文久三年(1863年)八月十八日、京で大きな政変が起こった。尊皇攘夷派の中心勢力である長州藩が堺町御門警備の任を解かれる勅旨が出された。
孝明天皇は尊皇攘夷運動を支持してはいたが、倒幕の意思はなく、朝廷と幕府が良好な関係を維持する公武合体こそ望みであった。それを知る薩摩藩が京都守護職の会津藩と謀り、薩摩系公卿を通じて天皇に働きかけた結果だった。
この日以来、長州藩は京都政界から完全に排除され、三条実美を中心とする長州系公卿グループとともに都落ちした。
翌年、再起を図った長州藩士たちが京に集結したが、御所へ火を放ち、混乱に乗じて天皇を奪回する計画が露見し、元治元年六月五日新撰組に踏み込まれた。これが池田屋事件のあらましである。
もう後がない長州藩は嵯峨天龍寺、山崎天王寺、伏見長州藩邸の三方から直接御所を押さえようとして、会津、薩摩を主力とする幕府軍と衝突した。この禁門の変の敗北によって長州藩は今存亡の危機にある。
芥川宿で下之介を取り逃がして以来、新垣二郎は完全に手がかりをつかめずにいた。二郎は馬にまぐさをやりながら、土方が言っていたことを思い出していた。下之介の妖刀が長州に渡れば恐ろしいことになるといっていた。詳しいことは何も分からないが、長州で張っていれば必ずかかるだろう。しかし長州は倒幕派の中心勢力で、二郎にとっては敵の懐に飛び込むようなものである。
二郎は馬上の人となり、覚悟を決めて長州藩の萩へと向かった。
奇しくも下之介は件の長州藩の萩に到着した頃だった。山道から見ると城下町は深いもやの海に沈んでいるように見える。もやの中からにかろうじて頭を出している天守閣は、まるで無人島のようで頼りない。
山道をずっと下って、もやの中に潜って行く。途中で誰ともすれ違うこともなく、番所に詰めている役人以外、誰とも会わなかった。三十七万石の城下だというのにまったく活気がない。静か過ぎて山道で鳴いていたヒグラシの声がまだ聞こえている。町全体が喪に服してでもいるかのように暗い。
「高杉さんじゃありませんか。僕であります。伊藤であります」
ようやく人の声を聞いた気がした。しかし一体誰に話しかけているのだろう。見たところ話している小男以外誰もいない。
「同じ松下村塾の伊藤俊輔でありますよ。思い出せませんか。いくら僕が足軽の出だからといって話しぐらい聞いてくださいよ。ひどいなぁ」
下之介の自分を指差すしぐさに、伊藤と名乗った男がうなづく。どうやら下之介に話しかけているようだが、こんななれなれしい小男は知らない。
「拙僧は高杉などという名ではない。人違いじゃないのか」
「何いってるのでありますか。そんな頭をしている人は高杉さん以外いませんよ」
下之介はざんぎり頭をなでながら、人を顔でなく頭で見分ける失礼千万な男の顔を眺めた。奥まった目に団子っ鼻、いびつな形のまげ。確かに足軽らしい素朴な顔をしている。
「高杉さん、京からの早飛脚によるとお国の一大事だそうではありませんか。せっかく統一した藩論を佐幕派に牛耳られてしまいますよ。今が起つべき時ではありませんか」
どこにでもまったく人の話を聞こうとしない人というのはいるものだ。誤解が解けそうもなさそうだから、下之介は適当に話を合わせてやり過ごすことにした。
「時期尚早だ。今はその時ではない。拙僧は忙しいので、これにて御免」
「僕だって松下村塾の末席であります。仲間に入れてくださいよ。誰に斬りかかって、天誅を加えれば仲間に入れてくれますか。幕臣でありますか。公武合体派の公卿でありますか。異人でありますか」
血気にはやって伊藤は物騒なことを言っている。もてあました情熱が体を突き動かしているのか、手刀で空を切りながらエアチャンバラを始めた。若者にはしっかりと敵が見えているのだろう。
「どうしたんでありますか。顔が真っ青でありますよ」
思えばこの若者のような勤皇の志士たちを下之介は幾人か見てきた。清河は策謀によってこの国を立て直そうとした。浪士組の連中も異人から国を守りたいという気持ちは同じで、幕府を助けることで実行していた。世間にはもっと大勢いるだろう。だが下之介はただ故郷に帰りたい気持ちだけがあって、それ以外のことは考えられなかった。故郷に帰った後にどうするのかさえも。
「拙僧はいったい何がしたいんじゃろう。世間じゃ朝廷のために異人を追い出そうという尊皇攘夷が叫ばれていたが、いつの間にか尊皇攘夷をしようとしない幕府は倒してしまおうという勤皇倒幕に発展してしまった。世間の流れは速すぎる、とても追いつけないほどに。拙僧はどんどん世間とズレていくようだ」
伊藤は今受けた衝撃の大きさに比例して、大声を上げた。
「高杉さんでも悩むことがあるのでありますね。よくわからないけど、ほっとしました」
「ほっとした?」
「実は僕も世間の流れとおのれのやりたいことにズレを感じていました。ほんとは人斬りよりも金勘定のほうが好きなのであります。」
そう言う伊藤の顔は年相応の明るさがあった。下之介は伊藤と歩きながら半刻(約1時間)ほど話したが、結局伊藤は下之介ことを高杉と勘違いしたまま、下関港に向かう途中で別れた。
「おのれのやりたいことが世間のためにもなるような、そんなズレのない世が来れば良いな」
関門海峡を通る涼風がもやを少しずつ払っていく。薄もやを裂いて一艘の洋式帆船が近づいてきた。港に接舷し荷を降ろし始める。おそらく海峡を往復する船便だろう。早速乗り込もうとした下之介に、待ち伏せしていた新垣二郎が人馬一体となって襲い掛かる。
下之介はとっさに船から離れる。乗ってしまえば、逃げ場がないからだ。しかし山道と違い撒くのは難しいだろう。船が離岸するタイミングで飛び乗るしかない。それまでは逃げ回って時間を稼ごう。
騒ぎをどこから聞きつけたのか、すでに野次馬が沸いている。しめた。この中に紛れ込もう。
「いったい何の騒ぎだい」
「仇討ちらしいよ」
「京の仇を長州で討つと言う奴だな」
「あんた詳しいな」
「あたぼうよ。嫁を質に入れてでも、これだけは見逃せねえ」
「おい、仇が逃げるぞ。とうせんぼしてやれ」
野次馬たちはここでも二郎に肩入れして、下之介の逃げ道はふさがれてしまった。こうなれば少しでも時間を稼ぐまでだ。下之介は土蔵の塀によじ登ると、芝居がかった調子で大喝した。
「この上中下之介、逃げも隠れもせぬ」
逃げ隠れしてたじゃないかと野次が飛んで、場が笑いに包まれる。しかし、二郎は下之介から目を離さない。下之介も睨み返す。
静寂は大きな水音に破られた。下之介が塀を蹴って飛び降りる。二郎は人馬もろとも突進する。勝負が付くと誰もが思った。
だが、あろうことか下之介は踵を返し、港へ向かって走る。さっきの水音は錨が巻き上げられた音。それを待っていたのだ。
船のへさきがゆっくりと動き始める。下之介は桟橋を走り、船端に飛び乗った。二郎も馬で追いすがってきたがもう遅い。
ところが、二郎は馬の歩調を一向に緩めない。まさかと思ったとたん、二郎の馬が飛び上がった。きれいな弧を描いて、馬が飛んでいる。現実離れした光景だったが、すぐに現実の揺れが襲ってきた。船が傾いている。馬ごと飛び乗るなんて無茶をしたからだ。二郎は馬上、下之介に対峙した。
「もう、逃げられないぞ」