下之介は腹の中いっさいをぶちまけた。自分だけすっきりした顔をしていると、まだ話を消化し切れていない様子の番頭が尋ねた。
「あんたがこの店の用心棒には使えないというのはなんとなく分かったが、他がよく分からん。その江藤という男が京から肥前佐賀に着く前に、走っていけばどこかで追いつけるんじゃないのか」
「それは良い策じゃ。かたじけない」
一礼した下之介はあっけにとられている番頭たちを尻目に菊屋の勝手口から走り出て行った。京の町を下之介は駆けていく。あれほど騒がしかった浪士組の連中が町から消え、京は静けさを取り戻したかのようだった。ちょうど良い。危険なこの町を脱出するのは今を持って他にないだろう。
夕餉の支度をしにきた
「あの者ならば出て行かれましたよ」
「使命を持っている者は座を暖める暇もないのですね」
後にはただ一陣の風だけが残った。
月もない闇夜に頼りない足音だけが響く。手探りしながら山道を抜けようともがく。もう一刻(約2時間)は歩いた気がする。闇の中では時間の感覚までも失ってしまうようだ。後先考えずに飛び出したせいで、絡西から花園に抜けるころには日が暮れていた。
ちょうちんに火をともしてあたりにかざすと、気がつかなかっただけで宿場町のそばまで来ていた。
後ろからは同じように一人旅の武士が近づいてきたので会釈を交わし、顔を上げたとたん互いに仰天して叫んだ。
「貴様は上中下之介。私の……」
最後は聞き取れぬほどにしぼんでいった。以前下之介に男装を見破られたことを思い出して恥じているのだろう。懲りずにまた男装している。
「そういうお前はあの男装の……」
話を遮るように刀を抜いて、相変わらず上段に構えた。下之介も刀を抜き牽制する。
「新垣二郎だ。私の素性を知られた以上、生きて返すわけにはいかない」
なんてことだ。宿場町は目と鼻の先だというのに。男装の女ごときに負ける気はしないが、歩き疲れていてはこちらが不利だ。しかも洛外に浪士組の二郎がいるのはどうにも妙だ。浪士組が忽然と京の町から消えたことと照らし合わせると、どうやらこのあたりに待ち伏せをしていたのだろう。時間をかけては他の隊士がやって来てしまう。長居は無用だ。どうやって撒こうかと思案していると、騒ぎを聞きつけた旅人や逗留客が集まってきた。
「弥次さん、見てみろ。仇討ちだ」
「いいぞ。やれやれ」
しめた。何故か仇討ちと間違われているが、この野次馬に二郎がを気取られているうちに逃げよう。下之介はひらめくとすぐに行動に移した。脇の林に素早く飛び込み、二郎の死角の木陰から様子をうかがう。
「お侍さん、あの悪党はこの木の後ろに隠れているよ」
ところが野次馬たちは下之介の方を仇と思ったらしく、二郎に協力的だ。二郎は男装と言わなければ眉目秀麗な若侍に見える。対して下之介はざんぎり頭の奇妙な男な上、一目散に逃げ出した。誰が見ても下之介が悪役だ。
ここにいては見つかる。下之介はさらに林の奥深くに分け入った。女の足で追いつけるわけがない。必ず逃げ切れる。しかし、命の危機が去ったことで下之介の心には本人も気づいていない油断が生じていた。
下之介を見失った二郎は仲間に知らせるため狼煙を炊いていた。もし自分が女であることを他の隊士に知られれば浪士組にはいられなくなる。あの男がそれをしゃべる前に早く殺さなければ。焦る気持ちを抑える二郎の瞳には狼煙の炎が映りこんでいた。
「お、助っ人だ」
「盛り上がってきたぜ」
野次馬たちがざわめく。
「これはいったい何の騒ぎだ」
やってきたのは浪士組副長格の土方歳三だった。二郎がことの成り行きをかいつまんで話すと、土方が一人で林に入ることとなった。
「やはり、私もお供いたします」
「だめだ。奴が宿場に戻るかもしれねえ。お前は引き続き狼煙を炊いて隊士を集めろ」
土方はそう命じると、かがり火も持たずに林の中に消えていった。
何もない闇の中に浮かび上がる青白い光。あれはちょうちんの火には見えないが、土方は引き寄せられていく。光は近づくにつれて三日月型に変わり、二間(約3.6メートル)まで肉薄するとその光が刀から放たれていることに気づいた。暗くて顔までは確認できないが、十中八九下之介に間違いない。局長からは下之介の生死は問わないが、刀は必ず確保するように言われている。
「さすがは尋常ならざる刀だ。蛍みたいに光ってやがる。上中下之介。その刀を置いて行くならば、命まではとらぬが」
「また、浪士組か。しつこい。この刀は亡き恩人の形見の品だ。渡すことはできない」
下之介が立ち会ったあの新垣二郎は剣の腕前は素人同然だった。そのことが下之介の判断を誤らせ、浪士組を侮らせることになった。
刀はいつか清河がいったように淡く青白い光を放っている。闇夜でこんな刀を持っていれば斬って下さいといっているようなものだ。下之介はあわてて鞘に収めた。
「どうした、臆病者。腰の業物は飾りか」と土方が誘う。
下之介が返事もしないのにどこまでも追いかけてくる。息を殺しやり過ごそう。それならば光も見えず、音も聞こえないはず。辺りは静まり返っているが、土方はまだ近くにいるはずだ。十分待ってから動いたほうが良い。
そのとき、うなりとともに肩に何かがたたきつけられる衝撃あった。伏せながら恐る恐る肩に触れると、熱を持っている。斬られてはいなかったが、刀を振った土方の腕があたったようだった。だんだんと間合いが正確になるにつれ、ようやく土方の恐ろしさに気づいた下之介は大声で叫んだ。
「お助けぇ。助けてくれ」
大声を出して少し冷静さを取り戻し、土方が先ほどから闇の中でしきりに話しかけてくるのはなぜか考える。土方は自らの声の反響をたよりに自在に動いているのではないか。だとしたら、音を出さないようにしても、光を漏らさないようにしても意味はない。
下之介は刀を再び抜き、大法螺を吹いた。
「こうなりゃ、自棄だ。北辰一刀流免許皆伝、上中下之介参る」
下之介の叫び声が聞こえた方向に、淡い光が点るのを見ると、土方は考えるよりも体が先に動いた。
一足飛びに跳躍し瞬時に間合いを詰めると、下段に構えているように光る刀だけを闇の中で捉える。妙な構えだが声と光が同一方向にある以上、罠を張っていようがいまいが奴はそこにいる。雑念を捨て、土方は刀を突き通した。
あたりはしんと静まり返り、刀には重い手ごたえだけが残っている。しかし妙だ、重すぎる。さっきからいくら刀を引いても引き抜くことができない。やはり罠だった。刀が深々と刺さっていたのは木の幹だったのである。
枝の間から何者かと目が合い、ようやく気がついた。下之介は木の後ろから声を上げて、あえてこちらの動きを封じるために幹を斬らせたのだ。
下之介は幹に立てかけておいた刀を鞘に収めると、ゆっくりとその場を離れた。刀を引き抜くにはそうとう時間がかかると踏んだ土方は、脇差を抜いて反撃にそなえたが、すでに下之介は遁走してしまった。