スカートの骨格
寿司桶のラブソング
【寿司桶のラブソング】
「あたためていた企画がやっと通ったのよ」
午前のプレゼンが終わり、昼休み。比較的抑え気味の声で彼に電話で伝える。彼は彼で、それは事務的な発音で、
「よかったね」
と、応える。そしてそれから、まるで思い出したことをついでに伝えるかのように、
「ああ、今晩お邪魔するよ」
素っ気無く、そう言う。
正直にいうと、私の性格が悪い。嬉しいことを、たとえ彼氏にであっても素直に表現できない。本当にどうでもいいことのように、嬉しければ嬉しいほど、感情面を抑えて伝えようと努めてしまう。でも、それで今までに損をしたことといえば、最初の彼氏の別れの捨て台詞が、
「おまえはいつも怒っていて疲れる」
だったことくらい。
もっとも、最初の彼氏イコール、今の彼の直前の彼氏であって、今の彼氏は二人目。その今の彼は大学の頃からのなんとなくの縁で、付き合い自体はかなり長い。最初の彼氏とはそういう別れ方で、しかもかなり短期間であったので、今の彼が初めての男だ、というのは私にとっては僥倖。彼にとっては重荷かもしれないけれど。
私の性格は不器用である、とも、たぶん、ちょっと違う。感情を、他の人より少しだけ多く否定している。
たぶん、それだけのこと。
たぶん、めんどくさい女だ。
彼のことは、凄く好き。
だからこそ素っ気無くなってしまう自分も、少し好き。結構嫌い。面倒くさい。
そういう経緯で今日、彼が来ることになった。そして、帰宅したらもう、こんな時間。とはいえ、お互いに会社勤めのひとり暮らし。事情は理解してくれている……はず。恥ず。女だから、という古風で古典的な理由からではなく、そういう素っ気なくしてしまう自分の性格故、それ以外の部分で少しでも彼にマイナス面を見られたくない。見栄。
冷蔵庫の中身からのでっちあげだけでは少々気分的によろしくないので、一応、握り寿司を買ってきた。気分的に、の話ではあるけれど、二十四時間スーパーやコンビニに並んだものでは、なんだか違うような気がして。ちょっとしたお祝いという程度かどうかは別にして、駅前、酔客相手の寿司屋しか思いつかなかったし見当たらなかった、という話でもある。普段から少々ハメをはずし気味の客が多いせいか店員さんは客あしらいが上手く、それに乗せられたわけではないが、ちょっと気取って寿司桶も購入することにした。そして私は神経質だ。他の人と同じ鍋をつつくことがどうしてもできない。寿司ではそこまで気にはならないのだが、なんとなく、二人分をまとめて一桶にすることに違和感を覚えて。そういう理由で、寿司桶はふたつ。少し高くついたけれども、それはそれで割と気に入っては、いる。
部屋へと入り、寿司桶をコンロの横の調理台に置いて、鞄を肩から下ろす。
この時間から彼が訪ねてくるということは、泊まっていくということよね。
もうそんなことで照れるような時期はとうに過ぎ去っているが、床に広がった洗濯物(など)は、見える位置からは一応、退場させておく。気を削がれるのも癪だもの。そして、ラフな部屋着へと着替えて。
携帯が鳴る。メール。駅前の二十四時間スーパーから彼。何か足りない物はないかと。
『だいじょうぶ。何か要る物があるなら』
そう返して、玄関の鍵が開いているのを確認する。この時間、ドアチャイムを鳴らすのが躊躇われるほどに薄い壁のアパート。彼がドアチャイムを鳴らさなくても済むように。あれはそういうメールだから。
部屋相応に狭い台所に立ち、買い置きの冷凍食品から枝豆と鶏のから揚げを準備する。品数としては充分とはいえないが、このふたつが並んでいると、とりあえず彼は機嫌がいい。駅からここまで彼が歩いてくる時間で間に合えばいいのだけれど。
*
枝豆とから揚げをコタツという種類の食卓へと置き、台所へと戻る最中、
「ワインを一応ね、買ってきた」
玄関のドアが開き、仕事帰りの服装のままの彼がそう言いながら入ってくる。
「あー、お疲れさま。先に座ってて」
小走りで出迎えた私に簡単に包装されただけのワインを手渡し、
「貴腐ワイン、というらしい」
と、彼は食卓へと向かう。
寿司桶ふたつと手渡されたばかりのワインと、グラスと栓抜きをトレイに乗せ食卓に戻ると、彼はテレビの正面の位置に座っていた。そこは彼が訪ねてきたときには彼の定位置で、普段は私の定位置でもある。
「間に合わせの冷凍食品だけど、食べてて」
と私が言うまでもなく、彼は既にから揚げを口に運んでいた。
「まあ、手料理が出来なきゃいけない、ってわけでもないさ」
彼はいつも通りにそう言い、傍らの箱ティッシュを取り出し指の油をこすり付ける。
「私が作ると愛情を込めたんだか愛を試したんだか判らないものが出来上がるものね」
軽く自虐しながら、食卓の上にトレーを置く。
「そこまで卑下するものでもないと思うけど。だけどさ」
合いの手のように、彼がのんびりとしたフォローを入れる。料理(というか家事全般)が苦手だというのは事実なのだけど。
私は少し苦笑いしながら彼の斜め向かいに座り、
「『だけどさ』何?」
と促す。
「君がそういう軽口を言うってのは、やっぱりかなり嬉しかったんだな。おめでとう」
そう言って彼は一度差し出しかけた右手を戻し、左手を私の頭上へと伸ばし、私は反射的に少し下を向き軽く目を閉じる。
「……そう、かな」
私自身は結構頻繁に冗談を言っているつもりなのだけれど、そういう性格や無表情のせいか、あまり冗談として受け取られないだけ、だと思う。家事だけではなくユーモアのセンスもあるとは言えないらしい。哀しいことに、私はどちらも半ば諦めている。
彼の手が私の頭の上で左右に数度往復し、そして撤退する。
私は目を開け、彼の少し照れたような表情を確認。そしていつものように私の嫌いなカニと彼の嫌いなウニを交換し、ウニがカニに入れ替わった寿司桶を彼の前へと差し出す。
「ばくる、だっけ?」
その様子を見ていた彼が、寿司桶の位置を確認しつつ、問いかける。
「懐かしいわね」
私と彼の馴れ初めの話。大学の創作系のサークル。その時はたしか、ノベルゲーの完成の打上の席で。カニを最後まで残していた私の隣で、最後に残ったウニを睨んでいる彼。その彼に私が言った言葉が、それ。私の出身地で『交換する』を表す方言。彼はそれを知らずに『バグる?』と聞き違えたようで、印象に残っているらしい。
「ウニが嫌いなんて誰も理解してくれなくてさ」
金の斧も実用できなければ鉄の斧にも劣る。そう考えるのは易いが、金もウニも価値を見出さない人の方が少ない故、理解されにくいのかもしれない。
「どうせ食わないからいいんだけど、奪われる一方なのが悔しかったってのもあるかな」
恩を売りながら得物を掠め取るような輩とは距離をとりたくなってしまう性質だと、これは以前に彼が自身を表した言葉。
そしてそのまま、寿司が出る席上では交換が常態化することとなり、今の関係にまでに、極、自然に。済し崩しであるとか成り行きであるとか言えば言い得るのだけれども、たぶん、私たちにとってはそれは自然なことで。
「貧乏性だから」
彼はそう自嘲の苦笑いとともに付け加えながら、ワインのボトルと栓抜きに手をのばす。
「貧乏性っていうより、貧乏?」
そう悪乗りする私に、
「うっせ。そんなんお互い様じゃろうて」
口調は荒いが、彼は嬉しそうに笑う。彼だけは笑ってくれる。
まず一回『ぽん』と綺麗な、そして、とくとくとく、と二回。少し遅れて甘い香り。
そのひとつを私の前へと移動させながら、彼。
「そもそも、何故カニが苦手なんだっけ? アレルギーではないんだろ?」
「言ったことなかったかしら?」
「めんどくさい、とは聞いたことあるけど、嘘だろ?」
「……うん」
そう。面倒なだけなら既に剥き身の寿司は平気なはずなのよね。
「言葉を選んで言うならば、カニを食べる姿が汚らしい身内がいて、カニ自体を食べ物として見ることが出来なくなったのよ」
言葉を選ばずに言うならば、父がカニを貪る姿が五月蝿くて汚らしくて屍肉を貪る餓鬼にしか見えなかったから。私は父との折り合いが元々悪く、そのせいもあってなのだろう。あんなのと一緒にされるくらいならカニくらい食べられなくたって何の苦痛もない。母と妹にさえ、この理由は告げていない。『面倒だから』で納得しているのか、自分に都合の良い不都合だから放置しているのかは知らない。そしてそれはかなり限定的な個人の事情なので家族内では誰も悲しまなかったしただの日常だったのだけれど、他人と食事をする機会があるようになって、初めて交換の機会を得たのが彼だったので思わず方言が出た次第。
「黙って食ってるだけなのに汚く見える人、いるよね」
それがただの彼の相憐れむが故の表層だけの同意であっても。
「ありがとう」
素直にそう思う。
彼は、私と父の確執を知っている。父がいる環境から離れるためにこの街に進学したことを知っている。そして、そのまま就職したことも。彼はたぶん、これだけで父のことであると察してしまっただろう。そして、であるが故に父が原因であると指摘をしてくることもない。
感情を露に理不尽を恥とも思わず押し付ける父が嫌で、私はこんな面倒くさい性格になったのかもしれない。ことさら感情を抑えこもうとするが故に、常に『少し不機嫌』で固定してしまったかのような。
嬉しいことは勿論嬉しいと感じるのだけれど、それをあからさまに表現するのはあの父に似てくるようで嫌なのだ。最優先で回避するべきことなのだ。私にとっては。
ただ、その原因を探ることですら父を思い出させるが故に、避けている。
不都合がないのだもの。
「テレビのCMでも、逆効果だろってくらいに汚らしく感じさせる奴、いるしな」
互いに顔を見合わせて、軽く笑う。たぶん、私と彼は、同じ人を思い浮かべたと思う。
*
カニの無い寿司桶は平和だ。懐かしい一発ギャグでいうのなら、オーシャンパシフィックピースだ。寿司ネタの原産地までは知らないけれども。
そして、彼といる時間も、私にとっては平和だ。無表情であろうと努めることも無表情であることを気に病むことも必要がない時間。
「あらためて、乾杯。おめでとう」
彼がそう言い、ぶつけたグラスから軽く『ちん』と音がする。
彼はたくさんの苦手なものを私から取り去ってくれる。
私は彼の苦手なものをもらってあげられているのだろうか。
そう思いながら、
「ありがとう。これからもよろしくね」
小首をかしげ、微笑んでみせる。たぶんそれはぎこちなく、彼に感謝を伝えるのには不充分かもしれないけれども。
「おう」
彼は一口だけワインを口に含み、寿司桶へと目を移す。
苦手なことをひとつずつばくって、補いあえたらいいな、補っていきたいな、と、そう、思う。
彼の好きなものも知りたいけれど、苦手なものも、もっと知りたい。
ばくっちゃおうよ。
ばくっちゃうんだ。
何気ないことにも笑いあいながら。
寿司桶が、着実に空きスペースを増やし空腹を埋めていくように。
ふたりとも不得意なら?
ああ困ったね。
困ったね。
それでも笑いあえるような。
ワインが甘いのは、ワイン自体の甘味なのか、それとも幸せの甘味がそう感じさせるのか。
一緒に困るのも悪くないかな。
困るけどね。
カラになった寿司桶は平和だ。
ふたつ並んで、たぶん、この先、いろんなことをばくりあっていく。
永い間、になると嬉しいのだけれども。ずっと。