自分はこれからどうなってしまうのだろう。
それを考えると高は冷静ではいられない。なるべく考えないように、脱出することだけを考えることにした。
目隠しをされていたが、体が左に引っ張られるような感覚がある。黄色い外車が右折したんだ。
高は曲がる方向を暗記する。
今度は左折。右、左、右、右、左、右、左、右。外車は右左折を繰り返す。脱出されても、容易に家に帰れないように。とうとう暗記できない回数になった。
外車から下ろされてから、隙を見て脱出するのは難しそうだ。後ろ手に縛られた縄と両足首を縛る縄を解いて、家から遠くなる前に走行中の外車から飛び降りるしかない。
縄は両手首に8の字に巻かれ、真ん中の手首の間に大きな結び目ができていた。手を握って指先がつくかつかないかのところにある。これではすぐに結び目を解くことなんてできない。
結び目がなんだ。高は自分が二回も烏丸に同じように両手首を縛られたことを思い出す。あのときは後ろ手ではないし、ゴルディオンの結び目とか言ってカッターで結び目を切ってもらったんだった。自力で結び目を解いたことなんてない。
それでも体をよじり、必死に結び目に爪をかける。手品の練習だってしたんだ、縄抜けだってしてやるさ。
あきらめは死に繋がる。あきらめてたまるか。プロポーズだってまだなんだ。死にたくねえ。
こんなことならプロポーズしておくんだった。シルクハットの中にハトだって仕込んだのに。
二時間たっただろうか、三時間たったろうか。時間の感覚もわからなくなったころ、外車の揺れがおさまりブレーキ音が鳴った。左前のドアが空いたり閉じたりしている。やがて後部座席の左側のドアが乱暴に開けられ、高の縛られた手首を引っ張られた。そのまま車外に引きずり出され、肩に担がれる。目隠しが外されたが、もがいて抵抗を試みてもびくともしない。
「今回の検体は活きがいいな」
どこかで聞いた妙な抑揚のある声だ。声の主以外は誰もいないが、高に話しかけているようではない。食材でも吟味しているような口ぶりだ。
やせ型ではあるが高を担いで楽々と歩いている。歩く振動で服ごしに筋張った肩がぶつかって痛い。着やせしていて見た目よりも屈強な男なのだろう。狡猾な蛇を思わせる顔つき、どこかで見覚えが。わが社の社長マクガフィンの通訳だった男じゃないか。
拉致した理由は、やはり例の事件を高が嗅ぎまわっていたからだろう。社長の通訳ならば高の行動も筒抜けだったに違いない。まさか一連の事件の犯人はこいつか? こいつはどうにも臭い。
そういえば臭い。ドブの臭いがする。だが懐かしい臭いだ。安心する。ドブ川の臭いで安心するぐらい都会は高の第二の故郷になっていた。
そう言えば家が臭いという話を前に烏丸としたっけな。確か下水処理場でも人の迷惑にならないように川の近くにあるって話だ。案外ここも下水処理場なのかも知れない。それならばドブ川の臭いの説明もつく。
蛇顔の通訳が古びた倉庫の前で立ち止まり、施錠を解いて狭いドアから中に入った。肩と壁に挟まれ、背負われた高がくぐもった声を上げる。ほこりが舞っていて鼻の中がむず痒い。目的地に着いたのか蛇顔の通訳は高を雑に降ろす。背中をしたたかに打って声を上げたかったが、猿ぐつわのせいで悲鳴にならなかった。
不憫にでも思ったのだろうか。高は猿ぐつわを外された。
「いってえええええええええええ。いてえんだよ。誰か助けてくれえええええええ」
高の声は広い倉庫内に響いたが、返ってくるのはこだまと妙な抑揚の声だけだった。
「安心しろ。これからもっと痛い目に遭う」
辺りは暗い。電器はついてないようで、外とつながっている大きな換気扇から漏れる光だけが頼りだった。
光のスポットライトの先にもうひとり誰かがいる。共犯者かと思ったが違った。高のように後ろ手に縛られて荒泉信が横たわっている。
「監督っ!」
荒泉は何も答えない。生きてはいるがひどく衰弱している。蛇顔の通訳に監禁されていたのだろう。
どうする。どうすればいい。考えろ。考えるんだ。
足首と後ろ手に縛られた縄は車の中で緩めることに成功した。あとちょっとで縄を解くことができる。あとちょっと。あとちょっとなんだ。何でもいい。蛇顔の通訳の気の引くことを言って、時間を稼がねば。
「さあ、お立合いお立合い。今世紀最大のマジックショーをお見せいたしましょう」
通訳が蛇顔を歪めて、可哀そうな人を見る目で高を見ていた。
もったいつけて自分の口でドラムロールの真似事をする。
「ジャカジャカジャカジャカジャカジャカジャカジャカジャカジャン! ワン! ツー! スリー!」
足首と後ろ手に縛られた縄が解け、高は両手を上げて決めポーズ。倉庫の狭いドアを目指して一目散に逃げ出した。
蛇顔の通訳が唖然としているうちに、狭いドアを出て外へと飛び出す。走りながら尻ポケットから赤ペンを取り出し、ハンカチの切れ端にSOSと走り書きした。追いつかれたときのためだが、あまり考えたくはない。後は場所を書く。ここがどこだか目星はついていた。でなきゃわざわざ目の前で縄を解いて逃げ出したりはしない。
高が拉致されたのは自宅近くのイチョウ並木だ。そして黄色の外車は右左折を繰り返したが上下に傾いたことはなかった。高の住む緑町は関東平野のど真ん中、海抜ゼロメートル地帯。ほとんど坂がない。坂があるのは橋の前くらいだ。このことから導き出される答えは、黄色い外車は緑町を出ていない可能性があるということだ。緑町は川に囲まれた文字通り陸の孤島。緑町から出るには橋を通らねばならず、橋の前には必ず坂がある。坂を通ってないのだから、ここは緑町のどこかである可能性は高い。
ドブの臭いでピンときた。ここは下水処理場だ。緑町にある稼働している下水処理場は一か所だけ。高はハンカチの切れ端に下水処理場の場所を書きこんだ。
ポンプ室のわきを走り抜け、沈殿槽のその先に施錠された門が見えてくる。おあつらえ向きに門前にはあの黄色い外車が停まっていた。
高はすぐに後部座席のドアを開けて中に飛び込む。と後ろから気味の悪い抑揚で声をかけられた。
「お探しのものはコレかな?」
後部座席に落ちていたシルクハットをひっつかみ、黄色い外車から出てきて対峙する。蛇顔の前で車のキーが揺れていた。まるでチロチロと動く蛇の舌のように。
蛇顔の通訳は高が車を運転して逃げるためにキーを探していると思ったようだが、そうではない。探していたシルクハットをひっくり返して、高はドラムロールをだいぶ端折った。
「ジャカジャカジャン。ワン、ツー、スリー」
蛇顔の通訳は先ほどのこともあり身構える。
シルクハットから一羽のハトが飛び出し、空へと解き放たれた。
「ハトには帰巣本能がある。このハトは新聞社の屋上で飼われていたハトだ。伝書鳩だから足に結わいてある筒に入れて、小さなメモ書きくらいなら運ぶことができる。ここの場所を記した特ダネのメモを見て、新聞記者はどう行動するだろうね。今からでも自首したらどうだ?」
ここで高のタネ明かし。
しかし蛇顔は不敵な笑みを崩さない。再び高を縛り、倉庫まで運びながらぼそりと呟いた。
「日米地位協定」
妙なアクセントもなく聞き取れたが、高は意味がわからなかった。
「何を言っているんだ?」
「東京の空は日本の空ではない。米軍横田基地のために横田進入管制区があり、民間機がこの空域を飛ぶためには許可がいる。羽田空港への発着便がぐるぐると迂回しているのはこういうわけだ」
「そうじゃない。日米地位協定のことを詳しく知りたいわけじゃない」
蛇顔は心底バカにした顔をして話を続けた。
「日本では公務中の米兵は裁けない。日米地位協定で米兵に対してだけ、日本側に第一次裁判権がないと定められているからだ。公務外でも基地に逃げ込んでしまえば同じさ」
爬虫類じみた顔に喜色を浮かべてブランドものの黒スーツの襟首からネックレスのようなものを引っ張り出してみせる。ドッグタグと言って兵隊が身に着ける物だ。ネックレスに繋いである楕円形の金属板には、アルフレッド・ニシキと刻印されている。
絶対に捕まらない自信からか、ニシキは洗いざらい白状しだした。
「ブタの解体を知ってるか。吊るして血を抜くんだ。人間の場合は血液を売ることができるから、そんなもったいないことはしない。」
ニシキは荒泉信の首筋に、太い針のついたチューブを2本も突き刺した。荒泉のうめき声がひときわ大きくなる。高は目を覆うことすら出来ない。
一本のチューブがみるみる赤く染まっていった。心拍にあわせて血液が抜き取られていく。荒泉はぐったりとして動かない。そして、意識を失いながらもまだ痙攣していた。
もう一本チューブから透明な還流液が荒泉の頚静脈に注入されていく。その横で、ニシキは自分の首に手を当てていた。高はその光景を見てようやく理解する。彼は今、これまでの殺しを実演して見せているのだ。目の前にいる荒泉という男を使って。いや、それだけではない。
「人間の体には捨てるところがない。移植不可能な脳以外、臓器はすべて売却できる。まあ、私を追い詰めそこねたマヌケな映画監督の脳みそなんて、元からいらないが」
彼は人間を解体するつもりなのだ。家畜のように。この男は。
それがわかったとき、高はこれまでにないほど強烈な吐き気に襲われた。胃の中には何も入ってないはずなのに。吐き気が収まるまで、高はその場にうずくまっていた。
その間、ニシキは黙って待っている。
何とかしなければと思うが、足は震えるばかりでまったく力が入らなくなった。監督を助けるにはどうしたらいい。考えろ。まずは情報を聞き出せ。高は勇気を奮い起こし、現実逃避をやめた。
やがて、高は口を開く。話さねばならないことがある気がしたから。それはおそらく、この怪物の正体についてだった。
「君とは上野で会ったね。尋常ならざる怒り方だったから、強く印象に残っている。君はマクガフィン社長の通訳だ」
ニシキは首を縦に振った。
高は続ける。そういえば、彼の本名は日系の苗字だ。高はどうでもいいこと口走る。
「君の父親か母親は日本人じゃないのか。なんで同じ日本人にこんなひどいことをする!」
それでもなお、ニシキは否定の言葉を口にしようとする。
「同じ日本人だと? 知ったような口を利くな! お前が父の一体何をわかるというんだ。お前たち日本人がわが国に戦争なんてしかけるから、日系移民の父は強制連行されたんだぞ。父はノルマンディの前線に送られた。戦後は人に言えない汚い仕事をやらされた。それでも父は望郷の念をずっと持っていた。馬鹿なヤツだよ。私は違う。私はアメリカ人なんだ。アメリカで生まれれば、人種が何であれアメリカ人の戸籍になる。私はアメリカ人なんだ」
「アメリカ人ならなんでまだ汚い仕事をしている。君も父親と同じように忠誠心を示そうとしているんじゃないのか」
それを聞いた途端、ニシキの顔つきが変わった。驚きと恐怖が入り混じったものへと。
「忠誠心ではない。愛国心だ。私はアメリカ人なんだ」
ニシキの恐れている真実に、彼の最も隠したがっている事実に近づいていた。もうすぐすべてが明らかになる。
なぜか高は絶望の色さえ浮かべ始めた。
いくらなんでも遅すぎる。十分時間かせぎはできたはずだ。なのに烏丸は助けにこない。まさか日米地位協定の高い壁にひるんで、あきらめてしまったのか。烏丸は上から圧力がかかって、事件に及び腰になってはいる。それでも、高は信じていた。
もしかしたらあの白いボサボサの鳩は新聞社屋上の鳩舎までたどり着けなかったのかもしれない。高は小さい頃飼っていた鳩が戻ってこなかったことを思い出した。
頼む。今度こそ帰ってきてくれ。
時間がない。このままでは監督は生きたまま解体されてしまう。その後は高の番だろう。
だがそれよりも早く、高は言った。
「それなら君はなぜ日本に来た」
「決まっている。大きな事件を隠れ蓑にして日本人を殺し、結び目を残すためだけだ。それを合図に医療団体が新鮮な血液と臓器を買いに来る。日本人の尊厳を踏みにじる。それが私の復讐」
その時、待ち構えていたようにパトカーのサイレンが鳴る。
警官に先んじて、烏丸が倉庫内に飛び込んだ。
「犯人の自白いただいた。特ダネだ」
高は胸をなで下ろして、文句をつける。
「遅いよ」
「すまんな。何しろ下水処理場まで行ってたからな。お前がいないもんだからヒヤヒヤした」
烏丸の後に続いた警官たちによって、監督は無事保護されて近い病院に緊急搬送された。高は烏丸に肩を借りながら話す。
「ここは下水処理場じゃないのか?」
「惜しかったな。下水処理場の跡地だ。米軍に払い下げられる予定らしい」
三人の警官に取り押さえられ、ニシキは呪詛を吐いている。
「呪われろ、日本人。お前たちは私の愛国心を笑えない。お前たちも必ずそうなる」
不気味な予言を残してニシキは連行された。
七年後。
高は家族で住めるような少し広めの家に引っ越していた。
原爆の夢は見なくなり、枕を高くして眠ることができている。今日もすっきりと目覚めて、テレビを見ながら朝食を待っている。テレビは七年間に及んだ裁判が終わり、死刑が執行されたアルフレッド・ニシキのニュースだった。死刑判決が出た後、不自然なほど早く死刑は執行された。
これで終わったとは思わない。高は烏丸と協力して事件の調査を続けるつもりだった。ニシキに罰を押し付けて、トカゲの尻尾切りした関係者たちを許しはしない。
朝食を作っていた美砂が息子を起こしてきてと頼む。
玄関から風が入ってきた。
戸が少し開いている。
高は子供部屋に入って、息子を起こそうとした。
寝ている息子のベッドの枕元に二つ緑色のひもがぶら下がっている。一つはただの片結び、もう一つには三重の片結びの結び目がある。
「飛男、しっかりしろ。目を開けてくれ」
高が必死に息子の体を揺すると、飛男は目を開けて言った。
「おはよう、お父さん」
高は飛男の無事を確認すると、急いで玄関から外に出た。誰もいない。
家の中に戻り、呆然としてベッドに吊ってある二本の結び目を見ていた。
そして思い出したように烏丸に電話をかける。
「烏丸、俺だ。あのときのお前の気持ちがようやくわかったよ。すまん。すまん、俺は事件の調査から身を引く」