Neetel Inside ベータマガジン
表紙

球体関節人間訃報投棄全集
第二世界

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 ◆第二世界 (2007.10.22)

初出:
「泡沫断片集」(文藝新都登録作品 短篇集)
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=2694
※登録削除済み
※執筆時期不明(2004年頃?)

     


     

 (一)

 どこにでもあるような河川敷だった。僕はそこに腰を下ろしていた。空は晴れて、遠くの木々が緑の群れを作っているのが見えた。やや下方にある川を見下ろしたが、それは川に見えやしなかった。少なくとも流水は見当たらない。それは水面をゴミと油で埋め尽くされた、不要物の通り道だった。
 錆びてささくれ立ったドラム缶、ばらけた木材、緑や青や赤のビニールで包まれた椅子やテーブルや机やそれらの残骸、茶色い植木鉢、欠けた壺や陶器の品、細々としたプラスチック製品、黒く汚れた発泡スチロール。他にも色々なものが川に詰め込まれており、それらは無作為に混ざり合って下品な色合いをなしていた。
 けばけばしい色の廃品に埋め尽くされた川は、僕から見て左から右に向かってゆっくりと流れており、見える限り一様に汚らしい状態だった。川の両端はコンクリートのブロックで固められて、その隙間からは多くの雑草が緑の領域を広げようともがいているように見えた。
 これはゴミの川だ。人間を嫌いになる切っ掛けを与える光景だった。不思議と悪臭はしなかった。川の、物と物との隙間にはぬらぬらと油が光っているのに。

 僕は立ち上がり、どこかへ行こうとした。川上となる左手には、川を両岸から挟むように五階建て程度の住宅がずっと向こうまで並んでいた。川下となる右手は平地で道路と川が続いており、奥の方に森が見えた。どちらとも何故か人の気配がしない。さて、僕はどちらに行こう。上流か、下流か。
 少し悩んでから僕は、大きな建造物の続く上流を目指して歩くことにした。もっと先へ行けば、汚されていない綺麗な流れを見られるかもしれない。下流に行ったってゴミ溜め以外のものは見られそうにないだろう。理由は単純だった。
 川上には、川の中に浮かんでいる物と同じように人工的な色の建物がひしめき合っている。窓の配置も一定で、個性の欠片も見受けられない。川と住宅の間には小道があって、僕はその狭い通路を歩いている。さっきまで座っていた河川敷からそう遠くないはずだが、両側を巨大な建造物に囲まれると妙な圧迫感があり、心なしか川幅も小さくなってしまったように感じる。川の中は相変わらず不要の物体がお互い同士でぶつかりあっていた。
 ふと、川の中で人間が流されているのを見た気がした。女性のものらしき長く黒い髪が、川に汚されて光を失っている。その女性は木材らしきものに助けられるように浮かんでおり、白い肩や放り投げられた腕には黒く汚れた細かい何かが張り付いていた。髪の毛に塞がれて顔が覗けないが、とても生きているようには見えなかった。近付いてみるとすぐに判った。人形だ。マネキンか何か知らないが、とにかく生き物でない事は確かだった。妙に精巧な造りの髪の毛の隙間から、色のない瞳が空を仰いでいる。僕はそれが本物の女性だった場合を想像して、背筋に寒気を覚えた。
 人形は下流に流れて行った。僕は上流に向けて再び歩き出した。少しすると、川の奥に船が見えた。大きな船じゃなく、ベトナムの川にでも浮かんでそうな一人用らしい小ぶりのものだった。尖った麦藁帽子のようなものを被った老人が一人、船にのってオールのような長い棒をこいでいる。いや、それは本当にただの長い棒だった。先端に何もついていない。この川は浅いらしいので、水をかく部分は必要ないのだろう。とにかく老人が物で溢れた川の中に細長い船を進めていた。
 僕が様子を見ていると、その内に船の上の老人は何か大きな黒い物を川の中から見付け、それを引き上げようとした。僕にはそれがどうしても大型テレビにしか見えなかった。力のない老人はそれを船に上げるのにてこずっているようだった。格闘を続けた末に、老人はようやくその黒い大きな物を引き上げて船の尻に載せた。しかしそれはとても重い物だったらしく、小さな船は簡単に沈んでしまった。ゆっくりと川の中に埋もれてゆく船の上で、妙な事に老人は慌てる素振りを見せない。まるで当たり前の出来事のように、尖った船と老人は汚水の中に消えてしまった。

 僕はまた川上へと進んで行った。すると川の右側の建物の三階あたりの窓から、何かが顔を出した。テーブルの足のようなものかと思ったが、すぐに全体像が判った。大きなベッドだった。それは住宅の窓から放り投げるというよりは落とされ、地面に衝突した勢いで何度か転がり、引き寄せられるように川の中へ落ちた。大量の汚水を周囲に撒き散らして、味気ない造りの簡素なベッドは川の中でゴミたちの仲間入りを果たした。落ちた衝撃で足の一つがバラバラになって散った事も気にならない様子だ。そのベッドはまるで王様のような威厳を持って、堂々とゴミの川を流れて行った。
 歩いても歩いても、風景は一向に変わらない。茶色があせたような色の建物は川の両側にずっと続いているし、川の中身も同じ調子だった。住宅の脇をすり抜けて川を離れれば、そこはもう街になっているのだろうと思った。そこには川の汚れを知らない人達が暮らしていて、似たり寄ったりの商品を選んでは、どうせ捨てる下らない物を売ったり買ったりしているのだろう。そんな光景を見ても面白そうには思えなかったので、僕はとにかく川辺の小さな歩道を進み続けた。
 前方の、やはり川を挟んで反対側の住宅の窓の一つから、小さな物が川に向けて放り投げられた。それがどうも僕には子犬か子猫かの生き物に見えた。僕は走ってその小動物が落ちた辺りを見回したが、それらしいものは見付けられなかった。両手に納まりそうな大きさの動物だったろうか、色は何色だったろうか、思い出そうとしても思い出せなかった。いくら水面に目をやっても、溢れんばかりのがらくたしか見受けられなかった。仕方なく僕はその小さな生き物を探すのを諦め、道の先を進むことにした。川の中に入ってまで探そうとも思わなかった。

 しばらく歩くと川に橋が架かっていた。いやに白くて立派な橋だった。木か鉄かコンクリートか、橋の材質は僕には判らなかったけれど、とにかくそれは硬くて冷たかった。欄干には細かい装飾がなされていた。ヨーロッパの水上都市にでもありそうな、上品さを強調しているように小奇麗なその橋は、この川とはまるで不釣合いに見えた。橋の中程に立ち、川の先を眺めてみた。川はもっと先まで続いて、見える風景は今まで見たものと大差なかった。どれだけ歩けばこの連続する景色から抜け出せるだろう。もしかして自分は、同じ場所をぐるぐる回り続けているだけなのかもしれない。この先に進んだとしても、同じように窓から投げ捨てられる物は変わらないのだろうな。僕はひどい疲労感に襲われた。風景がぼんやりと滲む。振り返ろうとした時、不意に目覚まし時計が鳴った。とても不快で、大きな音だった。解ってる。もう七時だ。

 起き上がって朝の紅茶を飲んでいる時、窓から投げられた子犬か子猫の事を考えた。詳しく思い出そうとしても、それは別のイメージと連結するだけで一向に現実味を出さない。それが汚れた川に落ちて必死に足掻く姿を想像してみたが、結局俺には見付けられなかったのだ。

 (二)

 夜の街には薄暗い街灯が灯り、林立するコンクリートの一部を淡い緑色に照らしていた。僕は必死になってビルの隙間を真っ直ぐ走っていた。まとわりつく湿気を振り払うように、吐き出される息の白さを忘れるように、走る。外套の裾がバタバタと音を立てて足にまとわりつく。革靴が硬い音をたてて地面を蹴る。僕は夢中になって走っていた。裏通りは狭く暗かった。何故走っているのだろう。
 遠くの方で車の音や人々のざわめき、街の喧騒が渦巻いているようだった。それに比べてこちらは静まり返っている。聞こえるのは自分の出す荒い呼吸やくぐもった靴の音。どうにも走り疲れたので、僕は歩く事にした。白い息が自分の顔を覆う。首を振った。手の甲で額の汗をぬぐう。行き先を眺めてみたが、それがどこにつながっているのか判らなかった。とにかく歩いた。地面が濡れていたが、雨は降っていなかった。

 少し歩くと右に横道があり、僕は迷わずそこに入った。とにかく全てが暗く、恐ろしく狭い。周りを判別する事は出来なかったが、ここが街中である事だけは判っていた。通路と言うよりは隙間らしい小道を歩くと、突き当たりに灯りを囲む数人の男女がいる。僕の仲間だった。一人だけ立っている女性がおり、彼女は僕を見て微笑んだ。彫りの深い顔立ちの女性で、黒い革のライダースーツのようなものを着ている。その女性が僕に何か話しかけた。他のメンバーはライトに照らされた机の上の資料か何かを熱心に見入っている。僕は彼女に何か応えた。多分その女性は「見付けられた?」と訊いて、僕は「駄目だった」というような反応をしたと思う。彼女は残念そうな仕草をして、目を伏せた。

 僕はもう一度それを探そうと、仲間の集会場を後にした。本当は車が欲しかったし、さっきの女性と一緒になって探したかった。しかしどちらとも無理そうに思えて、それを主張しないでおいた。彼女は僕の背中に向けて言う。僕はそれに頷いた。横道を出ると、彼女の言う通り傍らに自転車が置いてあった。自転車か。それはどこにでもありそうな、特徴の無い自転車だった。しかも銀色で、全くこんなものに乗りたくなどなかった。しかし、とにかく僕はそれにまたがって、先ほど走っていた道の先を目指した。

 自転車は驚くほど遅く、余りにもペダルは重かった。スピードが出ない。僕はサドルから腰を上げ、体重をかけてペダルを廻そうとしたが、それでも車輪の回転はゆっくりとしたものだった。自転車を進めるのはひどい労働だったが、それでも僕はそれを走らせた。
 歯を噛み締めて、必死にペダルをこぐ。薄暗い裏路地に、所々街灯が当たって緑の壁を映している。光が薄い緑色なのだろう。どこからか水の滴る音が聞こえる。僕は再び汗まみれになっていた。

 前方に奴が見えた。逆光になって黒い影にしか見えないが、それは間違いなく探している人物だった。僕は自転車を捨てて走った。前方のシルエットは振り向き、すぐに逃げるべく走り出した。いくら進んでも前を走る人物は影のままだった。奴のコートがたなびく。二人の靴音がコンクリートに突き刺さるように響いた。馬鹿め、逃げ切れると思っているのか。僕は腰のホルスターから黒い拳銃を抜いた。銃身の横のスイッチを軽く引いて、銃口を前方の影に向ける。奴と僕との距離は7~8メートル。腕前を見せてやる。走り続けてみろ。僕は引き金を引いた。
 もう一度トリガーを引き絞ってみる。もう一度、もう一度。何の反応も無かった。いや、引き金が全く動かなかった。安全装置は外したのに。あの自転車のペダルよりも重い。左手を使ってみても駄目だった。僕は訳が解らず、立ち止まって銃を眺めてみた。何の異常もない。なんだってんだ? 奴が逃げちまう。銃口を覗いてみるが、穴の中に何かが詰まっている事もなかった。刹那、乾いた破裂音がして鉛玉が発砲された。僕の顔に穴があいて、関を切ったように血が溢れ出す。僕は死んだのだ、とその光景を傍から見て思った。

 なに、簡単な事だ。つまり、目を開ければ生き返る。五感が外側に向けて接続された。俺は目を開けて時計を見た。目覚ましが鳴る二分前だった。くそ。もっと寝ていたかった。

 (三)

 ピンクの風呂場だった。僕は湯に浸かっている。風呂場のタイルがピンクなのか、風呂釜がピンクなのか、それともお湯がピンクなのか判らなかったが、とにかくそこはピンク色だった。湯船に、漫画で見たような黄色い小さなヒヨコの玩具が浮かんでいた。それと一緒に小さな少女がいて、その玩具で遊んでいた。髪を左右で縛っている少女の出す声はかん高く、僕の耳を切り裂くようで不快だった。同じように、どこか遠くから腹にずんと来るような低い音が響き渡って来ていた。それは隣の家で巨大なモーターでも廻しているかのように、小さな振動を含んでいた。僕はピンクの風呂場に嫌な感じしか抱かなかった。すぐにでも出て行きたかった。
 僕は見ず知らずの少女と一緒に風呂に入っているが、その少女と仲良くしようだとかは思わなかった。幼い女の方も僕を気にせず、きゃっきゃとはしゃいでは黄色いヒヨコと戯れている。お湯の温度は熱くなく、ぬるくもなく、むしろそこに水があるのか判らないという具合だった。遠くから響く低い音が一層大きくなった気がした。
 壁面に埋め込まれているタイルがかたかたと揺れる。遠くで獣が呻いているようにも聞こえるのだが、少女はお構いなしな様子だ。とにかく僕はそこから抜け出そうと思っていたが、それは出来なかった。出口があるように思えなかった。少女の高い声は更に高くなる。何を興奮しているんだ?
 良く解らない内に、少女は黄色いヒヨコを湯の中に沈めた。その後それを追うように自らも湯船の中に潜って行った。お湯が濁っているのか、少女の影すら僕には見えない。これで音波のような声を聞かずにすむと思った時、彼方から響いていた低音も消えている事に気付いた。ピンクの風呂場は全くの静寂に包まれていた。僕は動けなくなった。何かが起こる。
 不吉の前兆だと思った。緊張が張り詰めていた。少女の存在は消えてしまったらしい。風呂場には僕一人が残ったのだ。そして、何か絶望的な事が始まるのを待っている。僕は辺りを見回した。どこを見ても、そこはただピンク色なだけの風呂場だった。

 どれだけ時間が経ったろうか。微動だにせず待っていたが、何かが起こりそうな気配は薄くなり、やがて消えてしまったようだった。あとには退屈だけが残った。

 これ以上ここには何も無いだろう。だから俺は寝返りをうって、場面を次に切り替えた。

 エジプトらしい。真っ青な空の下に黄色く輝く砂漠が広がり、丘をなし、遠くに巨大なピラミッドが見えた。それら全ては熱のために歪んで見えるが、どうもそれらの風景が僕の位置からは舞台の書き割りのような作り物に見えた。切り取られた写真の中の風景に見えた。巨大な太陽が強烈な熱を放っているらしい。砂は焼かれ、空気は乱れているようだ。でも、僕はそのどれをも実感出来ない。僕は本当にここに立っているのだろうか。
 ピラミッドの方向に、黒い人影の塊が見える。僕はその人達の方向へ歩いた。しかしいくら歩こうとしても、その人影は近くも遠くもならない。やはり僕は傍観者らしい。風景は風景のままで、干渉する事は無理のようだ。必死に近寄ろうとしても、体に力が入らない。まどろみの深くにはまっていくようだった。あの場所へ帰ろうと思った。
 すぐにピンクの風呂場へ戻った。相変わらず僕一人で、辺りは静かなものだった。

 不意に目が覚めて、今は真夜中だと直感的に気付く。さっきまで見ていた映像が朦朧としている脳裏をよぎると、俺にとってそれはとても大切なものであるように思えた。あの風呂場に帰ってから先、何が起こったのか。ひとつひとつの場面を繋ぎ合わせ、忘れてしまった思い出を手繰り寄せようと目を閉じる。しかし、上手くいかない。記憶は不鮮明で、薄い膜に覆われているようだった。あるいはあの湯船に沈んでしまって、もうそこから抜け出せなかったのか。幻想の内の体験は、全てが黒か白のどちらかに塗りつぶされてしまい、再び出会える事は不可能に思えた。そうしている間に、頭の中はゴチャゴチャしたとりとめのない映像が渦巻いてゆく。その内のなるべく小さいもの、なるべく淡い色のものを選んで、次の眠りの尻尾を掴もうとする。俺自身の寝息が聞こえた時、次のものはすぐに始まっていた。

 望んだ場面を思い出したのは、それから二日後の朝だった。それまで、俺はピンクの風呂場もピラミッドも忘れてしまっていた。

 (四)

 仕事帰りのくたびれた身体をバスの座席に深く沈めると、暖かい車内の匂いと共に穏やかに、少しずつ、それは俺の中に入り込んでくる。それは例えようも無く柔らかで受け入れ易く、とても抵抗する気になどなれない。視界が瞼に遮られる。つまらない考え事から、まるで隔たりなど存在しないかのようにそちらの領域へと移行してゆく。どこまでが俺の意思で、どこからが無意識なのか判らない。
 タコの頭のように赤く丸く、とても大きいものだった。手にとってみたかったが、すぐに向こうへ去って行ってしまい、見えなくなった。
 次に見えたのは、ビキニを着てポーズを取った女だった。その女の顔には見覚えがあった。何かの雑誌で見たのだと思うが、どうせ僕はグラビアアイドルの名前などいちいち覚えはしない人間だ。女の顔や体、全てが平坦に見えた。まるで等身大ポスターか何かのように。その女も、何の感動も伴わずに去って行った。
 何色と表現すればいいだろう。生の木の色が四角に切り取られている。まな板だった。手にとってすぐに解った。これはとてもいいまな板だ。こんなに素晴らしいまな板は初めて見た。これはとても貴重なものだ。この先の人生で、これ以上のものを見る機会などありはしないだろう。僕はそれを左手の脇に抱えた。持って帰ろう。探せば他にも有用な物があるかもしれない。
 豆腐、パック入りの豆腐にしか見えない。細長い形状は、150g入りのパック豆腐の証だ。僕の希望に沿おうとしているのだろうが、僕がいつも買うのは正方形に近い400g入りの絹ごし豆腐だ。僕はすぐにそれを見送った。小さすぎる。
 凶兆か? 刃物だ。鉄の部分が長い。赤い柄の鋏だ。裁断用鋏だった。刃物部分は20cmほどもあるだろうか。僕は思わず首を振った。こんなものは要らない。それが顔の横を通り抜ける時、誰かが復讐を誓う文句を言った。それが何だ?

 気付いた時には崖っぷちだった。それから先は無かった。背後も失われていた。僕は孤立した。もう、これ以上は無い。
 眩暈のような感覚があり、次に真っ白い空間があった。顕微鏡で覗いた精子映像のように、点と線が繋ぎ合わさっては離れ、まるででたらめなダンスを踊っていた。どうにか移動して意味のある全体像を成そうとしているように見えたが、それは永久に出来そうもなかった。白く照らされて青黒く見える線状物質は、それでも動くのを止めなかった。

 空白があり、いつものニュース画面が出て、いつものニュースを放送していた。もうずっと前から音が失われていたのに気付く。少し間があって、次に色がゆっくりと消滅して行った。それは、大きな力が存在の全てを片隅に押しやってゆくように思えた。

 目を開けた時、いつもの停留所はすでに通り過ぎていた。停車ボタンを押すと、バスはすぐに止まった。俺がいつも降りている停留所より、一つ乗り過ごしただけだった。下車して歩いている最中、家に帰ったらもうひと眠りしたいと思った。しかし、夕食を作り、それを食って、その後風呂にも入らなければならない。夜の風が冷たく通り抜けて俺の身を縮ませた。疲労が溜まった重い足を引きずりつつ、とにかく家路を辿る事に集中する。明日の為にも、今夜は多く睡眠をとりたい。

 (五)

 何度聞いても目覚ましの音は不快だった。スイッチを切らない限り五分後に再び鳴り響くと解っていたが、ボタンを押して音を止める。もう少し猶予が欲しい。直前まで展開されていた情景に集中したい。あと少しで、全て上手くいくところだったのに。

 それは女だった。その女、俺が過去にどれだけ想い焦がれた事だろうか。ピンクの風呂場を抜けると、曇り空が広がる灰色の屋上に出た。外周に設置されているフェンスを背に、ショートカットの女性が悲しそうな顔をして立っている。疑いようもなく、確かに、俺の初恋の人だった。当時少女だった彼女は今、俺と同じだけ歳を取ってここにいる。彼女は泣きながら喋った。俺は彼女を美しく思い、その頬に触れようとした。彼女の涙をぬぐおうとした。しかしそれは許されざる行為、不適当なものに思えて、指先を女の眼前で止めた。
 何が悲しい? 仕事が上手くいかない? 憧れだった都会が、思った程じゃなかった? 親しくしていた男に、裏切られた? なぜこの街に戻って、なぜ俺に話す?
 彼女の背後、フェンスの向こうには灰色の街が広がっている。どこにでもある風景だった。ただ彼女だけが特別だった。中学を出て以来、俺は彼女を一度も見ていない。何年かすると彼女の顔を思い出す事もなくなっていた。そんな彼女がここにいる。少女の頃の面影が、ただのガキだった俺自身の思い出を甦らせる。
 俺の様子など構わず喋り続けていた目の前の女性の話は、結末まで続かなかった。言葉尻は涙で流されてしまった。彼女は大きなしゃっくりをひとつして、頼るように俺の、いや、僕の胸に飛びついた。僕は事前に台本を読んでいる役者のように、慣れた手つきで彼女の肩を優しく抱き返した。傷ついたんだろう。悲しくて仕方ないんだろう。
 君が何を思ったのかは解らない。でもそれは問題じゃない。ここに結果がある。君は僕を必要とした。ならば君に何を咎めようか。過ちも何もかも、僕は全て許そう。これからはずっと一緒なのだから。
 僕は彼女を抱く腕に力を込めた。大人になってから、あるいはもっとずっと前から探している、足りないパズルの最後のひと欠片、それをここに見付けた。僕は胃の中から光や熱が溢れるのを見た。栄光は僕の指先の先の先まで浸透し循環する。えも言えぬ絶頂の中だった。彼女への気持ちが逆に僕を満たし、乾いた過去や罪が自分自身により許されるのだと悟った。
 僕と彼女。ただ抱き締めている事。それが全てだった。

「――何か大切な事を忘れているんじゃないのか」
 思考の片隅に言葉がこびり付いていた。

 五分が経った。



第二世界/了

       

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