蝉時雨が鳴き止まぬ中、質素ながらも風情のある離れに通される。庭には朝顔が咲き、縁側には
よほど疲れたのか
「この柱は何の木か、お前さんなら知ってるんじゃないかい。」
「
「さすが商家だね。武家屋敷ではお目にかかれないよ。」
「何故だ。」
「武士ってのは験を担ぐからね。
下之介は急に静かになった
布団を敷いてやったが、暑いのか
下之介は
急いで起こそうとするが、泥のように眠った
「拙僧は投降する。」
一気に目が覚めた
「よせ。今までだって二人で切り抜けてきたじゃないか。」
「拙僧には策がある。お前さんが拙僧に従った振りをしていて、寝首をかいて捕まえたことにすればいい。さすればお前は……」
「見損なうなよ。私がいつそんなことを頼んだ。お前を売って助かれというのか。」
目の端に光る涙は寝起きだからではないだろう。下之介は
「拙僧とお前とは一蓮托生じゃ。だからこそ後事を託したい。拙僧に何かあったときに刀を捨てて欲しい。これはお前さんにしか頼めないことじゃ。それにどうせ捕まるならば、お前がいいとずっと思っていたんだ。」
気を鎮めてから男装し、下之介の手首を後ろ手に縛り、腰に縄を掛けた。腰紐を
土方が
「それが一番手柄を立てた者の顔か。あの男に感化されたのではないな。」
「まさか。」
「貴様腰のものをどうした。言え。」
役人がすごむ。
「
「おのれ愚弄しおって。
「あの刀は三種の神器の
「な。」
役人は誘導に乗って口を滑らせることはなかったが、下之介は見逃さなかった。その役人の顔色の変化こそがあの刀が三種の神器だと雄弁に語っていることを。
「返すならば
「貴様、なんと畏れ多い。継体天皇の
にわかに役人たちが動揺し始めた。
「ことは重大であり、我らの手に余る。上中
ひとまずお開きとなり、鶴は胸をなでおろす。
「あの男はこれからどうなりますか。」
「まあ、小伝馬町(牢屋敷の所在地)に送られて、それきりだろう。墓を掘り返して確かめられねえからな。」
この時代、古墳を暴くような真似は不敬とされている。役人たちは手出しが出来ず、大坂城の一橋慶喜に伺いを立てた。
大坂城はこのたびの長州征伐の本陣(総司令部)であり、将軍徳川家茂以下、幕府首脳が詰めていた。家茂は病弱で20歳とまだ若く、実権を握っているのは将軍後見職の一橋慶喜である。家茂にはそれも気に入らないし、自分に隠れて御所でこそこそやっていることも気に食わなかった。
フランスの軍服を着た一橋慶喜は、城内を駆け回り各部署を精力的に視察する。軍服はナポレオン3世から贈られたもので、一橋慶喜はたいそう気に入って陣羽織の代わりに好んで着用している。腹心の佐々木只三郎はやっと
「新撰組が上中
「よくやった。して刀は。」
「
うってかわって一橋慶喜はさめた表情に戻る。
「無能め。御所に向かう用意をしろ。すぐにだ。」
三種の神器の一つである
しかし父、徳川斉昭に勤皇思想を叩き込まれた一橋慶喜には、王墓を掘り返せとは指示できるはずもなかった。
一橋慶喜は佐々木の手配した籠で揺られながら、今まで古墳を掘り返した前例がないか頭を巡らせる。上古まで遡ったところで、古事記のある記述に思い当たる。仁賢天皇が皇太子のときに、親の仇である雄略天皇の
皇族であれば掘り返せる。打開策を見つけた一橋慶喜は三種の神器のことを伏せて、古墳調査への協力を皇族に打診してみることにした。
慶応二年七月十五日(1866年8月24日)、佐々木只三郎らが皇太子に随伴して太田茶臼山古墳に到着した。先に到着し、手はずを整えていた土方たちに、張り詰めた空気が流れる。 誰もが幕府と関係が深い輪王寺宮親王(上野寛永寺の貫主)が来ると踏んでいた。13歳とまだ幼く好奇心旺盛とはいえ、皇太子が手を挙げたことは嬉しい誤算だった。幕府にとってこれ以上の人選はない。ゆくゆくは天皇として即位するのだから、まったく問題はないだろう。実際に皇太子は翌年、明治天皇として即位することになる。
古墳の周囲を巡る
影が
皇太子が行ったのは儀礼的なもので、あとは付近の村から駆り出された百姓が掘り進めて行くことになる。皇太子一行は安全のため、すぐに隣の郡山宿(今の大阪府茨木市辺り)に移った。
陣幕が外され、百姓があちこちに穴を掘っていく。もっこで土が運び出され、橋をきしませながら汗だくの男たちが往復する。
たまに土以外のものが掘り出されて歓声が上がる。役人たちが集まって検分すると、たいてい
役人たちはため息をついて、つまらないもののように埋葬品を雑に積み上げた。史学好きの下之介ならばよだれを垂らして喜ぶだろうに、役人たちには宝の持ち腐れだと
三日後、古墳は真夏の木の下みたいに穴ぼこだらけになり、働き通しの百姓はくたびれて抜け殻になった。何度かのぬか喜びの後、古墳に刀は埋まっていないと結論付けられ、下之介の取調べが再開される。
「よくも我々に恥をかかせてくれたな。」
役人によって下之介が乱暴にお白洲に引き立てられる。
「拙僧は
「もう、その手には乗らんぞ。」
襦袢をはだけ、役人は怒りに任せて
「さあ、本当に隠した場所を吐け。」
竹の先を二つに裂いて作られた
下之介は哀願するような目で
「手ぬるい。」
業を煮やした佐々木只三郎が
しかし、耐えられぬほどではない。まだ希望はある。下之介が吐かないかぎり殺されることはないはずだ。
佐々木がにらみつけて言う。
「勘違いしてねえか。これは拷問ではない。牢問(拷問の前段階。要は下ごしらえ)だ。本番はこれからだ。」