下之介がまず驚いたのは相手の得物である。刀に大して詳しくない下之介でさえ、すぐに気付くぐらいその刀は奇妙な形をしていた。
日本刀というのは本来外側に反っている。人を斬るためだけに特化していく過程でたどり着いた形なのだ。それが相手の刀は内側に反っている。刀というよりは農具に近い。鎌やナタのような刃をしている。
それよりも驚いたのは、笠の下から出てきた顔が見知った人物だったことだ。
「清河さん、拙僧です。上中下之介です」
「上中……知らんな」
多くの勤皇の志士や幕臣の間を渡り歩いている清河ならば、一度会っただけの浪人無勢をいちいち憶えていないことも無理からぬことだった。下之介は自分が侍として認められていないから、清河が知らないそぶりをみせるのだと思い、せいいっぱい侍らしくしゃべった。
「拙僧は京で清河殿とともに酒を酌み交わし、熱く語り合った者にござる」
清河は名前を思い出さなかったが、顔は憶えていてくれたようだ。
「ああ、あの侍もどきの。しかし、ござるはいかんよ、ござるは。君」
「ござる」という語尾は公式文書などで用いられる硬い言い回しで、今でいえば文語体で話しているようなものである。清川は大笑いですっかり怒気を失って、刀を鞘に納めた。
「己のことを拙僧という癖が抜けきっておらぬな。どれ拙者がひとかどの侍にしてやろう。ついて参れ」
清河は以前にした約束を憶えているのかいないのか、今度こそ下之介に武士とはなにかを教えてくれるようだ。
東海道の起点である日本橋を渡り、今でいうところの中央通りを直進する。交差する靖国通りに入り、道なりに西へ向かう。一之橋を渡って麻布に入る。ここにある清河の泊まっている宿に通された。今日は他の客はいないようで、下之介は清河の対面に座る。二人の前に馳走が運ばれてくる。
「さて、君が故郷の……」
「肥前佐賀」
「そう、その肥前佐賀に帰らなかったところをみると、勤皇の使命に目覚めたのだな」
下之介が肥前佐賀に入ることもできず、江戸の佐賀藩邸でも門前払いされたことを正直に話すと、清河はさっそく失望した。
「君を受け入れようとしない故郷に、一体何の未練があるというのか」
「誰だって故郷には帰りたいものです。清河さんにも故郷がおありでしょう」
清河はまるで自分の出身地にコンプレックスでもあるかのように、一瞬躊躇した。
「僕の故郷は庄内だが、君のような女々しい感傷に浸ることはない。どうせ浪人の身となったなら、その命を国のために捧げようとは思わないのか。脱藩してまで勤皇の志士になるものが後を絶たないというのに」
脱藩とは自分の属する藩から脱走し、自ら主君を持たない浪人となることである。元の主君を見限る行為であることから大罪とされ、藩から捕殺命令が出される。当然故郷に帰ることはできない。
日本は元禄期以降、庶民にいたるまで白米が行き届くほど豊かになっていったが、新しい領地の増えない下級武士はそれに反比例して困窮していった。特に家督を継げない無役の次男、三男坊は家では腫れ物扱いされ一生飼い殺しだった。強制的にニートをさせられるのである。それが嫌ならば下之介のように出家するか、武道か学問に打ち込んで頭角を現し養子に貰われるしか道はない。不満を持った若いニート侍達がすがることのできた唯一のものが、尊皇攘夷という思想だったことがこの時代の不幸だろう。
天皇を尊び、夷人を討ち払う。ペリーの脅しに屈して開国した徳川幕府に見切りをつけ、天皇を政体の中心に据えて外国人を追い払おうという考えである。
確かに巷には勤皇の志士が溢れかえっている。下之介も京でそういう熱気をじかに感じていたが、それにほだされて外国人の一人でも斬ってやろうという感情にはならなかった。
「そりゃ、わけのわからぬ連中がやって来たら誰だって不安になるさ。でもね、よそ者の気持ちも考えなきゃいかん。拙僧も江戸ではよそ者だったからよく分かる。誰かが受け入れてあげなくてはよそ者はいつまでたってもよそ者じゃ」
「国と国との問題を君の身の上といっしょにするな。ふざけているなら帰ってくれ」
清河に一喝されても下之介はどこ吹く風で、鰹のたたきを肴に酒をあおっている。
「そうじゃの。そろそろお暇させてもらおう」
「君を侍にしてやろうというのに帰る奴があるか」
「いや、清河さんが帰れといったんじゃが」
清河が下之介を尊皇攘夷の道に引き込もうとするのには訳がある。清河は長州志士らと横浜の外国人居留地を焼き討ちにし、さらに外国人を殺傷して外交問題で幕府を苦境に陥れようと画策していたからだ。清河は幕臣を騙して幕府の金で浪士組を結成したが、一部の隊士が離反して京都に残り新撰組を結成したのは想定外だった。半人前の下之介でも手駒として頭数に入れたかったのである。後ろ盾になってくれるような大藩の出身であったなら、下之介のような一兵卒を自ら勧誘することもなかっただろう。
「しかし君は言葉も可笑しいし、往来も右側を歩く。侍としての礎がなっていない。佐賀の出ならば、
「佐賀にいたのは五つ(数え年、満年齢で四歳に相当)までだ。以来二十五年間比叡山で暮らしていたから
「比叡山でも書ぐらい読めよう」
あの閉鎖的な比叡山で蔵書を燃やされたことを思い出して、ふつふつと鎮火したはずの怒りが再燃する。
「
「日本外史を読んでいて、なぜ尊皇攘夷に興味を示さない」
日本外史は頼山陽によって書かれた幕府非公認の日本史である。勤皇思想が折りこまれたこの書物は、勤皇の志士たちのバイブルになっていく。
「はて、日本外史に尊皇攘夷論など書かれておったかな。拙僧は歴史の読み物として読んでおったから、分からぬ」
「君は凡庸だ。口先ばかりで、この国難になんら行動しようとしない。凡庸ならば考えることは先見の明がある者にまかせて、手足となって行動すべきだ」
押しても引いても箸にも棒にも掛からない。清河は下之介を一人前の尊皇攘夷の志士にしてやろうと思っていたが、さすがに根負けして同志に引き込むことをあきらめた。
「このような危急存亡のときに、かたくなに田舎に引っ込みたいというなら、僕はもう何もいわぬ」
清河は言葉通り議論をいっさいせず、下之介を客としてもてなした。例え議論で熱くなっても感情的にはならない。どうやら清河とはそういう男らしい。佐賀藩に入る方法まで考えてくれ、佐賀を脱藩した男がいる場所を教えてもらった。そいつに頼れということらしい。
「何から何までかたじけない」
「いや、僕も少し言い過ぎた。君は凡庸だが、良いところもある。例えば刀の趣味は良い」
下之介の刀は漆塗りの鞘で、清川のそれと同じだ。刀の柄や鍔の形も良く似ている。こういうシンプルなつくりが清河の好みのようだ。
「そういえば清河さんの刀はえらく変わっとりますな。拙僧に見せてくだされ」
「やすやすと見せるわけにはいかぬな。この太刀は持ち主を何度も代える呪われた妖刀だからな。流星から鍛えた内反り片刃刀。二尺八寸(約85センチ)の刀身は燐光を放つ。まさに王者の太刀にふさわしい代物だ」
製鉄する技術がまだなかった時代、人類が始めて手にした鉄はこういった宇宙からもたらされた隕石だった。清河の刀はそういう骨董品の類なのだろう。
「はははは。光ったり、人を祟ったりする妖刀ですか。清河さんも存外ホラ話がお好きなようで」
清河は急に神妙な顔になり、刀を見せてやるからと下之介を表に連れ出した。なぜ刀を見せるだけのために、屋外に連れ出されたのか理由はすぐに分かった。自分の下宿を血で汚したくなかったのだ。
目に殺気を漲らせ、刀を抜きながら言い放つ。
「さあ、刀を見せた。君も抜け」
下之介は刀をぶつけて斬り合い寸前までいったのに、懲りずに同じ地雷を踏んでしまった。もはや避けることはできない。観念して鯉口を切る(鞘に添えた左手の親指で鍔を押し上げ、刀を抜きやすくする動作)。鍔と鞘の間から覗くのは美しい刃文(刀身の刃に沿って現れる波状の模様)ではなく、整った木目。慌てて鞘に戻す。
今まで一度として刀を抜かなかった下之介は、ようやく今刀屋に木刀をつかまされたことに気付いた。
「どうした、抜け」
抜けば
下之介は刀を抜いた。腰から刀を鞘ぐるみ引き抜いて、往来に放り投げた。
「お前さん相手に刀はいらぬ」
無論はったりである。もともと木刀なのだから、有っても無くても状況は変わらない。下之介は清河の性格では丸腰の相手を斬れないと踏んでいる。はたして吉と出るか凶と出るか。
清河は下之介の挑発に、苦い顔をしながら葛藤している。その間に娯楽に飢えた見物人たちが集まってきた。
「おい、喧嘩だ。喧嘩」
「なにやってんだ。早くやれよ」
「おっ、素手でやるのか。侍にしては粋じゃねえか」
清河も下之介の刀の横に鞘ぐるみ引き抜いた刀を置いた。外野から歓声があがる。その声を皮切りに二人の殴り合いが始まった。
汚い野次や声援が遠ざかっていく。下之介の意識はここで飛ぶ。