70000歳
若鶏
建物の中は薄暗かったが、陰気な印象は受けなかった。むしろ青空の広がる草原に一本だけ伸びる木陰のように、健康的であった。廊下の床は堅牢な木材で、歩くたびにカツンカツンと涼しげな音が反響する。
突き当りの左手に使い込まれた木製の引き戸があり、それを横に滑らせて開けると教室だった。生徒は大体20名ほどである。その中にはミクリヤも居た。
40の瞳によって、モロボシは見つめられている。剥き出しの太ももとセーラー服姿の自分を、余すところなく見つめられている。それを意識し始めると、頭の奥深いところがほんのり熱を帯びてゆくのがわかった。それを自分でどう受け止めていいのか分からず、モロボシは思案に暮れた。
そうやって黙りこくっていると、教師と思われる年配の人物が、緑色のプレートの前に立って優しくこちらを眺めていることに気がついた。それでようやく、モロボシは自分の中に生まれつつある謎の感情を払拭することができたのだった。
教師と思われるその人物は、ほうれい線の刻まれた口をゆっくり動かし、柔かな声音でモロボシに言った。
「それじゃあまずは、自己紹介してもらおうかしら」
いつの間にかツツジとタマキは各々、自分の席についていた。タマキはモロボシのブラジャーを、あたかも自分の衣服のように着こなしたままこちらを見つめている。
モロボシは、あれ? と思った。
確かに、乳房の足りないモロボシよりも、豊満な乳房を実らせているタマキの方が、ブラジャーに対して礼儀を払っていると言えよう。学校までの道中、胸のブカブカな空間がまるでモロボシを責め立てるように虚無感を訴えていたのは、事実である。
しかしそれでも、自分は、ブラジャーに対して、単なる衣服以上の感情を抱いていたのかもしれない。そのことに今、気づいた。それは、胸元が寂しいのは、単に乳房を覆う布を失ったせいだけではないだろう。
「それでは、そろそろ自己紹介してもらおうかしら」
2度目であった。教師はなおも柔和な面持ちを崩さなかったが、どうやらしびれを切らしているようだった。
「先生、名乗るときはまず、自分から。ですよ」
と、ツツジが何を勘違いしたのか、教師に向かってそう言った。
教師はハッと気づいたように目を開き、それから申し訳なさそうにツツジとモロボシに一礼した。
ツツジは一体何者なのだろうかという疑問は、教師の自己紹介が割り込むことによって霧散する。
「渡しがこのクラスの担当教員、シミズ第44種です。よろしくお願いします」
年齢はわからないが、基本的には温和そうな人物であった。
モロボシも、そろそろ自己紹介をしないとこの場が進まないと理解したので、
「はい。えっと名前は、モロ……」
「あ、むこう向いて頂戴」
と、シミズにクラス全員の方向を見るように促される。
モロボシはそれに従い、身体を45度回転させる。20人対1人。頭の中が熱っぽくなる前に、
「モロボシです」
と、可もなく不可もない態度で言う。
微妙な沈黙が流れる。聴衆はその続きを待っていたが、モロボシは特にこれ以上言うことはない。
ミクリヤとツツジが(特にミクリヤが)ハラハラした顔でこちらを見ている。
教員であるシミズが、またしてもしびれを切らしたように、
「モロボシ……そう、モロボシ。不思議な名前ね。齢は?」
「えっと」
思案する。
「十四です」
昨日ツツジがそう言っていたので、あらぬ誤解を避けるために同じ年齢を選んだ。ツツジは指先でキツネを作った。きっとそれがよくやった、という意味なのだろう。後ほどその理由を尋ねると、いや違うよ何か気分で、と答えた。
自己紹介のあとはシミズが引き継いだ。この数ターンの会話で、モロボシの性格を把握し、授業の進行に支障を来さないように先手を打ったのだ。
「ツツジさんによると、モロボシさんはツツジさんの家にやってきた留学生なのだそうです。これから数週間……滞在が伸びれば数カ月、渡したちと一緒に学習することになります」
確かに、モロボシの口からデマカセの出自を説明するのは恐らく不可能で、必要のない沈黙が乱発されたことだろう。
「みなさん仲良くしてあげて下さいね」
社交辞令のように、はーい、という声が返ってくる。
シミズは満足げに頷くと、急に眉をひそめて、
「でも急な話だったから席どうしましょうか」
「渡しの半分あげるよっ!」
とツツジが提案するが、
「駄目です。モロボシに半分あげたらあなたの勉強できるスペースがなくなります」
「そんなーっ」
「どうしましょう……立っておくのも辛いだろうし」
「はい」
そのとき、一筋の救済の光のように、ミクリヤが手を挙げた。
結果。
モロボシはミクリヤの椅子に座り、ミクリヤはモロボシの剥き出した太ももの上に座るという、世にも奇妙な体勢で授業を受けることになった。
それを見てツツジが、
「あ! ずるい渡しが!」
と、ミクリヤにとって替わろうとしたのだが、あいにくツツジはミクリヤよりも身体的に成長が進んでいた。モロボシの太ももと机にミッチリ挟まれた窮屈さにツツジは耐えられず、渋々ミクリヤにその座を明け渡した。捨て台詞を吐いて。
「ミクリヤ、おぼえておれよ……」
「何をだよ」
「明日には席を用意しておきますので、今日一日はこれでお願いします」
授業が始まった。
ときどき送られてくる恨めしそうなツツジの視線を無視し、授業の流れを観察する。緑色のプレートは黒板で、シミズはそこに文字を書き入れてゆく。数学定理の証明のようだった。ミクリヤは机に広げたノートにその文章を書きいれているのかと思いきや、それよりももっと複雑な数式を並べていた。
「それじゃこの証明を、ミクリヤさんにお願いしても良いかしら?」
「はい」
モロボシの剥き出しの太ももから降りてパタパタと黒板の前に駆けて行く。
途中、教壇の段差で滑ってみんなの失笑を買うが、黒板に書かれた定理を何の迷いもなくスラスラ解く様子には、みんなが息を呑む。
「できました」
「はい、よくできました」
パチパチと拍手が彼女に注がれる。そして公式通り、帰りの段差でも滑ってこけて鼻を強く打つ。
モロボシの太ももに、グイグイとよじ登るミクリヤ。どこか不満げである。モロボシはふと気付いた。
「血が出ている」
「えっ? あ! 本当だ……」
ミクリヤは白衣の袖で血を拭い続けたので、袖口が真っ赤になってしまった。
授業は90分ほど続き、それから10分の休憩を挟んだ。シミズが教室から居なくなると、モロボシの周りにわっと生徒が群がった。そのときにはすでにミクリヤは危機を察知してか膝の上から居なくなっていた。
「ねえねえモロボシはどこから来たの?」
「渡したちとかなり違うねー。身体でっかいし。もしかして運動とか得意?」
「モロボシは何科? 初めて聞いた。ちょっとここら辺では見かけない感じ?」
「どうしてここに来たの? もしかしてここでずっと暮らすとか?」
など訊かれたが、一度に処理することができなかったので曖昧に頷くだけだった。そうしているうちに休憩は過ぎてしまい、再びシミズが教室に入って来て授業が始まった。
授業の終わる5分前ほど、ミクリヤがノートにモロボシ宛てのメッセージを書いた。
《あと少ししたら授業終わるから、そしたらかけっこで渡しについてきて》
モロボシが頷くとミクリヤの頭に顎をゴツンとぶつけてしまい、ミクリヤは涙目でモロボシを見上げた。
「それじゃここまで」
その一声でミクリヤとモロボシとツツジはダッと教室を駆け抜けた。すでに廊下をテクテク歩いていたシミズを追い抜き建物の外へ出る。太陽が空の天辺に届いており、影は濃くて短かった。
どこまで行くのだろう。教室の棟が見えなくなっても依然走り続けるので、モロボシは全身から汗が噴き出してくるのがわかった。汗が噴き出すのもおよそ700年ぶりのことだろう。
黒いセーラー服は太陽の光を集めて湯気を発する勢いで、さらに太ももはむき出しなのでテカテカしている。このような人間が走っていること自体、事件である。
「はあっ、は、はっ、……もうすぐだよ」
先頭を走っているツツジが、息を切らしながら振り向いて言った。
辿りついたのは、街並みが見下ろせる丘だった。そこから見える景色は、この世界の終わりみたいに、どこまでも青空と地平線が広がっている。一本だけひょろりとした木が生えており、その木陰の下にはベンチが一基が置かれていた。
気付けばミクリヤがいなくなっていた。どこかでリタイアしてしまったのだろうか。
ツツジがモロボシの手を握って、
「行こ」
と、ずるずると引きずられてベンチに座らされる。
「うわーすっごい汗だね。渡しもだけど」
「……ここ」
「うん、凄いでしょ。絶景じゃない?」
カラッとした青空の下に、顔の違う家々が、しかし整然と並んでいる。その中で一際主張の強い建物があった。
「あー、あれが渡しの家」
「ツツジ科」
「そうそう。この街に住んでいるのは全員がツツジ科なの。科っていうのは、属よりも等級が上で……なんていうか、川で例えると、源流みたいな。で、世代が下がっていくにつれて、属っていう支流が生まれる。ミクリヤ属とか、タマキ属とか」
ツツジはその源流の、直系の子孫であるらしい。
「それらに加えて他の街からの移植民もいるし。だから渡しの家は、この街で無駄に権力を握るようになってるんだよ」
誰でも、ツツジ科であるならば、先ほどの教師シミズは、ツツジ科シミズ属第44種である、ということなのか。
それをツツジに言うと、
「よく覚えているね。そ、みんな正式にはそう言うの。でもこの街の人間だったらみんなツツジ科だから、そこまで名乗る必要はないって話。ちなみに渡しは第9種だから……あ、種ってのは生まれた順番ね。第1種が1番初めに生まれた子で、科属を次の世代に継ぐモノとして活躍する。渡しは9番目だから、ぶっちゃけそんな大したことない」
「他にもある?」
「え?」
「街」
それまで設定を語るのに元気だったツツジの顔に、少しだけ陰が落ちる。
「……うん、この地域だけでもあと3、4はあるかな。近しいのだとイトウ科、マツオカ科、サクラギ科、…があるよ。各々の街が、祖科を中心に回っているんだ」
そのときモロボシは、ふと、思いついた。しかし、このことを聞いて良いのかどうかわからなくなった。
なぜ聞いてはいけないと思ったのか、自分でもうまく説明はできない。だからツツジの目には、いきなり黙りこくったモロボシは不審に映っただろう。
「モロボシ、どうしたの?」
「……争い、とか」
聞いてしまった。
ツツジは明らかに、表情を失っている。
モロボシは、聞いてしまったことを少なからず後悔した。
「起きるよ」
両手に細長い箱を抱えたミクリヤが、ツツジを隔てた向こうに座っていた。
「この前も起きたばっかりだし」
「あーもういいじゃんその話は。ね? ね?」
「ごめん。ほらモロボシ、ツツジ、弁当買って来たからお金……モロボシは貸しね。今日の実験代」
「渡し、サラダがいいなー」
「250円」
「はいよ、うわ袖赤っ! どうしたの……?」
「転んだときに鼻血出て」
「へーってこれ黒胡麻ドレッシングじゃん! シーザーにしてよっていつも言ってるじゃん。あのアングラな味が良いんだよ!」
「売り切れてたの。はいモロボシは若鶏の醤油揚げね」
「ありがとう」
ツツジは元の高いテンションに戻ったが、モロボシは彼女の持つ闇みたいな部分が気になって、気になったが、それだけだった。
食事を終えて涼んでから教室に帰る。午後も似たような授業が二つあり、その間の休憩は例の質問攻めに遭い、一日すべての授業が終る直前にまたミクリヤから指令を貰い、授業が終ると同時に全速力で教室を後にした。
走る黒セーラー太もも人間。モロボシは自分の走る姿をできるだけ考えないようにする。
もう熱心な追手はこない、というところで、3人とも呼吸を整えるために走るのをやめ、棒のようになった脚で歩き始めた。
「これってさあ、いつまで続けなきゃいけないのかなあ?」
「さあな……みんなが、モロボシへの興味を失うまで、かな……」
うへーといった顔をして、ツツジはモロボシの全身を眺める。
「っていうかさ」
モロボシは頷く。
「朝から言うの忘れていたんだけどさ」
モロボシは頷く。
「渡しのブラジャーどうしたの!?」
「タマキが着ている」
「や、そうじゃなくて。何でタマキが着ているの?」
「おしゃれ」
「うん、確かに。あの子は確かに顔と性格に一致しない奇妙なセンスを持ってるのは知ってる」
「交換した」
「なんで交換するねん……」
交換したのだっけ? 詳しい取引の内容はもう憶えていない。
ツツジは大げさな溜息をついた。
「っていうかさー昨日から大分思っていたんだけどさ、でも何となく気の所為だと思ってするするっとスルーしていたんだけど、もうこの際ここで爆発させていい? いい? するよ。モロボシって何なの!? 自分の意思とかないわけ? こう言うのもなんだけどさ……昨日だって顔面にビーカー当たっても平然としてたじゃん」
「それは渡しも気になっていた」
ミクリヤがツツジの暴走を止めるためか割り込む。
「ちょっと試してみたいんだ。もしかしたらモロボシは、脳機能に支障をきたしている部分があるのかもしれない」
「きたしている? どゆことなん?」
「つまり、モロボシは700年近く睡眠状態だったわけだろ」
モロボシは頷く。
「例えば……魚で例えると、殺した魚はそのままだと腐る。だけど凍らせて保存しておけばある程度の期間は美味しく食べられる。でもやっぱり、鮮度は落ちてるわけで」
「つまり頭がおかしくなってるんだ!」
「うん、だからそう言うこと。さてとモロボシくん。今日は夜までずっと実験に付き合ってもらうからね。若鶏の醤油揚げ完食したでしょ」
モロボシは頷く。
ちょうどその頃、タマキ属第2種、つまりモロボシと接触し衣服の物々交換に成功した彼女は、大所帯の自宅で、妹たちの世話をしつつ、自分にあてがわれたスペース――タマキ自身は【おしゃれ研究所】と呼んでいる――で、モロボシと交換した布切れの構造を把握して、ボソリと呟いた。
「やべえ……やべえよ、ブラジャー」