Neetel Inside 文芸新都
表紙

君繋(Leica)スリーエフ
【1コマ目】

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 冷房の音。

 視界に収まるくらいの一室に詰め込まれている事務机たち、壁面を埋める本棚。何の役に立つのかちょっとやそっとでは見当もつかぬようなガラクタが机上を占拠し、或いは棚に詰め込まれている。ただでさえ面積の割合が小さい床面には反故が散らばり、うっかりしていると足を滑らせて転んでしまう恐れがある。そこは素人には歩くこともままならぬ新聞部室。

「前にも言ったけど、これで天井に羽根が回ってて、細く伸びる煙草のケムリがそいつに巻かれてたりなんかしたら、探偵事務所って言われても信じちゃうよね」

 軽薄そうな声質の男子生徒が、開けたままにした戸口に立っている。歓迎されるべき来客ではないらしく、それから随分遅れて、不機嫌を隠そうともしない声が返事をした。

「何しに来た、内山科学。呼んでもいないのに、我が部室の敷居を跨いでほしくないんだが」

 気だるげな女子生徒の、掠れ気味の声が弱々しく、部室に響いた。

「大げさだなあ、それに、そんな風に突っぱねなくたって――」

「うるさい。戸を閉めろ。冷房がようやく効き始めたところだ。出来るならそのまま一緒にこの部屋から出てゆけ。いやもう黙って出て行け。その声を聞くだけでも鬱陶しいよ」

 内山と呼ばれた生徒は小さくため息をついて、後ろ手で引き戸に手を掛けた。慣れない者には開けるのも閉めるのも難しいほど立て付けの悪い引き戸を、内山はなんともない仕草で滑らせる。

 ぴしゃん。

 女子生徒は部屋の奥の席にどっぷり沈み込んで、仰向けた頸を背もたれに預けていた。開いた市内報を顔面に被って、居眠りの途中でもあったらしい。やりとりの最中、市内報は彼女の唇の動きに揺らされながら、ずっと顔面を覆っていた。
 内山という生徒をないがしろにするのも彼女なりの理由がある。そして内山の方は女子生徒の冷たい待遇に一から十まで心当たりがある。にも関わらず、ひどく馴れ馴れしく、そのうえ遠慮の欠片も見られない。
 相手から見てどういう態度が最も腹を立てるか、全て承知の上でしらを切っているような。女子生徒の方は堪ったものではなかった。足音が自分に近づいてくるのを自覚するだけで眉間に皺が寄る。

「俺とお前の仲じゃん、葛西。つれないこと言うなよ」

 全身の血液がヘモグロビンの単位で猛り狂うように脈打った。今やその女子生徒、――新聞部長、葛西涼の全神経は怒りによって極めて鋭敏に研ぎ澄まされている。内山がへらへら笑いながらその手を自分の肩に振り落とさんとしているのさえ心の眼で見通す。顔に被っていた市内報を払いのけると身を翻し、遠心力に勢いづいた肘でもって内山の手を思い切りぶちのめした。憤怒に燃え盛る瞳で相手のなよなよしい両目を睨み付け、まるでその内にちらつく腐れかけた根性を灼き尽くさんばかりである。

「おお、痛てぇ。ひどいことしやがる」

 あくまで内山は態度を変えない。葛西と自分と、状況がどちらに味方しているかはお互いによくわかっている。内山はその上にあぐらを掻き、いつまでも陰湿な物言いを続ける。

「内山科学、用があるのならさっさとそれを果たしてこの部屋から出て行け。目障りだと、何度言えば分かるんだ」

 葛西は怒髪天を衝くが如く形相で凄んでみせた。心臓の鼓動が異様なまでに高まっている。血に飢えた獣のような呼吸で、必死になって感情を抑えようとしている。内山は手の甲をさすりながら再びため息をつき、懲りずに「そんなに怒らなくてもいいと思うんだけどなあ」などと呟いている。とうとう激情ほとばしった葛西はもはや自分の意思によるものかそうでないのかさえはっきりしないような衝動に身を任せ、内山の学生服の襟を両手で捻り上げ、

「うわ、わ!」

 すぐ傍の事務机に向けて突き飛ばした。内山は机の角に腰を打ち付けて、不様にも机上を転がり落ち、反故の散らばる床に尻餅をついた。さらに追い討ちをかけるが如く拳を振り上げて内山に迫る葛西。内山はほうほうの体で後ずさり、怒気を立ち上らせてにじり寄る葛西に手の平を突き出して懇願した。

「待った、待った! 殺す気かっ。勘弁してくれ」

 窓から差す放課後の西日は閉め切ったブラインド・シェードに遮られ、床には横縞の影絵が描かれている。歪な影が無様な内山の顔面を千切りにする。部室が静かになって、聞こえるのは低く響く冷房の音、その上を脈打つ葛西の呼吸だけ。葛西は少しだけ落ち着きを取り戻し、握り締めた拳を引っ込めた。黙って後ろを向く。もう目の前の男とは何も言葉を交わさないことに決める。
 だから早く去れと心から願う。

「まったくもう、――」

 やがて内山は立ち上がる。尻の埃を叩き落とし、制服の裾を引っ張った。しきりに体を捻って、自分の体を隅々まで点検した。点検しながら「生徒会執行部からの通達、――」と言ってようやく自分の仕事にとりかかる。

「新聞部の廃部決定は三日後の金曜日。それまでに新入部員が見つからなければ予定通りに執行されるから、そのつもりでよろしく」

 内山の任務は生徒会執行部の伝令に過ぎなかった。それも、口頭での、念を押すような、嫌味な仕打ち。また腹が立ってくる。葛西は黙って聞いていた。内山に背を向けたまま、呼吸を深くして苛立ちが収まるように努めながら。

「なあ、聞いてるか。それまでにこの部屋のガラクタや、散らかし放題の始末、備品の返納まで全部済ませろってことだからな。分かってるか」

 内山の声がとげとげしいものに変質してゆく。平坦になりかけた葛西の呼吸がまた熱を帯び始める。

「聞いてんのかって、おい」

 懲りない男の手が再び葛西の肩に伸びる。

 何度も言うまでもないが葛西の全神経は極めて鋭敏に研ぎ澄まされている。ぶり返した怒りの感情は先程のものより一層の灼熱を滲ませており、それらの熱を一挙に集めたのは彼女の利き腕の握りコブシである。――

 ――内山は鼻っ柱をぶっ飛ばされ、したたる鼻血を手で押さえながら涙ぐんで退散する羽目となった。

 そして飛び出した内山を追って廊下に躍り出た葛西が、新聞部長が吼える。

「おととい来やがれっ! 腰抜け執行部のクソ犬野郎!」

 彼女の振り上げた右腕には、威容ある白地の腕章が巻かれており、堂々たる達筆な書体で『新聞部』と刺繍がされてあった。

 在籍部員が三名以上揃わなければ課外部活動としての体裁を認めない。――そういう文言が生徒会執行部の部活動規約に存在する。
「障子の桟に薄く積もった埃すら見落とさない、嫁いびりが趣味の姑のように意地の悪い奴らが執行部を占めている」
 葛西は常々そうぼやいていた。もともとぎりぎりの頭数で活動を続けてきた新聞部であった。少し以前にまさかの欠員を出す事態に陥り、すぐさまそれを嗅ぎ付けた執行部の連中が大挙して新聞部室に押しかけてきた。今や生徒会から三行半を突きつけられた新聞部は存続の危機に立たされており、以来、現状は常に崖っぷちである。
「たった一人、暇を持て余す生徒を見つけるだけだというのに」
 これがなかなか都合よく見つからない。生徒手帳に長々と記される学生心得を開けば、本校生徒は各人いずれかの課外部活動に所属しなければならぬという掟がある。重ねて兼部は許されないから、二学期も半ばというこの中途半端な時期に新入部員を募集するという行為自体が馬鹿馬鹿しい。
 馬鹿馬鹿しいが、それでも何もしないわけにはいかない。今や在籍二名となった本校新聞部員たちは、心ない生徒の冷ややかな視線に耐えつつもビラを貼りまわり、放課後の校門に立ち、運動部所属の幽霊部員や週三活動の文化部員たちを相手に直接交渉をけしかけたりしたが、実のある収穫はこれまで一度もないという有様である。

 ヒラ部員の一年生、柴田絹子は健気に募集活動を続けている。通学鞄に募集ビラと部で発行する校内新聞を常に持ち歩き、人一倍の人見知りにも関わらず初対面の同世代たちの前に立ち、冷や汗をだらだら流しつつ懸命にさけぶ。
「お願いです。私たちの新聞部が、潰れてしまっては、困るんです」
 しかしながら嗚呼、無情。世知辛い学校社会は小型犬が瞳を潤ませ震えているような柴田の訴えさえはね付ける。己が非力さを哀れみ、彼女は何度枕を濡らしたことか。しかし今日も、柴田は沈んだ心地を押し殺し、新入部員を探し歩くのだろう。他にやるべきことは思いつかないのだ。

 葛西は半ば諦めかけていた。走り回る柴田に申し訳なく感じる一方で、みみっちい勧誘活動は功を奏さないであろうと見切りをつけていた。何故か。自分が誘われたって皆目なびく気にはならないからだ。状況は圧倒的に自分たちに分が悪い。そんなことは初めからわかっている。なのに対策の見当もつかない。出来る限りのことはやり尽くしたつもりだった。八方塞がりの息苦しさの中で、居心地の悪い放課後の時間が過ぎてゆく。数日前までこれほど心踊り、創造性に溢れた居場所はないと感じていた同じ部屋である。同じ机に同じ椅子である。同じような西日が差す。だがちっとも落ち着かない。ため息ばかり零れ落ちる。

 ここに至って繰り返し思うのはある生徒に対する恨み節ばかりである。つい最近、生徒会執行部に退部届を提出しくさった元新聞部員の男。顔を思い浮かべるだけで沸々と腹の中が煮えくり返ってくる。

「この怨みは必ず果たす」

 今の葛西の原動力は、ほとんどこの男への憤怒の感情から生まれていた。目下の問題が片付いたら、――必ず片付けてその後は、追いかけて後ろから刺してやる。そうまで思いつめるときもある。憎々しいその男の名前は、もはや言うまでもないだろうか。

 ――内山科学、

 忌々しくもあのキツネ野郎であるのだ。

       

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