「ふふっ。少し凛々しくなったんじゃない?」
「えっ」
出会い頭の唐突な褒め言葉に、上手く反応ができない。それは自分が褒められ慣れてないのもあるが、凛々しいという言葉がそれ以上に聞き馴染まないせいだった。
凛々しく。数日前にちらりと会って、今回が対面二度目の相手に言う言葉だろうか。
「本当の自分、みたいなものの片鱗でも掴んだのかもね」
「いや、そんなのまだまだですよ」
「ううん。何となーくバイクで出かけて、何となーくウチに来た時よりかは、芯がある」
あぁ、確かに今回はここに来たくてやってきたんだった。ロイエの堅苦しい口調で言うならば探究心。初めてこの店にやってきた時のこと、引いてはこのお店のことについて、知りたいと思って探し歩いていた。
「自分の意志で行動する。ガソリンが無くなって誰ならどうすると考えた以前の自分よりは、色付いて見えるよ」
「あ……ありがとうございます」
色付いて、という言葉選びは僕の苗字を指してのことだろう。白空。白く空っぽな様を連想させるこの文字列を肯定的に見せてくれたのが、前回の出来事だった。
先日僕が来店したからか、カウンター内側のシンク台はいつ客が来ても大丈夫なように予め大体の準備が整っていた。今日はそこにはサイフォンと呼んでいた仰々しい道具も、コーヒー豆も置かれていない。まだ自分に出してくれる飲み物が決まってないようだ。
訪れたお客さんが、一番に望むオーダーが分かるという店主さん。一度しか来たことのない僕にはそれが事実か分からないし、そも店主さん自らがそれが一番だと勝手に決め付けるなんて曖昧なことを言うものだから信用はできないが、やっぱり来訪者には決定権が無いようで、メニューも用意されてはいなかった。
「でもまー、その色はちょっと私としては受け入れがたいかなぁ」
「……えっ! えっと、それって」
つまり、来店理由が気に食わない、ということかな……。
前回もちらほら見受けられた、人の心を読んでいるのではないかという店主さんの発言。こちらが一から十まで喋ったわけでもないのに、名前にあたる漢字が分かったり、言葉にしていない疑問を先出しで答えられたり。極度に人間観察が上手いのか、はたまた本当に読心術でも心得ているのか。それも僕が問いただしたかった疑問の一つ。
「気持ちはねー、分からんでもないけどねー」
腕を組んで悩ましげに首を傾げるその仕草を、童顔で背の低い店主さんがやると見た目に反するギャップが著しい。
「僕がどうしてこのお店を探していたのか、分かるんですか?」
「まぁ、そりゃねぇ。ロイエが目の前で動いちゃうからだよー。あー一番ヤバイのバレたーって思ってあの後も色々してあげたけど」
「我のせいにするか」
「ぜーんぶロイエのせいだっ。久々のお客さんで振る舞い方忘れたのはどっちの方ですかーっ」
「言ってくれる」
ちょこちょこと飛び跳ねるようにして店主さんに向き直り、両翼を広げたロイエと対峙するのはシンク台に両手を付いてジト目で叱責する店主さん。あぁそんな、まるで僕が争いの種みたいになるなんて。
「やっ、やめて下さいっ。そこまで言うなら何も聞きませんからっ」
飛んで跳ねて喋りもして、加え人格っぽいものを持って人間と臨戦態勢に入る針金細工のフクロウなんて今まで見たことないし好奇心が尽きないところではあるけれども、二人(?)がいがみ合うなら無理に聞き出したくはない。
「……あ、あら。おほほほ」
「むぅ」
「御免なさいね、またお見苦しいところを」
前回といい、妙に大人っぽくなる美奈さんも見るのは心苦しいところだ。ロイエはまだ煮え切らないといった様子だが、この点店主さんは大人である。
「やだなー私ったら。学生さん相手にこんなんなっちゃって」
「え、何で学生って」
「分かるんだ。大学生だから、成人もしてるでしょ?」
「はい、してますけど……」
名前の次は身分まで見破られちゃうとは。どうして分かるのか、と訊いたらまた薮蛇になりそうで、何となくロイエの方を見ると、
「……美奈の、人間観察能力の賜物だ。顔つきとか背格好、雰囲気でな」
確かにジャケットにジーンズで平日の夜を出歩いているのなんてまず社会人とは思われないだろう。アパレル関係にしたってもう少しアクセサリーなどで遊ぶだろうし、夜のお仕事関係に見られるのは心外だ。
だがそれにしても迷いなく学生だと言い当てる店主さんの口振りに、人間観察以外のどこかに確信を得ているような気がして、やはりこの人は不思議でならない。
「時間も時間だし、一杯引っかけていく?」
「え、あ、僕あんまり強いのは……」
「あーそうだねー。そこらの要望は普段聞かないんだけど、今回作ろうとしてたのは偶然弱いのだったから安心してよ。よかったねー」
いつの間にか決められていた本日のオーダーに、どこに決定する要素があったのかなと振り返り何も思い当たらない。そういえばこのお店に来る人は何か悩みを抱えている人だと以前言っていたけど……。
「今日は残念ながら君の悩みを解消してあげられそうにないからねぇ。代わりにすっきりしないだろう気持ちを晴らすようなお話を、ドリンクと絡めつつしよっか」
どんな形になるのかは分からないが、僕の胸のもやもやは吹き飛ばしてくれるらしい。初めてこのお店に来たときの心安らぐ感じを思い出して、既に気分はリラックスモードに入っていた。
危惧すべきは、僕はあまりお酒に強くないことなのだが。
シンク台の下、足下の棚を手前に開くと、ガラゴロと音が鳴る。そこに小さなスコップを突っ込んで掬い出したのは角氷だった。そのまま彼女から見て右手にある細めのロンググラスへいっぱい詰め込む。二つ分用意した点、店主さんも同じく飲むらしい。
グラス二つに氷を敷き詰めて、最後に一つ冷凍庫から氷を摘みロイエに弾いて与えた後、カウンター内奥へと下がっていく。ロイエは何ともなしにその氷をつついていたが、弾き方が結構な勢いだったので実はまだ根に持ってるのかもしれない。美奈さんを怒らせるのだけはよそう。
二十年と数ヶ月しか生きてない僕のお酒遍歴はと言うと、飲み会に誘われて行ったのが数回と、家で親の飲む酒を少々拝借したことがある程度。親は結構な酒好きで、日本酒を買う度ラベルの名前が変わっていて、それぞれどう違うのかとか聞かされたことがあるがさっぱり理解できない。僕の舌では飲みやすいか飲みづらいかぐらいしか判別できない。
友人と飲み屋に行ったときはメニューに並ぶ横文字に圧倒され何がどれだか全然分からずいちいち隣の人にどんな味かを訪ねていた記憶が新しい。全て把握してるかのような友人の注文速度によからぬものを感じたのも覚えてる。
つまり、ものすごく疎いんです僕。
「触らぬ神に祟りなし。知らぬが仏。昔の人はいい言葉を後世に残したものだね」
奥から戻ってくるがてら、取ってきたものを整然と並べ始める。一つは黒みがかった橙色の液体が入った瓶。その隣にあるボトルの中身は真っ赤でなんだかドロドロしている。暖色系で同系統とはいえ色から連想されるイメージは決してよくはないし、なにより赤いやつの粘性がアルコール度数の高さを暗示しているようでいよいよこの後出されるドリンクが恐ろしくなってきた。
他にもまだ何か使うようで、店主さんはまた裏へと引っ込んでしまう。様々な材料を用意する辺り提供されるのはカクテルなんだろうなと想像つくし、作る行程を目の前で見せてもらうのが初めてなのでその珍しさに多少の好奇心は湧くのだが、同時に抱える恐怖のせいで楽しみ半分怖さ半分と言ったところ。
コーヒーの件もそうだったけど、店主さんオーダーに関し、容赦ないからなぁ……。
「知らないことは無理に知ろうとしない、関わらない。その方が身のためだー……ってやつ。私も、同じ事を思うの」
両手に今度は紙パックと瓶を持って帰ってくる店主さん。パックの方は表面にグレープフルーツが描かれていてそれと分かった。英語表記のラベルが張られている栓閉じの古風な瓶は透明で、見る限りただの水に思える。
「昔話の、鶴の恩返しは知ってるよね。絶対に見るなと言われている部屋を開けてみたら、助けた鶴が機を織っていた。知られたからにはここにいられないといって鶴は出ていってしまうよね」
「はい」
「知らない方がいいこともあるんだよ。下手に首を突っ込まなければ、鶴が入り込んだ一家はその後も幸せに暮らせたろうに」
この前に来たときは晴れた日の昼間だったが、外の光が差し込まない夜のeben Allesは花型のライトが柔らかく店内を照らして、向こうまでがぼんやり滲んで見える。光を吸い込んだログハウスの木材は色合いも暖かく、蝋燭で照らされた教会を連想させられた。
この雰囲気と和らぐ空気が、懺悔し教訓を学び、説教をする場として……カウンセリングルームとして最適なんだろうな、と思った。
「女性に体重と年齢は訊くな、秘密を持った方が美しくなる、って言いますもんね」
「あら、フォローしてくれるんだ? えへー」
いい子いい子、なんて呟きながら、僕へ手が届かない代わりにロイエを撫でる店主さん。本当にカフェとバーの経営主とは思えない。
まぁ、言われて振り返ればお店の不思議な雰囲気とか店主さんの言うこととか、ロイエの存在とか、その真相を聞き出すためだけに再度来店しようとする気持ちは不純だったかも。美奈さんに撫でられて目を細めてるロイエはやっぱり気になるを通り越して最早怖いぐらいだけど。
「……でも」
あまりこの言葉は現実離れしすぎて使いたくなかったけど、店にまつわる出来事全部、魔法みたいだ。気にならない方がおかしい。店主さんの例示は僕の疑問に対する答えとして当てはまるようで実は全然違う話なんじゃないか。
だからこそ美奈さんは言おうとしないし、来店してすぐ難色示したりロイエと言い合いになったのだろうけれども。
「やっぱり気になっちゃう? もー、仕方ないなー」
「あ、いえもう、無理に聞こうとは思ってませんからっ」
「ううん。元はといえばボロだしちゃった私も悪いからさ」
ボロを出した、という口振りからすると、やっぱりお店のことあれこれを喋るつもりはなかったんだろうなと察せる。
ロイエを撫でる手を止め、橙色の瓶を開ける。CAMPARI、とラベルに書かれているのに気付いて、
「カンパリ……?」
どこかで耳に、というか目にしたことがあるかも。
「場所によるけど、カクテルを主体にしてるお店ならまずおいてあるメジャーなリキュールだね」
これがアルコールの部分なのか……と感心して眺める。コップの下の下、五分の一ぐらいまで注がれたオレンジの液体がお酒には見えなかった。
「……時期、ってものがあるんだよね。きっと」
いよいよカクテル作りに着手したところで、店主さんが話し始める。
「私ね。自分が知るべきことは自ずと耳に入ってくるし、知るべきでないことは聞き耳を立ててもなかなか入ってこないものだと思ってるんだ」
「知るべきこと……」
「うん。普通に暮らしてるときのことだけどね。誰が誰と付き合ってるらしいとか、どこのお店がおいしいよとか。ぱっと聞きどうでもいいことでも、知るべきか知らざるべきかの分類はされてて、自然の摂理みたいなものによって、情報の統制がされてるの」
オカルトめいたことを言う店主さんにピンと来るものがなく、何となく頷くことしかできない。自分が見聞きして知った情報は持っているべきで、それ以外は知らない方がいい、ということだろうか。
「例えば、とある女の人を好きな男性がいたとして、でも女の人にはまた別に好きな人がいるの。しかしまだ付き合ってはいません。こういう時、男性は女性の思いを知るべきだと思う?」
「僕は……どうでしょう。両者の気持ちを知っていたなら、多分何も言わないと思います」
「うん。ちょっと微妙な例だから反対に考える人もいるかもしれないけど、そうやって、情報が統制されるんだよ」
カンパリを注ぎ終えて次に取り出したのはグレープフルーツジュース。丸キャップを回して開けて、上から同じぐらいの量を入れていく。
「だから自分の知らないことは、知るべきではないことなんだなーって私は考えるんだ。だって人が隠したり、ふとした拍子で知っちゃったりしないように話題そのものを避けられたりするんだもの。無理に口を割らせようとは思わないし、きっとそういうのは、知ったら後悔したり、嫌な気持ちになるから」
「あー……」
最後の部分は少し、分かる気がする。確かに隠し事を暴いた時って大抵気分が落ち込む。知らされた情報そのものに対しての落胆もそう、情報を隠されていた事実にも。
だけど、
「ものすごく、大人な考えですね。僕多分、気になり始めたら知りたくて知りたくて仕方なくなると思います」
「というか、そうだったよね」
「そうでしたね」
僕に限らず、人って隠し事をされるとますますそれが知りたくなる生き物だと思う。何か話そうとしている人が途中で口ごもったりしたら、一体何なのかはっきりさせたがるものじゃないかな。
そもそも、店主さんは情報の統制、なんて難しい言葉を使っていたけれど、挙げられた例は人の意志だ。自然の摂理やら何やら言っても、結局規制しているのは人間そのものじゃないか。つまり、店主さんが言いたくないからそう言ってるだけじゃないか。
「でもね、隠されたり規制された情報は、いつかその内知ってしまう時が来る」
グレープフルーツジュースも注ぎ終わり、次に手を付けたのは透明な瓶。しかし栓抜きが見当たらないようで、あちこち探しては棚を開いたりしている。
「機密性は、ナマモノみたいでさ。時間が経てば緩くなったりするものなんだよね、経験上」
ようやく見つけた栓抜きを王冠に噛ませて引き抜くと、カシュ、と気の抜ける音が台詞に重なって聞こえた。どうやら炭酸飲料だったらしい。
情報の機密性。今までの人生で思い当たることはないが、何となく想像することはできる。さっきの例も、時間が経ったあとで聞かされたら、笑い話とか、或いは上手く行った未来でなら英雄譚にでもなりそうなモノ。そういうことを言っているのだろうか。
「勢い任せにその場で無理矢理聞いたら不快な話だったりして、情報に急いで生活すると疲れちゃうんだ」
「確かに……仰る通りかもですね」
「あまりピンと来ないかな。無理もないけどね、人間は好奇心の生き物だから」
「でも好奇心一つで身を滅ぼすのは御免だな、って気持ちは分かります」
このお店に来づらくなるのは嫌だな、と思っている自分がいる。
こんな雑談を交わしつつ、目の前でオーダーが出来上がるのを眺める今の時間を、僕は気に入っているようだ。店主さんのお話はどこか心が軽くなって癒されて、出されるドリンクはどんなものかと期待に胸が膨らませられる。
「全部、飽くまで私の考え方だから、同じ事考えて生きろーなんて強制はできないけど。でも訊かれると困っちゃうってことは、理解してくれたらいいな」
「……えぇ、大丈夫です」
シュワシュワと気泡を弾かせつつ、先ほどの二つとは変わり今度はグラス目一杯まで注がれた炭酸水。八分目の高さで止めると、横に準備していた棒を取り出す。先端がスプーンになっていて、柄の部分が捻れている。変な形をしているな、と思っていると、
「コレも珍しいかな。バースプーンって言うんだ。便利なんだよーコレ」
氷の詰まったグラスの端からそれを差し込むと、救い上げるように動かして上下に混ぜ合わせている。なるほど、先に入れた材料がまだ底の方で沈殿してるからだ。
上澄みのようになっていた炭酸水が全部オレンジ色に染まる。透明度が高くて、炭酸水の気泡が氷やグラスの縁に付着している様までよく見える。今度はバースプーンを氷同士の隙間を縫うように差してくるくる回す。柄の捻じれとスプーンの皿に引っかかった氷も釣られて回ることによって、ドリンク全体がかき混ぜられた。あの捻れは指先で摘んでも回しやすいように付けられているんだ。
「普通のレシピだとコレで完成なんだけど、今回は最後にですね、こちら、入れようと思いまーす」
バースプーンを抜いて、水だけを張ったグラスに突っ込んでから陽気な声で手に掴んだのは、見るも禍々しい赤い色をしたボトル。
きた、と心構えるよりも早く、店主さんが慣れた手つきでそれを氷伝いに少しだけ加えた。
コーヒーはチョコレート・ブラウンで
――真実、泡沫と消ゆ
「あっはは。そんな怖がらないでよ。ただのシロップだよーコレ」
「シロップ、って」
「香りづけ、色付け、あと一応味付けにも一役買うけど、コレ自身にはアルコール分はないから」
聞いて、何となくホッと安心する。度数の弱いカクテルを作ると言われていたのに、色やイメージだけで僕は何を怖がっていたのだろう。
慎重にゆっくりと赤色のシロップを挿して、今度は混ぜずにそのまま、
「ということで完成です。レシピは見てて分かったと思うけど、何て名前のカクテルか分かる?」
「すいません、全然分からないです」
「スプモーニ、でございます。ちょっとアレンジしちゃったけどね。綺麗でしょ」
コツ、とコースターの上に置かれたグラスをじいっと見つめてみる。全体がやんわりとしたオレンジ色で、合間合間に最後に加えた赤いシロップが筋のように漂っている。筋は所在なさげに常にカクテルの中を浮き沈みしていて、まるで晴れた日の輝かしい夕日、その眩しい光のようだ。確かに、綺麗と評されるのも頷ける。
「さ、まずは飲んでみて」
「……いただきます」
お酒に不慣れなせいか、未だにおっかなびっくりな僕だけれど、意を決して唇を付けてみる。音や見た目からいるのは分かっていた炭酸だが、ジュースやリキュールの分希釈されているのか、あまりきつい刺激はない。適度な炭酸濃度に爽やかさを感じた次には、複雑な味が待ち構えていた。
ツン、と鼻を抜けるようなちょっとした苦味。次に柑橘系の酸っぱさが追いかけてきて、口の中で炭酸とともに弾ける。最後に残っていたのは、仄かで絶妙な甘い味。主張の強い一つ一つの味が爽快で、全て融和した先に訪れたのは少々耽美な安心感。
色んな味が一度に楽しめて、それでいてそれぞれが邪魔をしない、まとまった仕上がりだ。どれがどの味なのかは僕には分からないが、コレがカクテルか、と思い知らされるほどの驚きを感じる。
「美味しい……」
思わず呟く僕に満足気な様子の店主さんは、小さな受け皿に瓶から炭酸を少し浮かべてロイエの前に置いた。氷は既に食べきったようで、次に出されたそれを当然と言わんばかりに口にし始める。
……というか、食べたり飲んだりするんだ、この鳥。つついていた氷は溶けて水になったわけでもなく、しっかり跡形なく消え去っている。透けた身体の中に溜め込んだ様子もないし、一体どこにやったんだ。
「かなり完成されたレシピでね。グレープフルーツ少量とトニックの掛け合わせは、リキュールを別なものにしてもマッチするんだ」
「トニック、ってその炭酸ですか?」
「そ。ただの炭酸とは違うんだけどね。オレンジとかグレープフルーツの苦味をちょっと足したようなやつで」
「苦い炭酸……?」
炭酸水にそんな味付けをしているものなら、もっと口当たりがきつくなっていそうなものだけど、少なくとも苦には感じない程度の苦さだったはずだ。それに愚か僕はさっき、甘いとまで思ったほどなのに。
「不思議なもので、グレープをトニックで割ると結構甘みが出てくるんだ。何でだろうねー。先入観でコレは酸っぱいものだ、と思いながら飲むと意外とそうでもない、っていう錯覚だと思ってるんだけど」
「へぇ……」
「だからグレナデンシロップ差しても違和感小さいんだよ。加えるともっと苦味が和らぐし、相性はいい」
材料それぞれの味を把握しつつ、一つのドリンクを作り上げる。飲み物とはいえまるで料理のようだ。
恐らく既存のレシピがあるカクテルなのだろうけど、店主さんの口から直接話を聞いていると目の前の華奢な女の人が何だか博識に見えてくる。
「少年。スプモーニ、という言葉。どういう意味かご存知かな」
「え」
トニックと言うらしい炭酸水に嘴を突っ込んでいたロイエがふとそんな問いかけをする。凄い、やっぱり少しずつ減っている。
「イタリア生まれのカクテルでな。名前の由来もイタリア語から来て、泡を立てる、という意味だ」
「泡、って言うと今ロイエが飲んでるそれだね」
「うむ。意味も理解したところでさて、美奈が何を意図してそれを作ったのか、未だ掴めんな」
そういえばそうだ。このカクテルが僕の悩みというか疑問に対してのオーダーであれば、回答としての意味合いが込められているはず。前回の、チョコレート・ブラウンと同じように。
「実はまーた変な話になっちゃうのです。だからロイエが想像つかないのも無理はないかな」
とすると一体何を指して僕への答えになるんだろう。どれがどの味を出しているのか僕には分からないけど、それはまだ知らなくていい、とか?
「泡を立てる。何かが泡になる、ってことだよね。君は泡になるものとして何を連想する?」
「泡ですか? 泡……石鹸とか」
「あーっとそうだな、現実にある実際の道具とかから離れて考えてみて」
「うーん……? 努力が水の泡になる、とかも言いますよね」
「お! いいセンだよそれ! そうそうそんな感じ!」
諺に近いもの、というと何かな。水泡に帰す、泡を食う、濡れ手に粟、……ってその粟じゃない。慌てふためく、……いやもうアワと言う名の物体ですらない。ああぁぁ段々訳分からなくなってきた。
「美奈の十八番として、童話や昔話を引き合いに出す癖がある」
「あー、そのヒントちょっと簡単すぎない?」
「ということでもう分かるな、少年」
「泡、で童話……。泡になる……あっ」
最後に泡になって消えていった、哀れなヒロインの話。
「人魚姫ですか?」
「正解。作りながら思ったけど、なかなか人魚姫のシナリオに近しいものを感じるんだよね、このカクテル」
海に溺れた王子を助けるが、介抱したのが自分と知られず歯痒い思いをする人魚姫。何とかこの事実を伝えたいという願い一心で人間になった彼女だが、王子と再会しても声を引き換えにしたせいで話すことすら叶わない。勘違いをしたままの王子は自分を介抱してくれたと思い込んでいる相手と結婚式を挙げるのだ。人魚姫は姉たちに貰った短剣を愛する王子に向け、人魚に戻ることを決心するも、あまりに深い愛ゆえに彼を殺すことができず、自らが泡となって消えていった。
大体のあらすじを思い出して、なるほど頷ける所も多い。初めに感じた鼻を通るほろ苦さ、一瞬で消えゆく気泡に、じわりと残った甘み。どの味をどのシーンに当てはめるか人によって意見が分かれそうだけど、人魚姫の暗喩としてこのカクテルはとても優秀に思えた。
「悲恋を描いた、悲しいお姫様の物語として語られているけれど、私ね、このお話はコレでよかったと思ってるの」
「と、言うと」
「凄い変な話になっちゃうけどさ。最初王子様を人魚姫が助けるけれど、まずあそこで自分に気付かれたら一大事だよね。確か、人間に姿を見られてはいけない、なんて決まりも人魚たちの世界にはあったはず」
細かい設定はところどころ忘れてしまっているが、人魚が人間に見られたら大変なことになるのは想像がつく。
「で、人間として王子様の元へやってくる人魚姫。彼女、言葉を喋れたらきっと事実を言っただろうね」
「そのために会いに行ったようなものですから」
「この際筆談でも何でもいい。じゃあ、本当のことを伝えたとしよう。それを王子様が信じるかが一つ。その場に居合わせただけで玉の輿に乗れるかもしれなくなった女の人が反発しないかが一つ」
「ちょっと、そんな急に現実味帯びさせちゃ……」
「ふふ、確かに雰囲気も何もあったもんじゃないよね。お話も、破綻しちゃう」
「お伽話が真っ青ですよ、そんなの」
「そう……破綻しちゃうの。真実が王子様に知れても、人魚たちに言われるまま王子様を殺してしまっても、純朴に一途に彼を愛し続けた美しき人魚姫の話が、滅茶苦茶になっちゃう。だから、王子様は何も知らないほうがいい」
――知らないほうがいい。知るべきではない。
店主さんが言おうとしているのは、そういうことか。
「変な話。本当に変な話だよ。絵本にある昔話を持ってきて、現実に摺り寄せ仮定を立てたらどうなるか、なんて」
「いえ、でも何となくは分かりますよ」
「君はいい子だね。理解が早い子はお姉さん好きだよ」
にっこりと笑って、彼女も手製のスプモーニを一口運ぶ。どこか感慨深そうな表情で、じっくりその味を確かめているようだった。
真実がどうあろうとも、王子様と一人の娘が幸せになるためには、自分を助けてくれた張本人のことは知るべきではない。そう、まるで世界がシナリオ通りになるよう、仕向けていたみたいだ。声を奪った魔女にしても、自分が人魚に戻る方法にしても。情報が、統制されている。
「人魚姫も危うく王子様を刺しちゃうところだったけど、彼女はそうしなかった。コレが普通の感性を持った人だったら、そもそも人魚への戻り方は知るべきではなかったでしょう。人魚姫がそれを知ったのは、知っても問題がなかったからじゃないかな」
「聞けば聞くほど、哀しい話ですよね。何とか、人魚姫が幸せになる方法、なかったんでしょうか」
「恐らく、泡と消えて精霊になるのが彼女にとって一番幸せだったと思うんだ。歩けない、喋れないときた人魚姫が人間と結婚して、何も不都合ないとは考えられなくて」
「……なるほど」
僕は一度も考えたことがなかった。泡となって消えゆく結末が、彼女にとっての一番のエンディングだっただなんて。
好奇心で行動はしない、と決めている店主さんは人魚姫をそう解釈した。
言われてみれば確かに、あの童話はあのシナリオだからこそ、綺麗なのだろう。人魚姫をモチーフにした映画などの作品は多いけど、それだけこの話に魅入られた人たちも多いということも言えそうだ。
グラスに半分ほど残るスプモーニをもう一口。経験したことのない複雑な味を美味しいと感じていたはずなのに、今はほんのちょっぴり、切ない。人魚姫が消えていった空の色も、こんな柔らかな橙の中だったのかな。
「アンデルセン童話の一編として名高い人魚姫は、歴史も深くてな」
トニックを啜ったためか、渋そうに目を細めてロイエが頭を上げる。
「ジュゴンを人魚に見間違えた、という話もあるが、恐らく人魚姫に出てくる人魚のモチーフは、ヨーロッパ圏の伝承が起源だ。次いで日本にも八百比丘尼という伝説が見受けられる」
「化物とか妖精とか、昔からいる印象があるね」
僕にとってはロイエも人魚に負けないぐらいの存在だけども。
「仮に、この人魚姫の童話が過去にあった真実ならば、と考えるのも面白いな」
「ん? おぉ? どゆこと?」
「もしこんな非業な運命を辿った哀れな人魚が現実にいたら、その話は誰にも知られずこうして童話や伝説としても残らなかったに違いない。全て、泡沫と消え入ったのだからな」
「……そっか。童話の中でも真実を知っているのは人魚姫だけで、姉たちも人魚だから人間の前に姿を見せることができない」
「それがこうして後世に語り継がれることとなったのだ。或いは……そうさな。八百比丘尼の伝説を借りれば、人魚の肉を食した人間は何百年も生きると言う。この童話を作った、いや残した人間は、そいつやもしれん」
何百年と経てようやく明かされた事の顛末は、今世において究極の美談として脚光を浴びるようになった。どことなくそれも皮肉めいてるな、と僕は思う。
「おー、おーおー、あー、そうだよ。私が言いたいこと、それそれ!」
思いついたように店主さんもしきりに首を縦に振り出す。
「今その時は知るべきでない、明かされるべきでないことでも、その内ほろっと、いつの間にか耳に入っちゃうこともあると思うな。そして大抵そういう時ってね、後からすれば大したことなかったり、笑い話や美談になったりするの」
僕よりも早いペースでスプモーニを飲んでいた店主さんが、しみじみと語り出す。知るべきでない情報の機密性、ってところに繋がる話かな。
「そ、だからね。私やロイエや、このお店について、今はあまり言えることはないけども」
「えぇ」
「時期が……その時が来たら。それまで気長に待ってくれたらな、って思います」
グラスの中でひっきりなしに下から上へ昇る気泡が、水面や氷の縁で白くこびりついてから、弾けたりまたカクテルに飲み込まれたりして消えていく。そろそろこの一杯も終わりが見えてきた。
「待ってますよ。美奈さんが話してくれるまで」
「やー、話さないかもしれないけどねー」
「そんな」
「っはっはっは。人魚の肉を食らえるかな。少年」
底の方で沈んで溜まっていた赤いシロップは、眺めると流し入れた血が滲んでいるようで。
飲み込んでみると、口の奥にしばらく残るぐらい、陶酔しそうなほど甘かった。
「シロップ、って」
「香りづけ、色付け、あと一応味付けにも一役買うけど、コレ自身にはアルコール分はないから」
聞いて、何となくホッと安心する。度数の弱いカクテルを作ると言われていたのに、色やイメージだけで僕は何を怖がっていたのだろう。
慎重にゆっくりと赤色のシロップを挿して、今度は混ぜずにそのまま、
「ということで完成です。レシピは見てて分かったと思うけど、何て名前のカクテルか分かる?」
「すいません、全然分からないです」
「スプモーニ、でございます。ちょっとアレンジしちゃったけどね。綺麗でしょ」
コツ、とコースターの上に置かれたグラスをじいっと見つめてみる。全体がやんわりとしたオレンジ色で、合間合間に最後に加えた赤いシロップが筋のように漂っている。筋は所在なさげに常にカクテルの中を浮き沈みしていて、まるで晴れた日の輝かしい夕日、その眩しい光のようだ。確かに、綺麗と評されるのも頷ける。
「さ、まずは飲んでみて」
「……いただきます」
お酒に不慣れなせいか、未だにおっかなびっくりな僕だけれど、意を決して唇を付けてみる。音や見た目からいるのは分かっていた炭酸だが、ジュースやリキュールの分希釈されているのか、あまりきつい刺激はない。適度な炭酸濃度に爽やかさを感じた次には、複雑な味が待ち構えていた。
ツン、と鼻を抜けるようなちょっとした苦味。次に柑橘系の酸っぱさが追いかけてきて、口の中で炭酸とともに弾ける。最後に残っていたのは、仄かで絶妙な甘い味。主張の強い一つ一つの味が爽快で、全て融和した先に訪れたのは少々耽美な安心感。
色んな味が一度に楽しめて、それでいてそれぞれが邪魔をしない、まとまった仕上がりだ。どれがどの味なのかは僕には分からないが、コレがカクテルか、と思い知らされるほどの驚きを感じる。
「美味しい……」
思わず呟く僕に満足気な様子の店主さんは、小さな受け皿に瓶から炭酸を少し浮かべてロイエの前に置いた。氷は既に食べきったようで、次に出されたそれを当然と言わんばかりに口にし始める。
……というか、食べたり飲んだりするんだ、この鳥。つついていた氷は溶けて水になったわけでもなく、しっかり跡形なく消え去っている。透けた身体の中に溜め込んだ様子もないし、一体どこにやったんだ。
「かなり完成されたレシピでね。グレープフルーツ少量とトニックの掛け合わせは、リキュールを別なものにしてもマッチするんだ」
「トニック、ってその炭酸ですか?」
「そ。ただの炭酸とは違うんだけどね。オレンジとかグレープフルーツの苦味をちょっと足したようなやつで」
「苦い炭酸……?」
炭酸水にそんな味付けをしているものなら、もっと口当たりがきつくなっていそうなものだけど、少なくとも苦には感じない程度の苦さだったはずだ。それに愚か僕はさっき、甘いとまで思ったほどなのに。
「不思議なもので、グレープをトニックで割ると結構甘みが出てくるんだ。何でだろうねー。先入観でコレは酸っぱいものだ、と思いながら飲むと意外とそうでもない、っていう錯覚だと思ってるんだけど」
「へぇ……」
「だからグレナデンシロップ差しても違和感小さいんだよ。加えるともっと苦味が和らぐし、相性はいい」
材料それぞれの味を把握しつつ、一つのドリンクを作り上げる。飲み物とはいえまるで料理のようだ。
恐らく既存のレシピがあるカクテルなのだろうけど、店主さんの口から直接話を聞いていると目の前の華奢な女の人が何だか博識に見えてくる。
「少年。スプモーニ、という言葉。どういう意味かご存知かな」
「え」
トニックと言うらしい炭酸水に嘴を突っ込んでいたロイエがふとそんな問いかけをする。凄い、やっぱり少しずつ減っている。
「イタリア生まれのカクテルでな。名前の由来もイタリア語から来て、泡を立てる、という意味だ」
「泡、って言うと今ロイエが飲んでるそれだね」
「うむ。意味も理解したところでさて、美奈が何を意図してそれを作ったのか、未だ掴めんな」
そういえばそうだ。このカクテルが僕の悩みというか疑問に対してのオーダーであれば、回答としての意味合いが込められているはず。前回の、チョコレート・ブラウンと同じように。
「実はまーた変な話になっちゃうのです。だからロイエが想像つかないのも無理はないかな」
とすると一体何を指して僕への答えになるんだろう。どれがどの味を出しているのか僕には分からないけど、それはまだ知らなくていい、とか?
「泡を立てる。何かが泡になる、ってことだよね。君は泡になるものとして何を連想する?」
「泡ですか? 泡……石鹸とか」
「あーっとそうだな、現実にある実際の道具とかから離れて考えてみて」
「うーん……? 努力が水の泡になる、とかも言いますよね」
「お! いいセンだよそれ! そうそうそんな感じ!」
諺に近いもの、というと何かな。水泡に帰す、泡を食う、濡れ手に粟、……ってその粟じゃない。慌てふためく、……いやもうアワと言う名の物体ですらない。ああぁぁ段々訳分からなくなってきた。
「美奈の十八番として、童話や昔話を引き合いに出す癖がある」
「あー、そのヒントちょっと簡単すぎない?」
「ということでもう分かるな、少年」
「泡、で童話……。泡になる……あっ」
最後に泡になって消えていった、哀れなヒロインの話。
「人魚姫ですか?」
「正解。作りながら思ったけど、なかなか人魚姫のシナリオに近しいものを感じるんだよね、このカクテル」
海に溺れた王子を助けるが、介抱したのが自分と知られず歯痒い思いをする人魚姫。何とかこの事実を伝えたいという願い一心で人間になった彼女だが、王子と再会しても声を引き換えにしたせいで話すことすら叶わない。勘違いをしたままの王子は自分を介抱してくれたと思い込んでいる相手と結婚式を挙げるのだ。人魚姫は姉たちに貰った短剣を愛する王子に向け、人魚に戻ることを決心するも、あまりに深い愛ゆえに彼を殺すことができず、自らが泡となって消えていった。
大体のあらすじを思い出して、なるほど頷ける所も多い。初めに感じた鼻を通るほろ苦さ、一瞬で消えゆく気泡に、じわりと残った甘み。どの味をどのシーンに当てはめるか人によって意見が分かれそうだけど、人魚姫の暗喩としてこのカクテルはとても優秀に思えた。
「悲恋を描いた、悲しいお姫様の物語として語られているけれど、私ね、このお話はコレでよかったと思ってるの」
「と、言うと」
「凄い変な話になっちゃうけどさ。最初王子様を人魚姫が助けるけれど、まずあそこで自分に気付かれたら一大事だよね。確か、人間に姿を見られてはいけない、なんて決まりも人魚たちの世界にはあったはず」
細かい設定はところどころ忘れてしまっているが、人魚が人間に見られたら大変なことになるのは想像がつく。
「で、人間として王子様の元へやってくる人魚姫。彼女、言葉を喋れたらきっと事実を言っただろうね」
「そのために会いに行ったようなものですから」
「この際筆談でも何でもいい。じゃあ、本当のことを伝えたとしよう。それを王子様が信じるかが一つ。その場に居合わせただけで玉の輿に乗れるかもしれなくなった女の人が反発しないかが一つ」
「ちょっと、そんな急に現実味帯びさせちゃ……」
「ふふ、確かに雰囲気も何もあったもんじゃないよね。お話も、破綻しちゃう」
「お伽話が真っ青ですよ、そんなの」
「そう……破綻しちゃうの。真実が王子様に知れても、人魚たちに言われるまま王子様を殺してしまっても、純朴に一途に彼を愛し続けた美しき人魚姫の話が、滅茶苦茶になっちゃう。だから、王子様は何も知らないほうがいい」
――知らないほうがいい。知るべきではない。
店主さんが言おうとしているのは、そういうことか。
「変な話。本当に変な話だよ。絵本にある昔話を持ってきて、現実に摺り寄せ仮定を立てたらどうなるか、なんて」
「いえ、でも何となくは分かりますよ」
「君はいい子だね。理解が早い子はお姉さん好きだよ」
にっこりと笑って、彼女も手製のスプモーニを一口運ぶ。どこか感慨深そうな表情で、じっくりその味を確かめているようだった。
真実がどうあろうとも、王子様と一人の娘が幸せになるためには、自分を助けてくれた張本人のことは知るべきではない。そう、まるで世界がシナリオ通りになるよう、仕向けていたみたいだ。声を奪った魔女にしても、自分が人魚に戻る方法にしても。情報が、統制されている。
「人魚姫も危うく王子様を刺しちゃうところだったけど、彼女はそうしなかった。コレが普通の感性を持った人だったら、そもそも人魚への戻り方は知るべきではなかったでしょう。人魚姫がそれを知ったのは、知っても問題がなかったからじゃないかな」
「聞けば聞くほど、哀しい話ですよね。何とか、人魚姫が幸せになる方法、なかったんでしょうか」
「恐らく、泡と消えて精霊になるのが彼女にとって一番幸せだったと思うんだ。歩けない、喋れないときた人魚姫が人間と結婚して、何も不都合ないとは考えられなくて」
「……なるほど」
僕は一度も考えたことがなかった。泡となって消えゆく結末が、彼女にとっての一番のエンディングだっただなんて。
好奇心で行動はしない、と決めている店主さんは人魚姫をそう解釈した。
言われてみれば確かに、あの童話はあのシナリオだからこそ、綺麗なのだろう。人魚姫をモチーフにした映画などの作品は多いけど、それだけこの話に魅入られた人たちも多いということも言えそうだ。
グラスに半分ほど残るスプモーニをもう一口。経験したことのない複雑な味を美味しいと感じていたはずなのに、今はほんのちょっぴり、切ない。人魚姫が消えていった空の色も、こんな柔らかな橙の中だったのかな。
「アンデルセン童話の一編として名高い人魚姫は、歴史も深くてな」
トニックを啜ったためか、渋そうに目を細めてロイエが頭を上げる。
「ジュゴンを人魚に見間違えた、という話もあるが、恐らく人魚姫に出てくる人魚のモチーフは、ヨーロッパ圏の伝承が起源だ。次いで日本にも八百比丘尼という伝説が見受けられる」
「化物とか妖精とか、昔からいる印象があるね」
僕にとってはロイエも人魚に負けないぐらいの存在だけども。
「仮に、この人魚姫の童話が過去にあった真実ならば、と考えるのも面白いな」
「ん? おぉ? どゆこと?」
「もしこんな非業な運命を辿った哀れな人魚が現実にいたら、その話は誰にも知られずこうして童話や伝説としても残らなかったに違いない。全て、泡沫と消え入ったのだからな」
「……そっか。童話の中でも真実を知っているのは人魚姫だけで、姉たちも人魚だから人間の前に姿を見せることができない」
「それがこうして後世に語り継がれることとなったのだ。或いは……そうさな。八百比丘尼の伝説を借りれば、人魚の肉を食した人間は何百年も生きると言う。この童話を作った、いや残した人間は、そいつやもしれん」
何百年と経てようやく明かされた事の顛末は、今世において究極の美談として脚光を浴びるようになった。どことなくそれも皮肉めいてるな、と僕は思う。
「おー、おーおー、あー、そうだよ。私が言いたいこと、それそれ!」
思いついたように店主さんもしきりに首を縦に振り出す。
「今その時は知るべきでない、明かされるべきでないことでも、その内ほろっと、いつの間にか耳に入っちゃうこともあると思うな。そして大抵そういう時ってね、後からすれば大したことなかったり、笑い話や美談になったりするの」
僕よりも早いペースでスプモーニを飲んでいた店主さんが、しみじみと語り出す。知るべきでない情報の機密性、ってところに繋がる話かな。
「そ、だからね。私やロイエや、このお店について、今はあまり言えることはないけども」
「えぇ」
「時期が……その時が来たら。それまで気長に待ってくれたらな、って思います」
グラスの中でひっきりなしに下から上へ昇る気泡が、水面や氷の縁で白くこびりついてから、弾けたりまたカクテルに飲み込まれたりして消えていく。そろそろこの一杯も終わりが見えてきた。
「待ってますよ。美奈さんが話してくれるまで」
「やー、話さないかもしれないけどねー」
「そんな」
「っはっはっは。人魚の肉を食らえるかな。少年」
底の方で沈んで溜まっていた赤いシロップは、眺めると流し入れた血が滲んでいるようで。
飲み込んでみると、口の奥にしばらく残るぐらい、陶酔しそうなほど甘かった。