切り取ったようにも聞こえた。
「そっか、なにか感想は言っていたのかな」
「幸せかって聞いたの。そうしたら、彼、今はとても満ち足りているよって言っていたわ」
そう、とだけ返答すると蒼太も一緒になって白鷺駅を眺める。彼女にとっては今はこちらではなく、あちらが日常なのだと、彼はちゃんと理解していた。
今のところ彼女はこちらに戻ってくるつもりはない。かろうじて僕自身がこちらに残っているから行き来しているだけで、本音を言えばきっと彼女はずっと向こうに居座りたいと思っているに違いない。蒼太はちらりと紫乃を横目に見た。
水分を多く含み潤んだ瞳が揺れている。彼ら二人の間を一筋の風が通り抜け、彼女の髪をそっと攫う。胸元くらいまである髪が踊った。合間から見えた彼女の首筋と鎖骨を眺め、途端に胸が苦しくなって目を逸らした。あの華奢な体に腕を回せる日は決して来ないのだと、ちゃんと分っているつもりで、理解した上で隣にいるつもりだった。しかし悶え胸を?き毟りたくなるほどの衝動は時折悪戯に蒼太に微笑みかけてくる。
「いいのよ」
ふと、紫乃が喋る。蒼太が再び彼女を見ると、しかし横顔は無表情のまま白鷺駅を見つめていた。彼女だけ時間が止まってしまったみたいで、今聞こえた言葉も、単なる自分の願望だったのではないだろうかと戸惑う。
悩んだ末に蒼太は紫乃の傍に寄ると、そっと左手を握った。彼女の表情は変わらず、ただ前を見つめたままだ。例え自身の願望でなかったとして、彼女のあの言葉が示した意味は更にもっと踏み込んだものであると分かっていた。そうやって彼女は蒼太を使って自らを貶めることで、死ぬことができなかった気持ちを、彼に自分の死を見せつけることができなかった気持ちをどうにかしようと思ったのだ。
けれど、蒼太ができるのはここまでだった。手を握る以上のことは僕からはできないと、すればあの日を再び思い出してしまう。彼は駅の方を再び見た。握り返された手が震えていることに気づいたが、彼は何も言わず、ただその手を握り返す。
五か月前にこの場所で、彼女の恋人で、蒼太の兄である紅一が死んだ。
「ねえ」
かけられた声と共に、蒼太は彼女の手に力が込められたのを感じた。
「なんだい」
「もし本当に食べられていたとしたら、私と紅一さん、どっちが美味しかったのかしら」
――藍野紅一。
その名を出すと、彼女はほろりと涙を流し、それから笑う。声は微かに震えているようだった。蒼太は目をそっと閉じて、彼女の左手の感触を右手に感じながら、この体温を失いたくない、と思った。
紅一は既に死んでいる。二人は死体を確かに確認し、更に間接的ではあるが兄を【食べて】いる。結果彼女は壊れ、蒼太はその彼女の拠り所であり、憎悪を向ける相手となった。そうして蒼太に憎悪を向けることで、都合の悪いことを全て忘れ、そして全てを投げ出して命を断とうと考えているのだ。酷く残酷で、苦しみぬいた上で死ぬことのできそうな、そんな殺され方をされて。
彼女が非日常を感知できるようになったのは、きっとその強い願望によってだろう。希望通り残忍な死に方に自ら足を踏み入れることができるのだから。
しかし彼女はそう簡単に殺されることができないでいる。彼女自身の願望とは全く逆の願望を持った男が隣にいるためだ。
死を見せたい相手が、何を捨ててでも篠森紫乃を生かそうとする。
「君が美味しかったに決まっているよ」
蒼太はたった一言返事をして、それから手を離すと一人白鷺駅へと歩いて行く。いつもこうなのだ。思い通りに死ねなかった日は、彼女は決まって兄と自分を比べる。そうして自分が兄以下であり、最低の人間であることを確認したがり、そして最後は何も言わずその場で涙を流し続けるのだ。
紅一が死んだ日、彼女は蒼太に「貴方にだけは泣きわめく姿を見せたくない」と怒鳴った。それ以来彼は彼女が泣く時は決まって距離を置くようになった。
「何度でもあちらに行けば良い。必ずこちら側に連れ戻してあげるから」蒼太は彼女に聞こえないよう小さな声で呟くと、さっきまで彼女の手を握っていた掌を眺め、それから愛おしそうに頬にあてた。
その死と彼女が決別できるまで、蒼太は彼女の傍にいると決めていた。好意を持ちながら、決して叶うことがないと知っているその相手の傍に、少しでもいる為に。