スカートの骨格
猫舌のこたつむり/疲れかけのポニーテール
【猫舌のこたつむり】
そろそろ初雪が舞い散りそうな季節、本屋のバックヤード兼休憩室には埃が乱舞する。
返送分の雑誌を段ボール箱にまとめながら、俺は小さく咳払い、ひとつ。
「咳をしても一人」
数回、軽く胸を叩きながら大きく息を吸い、そのままゆっくりと、溜息と間違われないように気をつけながら吐き出す。
段ボールを数個分、一気に運んだせいか少々気道を通る息が熱い。今まとめている分は、箱の埋まり具合からいえば次に回されるだろう。
「いつも力仕事ばかりおまかせしちゃってごめんねぇ」
不意に背後から声をかけられる。
「大丈夫っすよ。そろそろ終わりの時間っすか」
そう返しながら振り向くと、案の定、香保がいた。しゃがんだまま見上げても、ちっちゃい人だ。
「今、終わったとこ」
そう言い、香保は『んー』と背伸びをする。それでもちっちゃい。
「お疲れっした」
作業を手仕舞いしようと箱に向き直ると、香保が正面に回り込み、しゃがんで視線を合わせてきた。
「山頭火とか、好きなん?」
唐突にそう問われる。
「ラーメンっすか」
俺のどこにラーメンの要素があったのかは疑問だが、反射的にそう応える。
「いいねえ、今度行こっか。奢るよ」
揃えた膝の上に肘をつき、頬杖をついたまま小首を傾げゆっくりと微笑んだ。
やばい。香保さん、可愛いっす。
そう思ったのが表情でバレないよう下を向き、ゆっくりと段ボールの蓋を閉める。
「ごちっす」
「この季節、暖かい食べ物が恋しいのはいいんだけど、眼鏡が曇るのが難点よねえ」
「眼鏡っ娘なんすか?」
「うん」
意外だった。なんというか、香保に抱いているイメージは『ちっちゃい分だけ元気娘』だったから。いや、元気と眼鏡は並立し得るのは承知の上だが。
「眼鏡っ娘、好き?」
唐突な。
「そうでもないっす」
本当に、そうでもない。場を誤魔化すなら『好きっす』とか『見てみたいっす』とか言えばいいのかもしれないけど。
「顔赤いよ?」
それは、香保さんが可愛いからです。
そう思っていると、香保の手が額に延びてきて、押し当てられた。
「熱、あるんじゃない?」
ちょっと真面目っぽい声になって。
「さっき咳? 咳払い? してたし」
あ、したかも。憶えてないけど。
「店閉めは私がやっとくから、帰って休んだ方がいいよ」
畳み掛けられるように帰る方向に話が進められる。おかげで動揺が言葉に出る隙もないのが幸運か。
「それなら、お言葉に甘えます。あざっす」
体がつらい訳ではないが、人間関係に無理をかけてまでする作業でもないし。
そう思い、応える。すると何故か香保は誇らしそうに、
「そうそう。お姉さんのいうことは聞いておきなさい」
えっへん、とばかりに胸を張ってみせる。あまりないけど。
*
そのまま急かされるように店を出て、帰路につく。
鳥も通わぬ──というほどでもないが、一地方都市の商店街などペットショップのカナリアよりも閑古鳥の方が多いくらいだ。西部劇ならタンブルウィードの鬼ごっこのシーンだが、ここではそれが客引きのチラシになるくらいの違いしかない。
そんな街中も冬へと向かい、ここ最近は心なしかカラスの姿も見かけないような気がする。
「カラスも啼かず、私は一人」
放哉の歌に対する、山頭火の返歌をワケもなく改変する。
そして、ただ誰もいないだけやないかい、と自分でつっこみつつ。
ああ、山頭火か。今頃気付いた。香保はこれが言いたかったのだろうか。
素直にデートの誘いだと勘違いした自分が照れくさい。そして、話をあわせてくれた香保に感謝するとともに、強引に奢ると言わせてしまったような状況を少し反省する。
それとは関係ないが、肉まんでも買って帰ろう。
*
香保が言った通り、熱が出た。
店長に休むと連絡し了承を得た後、気を失うように眠ったらしい。コタツで。
──『閉店後お邪魔します』
香保からのメール。着信は既に閉店後の時間になっている。何故『今から』ではないのだろう? 仕事が忙しくなったが故なら悪いことをしてしまった。早く治さなければ。
そうは思うものの、実際にできることは、そう多くはない。食欲がないのでインスタントのコーンスープを胃に流し込むくらい。ああ、香保が来るのなら掃除……といっても掃除してるところを見られたら、怒られそうなので断念。
仕方がないのでコタツに入ったまま天板に顎を乗せて、だらしなく融ける。
そうやっているうちに、玄関のほうから物音が聞こえ始め、呼び鈴が押された。
鍵は開けておいたのだが、一応迎えに出る。
「具合は、どう?」
そこにいたのは、リュックを背負い、両手にレジ袋を提げた香保だった。
「なんすか、その重装備は」
せっかく見舞いに来てくれたのに失礼かとは思うが、正直、少し笑った。
靴をつっかけ、一度ドアの外に出る。そして、開けたドアを保持。
「ちょっとそれ、ひどくなーい?」
香保はそう言って少し頬を膨らまして、そして、微笑む。
「まあ、あがってください」
そう言って目を反らしたのは、可愛くて体温が上がってしまいそうになったから。
「おじゃましまーす。意外と片付いてるのね」
促されるまま部屋に入った香保は、そんな保護者のようなことを言う。
「物がないだけっすよ」
なんとなくそう答え、ドアを閉め、一応、鍵はかけずにそのまま部屋へと戻る。
「ごはんは食べたの? 食欲は? って、こら」
香保はますます保護者のようだ。わざわざ荷物を持ち替えてまでコーンスープの袋を指し示す。
「まさかこれだけで済ませたわけじゃない、わよ、ね?」
何故、詰問口調か。
そんな疑問が浮かび、それが全く解決しないうちに、香保は言葉を繋げた。
「ま、いいわ。作ったげる。うどんと蕎麦と、どっちがいい?」
「……え?」
熱のせいで呆けている脳では処理が追いつかなく。
「うどんと、蕎麦。ラーメンは準備してないのよ。一緒に食べに行くんだから」
それは俺の疑問の解決には全く役に立たない言葉だったのだけれど、何故だか心が温まってしまって。
「うどんでお願いします」
そう答えていた。
「はい」
見間違いでなければ、香保の目頭には僅かに涙が浮かんでいて。だけど、その理由には全く心当たりもなく、そして、それを確認する機会は失われた。
「準備するからお勝手借りるわね。その間はこれ飲んでてね」
そう言って香保が下を向いてしまったから。香保はレジ袋からペットボトルと紙コップを取り出し、俺に手渡す。
材料を確認しているのか、袋の中を覗き込んだまま、
「粉末もあるけど、置いてくから明日の朝にでも作って飲んでね」
そう言い残し、香保は迷う様子もなく台所へと移動する。
台所、片付けておいてよかった。香保にだらしないと思われるのは精神衛生上宜しくない。実際には料理が不得手なだけ、なのだけれども。
なんか妙なことになったな。
そんな埒もない感想を抱きつつ、コタツの定位置に腰を下ろし、スポーツドリンクを紙コップに注ぐ。
何故、この人は俺の部屋で料理をしているのだろう。しかも、鼻歌交じりで楽しそうに。
香保は実家暮らしだと聞いていたが、料理が好きなのだろうか。仕事中も手際がいい人だとは思っていたが、それは料理の手順でも変わらないらしい。
それにしても、てきぱきと動く香保さんは可愛いな。
右に左にステップを踏むたびに、疲れかけのポニーテールが楽しげに自己主張する。
そんな香保をのんびりと眺めつつ、俺はコタツの上に融けるように顎を乗せる。仕事中はゆっくりと見る余裕はないけれど、変わらず楽しそうでいる香保を見て、なんとなく安心してしまったせいだ。そういうことにしておこう。
責任を擦り付けつつボーっと香保のほうを眺めていると、香保がなにやら歩み寄ってくる。
「これ、鍋敷ね。もうすぐだから待っててね」
融けた俺がコタツの天板上を占有していたせいか香保はちょっと鍋敷の置き場所に迷ったらしいが、紙コップの横の空いたスペースにそれを置き、またすぐに台所へと戻る。
俺はなんとなく申し訳なく思い、上半身を起こし、天板の上を整理する。
そして、
「どうぞ召し上がれ。あわてて準備したから超手抜きっぽいけど。ごめんね」
台所から用心しながら歩いてきた香保が、スウェットの袖を伸ばした手で持った土鍋を置き、そのまま俺の左前の位置でコタツに入る。
あれ?
「どもっす。でも、香保さんの分は?」
香保は一瞬だけ動きを止め、そして
「……忘れてた」
そう、真顔で言う。
「忘れてたのに、その大荷物っすか」
思わず指摘してしまうくらいに、あの姿は印象に残ったから。
「忘れてたのにね」
ちょっとむくれた香保さんも可愛いっす。
でも、店では見られないそんな香保の姿が妙に面白く、吹き出してしまった。香保に悪いかと思い様子を窺おうとしたら、香保も笑っていたので俺もなんとなく笑い続ける。
そして、一息ついて。
「何を持って来てたんすか、そんなに」
あの大荷物は、うどん一杯には少々大袈裟すぎるだろう。
「えっとね、ちょっと待っててね」
香保は立ち上がり、台所からレジ袋をふたつ持ってきて、また元の位置に座った。
「リュックは家から持ち出し。レジ袋のは途中で買ってきたの」
レジ袋を渡された。そのまま香保は言葉を続ける。
「苦手なのがあったら無理しないで言ってね」
中には菓子やレトルト食品など、手軽で保存の利くものが主で。
元々それほど偏食があるわけでもなく、全て問題なくいただけるだろう。
そう考えつつ、香保にむけて、右手の親指で『ぐっじょぶ』というような仕草をしてみせる。
すると、香保は少し笑って言う。
「これの他には、カセットコンロとか電子マッチとかがリュックのほうに」
こともなげに。
俺って、どれだけ部屋を片付けられないと思われていたのだろう。
「俺の部屋でキャンプでもするつもりだったんすか」
思わず突っ込んでしまう。
「いいもんいいもん、お菓子たべるもん。飲み物ちょうだい、紙コップで!」
香保が、なんか拗ねた。両手を伸ばしてレジ袋を取ろうとしている。
俺は思わず香保からレジ袋を遠ざけ、香保の手の届かない俺の右側の位置にレジ袋を置く。
香保は、なんだかジタバタしてる。
「香保さん、なんか可愛いっすね」
動きが止まる。
「まだ熱あるんじゃないの」
香保は右手を俺の額に伸ばし、熱を確認する。
「たぶんそうっすね」
そう、たぶん。たぶんだけど、確実に。でもそれは、風邪の熱ではなく。
そして、数瞬の間。
「食べないの?」
香保が先に折れた。
そして、そう言いながら立ち上がり、俺の背後の方へ歩き出す。レジ袋が目的だろう。
「猫舌なんすよ」
言ってくれたら渡すのに、と思いつつ。
背後から。
「咳をしてもぴっとり」
「え?」
香保が抱きついてきた。
「『一人』じゃないよ、って」
──『一人じゃないよ』、か。
確かにね。てきぱきと動く香保は普段どおりの頼もしい香保でもあり。風邪をひいて弱っているせいではなく、そして、元々好意を抱いているという贔屓目を差し引いても。
「尾崎放哉っすか」
気付けば、自然と、そう返していた。
「そ。おざきほうさい。っすよ」
香保は、俺に抱きついたまま、そう返事をした。
疲れかけのポニーテールが、彼女の首越しに俺のうなじをくすぐり揺れる。
そして、このままずっと。
このポニーテールに惹かれ続けそうな、なんとなく、そんな気がするんだ。
【疲れかけのポニーテール】
売り場に、閉店のアナウンスが流れる。
今日もそれほど面倒な客が来るでもなく、平穏無事に一日が終わった。
暇だった、ともいうけど。
透に終業を伝えるために、バックヤードへ向かう。バックヤードは音が聞こえにくい上に、透は作業に没頭しちゃう人だから、きっと時間なんて気にしてすらいないでしょう。
「こほん」
と。咳とも咳払いともつかない声が。
続いて、
「咳をしても一人」
透の声。
透は体が大きい。私が華奢だ(ちっちゃいわけではない)という理由を除いても。その体格に見合った、低めの、響く声。
私が、透が気になる理由のひとつ。
バックヤードに入ると、その大きな体が屈んで作業をしていた。
「いつも力仕事ばかりおまかせしちゃってごめんねぇ」
落ち着いて、背後から声をかける。
「大丈夫っすよ。そろそろ終わりの時間っすか」
驚くでもなく、透は屈んだ姿勢のままこちらに振り向き、私に微笑みかける。
「今、終わったとこ」
そう言って、そのまま『んー』と背伸びをして仕事の終わりを強調してみせる。
「お疲れっした」
あっさりとそう言うと、透は元の姿勢に戻る。
段ボール。返送雑誌をまとめていたのか。あれ、まとまると重いし割と嵩張るのよね。室内を見渡すと、既にまとめられた段ボールが──三箱。私の力ではたぶん、一箱持ち上げるので精一杯だろう。もしかしたら、台車に載せることすら出来ないかもしれない。
透は作業をやめる準備をしている。そんな透の正面、段ボールを挟んだ位置にしゃがみ、透の顔を覗き込む。
「山頭火とか、好きなん?」
唐突になんてことを訊いてるんだ、私は。同じ『咳』の話にしても、もう少し気が利いた方向もあるだろうに。
「ラーメンっすか」
しかも、透よ。何故ラーメンなんだ。作業中にグルメ誌かタウン誌の記事が目に入ったのか。
助かったけど。
「いいねえ、今度行こっか。奢るよ」
と、乗っておく。
何、この急展開。自分で言って自分で動揺してるわ。
そんな内心が恥ずかしく、膝の上に頬杖し微笑むことで動揺を隠してみせる。
「ごちっす」
うまく隠せたかな。隠せてたらいいな。
「この季節、暖かい食べ物が恋しいのはいいんだけど、眼鏡が曇るのが難点よねえ」
終業後の気安さもあって、なんとか話題を繋げる。
「眼鏡っ娘なんすか?」
そんな話題につきあってくれるらしい。
「うん」
知らないわよね、教えてないもの。透は一度も眼鏡の私を見たことないんじゃないかなぁ。
そうして、一応、探りを入れてみる。
「眼鏡っ娘、好き?」
「そうでもないっす」
本当にそっけない、興味なさそうな返事。残念。
あまりに残念なんで、すこしからかってやる。
「顔赤いよ?」
と言ってから気付いた。なんだか本当に顔が赤い。
透の額に右手を伸ばし、左手で自分の額、その温度を比べる。
あらいやだ。
「熱、あるんじゃない?」
右手と左手を入れ替え、もう一度比べてみる。
「さっき咳? 咳払い? してたし」
目が落ち着いてない。ちょっと驚かせてしまったみたい。ごめんね。でも心配なんだ。
「店閉めは私がやっとくから、帰って休んだ方がいいよ」
だって、本当になんだか熱っぽいんだもの。
「それなら、お言葉に甘えます。あざっす」
うん。言う通りにしてくれて、ありがとう。
「そうそう。お姉さんのいうことは聞いておきなさい」
ちょっと偉そうな感じで胸を張ってみる。透の視線が私の胸のほうに動いたのは気付かなかった振りしてあげる。
私は華奢だ(胸が哀しいわけではない)から、じっと見られると少し恥ずかしいのだけれど。
*
帰宅して。
透は、ちゃんと部屋に帰れたかな。帰れたよね。
それにしてもなんで一緒にラーメンを食べに行くことになったんだろう。
話の流れは憶えてる。
透が咳をしてたから。『咳をしても一人』から、よね。
幸運な成り行きだけど、解せない。納得いかない。ひとりの乙女としてもうちょっとスマートな誘い方誘われ方がよかったな。
せきを、しても、ひとり、っと。検索検索。
──尾崎放哉。
山頭火やないんかい。
うわ。やらかしてしまった。卓袱台があったらひっくり返したいくらいの勢いで。
ベッドの上にうつ伏せになって、枕に顔を押し付け足をバタバタ。
まさか本当にやる奴がいるとは思わなかった。それも自分。
心の隅で冷たくそう思いつつ、バタバタ、ぱた。
そのまま枕を抱いて、ちょっと涙目。
恥ずかしいよぅ。
そうか。ラーメンか。ラーメン。ラーメンだよなぁ。ラーメン。
透が気を使ってくれたのか素なのかはわからないけど、一緒に食べにいく約束しちゃったし、それはそれでいっか。結果おーらい。
……ということにしておかないと、恥ずかしすぎる。
山頭火のばかやろー。
*
店長から、今日は透が休みだと聞かされた。発熱したと連絡があったそうだ。
仕事自体は昨日、透が返本作業を片付けていてくれたので楽ではあった。んだけど。
──『大丈夫?』
その一言のメールが出せずに。
私、バカだわ。なにやってんだろ。
心配するのなんてあたりまえじゃない。なんで恥ずかしがらなきゃならないのよ。
恥ずかしいわけじゃない、迷惑になるのが怖いだけ。拒否られるのがつらいだけ。
そして。
悩んで悩んで結局『閉店後お邪魔します』と。仕事が終わって店を出た後に。
断られたら引き返そう。
そう思いながら必要そうな物をまとめ、着きました、透が住む(という)アパートに。以前、話の流れで聞いてなんとなく覚えてただけだから、来たのは初めてだけど。
リュックにレジ袋ふたつと大荷物になったけど、何が必要かわからないし。
そもそも男の人の部屋って、わからない。彼氏なんていたことないもの。それに、具合が悪いんだから、洗い物くらいたまっててもおかしくない。
とことこと。玄関前まで進んで、深呼吸ひとつ。
両手の荷物を左手だけにまとめて持ち替えて、携帯を確認。
断られて、なかった。
安心と妙な緊張が同時に訪れる。お節介だと、鬱陶しいと思われないだろうか。
仕事中、一日迷ったくせに同じ不安をここでも、また。
だって、心配なんだもん。どっちの意味で? でも、ここまで来て迷っても仕方がない。
呼び鈴を押す。部屋の中から人が動く気配。荷物を両手に持ち直す。
そして、ドアが開いて。
あ。なんて言えばいいんだろう。考えてなかった。
「具合は、どう?」
自分でも思った。意外と普通だ。
透はといえば、店でも見るような普段着に、何故か赤いちゃんちゃんこを着ていた。
「なんすか、その重装備は」
私を見た透は、そう言って少し笑う。思ったよりは元気そうでよかった。
そして、少し外に出てドアを押さえてくれる。寒いのにごめんね。
「ちょっとそれ、ひどくなーい?」
迷惑ではなかったみたい。ちょっと泣きそう。
ちょっと頬を膨らまして、笑ってみせる。泣きそうなのがバレないために。
「まあ、あがってください」
透がちょっと目を反らして促す。バレちゃったかな。
そのまま、透の方へ顔を向けないように気をつけながら、玄関に踏み入れる。
「おじゃましまーす。意外と片付いてるのね」
部屋に上がり、荷物も置かずに第一声。でも、我ながらちょっと失礼だよね。
「物がないだけっすよ」
そう言いながら透も戻ってくる。
透がそう言う通り、シンプルな部屋だった。八畳くらいのワンルームに布団とおこたとファンヒーター。そして、ほぼ最低限の家電。ノートパソコン。
「ごはんは食べたの? 食欲は? って、こら」
再び、両手の袋を左手だけにまとめて持ち替え、あけた右手で小袋を指差しながら透の方へと振り返る。
「まさかこれだけで済ませたわけじゃない、わよ、ね?」
透の返事を待とうかと思ってたけど、いいや。ちょっと強引だけど、いっちゃえ。そのために今日、来たんだもの。
「ま、いいわ。作ったげる。うどんと蕎麦と、どっちがいい?」
……言っちゃったぁ。怒られないかな。迷惑じゃないかな。嫌われないかな。
でも、体ごと透の方へと向き直る。断られたらどうしよう。
「……え?」
透が聞き返す。
この間が怖い。
何気ないはずのやり取りの中のほんの僅かな時間が、ふたりの接点にある切り取り線のミシン目を悪戯に触ってしまったような、そんな後戻りの利かなさが怖い。
「うどんと、蕎麦。ラーメンは準備してないのよ。一緒に食べに行くんだから」
埋めるように言葉を搾り出す。
余計なことまで口が滑ったような気がするけど気にしない。その上、怖さのせいか照れのせいか、少し声が上擦る。
そして、心の中でそっと祈る。
──『断る』なんて選択肢を、透が思い出しませんように。
「うどんでお願いします」
安心した安心した安心した、安心した。
「はい」
私は頑張って表情を作りながらそう返し、そして慌てて下を向く。
今、顔を見せたら透が心配しちゃうじゃない。ただ、安心しただけなのに。なんで涙が出ちゃうんだろ。
本当は、そんな場合じゃない。そうよ、話をつながなきゃ。レジ袋。何か。あった。話。
「準備するからお勝手借りるわね。その間はこれ飲んでてね」
紙コップと、ペットボトルに入ったスポーツドリンクを手渡す。
私、がんばった。うん。がんばった。
でも、まだ、顔、上げられない。
「粉末もあるけど、置いてくから明日の朝にでも作って飲んでね」
そう言って、先ほど確認したお勝手のほうへ向かう。
そして。
さて、と。
レジ袋を足下に置き、袖で目頭を軽くおさえる。
うん、これでだいじょうぶ。そしてリュックを下ろし、手を洗う。
思ってたよりも整頓されたお勝手だった。
透はおこたに入り、スポーツドリンクを飲み始めたみたい。あそこが定位置なのかな。
なべやきうどんを作り始める。今日のところはシンプルに。消化に悪いものは食べさせたくないし、ね。ちなみに、お水とガスコンロ以外は全部持ち込み。
一人用土鍋。めんつゆ。醤油。お水を入れて、ガスコンロでひと煮立ち。
もう余裕。鼻歌だって出ちゃうわよ。あら。なにげに五七五。
うどんをひと玉。お麩、揚げ玉、生卵を割っていれて、ふたを閉じ。
透、もしかしてこっち見てる? 肩越しにさりげなく確認。あ、見てるっぽい。なんかちょっと照れるかも。
ふたをそっとあける。卵確認。もうちょっと。
リュックから鍋敷と割り箸を取り出し、おこたのほうへと歩く。
透はおこたに圧しかかるように顎を乗せ、こたつむりと化していた。もしかして体調悪くなったのかな。もしそうなら、バタバタしちゃって申し訳ないな。
「これ、鍋敷ね。もうすぐだから待っててね」
そう言って鍋敷と割り箸をおこたの上に置き、お勝手に戻る。
卵確認。おっけー。火を止める。ちょっとだらしないけど、厚手のスウェットの袖を伸ばし、土鍋を運ぶ。
上半身を起こした透は自分の前に鍋敷を置き、おこたの上を整理してくれていたようだ。
「どうぞ召し上がれ。あわてて準備したから超手抜きっぽいけど。ごめんね」
そう言って、土鍋を鍋敷の上に置き、そのまま透の左斜め前の位置でおこたに入る。
「どもっす。でも、香保さんの分は?」
あ。
「……忘れてた」
思わず真顔になってしまった。
「忘れてたのに、その大荷物っすか」
透らしい突っ込み。
でも、そんなに大荷物に見えたのか。
「忘れてたのにね」
だって、透に食べさせることで頭がいっぱいだったんだもん。しょうがないじゃない。
透が笑う。そして、つられて私も笑う。
「何を持って来てたんすか、そんなに」
ひとしきり笑った後で、透が私に問いかける。
「えっとね、ちょっと待っててね」
そうね。このタイミングで置いていけるものを渡してしまったほうがいいかもね。とにかく好みと体調がわからなかったから、手当たりしだいな状況だったんだもの。透に選んでもらえば好みもわかっちゃうかも。
立ち上がり、お勝手からレジ袋ふたつだけを持って透のところへ戻り、そのまま手渡す。
「リュックは家から持ち出し。レジ袋のは途中で買ってきたの」
透が袋の中を覗き込む。
「苦手なのがあったら無理しないで言ってね」
気を使ったことに気を使って全部受け取ってくれるかもしれないけど、それだとなんだか押し付けたみたいで申し訳ないもんね。
あ。透が私に親指を立てて見せてる。特に苦手なものはないみたい。よかった。
「これの他には、カセットコンロとか電子マッチとかがリュックのほうに」
お勝手が使えない状態まで想像しちゃったんだもの。とんだ取り越し苦労だったけど。
「俺の部屋でキャンプでもするつもりだったんすか」
あー、キャンプねー。なるほどねー。確かに遭難ほどじゃないけど何ができるかわからない状況なんだもの。寒空の下じゃなければ、風邪引いてなければそれもいいかもね。
頭の片隅ではそう思いつつ。
でもしょうがないじゃない。状況わかんないし男の人の部屋って入ったことないし。
年齢イコール彼氏いない歴は伊達じゃないわよ。ごめんなさいね。ぷん、だ。
「いいもんいいもん、お菓子たべるもん。飲み物ちょうだい、紙コップで!」
なんてね。
この口調はさすがに自分でもどうかと思う。子供のように拗ねた振りして。
そう言って、レジ袋のほうへと手をのばす。ひとりだけ食べるって、居心地悪いものね。今から作るのもちょっと面倒だし、お菓子でいいわ。
と思ったら、透にレジ袋を取り上げられた。向こう側に置いた。いじわる。
「香保さん、なんか可愛いっすね」
え。今なんて?
「まだ熱あるんじゃないの」
口をついて出る、そんな言葉。もう一度言って欲しいのに、素直に『ありがとう』って言いたいのに、なんてことを。
そんな気持ちを自嘲するかのように、透の額に手をあて、熱を測るふりをする。
「たぶんそうっすね」
透には動揺の様子など微塵も見られずに。
もう、ばか。私のばか。
そして、軽く息を吐き、落ち着いてから。
「食べないの?」
透に問いかける。
そして立ち上がり、レジ袋を取るために透の後ろを歩く。
「猫舌なんすよ」
透がそう返答する。
なによ、もう。
あなたのほうが可愛いじゃない。
おこたに入る透の後姿が、なんだかいつにも増していとおしく思えて。
「咳をしてもぴっとり」
後から抱きついた。本当は、ずっと前からこうしたかったの。
「え?」
「『一人』じゃないよ、って」
一緒にいてあげる。ううん、一緒にいさせて。
風邪を引いただけでこんなに心配しちゃうんだもの、私。
「尾崎放哉っすか」
抱きついている私をあるがままで認めるかのように、透が言う。
そして私は、憶えたばかりの精一杯を素直にぶつけるんだ。
「そ。おざきほうさい。っすよ」
今日だけで、私はいったいどれだけの覚悟をしたんだろう。
そして。
この、猫舌のこたつむりと。
ずっとあたたかくいられたならば、すごく嬉しいのだけれど。