アンチェイン由江
由江
――世の中は、美人であるというだけで大抵の事は許される。
それが女性の社会進出に伴い、女性に対する配慮が増しているからなのか
それともまだまだ男社会が健在で、下心からそうなるのか
どちらなのかは明確に判断できかねるが、ともかく美人であれば損をする事はないのである。
例えばギャルゲーの主人公などは、たとえ得体の知れない女でも美女であれば
深く考えもせず、手放しで喜んで受け入れたりしているわけだが
現実で考えるとこれは、中々の勇者ではないだろうか?
現実の世界でも美女であるなら、得体の知れない女でも男は喜んで受け入れるよ。という
意見もあるだろうが、そうだとしても得体の知れなさには限度があると思われる。
正体不明の女を躊躇無く受け入れる人間は、現実にはどれだけいるのだろうか?
「ごめん陽くん、ちょっとそこのお醤油とって」
「え? あ、はい」
「ありがと」
とまどいながら醤油を手渡す陽に、由江は優しく微笑みながら感謝の言葉を述べる。
陽から見て右斜め隣のテーブル席に座り、一緒に朝食を取っている女性、由江。
彼女はまるでモデルのようなスタイルの良さと整った顔立ちで
誰の目から見ても美女であるのだが、その分セミロングにピンク色の髪が
日本の朝の食卓の風景にまるで似合わず、恐ろしいまでの違和感を醸し出している。
「……あの、由江さんでしたっけ? ちょっと質問いいですか?」
「あら、どうしたの陽くん。急に改まって」
「まぁ、この子ったらお姉ちゃんに向かって「由江さん」だなんて」
硬い表情で由江に向き合う陽に対して、由江は柔らかな態度で応じ
一方で陽の左斜め隣に座っている母は、他人行儀な陽の態度に
非難めいた声を挙げたが、陽はそんな母の非難に応じず、言葉を続けた。
「あなた誰ですか?」
突拍子も無い陽の言葉に、朝の食卓に一時の静寂が訪れる。
母親は困惑した顔で陽の顔色を窺い、由江は表情の無い顔でただ陽を見つめている。
そんな静寂の中、ふと何かを悟ったような顔で陽の対面の席にいる父親が口を開く。
「相対主義とか言う哲学か?」
「はぁ?」
まるで的外れな父の発言に、陽は思わず間の抜けた声を上げるが、父は
それに構わず言葉を続ける。
「姉である由江の存在を定義する事によって、相対的に
思春期で不安定な自己の存在を確立する。そんな所か?」
(何言ってんのコイツ)
そう思いながらも、陽は冷静に対応する事に努めた。
「……そうじゃなくて、うちはそもそも一人っ子で姉ちゃんなんかいないじゃん」
「……何の話だ?」
「いないって誰が?」
不思議な顔で、陽に対して尋ねる両親。その応対に不自然さと苛立ちを感じた陽は
思わず強い言葉を投げ掛ける。
「だから、このピンク髪の女は誰なんだよ!?
何で当たり前のように一緒にメシ食ってんだよ!」
「…………」
「…………」
今度は無表情のまま押し黙る両親。それを見て、今まで黙って事の成り行きを
見守ってきた由江が、ようやく口を開いた。
「もう、陽くんったらお姉ちゃんのこと嫌いなの?」
場の空気にそぐわない極めて明るい口調でそう言うと、由江は陽の
背後に回り、後ろから両腕と胸で頭を包み込むように抱いた。
ふくよかな胸の感触が陽の頭に伝わると、陽の顔は紅潮し、陽自身の
内心もかなり動揺していたが、それでもなお陽は由江に非難の言葉を浴びせた。
「止めろよ! お前は姉ちゃんなんかじゃない。そもそも誰なんだアンタは!」
そう言って暴れる陽を、由江は陽の首の後ろから体を包み込むように
していた両腕を使い、人間離れした怪力で椅子を挟んだまま陽の体を締め上げた。
「……ッ!」
胸を強く圧迫されて、苦しくても暴れるどころか満足に声すら出せない。
そんな陽の耳元で、由江は両親に聞こえない程度の小声で囁いた。
「余計な事言うなよ糞ガキ、殺すぞ」
「……!」
それは、とても女性の物とは思えない低い声で、容姿とのあまりのギャップに
陽は得体の知れない恐怖を感じ、思わず体を強張らせる。硬直している陽に
構わず、由江は陽の体に絡めた両腕をするりとほどき、体を離すと、未だに無表情で
沈黙し続けている両親の方に向かって、「パン」と大きく一つ、手を叩く。
すると、陽の両親はまるでスィッチが入ったかのように
ハッとして表情を取り戻し、音の発生源である由江の方に揃って視線を移した。
由江はそれを確認すると、取ってつけたような笑顔を作りながら陽に向かって口を開いた。
「もう、陽くんったら思春期だからって変なこと言い過ぎっ♪」
「……ああ、中二病とかいう奴か」
「……陽も難しい年頃なのねぇ」
女性らしい朗らかな口調で、陽に対して茶目っ気を含んだ非難を口にする由江。
その前のやり取りを経験している陽にとっては、わざとらしい演技にしか見えなかったが
両親から見れば違ったようで、口々に得心が行った感想を口にする。
「わけ分かんねぇ、何なんだよこれ……」
陽の困惑に満ちた呟きは、由江と何気ない談笑に興じる両親の耳には届かず、
陽にとってありふれた日常であった筈の朝の食卓が、異常な光景で過ぎていく。
――だがそれは、陽にとって最悪の一日の始まりに過ぎなかった。