大家の奥さんの言い分ももっともだった。しかし長屋の皆に迷惑はかけられない。下之介は本当の理由さえ言うことができなかった。言えば連中は巻き込まれるのも覚悟の上で下之介をかくまうだろう。
「急なことで申し訳ない。わけは聞かないでくれ。」
「川太郎が悲しむよ。それに、分っているのかい。今出てきゃ熊さんとは今生の別れになるんだよ。せめて正月までは居れないのかい。」
下之介は黙って首を振った。奥さんは強い口調で責めたてる。
「だったら熊さん安心さすために、嫁を貰うくらいの甲斐性はないのかい。」
「またその話か。そんな暇はないし、そもそも相手が居りますまい。」
奥さんは下之介の部屋の隅で控えている
「あの子は違うのかい。」
「違います。」
双子のように息ぴったりに下之介と
「いや、待て。名案かも知れぬ。坊主崩れと男装の二人連れでは怪しすぎる。夫婦ならば道中切り抜け易かろう。」
「嫌だ。」
「何もまことの夫婦になるわけではない。ふりじゃ、ふり。」
「夫婦のふりなど、ますます嫌だ。
嫌がる鶴を説き伏せ、気が変わらぬうちにすぐ婚礼が行われることとなった。祝言の用意や旅支度で数日があわただしく過ぎていった。
「出て行く者にここまでしていただいて……」
下之介は胸がいっぱいになり言葉に詰まった。
「なんの、なんの。江戸っ子は祭りが好きだからねえ。祝言に見送りに、ついでに正月まで前倒しでやっちまえばいいよ。」
式場設営の音頭をとっていた大工の八っつぁんが、暗い世相を吹き飛ばすように空元気に振る舞う。
一方、新婦の
「私の祝言のときの、とっておいて良かったよ。」
「こんなきれいな着物、私などにはもったいない。」
「何いってんだい。とても似合ってるよ。これ着て、下之介の鼻をあかしてやんな。
「この祝言はかりそめだから……」
「いいんだよ。人生なんてどうなるかわかりゃしないんだから。嘘から出たまことというじゃないか。」
「さあ、行くよ。」
「あ、待って、まだ気持ちの方が……」
嫌がる
「やはり
「なんだよ。もう尻に敷かれてんのか。」
部屋の外から福郎が茶々をいれ、満場が笑いに包まれた。
熊さんは自分の息子の祝言のように喜んでいる。下之介は嘘を付いていることにいたたまれなくなった。
ここで仲人が高砂を謡うのが通例だが、たっての願いで大家の息子の川太郎が謡う運びとなった。
「高砂や、この浦舟に帆を上げて……」
助けを求めるように川太郎が奥さんの方を見る。まだ幼い川太郎には高砂は難しすぎたようだ。奥さんが小声で続きを教える。
「月もろともに入り汐の、波の淡路の島蔭や近く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり。」
見物人の合いの手が入り、奥さんの助言はだんだん大きく響き、最後は皆で大合唱になっていた。
やがて三々九度の
二度注ぐ振りをし、三度目に酒を注ぐ。二人はゆっくりと三度ずつ口を付けた。江戸っ子は伝統的な作法や手順にこだわらないので、誰かが酒の肴にと焼いているスルメの香ばしい匂いが漂っている。終いには正月用の餅までついでに焼き始めた。
「熊さん、餅だって。食べるかい。」
何も考えず勧める下之介を、福助がたしなめる。
「馬鹿野郎、引導を渡すつもりか。」
祝言は最後まで笑い声の中で幕を閉じた。厳粛な婚礼も、作法も何もあったもんじゃない。しかし下之介は気楽でいい加減なこの江戸っ子たちがたまらなく好きだった。
二人はすぐさま旅装束に着替えた。お色直しではない。今日このまま門出するためだ。祝いの
一刻も早く江戸を出なくてはならない。福郎が同僚の同心たちを食い止めるのにも限度があるのだから。しかし、その前にやっておかねばならないことがある。下之介たちは隅田川沿いを北上した。
土手を走る下之介に
「待てって。少しは嫁を労われ。」
「東海道までの辛抱だ。」
下之介は振り返りもせず答えた。
「東海道なら道が違うだろ。」
「浅草の刀鍛冶のところに寄る。刀が抜けなくなってしまってな。」
「もともとその刀、捨てるつもりなのだろう。鋳潰してしまえばいいんじゃないか。」
下之介が振り返る。
「何故それを早く言わない。」
盲点だった。そんな解決策があるなんて。刀が消滅してしまえば、役人どもに追われることもなくなるだろう。下之介は歩速を緩めた。
芝居小屋や歌舞伎の舞台に寄席、急いでいなければ見てみたいところは沢山あるが、下之介は目移りせずに刀鍛冶を探した。刀が無くなれば江戸を出る必要もなくなる。浅草ならばいつでも来れる。
雷門に程近いところに鍛冶屋を見つけ、刀匠に刀を見せた。煤が染み付いたような赤黒い顔の男だ。
刀匠が刀を抜くため漆塗りの鞘を割ると、中からはさびた刀身が
「この野郎、手入れをさぼっていたな。」
「刀とは、手入れがいるのか。」
「あんた、侍のくせに手入れもしらんのか。」
あきれた顔で刀匠は手入れの仕方を実演してみせた。
「まあ、この丁子油を塗るだけなんだが、まず古い油を落とさにゃならねえ。」
懐から取り出した和紙で峰側から挟み込み、切っ先に向かって拭き取る。打ち粉を付けてもう一度同じ要領で拭き取る。錆びもいっしょに削げ落ち、刀身に輝きが戻ってきた。
「ずいぶんと古い刀だな。直刀? やや内反りか」
刀匠が刀をしげしげと眺める。
「何だこいつは。」
「まだ、何か。」
「焼き入れした跡がねえ。こいつは流星剣だ。」
鶴が耳慣れぬ言葉に聞き返す。
「流星剣? 」
そういえば清河もそんなことをいっていた。
「流れ星(隕石)を叩いて作った刀だ。鍛造するすべのなかった上古の昔は、鉄剣といえばすべてこれだった。三十年刀を打ってきたが、初めて拝んだ。」
刀匠の瞳にまばゆい刀の照り返しが映る。
目釘を木槌で叩いて抜き、鍔と柄板を外し、黒光りする
下之介は読めそうなところだけを繋げて読んでみた。神倭□和□彦□。
「まさかカムヤマトイワレヒコノミコト。」
「神武天皇といったほうがわかるか。」
「いや、分らぬ。」
「今の
「あいにく、私は琉球人でな。」
しかし下之介はなぜ清河が刀を捨てるように遺言したのか、幕府が執拗に狙ってきたのか、ようやく合点がいった。
三種の神器というものがある。剣、鏡、勾玉からなる宝物で、天皇の身分を証明するものだ。三種の神器がなくては天皇は即位の義が行えない。面白いもので、玉璽だったり王冠だったり、世界中のあらゆる王家に同じような役割をする家伝の宝がある。
神器の三つのうち剣だけが失われていて、今御所にあるのは代用品である。平安末期、壇ノ浦において海中に没してから七百年来失われ続けた剣は、なぜ江戸の世に出現したのだろう。
「鋳潰さないのか。」
「鋳潰せるわけがないだろう。」
「お前が刀を鋳潰すために来たんだろうが。じゃあ、どうするんだ。」
「幕府に渡っても、攘夷志士に渡っても、それぞれが都合の良い天皇を擁立するために使われるだけじゃ。」
下之介の名残惜しむ顔が刀に淡く映っている。美しい刀だ。
「とても鋳潰せぬ。この刀は国の始まりから人々の営みを目の当たりにしてきたんじゃ。史学に携わる者ならばまことの値打ちに気づくだろうに。」
ここまで話し続けて、下之介ははっとした。刀匠の前でうかつにしゃべり過ぎていた。
「職人さん、ここまで聞いたことはどうかご内密に。」
刀匠は組んでいた両腕を開いて、顔の強張りを努めて解いて語った。
「刀って奴は持ち主を選ぶもんだ。あんたと巡り会ったことも、刀がそう望んだからだ。どうか刀の声を聞いてやってくれ。」
刀が何を望んでいるか、それがわかるまでしばらくは、自分の腰を仮住まいにしてもらおう。下之介は刀匠が差し出した刀を受けて、帯に
二人は刀匠にお代を払い、人目に付かない勝手口から出て行った。刀の正体を知った下之介と
向かい風が吹いている。枯れたススキが波立ち着物の袖を擦った。行く先に煙が一条立っている。野焼きだろうか。野焼きの季節にはまだ早すぎる。すると野火だろうか。
煙が近づくにつれ、それが追手の放ったものだと気付く。
「
「なんじゃ、お国言葉か。」
「まるで山狩りだ。ここまでするのか。」
下之介は刀を抜き、鉈を振るうようにススキをなぎ払う。
「草薙の剣とはよくいったものだ。」
内反りの刃は人を斬るより草を刈るのに適していた。
炎がすぐそこまで迫る。熱気が肌をあぶり、煙が喉を燻す。下之介は逃げつつ刀を振るう。払い落としたススキを鶴が風下に向かってばら撒く。炎はものともせずススキを燃やし尽くしていく。ついに二人の足元まで炎が迫ったそのとき、枯れたススキが途切れ、目の前に緑が広がった。
「しめた。ちぃぱっぱの茂みだ。」
ちぃぱっぱとは沖縄方言で
ところが霜降り
無事逃げ切った下之介と鶴は背中合わせに死角を庇いながら、一息つく。
まだ歩みを止めるわけにはいかない。刀を手放すその日まで。