春を忘れよ、君はたそがれ
#01:「蝶がそこで死んでいるから」
「生命とは、奇しくも未来の方向にしか進めない欠陥品である」
彼女がそう言った時、僕は陽の当たる窓際で微睡みを抱えていた。
麗らかな春の陽気に、自ずと気分まで麗らかになる。ウグイスが鳴き、時間が少しだけ歩みを止めた世界の中に、柔らかな声は届いた。
光の当たる床から目を離し、俯き加減の頭を上げると、寝惚けて霞んだ視界の中に彼女は立っていた。暖かい春だというのに、セーターにコートまで羽織っている。だが彼女は暑がる素振りなど片鱗も見せない。
「そうだと言うのに、タイムマシンなど無粋なものを作ってまで、ヒトは過去未来に行きたがる。不思議だとは思わないか、光規」
光規、というのは僕のことだ。ここ城南大学に入学してようやく一年と少しが過ぎたばかりの大学二回生で「計測」が好きな人間。僕のアイデンティティの殆どは、恐らくその文章に集約されている。兼ねてより無個性だと呼ばれてきた僕に、それ以上の肩書きはない。
僕に語りかけてきた女性――祓戸由季子さんは僕と同じ、この城南大学の二回生。彼女は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、とまでは行かないが、ピアノブラックの長髪の内に秘めた膨大な知識には、大学の教授でさえも驚嘆を隠せないほどである。古典文学、考古学、解析学、解剖学、文理問わずありとあらゆる分野の知識を蓄えた彼女は、それだけの視点で鑑みれば大学の宝とも言うべき存在だったに違いない。
「ロマンがあって、いいじゃないですか。自分の見たことのない世界を、見たいという気持ち」
「世界は未来永劫変わらないのだよ」
僕の発言を一蹴し、由季子さんはパイプ椅子にぎしりと腰掛ける。
「変わったのは世界ではなく、ヒトだ。動物も、植物も、海も空も風も、一〇〇年前から大して姿を変えてない。ヒトが無理に変えてしまうことは、何度もあったがね」
「まるでその時代から生きていたみたいに言いますね、由季子さんは」
「存在はしていなかったが、この中に当時の記録は残っている」
そう言って由季子さんは、指先で自分の頭をつつく。
「ただ私は確かな記録を不確かな記憶にして、昔の世界を脳内空間で曖昧に作り上げているだけに過ぎない。だから、その時代の空気、表情、形質までは分からない。完全なる再現などは、不可能なのだ」
彼女はそこまで言うと、僕の方を向いて薄ら笑う。
「こうやって、光規に説いたのは何度目だろうな。喉が渇いた」
「はい。コーヒー、淹れますね」
椅子から腰を上げて、僕は流しの横にあるコーヒーメーカーに手をかけた。名前も生産地も良く読めないコーヒー袋の豆をざららと流し込み、スイッチを切り替えて生命を吹き込み、利口な機械が豆を挽き終るのを待つ。
さて四月とは、リスタートを切ることが出来る、その年二度目の時期である。
アパートも病室も四という数字は忌み嫌うのに、カレンダーはそれを歓迎する。冬眠動物は目覚め、蛹はまだ乾かない羽根を懸命に広げる。程よく暖かな気候に高揚し、ヒト以外の生き物が春を一つの区切りとすることも珍しくない。それほど生命は春と言う季節に喜びを感じ、心浮かれ、朗らかに歩み始めていくのである。
かくいう僕は、どうだろう。
この世に生を受けて二〇余年、一度も春という単語に魅力を持ったことがない。
僕はどこの学校にでもいる大人しい男子生徒、いわゆる根暗もやし野郎ジメジメ系と蔑まれる存在である。運動音痴で趣味は読書、自分が興味のあることについては熱く語り、流行電車に乗り遅れ、いつまでも自己満足ホームに立ちっぱなしのコミュニケーション不全。それら全てとは言わないが、一応の及第点は満たしている僕である。幼小中高と全ての段階で満たされてきた閉鎖的条件は、大学生になった今でもある程度達成されていた。
入学式は任意であったので出席せず、サークルにも自主的に加入しようとは思わなかった。講義も基本最低限のものをある程度真面目に受け、それ以外の時間は殆ど「計測」に費やした。
良い成績が取れて、良い教授に出会え、良い就職先が見つけられればいい。
大学なんてその程度のものだと考えていた、賀田來光規、当時一八歳に。
「あー、今日はブラック気味に頼むよ」
それはある日突然投げかけられた。
『君、空はどうして青いのだと思う』
見ず知らずの人物に掛ける言葉として、とても非常識なことを言う彼女は、他の女性より澄ました顔と、分相応な服装を持ち合わせていた。
僕は大層驚いたものだった。二限講義のガイダンスが終わり、その部屋でそのまま手製の弁当を食べようとしていた僕の隣に彼女は座っているのである。他の学生はコミュニケーションに夢中で、恐らく彼女の言葉は僕にしか聞こえていない。
「空がどうしてあれほど鮮やかな青を呈しているのか、分かるかな」
艶のある声で、頬杖を突いた女子生徒は、恐らくは僕に語りかけていた。
「何故って、それは光の反射だとか」と、僕が曖昧に答えると、
「そう言った普遍的な答えは辞書にしか求めていない」と彼女は言い放った。
すぐさま、僕は二の句が告げなくなった。この時僕はまだ、事象に関する複数視点と言うものを理解していなかった。この後一切の言葉が喉元から出て来なかったのが何よりの証拠である。
「別に、空が黄色であってもいいわけだ」
僕に視線をちらと見せながら、彼女は悠然と語った。
「空が青色に見えるのは、ヒトがそれを青色と認識しているから、当然の事だ。だがそれは他人のクオリアにおいては全く異なる様相をしているかもしれない上に、もしかしたら自分自身の感覚質が狂っていて、青く見えるだけなのかもしれない。最初の質問に戻ろう」
僕はきっと、呆けた顔で彼女の事を見ていたのだろう。
彼女は僕の事を一瞥したのち、僅かに口元をゆるませた。
「空はどうして青いのだと思うのか。答えはいくつもある。ある者は目に優しいからと答え、ある者は母なるものであるからと答え、烏合の衆は大口を揃えて光の某と答えた。君もそんな烏の群れの一羽に過ぎないのだろうか」
脈打つ鼓動が、少しずつ早くなっていくのが分かった。
僕は驚いているのだ。
「私が求めているのは、何にもとらわれない可能性を持ったヒトだ。君にはその資格がある。もう一度だけ答えるチャンスをあげよう」
僕の方に向き直り、彼女はニヒルな笑みと共に訊ねた。
「空はどうして、青いのだと思う」
それが、ミステリアスで、バイオレンスで、マジェスティックなこの女性――――祓戸由季子との出会いだった。