Neetel Inside 文芸新都
表紙

終着駅のラジオ
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「ただいまー」
「お帰りー」
 ドアを開けると、エプロンをした母が出迎えてくれた。家の中からカレーの匂いが漂ってきた。懐かしく温かく、嬉しかったりやるせなかったり、感情を持った匂い。
「今茉子ちゃん来てるよー」
「え、ほんと?」
「勝手に有の部屋に上げたけどいいよね」
「うん」
 靴を脱いで揃え、二階の自分の部屋まで向かう。閉まっているドアの向こうから、ラジオの音が聞こえる。ノックをしてドアを開けると、茉子は足を組んでベッドの上に座っていた。
「お帰り。久しぶりだな、有。立ち話もなんだから座りなさい」
「ここ私の部屋だけど」
「ハハハ、それもそうだな」
 庭師茉子は有の九つ上の従姉だ。東京の医大の付属病院での臨床研修を経て、舞部台の総合病院に身を置いている。有は以前から自分と似た空気を茉子に感じており、そのためか年齢の差や癖のある話し方、美しいが近付きにくい印象のある顔立ちも気にかけずに懐いていた。
「放送部は相変わらずバカやってるようだな。結構、結構」
 そう言って、茉子は放送部有志のラジオドラマが流れているラジカセを叩いた。
「茉子ちゃんも放送部だったんだよね」
「あぁ、『WILD SEVEN』の三代前、『radio from nowhere』の時代だから相当前だがな。懐かしいなー。正直な話、あまりにもやってることが変わってなくて、軽く涙ぐんでしまったよ」
 なるほど、茉子の眼鏡越しに見える瞳は潤い、声にも微かな震えといい思い出に浸ったあとの充足感があった。自分と同世代の人間の幼さが適度に抜けた身のこなしに、同性ながら胸の疼きを感じてしまい、見とれていると、茉子は話を続けた。
「私の代も、こういうベタなラブコメをやっていてな。私の役は普段は無口で怒るとヒステリック、文武両道、才色兼備の美人転校生、という設定だった。主人公に思いを寄せていながらも、彼の前ではそれを隠していて、それどころかむしろ八つ当たりしたり怒ったりしてばかり。それでも好意を抱いているのがバレバレ」
「中学の茉子ちゃんのまんまだね。役作りも楽そう」
「あまりにもぴったり過ぎて笑えるだろう」
 その「ぴったり」には「普段は無口で怒るとヒステリック」だけでなく、「文武両道、才色兼備の美人転校生」も含まれている。謙遜せずにそんなことを言える神経もまた茉子らしい。
「中学の頃はおばさん達にも色々迷惑をかけて、申し訳無かったと思ってるよ。有にもかなり酷いことを言ったしな。おかげで高校は放送部で活躍できたが」
 声の調子には表れないが、そう言う茉子の笑顔が切なく翳る。目を伏せて俯く茉子は、今はすっかり過去の出来事として許し、なんのしこりもなく話せる有とは違い、自分の過ちをなかったことに出来ないでいるようだった。


     

 横浜の叔父夫婦の家に頼まれて蟻村家が茉子を預かった時、有は六歳、茉子は十五歳だった。夏休みもこれからというある暑い日。当時叔父と叔母は離婚調停の最中で、親権争いの決着がつくまで預かってくれる親戚を探していた。茉子も両親の不仲や学校でのいじめなどでストレスを溜め込んでおり、自然があって人もそれほど多くなくリラックスできる環境、ということで栗江市の蟻村家に白羽の矢が立ったのだ。わざわざ一家三人総出で家を訪ね、何度も土下座をする叔父夫婦の切実さ、それを目の当たりにして断るに断れず、引き受けてしまった母の戸惑った顔と、それとは対照的に終止ポーカーフェースで通した父が今でも脳裏に焼き付いている。
 それから一週間後に、大きなスーツケースを持った茉子が有の家の門を叩いた。今日からどれだけの期間かは定かではないが一つ屋根の下で暮らす少女を一目見ようと出迎えに行った有の前に、茉子は不機嫌な顔をして立っていた。父が代わりに運ぼうとしてスーツケースに手を触れたが、その手を思い切り引っぱたかれた。それでも父は顔色一つ変えなかった。家に上がり、一通り挨拶を済ませると、茉子は自室として与えられた仏間に閉じこもって泣き出した。その日はそれきり部屋から出てくることはなかった。

「ねー、どうしたの?」
 翌日、朝食の席に姿を現さなかった茉子にふすまの外から有が尋ねた。無邪気に、何も考えずに。今になって思い起こせばそれが間違いの始まりだったのだろう。その日以来、有は茉子に目を付けられるようになる。
「……うっせぇ」
 意外と近くで声がした。どうやら茉子はふすまに寄りかかっていたらしい。返ってきた返事はもの静かだったが、苛立っているのも伝わってきた。それでも、茉子のことが気がかりだったので、もう一度声をかけてしまった。
「ご飯食べなきゃ、体に悪いよ」
 途端にふすまが乱暴に開き、なかから漫画が一冊飛び出してきた。ふすまのすぐ前に立っていた有には避ける暇もなく、漫画の背表紙が額に当たった。あまりの痛さに声が出ず、額を押さえながら座り込んだ有に、茉子は笑いながら言った。
「人の話をちゃんと聞かねぇからこうなんだよ、バーカ」
 その底抜けに明るい声と顔に、有は戦慄を覚えた。痛みと恐怖のあまり、有の目からこぼれる涙の量が増した。逃げようとも思ったが、足の力がすっかり抜けてしまった。
 不意に、自分の泣き声以外にもう一つ、すすり泣く声が聞こえてきた。不思議に思って前を見ると、茉子も床に伏せて肩を震わせていた。
「あんたが、悪いんだよ……。私は、私は、何も悪くないんだよ?」
 そう言う茉子は語調がすっかり狂っていて、その言葉はあまり日本語らしく聞こえなかった。突然過ぎる変容に有が面食らっていると、茉子が抱きついて前髪をかき上げた。漫画が当たった辺りが赤くなっている。茉子はそこに口づけて、軽くチュッと音を立てた。
「痛いの痛いの、飛んでけー。痛いの痛いの、飛んでけー」
 定番のあやし言葉を口ずさみながら優しく微笑む茉子の顔を見て、有は思った。
 この人も、寂しいんだ。
 離婚やいじめといった背景を知る由もなく、感情的な印象だったが、有は友達が出来る前の自分と、気心の知れた人間が一人もいない土地に半ば強制的に送られてきた茉子を、無意識のうちに被らせていた。実際、二人の周りに漂うムードはよく似ていた。
 寂しい思いをしている人間が笑顔を作ると、綺麗に見える。茉子もその例に漏れず、まだ泉のように潤んだその目も、肩にかかる真っ黒な髪も、薄く頼りない唇も、砂糖菓子のように脆く、儚い。だが、それだけではない。その時抱いた感情は単なる美意識の範疇から一センチはみ出していた。親への愛情でもなく、仲良くしていた同級生グループ内の友情でもないことが、子供心にもおぼろげに分かった。その事実が有の内側をかき乱した。
 有の初恋の相手は茉子だ。有の初恋の相手だと親が思っている当時の仲良しグループのリーダー、モトヒロ君が実際には二番目だと知っている唯一の人物もまた、茉子である。
 

     

 茉子は時には粗野で暴力的になり、それ以外の時は繊細で消極的になった。後者の茉子は有に心を開いて話し相手をしてくれていたが、前者の茉子は誰にも扱い切れないくらい刺々しかった。有はふすま越しに話しかけて声音で機嫌を確認し、それに応じて対応するように心がけた。結果として肉体的に危害を加えられることはなくなったものの、虫の居所が悪い茉子に罵倒されることは相変わらず頻繁にあった。予測不能の茉子の性格に一番混乱しているのは茉子自身なのだと理解した有は、それでも耐えた。
 しかし、親は徐々に痺れを切らしつつあった。それを察知した茉子が八月の中頃の暑い朝、思いの丈をぶつけた。
「どうせ、私は邪魔者なんだろ? だったら無視しろよ! こっちだって、そうしてもらえた方がずっと楽だ!」
 両親はなんの返答もしなかった。直ちに茉子の指示に従って、無視し始めたのだ。母が有の手を引いて、父と一緒に血相を変えずに仏間の前を離れた。見上げた両親からの無言の圧力を感じて、有は仏間に近づけなかった。
 その晩はなかなか気温が下がらず、熱帯夜になった。寝苦しさのあまり有は目を覚ました。時計の針は三時半を指している。有は一階に降りて、台所で水をグラスに注いだ。開いたままの窓から吹き込む微風は湿っぽいだけで、涼気もなにもあったものではない。水を一息に飲んだ有は、ますます目が冴えるのを感じた。
 お姉ちゃん、どうしてるかな。
 朝の出来事が鮮明に思い出される。我が子のように親切にする親と、それを拒絶する茉子。茉子は今どうしているのだろう。
 仏間まで忍び足で歩き、ふすまに耳を当てる。茉子は眠らずに泣いていた。散らかった思考で、不安定な呼吸で、言葉が揺らぎながら拡散し、耳に入る。
「本当に無視、しないでよ……。本当に、無視、しないで、本当に……」
 お姉ちゃん。思わずそう呼んでふすまを開ける。茉子はうつ伏せで布団に包まって、枕にしがみつき、顔を埋めていた。
「……有。どうして、有も一緒に、無視、したの?」
 姿勢を変えずに、茉子は訊いた。
「お父さんやお母さんを困らせるようなお姉ちゃん、嫌いだもん」
 口に出してみると、予想以上に自分の言葉が冷たく聞こえた。それは相手にしたって同じだ。しばらくの間、どちらも話をしようとせず、茉子の咽ぶ声が鳴り続ける。
「ねぇ」
 そう言いながら、茉子は少しずつ上体を起こし、跪いて有の方に手を置いた。
「私、いい子なん、だよ? 先生、とか、パパとかママとか、いつも、いつも、褒めてくれるの……。でも、いつも、独りぼっち……。なんで、かな」
 明かりの灯っていない部屋に視力が慣れると、項垂れている茉子の顔が白く浮かび上がる。これだけ顔を崩して涙を流していても、茉子は美しい。
「……ないでよ」
「え?」
 曖昧に発声された懇願らしきものを聞き取れず、有は聞き返した。
「一人に、しないで、よ? 私、ここにいて、も、誰も、いない、のに……」
 俄に茉子の両手に力が入り、肩を掴まれる。切実さを増しつつも、媚を売ろうと試みている風には一切思えない、むき出しの感情がそれによって表現されていた。有はそれに答えなければいけない。答えないと、茉子は今以上に惨めな存在になってしまう。
「私」
 そこまで言ったところで、茉子が顔を上げて、こちらを見つめていることに気がついた。目と目を合わせて。有は躊躇して、十秒間口をつぐみ、それからおもむろに話し始めた。
「私、お姉ちゃんのこと、好き」
 茉子の手の力が抜けた。目は相変わらずこちらに集中しているが、眉をひそめ、まぶたを上げている。
「笑ってるお姉ちゃんが、好き。泣いてるお姉ちゃんが、好き。なんか考えてるお姉ちゃんが、好き。怒ってるお姉ちゃんはあんまりだけど、それでもすごく綺麗。好き。好き。大好き」
 目を閉じると、有は頭を茉子の肩に乗せて、両腕を脇に回し、強く抱きしめた。茉子はそんな有をゆっくり引きはがす。
「え……」 
 有が困惑した表情を浮かべると、茉子は作り笑いをしながら有の頬を撫でた。
「それはね、間違っ、てる。女の子は、女の子を、そんな風に、好きになっちゃ、いけないよ」
「……どうして?」
「そんなの、普通、じゃないよ」
 自分も、親のように拒絶されたのだろうか。汗ばんだ有の体が少し冷える。
「でも、ね」
 茉子は続けた。
「だからって、有が嫌い、な訳じゃ、ないよ。有には、そういう形じゃ、なく、友達、みたいに、一緒に、いて欲しいな」
「友達……」
「そう」
 茉子は有の髪に手櫛を通し、自分の髪も整えた。
「さぁ、有はもう、寝る時間だよ。部屋に、戻りなさい」
「うん……」
 そう言い残して、有は茉子の感触や体温を思い出しながら、仏間をあとにした。なぜだか目から何かが溢れてきたが、触れたものを洗い流してしまうような気がして、目をこする気にはなれなかった。


     

「有には感謝してるよ。お前がいなかったら、私はずっとあのままだったかも知れない」
 流れていたラジオドラマは終わったらしく、軽音楽部のバンドが作ったエンディングテーマが流れてきた。茉子はラジカセの電源を消しながら足を組み直す。
「そんな、あのあと頑張ったのは茉子ちゃんだし」
 有に告白された朝、有の母に謝罪をしたあと、「一日何も食べてないと辛いでしょ」と言われて多めに盛られた朝食を嗚咽を漏らしながら平らげたのを最後に、有は茉子が泣くのを見なくなった。茉子は相当の努力をして、自分の気持をコントロールする術を身につけつつ、人間らしさも失わずに生きてきた。神村中学校に入って人気者になり、親権を勝ち取った父を驚かせる程に陽気な性格になったのは茉子の力だ。
「お前はそう言うがな、誰かが愛してくれていることを知っているかどうかでだいぶ力が変わるものだよ。有のアレはさすがに予想外だったがね」
 二人は揃って苦笑した。
「お前もそろそろちゃんとした浮いた話の一つや二つ、ないのか? 高校生なんだし」
「そ、そう言われても」
 なぜか清水圭一の顔を想像してしまい、有は顔が熱を帯びるのを感じた。茉子は面白がって、ニヤニヤしながら意地の悪い口調で問いつめる。
「お前くらいのルックスをしていれば、普通もっとモテるだろうに。今日一緒に遊んだ友達に男はいないのか」
 口をつぐんでも、圭一の顔を思い浮かべているうちに自然と頬が赤らむ。有は仕方なく答えた。
「いる」
「何人?」
「二人」
「二人ともかっこいいのか」
「……うん」
 茉子はそうかそうか、と首を縦に振って、尋問を続ける。
「どっちかに惚れたりはしないのか」
「……どうしても答えなきゃ、だめ?」
 浮ついた居心地の悪さを覚えて見上げた茉子の顔が当然、と言わんばかりに肯定していた。有をからかうのを楽しんでいるのは昔から変わらない。有は観念した。
「片方、好きになった」
「そら、きた。で、そのラッキーボーイはどんな男なんだ」
「清水君、っていうんだけど……。見た目とか話し方は恐いのに、優しいの」
「なるほど。とりあえず、これでお前も男を好きになることが分かった。おめでとう」
 茉子が笑いながら有の頭をはたいた。
「しかし、趣味も似てるな、私達。私の彼氏もそんな男だ」
「え、茉子ちゃん彼氏いるの」
 見た目や仕草の女らしさとは裏腹に、茉子は話し方や性格は男性的な部分も多く、仕事も生活も能率重視だ。中高時代はそこそこ遊んでいたことを知っていたが、今は「浮いた話」とは縁遠そうに見えるので、少し意外だった。
「失礼だな」
「どんな人?」
 効率の悪いことを好まない茉子が興味を持つ相手は、果たしてどんな人物なのか、有は気になった。
「病院の同僚なんだ。髪を茶色に染めて、ピアスもしてる、おおよそ出来そうには見えない奴なんだが、優秀だし、性格も堅実で、しかも優しい。理想的な男だよ」
 茉子がジーンズのポケットから一枚の写真を取り出し、有に渡す。病院の中庭のベンチに座っている白衣の男女。茉子の左隣に写っている男はそこはかとなく雰囲気が圭一に似ている。確かに私達は趣味が近いかも知れない、と有は思った。
「彼にとって、私はウィノナなんだ」
 夜に染まる窓の外を眺めながら、茉子は言う。聞き慣れない名前だ。
「誰、それ?」
「ウィノナ・ライダー。知らないか」
 茉子が向き直ると、有はかぶりを振った。映画は嫌いではないが、積極的に見る気もしないので、あまり知識はない。
「そうか。まあいい、ウィノナ・ライダー講座をするつもりはない」
 そう言うと茉子は再び外を見る。
「私はな、彼が知りたいと思う、ただ一人のスターなんだ。彼は私以外の女を見ないし、私も彼以外の男を気にかけたことはない。お互い幸せもんだよ」
 甘い声音で独り言のように言う茉子は幸せそうだ。彼と付き合うことで、自分なりに最上の選択をしたのだろうし、相手もまた同じような感想を持っているのだろう。
「有も、清水君だったっけ、その子にとってそういう存在になれるように頑張れよ。一時も自分の目を離さず、相手の目を離させず」
「私にそんなこと、出来るかな」
 茉子は安心させるような笑顔で答える。
「出来るさ、お前なら。今まで出来なかった方が不思議なくらいだ。『次世はスターかい?』」
 有は怪訝そうな顔をして首を傾げると、やれやれ、とでも言いたげな動作で茉子は肩をすくめた。

「晩ご飯食べていけばいいのに」
 母がそう言う間に、茉子は靴を履く。
「いえ、なんの連絡もなしに突然お訪ねした訳ですし、ご飯までご一緒するのは図々しいかな、と」
「あらそう。私達は構わないけどねぇ」
 茉子はハンドバックを床から拾い上げて会釈をした。
「じゃあ、この辺で失礼します」
「いつでも来なさいな」
「じゃあね、茉子ちゃん」
 有が小さく手を振ると、茉子も笑いながら手を振り返す。
「あぁ。有もたまには病院に来なさい。世話にならないに越したことはないがな」
「可能な限り近付きたくないなー」
 ドアが開いてから閉まるまで、茉子の背中を見送り、また居間の方へ戻る。テーブルには茉子が焼いたというクッキーが入った箱が置かれている。あの子、相変わらず家事は苦手らしいね、と母が台所から言ったので、覚悟を決めて一つ口に放り込む。不味くはない、としかいいようがないが、以前はもっとひどいものを食べさせられた気がする。性格共々、大した努力と進歩だ。
 頭の中で、仲のよさそうな茉子と恋人のツーショットを、自分と圭一に置き換えながら、もう一つ放り込むと、さっきよりわずかに甘くなった気がした。茉子ちゃん、頑張ってるんだ。一言呟いて、有はテーブルを片付け、夕食の準備を始めた。


     

 中学校時代の記念品等をまとめたダンボール箱の一番上に、緑の布の表紙に金文字で校名が書かれた卒業アルバムが入っていた。埃を吹き飛ばしながら功二は住所録を開く。アルバムには、卒業後にも級友と連絡が取れるよう、住所録が収録されているのだ。功二は三年C組にいたが、香川がその時同じクラスにいた憶えはない。三年A組の一人一人の氏名をじっくり確認し、ページをめくる。あった。三年B組、出席番号3番、香川貴輝。功二は親指で素早く携帯電話のボタンを押し、受話器を耳に当てる。
 突然香川に電話をかけようと思い立ったのは、圭一と話していたときの自分の発言に偽りがあったからだ。他人事のように淡々と説明したのも、特に理由があった訳ではないと言ったのも、間違っている。
 七回目のベルで、ようやく応答があった。
「はい、香川です」
 高くもなく低くもない、なんの特徴もない声で香川が出た。
「香川、久しぶり。俺、中二の時一緒だった中川だけど」
「おー、中川か。久しぶりー」
 予想に反して、香川は怒りや動揺を見せたり、最悪の場合功二が名乗った瞬間に即座に切ったり、といったことは一切なかった。むしろ、何年ぶりかに教え子から電話があった教師のような口ぶりだ。
「あのさ、中二のあれ、謝りたいんだ」
 功二がそう言うと、香川が苦笑する。
「そんな昔のこと気にしてないよ」
 なんという寛容さ。同世代の人間にしては珍しく、時間が経っただけで許してくれた。こいつは間違いなく大人物になる。そう思いかけたが、よくよく考えると香川は成績も容姿も運動神経も平凡で、大物になれそうな要素は一切ない。大検で東大を目指していると風の便りで聞いたときは率直に言って呆れたくらいだ。
「でも、一つ教えてもらっていいかな」
「あぁ、なんだ」
 香川がなにを訊こうとしているのかは予想がついた。
「なんで、ああなったんだ」
 予想通りだった。無視されていた理由が知りたかったのだ。
「やっぱり、訊かれると思ってたよ。一学期に後輩の兄貴がトラックに跳ねられて死んだんだけどさ」
「うん」
 春子の兄に責任を押し付けるような気がして、功二は言い辛さを感じた。しかし、ここまで話した以上、引き返したりは出来ない。
「……俺の、せいなんだ」
「えっ、マジで!?」
 電話の向こうにいる少年の驚愕の表情が目に浮かぶようだ。
「あぁ。俺と圭一でサッカーボールを蹴って遊んでたんだけど、俺が蹴ったら公園の柵を乗り越えて道路に出ちゃったんだけど、その人がボールを取りにいって、トラックに跳ねられた。俺達の目の前で」
「うわぁ」
「その時あったことをありのまま後輩に話したら、そいつが俺を責めてきたんだよ。当然と言えば当然だけどさ、原因作ったの俺だし。でも、その時はイラッときた。どれだけ罪悪感を背負わせる気なんだよって」
 功二は目を閉じた。怒りで歪む顔、声、大して痛くもないのになぜかダメージを感じる拳が、すぐそこにある気がした。春子に会うのが恐い時期なんてあれっきりないというのに。
「で、そのストレスが俺に向かってくる訳か」
 香川が指摘する。物分かりがいい奴だ。功二は思わず頷いた。
「あぁ。いなくなっても害が無さそうな奴を選んだつもりだった。悪い噂を陰で流しておけば結構信じちゃうんだよな、みんな」
「そうか。分かった」
 その程度の理由でも、その頃の功二には充分だった。中学生という若過ぎる一時代の単純な思考回路は、それだけで自己を正当化出来たのだ。
「最後に」
「なんだ、香川」
「蟻村、って憶えてる?」
 あっ、と言いそう形で功二は口を開いた。実際、声が喉まで出かけた。なぜここでその名前が出るんだ。寝耳に水をかけられたように功二の意識が引き締まる。
「蟻村有。中川、中学ずっと同じクラスだったはずだけど」
 嘘だ。俺はこないだ春子に紹介されて初めて蟻村さんに会った。恋に落ちるくらいの相手だったんだし、中学で一緒だったら憶えてるはず。
 受話器を放り出しだ功二を香川が呼び続ける。卒業アルバムのページをめくり、自分のクラス写真を確認する。
 嘘だ。今度は言葉を抑え切れずに口走った。
 クラス写真の隣に、その写真の構図を模した簡素な挿画があり、それぞれの人型の頭に出席番号が書き込まれている。その下に名簿があって、写真のどの位置に誰が写っているのかが分かるようになっている。
 長めの瞬きをして、まぶたを開ける。確かにそこには、こう書かれていた。

 三年C組 17番 蟻村 有

 写真を確認する。挿画の十七番の位置に写っている生徒。女子中学生としては高い部類に入る身長。長い黒髪。それをまとめるリボン。つり目。全て紛れも無く蟻村有のものだ。
 鼓動につられて手の動きが早まる。
 功二はダンボール箱からもう一冊のアルバムを取り出した。こちらには一年次、二年次のクラス写真と自分で購入した学校行事の写真、自分や友人が個人撮影した写真などが収められている。
 一年次のクラス写真にも、二年次のクラス写真にも、有の姿が認められた。修学旅行や体育祭、文化祭の写真にも、中心に映っているものはなかったが端っこに顔の一部が映っているものは幾つかあった。
 功二は受話器を取り上げ、会話に戻る。
「蟻村さんが、どうした」
「蟻村って今神高?」
「あぁ、そうだよ」
 そっかぁ、と香川が自分に言うのが聞こえる。
「じゃあ、よろしく伝えといて」
「ちょっ、ちょっと待って。お前、蟻村さんと知り合いなの?」
 香川が電話を切りそうな気がしたので呼び止めたが、結局切られてしまった。
 なんだよ、肝心な時に切るなよ。
 脱力感が功二の肩にかかる。
 功二は思わず笑い出した。必死に写真を漁る自分の姿を想像すると滑稽でたまらないし、通話を終わらせようとする香川への無駄な抵抗も格好が悪い。しかし、それ以上に中学校の三年間を同じクラスで過ごしながら、蟻村有の存在に気がつけなかった自分が情けなくてバカバカしい。
 右手に握った受話器が、ツー、ツー、と一定の間隔で耳障りな音を立てる。功二が笑うのをやめて立ち上がるまで、それは延々と鳴り続けた。


       

表紙

岸田淳治 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha