Neetel Inside 文芸新都
表紙

僕と神無月さんの事情
二日目

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 次の日、僕が学校に行こうと家を出ると、またもや神無月さんと登校時間が被った。彼女の後ろには三枝さんの姿もある。
「おはようございます、瀬戸さん」
「あぁ……おはよう」力なく手をゆらゆらすると、神無月さんは心配そうに首をかしげた。
「元気がありませんけど、いかがしまして?」
「うん。ちょっと色々あってね」
「色々?」
「沙紀に告白されたんだよ」
 僕は昨日我が家であった出来事をかいつまんで話した。
「それで、今朝起きてきたら父さんの姿がなくて押入れから青白い腕が一本飛び出ていたんだけど……って神無月さん? 聞いてる?」
 微塵も反応がない。神無月さんは薄笑いを浮かべたまま、瞬き一つしない。
「瀬戸様、少々お待ちください」三枝さんは神無月さんの首に触れ脈を取り出す。
「死んでますな」
「いや、三枝さん、脈測るなら手袋外してくださいよ……」
 三枝さんは「これは失礼」と手袋を外す。何故か彼は手袋を三枚重ねてはめていた。本当に脈拍を測る気があったのか怪しい男である。
「ふむ、脈はあるみたいですな。残念です」
「本音出てますよ」
 どうやら僕の話があまりに衝撃的すぎて、意識が飛んだらしい。仕方なく僕らは彼女を学校の保健室に運んだ。家に戻さなかったのは、目が覚めたときにテストを受けられるようにする為だ。
 保健室の白いベッドの上で神無月さんを横にすると、それまで死んだ魚のように乾ききっていた彼女の瞳が光を取り戻し、きょろきょろと動き始めた。恐らく意識が戻ったのだろうが、体を微塵も動かさないためどうなのか判断しかねる。
「神無月さん? 大丈夫?」
「ここは……」
「学校ですぞ、お嬢様。瀬戸様が運んでくださったのです」
「そう、瀬戸さんが……。ありがとう」
 神無月さんは上体を起こすと倦怠感を吹き飛ばすように頭を振った。
「それで、どうして私は保健室に?」
「瀬戸様が運んでくださったのです」
「三枝さん、たぶん倒れた原因を聞いてるんだと思います」
「あぁ、そうでしたか。これは失敬」
「ふふ、もう、三枝ったら」
 クスクスと神無月さんは楽しそうだ。
「神無月さんは僕と話してる時に気絶したんだよ」
「瀬戸様が妹の沙紀様に遠まわしな告白をされたと言う話でしたな」
「ふふ、三枝ったら、また冗談ばかり言って私を笑い殺そうとするんですもの。ふふふ、ふひ」
 僕と三枝さんは顔を見合わせた。どうやら僕と会話した記憶は飛んでしまっているらしい。
「お嬢様、冗談ではありませんぞ。瀬戸様はそれでお嬢様にご相談されたのです」
 すると神無月さんは右手で三枝さんの顔面をつかんだ。
「我が神無月家にかかれば、貴様を死ぬより辛い目に合わせることなどたやすい」男の様な濁った声で神無月さんは薄い笑顔を見せる。ヤクザだ。目が死んでいる。顔をつかまれ「ひぇぇ」と三枝さんは情けない声を出した。
「神無月さん、嘘じゃないんだ。三枝さんを放してあげて」
「瀬戸さん、無理のある設定をしてはいけませんわ。いくら瀬戸さんが努力家で、しっかりしていて、ショタで、人の話を理性的に捉えてくれて、我がクラスの女子で行った『彼氏にしたい人間』人気投票ナンバーワンだからと言って、実の妹から告白されるなどと」
「そうなんだ……」自分がそんなにモテるとは知らなかった。嬉しい事実だがこんな状況で教えられると喜ぶに喜べない。あとショタて。
「瀬戸さん、嘘だと言ってくださいませ。三枝の爪が剥がれる前に」
 目がマジだ。三枝さんは必死に助けを求めてくる。
「やめて、神無月さん。三枝さんを痛めつけても何も変わらないよ。そもそも、一体なんで僕が君にこんな言いにくい事を相談したと思うんだよ」
「どうしてですの?」
「君しか頼りがないからに決まってるじゃないか!」
 すると彼女はパッと右手を解放した。三枝さんがその場にしりもちをつく。
「じゃあ何ですか? 瀬戸さんは私以外に頼れる人がいなかったと?」
 探るような視線だ。僕は頷く。
「私だから頼ったと?」
「こんな家庭の複雑な事情、神無月さん以外には話せないよ」
「それは瀬戸さんにとって私は最も信頼できる存在だと思ってよろしくて?」
「何年一緒にいると思ってるの。当たり前じゃない」
「そう」
 神無月さんはそっと視線を前方に向けると、僕のカッターシャツの袖をちょんと掴んだ。
「神無月さん?」
「私が、解決しますわ」
「えっ?」
 そのとき、チャイムが鳴った。朝のホームルームだ。
「あら、いけませんわ。瀬戸さん、行きましょう。沙紀ちゃんの件は放課後にでも」
 神無月さんは言うやいなや、ベッドの横に置かれていた鞄を手に取り保健室を出て行く。僕と三枝さんは呆然とその様子を眺めるだけだった。
「わたくし、お嬢様があれほど怒るのは初めてみました」
「僕もです」
「瀬戸様の話題に関してはこれから慎重に取り扱ったほうが良さそうですな。妹が兄にガチで恋愛キュンキュンなど、信じたくなかったのでしょう」
「キュンキュンて……」学生かお前は。
 そのとき足音が廊下に響き、先に行ったはずの神無月さんが姿を見せた。
「瀬戸さん、何をボヤボヤしていますの? もう始まってしまいますわよ」
 彼女は僕の手を引く。
「さぁ、二日目も頑張りますわよ」
「うん、そうだね。それじゃあ三枝さん、またあとで」
「健闘をお祈りしています」
 僕たちは保健室を後にすると教室に急いだ。
 僕の手を引く神無月さん、手汗がすごかった。

     

 二日目のテストを無事に終えた僕たちは学校近くにあるドーナツ屋さんに立ち寄ることにした。神無月さんいわくそこで作戦を練るのだそうな。
 店内は涼やかで、軽快なBGMが鳴り響いていた。僕と神無月さんは一番奥の席に座る。
「ふふ、放課後に寄り道だなんて、高校生の特権ですわね」
「うん」
「いまの私たち、恋人同士に見られていたらどうしましょう」
「三枝さんがいるからそれはないと思うよ」
 僕の向かい側には神無月さんが座り、机の上にはドーナツが全種類盛られた皿が置かれている。三枝さんは丁度僕と神無月さんの間に座っていた。
「瀬戸さん、遠慮しないでどんどん食べてくださいませ。今日のドーナツ、全て三枝のおごりですわ」
「いいんですか? 三枝さん」
「大丈夫です。あとで経費として落としますゆえ」それはおごりとは言わない。
 ドーナツを一つ口に運んだ。最近出来たドーナツ店だが、やっぱり市販の菓子パンとは違う美味しさがある。店内に漂う甘い香りが食欲をそそる。テスト期間中だけれど、いつもより早く学校が終わってくれるためかどうにも気が楽だ。
「それで瀬戸さん、沙紀ちゃんがあなたに告白したと言うのは一体どういう事ですの?」
「どういう事っていわれても、普通に会話していたら流れで僕に彼女がいるかどうかって話になって、じゃあ私が彼女になってあげようかって……」正直口にするのも恥ずかしい。
「でも、それ、冗談ではありませんの? ちょっとした妹のからかい心と言うか、図に乗った勘違い娘が吐き出した妄言にしか思えませんわ」随分口が悪い。
「どうなんだろうね。まぁ冗談のほうが個人的にはありがたいんだけど、沙紀の性格上ああ言う冗談はあまり言わないし」
「確かに……」
「すいません。わたくしいまいち沙紀様の性格を掴みきれていないのですが、沙紀様は一体どの様な方なのです?」
 三枝さんが神無月さんの専属になったのはここ数年のことだ。沙紀と面識はあっても、それほど会話する機会はなかったのだろう。
「妹はパッと見たら結構ちゃらけてるんです。いい加減なように見えるし、典型的な女子中学生って言う感じで。でも根が真面目なんですよ」
「なるほど。つまりいわゆるツンデレと言うやつですな。初体験で顔を真っ赤にするタイプの」
「ちょっと黙ってくれませんか」下ネタで家族をいじる事は許されない。
「とにかく、一度沙紀ちゃんに尋ねてみる必要がありそうですわね。今のままじゃ何も確定的とは言えませんもの」
 そのときギャハハハと言う笑い声が隣の席から響いた。僕らが座る席の隣、ついたての向こう側からだ。首を伸ばして見ると近所にある中学の女子が四人座っていた。沙紀と同じ学校だ。すりガラスの為はっきりとは見えないが、制服は薄ぼんやりと判別が付く。
「中学生ですかな? いけませんな、最近の中学生は。実に色々けしからん。態度はよろしくないし、体つきもたまったものじゃない」
「三枝さん、人に言っちゃ駄目な発言が含まれてますよ」
 呆れていると、神無月さんがえらく真剣な表情をしているのに気付いた。
「神無月さん?」
「しっ、ですわ」彼女は人差し指を口の前にもってくる。どうやら隣の席の会話に耳を澄ませているらしい。何事かと僕も耳をそばだてた。話し声が耳に入り込んでくる。
「最近思うんだけどさ、あんたのお兄さん格好良くない?」
「え、マジで? どこが?」
「私、一度遊びに行ったじゃん。その時お兄さんがお茶とか手製のクッキーとか出してくれてすんごい優しかったの」
「ああ、ウチの兄貴気遣いだけは出来るから」
「気遣い出来るのっていま結構重要だよ?」
「そんなに格好いいの? 沙紀のお兄さん」
 僕は神無月さんと顔を見合わせた。沙紀もいるのか。
「うん。格好いいって言うより可愛い系だけど。沙紀を丁度男にした感じ」
「この顔で男だったら反則だよねぇ。モテるでしょ? お兄さん」
「全然。彼女いないってこの前言ってたし」
 その言葉で神無月さんが僕を鋭く睨んだ。別に何も悪いことなどしていないのだが、なんだか気が重い。
「瀬戸さん、私は手製のクッキーなどもらったことありませんが」
「自分で食べようと思ってたまに作るんだよ。たぶんそのときに来たからあげたんだと思う。神無月さんにも今度あげるから」
「それはもちろんですが、瀬戸さんには決まった人がいないと?」
「う、うん。だって彼女いないし……」
「はぁ?」
 何故切れているのだこの人は。理解に苦しむ。
「お兄さん彼女いないんだ。じゃあ立候補しよっかな。沙紀、仲介してよ」
「い、嫌だよ!」
 結構大きな声だったので驚いた。一瞬だけ、場の空気が変わる。
 少し沈黙が漂ったあと、気まずさを感じたのか沙紀は慌ててとりなした。
「ほ、ほら、何か嫌じゃん。友達が自分の兄貴と付き合ってるのって」
 そこで張り詰めていた緊張が一気に解ける。
「それもそっか。私でも嫌かも」
「確かにやだよね。隣から兄貴と友達がいちゃつく声とか聞こえたら」
「そ、そうだよ」
「でも沙紀けっこうムキになってたよね。もしかしてお兄さん取られるの嫌だったとか?」
「な、何言ってんの。馬鹿」
「あ、赤くなってる。可愛い」
 きゃっきゃとはしゃぎ声が響いたかと思うと、誰かが「いけない!」と声を上げた。
「もうすぐ映画始まるんじゃない?」
「ヤバッ、マジだ。急がないと。出よ出よ」
 ガタガタと椅子が引かれる。マズイ。このままでは沙紀と鉢合わせする。
 どうすればいいのか。あたふたしていると急に神無月さんが僕の肩に手を置いた。何事だと思うと同時に三枝さんも僕の肩に手を置く。
「円陣ですわ、瀬戸さん」
 何を考えているのか分からないが妙に自信ありげな神無月さんに流されるまま僕は円陣を組んで顔を伏せた。異様に目立つ僕らの背後を沙紀たちの騒ぎ声が通り過ぎていく。気配が完全に消えたのを確認して、僕たちは顔を上げた。
「危機一髪、ですわね」
「よく円陣なんて組んでばれなかったね」
「神無月家は姿を隠すときいつも円陣を組んでいましたもの」
 何故円陣をチョイスしたのかが分からない。
「ともかく、まさか横に沙紀が座ってるなんて思わなかったよ。偶然って怖いね」
「あら、偶然じゃありませんわよ?」
 表情一つ変えずにそう言い放つ神無月さん。どういう意味かよく分からない。解説を三枝さんに求めたが、彼はドーナツを食べながらビッと親指を立てるだけだった。帰れよ。
「どういう事?」
「我が神無月家の情報網を舐めてはいけないと言う事ですわ。彼女達がここの店に入ったのも、私たちが隣の席に座ったのも、全て手はず通り」
 そして神無月さんは先ほどの三枝さんと同じく親指を立てた。
「言ったでしょう? 協力すると。我が神無月家にかかれば、こんなこと造作もない事ですわ。沙紀ちゃんの中学もいまテスト期間だと言う事、いつも友達とこのドーナツ屋さんに通っていると言う事、すべてお見通しですわ」
 彼女はバチリと音が出そうなほど大きなウインクをする。
 すごい情報網だ。僕は顔に薄笑いを浮かべたまま思った。
 引っ越したい。
「しかしお嬢様、先の一件で一体何がわかると言うのですか?」三枝さん、あんたそれ何個目のドーナツだ。
「三枝、分かりませんでしたの? 沙紀ちゃんが瀬戸さんにいかに想いを寄せているかと言う事を」
「そうなのですか? わたくしにはさっぱりでしたが……」
「これだから男は駄目ですわね」神無月さんは呆れて首を振る。「私には分かりましたわ。今のやり取りで沙紀ちゃんが本気で瀬戸さんを愛してる、動詞で言うと恋慕(れんぼ)ってると言うことに」
「神無月さん、それ動詞じゃないよ……」
「分かってますわ」
 何故言った。
「とにかく、沙紀の僕に対する気持ちを再確認出来たのはいいけど、これからどうするの」
 このままでは何の解決にもなっていない。むしろ「僕の勘違いだった」で済ませられる部分が逆に確証を得てしまったがために更に気まずくなってしまった。
「簡単ですわ。沙紀ちゃんに彼氏が出来るか、瀬戸さんに彼女が出来ればいいのです。前者の場合沙紀ちゃんの心変わりで話はおしまい、後者なら実の妹とは言え諦めも付くと言うものです」
「全然簡単じゃないけど、もしやるとしたらそれは後者になるよね? だとすれば一体相手役は誰がやるのさ?」
 まず普通に考えてお芝居でも僕と付き合ってくれる人なんて想定が出来ないし、例えいたとしても一週間、二週間が限度だろう。沙紀の気持ちがその程度の期間で切り替わるとは思いがたい。まして彼女は一度僕に告白までしてしまっているのだ。一発で諦めがつく相手でなくてはいけない。
 ハッとした。
「まさか、神無月さんが……?」
 彼女はにっこり笑った。
「そのまさか、ですわ。幼き時から共に行動してきた私なら、恋人としての説得力も、沙紀ちゃんの恋心に対する破壊力も、将来性や話題性も抜群ですわ」
「最後の二つはいらないけど、……本当にいいの?」
「ええ。他ならぬ瀬戸さんのためですもの。一肌でも二肌でも、全裸にだってなれますわ」
「高く売れそうですな」
「三枝さん黙ってくれませんか」
 確かに神無月さんなら説得力がある。いままでずっと一緒にいた僕たちが付き合い出した。じゃあ別れるまで待とうなんて思いつくわけがない。何せ相手は十年以上も一緒に居続けた人間なのだ。
「してお嬢様、作戦の具体的な内容を教えてください。瀬戸様とお嬢様の未来をかけた作戦内容を」
「うん、どうするの? 神無月さん」三枝さんの言葉に少し引っかかるものを感じたが、とりあえず話を進めることにする。
「何も複雑なことはありませんわ。沙紀ちゃんに瀬戸さんが『神無月と付き合う事になった』と、そう言えばいいのです」
「……それだけですか?」
「そうですわ。何も難しいことなどないでしょう?」
「しかしお嬢様、それだけで何かが変わるとお思いですか?」
 呆れた様子の三枝さんに僕は「いや」と言葉をかけた。
「その作戦で上手く行くと思います」
「どうしてそう思われるのですか?」
「沙紀は昔から人を疑うと言う事をあまり知らないんですよ。すぐに話を信じるんです。感化されやすいと言うか……。それにこの作戦なら周囲を巻き込むことなく行えるし、中々合理的な作戦だと思います。ようは僕らが話を合わせさえすれば良いだけなんですから」
 昨日沙紀とは神無月さんについて少し話をした。あの話題の流れでいくと騙すのは容易い。
「本当にそれで上手く行きますかな……」
「三枝、私の作戦に何か不備でも?」
 ムッとした神無月さんに三枝さんは慌てて手を振る。
「いえ、そういうわけではありません。ただ少し疑問を抱きましてな」
「疑問って?」
「ええ。沙紀様は一体いつごろから瀬戸様の事を好きだったんでしょう」
 えらく唐突な質問だ。神無月さんも僕に目で尋ねてくる。
「分からないですよ。でもどうしてそんな事を?」
「ふむむ、お二人はまだ女の怖さと言うのを知らないのです。強く人を想っている人間がどう言う行動を起こすのかと言う事を……」
「つまりそれは、沙紀ちゃんが私に危害を及ぼす可能性があると?」
「そうは言っておりません。それに、例えそうなってもお嬢様には私を始め神無月家専属の屈強なボディーガードたちがいます。その気になれば小娘一人、蜂の巣にすることなど容易い」
「やめてください」本当にされかねない。
「わたくしがここで言いたいのは、そんなにすぐに諦めるのだろうかと言うことです。女性の執念は根強いですからな」三枝さんはそこまで言うと何かを思い出したように体を震わせた。一体こいつの過去に何があったのだ。
「とにかく一度作戦を決行してみますよ。その結果次第で次の作戦を考えても悪くないでしょう」
「まぁそれもそうですな」
「瀬戸さん、健闘を祈ってますわ」
「そうとなればそろそろ店を出ましょう。何だかんだ言って明日もテストですし」
 伝票をレジに持っていくと約一万円近い会計が三枝さんを待っていた。
「ここはわたくしが払っておきます。お二人はお先にお帰りください」
 三枝さんはサッと財布を取り出すと僕達に見えるように中を開いた。バリバリとマジックテープの音がする。良い歳した大人が持つ財布ではない。
「いつも悪いわね」
「いえ、仕事ですから」
 仕事って言い切っちゃったよこの人。そこはお世辞でも良いのでお嬢様の為、とか何とか言って欲しいところである。神無月さんはニコニコしているが、良いのだろうか。いまだにこの二人の主従関係と言うのが見えてこない。
 財布に二千円しか入っていない事に気付いていない三枝さんを置いて僕たちは店を出た。
 

     

 神無月さんと別れて家に帰った。随分静かだ。どうやらまだ誰も帰ってきていないらしい。一階の和室から父親の腕と思われる物が飛び出しているが、あまり都合の悪いものは見ないことにして僕は二階の自室へと足を運んだ。
 部屋に入り、ベッドの上に寝転ぶと僕はポケットの中に入っている物を取り出す。

「──いい? 瀬戸さん。極自然に、相手に悟らせないようにしてくださいませ」
 去り際、神無月さんは僕に言った。
「念のためこれを渡しておきますわ」
 彼女は僕に小さなイヤホンの様な物と、腰に引っ掛けられるようになっている端末を手渡す。
「これは?」
「通信機ですわ。とは言え玩具みたいな物ですが、私の家と瀬戸さんの家なら通信圏内なはず。危うい時にはその端末のボタンを押してくださいませ。イヤホン型のピンマイクは耳へ。骨伝導式なのでどんな時でも外部の音を拾える優れものですわ──」
 僕は天井を背景に手渡された機械をまじまじと見つめる。テレビ番組とかで使われそうな代物だ。玩具にここまでの精密さはない。
「これ一体いくらくらいするんだろう」
 万一壊しでもしたらとんでもない額を請求されそうだ。それだけは何とか避けたいところである。肌身離さずと言われたがとりあえず机の上においておくことにして、僕はベッドの上で静かに目を瞑った。色々あって疲れたし、何より明日もテストなのだ。勉強もしなければならない。こうもテストと事件が被さるのは勘弁願いたいところである。
 横になりながら考え事をしているうちに段々とまぶたが重くなり、僕は気付けば眠りに落ちていた。

 濃密な暗闇の気配に空気はしっとりと着実に湿り気を帯びる。やってきた夜にはもう夏が満ちており、春の陽気を懐かしく思う。
 誰かの視線を感じて見上げた天井には白い物が二つ浮かんでいた。ぼんやり眺めて、ようやくそれが目だと気付く。誰かが僕を見おろしている。
「ん……誰だ?」
「彼女できたとか許せないよ、お兄ちゃん」
 街灯を反射して沙紀は手に持ったそれを僕の心臓につきたてる。

「うわっ」
 自分の叫び声で飛び起きた。それと同時に部屋の片隅からも「うわっ」と声があがる。見ると沙紀が本棚の前で驚いたようにこちらを見ていた。
「何っ? 何急に叫んでんの?」
「いや、その……」
 状況が飲めず僕は部屋を見渡す。外から光が差し込み室内は充分に照らされている。時計を見るとまだ午後の三時だった。さっきのは夢か。
「夢、見てたみたい」
「悪夢?」
「うん、たぶん。……ところで君は人の部屋で何してるの」
 すると沙紀はバツの悪そうな顔で肩をすくめた。
「いやぁ、昨日読んでた漫画が面白かったからさ。貸してもらおうと思ったらお兄ちゃん寝てるし、ついだよ、つい」
「まぁ漫画ぐらい別にいいけど。ところでいつ帰ってきたの?」
「二時間前くらいかな。友達と映画見てたから」
「明日テストは?」
「あるよー」
 沙紀は言うや否や数冊漫画を取り出すとベッドに腰掛け、そのままベッドに座る僕の足を枕代わりにして横になった。いつもと変わらないひょうきんな様子の妹に心が安堵する。
「頭、どけてよ。動けないから」
「嫌です」
 小生意気な妹である。甘えているのか、そこに足があったので頭を乗せているだけなのか。こういう兄妹のふれあいはいまに始まったことではない。
 昔から兄妹仲は良いほうだと思っていた。ゲームとかもよく一緒にやっていたし、妹の友達と一緒に遊ぶことも度々あった。沙紀がこうして反抗期を付随させながらも、僕と交流を持つのは兄として信頼されているからだと思っていた。情けない姿を露呈していたら今頃父さんと同じ扱いを受けていたかもしれないと。僕のやり方は間違っていないのだと証明された気がして、何だか嬉しかったのだ。
 だけどこれがもし兄への信頼ではなく、恋心から来ている物だとしたら話は随分と変わってくる。
 決めなければいけないのだ。僕は。
「沙紀、お兄ちゃん、神無月さんと付き合う事にした」
 すると沙紀は本から僕へ視線を向ける。
「マジで?」
「うん」
「ふぅん。やるじゃん」
「あんがと」
 僕は妹の言葉を待った。しかし沙紀の意識はもう漫画へと戻っている。
 いや、まさか。そんな。
「何? お兄ちゃん変な顔して」
「いや、別に……」
 僕は今度三枝さんを殺す事を決意した。

 神無月さんから通信があったのは空がすっかり暗くなった頃だった。経過を報告しようと耳に通信機をつけたら、丁度通信が入ったのだ。
 電波の向こう側に居る彼女に、僕は先ほどの事を話した。
「それじゃあ事件はもう解決しまして?」
「全然分からない。もう考えたくないんだ。ちょっと死にたい。ごめんね」
「謝る必要なんてありませんわ。既成事実を作り上げていけばそのうち馴染んできます」
「なんか怖い発言が含まれてるよ」
「実は予定では『信じられない、証拠を見せて』と沙紀ちゃんに言われ、本当なら今頃私たちはキスをしているはずでしたの。その後は瀬戸さんの部屋でめくるめく青春の痴情」
「ははは、寝言を」
 僕は机に肘をつきながら、開け放たれた窓の外を眺める。虫の声が響き、隣家にぶら下がる風鈴の音が夏の夜を彩った。
「それにしても、何だかあわただしい二日間だったね」
「あら、瀬戸さん。大げさですわ。明日からはいつも通りの日々が始まるんですもの。心配いりませんわ」
「そうだといいんだけどね。じゃあそろそろ勉強に戻るよ。残り三日間、頑張ろう」
「ええ。ではごきげんよう」
 その言葉を最後にブツリと通信は途絶えた。意外と便利な物である。
 明日はテスト三日目。丁度テスト期間の中日にあたる。
「明日は平穏無事だといいなぁ」
 窓から見える月を眺めて僕はぼやいた。
 しかし事件は三日目のテストで起きた。

       

表紙

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Neetsha