Neetel Inside ニートノベル
表紙

横井、宝くじ当てたってよ
第三部

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 最近うちの電話がよく鳴る。といっても金曜日の放課後に携帯をぶっ壊してから買わずにただいま日曜のお昼、土曜に横井誘拐事件で一日潰したから実質昨日の晩にやたらとかかってきたというだけなんだが、五・六件かかってきたのでさすがに疲れた。どいつもこいつも人に電話するということに躊躇いをもたなすぎである。間が持たなくなったら「ところで何か面白い話ない?」と無茶振りをかましてくるあたり家族ぐるみでヤキを入れてやらねばならんと思う。主にうちのバイト先の店長とか。何事かと思ったら用がないとか社会人のすることかよ……
 それはともかく。
 日曜のお昼である。
 本当ならいいとも増刊号でも見ながら親父と茶でもしばきたかったのだが、昨夜の電話のうち一件、立花紫電嬢からの呼び出しがあったので泣く泣く重い腰を上げた。電話口では紫電ちゃんが珍しくモゴモゴしていたので要領を得なかったが、まァおそらくは誘拐犯の遠山さんのことに関することだろう。最近は地柱町もビックリ人間が増えてきて自治体でも問題になっているらしい。年配の方の中には露骨にそういった人種を嫌がる人もいて結構モメてるとか。べつに普通に暮らしていく上で手から火が出るくらいなら付き合っててなんの問題もないけどなあ。
 そんなことを真夏の空に思い描きつつ、俺は待ち合わせ場所を日陰にしなかったことを後悔していた。かつてこの土地に一門を築いたという名士・粕小路諸斬(かすのこうじ・もろきり)の銅像の下は甘く見積もって目玉焼きが作れそうな熱波の渦中にある。やっべーまた帽子忘れた。
 俺が青空に真水を幻視する頃合になって、ようやく紫電ちゃんがやってきた。今日はさすがに学ランではなく私服姿。青チェックのスカートが目に眩しい。上はベージュのシャツを羽織ってその中に黒いTシャツを着ている。Tシャツには白い筆字で「ぺんたごん」とある。誰かほんと止めてやれよ。
 俺は片手をあげて、爽やかな笑顔を浮かべ、紫電ちゃんを迎えた。
「水」
 本音が出た。挨拶もできない。死にそう。
 紫電ちゃんが呆れた顔で言う、
「後藤、おまえまた帽子忘れたのか」
 自分でもわかってるから言わないでくれよ。
「仕方ないな……これでも被ってろ」
 そういうと紫電ちゃんは近くの水道で自分のシャツを水浸しにして俺に頭からそれを絞ってくれた。金持ちは発想が違う。すげービショビショする。
「ありがとう、おおむね生き返ったよ。あとそこをどいてくれれば俺はもう自分で水を飲むよ」
「そうか、気をつけるんだぞ、夏場は危険が多い」
「そうだね」水うめぇーっ。
 ひとしきり水分補給を終えた俺は口元を拭い、紫電ちゃんに向き直った。
「さて、どこいく?」
 紫電ちゃんはキョロキョロとあたりを見回す。ちなみに駅前からは少し離れていて、あまりお店や人気はない。
「このあたりに喫茶店があるんだ。そこへいこう」
「俺あんまこっちでは遊んだことないから案内は任せるよ」
「うん」
 紫電ちゃんはずんずんと歩き出した。時折、俺がちゃんとついてきているのかを確かめるために振り返ってくるがこの暑さの中で下らんイタズラを思いつくほどの元気が今の俺にはない。紫電ちゃんのシャツもう乾いてるんだけど。すげー。
 やがて、住宅地の途中にいきなり地下への階段が現れた。入り口脇にメニューが貼られたボードがある。コーヒー一杯六〇〇円。絶対に払わないと決めた。メシ喰えるじゃん。
「ここ?」
「ここだ」
 看板によれば、名前は『黒い悪魔』というらしい。どいつもこいつも商売を侮りやがって。
 俺たちは薄暗い打ちっぱなしのコンクリートの中へと下りていった。一段降りるたびにひやっとした空気が増していって、なるほど、ここなら涼しくお茶をしばきながら会話を楽しむことができそうだ。
 最下層に辿り着くと木のドアがあり、紫電ちゃんは慣れた手つきで入店した。俺もそれにならう。
「いらっしゃ――げっ、後藤!!」
「む……立花先輩と同伴とはいけないやつ」
 失礼なことを抜かしてきたのは佐倉・男鹿の超能力コンビである。出たなビックリ人間ども。俺はファイティングポーズを取った。
「んだコラやんのかおぉ!?」
「ん? なに、やるの?」
 俺の足元にあった傘立てから静かに先の尖った傘が浮いたのを見て俺は両手を挙げた。
「ごめんなさい」
「わかればいいのよ」佐倉はドヤ顔である。俺はせめてもの反撃に出た。
「てめえ佐倉、昨日は仕事がなくなるから困るって言ってたじゃねーか。掛け持ちとかナメてんのか」
「立花先輩に相談したらここを紹介してもらったの。ね、先輩?」
「うん……」紫電ちゃんは後輩との接し方がまだ分からないらしくもじもじしている。闘うこと以外はほんと純情なひと。
「能力者はひとつのところに集めておいた方がいいと思ったんだ。沢村も誘ってみたのだが断られた」
「ふーん。ま、あいつコーヒー淹れられるような器用なやつじゃないしな」
 俺は適当にボックス席に腰かけて紫電ちゃんに笑顔を振りまき、隣をポンポンと叩いた。
「後藤の隣空いてますよー?」
「うわっ、キモッ」佐倉おまえ絶対に許さないよ。
「後藤が積極的行動に出るときは本命ではない証」もう訂正する気も起きんよ男鹿。
 そして、冗談のつもりだったんだが、紫電ちゃんはさらっと俺の隣に座ってきた。ええ? いいのか? ……ああやばい紫電ちゃんからハーブ系のにおいがする。体力が回復しそう。
「実は……」
「先輩! そこに座ってると後藤菌が移りますよ!!」
「うるせーよ佐倉とっととエスプレッソでも淹れろブス!」
「はあああああああああ!? もう絶対に淹れてやらないから!!」
「じゃあ俺がやるよ!!」
 俺はカウンターに入って自分でコーヒーを淹れちゃった。他にお客さんがいないからできる荒業である。佐倉は俺のポテンシャルについてこれず歯噛みをして、男鹿は新聞を読み始めた。どうでもいいけど自分の手で持てよ。
「それで、紫電ちゃん。俺を呼び出したわけを聞かせてもらおうか」
 俺はカップに注がれていく黒い水を眺めながら言った。何してんだろ俺。
「実は……」と紫電ちゃんは喋り始めた。
「その、後藤に相談があるんだ」
「相談?」俺は自分で淹れたコーヒーを二杯トレイに乗せて、テーブルへ置いた。
「俺はてっきり遠山さんのことかと思ったんだけど」
「ああ……彼女はもういないからいい」
 なんだよその意味深な発現。怖いよ。
「その、な……あ、座ってくれるか?」
「いいとも」
 えらっそーに、と佐倉がぼそぼそ言う。うるせーな。
「で? 俺にしか相談できないことなのか?」
「ああ……後藤以外にあんまり喋れる男子いないし……」
 そうだろうとは思ってたけど生々しくてちっとも嬉しくないな。まあこっちからしても似たようなもんだ。
「突然なんだが、後藤」
「はい」
「……いきなりそんなに喋ったことがない女子と付き合うことになったらどうする?」
 俺はボタボタと熱湯同然のコーヒーを服に思い切り零したがまったく何も感じなかった。
 いきなり何を言うのか。
 紫電ちゃんは相変わらず尻の座り心地が悪いとでも言うようにもぞもぞとして少しもジッとしていない。胸の上で組んだ手を何度も組み替えてはチラチラ俺の方をうかがっては視線を逸らす。テーブルの上に吊るされた弱い橙の明かりが金髪に反射して七色に輝いている。どうしてやろうかと、いやどうしようかと思った。
 とりあえず手に持ったカップをガタガタ言わせながらチョーサーに置いた。
「……あのさ、それってひょっとして俺と紫電ちゃ」
「違う」
 はいはい。わかってたよ。あーこのコーヒーくっそまじい。泥水だわーマジで。
「ま、まあもののたとえだと思ってくれ……」
「ふーん。ま、とりあえず付き合いはするんじゃないの。据え膳喰わねばなんとかだし」
「い、嫌じゃないか? そんなに知らないんだぞ?」
「不細工ならともかく紫電ちゃん美少女だから問題ねーよ」
 そう言って俺が残り少ないカップをすすると、みるみる紫電ちゃんの顔が真っ赤になった。あざとい。
「そ、そうかな……嫌がられたりしないかな……」
「紫電ちゃんあんまりひどいこと言わないでやってくれよ佐倉が可哀想だ」
「なんであたしに振るのよ!?」
「うるせー黙ってポテトでも揚げてろカス! 俺は腹が減ってるんだよ! 何時だと思ってやがる!!」
 お昼である。
 佐倉はぶつぶつ言いながらポテトを揚げ始めた。仕事はちゃんとしないとね。
「そういうわけで紫電ちゃん。世の中にはCanCanの表紙になれない子がたくさんいるんだ。それを跳び箱三段レベルであっさり飛び越えてしまっているのに自分に自信がないなんていうのはブスに失礼だよ」
「そうだろうか……」
 自分で言っててなんだがどう考えても俺の方が失礼である。
「でも……その……いや、なんていうか、上手く言葉にならないんだが、私の方も付き合えるのかどうかってことで……それで……」
 要領を得ない。ここまで動揺している紫電ちゃんは久々に見る。
「……もし後藤だったらどうする? 私と付き合えるか?」
「結婚まで考えるわ」
「けっ……な、何言ってるんだお前!! そんなのお父さんに話もしないうちに決められるわけないだろ!!」
 名家出身というだけあってパパにゾッコンらしい。ゾッコンっていうかファザコン? とりあえず黙っとこう。
「ああ、後藤を頼ったのは間違いだったかもしれない」
 紫電ちゃんは額に手を当てて呻いた。それが日曜日に人を呼び出した女の言うことか。
「どうしよう……ああ、もう、私にはどうしたらいいのか……」
「サッパリ話が見えないよ紫電ちゃん。……紫電ちゃん?」
 紫電ちゃんはふらふらと立ち上がって覚束ない足取りで出て行ってしまった。おいおい……なんなんだ? ストーカーにでもつきまとわれてんのか? もしそうなら、まずあの速射砲みたいな左ジャブを潜り抜けられるやつじゃないと危険はゼロなんだが……
「ま、なんでもいいか」
 なんだかんだ言ってコーヒーもまあまあ美味かったし。さすが俺。
 立ち上がり、佐倉と男鹿に片手を振って出て行こうとしたところを男鹿ハンドで襟元を捕まえられた。
「ぐえっ」
「待って」
 振り返ると男鹿が透明な表情で俺を見つめていた。
「なんだよ」
「お勘定」
「はあ? そんなの紫電ちゃんが……」
 払ってなかった。
 背中を脂汗が伝う。
 痩せそう。
 二人の視線が痛い。
「えっと……あの……御代はいくらですかね……」
「三〇〇〇円」
「紫電ちゃんのもかよ!! ていうかポテトはまだ喰ってねえだろ!!」
「関係ない」
 くそっ、男が金出す風潮ってなんなんだよ。景気がいいときにしてくれよ。
 俺は渋々自分のケツをまさぐった。丹念にまさぐった。執念深くまさぐった。もはや手が埋まるまでまさぐった。
 が、ない。
 財布が……ない……
 えぇー……
 いやわかっている。もう最初にケツに触れた瞬間に「あ、入れ忘れた」と思い出してはいた。いたが、それを認めたくなかった。重苦しい顔でケツをまさぐり続ける俺に佐倉と男鹿がゴミを見るような目つきを向けてきた。客だぞ俺は。少なくとも今は。
 しかし、ないものはない。
 俺はふう、とため息をついて片手拝みに頼み込んだ。
「わり、財布忘れた。今度払うから今日のところは見逃してぇぇぇぇぇ!?」
 男鹿ハンドに背中から引っ張られ床に叩きつけられた。
 ズン、と店員二人が俺を暗い顔で見下ろす。
「飲み逃げ厳禁」
「観念しなさい」
「ど、どうしろってんだよ……」
 二人の魔の手がいたいけな俺の身に迫る。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 どう考えても五千円分は働いた後、俺は無事に外へおっぽり出された。すっかり暗くなった家路をえずきながら帰る道すがら、今日ほど面倒な日はしばらく来るまいと思った。土曜もひどい目に遭ったし。
 まさかこの週末のすべてを塗り替える魔物が月曜日に潜んでいるなんて、その時の俺には想像できるはずもなかったのだった……。
 あと、家に帰って判明したが三〇〇〇円なんて大金はどの道持ってなかったので俺の運命は変わらなかったらしい。金貯めよう。そう思った。

     



 見上げれば、今日も灼熱の真夏日和である。まァそれもあと一週間足らずでケリになる。夏休みに入ってしまえばこっちのものだ。野となれ山となれ高校二年の夏はエンジョイする以外に道はない。カラダがぶっ壊れるまで遊び倒すつもりだったが、しかし何をして遊ぶのかはまだ決まっていない。まァいい。おいおい誰かとつるんでいれば予定も決まるだろう。この町に住んでいてラクなのは、放っておいても厄介事が向こうから突っ込んできてくれることだ。
 俺はウーンと猫科の動物のように伸びをした。
 地柱町では一人で登校することはどこの学校でも校則で禁止されている。守らなくても別に怒られやしないのだが、数年前までこの町を覆っていた暗雲を思えば一人で行動したがるやつの方が少なく、今では俺と深い付き合いのある顔なじみ以外は軒並み誰かと一緒に毎朝えっちらおっちらアスファルトを噛んでいる。俺? いやなにせ俺のそばが一番危ない時期もあったし。
 ともかく、そういうわけで、俺はなんの変わり映えもしない一日の朝を踏み越えて学校へと辿り着いた。見ると、なにやら人だかりが出来ている。なんだなんだ事件か。俺はひょいと人垣に紛れ込んでそれを見た。なぜあの時に足元が血だらけだったことに気づかなかったのかと、俺はだいぶ後まで悔やむことになる。
 校庭のど真ん中に肌色のオブジェがあった。流木か何かかと思った。いくつもの節から伸びた枝のようなそれが紺碧の青空に突き刺さってゆらゆらと揺れていた。
 茂田だった。
「茂田ァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
 俺は人ごみを掻き分け掻き分け最前列に飛び出した。ぬるりと革靴が血だまりで滑る。そんなものに構ってはいられない。俺は震える手で茂田を、いや茂田だったそれを撫でさすった。
「嘘……だろ……しげっ、茂田お前っ、前衛芸術みたいになってるじゃねえか……!」
「……………………」
 茂田は答えない。答えてくれない……。俺の脳裏に走馬灯のように茂田との思い出が蘇ってきた。俺が英語の辞書を忘れた時、気前よく貸してくれて自分が忘れたことになった茂田。俺が体操着を忘れた時、許されると思って寺島さんのロッカーから体操服とブルマをかっぱらってきてくれた茂田。俺が携帯のバッテリーが無くなった時、携帯を机の上に置き忘れるという手順を踏んで俺にバッテリーを提供してくれた茂田。
「茂田ぁ……!!」
「後藤くん、その涙になんの誠意も見出せないのは私の気のせい?」
「何奴」
 振り返ると人垣の先頭に部活動でミントンを嗜んでいるという噂の寺島さんがいた。腕を組んで興味のない芸術品でも見るように茂田を見上げている。おい俺たちの茂田をレンブラント見るような目つきで見るなよ。
「後藤くんって独り言多いよね」
「なにそれ前から思ってたの? もっと早く教えて欲しかったよ」
 俺はとりあえず茂田だったものを横に倒して平たく寝かせた。関節が硬直しているらしくやたらゴツゴツしている。邪魔だなーコレ。野球部がものすごく鬱陶しそうな目で見てくる。ごめんね。
「で、寺島さん。これは一体どういうことなんだ。俺いま来たばっかでこの惨劇に戸惑うばかりなんだが」
「そんな風には見えないけど……まあ私も同じだよ。ただこんな目に遭うのも、遭わせられるのも、後藤くんグループのメンバーにしかできないと思うけどね」
 俺はごくりと生唾を飲み込んだ。茂田だったものを見れば凶器が素手による暴力であることは明らかである。指の食い込み跡みたいのが克明に残っちゃってるし。あいつリンゴ砕くからな……
「天ヶ峰か……」ていうか後藤くんグループとかやめろよ。
「だろうね」寺島さんはふっと肩をすくめて、
「また何か怒らせるようなことをしたんでしょう」
 俺は濡れ衣を着せられた義憤に駆られて拳を握った。
「ふざけないでくれ。俺たちは結果的にあいつにイタ電をかけてしまっただけだ!!」
「それだと思うけど……」
 俺はアタマを抱えた。
「わざとじゃなかったんだよ」
「言葉なんて大事な時にはなんの役にも立たないね」
 ロマンチックな死刑宣告やめてください。
「寺島さん、女子はこの件について俺たち側に着く気はないんですかね」
「その気があったら今のんびりと教室から手を振ってきてないと思うよ」
 見上げると我らが教室から女子のみなさんが笑顔を振りまいていた。「別」という刺繍が縫ってある木綿のハンカチーフをはためかせている小崎はあとで女だろうとぶっ飛ばしてやろうと思う。なに一方的に別れを告げてんだよ。死んだら枕元に立つからな。
 八つ当たりによって怒りパワーを溜めている俺にツンツンと寺島さんが肩を叩いてきた。振り向くと寺島さんは何も言わずに「見よ、あれが皇国の星だ」とばかりに天の一点を指し示していた。見上げる。
 屋上に何かいた。
 金網のこちら側にいるにも関わらず命綱なし、両の足で威風堂々と立つその様は天狗か夜叉か。横殴りの風がタテガミに似た髪を揺らめかせ、薄い胸の前で組んだ腕はしなやかな筋肉を今はまだ緩ませている。
 髪の隙間からまばゆく輝く眼光は、太陽よりも燃えていた。
 天ヶ峰美里だった。
「ひぃ」
「天ヶ峰さん、ああなったら止まらないと思うよ」
 寺島さんは両手を広げた。
「逃げるなら今の内。無事を祈ってるよ、後藤くん」
「くそっ、気取ってんじゃねーブース! ばーかばーか!」
「なっ!」
 俺は今生の別れになるかもしれないので寺島さんに精一杯の罵声を浴びせた後、一目散に逃げ出した。もちろん正門から逃げるなんて馬鹿はしない。目指すは裏門、駐輪場。ピロ下を潜ったところで、
 どズンッ……
 何か重いものが落ちる音と誰かの悲鳴が背後から響き渡った。構ってらんない。俺は半べそになりながら駐輪場に辿り着くと馴染みのチャリンコのそばに近寄った。隣のクラスの牧瀬のチャリである。見ると車輪に鍵がかかっていた。あたりを見回し、手頃な石を見つけた俺は細心の注意を払って鍵の部分に石を叩きつけた。
 べきいっ
 鍵が情けない音を立てて壊れた。俺は牧瀬のチャリにまたがるとギアを一段重くしてペダルを蹴りこみ裏門から勢いよく飛び出した。登校中の生徒たちから奇異な視線を受けつつ背後を振り返る。すまない牧瀬、入学してからこれでもうチャリ借りるの三度目だな。もう鍵とかつけるのやめろよ。
 心の中で牧瀬に十字を切り、俺は上り坂を選んでチャリンコを走らせた。べつに鍛錬のためではなく、裏山にいくためだ。ぜえぜえいいながら田中くんちのばあちゃんに「精が出るねえ」などと声をかけられつつ急な坂を上る上る上る。アスファルトが途切れたところで牧瀬のチャリンコをゴミ捨て場に乗り捨てて山に入った。夏の湿気でぬかるんだ土を踏みかけたところで、靴と靴下を脱ぎ、そばにあった納戸から高下駄をパクって履いた。ガキの頃何度もやった手順である。天ヶ峰はちゃんとモノを見ないので靴跡ならともかく高下駄なら足跡はバレにくいのだ。もっとも全盛期の頃は俺のにおいだけで追跡してきていたが、そこはやつが鼻風邪を引いていることに期待するしかない。
 俺はえっちらおっちら、裏山の中へと入っていった。真夏の裏山などはこれはもう日本ではない。ベトナムか何かである。分厚く光沢のある葉がもよおす草いきれにウンザリしながら、てっぺんを目指す。
 天ヶ峰が本気で怒ってしまった場合、取れる対応は引っ越すか死ぬかしか大まかにはない。ないが、あいつはおいしいご飯を食べると機嫌がよくなることが稀にあるので数日間、やつに見つからない秘密の基地に隠れることが俺らには昔からよくあった。ここもそのひとつで、最大の拠点となっているポイントだ。恐らくもう黒木や茂田……いや、茂田はもういないのだった。俺はぎゅっと目頭を押さえた。あいつ今週のはじめの一歩スゲー楽しみにしてたのに……ヴォルグさんどうなるんだろ。
 とにかく、あの場にいなかった男子メンバーは集まっているはずだ。どうも天ヶ峰は俺の知り合いというだけでぶち殺し始めているようなので、まあ黒木はいるだろう。田中くんはいないかもしれない。江戸川はむしろ死んでほしい。
「ぷはっ」
 俺はてっぺんに出た。といっても大した高さの山ではない。頂上も平場に背丈の長い草がぼうぼうと生えているだけで、ちょっとそのへんを探すと防空壕があったりなんかもするが、その程度のなんの変哲もない裏山である。
 そこが地獄と化していた。
 まず目についたのは人間の形を失った江戸川のそれである。死ねばいいと思いはしたが目の前でグロテスクな最期を迎えられているとそれはそれでビックリする。ツン、と突くとどさりと倒れこみそれきり動かなくなった。全治二ヶ月。
 首をぐるりと回して見ると、俺の知り合いの男子たちが雁首そろえて肌色の像と化していた。黒木もその中にいた。スーパーフェザー級のプロボクサーとしてデビューしたばかりの黒木が……こんな……こんな……関節増えてね黒木?
 俺がおそるおそる同胞たちの亡骸に触れようとしたとき、
 かさっ
 俺の耳が確かにそれを捉えた。
 思わずその場に腹ばいになって長く伸びる。呼吸も止めた。目を動かすこともできない。
 音は、静かに俺の背後から近づいてきた。
 かさっ……かさかさっ……
 ゴキブリだったらどんなによかったろう。
 人の足音である。
 かさっ……がさりっ……がさっ……
 がさり、
 俺の目の前に人の足があった。
 叫ばなかったのが奇跡に近い。
 シャブでもキメてんじゃねーのかと言いたくなるような強烈なまん丸おめめをした子猫の柄のソックス。
 天ヶ峰だった。
「………………」
 やつは、周囲を見回している。どうも黒木たちを始末したあとに学校へ来たらしい。それとも……もう昨日のうちに黒木たちは消されていたのか……
 それにしてもここがバレるなんて……!! 誰か間抜けがここを使ったに違いない。くそっ、誰だよ……
「………………」
 俺は身を固くした。下生えの草をぎゅっと握り締めて心の中で叫ぶ、ああ神様、今度会ったら絶対、ブッ飛ばしてやる――!!
 天ヶ峰は、……前へ進んでいった。俺はほっと安堵して、だが油断せず、少しだけ顔をあげて前を見た。
「………………」
 天ヶ峰は草を掻き分けながら進んでいた。途中で、くらり、とよろけた。俺は目をすがめた。天ヶ峰は何もないところで転ぶこともあるが、あれはいつものよろけ方とは違った。くんくん、と俺は空気のにおいを嗅いだ。
 睡眠薬だ。
 天ヶ峰用のトラップがこの裏山には多数仕掛けてある。落とし穴から仕込み矢、果ては落石からマムシ沼まで。その中に通過した天ヶ峰のアタマに睡眠薬を水に溶かしたものをぶっかけるものがあったはずだ。確か前に取り替えたのが半年くらい前なので、恐らく風雨によってとんでもない雑菌が繁殖し、もはやそれは睡眠薬と呼べるような代物ではなくなり、天ヶ峰をよろけさせるまでの劇物へと進化したのだろう。あいつほんと化け物だな。
 そのおかげかどうか、天ヶ峰はいまご自慢の鼻も効いていないらしく、しばらくあたりを捜索していたが、やがて山を下りて人里へと向かった。通行人を襲うことがないよう祈るばかりである。
 天ヶ峰の背中が見えなくなってからたっぷり五分間は経ってから、俺は、
「ぜはあっ……ぜはあっ……」
 極限まで抑えていた呼吸を解放した。心臓が烈しく痛む。
「生き残ったか……」
「らしいな……」
 横井がすぐそばからムクリと起き上がった。俺は横井を殴った。
「痛い! どうして殴るの!」
「うるせえ! 何やってんだてめえ!!」
「ま、待てって後藤。俺は悪くない」
「そんな言葉が世間で通用すると思っているのか。バラバラにしてやるぜ」
「怖っ!? 後藤、正気に戻って。いつものお前はもっと優しかったはずだ」
「犠牲になった茂田の霊が俺にお前を殺せと言ってる」
「なんでだよ!! そもそも俺こそ何がなんだかわかんねーんだよ!!」
 横井はその場にあぐらをかき、デコから上だけ草から出した状態で語り始めた。
「いきなり天ヶ峰が襲ってきて……黒木たちとここまで逃げてきたんだけどやっぱ駄目でさ。天ヶ峰が来るっていうまさにその時……みんなは一致団結して向かっていったんだ。そしたら……」
 うっ、と喉に声を詰まらせ、
「ごらんの有様……!!」
 血と肉によって織り成された青空美術館を右手で示して横井は咽び泣いた。
「頼みの綱の黒木まで膝蹴り一発で沈んじゃってさ……」
「ボクシングに蹴りはないからな……ていうか天ヶ峰の野郎、男相手に膝蹴りなんて使ったのか……なんてやつだ……!!」
 この町に住んでいるとネットの友達とかに「お前そのセリフおかしくね?」とよく言われる。何を言われているのかよくわからない。
「後藤、教えてくれよ。おまえなら知ってるんじゃないのか? 天ヶ峰があんなに怒ってる理由……」
「いや、わからん。なんでだろうな? まァあいつは朝の星占いが気に入らないだけで人に八つ当たりする女だしな」
 嘘というのは純度百パーセントに限る。
 俺はさりげなく立ち上がってバツの悪い話題を終わらせた。
「いこうか」
「どこへ……?」
「俺たちの明日へ……」
「あ、明日って」
 横井がつんのめりながら俺に言う。
「俺たちに明日なんてあるのかよ!!」
 俺は横井に向かって振り返り、
 息を吸い、
 まっすぐに目を見つめて、
 殴った――――……

「だから痛ぇよ!! すぐに殴るのやめて!! 誰もいないところでカラダ張ったネタやっても俺にメリットないんだけど!? あ痛い!! やめっ、やめてえ!!」
「うるさい。とにかく山から下りるぞ」
「だから下りてどうするのって。ていうか危なくない?」横井は俺の肩パンが当たったところを撫でさすっている。
「ここにいたっていずれは天ヶ峰にバレる。それなら逆張りでいこう」と俺は言った。
「逆張り?」
「こっちから打って出る。……天ヶ峰を、倒す」
 横井が息を呑んだ。
「……できるのかよ」
「殺るしかねえ」
「でも!!」
 俺は横井を制止した。
「俺たちが殺るんじゃない」
「え……?」
 俺は今度こそやつの目をまっすぐに見て、言った。
「沢村に殺らせる」



『用語説明』

・前衛芸術
1.独創的な芸術。過去に例のないスタイル。一見して理解しがたい抽象的な作品群。
2.血と肉によって形成された作品。生きているモノが望ましい。

     





 俺たちは山を下りた。途端にアスファルトから反射された熱気にカウンターを食らってもんどり打って倒れこんだ。
「暑っ!!」
「いやああああああああ」
 横井が焼けたマンホールに腕をぶつけて悶絶している。根性焼きみたいになってる。
「くそっ……早いところ沢村を探し出さないと天ヶ峰に見つかる前にお天道様に焼き殺されちまう」
「あっちを見てもこっちを見ても敵だらけだな……」
「おい横井」俺は茂みに生えている毒草を眼鏡で焼いていぶし、俺たちが残した体臭を消しながら聞いた。
「とっとと沢村に連絡を取ってくれ。帰宅部のあの野郎のことだ、今頃は妹と時化込んでるか新しいフラグでも立てているはずだ」
「わかった」
 横井は携帯電話を取り出して、しばらくいじっていたが、諦めたようにポケットに仕舞いこんだ。
「どうした」
「沢村と俺はまだにじり寄ってる段階なんだ」
 おまえアドレス知らねえのかよ。聞いとけって言ったじゃん。俺のはうっかり壊したままだし……
「仕方ねえ。いくぞ横井!」
「えっ! ちょ、ちょっと待てよ!!」
 いきなり脱兎のごとく駆け出した俺に横井が必死にくっついてくる。
「なんで走るの!? ていうかどこいくんだよ!! アテなんかあるのか!?」
「とりあえずは沢村んちを目指す。そして」
 俺は古びた煙草屋の角を曲がり、
「そこへいくまでのコースを地柱銀座商店街に照準する。そこから駅前を折れて沢村んちだ。やつの行動圏内を押さえつつ最終目的地へと向かう」
「なるほど……」
 我ながら完璧な作戦である。
 途中で二度ほど車に轢かれそうになりながらも、俺たちは地柱銀座商店街のアーチへと辿り着いた。このご時勢にシャッターが下りている店が一件もないという縁起のいい商店街である。しかしその真実は紫電ちゃんちの組の地回りがキチンと仕切ってくれていて、よそからやってくる大型スーパーなどの話を軒並み破壊してくれているおかげでもあったりする。まァ極道と言っても紫電ちゃんちの家は武家の血を引く豪農上がりなので、地域性が強いのも自然の流れだったりするのだ。
「沢村、いる、かなっ!?」
「ぜえっ……ぜえっ……」
 横井の質問に答えるどころではない。俺の体力は尽きた。へろへろとその場に崩れ落ちかける。
「どうした後藤!? おなか痛いのか」
「もうっ……走れなっ……うぷっ」
「夏に無理するもんじゃないな……」
 俺は横井に肩を貸してもらって近くの団子屋の軒先に座りこんだ。
「あんれまあ」中から団子屋のおばあちゃんが出てきて目を丸くした。
「後藤さんつこの、せぇがれじゃねえのお?」
 ちょっと訛りがひどい。昔の方である。俺は軽く会釈した。
 横井がぐっと口説くようにおばあちゃんに身を寄せた。
「おばあちゃん、水もらえる? こいつ熱射病っぽいんだよね」
「ああん? 列車砲?」
 何をどう聞き間違えたらそうなるんだよばあちゃん。そして重要なところはその前のセリフだよ。
「水だよ水! おばあちゃん、後藤死んじゃうよ」
「それも世のことわりなら仕方なかっぺえ」
 物騒なことを言いながらもお水を持ってきてくれるおばあちゃん。ありがとうございます。俺はちびちびと水を飲んだ。一気に飲むと身体に悪い。
「ふうっ……人心地ついたぜ」
「よかったな後藤」
「まァこのまま生きてても天ヶ峰に前衛芸術にされるだけかもしれないがな」
「そんなこと言うなよ! 人生には希望が満ち溢れているんだぜ?」
「そりゃお前みたいに……」泡銭でも手に入ればな、と言おうとして俺は慌ててその言葉を飲み込んだ。
「団子喰ってっくっぺえ?」
 おばあちゃんは言いながらもう盆にみたらし団子を乗せて持ってきてくれている。ちなみに有料なのはもうわかっている。公私混同はよくないからね。
「ありがとうおばあちゃん」俺はお礼を言ってみたらし団子をパクっと食べて、天啓を受けたように目をかっと見開いた。
「しまった! 財布忘れた」
「出ていけぇ!!」
 おばあちゃんのラビットパンチが俺の後頭部を撃ちぬいた。俺はごろごろと表まで転がった。
「痛ぇよばあちゃん! 話は最後まで聞けよ!」
「泥棒さんにかける言葉なんぞねえ! 去(い)ねっ、去ねっ」
 おばあちゃんはもう塩まで撒いている。ひどいよ。
 俺はくっと地面につけた膝を握り締めながら涙を呑んで横井に言った。
「横井……頼むっ……お金……お金おくれ……」
「い、いいよ……だからそんな悲しい顔するなよ後藤……」
「くっ、ありがとう!」
 ふふっ、カモめ。金持ちはこうやって使うに限る。尻ポケットの中の財布の重みを感じながら俺はそう思うのだった。まァ大して入ってないのは本当だけど。
 おばあちゃんと無事に金銭を用いて和解し、長椅子に再び腰を下ろしてしばらく世間話に耽った。
「こうして店から表なんがめてるとお」とおばあちゃんは言った。
「こっころああったまる気がするんだあ」
「わかるよおばあちゃん」と俺。
「この町って基本的には平和だもんな」と横井。
「んだんだ。花組さんとこがあ、わっりいやつら追っ払ってくれるからあ、このへんは静かなんだあ。おめえらも感謝しなきゃだめっどお」
「そうだねばあちゃん」どうでもいいけどその方言、謎すぎるんだけど。どこのだよ。
「じゃあみなさんお手を拝借」横井がどや顔で湯のみ茶碗を掲げた。
「うちの町の平和に、乾杯!」
「乾杯!」
「かんぺえだあ」
 かちん。
 俺たちが茶碗を軽やかに打ち合わせたその時。
 表の通りをけたたましい粉塵を巻き上げながら、何か白と黒っぽいものが物凄い勢いで回転しながら吹っ飛んでいった。鞠のように弾んで地面に叩きつけられたそれを見て、俺と横井の手が空中で止まったまま動かなかった。ばあちゃんは何事もなかったかのように茶を飲んだ。
 白と黒の正体は制服だった。
「う、うう……」
 制服を着たそいつが呻きながら顔を上げて、通りの向こう側を見る。俺たちからはちょうど舞台の袖のようになっている方を向いているので何を見ているのかはわからないが、そいつが誰かはもうわかった。
 沢村だった。
 沢村は、ふらつきながらも立ち上がった。全身傷だらけである。何があったのか。
「さわむっ」
 叫びかけた横井の口を塞いで長椅子の上に足を引っ張りあげさせた。
「静かにしろ。落ち着け」
「ぐむっ……」
「どうせアイツに決まってる……」
 その通りだった。
 俺たちが腰かけている長椅子、そして店の長いのれんの左側から、こつん、こつん、と革靴の足音を響かせながら、そいつがやってきた。
 白いブラウスにベージュのスクールベスト。紺色のスカートは組み付かれた時のために針金が仕込まれていることを俺は知っている。あらゆる戦闘機動に耐えられるように改良されたGショックの腕時計が拘束具のように白い左手首を包み、その先にある拳はいまにも爆発しそうなほどに固く固く握り締められている。タテガミのようにささくれ立った癖の強い長髪。小動物のようにくりくりとした目玉は内実あらゆるけものが残虐さを秘めていることを見るものに思い出させ、そしてあらゆる抵抗の志を雪ぎ落とす。
 天ヶ峰美里の登場だった。
 ふしゅー、と深い吐息を漏らして、天ヶ峰が一歩、沢村に近づく。
「後藤はどこ?」
 俺の名前を出さないでくださいっ……!!
「後藤に会いたい」
 やめてええええええええええええええ……
 沢村はよろめきながらもファイティングポーズを取った。左構えである。
「知らないっ! 何があったのかわからんが、天ヶ峰、もうやめてくれ! 俺はお前と……闘いたくない!!」
「くすくす」
 やべーあのバケモン笑ってるよ。
「何を甘いことを言っているのかな? ……沢村も後藤の味方なんでしょ。そうなんでしょ。一緒になってなにか企んでるんだ。そうに決まってる」
 天ヶ峰がきゅっと腰を落とし、両拳を顎の前にそろえた。ピーカブースタイルと呼ばれるボクシングの構えである。
「絶対許さない」
 たかがイタ電を気にしすぎだよ。最近世の中からワン切りがなくなったのってこいつのおかげなんじゃないかな。
「だから知らないって!! 天ヶ峰、俺の話を聞け!!」
「…………」
 天ヶ峰はすでに膝を伸縮させて距離を詰める算段に入っている。沢村はそれを見てぐしゃぐしゃと頭をかきむしった。
「あー、もう! わかったよ、やってやる! せっかくだからこの際ハッキリ言っておくけどな――」
 沢村は、ずびしっと天ヶ峰を指差した。
「天ヶ峰、おまえ、ちょっとおかしいよ! なんでも暴力で解決しようなんて、女の子のやることじゃないぜ!!」
「ぐむ――――っ!!」
 興奮して喚き出した横井の首を捻りながらも、俺とて沸々とする熱気を抑えられなかった。
 沢村の野郎、とうとう言いやがった。
 俺たちみんなの素直な気持ちを……っ!!
 天ヶ峰は、……くすくす笑っている。
「処刑決定」
「ひっ……」
 ぎらりと光った天ヶ峰の眼光にさっそくビビった沢村だったが、自分が沢村キネシスの使い手であることを思い出したのだろう。すぐさま右手で燃える火の玉を繰り出した。商店街に現れた小さな太陽はその場の気温をおおよそ四度は上げた。熱っ!!
 燃え盛るミニ沢村玉が天ヶ峰のガードにぶつかって烈しい爆発を起こした。
「馬鹿っ、爆煙で天ヶ峰が見えない!」
 俺の叫びも爆発音に飲み込まれて消えた。
 沈黙――
 黒い霧が晴れる。
 すると――
 天ヶ峰は、変わらずそこにいた。ピーカブーのガードを少し下げて、拳の上から豪華絢爛(ギンギラギン)の視線を沢村に返す。その目元が、ニタリと笑う。
「ひいっ……うわああああああああ!!」
 沢村が左手を右手に添えて、物理法則を乗り越えて産卵に耽る雌鳥のごとく沢村玉を大量に撃ちまくった。天ヶ峰はそれをかわし、受け、さばき、くるくるといなした。そのステップはもはやダンスのそれである。
「はあっはあっ」
「…………」
 明らかに疲労している沢村。だが、天ヶ峰の表情も晴れてはいない。
「どうして……」
 俺の手から口を逃がした横井が呟いた。
「天ヶ峰は一気に距離を詰めないんだ? 接近戦に持ち込めば沢村なんて敵じゃないはずなのに……」
「詰められないんだ」
「え?」
「というか、詰めても攻撃しづらいんだ。……沢村は右手で火弾を撃ってるだろ? あれはボクシングで言うと左構え――サウスポーなんだよ」
 横井はあらためて、二人の姿を見やった。
「どゆこと?」
「天ヶ峰は右構えだ。つまり、左手が前に出ている。だから前進しようとすれば左手が先に相手との間合いに入る。なのに沢村が右手を前にして火弾を撃ってくるものだから、距離を詰めても左のジャブから連携攻撃に入れないんだ」
 天ヶ峰が、きゅきゅっと革靴の底をすり減らしてステップインした。
 だが沢村はどたどたと後退しながら右手で火弾を放つ。爆発。
 天ヶ峰との距離が詰まらない。
「なるほど……でもさ、それなら逆の構えにすればいいんじゃねーの? 天ヶ峰も左構えにするとか」
「できることはできるんだろうが、あいつは元々右構えで練習してたからな。左構えは不得意だし、それにたぶん、カウンターを恐れてるんだ」
「カウンター?」
「沢村はいまは右手で沢村キネシスを使ってるけど、べつに左手だって使えるだろ? とっさに近距離から左手で沢村玉を顎にでももらえば――」
 俺は横井の目を見た。横井も俺の目を見た。
「天ヶ峰が負けることも、ありうる」
 ごくり、と。
 どちらからともなく生唾を飲み込んで。
 俺たちは天ヶ峰と沢村を見やった。祈るような気持ちで。
 頼む、沢村……
 俺たちの悪魔をやっつけてくれ……!!
 ――店先の風鈴がぬるい風を浴びて、ちりりん、と鳴った。




・用語説明

『右構え』
 左手を前に出し、右手を控えておくオーソドックスと呼ばれるスタイル。
 天ヶ峰は顎を守るピーカブースタイルを取っているが、バランスを崩すと本来の型であるオーソードックスの地が出る。

『左構え』
 右手を前に出し、左手を控えておくスタイル。
 基本的に使い手が少ないため右構えの選手は左構えの選手を苦手とすると言われている。
 小学生などが喧嘩する場合、利き腕を思わず前に出してしまうので左構えにしてしまうことが多い(経験談:作者)。

『ジャブ』
 オーソドックスの場合、左手を腕の瞬発力のみを使って相手に当てるパンチ。
 リードブローなどとも呼ばれる。通称、あしたのためにその1。

『カウンター』
 相手のパンチに合わせて返すパンチ。
 自分のパンチに相手が向かってくる力が加わるのでその威力には恐るべきものが宿る。
 ボクシングの魅力とも言われる。

『ラビットパンチ』
 後頭部へのパンチ。ボクシングでは反則とされる。
 おばあちゃんが使う際はこの限りではない。

『顎』
 1.ジョーとも言う。パンチが当たると脳が揺れるためダウンが取れる。
   天ヶ峰はピーカブースタイルを取っているため、顎が弱いと思われる。
   パンチをもらうとすぐにダウンに繋がってしまう顎を『ガラスの顎(グラスジョー』とも言う。
 2.作者

       

表紙

顎男 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha