Neetel Inside ニートノベル
表紙

横井、宝くじ当てたってよ
第四部

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 そして、夏休みが始まった。
 来るべき退廃の時が始まったわけである。誰もが喜んでいるこの夏の到来に、俺は早くも殺気を増した猛暑でエアコンはぶっ壊れるわ冷蔵庫はコンセントが抜けてて中身がムスペルヘイムと化しているわで散々だった。
 親父はマジで泣きが入ってて、お袋の古い知り合いだという電器屋に泣きついて旧式の家電を譲ってもらえないかと交渉している。
 が、どうもこの不景気に昔馴染みにかける情けはないとばかりにおねだりは難航している模様。
 ゆうべなんぞは居間で納豆ご飯をもぐもぐやっていた時に親父がぽつりと「痛いのかな」と呟いた時はどうしようかと思った。
 人間には守るべき聖域があるとはいえ、それよりも我が家の家電を優先してくれようとしている親父にはさすがに頭が上がらない。
 そういうわけで、俺たち一家は打ち首獄門より辛い生殺しで夏休み初日の朝を迎えたわけである。俺の部屋なぞは蔵書の海と化しているが、そのうち熱を保ちすぎて不審火を起こす気がする。
 ああ、せめてカーテンがあるだけでもマシか……。
 朝日が真っ黒なカーテンをぶち抜いて起き抜けの俺の目玉を焼く。これが本当の目玉焼き。
 電話が鳴った。家電(いえでん)だ。服を着たままひとっ風呂浴びた人のようになりながら、俺は電話に出た。
「ゴシゴシ?」
 ボケたわけでなく、喉がやられているだけだ。やめろよその目。なんだしマジで。
 電話は、最初しばらく黙っていた。
「……後藤?」
 俺は居住まいを正した。誰も見ていないのに前髪をかき上げる。ガラス戸に映ったデコが最近マジで後退してきてて死にたい。
「紫電ちゃん? おお、どうした」
 実際問題、いきなり女子から電話が来たってテンションが上がるどころかビビるだけである。なんか不味いことをしでかしたような気がしてくる。パトカー見た時と似てる。
 電話の向こうの紫電ちゃんは、珍しく覇気がなかった。
「あの……な? べつに用、ってわけじゃないんだが……」
「ほほう」
「その……急、急だよな。ごめん」
 いきなり謝られた。悪くない気分である。
「うん、いいよ紫電ちゃん。俺が許す」
「あ、うん……ありがとう。でな、後藤。いいか?」
 どうぞどうぞ、と俺は爪先で膝の裏をかきながら答えた。あとであせもの薬ぬっとかねえとなあ。
 そして、電話口の紫電ちゃんはとんでもないことを口走った。
「今日、デートしないか?」
「…………」
 デッドしないか、の聞き間違えの可能性が結構ある。
 俺はわけもなく周囲を見回しながら声を潜めた。
「……マジか」
 ボケるガッツがない。
「……マジだ」と紫電ちゃんが言う。
「できれば……遠出になると思うから、あの、交通費とかかかっちゃうんだが、平気、か?」
「問題ないぜ」行きがけに誰かを叩き起こして金を借りればなんとかなる。
「そうか? よかった……じゃあ、十二時に駅前で。それでいい?」
 俺は答える代わりに聞いた。
「紫電ちゃん」
「ん?」
「……本気か?」
 紫電ちゃんはやっぱりこう答えた。
 本気。


 俺は電話をがちゃんと下ろした。鉛のように重い気がする。
 マジかあ……
 俺と紫電ちゃんが? ええ? そういう展開? いつの間にフラグを立てていたのかまったく覚えていない。
 悪戯の可能性はないと見ていい。紫電ちゃんは理由もなくそういうことをする子じゃない。そういうことをする子は桐島とか寺島さんとか、あと佐倉とかだ。紫電ちゃんは男心をもてあそべるような子じゃない。それはそこそこ幼馴染の俺が保証できる。
 ということは……
 …………
 俺は自分の部屋に戻り、真っ黒なカーテンをバッと開け放った。真っ白な太陽が俺をぶっ殺そうとその実を熱く熱く燃やしている。俺は手でひさしを作って人でなしの太陽を見上げた。
 何もかも、この白い太陽のせいだと思った。


 横井んちに突撃して軍資金をかっぱらおうとしたが留守だった。
 ので、ロードワーク中の黒木をうしろから羽交い絞めにしてヘッドロックをかけてみた。この暑い中、試合を控えて雨合羽を着こんで減量に励んでいるボクサーを苦しめるのは忍びなかったが、こいつがロードワーク終了後に古本屋のお姉さんと長話した挙句に読みもしない古書を買っては通ぶっているのを俺は知っている。この野郎、買っては俺に投げてよこしやがった。嬉しいけど床が抜けたらどうすんだ。古書と女性と俺んちのために、黒木が余らせている泡銭は俺が頂く。だいたいちょっとロードワークには遅いんだよ。寝坊しやがったなてめえ。
 意識を失った黒木を公園の木にもたれかけさせ、俺は財布をあらためた。なんと五千円も入っている。これじゃ貸してる一万円の利子にもならねえ。俺は空っぽの財布を黒木に投げて返した。俺から金を借りる方が悪いのだ。
 ふふふふ、と黒い笑みを浮かべながら俺は駅前に直行。流れるようにしまむらに入って新品のシャツの内外一組とジーパンを買った。裾上げせずにサイズぴったり。めまいがするようなチェック柄のシャツも大概だが、ジーパンがケミカルウォッシュなのもベターなコケ方をしていると我ながら思う。シャレオツなピーポーからすると失笑ものだろうが、そういうやつは紫電ちゃんのセンスをわかっていない。馬鹿め、あの子には悪手こそ正着手なのだよ。
 トドメに真っ赤なバンダナを額に巻いて指貫グローブもはめ込み、俺は後光を漂わせながら大通りを突き進んだ。周囲の視線など紙くず同然。そこで不意に知り合いと出くわした。
「あら、後藤くん。久しぶ――」
「ふんヌァッ!!」
 コンビニから出てきた旧知・紺碧の弾丸さんを俺はラリアットで地面に叩きつけた。面白いようにひっくり返った紺碧さんは、目玉を風車のようにして薄ら笑いを浮かべている。お前と喋っていると紫電ちゃんとの約束に間に合わないんでな。残念だが紺碧さんの出番はカットだ。
 尊い犠牲を分厚い背中に、その奥の燃えるハートに閉じ込めて、俺はいく、駅前へと。その向こうで待っているはずの、金色の女神を求めて――
「――後藤?」
 最初、気がつかなかった。俺は周囲を見渡して、俺のそばに超かわいくてシャレオツでパイオツな女の子が立っているのを確かめると、とっととその場を通りすぎようとした。だって紫電ちゃんがこんなお洒落なわけないし。
「ちょ、ちょっと後藤! どこいくんだ!」
 がしっと腕を掴まれて、ようやくその美少女の顔を俺はまともに見た。
「うわっ、マジかよ。紫電ちゃんだ」
「マジってなんだ……」
 紫電ちゃんはちょっと悲しそうな顔をして、一歩下がった。
 真っ黒なタンクトップ姿である。左の胸元に銀の幾何学模様をしたバッヂをつけ、腰のそばにはそれを線対称にした金のバッヂが輝いている。ベルトは男顔負けのゴツさだが、細い紫電ちゃんの腰がそれでさらに締まって見えるのが殺人的だ。タイトなジーンズは七分丈で、足元はとても便所に履いていこうとは思わないだろうサンダル。素足だ。ちっちゃな足の指の爪が綺麗に切り揃えられている。そして顔はおなじみの金髪碧眼、心なしかいつもより毛艶がよくて目が大きい。
 やべー。
 俺は鼻を押さえた。つーんとする。感動でだ。
「紫電ちゃん、俺を殺す気なんだな?」
「これ以上、おまえが私の格好をからかったらそうする」
 紫電ちゃんは俺を睨んでいる。おいおい、どこをどう取ったら俺の反応が悪く見えるんだ。メガネ貸そうか?
「いやいやいや。で、それは誰の入れ知恵?」
「酒井」
 やるじゃねーか浪費魔。伊達に金の使い方知ってねーな。
 俺と紫電ちゃんは言葉の接ぎ穂を失って三秒近く見詰め合った。それからふいっとお互いに顔を逸らした。周囲には早くも人だかりが出来つつある。どうやら紫電ちゃんを待たせたわけではないらしい。ていうか誰だいま「隣のキモオタなんなの」って言ったやつ! それほどオタではねえよ! ゲーセンいってもコイン飲まれるだけだし。
「じゃ、いこうか」
 紫電ちゃんはちょっと俯きがちに俺の指を取って引っ張り出した。野次馬から歓声が上がる。気持ちはわかる。俺もやばい。
「し、紫電ちゃん……アグレッシブだな」
「え? ……べつに、指を引っ張っただけだ」言って、拘束具みたいな腕時計を構え、
「もうすぐ電車が出るしな。切符は買っておいた」
「あ、悪い俺チャージなんだけど」
「……今日は切符にしておけ」
 そうします。
 俺は背後を振り返ってモテない諸君と便所コオロギみたいな顔した女どもにひらひらと手を振ってお別れいたした。はっはっは、これも日頃の行いってやつ?
「それにしても後藤……」
 紫電ちゃんがちらっと流し目を俺に振ってきた。
「その格好……」
 お、気づいてくれました? 黒木からかっぱらった金であつらえた対紫電ちゃん用決戦兵装っすよ。どう? どう?
 紫電ちゃんは、遠くを見るような目で言った。
「格好悪いな」
 他人を見る時は普通のセンスなのかよ……


 で、どこへ連れていかれるのか完全にお荷物気分で電車に揺られていたら、二度の乗り換えを経て、都会とは反対方向の終着駅まで連れていかれた。ここまでで三時間半。フルラウンド打ち合ったしりとりがお互いにネタを撃ち尽くし判定にもつれ込んだ。「後藤は言葉をたくさん知っててずるい」というワガママ丸出しの意見が本人によって採用され、俺は逆転負けを喫した。マジかよ。
 着いた駅がすでに緑萌え萌えの僻地であるが、そこからバスでさらに奥地へいくという。正気かコイツ。初デートでいくところじゃないだろ。遊園地とか水族館とかは? 俺イルカ見る気満々だったんだけど。
「紫電ちゃん、俺のイルカは?」
「は?」
 紫電ちゃんはちょっと男の子が傷つく感じの目つきになった。
「イルカってなんだ。あ、さっきのしりとりの続きか? イルカはもう言ったから駄目」
「ちがうわ。そんなにしりとり好きか。子供め。いいか俺が言いたいのはだな、初デートというものは」
「後藤」
 紫電ちゃんが俺の言葉を遮った。
 バスの中には、誰も乗っていない。生きているかどうかも定かでない運転手が気乗りしない声で次の停車駅の名を告げる。
 シートが小刻みに揺れている。紫電ちゃんの顔がすぐ目の前にある。
「顔」
「え?」
「青いな――」
 そう言って、紫電ちゃんは俺の額にぺとりと自分のそれをくっつけた。
「――――」
「ん、熱はないな。……どうした? 酔っちゃったのか?」
 そう言って小首を傾げる紫電ちゃんのタンクトップから、淡いピンクのブラが覗いている。
「――えと」
「もうすぐ着くからな。それまで頑張れるか? それとも下りるか?」
 俺は紫電ちゃんの目を見つめた。真夏の空を繰り取ったようなブルーアイズを見ていると、何が正しいのかが、感染する細菌のようにこの身体に移ってくるような気がした。俺は言った。
「下りる」


 真夏の日差しが赤くなり始めている。
 俺たちが下りる駅は、菖蒲峠、という。
 帰りのバスは、もう無いそうだ。

     



 旅館と大衆食堂と土産物屋をごた混ぜにしたような店が、バスから降りてすぐにあった。山ン中のド真ン中にきらきらと光っているその店を見ると
「科学ってすげえ」
 ……と、俺はしみじみ思ってしまった。逆光を浴びて真っ黒になった紫電ちゃんが俺を見ている。
「どうした」
「や、なんでも」
 そうか、と言って紫電ちゃんは歩き出した。俺は後ろからついていきはしたが、内心、この状況が信じられなかった。日没過ぎて、女の子と自分の家から何百キロ離れているかも分からん奥地をほっつき歩いている。うちの親父は「おまえが死んだら死体を取りにいけばいいだけだ」と常日頃から言ってくれているのでなんの連絡もしなくて構わんのだが、紫電ちゃんの方はどうなんだろう。
 食堂の脇に秘密っぽく開かれているエントランスから、俺たちは宿に入った。名前はなんだっか覚えていないが、難しい漢字を使っていたと思う。
 ぱたぱたぱたと競歩で出てきた女将さんっぽい女性が紫電ちゃんを見てぱあっと顔を明るくした。紫電ちゃんもテーブルを見たらハンバーグがあったガキみたいな顔になって、なにやらぺちゃくちゃと喋っている。俺は気まずいので家来のように紫電ちゃんの左斜め後ろで、壁にかけられた鹿の生首を見ていた。すぐ上でひげもじゃのおっさんが猟銃を構えてにっこり笑っている写真がある。すっげぇ田舎。
 女将さんが、紫電ちゃん越しに俺に笑いかけてきた。
「あんたがしーちゃんの彼氏?」
「はい」
 こういうときはとりあえずパチこいとくに限る。
 が、何も言わない紫電ちゃん。まるで何事もなかったかのようにうっすら笑いながら、
「いこうか」
 俺の指を引っ張って階段を上がり始めちゃった。俺はもうどうしていいのかわかんないので考えるのをやめた。ていうか泊まるの? 怖くてちょっと聞けない。がんばれ俺のピュアハート。
 襖を開けると、修学旅行などで御馴染みのいい感じのお部屋があった。窓の向こうが駐車場っていうのが風情を軒並みブッ殺してくれちゃっているが、まァ諦めずにその向こうを見れば真緑色のお山の連なりが夜の黒に沈んでいて、深海のようだと言えなくもない。というかそもそも山とか緑とか、その上に薄くかかった月どころでもなかったんだよ俺は。だってすぐそばに女神級の美少女いるし。え? いやいやマジだから。マジで東京ガールズコレクションを超越してるから。だって田村んちで紫電ちゃんのフィギュア見たもん俺。あれはガチだった。
「後藤? 今度は顔が赤いぞ」
「酸欠かな。海抜高そうだしこのへん」
 自分で言うのもあれだが、よくもまァ俺もこうペラペラペラペラ嘘が飛び出してくるもんだ。
「そんなことより紫電ちゃん」
 俺はどっかと上座っぽい掛け軸がある方の座布団に座って、テーブルの向こうにちょこんと女の子座りしている紫電ちゃんを見据えた。
「マジで泊まるのかここ」
「ああ。だってもうバスないし」
「そうか」
「……? いやなのか?」
「その逆だから困ってンだよっ! 察せよ!」
「……??」
 紫電ちゃんのビックリマークが増えた。くそっ、これだからチンコがついてねえやつは何もわかってねえってんだよ。ああやっべえお肉畑が見えてきた。振り払う。
「ちゃうねん。ちゃうねん」
「なんで関西弁」
「やかまCィ!! いいか、紫電ちゃん、こういうことを俺は恥ずかしいとは思わないからハッキリ言うが、……俺には金がねえ」
 紫電ちゃんはしばらく黙っていたが、やがてこう答えた。
「なるほど」
 なるほどじゃねーよ。どういうことだよ。俺はテーブルをばしばし叩いた。
「どうすんだよ紫電ちゃん。こんなとこ泊まる金ないぞ」
「ああ、それなら大丈夫だ。さっきの女将さんは私の親戚だからタダだぞ?」
「えっ」
「……話、聞いてなかったのか? このあたりは、私の父方の祖母の生家のすぐそばなんだ」
 紫電ちゃんがジト目で見てくる。俺は自分の頭を叩いてぺろりと舌を出して見せた。
「鹿見てて全ッ然お話を聞いていませんでしたぺろ」
「この馬鹿が」
 ありがとうございます! ああ~気持ちいいその目~もっと見て。俺をもっとそんな感じで見て。しかし紫電ちゃんはシベリア地方の鉄杭のような視線をすぐに溶かして、ふっと柔らかく微笑んでしまう。やめろよそういうの。俺ホントにグロッキーになっちゃうぞ。
「暑いな」
 紫電ちゃんはパタパタと手うちわで顔を扇いだ。さらっとした金髪が気まぐれを起こして舞踏する。
「ついて早々だが、風呂でも入るか? 温泉だぞ」
「何事かと思ったらここ火山なのかよ。あぶねえところに宿建てやがって。……あー、つーか着替えねーじゃん。どうしよ」
「ん」
 紫電ちゃんはおもむろに立ち上がると、俺の隣に座った。え、何? 私の身体がスポンジよってこと? そういうことなの?
 カシャリッ
 一瞬の早業だった。紫電ちゃんのスマホが俺と紫電ちゃんのツーショットを撮影した。さりげにチーズサインまで取っている紫電ちゃん。ノリノリである。俺はその画像を表示させたままのスマホを渡されて、呆然とした。
「この画像を見せればこの旅館の中では顔パスで、なんでもタダだ。簡単な下着とか、シャツとか、土産コーナーに置いてあると思うからもらっていけ。浴場にもそういうのあるかもしれないけど、自販機とかだと買えないしな」
「俺、久々に紫電ちゃんが生徒会だってことを思い出したよ」
「……どういう意味だ。手際がいいって言ってくれてるのか?」
「まァそんなとこだ」
「……ふん」
 紫電ちゃんはぷいっとそっぽを向いた。そのまましっしと手を振ってくる。
「早くいってこい」
「へいへい」
 俺は紫電ちゃんのスマホを片手に部屋を出た。襖を閉めて、灯りが煌々とついた廊下を見渡す。頭を低く下げて、窓の外からは見えないように移動した。
 何かの陰謀の可能性を俺は捨て切れていない。どうなる俺。あっ、紫電ちゃんの携帯の電池切れそう! 急いで、せめてパンツだけでもゲットせねば。待ってろよパンツ! 俺は廊下を勢いよく走り出し、たまたま居合わせた従業員の人に物凄く怒られた。廊下は走っちゃ駄目なんだって。初耳だわ。

     




 土産物屋で「この紋所が目に入らぬか」をガチでやってみせた俺は見事着替えをゲットしていた。紫電ちゃんってすげえ。
 そういうわけで浴場に俺はいた。
 全裸である。
 のちの全裸である。
 いや何言ってるかわからねえわ。普通に全裸です。露天風呂で全裸。気持ちいいね。
 お客は俺だけだった。
 蛇口を捻って桶に軽くお湯を入れて頭からかぶる。今日一日の疲れと垢が排水溝へと消えていく。いいねえ。これマジでタダでいいの? 金銭感覚壊れそうだから逆に何か払っておきたい気分だ。
 石鹸でゴッシゴッシと身体を擦りつつ、ぼーっと月を見上げる。いまごろみんなどーしてんだろ。まさか俺がこんなところで二の腕を洗っているとは思わないだろーな。
 そういえば横井はどうなったんだっけ。天ヶ峰とリアル鬼ごっこした後も学校で会いはしていたが何を話していたかまるで覚えていない。まァそれもこれも茂田が拾ったウサギを校舎裏で飼い出したので、横井どころじゃなかったのである。ウサギは茶色で、まだ生まれたてだ。名前は一橋慶喜。怒られそうである。
「ふんふんふふん、ふんふふん」
 鼻歌まじりにボディを禊ぎ果たすと、俺はいよいよ温泉に片足を突っ込んだ。ほどよい熱さでじんわりと癒しの気配が立ち昇ってくる。そのままドボンと落ちるように湯に浸かった。
 おお……
 思わず眠って溺死してしまたくなるような心地よさ。なんじゃこりゃ。全身がマシュマロか何かになっちまった気がする。俺は意味もなくへへへへと笑った。この夏の疲労がすべて溶けていく気分だ。
「やっべー……死にそう」
 思わずこぼれた独り言に返事があるとは考えてなかった。
「そうだな」
「そうでしょ……って、ええ!?」
 至近距離に紫電ちゃんの顔があった。俺は水面にアッパーカットを喰らわせて水魔法を使った。
「ぶふぉっ!? ちょっ、やめ」
「何してんだ紫電ちゃん! ここは男湯だぞ!」
「え?」
 紫電ちゃんは湯気の中に埋もれている。くそっ、よく見えない! でもなんか髪をかき上げている気配がする。
「ああ……そうか。いや、十分前までは女湯だったんだ。ここ、時間制だから」
 そういう大事なことは早めに教えてくれよ! あと中にお客がいないか確かめてくれ従業員さん! なんか一階で宴会やってて忙しいみたいなのはわかってたけど! ほんとお疲れ様です! あれ?
 俺はくらくらっと来てしまった。ガキの頃、初めて紫電ちゃんと会った時のことを思い出す。公園のジャングルジムを制圧していた紫電ちゃんからみんなの遊び場を取り戻すための鉄砲玉になった俺はものの見事にカウンターを喰らって一メートルくらいの高さから落下して頭を打ったが、あの時と同じ感じがした。くらくらする。しゅわしゅわする。なんだこれ……
「後藤? ……後藤!」
 そもそもツッコミが追いつかないのである。先に風呂入ってこいって言ってたのになんでお先に失礼してるんだよ。いやすぐ出るつもりだったかな……なんか、なんか、ヘンだ。今日は一日、最初からヘンだ。そもそもなんで俺こんなところで紫電ちゃんと……夢かこれ? 夢落ち? 超微レ存。
「後藤ーっ!」
 ああこれ湯あたりか。何か肌色で柔らかいものがすぐそばにある気がするが、わかったところでもう遅い。俺の意識はレジ点検の時に掌から滑り落ちていく小銭のようにどこかに消えた。月が丸い。



 ――気がつくと布団の上で寝ていた。あかりを受けて黒い影になった紫電ちゃんが俺を見下ろしている。
「大丈夫か?」
「ああ……」
「水飲むか?」
「うん」
 俺は紫電ちゃんに後頭部を支えてもらって、水を飲んだ。うめえ。
「ぷはっ……俺は一体……」
「いきなり倒れたんだ。湯あたりだろう」
 湯あたり?
 そういえばそんな目に遭ったような気がする。
 ていうか……。
 俺は布団をかるくはぐって自分の姿を見下ろした。
 浴衣着ている。
 知らないパンツの履き心地がする。
 瞑目して天を仰いだ。紫電ちゃんがたじろいでいる気配がする。仕方ない、不可抗力だ。
 元気を出そう、と俺は自分に言い聞かせた。
 チンコを見られたくらいで、人生は終わらねー。
 だが、それはともかく言っておくべきことがあった。
「紫電ちゃんが悪い」
「は?」
「お前な、いきなり全裸の女子が現れたら男の子は卒倒しちゃうんだよ」
 これ、豆知識な。襲ったりできないから。倒れちゃうから。
 紫電ちゃんの白目だけがなぜかくっきり見えた。
「……それが、べつに好きでもない女子でも?」
「残念ながらな」
「……そうか」
 紫電ちゃんはちょっと寂しそうに言った。俺は額に手をやり、乗せられていた冷シボをひったくってテーブルの上に投げた。べちゃり。
「さて、どういうことか説明してもらおうか」
 身を起こして、ぎろり、と紫電ちゃんを睨む。見ると紫電ちゃんも浴衣を着ていた。紫色のラインが入った、俺にはわからない花の柄が染め上げられている。
「……説明? だから、うっかり男湯との切替寸前に入ってしまったんだ。それで……」
「まだ寝ているつもりはないぜ」
「……なに?」
「風呂に入ったらかえってサッパリして頭が冷えた。俺ァな紫電ちゃん、あんたに好かれるようなことをした覚えもないし、あんたに好かれるほど自分がイイモンだとも思ってねえ」
 紫電ちゃんと俺の間にある空気がピシリと凍った。
「……だから?」
「白状しろよ。何が目的なんだ? 白黒はっきりつけようぜ」
「そんな……私はただ」
「ただ?」
 俺は笑った。
「その先が言えるのか?」
 紫電ちゃんは黙った。俺は目を逸らさなかった。でもすぐにビックリした。
 紫電ちゃんの青い目にふつふつと涙がこみ上げてきたもんだから。
 俺はちょっとスカしすぎたと思ってスゲー後悔した。へんなムード出すもんじゃないわマジで。慌ててごめんごめんラッシュをしようとしたら、紫電ちゃんがふいっと顔を背けた。袖で目元を隠す。
「すまない、泣くのは卑怯だな。見なかったことにしてくれ」
「いや紫電ちゃん、俺はそんな」
「いいんだ。少しだけ、時間をくれ。すぐに全部話すから」
 そういって紫電ちゃんは、ティッシュで鼻を二回かんでから話し始めた。
「……どこから話せばいいかな。この間、祖母の兄が亡くなったんだ」
 俺はなんとなく居住まいを正した。
「それは……ご愁傷様」
「どうもありがとう。それで……祖母の兄、というよりも祖母を含めた私の血縁は、このあたり一帯を取り仕切っている地主でね」
「え、地柱町を仕切ってるんじゃ」
「それは祖父の方」
 ははあ、と俺は納得した。お金持ち的サラブレッドってやつか。
 紫電ちゃんはちょっと笑ってから続けた。
「祖母と祖母の兄にはよく遊んでもらった……ただやっぱり、お家としては私のママがアメリカ人だということはあまり受け入れられてなくて、親戚の中には冷たくしてくる人もいたんだが、あの二人だけは別だった……零おじいちゃん、葉子おばあちゃん、と幼かった私はよくなついていたものだ」
 なるほどな……ってか、葉子はともかく零おじいちゃんって、当時にしてはアグレッシブな名前だなオイ。
「その零おじいちゃんが亡くなって……遺産の分配の話になった。遺書がなければ法律で定められた分け方に従って分配されるはずだったんだが、いきなり零おじいちゃんの遺書が遺品の中から出てきたんだ」
「ほう」
 血筋を遡れば盗賊に戻ると言われている俺んちとしては、相続の話なんててんでピンと来ない。
「その遺書にはこうあった。――妹の孫娘、紫電には、ぜひとも私、火泉零(ひずみ・ぜろ)の遺産をすべて分け与えたい。ただ、ひとつ条件がある。それは私の親友の孫と紫電が結婚することだ。これは、私が青春時代を共に過ごした友人との口約束から始まったことで、紫電には何の関係もないことだ。こんな因縁を押しつけてしまう羽目になるとは、孫の紫電にはなんと言ってお詫びしたらいいかわからない。だが、友人との約束を破るわけにはいかぬ。私は私として義理を通さなければならない」
 俺はいつの間にか掴んだ膝を強く握っていた。
 紫電ちゃんは朗々と語る。きっと何度も、その遺書を読み直したのだろう。覚えてしまうほどに。
「――紫電がやつの忘れ形見と結婚すれば遺産はすべて紫電に譲る。もっとも優しいあの子のことだから、遺産のほとんどは私の直系である火泉家に戻してくれるだろうが。そして、もし、紫電が結婚を拒めば。――私の遺産はすべて、ある施設へと寄付されることになっている」
 話し終えた紫電ちゃんは、俺の目を見た。
「……私は、その会ったこともない男と結婚するつもりだ」
「マジか」
「ああ。冷たくされたこともあったが、この土地に住む親戚たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。でも、――でも、私には自信がなかった。会ったこともない人間を、『愛さなければならない』という理由だけで愛せるのか、どうか」
 重たい沈黙が下りた。
 紫電ちゃんは目を伏せている。どうでもいいがその視線の先は俺の股間なのでジロジロ見るのはやめてもらいたい。
「……これが、私がお前を誘った理由だ」
「……なるほどね。俺は実験台(テストショット)だったってわけだ」
「……そうだ」
 合点がいった。それなら佐倉んとこの喫茶店で好きだのなんだのショートケーキみたいに甘ったるい話題を振ってきたのもわかる。
「ずっと悩んでたってわけだ。一人で」
「……許されるとは思っていない。殴ってもらっても構わない」
 俺はしばらく腕組みをして紫電ちゃんを睨みながら、言った。
「その男は、いまどこにいるんだよ」
「え? ……ここからちょっといった先に、火泉の本家がある。そこに来ているらしい。……本当なら、お前には何も言わず、私は明日一人で本家にいって、彼と結婚してしまうつもりだった」
「いまでもそうするつもりなのか?」
「…………」
 紫電ちゃんは黙っている。俺はため息をついて立ち上がった。
「いこうぜ」
「え?」
「黙ってたって何も解決しないだろ」俺は時計を見て、
「夏の夜は動きやすいしな。いまからその本家ってところに殴りこみをかけようぜ」
「そんな! みんなを殺したくなんてない!」
「誰が殺せっつったよ! お前らの殴りこみ重たいよ! ったく……とにかくその男のツラ見ないことには話が始まらねえだろ。善は急げだ」
 言って、もう出て行こうとする俺に紫電ちゃんが取りすがるように言った。
「怒らないのか!?」
「はあ?」
「だって、だって私は……お前を騙したのに……お前を利用してただけなのに……」
 紫電ちゃんは不整脈を起こしたように胸元を押さえて、顔をゆがめている。
「いいよべつに」
 俺はマジだった。紫電ちゃんが見えない壁にぶつかったような顔をしている。
「ま、今日はなんだかんだ言って楽しかったしな。これで終わりってのが残念っちゃ残念だけど。紫電ちゃんもさ、急にそんなメロドラマが始まっちゃってテンパってたんだろ? しかたねーじゃん」
「そんな……後藤、おまえ神か?」
 そこまで凄いか俺。
 がしがしと髪をかきむしった。
「あー、その、なんだ。あれだよ。男っていうのはさあ……」
 さすがに恥ずかしいので目を見て言えなかった。
「……女のワガママ聞いてやって一人前なんだよ」
「後藤……」
「親父の受け売りだけどな」
 言って、俺は笑った。
 これだけ恩を着せておけば俺の股間のプライバシーは守られるはずだ。

     


 二人して浴衣のまま外に出た。
「で、歩いていけるんだっけ」
「ああ。十五分くらいかな」
「よっし、じゃあ楽しみにしておこうぜ。紫電ちゃんとラブラブになれるかもしれないラッキーな男の顔を」
「……そうだな」
 紫電ちゃんはぶかぶかになった袖を口元に当てて、笑った。
「後藤、おまえはいいやつだな。見直した」
「そうだろう。見直せ」
「昔からそんなだったか?」
「おい忘れてんじゃねーよ二大災厄のうち一人はおまえだぞ」
「失敬な。私は有り余る暴力に取り付かれていた美里をスポーツの世界に導いたんだぞ。それがどれだけ大変なことだったか」
「いつだって大変なのは巻き込まれる俺たちだったよ」
 茂田の後頭部にはまだ当時の傷が残ってるし。
 紫電ちゃんは、一台も通らないアスファルトの上をからんころんと下駄を鳴らして歩きながら、目を優しく細めた。
「懐かしいな……」
「まァほとんどの面子はそのまま一緒に進学したからあんま懐かしくもないけどな」
「そういうことを言ってるんじゃない。子供の頃が、ってことさ」
 俺は紫電ちゃんの横顔を見やった。
 そうか。
 ひょっとすると紫電ちゃんはもうすぐ、子供じゃなくなってしまうのか。
 俺は処女厨のみんなの顔を知っている限り思い出してふと涙を催してしまった。
「ううっ」
 可哀想に、小倉、佐伯、神庭、茂田、周防。おまえらの夢はもうすぐ何者かの魔手によって散るかもしれん。NTR耐性をつけておけとメールしてやれない俺を恨んでくれて構わんよ。
「……なんだろう、悪寒を感じる。上に何かカーディガンとか羽織ってくるべきだったかな。くちゅっ」
 紫電ちゃんはかわいくくしゃみをした。下卑た妄想をされているとも知らずに……ふふっ、愛い奴。
「なんだその目は。いやらしい」
「なんてこと言うんだ。人をそんな風に見た目で判断するのはよくないぞ」
「言ってろ。……お、あれだ。あかりがついてる……みんなまだ起きているのか」
 見ると、ゆっくりと傾斜していくアスファルトの道の果てに村があった。小さな、と言わないのはどの建物も門構えが立派で、なんというか、武家屋敷だけで作った村って感じだからだ。ちょっと要塞っぽい。
「忍者とかいそうだな」と俺。
「なんで知ってるんだ」と紫電ちゃん。
 聞かなかったことにする。
「で、どれが火泉さんちよ」
「どれも親戚だからそうと言えばそうなんだが、本家はあの一番奥の屋敷だな」
「かぁーっ。あれかァ。でっかくてご立派で、なんか金持ちっぽくて見ていてイライラしてくるぜ!」
「……なんだか、申し訳ない」
 しゅんとされても困る。
「とにかく、いいか後藤、まずは私の婚約者の顔を見に行くが、私は明日つくことになっている。もし今晩、姿を見られたら婚約者を消そうとしている疑いをかけられて捕まってしまうだろう」
「ここって親戚が住んでるんだよね? なんでそんな好戦的なんだよ」
「田舎というものは難しいものなんだ。ましてや後藤、おまえを連れ立っているというのはまずい。私がデキ婚で状況を打開しようとしていると思われるかもしれん。その場合、おまえは死ぬ」
 死ぬんだ。すっげー軽いね俺の生命。
「どうした、ワクワクするのか」
「そんなわけねーだろ普通に寒気がするわ。……いいよもうその婚約者ってやつを見るまでは死ぬ気ねーし。よし、いくか」
 俺たちはこそ泥のように腰を低くして先へ進んだ。村の入り口には『菖蒲峠果村』とある。あやめとうげはてむら、と読むのかな。自分の村に『果て』とかつけるセンスが怖い。

     




 本家、と紫電ちゃんが呼んでいる屋敷の門は固く閉ざされていたが、門を顔にたとえるとえくぼの位置にある通用門がぽっかり開いていたので俺たちはそこから侵入した。庭は縁石やら鹿威しやらがあって、粗相をすると吹き矢が飛んできそうな気配がする。
「いいか、呼吸をするな。ここから先は戦場だと思え」
 紫電ちゃんがしいっと人差し指を立てながら俺を振り返った。
「呼吸を止めて生きていくのは男子高校生にはちょっと無理なんですけど」
「いいか、自分の肺を信じろ。自分の呼吸器系を信じろ」
 なんだその「コツがあるんだよ」みたいな顔。ねーよ。でもやるわ。むんっ!
「ぐへえ」
「おい三秒も経ってないぞ」
「呼吸については諦めようぜ。それよりその婚約者ってのはどこにいるんだ?」
 屋敷の中では、宴会が張られているらしい。酒飲みのおっさんたち特有のガッハッハ笑いが響き渡っている。
「遠見のおじちゃんたちが飲んでいるらしいな……私の門出をお祝いしてくれているらしい……」
 紫電ちゃんが月明かりの下でちょっと寂しそうに眉尻を垂らした。複雑な心境なんだろう。
「でも好都合だ。うちの血筋はお酒が入ると弱くなるから」
「ヤマタノオロチみたいだね」
「ははっ、そうだな」
 笑い話じゃないんですけど。
 紫電ちゃんは急に真顔に戻って「ちょいちょい」と俺を手招きした。
「こっちだ。離れに、来客用の間がある。そこに『彼』はいるはずだ……縁側を通って向かおう」
「わかった。……でもその前にちょっといい?」
「ん?」
 俺は左手の方にある、納戸を指差した。
「あそこって何があるの?」
「えっと……」紫電ちゃんは虚ろなまなざしになって遠い記憶をほじくり返した。
「農作業用の器具などだな。あとはまァ、色々だ。使わなくなったガラクタが置いてある。それがどうした?」
 紫電ちゃんってさァ、と俺は言った。
「子供の頃に里帰りして親戚の子と花火とかしなかった?」
「した。とても楽しかった。いまでも懐かしい思い出だ」
「そりゃよかった。じゃあちょっと久々に花火大会とシャレこもうぜ」
「え?」
 俺はこそこそと納戸に近づいた。紫電ちゃんが「わけがわからないよ」と言いたげな顔でついてくる。
「後藤、おまえ」
「いいから。ちょっとここの鍵外してくれる?」
 ばキィッ
 南京錠が紫電ちゃんの手の中で、ブラックホールに飲み込まれた宇宙船のようにねじくれ曲がった。
「外したぞ」
「金持ちはやることが違うな。……うおっ、きたねえ」
 中は時代錯誤も甚だしい木造っぷりである。スコップやダンボールの中から、俺はひとつの木箱に目をつけた。危険、とマジックでデカデカと書いてある。俺はそれを開けてみた。
 黒々とした鋼鉄が、真綿の上に鎮座していた。水筒みたいな形をした炸薬と、それに繋がる導火線が揃えてある。砲身を指で触れてみると冷たく、肌に黒い煤がついた。それを指先で擦り潰しながら、俺はあらためてそれを見た。
 それは。
 大砲にしか見えない、花火だった。
「……後藤、おまえまさか」
「なんだい紫電ちゃん。その人でなしを見るような目は」
「いくらなんでも……おまえ……」
「これぐらいやらないと自分の気持ちって伝わらないよ」
「そ、そうなのか? いやそういうことじゃないだろ……あっ、おい、待て!」
 待つ馬鹿がいるか。俺は内心から沸きあがってくるうきうきした気分を抑えられずに、表へ飛び出した。ふふふふ、やると決めたら徹底的にだ。俺はもう一目見た段階で黒々とした砲身に惚れてしまっていた。俺はどうもガキの頃から、強いものが好きなのである。
 星が明るすぎて群青色に近い空の下で、どう見ても大砲にしか見えない花火を庭の草の中に設置する。
 砲塔は、屋敷の中に向いている。
 俺の手には、木箱から取り出した火打ち石が握られている。
 準備は万端。
「後藤! やっぱり駄目だ、こんなことまちが」
 うるさい紫電ちゃんの目を赤バンダナで後ろから縛り付けてやった。
「うわあ! なにも見えない、見えないぞ後藤!!」
 紫電ちゃんがゾンビのような挙動で、そばにあった燈篭を俺だと思って揺さ振っている。燈篭の丸石が「めきり」と嫌な音を立てて転がった。見なかったことにする。
 さてと。
 俺は火打ち石を弾いて、導火線に火を点けた。
 ジジジジジ……とやる気のないセミのような音を立てて縄が短くなっていく。俺は耳に手を当てて、三歩下がった。導火線の距離が零に等しくなる。
 考える。
 ――誰が悪いかと言えば、忍者がいるなんて口を滑らした紫電ちゃんが悪い。
 ぱっ、と砲塔が光った。
 すぐに壁のような音が炸裂し、砲塔から恐らく大砲であろう花火がぶっ放された。縁側から閉じられた雨戸をブチ破って屋敷へと突撃した砲弾は中で爆裂したらしい。
 特撮じみた大迫力で、紫電ちゃんの生家が粉々に吹っ飛んだ。屋根瓦が俺たちのそばにまで落ちてきた。俺は夜間ではあったが、右手を庇にしてそれを見た。
 いい眺めである。
「遠見のおじちゃん! 桜井のおばちゃん! うわーっ!!」
 紫電ちゃんが赤バンダナを顔からむしりとって地面に投げ捨てた。そのままその場にくず折れてうっうっと嗚咽を上げる。俺は額に浮かんだ汗を左手の甲で拭った。
「ふうっ、これで忍者がいようと関係なくなったぜ!」
「言わなければよかった! 言わなければよかったぁ!! おまっ、おまえ最低だぞ後藤!!」
 うるせー。お前にはわかるまい、もし本当に忍者が出てきたらどうしようかと考え続けた俺の苦しみを。あいつら夜目が利くからスニーキングミッションしても無駄だろうし、紫電ちゃんは戦闘力はあっても心根が土壇場で甘いので肉親相手じゃパンチの切れが鈍るかもしれないし。物凄く悩みに悩んでのコレなのだということはわかってほしい。男子高校生が非日常で生きていくには見敵必殺でも生ぬるい。出会う前に殺す。これが鉄則なのだ。
 ところがさすがに紫電ちゃんの血縁だけあって、崩れたジェンガみたいになった屋敷の中からおっさんたちのだみ声が復活してきた。
「何奴だァ――!?」
「であえ、であえ、敵襲なり、敵襲なり!」
「ここが火泉の縄張りと知っての狼藉かァ――!!」
 元気なおっさんたちである。まァ時間稼ぎぐらいにはなったろう。俺は紫電ちゃんの手を引っ張って駆け出した。
「いこうぜ。おい泣くなよ紫電ちゃん」
「うっ……ひぐっ……」
 現実の世知辛さに耐え切れず紫電ちゃんがベソかいてしまった。俺が悪い気配がする。
「大丈夫だって、死人は出てないさ」
「そうかなあ……」
「前向きに考えようぜ。おっ、あれか離れって?」
 裏庭にぽつんと茶室ような離れが建っている。中から灯りが漏れていた。俺たちは難破した末に陸地を見つけた船のように一目散にその離れへと突っ走り、障子を蹴破る勢いで中へ入った。こういうのは気魄が肝心である。俺はロクに中も見ずに叫んだ。
「てめえかあ!! 紫電ちゃんの婚約者ってのは!! ぶっ」
 殺しちゃうぞ、と言いかけた俺のセリフが途中で止まった。紫電ちゃんが俺のうしろで息を呑む気配。
 離れの中には、確かに若い男がいた。そいつは囲炉裏の上に鍋を置いて一人でスキヤキを食っていた。手元の碗とそいつの口を牛肉が繋いでいた。呆然とした目で、そいつは俺たちを見ている。道理で留守だと思った。
 横井だった。


「な――」
 その口から、ぽろっと肉が落ちて、ゴマだれの中に沈んだ。
「な、なんで……後藤がいんの? ていうか、紫電ちゃん……えっ、なに、なんで、どうして?」
 あたふたし始める横井と、ドサっという音を立てて気絶したらしい紫電ちゃんの間に挟まれて、俺は両目を瞑って天を仰いだ。
 そーゆーことなのだった。

       

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Neetsha