透明な白の存在意義について
三淵沙苗について(Le papillon qui demande sang)
■三淵沙苗について
見渡す限り。僕の目に映るそこは、間違いなくどこまでも、世界と呼ばれるそれである。
人は世界にしか存在できず、また、世界は人がいるから存在できる。ギブアンドテイク。ウィンウィン。持ちつ持たれつ。いろいろ言い方はあるが、とにかく人は世界と支えあう。そういう事だ。
しかし、存在するというのはそんなにもいいものなのだろうか。僕は僕だが、しかし同時に僕ではない。僕という肉。秋津修吾という僕の名前。僕にはそれが僕であるという実感はまるでなかった。
みんな、よくああも自信満々に人生渡っていけるな。僕は常々周りの人を見ると、そう思う。みんなには確かな道が見えているようだけど、僕にとっては綱の見えない綱渡りをさせられているようでしかない。人生とは無慈悲だね。世界とは残酷だ。
そういえば、友達の一人がいいことを言っていた。
三淵沙苗。僕とは少し特別な間柄。
彼女は、ポニーテールの茶髪。その前髪を指で梳きながら、その言葉を口にした。
「確かな道なんて私達にも見えてないよ。ただ先人の真似をしてるだけ。将来どうなるかはわからないっていうよりは、将来どうするのかわからないって言ったほうが近いとは思うけど」
僕はよくわかっていなかったが、なるほどと頷いた。話を理解されないっていうのは、なかなか失礼だ。エチケットに欠く。だからわかった振りをした。
僕と三淵沙苗。沙苗が特別な関係になったのは、二年生になったばかりの頃。体育の授業中のことだ。
クラスの誰かが膝を擦りむいた。大した物じゃない。もうその怪我が誰の物であったかは覚えていないけれど、血が少しだけ出ていたのを覚えている。
女子の誰かが(これまた覚えていない)その怪我に絆創膏を貼り、あたら若い青春の光景を繰り広げていた。僕はそれを横目に、授業を抜けだした。これで終わり頃に帰ってくればサボれるだろう。今ならみんな、彼らに注目しているし、僕は体育って嫌いだ。汗って不潔だし。青春の汗とか、いい汗とか、反吐が出る。
まあそんなわけで、僕は体育をサボり、校舎裏に向かった。
「……ッ」
校舎には凹みというか、袋小路的な場所が存在していて、その中から、何か押し殺したような、吐息に近い声が漏れてきたのを僕の耳はキャッチした。耳聡い。耳がいい。地獄耳。どう呼んでもいいけれど、僕は耳聡いって表現が一番好き。
覗きこんでみると、奥で、体操服を着た女生徒が、壁に向かって背を丸くし、モゾモゾと動いていた。子供の頃から心の奥でそっと育んできたいたずら心を引っ張りだし、気配を消して歩み寄った。
「なにしてんの」
しゃがみこんで声をかけると、彼女は驚いた風に振り返る。彼女はハーフパンツに手を突っ込んで、何かをしていたらしい。頬も赤いが、僕を認識した瞬間、顔から血の気が引いていった。顔面蒼白。青くなってるのか、白くなってるのか。両方か。
僕は彼女がしている行為にはいまいちピンと来なかったが、彼女の顔にはピンと来た。犯罪者だったら一一〇番しているところだ。
僕のクラスメイト。三淵沙苗。茶髪のポニーテールに、男子生徒の目を引く大きな乳房。大きなアーモンド型のつり目は彼女の凛々しさを補助する役目にきちんと収まっている。長い手足に小さな頭は見栄えがよく出来上がっており、人を見た目だけで判断することに定評がある男子高校生に取っては格好の餌だ。
「マジで何してんの? ズボンに手を突っ込んで。はしたないよ。女の子が外で」
「……察してくれると」
「ああ。じゃあ僕が思ってた通りなんだ。なんでこんな所で自慰を? 三淵さん」
「……血が」
「ち? 血液?」
頷く彼女。「淫血症って、知ってる?」
「知らない。ごめんね不勉強で」
「血を見ると、無性に、その……興奮するというか」
「へえ! 珍しいフェチもあったもんだね。で、さっき擦りむいてた彼の血を見て、ムラムラして、こんな所で」
「まあ。有り体に言うと……」
彼女は身を捩らせていた。
下腹部を切なそうに、内股でもじもじと。
「そう。邪魔してごめんね。それじゃ」
僕は立ち上がって踵を返し、背中を見せる。外で自慰行為をしてはいけないという法律は――まあ知らないけどありそうだな――僕にとってどうでもいいことだ。脅迫して、無理矢理というシチュエーションが好きだと友達は言っていた。けど犯罪だよそんなことしたら。現実でやっちゃ許されないさ。
「ま、待って」
僕は彼女が性的欲求の発散が円滑に行えるようにと気を効かせたはずだったのに、彼女は僕の足首を掴み、見上げて、何かを懇願するように目を潤ませていた。
「い、行かないで」
「どうして?」
「知られたから……」
「言いふらしたりしないさ」
「鍵をかけないと、信用できない」
「信用してほしいなあ。僕は女性を脅す趣味なんてないんだ」
そもそも趣味らしい趣味は特に持っていないけれど。
「お、脅しじゃなくて……その。体、貸して」
「いいよ」
「えっ」
「大したもんじゃないけど、別に貸すくらいなら」
「あ、うん……あり、がとう」
なんで言う通りにしてあげたのに、ちょっと困惑してるんだろう。
「あなたって、その。独特ね……」
「うん? ありがとう」
褒められてないだろうけど、まあいいや。
「どうしたらいい? 教えてくれないかな。僕、こういうのは初めてで」
「え、いや、えっと。す、好きにして」
「好きに、ねえ……」
そう言われても困った。
僕は再びしゃがみこんで、彼女の肩に手を置き、そっと口寄せをする。
「んぅ……ッ」
彼女の体が強張る。目も閉じた。多分、初めてなんだろう。
しかし、急に何かを思い出したみたいに目を開いて、僕の頭に手を回し、もう密着しているというのに取り込もうとする様に抱き寄せる。そして、僕の唇を犬歯で噛んだ。僕の肉は、痛いという信号を出し、僕も痛いと思った。じんわりと血の味がする。彼女はそれを飲んでいる。コクコクと液体を喉の奥に流しこむ音が聞こえる。そうか。淫血症って言ってたな。血、大好きなんだな。
彼女は僕の血を味わっているみたいで、僕も、彼女の唇の柔らかさと、歯の舌触り。舌のしなやかさを楽しんだ。僕が舌を突き出すと、彼女は一瞬びくりと引くのだが、しかしどういう気持ちか知らないけれど、経験の少なさが妙に出るなあという感想を抱いたのを覚えている。
唇が離れると、彼女は上気した頬と、力の抜けた気だるそうな半目で、僕を見つめていた。僕の肉は性的な興奮を覚えているようで、陰茎の隆起を感じた。肉体の神秘。精神の興奮と肉体の興奮は一致しない。
「脱がしてもいい、のかな」
「いいよ……」
僕は彼女の体操着をまくり上げ、ブラジャーを露出させる。白いレースとご対面。負けないくらい白い肌が下に見える。それもまくり上げ、色素の薄い乳首を少しだけ口に含む。彼女の肢体が跳ねた。次いで、頭を胸の谷間にそっと置いてみる。皮膚の向こうから聞こえてくる心臓の鼓動は激しい。
頭をゆっくり振ると、くすぐったそうに彼女も身を捩るのがすこしだけ面白いと思った。
さて、どうかな。僕は彼女のハーフパンツと、腹の間に手を差し込み、秘部にそっと指を這わせる。
「――ん、ぁっ。……ちょ、っと……」
彼女は僕の手を退けようと、自らの手で僕の胸を押すが、力がなさすぎて白々しい。
濡れたその奥に、中指がどんどん入っていく。温かくて、奥に僕の指を取り込もうとする貪欲さ。準備はもう万端の様に思えた。
「いいかな。もう――っていうか、いまさらなんだけど。俺、ゴム持ってないよ」
「それ今言うのって卑怯だと思うんだけど……。でも、別にいいよ。気にしないで」
気にするよ。常識的に。僕は責任持てるほどキミを知らないんだから。
それに、僕は一生。子供なんて持つ気はない。特に理由はないけど。
「いいから。一応外に出してくれれば」
「わかったよ」
彼女の有無を言わせない迫力に、僕は少しだけ退きそうになってしまった。
僕は彼女を立たせ、ハーフパンツとショーツをまとめて脱がせ、片方の足に引っ掛けたまま片足を持ち上げて、その間に体を置き、僕もズボンを玉の下程度まで降ろして、勃起したそれを外気に晒した。外でそれを出すという事をあまりしたことがないので、その涼しさには少しだけ感動した。
僕は竿を持ち、先端を彼女の結合部へと添えて、押し込む。
「あ――ッ!! ぐ、うぅ……!」
苦悶でシワが走る彼女の顔。痛みを堪えているらしい。僕の一番熱い部分が、彼女の秘肉がビクビクと痙攣しているのを感じている。そして、とろりと垂れる、赤い筋。
「キミ、処女だったんだ」
「そ、そうだけど……。結構、痛いねこれ……」
「その尻の軽さで処女だと思わなかった」
「ひ、否定できないけど……。別にいいでしょ……今まで一人でして、バレなかったんだか、ら……ぁ」
「なら別に僕が行くのを止めることはなかったんじゃないかな?」
「いいの。ま、ちょっと……いいなとは思ってたし」
「光栄だね。どういう所がか聞いてもいいかい?」
「その冷静な感じ。冷たい感じ。平坦な感じ。私、結構自分勝手だし」
「使い勝手がよさそうってことかい?」
彼女はほくそ笑むように鼻を鳴らした。「ま、そうかも」そして、はにかむような笑顔。「ごめん。ちょっと首借りるよ」
僕の首に手を回し、肩に顎を置いて、首の皮膚を甘咬みしだした。
「うお」ちょっとびっくりして、僕は少しだけ飛び跳ねる。
そして、彼女は僕の首を思い切り噛んだ。
「いっ――!?」
バレたらいけないと、僕は声を無理矢理押し殺した。ちょっと危なかった。
そして、おそらく血が出たのだろう。彼女はちゅーちゅーと僕の首筋を吸い始める。
「一言言ってほしかったよ……」
「ごめん」短くそれだけ言うと、また夢中で首を吸い始める三淵さん。
「じゃ、僕の方も動くよ」
「りょーかい……」
ゆっくりと腰を動かし、僕と彼女の肉が同一の感覚を得るまで、トンボで地面を慣らすように気遣った。大丈夫かなと思ったら少しだけスピードを挙げる。
「ん……、あ、あぁ……や、っ」
小さく漏れる声。どんどんスピードを上げ、釘を打つみたいに彼女の中へと、僕の肉を打ち付けていく。
乱暴な音がする。ぴちゃぴちゃと水たまりに雨が落ちる様な音が。情緒的だと思えてきて不思議だ。彼女と僕が鳴らしているんだな。
余計なことを考える余裕と、スペースは、だんだんと脳からなくなっていく。僕が僕という人格を忘れ、彼女と向かい合うことだけにエネルギーが使われているのがわかった。
「あ、すご――っ。あ、んんっ! ごめ、わたし、そろそろぉ……ッ!」
「僕もだ。首から手を、離して」
尻に力を込めて、我慢し、彼女から陰茎を引き抜き、校舎の壁に射精した。どくどくと
「はあ……っ。はあ……疲れた……」
「僕はなんか、首が痛いよ……」
どれだけ強く噛んだんだろう。っていうか、なんか首がひんやりする。唾液が風にさらされているんだろう。
彼女は、ブラジャーを下げて、体操着を降ろして、ズボンとショーツを上げた。僕も急いでズボンを上げる。片方が服着ててこっちだけ全裸って、ちょっと恥ずかしい。
「ごめんね。またこういうこと、付き合ってくれると嬉しいな」
「ああ。三淵さんがいいなら。――っていうか、僕でいいの?」
「沙苗でいいよ。修吾くん。修吾くんは、まあ。悪くなかったし?」
悪くない、が明確に何を指すのかはイマイチわからないが、僕と沙苗はこういう感じに親しくなって、そういう友達になった。
僕の友人に、セミと呼ばれる男がいる。彼はアダ名こそ珍しい部類に入るが、普通な男だった。おしゃべりというわけではなく、だからと言って寡黙でもなく。普通に人生を楽しんでいて、普通に人生の苦難にぶつかっていた。
「お前、三淵さんとなんかあったか」
昼休み。僕は購買で買ってきたカレーパンをかじり、セミ君と向かい合っていた。きちんと梳いた、眉まで届く平均的長さの茶髪。左耳のピアスは、妹にせがまれお揃いにしているんだとか。制服は普通な学生の常として着崩しており、少し地味だが整った顔立ちをしている。
彼は自分で作ったらしい弁当を食べており、その中でも唐揚げが特に美味しそうだ。
「なんか、っていうのは?」
僕にはさっぱりわからない。しかし彼もわかっていないらしく、「なんつーかなあ」と頭を掻いて、その思考をなんとか言語へ落とし込もうと頑張っている。
「ああ、なんかさ。お前ら二人って、距離近づいた? 感じするんだよ」
「そうかな。普通だよ。学校で必要なことしか話してないし」
「話自体はそうかもしれないけど、こう、この指がお前らだとするだろ?」
と、彼は左右の人差し指を立てて、その指をくっつくかくっつかないかの距離まで近づけた。
「ノートとか、勉強教えてもらってる時、これくらいの距離感だぞ」
「それは気づかなかったな……。近づきすぎてるね。ありがとう、気をつけるよ」
人にはそれぞれ適正な距離がある。心の距離と体の距離は一致する。
なんて言ったかな。そうだ、パーソナルスペース。他人の接近を許せる距離。肩がくっつくまで行くと、よっぽど親しくないと不快に思う。
……僕と彼女って、親しいのかな。ただ一度性行為をしただけ――って。親しくならないとダメなんじゃないのか。常識的に。
僕は少し考えてみる。本気とまでは行かない。考えるというのは大抵の場合、考えた振りだ。
もう少し、彼女と仲良くなろう。僕はそう決めて、ケータイでメールを飛ばした。
『今日の放課後、遊ぼう』
シンプルだけど、他になんて言っていいかわからなかった。
だって、『セックスだけしてる関係なんて不健全だからお互いを知ろう』なんて、普通の高校生は言わないだろう?
返事は昼休み終了間際に返ってきた。
『いいよ。じゃあ、校門で待ってる』
と、僕に負けず劣らず簡素な返事。
僕の知る限り、女性は顔文字絵文字がかなり多彩なのだが、彼女はそういうのがない。まあ、珍しい、のかな。
■
授業が終わって、彼女はそそくさと教室から出て行った。
それを横目に見送り、教科書をカバンに詰めていると、セミくんが「追わなくていいのか?」とドアを指さす。おそらく、というか確実に、沙苗の事を言っているのだろう。僕は苦笑して、「そういうのじゃないって」とごまかした。実際そういうのなんだけど、まあ、特別言いふらす物でもなし。
「じゃ、僕はこれで。バイバイ、セミくん」
「おう。また明日」
互いに手を振りあって、僕は先に教室を出た。
廊下を普通の顔して歩き、下駄箱で靴を履き替え、校門へ。授業が終わったばかりだと、人は結構多い。その中に紛れて会おうというのだろう。少し辺りを見回すと、すぐに沙苗を見つけた。
「やあ」
門柱に寄りかかっていた彼女に、僕は片手を挙げ、声をかける。
「来たね。――で、どこでするの?」
「……うん?」
「え?」
僕は『ああ、確かに僕達の間柄なら、そうだよな』と頷いた。しかしそうじゃない。そうじゃないのだ。人差し指でこめかみを掻きながら、「今日はそういうつもりじゃないんだ」と、少し小さな声で言った。今考えると、僕の企みは少し陳腐すぎるのではないかと。今更自信がなくなった。
「そういうつもりじゃない、って……。じゃあ何?」
「いや。ほら、不健全じゃないか。その、体しか知らないっていうのも」
「……修吾くんって、そういうこと気にする人だったんだ?」
「普通はそうだろう?」
「『普通』はね。――その言い方だと、秋津くんは普通っていうセオリーがそうだからそうしてるって感じに聞こえるよ?」
「まあいいじゃないか。えっと、僕の家でも行く? それとも、どこか……」
「秋津くん。すぐ血は出せる?」
僕は首を横に振る。出せるわけがない。人間、涎以外の体液はそう簡単に出せないさ。
「じゃ、ちょっとレンタルビデオ店寄ってから、秋津くんの家に――って。秋津くん、家にご両親は?」
「僕は一人暮らしなんだ」
「へえ。どこ?」
「近いよ。歩いて一〇分くらい」
「じゃ、寄ってからでも大丈夫ね。行きましょ、修吾くん」
彼女は門柱から背を離し、髪を靡かせ、さっさと歩いて行ってしまう。僕はそれを追いかけ、隣に並んだ。その時、ふとセミくんの言葉を思い出し、二人の距離を測ってみた。――確かに、肩と肩が触れ合いそうだ。意識しなくてこれなんだから、普段もこれくらいになっているだろう。やっぱりちょっと気をつけないといけない。こういう所からバレるんだ。
「……どうかした?」
僕が肩を見ているのがわかったらしく、彼女は長い睫毛を羽ばたかせるみたいにまばたきをして、僕の頬を見ていた。
「ん、いや。今日友達から、僕らの距離が近いって言われて」
「……確かにそうかも。でも、別にいいんじゃない? あ、修吾くんそういうの気にする人? 結構可愛い所あるんだね」
「僕は気にしないさ。でも、沙苗がバレるのを嫌がるんじゃないかと思ってね」
「なんで?」
「なんでって……」この子はもう僕達の出会いと関係性を忘れてしまったんだろうか。
僕は周囲を確認する。もう学校から離れたので、同じ学校の生徒はいないようだ。「キミは授業中に血を見て興奮して、自慰をして僕にバレたっていう経緯があるだろ」
「あ、あんまそういうの口にしないでよ……恥ずかしいし……っていうか、外だし。誰かに聞かれたりしたらイヤじゃん……」
彼女は顔を赤くして、俯いた。さすがにここまで明け透けだと恥ずかしいようだ。僕も恥ずかしい。外でこういう話は、少し品がなかった。
「そういう諸々、バレたくないんだろ? 僕らって別に恋人とかではないんだし」
「まあ、そうだけど。隠すより恋人同士って言っちゃった方がいいんじゃない?」
「……いいの? 迷惑だと思って、隠してたんだけど」
「そっちこそ。好きな子とかいないの?」
「いないよ」というか、クラスの女子と話した記憶があまりない。積極的に話しかけにいかないからな。「じゃあ、そういう事でいいかな」
「うん。別にいいよ。それなら、いろいろ不都合もないでしょ。下手に関係を隠すより、血の事もバレないし」
それもそうか。二つ隠すより一つだけ隠したほうが、バレる確率は全然違う。誰しも秘密はひとつだと思いたがる。
■
彼女がレンタルビデオ店で借りたのは、なんとスプラッター映画だった。殺人鬼がただただ人を殺していき、主人公がそれに抗うという、テンプレートな内容の物。売りはその血と肉の描写らしい。
それをるんるん気分丸出しで胸に抱え、彼女は僕についてくる。
僕はあまり、スプラッター映画というものに馴染みがない。というか、多分ギリギリ苦手の線を踏んでいる。
「あ、ブルーレイで借りちゃった……。修吾くんの家って、ブルーレイデッキある?」
「あるよ」振り返らずに答える。
「よかった。やっぱり、画質がいいほうがいいものね」
その声は弾んでいる。よっぽど好き、なんだろう。だって淫血症(ヘマトフィリア)なんだし、しょうがない。
「ああ、ここだよ。ここ」
そう言って、僕は目の前のマンションを指差した。沙苗も僕と視線を重ねると、僕が家だと言った場所が信じられないのか、彼女は真顔で僕が住んでいる集合住宅を見つめていた。
「す、すごい高級マンションね……。何階建て?」
「三〇階、だったかな」
近隣住民から受けが悪いらしい茶色の外壁に白のラインが走ったマンション。僕達はその自動ドアをくぐると、フロントの女性が「おかえりなさいませ」と頭を下げてくれた。僕はそれに「どうも」と返し、自動ドア前のキーロックパネルに鍵を差し込み、回す。開いた先はエレベーターホール。その中に四基あるエレベーターの内、一つへと乗り込んだ。
匣が登っていく音だけが静寂を包み込んでいる中、沙苗がその静寂に一石を投じる。
「もしかして修吾くんって、ボンボン?」
「その言われ方は好きじゃないけどね。まあ、多分」
「一人暮らしってことは、一人で住んでるんでしょ?」
「そうだね」
「あ、一五過ぎた。半分より上なんだ。ご両親は?」
「父さんは僕が小さい頃に離婚して、それっきり。母さんは仕事。ここは実家だけど、滅多に帰ってこないよ」
「お仕事? でも帰ってこないって、そんなに忙しいんだ」
「そこまで忙しくはないと思うよ。ま、男だね」
「え」
二〇階に到着し、扉が開く。また驚いている彼女を放り、僕は一足先に出て、外から扉を抑え、「出ないの?」と首をかしげた。
慌てて出てくる彼女。僕が扉から手を離すと、エレベーターは口を閉ざし、落ちていった。
「……え、っと。聞いてもいい、話?」
「別にいいよ。じゃなきゃ話さない。って言っても、大した事じゃない。ちょっと家庭環境が上手くいってないだけで。母さんは今頃別の所で男と暮らしてるよ」
「……いいの? それで」
「いやあ、別に」
どうでもいい。血なんて繋がってても、結局は赤の他人なんだから。
家族という義務はそれなりに果たしてもらっている。だから、別にどこで何をしようが、問題がないのだから何もない。
「た、高いね!」
彼女は話題に困ったのか、廊下の外を指差し、曖昧な笑みを浮かべていた。困ってますと言っている様な物だ。僕は「気にすることなんて無いのに」と言って、「いい景色でしょ」と話を放り投げる。気を使わせてしまったようだ。それはつまり、嫌な話だということだ。――親子のコミュニケーションがないことは、そんなに嫌な話なんだろうか。僕にとっては無いことが常だったから、よくわからないや。
「ランドマークタワーが見える……。修吾くん。今度、登りに行こっか」
「ああ。構わないよ」
そんな話をしている間に、僕が住んでいる部屋の前にたどり着いた。
鍵を開け、彼女を中に招き入れる。真っ直ぐ伸びるフローリングの廊下。奥に一つ。まばらにいくつかの扉があるだけの、簡素な室内。彼女は腰を曲げて、片足を挙げローファーを脱いだ。伸びる黒いパンストに包まれた足。黒い膜の下にある白い肌のコントラスト。彼女は遠慮がちに「おじゃまします……」と呟いて、フローリングに足を乗せた。
僕も続くようにローファーを脱ぎ捨て、彼女を奥のリビングに案内した。
二〇畳ほどのそこは、中央に白いソファ。窓際にテレビと、自分で言うのもなんだが、小奇麗にまとまっていると思う。
「なんか、モデルルームみたい」
沙苗の印象は褒めているのかどうか、微妙なラインだが、僕は「綺麗好きなんだ」と言って、床にカバンを置いた。沙苗もその隣にカバンを置き、部屋の端に並べられた本棚へ。
「本、漫画、DVD……」
本棚に収まっている物を呟く沙苗。三つ並べられた本棚には、それぞれが詰まっている。僕が集めてきたコレクションだ。
「うわ、これ小学生の頃男の子の間で流行ってた漫画だ。あ、こっちはこの前の映画……。教科書でしか見たこと無いような小説。――ジャンルがすごいバラバラだけど……」
「物語が好きなんだ。これでも結構うるさいよ」
「へえ……。いいなあ」
どう返したらいいかわからなかったので、「ありがとう」と返してみた。
「じゃ、さっそく観よっか。これ」
と、彼女はさきほど借りてきたスプラッター映画を取り出し、満面の笑み。
少しだけ下がった僕のテンションになど気づかず、早くプレイヤーを準備しろと急かされ、テレビの下にあるプレイヤーにブルーレイをセット。
そして再生。
「コーラとかない? ポテチとか」
「キミ結構勝手だな……」別に構いやしないけど。「僕は甘いモノが嫌いでね。コーラは常備してないんだ」
「ふうん。ま、いっか。今度来る時は持ってこよっと。もしくは、買っといてくれてもいいよ?」
「ははっ。考えとくよ」
そうこう言ってる内に、始まった。
オープニングで、主人公とその恋人が楽しそうにデートをしていた。そして後日。恋人が惨たらしく殺される。主人公は復讐を誓い、殺人鬼を負うが、その途中でどんどん死体が転がっていく。僕は途中で退屈になって、ぼんやりとしていた。
眠ってもよかったが、マナーってもんがあるだろう。だから寝なかった。
すると、彼女がもじもじと、尻の置く場所をちょこちょこ移動しだす。なんだろう、と思ったけれど、すぐにわかった。
「……キミって、簡単な女だよな」
「な、何を失礼な事を」
「スプラッター映画の作り物でも興奮するなんて……いや、ちょっと面白いよ。キミにとって、スプラッター映画はAVみたいな物なんだね」
彼女は再び、顔を赤くした。妙な所でウブだ。その恥じらいのラインがわからない。
「――ごめん。修吾くん」
なんのことだ、と訊こうとしたら、彼女はソファから降り、床を四つん這いで進み、僕の足の間に入る。
そして、僕のズボンのチャックをゆっくりと降ろし、開いた窓に手を突っ込んで、パンツの隙間から、まだ硬くなっていない僕の物を取り出し、指先で弄び始めた。
だんだんと血を取り入れ膨らんでいき、最硬度に達した辺りで、彼女はそれを口にふくむ。妙に艶やかな彼女の頬肉が亀頭に当たる。それとは違う、硬い歯の感触。粘っこく、何かを絡めるみたいに陰茎を這う舌。それらを頭ごと上下させ、僕の頭には幾重もの快楽の糸が舞った。
「っ……。沙苗って、結構、大胆というかなんというか……」
僕の陰茎から口を離し、手でしごきながら「んっ……いや、これでもちょっと、その。抵抗はあるんだけど……」と、目を逸らす。
「目を見てよ。沙苗。きちんと」
「ダメ……その、恥ずかしくって」
「キミは普段、人の目を見て話すタイプじゃないか」
「こ、こういう時は少し違うよ……」
どんどん彼女の顔が赤くなる。もう耳まで赤い。僕の精神が、それを楽しいと感じていた。そして、頭を撫でながら、「今更だろ。キミが今更、僕に何を恥ずかしがるのさ」囁くようにそう言った。
「修吾くんって……結構、サドなんだね」
「そう、かな? イヤだった?」
「いいよ。悪くないから、好きにして」
私もそうするから。
そう言って彼女は、再び僕のを口に含み、頭を上下に振り、刺激を始める。
「うっ……ぐ……」
腰が浮きそうになるのを、僕はなんとか押さえつけながら、彼女の頭を見ていた。綺麗な髪だ。清流を思わせる。茶髪だから、夕焼けに反射する川の流れ。僕はそれをすくい取ろうとするかのように、再び撫でた。
びくりと反応する彼女。けど、それでも一心不乱に口を動かす。蛇のように這う舌。艶やかな頬肉。それらも僕の快楽の要因となっているが、それよりも彼女の口の温かさが心地よかった。
そして、下腹部に何か、熱い物が込み上げてくるのがわかって、僕は上擦った声で、「出る……っ」と言った。
なのに、沙苗は口を離さず、僕の精液が一気に沙苗の口内へと放出された。
「んぅ……っく。――っく……」
飲んでいる。僕の精神が驚きを表していた。いやそもそも、口淫をされた段階で充分驚いたのに、それを飲むというのだから。
「そこまでしなくてもいいのに」
「ちょっとは喜んでくれてもいいんじゃないかな……。サービスだよサービス。痛いでしょ、血を出すのって」
へへ。と、少年のように歯を見せて爽やかに笑ってみせた。彼女の頬に手を添え、親指で唇の端を拭ってやる。
「涎、垂れてた」
「あ、ありがと……」
床にしゃがみこんでいた彼女の脇に手を入れて、体を持ち上げ、僕の膝に座らせた。対面座位の体勢。
彼女のリボンを外し(フック式になっていた。いちいち結んでいるのかと思ってた)、ブラウスのネクタイを一つ一つ外し、ブラジャーを顕にした。黄色地に、オレンジ色の花があしらわれたそれを、たくし上げて乳房を露出させる。
「前にした時もそうしてたけど……ブラジャーの外し方、知らないの?」
「キミとが初めてなんだから、知ってるわけないだろ?」
「そうなの? AVとかって、ブラジャー外す所は映さないの?」
「さあ。どうだったかな……。僕はあんまり、意識して見たことはないから」
「ふうん。……じゃ、私外すから。見ててね」
そう言って、彼女はブラジャーを元の位置に戻してから、ブラウスを床に脱ぎ捨て、背中に両手を回し、ホックを取った。
「次は修吾くんが外してね」
「わかったよ」
顕になった彼女の乳房に手を添え、できるだけ優しく触った。
「ん……っ」
漏れる吐息。沙苗は僕の頭に手を回すと、首を噛んだ。一回目の傷がまだ残っているので、前回より痛みが少なく、楽に血が出た。ちゅーちゅーと啜る音が聞こえ、僕も彼女の胸をこねながら、耳にキスをした。わざと音を立てる為、少し肌を吸う。
「ふ……っ。んん……!」
興奮がこみ上げてきているのだろう。だんだん彼女の声が大きくなってきた。
「ね、そろそろ……」
首から口を離し、彼女は立ち上がると、スカートを脱ぎ、パンツも脱いで、裸になった。きちんと手入れがされているのか、整った薄めの陰毛が僕の目の前に現れた。当たり前のことではあるが、服を着ている時と着ていない時では、違って見える。人の心を覗きみたりすることを丸裸にするなんて言ったりするが、上手いことを言ったものだ。
丸く突き出したバストに、くびれたウエスト。丸々としたヒップ。僕は立ち上がって、彼女をそっとソファに寝かせて、彼女の中へ入ろうとした。
「あっ」
そうだった。僕は大事なことを忘れていた。
近くに放ってあった僕のブレザーから財布を取り出し、さらにその中からコンドームを取り出した。
「忘れてなかったんだ」
上気させた顔で、コンドームの封を破っている僕を見上げる沙苗。
「当たり前だろ。ちょっと買う時、恥ずかしかったんだ」
すこし手間取りはしたが、なんとか装着できた。
ゴムに包まれた先端を、彼女の結合部へとあてがい、そのまま腰に力を入れ、一気に侵入した。
「あっ……来たぁ……!」
嬉しそうに言う彼女。中がきゅっと締まり、僕の背筋が泡立つ。彼女の反応はどこまでも正直だ。
ふと、挿入で一瞬だけ気が抜けてしまったのか、僕の耳に悲鳴が届く。テレビでは殺人鬼が誰かを殺しているシーンが流れている。僕は一瞬そちらを向いてしまい、沙苗から目を離した。
僕の頬に、沙苗の手が添えられ、無理矢理に沙苗と目を合わせることになった。
「失礼でしょ。こっちを見て」
「ああ……ごめん。あれ、消さない?」
テレビを指さす僕。それに対し、沙苗はゆっくりと首を振った。
「そんなことより、いいから動いてよ」
返事の代わりに、ゆっくりと動き始めた。ゴム越しに感じる彼女の最も奥の感触に、僕の肉体が震え出す。
「あぁ……んん!」
彼女の声が。熱が。僕は釘でも打ち付けるみたいに、彼女の中を掘り進めた。
往復する度に溢れ出す蜜。滑りが増して、まるで彼女か僕が溶け出しているような錯覚に陥った。
「そこ……っ、もっと奥ぅ……っ」
白くなっていく頭。そこには唯一、甘える様な彼女の声だけが響いた。温かさと、柔らかさに溺れる。苦しくない海の底。彼女の胸に飛び込んだ。密着。くっついていない場所なんてなくなるように。僕と彼女の汗が入り混じる。
「ダメ……」
僕の耳元に、彼女の白々しい拒否の言葉。何がと聞くまでもない。人は快楽に対して、一度拒否のスタンスを取る。
「私、もう……っ!」
次の瞬間。彼女の中が、急激に締まった。
「っ……!!」
僕も、それに引きずられるみたいにして、絶頂へと到達する。頭に一瞬の空白が出来て、その空白を吐き出すように、僕は彼女の中で達した。
「はぁ……はぁ……。なんだか、ひどく疲れたよ……」
僕は彼女と繋がったまま、やけにけだるい体を持ち上げる。セックスが終わると、僕と彼女の汗が入り混じった湿り気が妙に気になったのだ。
「私も……。ちょっとしたら、晩御飯でも食べに行こっか。それとも、何か作ってあげよっか」
まだまだ虚ろな目を向けてきて、僕は頷いた。
「何か、ガツンと来る物を頼むよ……」
そういえば、誰かの料理を食べるのって、初めてだな。
僕はもう一度、彼女にキスをした。
「お前、三淵さんとなんかあったか」
昼休み。僕は購買で買ってきたカレーパンをかじり、セミ君と向かい合っていた。きちんと梳いた、眉まで届く平均的長さの茶髪。左耳のピアスは、妹にせがまれお揃いにしているんだとか。制服は普通な学生の常として着崩しており、少し地味だが整った顔立ちをしている。
彼は自分で作ったらしい弁当を食べており、その中でも唐揚げが特に美味しそうだ。
「なんか、っていうのは?」
僕にはさっぱりわからない。しかし彼もわかっていないらしく、「なんつーかなあ」と頭を掻いて、その思考をなんとか言語へ落とし込もうと頑張っている。
「ああ、なんかさ。お前ら二人って、距離近づいた? 感じするんだよ」
「そうかな。普通だよ。学校で必要なことしか話してないし」
「話自体はそうかもしれないけど、こう、この指がお前らだとするだろ?」
と、彼は左右の人差し指を立てて、その指をくっつくかくっつかないかの距離まで近づけた。
「ノートとか、勉強教えてもらってる時、これくらいの距離感だぞ」
「それは気づかなかったな……。近づきすぎてるね。ありがとう、気をつけるよ」
人にはそれぞれ適正な距離がある。心の距離と体の距離は一致する。
なんて言ったかな。そうだ、パーソナルスペース。他人の接近を許せる距離。肩がくっつくまで行くと、よっぽど親しくないと不快に思う。
……僕と彼女って、親しいのかな。ただ一度性行為をしただけ――って。親しくならないとダメなんじゃないのか。常識的に。
僕は少し考えてみる。本気とまでは行かない。考えるというのは大抵の場合、考えた振りだ。
もう少し、彼女と仲良くなろう。僕はそう決めて、ケータイでメールを飛ばした。
『今日の放課後、遊ぼう』
シンプルだけど、他になんて言っていいかわからなかった。
だって、『セックスだけしてる関係なんて不健全だからお互いを知ろう』なんて、普通の高校生は言わないだろう?
返事は昼休み終了間際に返ってきた。
『いいよ。じゃあ、校門で待ってる』
と、僕に負けず劣らず簡素な返事。
僕の知る限り、女性は顔文字絵文字がかなり多彩なのだが、彼女はそういうのがない。まあ、珍しい、のかな。
■
授業が終わって、彼女はそそくさと教室から出て行った。
それを横目に見送り、教科書をカバンに詰めていると、セミくんが「追わなくていいのか?」とドアを指さす。おそらく、というか確実に、沙苗の事を言っているのだろう。僕は苦笑して、「そういうのじゃないって」とごまかした。実際そういうのなんだけど、まあ、特別言いふらす物でもなし。
「じゃ、僕はこれで。バイバイ、セミくん」
「おう。また明日」
互いに手を振りあって、僕は先に教室を出た。
廊下を普通の顔して歩き、下駄箱で靴を履き替え、校門へ。授業が終わったばかりだと、人は結構多い。その中に紛れて会おうというのだろう。少し辺りを見回すと、すぐに沙苗を見つけた。
「やあ」
門柱に寄りかかっていた彼女に、僕は片手を挙げ、声をかける。
「来たね。――で、どこでするの?」
「……うん?」
「え?」
僕は『ああ、確かに僕達の間柄なら、そうだよな』と頷いた。しかしそうじゃない。そうじゃないのだ。人差し指でこめかみを掻きながら、「今日はそういうつもりじゃないんだ」と、少し小さな声で言った。今考えると、僕の企みは少し陳腐すぎるのではないかと。今更自信がなくなった。
「そういうつもりじゃない、って……。じゃあ何?」
「いや。ほら、不健全じゃないか。その、体しか知らないっていうのも」
「……修吾くんって、そういうこと気にする人だったんだ?」
「普通はそうだろう?」
「『普通』はね。――その言い方だと、秋津くんは普通っていうセオリーがそうだからそうしてるって感じに聞こえるよ?」
「まあいいじゃないか。えっと、僕の家でも行く? それとも、どこか……」
「秋津くん。すぐ血は出せる?」
僕は首を横に振る。出せるわけがない。人間、涎以外の体液はそう簡単に出せないさ。
「じゃ、ちょっとレンタルビデオ店寄ってから、秋津くんの家に――って。秋津くん、家にご両親は?」
「僕は一人暮らしなんだ」
「へえ。どこ?」
「近いよ。歩いて一〇分くらい」
「じゃ、寄ってからでも大丈夫ね。行きましょ、修吾くん」
彼女は門柱から背を離し、髪を靡かせ、さっさと歩いて行ってしまう。僕はそれを追いかけ、隣に並んだ。その時、ふとセミくんの言葉を思い出し、二人の距離を測ってみた。――確かに、肩と肩が触れ合いそうだ。意識しなくてこれなんだから、普段もこれくらいになっているだろう。やっぱりちょっと気をつけないといけない。こういう所からバレるんだ。
「……どうかした?」
僕が肩を見ているのがわかったらしく、彼女は長い睫毛を羽ばたかせるみたいにまばたきをして、僕の頬を見ていた。
「ん、いや。今日友達から、僕らの距離が近いって言われて」
「……確かにそうかも。でも、別にいいんじゃない? あ、修吾くんそういうの気にする人? 結構可愛い所あるんだね」
「僕は気にしないさ。でも、沙苗がバレるのを嫌がるんじゃないかと思ってね」
「なんで?」
「なんでって……」この子はもう僕達の出会いと関係性を忘れてしまったんだろうか。
僕は周囲を確認する。もう学校から離れたので、同じ学校の生徒はいないようだ。「キミは授業中に血を見て興奮して、自慰をして僕にバレたっていう経緯があるだろ」
「あ、あんまそういうの口にしないでよ……恥ずかしいし……っていうか、外だし。誰かに聞かれたりしたらイヤじゃん……」
彼女は顔を赤くして、俯いた。さすがにここまで明け透けだと恥ずかしいようだ。僕も恥ずかしい。外でこういう話は、少し品がなかった。
「そういう諸々、バレたくないんだろ? 僕らって別に恋人とかではないんだし」
「まあ、そうだけど。隠すより恋人同士って言っちゃった方がいいんじゃない?」
「……いいの? 迷惑だと思って、隠してたんだけど」
「そっちこそ。好きな子とかいないの?」
「いないよ」というか、クラスの女子と話した記憶があまりない。積極的に話しかけにいかないからな。「じゃあ、そういう事でいいかな」
「うん。別にいいよ。それなら、いろいろ不都合もないでしょ。下手に関係を隠すより、血の事もバレないし」
それもそうか。二つ隠すより一つだけ隠したほうが、バレる確率は全然違う。誰しも秘密はひとつだと思いたがる。
■
彼女がレンタルビデオ店で借りたのは、なんとスプラッター映画だった。殺人鬼がただただ人を殺していき、主人公がそれに抗うという、テンプレートな内容の物。売りはその血と肉の描写らしい。
それをるんるん気分丸出しで胸に抱え、彼女は僕についてくる。
僕はあまり、スプラッター映画というものに馴染みがない。というか、多分ギリギリ苦手の線を踏んでいる。
「あ、ブルーレイで借りちゃった……。修吾くんの家って、ブルーレイデッキある?」
「あるよ」振り返らずに答える。
「よかった。やっぱり、画質がいいほうがいいものね」
その声は弾んでいる。よっぽど好き、なんだろう。だって淫血症(ヘマトフィリア)なんだし、しょうがない。
「ああ、ここだよ。ここ」
そう言って、僕は目の前のマンションを指差した。沙苗も僕と視線を重ねると、僕が家だと言った場所が信じられないのか、彼女は真顔で僕が住んでいる集合住宅を見つめていた。
「す、すごい高級マンションね……。何階建て?」
「三〇階、だったかな」
近隣住民から受けが悪いらしい茶色の外壁に白のラインが走ったマンション。僕達はその自動ドアをくぐると、フロントの女性が「おかえりなさいませ」と頭を下げてくれた。僕はそれに「どうも」と返し、自動ドア前のキーロックパネルに鍵を差し込み、回す。開いた先はエレベーターホール。その中に四基あるエレベーターの内、一つへと乗り込んだ。
匣が登っていく音だけが静寂を包み込んでいる中、沙苗がその静寂に一石を投じる。
「もしかして修吾くんって、ボンボン?」
「その言われ方は好きじゃないけどね。まあ、多分」
「一人暮らしってことは、一人で住んでるんでしょ?」
「そうだね」
「あ、一五過ぎた。半分より上なんだ。ご両親は?」
「父さんは僕が小さい頃に離婚して、それっきり。母さんは仕事。ここは実家だけど、滅多に帰ってこないよ」
「お仕事? でも帰ってこないって、そんなに忙しいんだ」
「そこまで忙しくはないと思うよ。ま、男だね」
「え」
二〇階に到着し、扉が開く。また驚いている彼女を放り、僕は一足先に出て、外から扉を抑え、「出ないの?」と首をかしげた。
慌てて出てくる彼女。僕が扉から手を離すと、エレベーターは口を閉ざし、落ちていった。
「……え、っと。聞いてもいい、話?」
「別にいいよ。じゃなきゃ話さない。って言っても、大した事じゃない。ちょっと家庭環境が上手くいってないだけで。母さんは今頃別の所で男と暮らしてるよ」
「……いいの? それで」
「いやあ、別に」
どうでもいい。血なんて繋がってても、結局は赤の他人なんだから。
家族という義務はそれなりに果たしてもらっている。だから、別にどこで何をしようが、問題がないのだから何もない。
「た、高いね!」
彼女は話題に困ったのか、廊下の外を指差し、曖昧な笑みを浮かべていた。困ってますと言っている様な物だ。僕は「気にすることなんて無いのに」と言って、「いい景色でしょ」と話を放り投げる。気を使わせてしまったようだ。それはつまり、嫌な話だということだ。――親子のコミュニケーションがないことは、そんなに嫌な話なんだろうか。僕にとっては無いことが常だったから、よくわからないや。
「ランドマークタワーが見える……。修吾くん。今度、登りに行こっか」
「ああ。構わないよ」
そんな話をしている間に、僕が住んでいる部屋の前にたどり着いた。
鍵を開け、彼女を中に招き入れる。真っ直ぐ伸びるフローリングの廊下。奥に一つ。まばらにいくつかの扉があるだけの、簡素な室内。彼女は腰を曲げて、片足を挙げローファーを脱いだ。伸びる黒いパンストに包まれた足。黒い膜の下にある白い肌のコントラスト。彼女は遠慮がちに「おじゃまします……」と呟いて、フローリングに足を乗せた。
僕も続くようにローファーを脱ぎ捨て、彼女を奥のリビングに案内した。
二〇畳ほどのそこは、中央に白いソファ。窓際にテレビと、自分で言うのもなんだが、小奇麗にまとまっていると思う。
「なんか、モデルルームみたい」
沙苗の印象は褒めているのかどうか、微妙なラインだが、僕は「綺麗好きなんだ」と言って、床にカバンを置いた。沙苗もその隣にカバンを置き、部屋の端に並べられた本棚へ。
「本、漫画、DVD……」
本棚に収まっている物を呟く沙苗。三つ並べられた本棚には、それぞれが詰まっている。僕が集めてきたコレクションだ。
「うわ、これ小学生の頃男の子の間で流行ってた漫画だ。あ、こっちはこの前の映画……。教科書でしか見たこと無いような小説。――ジャンルがすごいバラバラだけど……」
「物語が好きなんだ。これでも結構うるさいよ」
「へえ……。いいなあ」
どう返したらいいかわからなかったので、「ありがとう」と返してみた。
「じゃ、さっそく観よっか。これ」
と、彼女はさきほど借りてきたスプラッター映画を取り出し、満面の笑み。
少しだけ下がった僕のテンションになど気づかず、早くプレイヤーを準備しろと急かされ、テレビの下にあるプレイヤーにブルーレイをセット。
そして再生。
「コーラとかない? ポテチとか」
「キミ結構勝手だな……」別に構いやしないけど。「僕は甘いモノが嫌いでね。コーラは常備してないんだ」
「ふうん。ま、いっか。今度来る時は持ってこよっと。もしくは、買っといてくれてもいいよ?」
「ははっ。考えとくよ」
そうこう言ってる内に、始まった。
オープニングで、主人公とその恋人が楽しそうにデートをしていた。そして後日。恋人が惨たらしく殺される。主人公は復讐を誓い、殺人鬼を負うが、その途中でどんどん死体が転がっていく。僕は途中で退屈になって、ぼんやりとしていた。
眠ってもよかったが、マナーってもんがあるだろう。だから寝なかった。
すると、彼女がもじもじと、尻の置く場所をちょこちょこ移動しだす。なんだろう、と思ったけれど、すぐにわかった。
「……キミって、簡単な女だよな」
「な、何を失礼な事を」
「スプラッター映画の作り物でも興奮するなんて……いや、ちょっと面白いよ。キミにとって、スプラッター映画はAVみたいな物なんだね」
彼女は再び、顔を赤くした。妙な所でウブだ。その恥じらいのラインがわからない。
「――ごめん。修吾くん」
なんのことだ、と訊こうとしたら、彼女はソファから降り、床を四つん這いで進み、僕の足の間に入る。
そして、僕のズボンのチャックをゆっくりと降ろし、開いた窓に手を突っ込んで、パンツの隙間から、まだ硬くなっていない僕の物を取り出し、指先で弄び始めた。
だんだんと血を取り入れ膨らんでいき、最硬度に達した辺りで、彼女はそれを口にふくむ。妙に艶やかな彼女の頬肉が亀頭に当たる。それとは違う、硬い歯の感触。粘っこく、何かを絡めるみたいに陰茎を這う舌。それらを頭ごと上下させ、僕の頭には幾重もの快楽の糸が舞った。
「っ……。沙苗って、結構、大胆というかなんというか……」
僕の陰茎から口を離し、手でしごきながら「んっ……いや、これでもちょっと、その。抵抗はあるんだけど……」と、目を逸らす。
「目を見てよ。沙苗。きちんと」
「ダメ……その、恥ずかしくって」
「キミは普段、人の目を見て話すタイプじゃないか」
「こ、こういう時は少し違うよ……」
どんどん彼女の顔が赤くなる。もう耳まで赤い。僕の精神が、それを楽しいと感じていた。そして、頭を撫でながら、「今更だろ。キミが今更、僕に何を恥ずかしがるのさ」囁くようにそう言った。
「修吾くんって……結構、サドなんだね」
「そう、かな? イヤだった?」
「いいよ。悪くないから、好きにして」
私もそうするから。
そう言って彼女は、再び僕のを口に含み、頭を上下に振り、刺激を始める。
「うっ……ぐ……」
腰が浮きそうになるのを、僕はなんとか押さえつけながら、彼女の頭を見ていた。綺麗な髪だ。清流を思わせる。茶髪だから、夕焼けに反射する川の流れ。僕はそれをすくい取ろうとするかのように、再び撫でた。
びくりと反応する彼女。けど、それでも一心不乱に口を動かす。蛇のように這う舌。艶やかな頬肉。それらも僕の快楽の要因となっているが、それよりも彼女の口の温かさが心地よかった。
そして、下腹部に何か、熱い物が込み上げてくるのがわかって、僕は上擦った声で、「出る……っ」と言った。
なのに、沙苗は口を離さず、僕の精液が一気に沙苗の口内へと放出された。
「んぅ……っく。――っく……」
飲んでいる。僕の精神が驚きを表していた。いやそもそも、口淫をされた段階で充分驚いたのに、それを飲むというのだから。
「そこまでしなくてもいいのに」
「ちょっとは喜んでくれてもいいんじゃないかな……。サービスだよサービス。痛いでしょ、血を出すのって」
へへ。と、少年のように歯を見せて爽やかに笑ってみせた。彼女の頬に手を添え、親指で唇の端を拭ってやる。
「涎、垂れてた」
「あ、ありがと……」
床にしゃがみこんでいた彼女の脇に手を入れて、体を持ち上げ、僕の膝に座らせた。対面座位の体勢。
彼女のリボンを外し(フック式になっていた。いちいち結んでいるのかと思ってた)、ブラウスのネクタイを一つ一つ外し、ブラジャーを顕にした。黄色地に、オレンジ色の花があしらわれたそれを、たくし上げて乳房を露出させる。
「前にした時もそうしてたけど……ブラジャーの外し方、知らないの?」
「キミとが初めてなんだから、知ってるわけないだろ?」
「そうなの? AVとかって、ブラジャー外す所は映さないの?」
「さあ。どうだったかな……。僕はあんまり、意識して見たことはないから」
「ふうん。……じゃ、私外すから。見ててね」
そう言って、彼女はブラジャーを元の位置に戻してから、ブラウスを床に脱ぎ捨て、背中に両手を回し、ホックを取った。
「次は修吾くんが外してね」
「わかったよ」
顕になった彼女の乳房に手を添え、できるだけ優しく触った。
「ん……っ」
漏れる吐息。沙苗は僕の頭に手を回すと、首を噛んだ。一回目の傷がまだ残っているので、前回より痛みが少なく、楽に血が出た。ちゅーちゅーと啜る音が聞こえ、僕も彼女の胸をこねながら、耳にキスをした。わざと音を立てる為、少し肌を吸う。
「ふ……っ。んん……!」
興奮がこみ上げてきているのだろう。だんだん彼女の声が大きくなってきた。
「ね、そろそろ……」
首から口を離し、彼女は立ち上がると、スカートを脱ぎ、パンツも脱いで、裸になった。きちんと手入れがされているのか、整った薄めの陰毛が僕の目の前に現れた。当たり前のことではあるが、服を着ている時と着ていない時では、違って見える。人の心を覗きみたりすることを丸裸にするなんて言ったりするが、上手いことを言ったものだ。
丸く突き出したバストに、くびれたウエスト。丸々としたヒップ。僕は立ち上がって、彼女をそっとソファに寝かせて、彼女の中へ入ろうとした。
「あっ」
そうだった。僕は大事なことを忘れていた。
近くに放ってあった僕のブレザーから財布を取り出し、さらにその中からコンドームを取り出した。
「忘れてなかったんだ」
上気させた顔で、コンドームの封を破っている僕を見上げる沙苗。
「当たり前だろ。ちょっと買う時、恥ずかしかったんだ」
すこし手間取りはしたが、なんとか装着できた。
ゴムに包まれた先端を、彼女の結合部へとあてがい、そのまま腰に力を入れ、一気に侵入した。
「あっ……来たぁ……!」
嬉しそうに言う彼女。中がきゅっと締まり、僕の背筋が泡立つ。彼女の反応はどこまでも正直だ。
ふと、挿入で一瞬だけ気が抜けてしまったのか、僕の耳に悲鳴が届く。テレビでは殺人鬼が誰かを殺しているシーンが流れている。僕は一瞬そちらを向いてしまい、沙苗から目を離した。
僕の頬に、沙苗の手が添えられ、無理矢理に沙苗と目を合わせることになった。
「失礼でしょ。こっちを見て」
「ああ……ごめん。あれ、消さない?」
テレビを指さす僕。それに対し、沙苗はゆっくりと首を振った。
「そんなことより、いいから動いてよ」
返事の代わりに、ゆっくりと動き始めた。ゴム越しに感じる彼女の最も奥の感触に、僕の肉体が震え出す。
「あぁ……んん!」
彼女の声が。熱が。僕は釘でも打ち付けるみたいに、彼女の中を掘り進めた。
往復する度に溢れ出す蜜。滑りが増して、まるで彼女か僕が溶け出しているような錯覚に陥った。
「そこ……っ、もっと奥ぅ……っ」
白くなっていく頭。そこには唯一、甘える様な彼女の声だけが響いた。温かさと、柔らかさに溺れる。苦しくない海の底。彼女の胸に飛び込んだ。密着。くっついていない場所なんてなくなるように。僕と彼女の汗が入り混じる。
「ダメ……」
僕の耳元に、彼女の白々しい拒否の言葉。何がと聞くまでもない。人は快楽に対して、一度拒否のスタンスを取る。
「私、もう……っ!」
次の瞬間。彼女の中が、急激に締まった。
「っ……!!」
僕も、それに引きずられるみたいにして、絶頂へと到達する。頭に一瞬の空白が出来て、その空白を吐き出すように、僕は彼女の中で達した。
「はぁ……はぁ……。なんだか、ひどく疲れたよ……」
僕は彼女と繋がったまま、やけにけだるい体を持ち上げる。セックスが終わると、僕と彼女の汗が入り混じった湿り気が妙に気になったのだ。
「私も……。ちょっとしたら、晩御飯でも食べに行こっか。それとも、何か作ってあげよっか」
まだまだ虚ろな目を向けてきて、僕は頷いた。
「何か、ガツンと来る物を頼むよ……」
そういえば、誰かの料理を食べるのって、初めてだな。
僕はもう一度、彼女にキスをした。
「キミって、どういう食生活してるわけ?」
沙苗の言葉に、僕は「帰りに、コンビニで適当に買ってる」と答えた。マンションの中にコンビニがあるし、カップ麺の買い置きなんかもするから、大して困ってないが、さすがにこれから料理しようという沙苗には困惑を招く結果となってしまったようだった。
マンションから出て、もう暗くなり、街灯に照らされた道を歩く。LEDに変わってから、一層頼り甲斐が増したなとこっそり考えていた。そんな僕を、呆れたような流し目で見る彼女に、僕は首を傾げた。
「太るよ、そんな食生活」
「僕はどうにも、太らない体質みたいでね」
わざとらしく肩を竦めると、彼女は期待した通り「女性にそれ言うって、嫌味?」と返してくれた。
「いや、からかいだよ」
「たまーに、人間味があること言うよね、キミって」
「なんだか普段は人間味がないみたいに言うね」
「だって、そうじゃない。初めて会った時も、あの状況で何事もなかったみたいに去ろうとするなんて、普通できないんじゃない?」
「……そう、かな?」
「そうだよ」
いまいちわからないが、あれが普通だと思った僕は間違っているんだろうか。
彼女が言うには、間違っているんだろう。普通について考え、彼女と他愛のない話をしていると、利用したことのない最寄りのスーパーにやってきた。
僕が籠を持ち、沙苗が食品を物色しては、その中にいろいろと放り込んでいく。彼女は適当に使えそうな野菜を手にとって見ていると、「何か食べたい物って、ある? 大好物でもいいよ」そう楽しそうに笑った。何が楽しいのかはわからず、訊いてみたかったけれど、まずは質問に答える方が先決。
「なんでもいいよ」
「……そういうのが一番困るって、お母さんに習わなかった?」
「うん」
沙苗の溜息。「なんで言い切れちゃうかなあ……」
「食に対するこだわりは特にないんだ。そうだな、よっぽどの色物じゃない限りなんでも食べられる。沙苗の好物でいいよ。――いや、沙苗の好物がいいな」
「な、なに、いきなりそんな殊勝なことを……」
「天現寺くんに『デートで食べたい物を訊かれたら、「キミの好物がいいな」って言うといい』って言われたから、試したんだけど」
「……それ、言わなかったら見直したんだけどな」
「今まで見損なってたのかい?」
「評価が一定してただけ。気にしなくていいよ。――私の好物でいいんだよね?」
「ああ」
「お金、出してくれる?」
と、彼女は上目遣い。身長は同じくらいなので(僕は一六九センチ。多分沙苗はそれより一、二センチばかり低い)、わざとらしく膝を曲げて、背丈を減らしていた。こういうのは可愛らしいに――入る、かな?
「いいよ」
頷くと、「やりっ」と手を叩いた。どうせ、僕の家の冷蔵庫に入るのだから、食費として処理しよう。嬉しそうに食材を放り込んでいく彼女を見ながら、僕はどういう気持ちでいればいいのかわからなくて、所在なく彼女の後ろを着いて行った。
そんな買い物も済ませ、たくさんの食材――贔屓目に見て、二人だと一週間は保ちそうな食材を、僕一人で両手に抱えながら、楽しそうにポニーテールを揺らしながら歩く彼女を追いかける。
「あっ」
まるでリズムでも奏でるようなその声に、僕は首を傾げて、彼女の行く末を見守る。自動販売機に駆け寄って、「修吾くん。修吾くんって、お酒平気な人? ここ、年齢確認いらないって」と、よくわからないことを言い出した。
僕はよろよろと彼女に追いつくと、彼女が見ている自販機は、お酒専用の物だった。
「未成年の飲酒はいけないんだよ」
「またまた。そんな優等生でもないくせに」
これくらいなら、私出すよと、彼女はお金を楽しそうに入れていく。そして、適当なお酒を購入して、僕の持っていたビニール袋に放り込んでいく。
「……僕、キミのことは優等生だと思ってたんだけどな」
「軽蔑した?」
爛々と輝く瞳。全然、僕が軽蔑したなんて思ってないような表情。
「いいや。全然」
そう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。なんだか、もう酔っ払っているようなテンションだ。
■
家に帰ると、彼女がまずしたことは、自宅への電話だった。
『あ、もしもしお母さん? 沙苗だけど、今日明日友達の家に止まるから、月曜帰るね』と言い、その後僕に『いいよね?』と事後承諾。まあ、どうせ僕の母さんは帰ってこないし、二つ返事。
彼女は制服のまま(エプロンなんて我が家にはない)、料理を作り始める。
僕はと言うと、テレビの前に鎮座したソファに寝転がり、小説を読んでいた。美味しそうな、香ばしそうな匂いが鼻をくすぐる。なんだろう、この本能に直撃する匂い。なんか、お腹空いてきたな。
沙苗、ご飯まだ?
そんな、テレビドラマでしか聴いたことのないセリフをキッチンの沙苗に向かって投げようとした瞬間。
「ご飯、できたよー」
ナイスタイミング。
僕は本をソファの上に置いて、ダイニングへ向かう。
テーブルに置かれていたのは、スライスされ、アンチョビが乗せられたフランスパンにシーザーサラダ。コーンポタージュに、メインディッシュは大きなステーキ。そして、缶ビール。ステーキが分厚い……。お金出したのは僕だけど、品目を詳しくは見てないからなあ。
「ステーキはレアだけど、いいよね?」
「構わないよ」
僕と彼女は、同時に缶ビールのプルトップを開いて、「乾杯」
ちびりちびりと、初めての缶ビールの味を確かめる。苦い……。けどまあ、飲めないほどじゃあない。口直しの為に、ステーキをナイフで切り、頬張る。すごく柔らかい……いいお肉買ったな。
ま、美味しいからいいけど。
「うん、美味しい」
「でしょ。昔っから、お母さんに仕込まれてたんだ」
彼女は、ビールを流し込む。さすがに喉を鳴らしたりはしなかったが、なかなかにいい飲みっぷりだと思う。
「家事とか手伝ったりしたの?」
「まあね。昔っぽいからさ、ウチのお母さん。家事くらいできないとモテないなんて言い出すの」
「できないよりは出来た方がいいさ。――うん、誰かの手料理ってのも、美味しいよ」
「修吾くんのお母さんよりも?」
「さあ? 僕、お母さんの手料理食べたことないし」
「……?」首を傾げる沙苗。そしてすぐに、何かを思いついたみたいに目を見開き「修吾くんちはお父さんが料理したんだ?」
「いや? 母子家庭。父さんには会ったこと無い」
「んー……?」今度は腕を組んで、僕の言ったことを考え込んでいるようだった。ちょっとおもしろかったからもう少し見ておきたかったのだけれど、しかしあまり考えこませるのもどうかと思ったので、答え合わせ。
「昔っから家にあるカップ麺とかインスタント食品だけだったんだ。物心ついた辺りから、生活費渡されてたよ」
答え、だったのだけれど。
沙苗にとって納得できる事ではなかったらしく、「どういうこと?」とより疑問の表情が強まる。
「んー……簡単に言うと、育児放棄? 母さん滅多に家に帰って来なかったし」
帰ってきてもすぐにどこかへ行くし。多分、僕が死んでないかどうかを確認しに帰ってきているだけだろう。毎月一五日にちらっと顔を出して、充分すぎるお金が入った封筒を置いていく。保育園の頃はさすがに、親戚か誰かが世話をしてくれていた覚えがある。
「……修吾くんって、結構苦労人なんだ」
「そうでもないよ。親がいないっていうのは、快適みたいだし」
友達なんかは、『親とかマジうぜーよ』とか『いない方がいい』とか、よく言っている。それを聞く限り、僕はそれなりにラッキーなのかもしれないと思う。だって、親っていない方がいいんでしょ?
「でも、やっぱりお父さんお母さんいないって、寂しいと思うんだよね……」
そう言うと、彼女は勢い良く首を振り、一気にビールを流し込む。
「ぷっはあ! ――やめやめ! ダメだこの話! 修吾くんが気にしてないなら、いいんだよ!」
まるで無理矢理自分を納得させる口調だったが、しかし、そういう考え方をできるというのは、当たり前ながら美徳だと思う。
「それに、秋津家の問題なんだし、私は自由にくつろげる隠れ家が出来てラッキーくらいに思っとけばいいんだよね?」
なんで僕に訊いてくるような口調なのか理解できなかったが、それはつまり、この家を隠れ家として使ってもいいかという意味なのだと思い至り、「ああ」と頷いた。普段から僕の家は、親がいないこと、広いこと等を理由に、男友達の溜まり場になっているから、問題なし。
「さっ。飲もう飲もう! どーせ明日も泊まるんだし、楽しくしなきゃね」
なんだか気を使わせてしまったらしい。
僕も、楽しくなれればいいなと思って、ビールをぐいっとあおってみる。お腹がちょっと熱くなった。
■
それから、二時間ほどが経過した後。
僕はというと、全然酔っ払わなかった。缶ビール二本。チューハイを三本ほど空けたのだが、お腹と体がちょっと熱いくらい。
対して、沙苗は。
「うー……飲みすぎたああ……」
と、なぜか潰れていた。テーブルに突っ伏し、先ほどからうーうー唸っている。
彼女はそれぞれ二本ずつ。彼女はお酒に弱いのだろうか。それとも僕が強いのか。基準を知らないので、測れない。
「修吾くん、いける口だったんだね……。釣られて飲み過ぎちゃったよ……」
「そうなの?」
「うん……だと思う……誰かと飲んだことないから、よくわかんないけどさ……」
じゃあ彼女はどうやって酒を覚えたんだろう?
父親のをくすねたりでもしたのだろうか。その想像が割りと現実味を帯びていたので、それで納得することにした。
「血でも飲む?」
沙苗ならそれで具合がよくなりそうだと思ったので提案したのだが、「今飲んだら吐く……もったいない……」と至極まっとうな(のかはよくわからないけれど)事を言って、そのまま黙ってしまった。寝たんだろうか。
「沙苗?」声をかけてみても、彼女は反応を示さなかった。
眠ったようだ。寒くないし、別に何かを掛ける必要はないだろう。僕は立ち上がると、とりあえずお風呂に入ろうと思った。
そういえば、夕方頃にセックスをした後も、お風呂入らなかったな。こういうのって、やっぱり匂いがしたりするんだろうか。嗅いで確かめてみるが、自分ではわからない。うーん……まあでも僕がわかったことないんだし、大丈夫だろう。
でも、あれでかなり汗をかいたのも事実なので、なにせよ早くお風呂に入ろう。
欠伸をして、ダイニングを出る。薄暗い廊下は少し肌寒い。冷たいフローリングの感触を楽しみながら、脱衣所の扉を開き、制服を脱衣カゴに放り込んでいく。
全裸になり、磨りガラスのドアを開いて、風呂場に入る。湿った床が冷たいけれど、すぐにシャワーのお湯で床を暖め、ついでに椅子も濡らし、体にお湯を被った。
髪が垂れてきて、目の前が簾状に黒くなる。それを掻き上げ、適当な所でシャンプーを絞り出そうとしたのだが、その瞬間、後ろから外の冷たい空気と、ドアが開く音。
「やっほ。一緒に入ろ」
「はい?」
彼女は全裸ではなく、タオルを体に巻いていた。
しかし、豊満な胸がその形をタオルで縁取りされたことにより、一層の存在感を増している。
「頭はもう洗った?」
「いや、今から……」
「洗ってあげる」
言うと、彼女は僕の背に胸を当て、シャンプーに手を伸ばし、白濁とした乳液を手の中に落とし、僕の髪をワシャワシャとかき混ぜ始めた。
目を閉じ、彼女の優しい手つきに身を任せた。他人にシャンプーをしてもらうという体験は床屋を除けば初めてだが、なるほどビジネスライクではないサービスというのも、なかなか気持ちがいい。酔ってるからなのか、ふわふわと足元が柔らかくなってきた気さえする。
「上手いね、髪洗うの」
「うん? はは、まあ男の子とじゃあ経験値が違うよね」
沙苗の髪は、かなり長い。臀部に到達しそうなほど。普段はポニーテールにしているから到達はしていないが、髪を下ろしている今は、背中を隠してしまいそうなほどだ。
「シャワー取って」
彼女にシャワーを手渡す。ヘッド部分にあるボタンを押すとお湯が流れ出し、僕の頭にある泡の帽子を洗い流した。
同じ様にリンスを纏った指で髪を梳いてもらい、背中も流してもらう。ボディタオルに削られていく垢。なんだか、自分でやるよりも綺麗になった気がした。
「んじゃ、私もお願いね」
僕の背を小さく押した彼女は、椅子を交代するように促す。
前後の位置が入れ替わり、僕は彼女の長く伸びた茶髪を泡立てていく。
長い髪を洗うというのは、なかなか重労働だった。根本付近は楽だが、毛先に向かっていくと、洗うというか磨くようになってきて、丁寧に掌と指先を使い、枝毛なんかを押さえつけるような感覚だった。
「うん、なかなか上手いよ修吾くん」
「どうもありがとう」
シャワーで泡を洗い流し、次いでリンスとボディーソープで沙苗の体を丁寧に洗った。前は自分で洗うと言い張ったので、僕は一足先に湯船へ入ることにした。
ふう、と溜息。疲れが湯船に溶けていく。
ボディーソープを洗い流した沙苗が、顔だけ僕の方へ向け、「修吾くん、ちょっと詰めて」と立ち上がった。
僕は、湯船の反対側に背をつけ、沙苗と向かい合う形を取ろうとしたのだが、彼女はそれがお気に召さなかったらしく、湯船に入ると、彼女は自分の胸の真ん中を指差し、「修吾くんは、ここに頭置いて」とわけのわからないことを言い出した。
言われたとおりにすると、沙苗が僕を後ろから抱く形になった。
「昔、私はお母さんによくこうしてもらったんだけど、どう?」
「どう、って……なにが?」
「いや、お母さんっぽいかなーって」
ふむ。
僕は考えてみた。母さんのことはもう顔くらいしか覚えていないが、もし、僕の母さんが一般的な親だったなら、幼少期にこういう思い出ができていたのだろうか。
――よくはわからなかったが、こうしていると安らぐのは、確かなようだった。
沙苗の言葉に、僕は「帰りに、コンビニで適当に買ってる」と答えた。マンションの中にコンビニがあるし、カップ麺の買い置きなんかもするから、大して困ってないが、さすがにこれから料理しようという沙苗には困惑を招く結果となってしまったようだった。
マンションから出て、もう暗くなり、街灯に照らされた道を歩く。LEDに変わってから、一層頼り甲斐が増したなとこっそり考えていた。そんな僕を、呆れたような流し目で見る彼女に、僕は首を傾げた。
「太るよ、そんな食生活」
「僕はどうにも、太らない体質みたいでね」
わざとらしく肩を竦めると、彼女は期待した通り「女性にそれ言うって、嫌味?」と返してくれた。
「いや、からかいだよ」
「たまーに、人間味があること言うよね、キミって」
「なんだか普段は人間味がないみたいに言うね」
「だって、そうじゃない。初めて会った時も、あの状況で何事もなかったみたいに去ろうとするなんて、普通できないんじゃない?」
「……そう、かな?」
「そうだよ」
いまいちわからないが、あれが普通だと思った僕は間違っているんだろうか。
彼女が言うには、間違っているんだろう。普通について考え、彼女と他愛のない話をしていると、利用したことのない最寄りのスーパーにやってきた。
僕が籠を持ち、沙苗が食品を物色しては、その中にいろいろと放り込んでいく。彼女は適当に使えそうな野菜を手にとって見ていると、「何か食べたい物って、ある? 大好物でもいいよ」そう楽しそうに笑った。何が楽しいのかはわからず、訊いてみたかったけれど、まずは質問に答える方が先決。
「なんでもいいよ」
「……そういうのが一番困るって、お母さんに習わなかった?」
「うん」
沙苗の溜息。「なんで言い切れちゃうかなあ……」
「食に対するこだわりは特にないんだ。そうだな、よっぽどの色物じゃない限りなんでも食べられる。沙苗の好物でいいよ。――いや、沙苗の好物がいいな」
「な、なに、いきなりそんな殊勝なことを……」
「天現寺くんに『デートで食べたい物を訊かれたら、「キミの好物がいいな」って言うといい』って言われたから、試したんだけど」
「……それ、言わなかったら見直したんだけどな」
「今まで見損なってたのかい?」
「評価が一定してただけ。気にしなくていいよ。――私の好物でいいんだよね?」
「ああ」
「お金、出してくれる?」
と、彼女は上目遣い。身長は同じくらいなので(僕は一六九センチ。多分沙苗はそれより一、二センチばかり低い)、わざとらしく膝を曲げて、背丈を減らしていた。こういうのは可愛らしいに――入る、かな?
「いいよ」
頷くと、「やりっ」と手を叩いた。どうせ、僕の家の冷蔵庫に入るのだから、食費として処理しよう。嬉しそうに食材を放り込んでいく彼女を見ながら、僕はどういう気持ちでいればいいのかわからなくて、所在なく彼女の後ろを着いて行った。
そんな買い物も済ませ、たくさんの食材――贔屓目に見て、二人だと一週間は保ちそうな食材を、僕一人で両手に抱えながら、楽しそうにポニーテールを揺らしながら歩く彼女を追いかける。
「あっ」
まるでリズムでも奏でるようなその声に、僕は首を傾げて、彼女の行く末を見守る。自動販売機に駆け寄って、「修吾くん。修吾くんって、お酒平気な人? ここ、年齢確認いらないって」と、よくわからないことを言い出した。
僕はよろよろと彼女に追いつくと、彼女が見ている自販機は、お酒専用の物だった。
「未成年の飲酒はいけないんだよ」
「またまた。そんな優等生でもないくせに」
これくらいなら、私出すよと、彼女はお金を楽しそうに入れていく。そして、適当なお酒を購入して、僕の持っていたビニール袋に放り込んでいく。
「……僕、キミのことは優等生だと思ってたんだけどな」
「軽蔑した?」
爛々と輝く瞳。全然、僕が軽蔑したなんて思ってないような表情。
「いいや。全然」
そう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。なんだか、もう酔っ払っているようなテンションだ。
■
家に帰ると、彼女がまずしたことは、自宅への電話だった。
『あ、もしもしお母さん? 沙苗だけど、今日明日友達の家に止まるから、月曜帰るね』と言い、その後僕に『いいよね?』と事後承諾。まあ、どうせ僕の母さんは帰ってこないし、二つ返事。
彼女は制服のまま(エプロンなんて我が家にはない)、料理を作り始める。
僕はと言うと、テレビの前に鎮座したソファに寝転がり、小説を読んでいた。美味しそうな、香ばしそうな匂いが鼻をくすぐる。なんだろう、この本能に直撃する匂い。なんか、お腹空いてきたな。
沙苗、ご飯まだ?
そんな、テレビドラマでしか聴いたことのないセリフをキッチンの沙苗に向かって投げようとした瞬間。
「ご飯、できたよー」
ナイスタイミング。
僕は本をソファの上に置いて、ダイニングへ向かう。
テーブルに置かれていたのは、スライスされ、アンチョビが乗せられたフランスパンにシーザーサラダ。コーンポタージュに、メインディッシュは大きなステーキ。そして、缶ビール。ステーキが分厚い……。お金出したのは僕だけど、品目を詳しくは見てないからなあ。
「ステーキはレアだけど、いいよね?」
「構わないよ」
僕と彼女は、同時に缶ビールのプルトップを開いて、「乾杯」
ちびりちびりと、初めての缶ビールの味を確かめる。苦い……。けどまあ、飲めないほどじゃあない。口直しの為に、ステーキをナイフで切り、頬張る。すごく柔らかい……いいお肉買ったな。
ま、美味しいからいいけど。
「うん、美味しい」
「でしょ。昔っから、お母さんに仕込まれてたんだ」
彼女は、ビールを流し込む。さすがに喉を鳴らしたりはしなかったが、なかなかにいい飲みっぷりだと思う。
「家事とか手伝ったりしたの?」
「まあね。昔っぽいからさ、ウチのお母さん。家事くらいできないとモテないなんて言い出すの」
「できないよりは出来た方がいいさ。――うん、誰かの手料理ってのも、美味しいよ」
「修吾くんのお母さんよりも?」
「さあ? 僕、お母さんの手料理食べたことないし」
「……?」首を傾げる沙苗。そしてすぐに、何かを思いついたみたいに目を見開き「修吾くんちはお父さんが料理したんだ?」
「いや? 母子家庭。父さんには会ったこと無い」
「んー……?」今度は腕を組んで、僕の言ったことを考え込んでいるようだった。ちょっとおもしろかったからもう少し見ておきたかったのだけれど、しかしあまり考えこませるのもどうかと思ったので、答え合わせ。
「昔っから家にあるカップ麺とかインスタント食品だけだったんだ。物心ついた辺りから、生活費渡されてたよ」
答え、だったのだけれど。
沙苗にとって納得できる事ではなかったらしく、「どういうこと?」とより疑問の表情が強まる。
「んー……簡単に言うと、育児放棄? 母さん滅多に家に帰って来なかったし」
帰ってきてもすぐにどこかへ行くし。多分、僕が死んでないかどうかを確認しに帰ってきているだけだろう。毎月一五日にちらっと顔を出して、充分すぎるお金が入った封筒を置いていく。保育園の頃はさすがに、親戚か誰かが世話をしてくれていた覚えがある。
「……修吾くんって、結構苦労人なんだ」
「そうでもないよ。親がいないっていうのは、快適みたいだし」
友達なんかは、『親とかマジうぜーよ』とか『いない方がいい』とか、よく言っている。それを聞く限り、僕はそれなりにラッキーなのかもしれないと思う。だって、親っていない方がいいんでしょ?
「でも、やっぱりお父さんお母さんいないって、寂しいと思うんだよね……」
そう言うと、彼女は勢い良く首を振り、一気にビールを流し込む。
「ぷっはあ! ――やめやめ! ダメだこの話! 修吾くんが気にしてないなら、いいんだよ!」
まるで無理矢理自分を納得させる口調だったが、しかし、そういう考え方をできるというのは、当たり前ながら美徳だと思う。
「それに、秋津家の問題なんだし、私は自由にくつろげる隠れ家が出来てラッキーくらいに思っとけばいいんだよね?」
なんで僕に訊いてくるような口調なのか理解できなかったが、それはつまり、この家を隠れ家として使ってもいいかという意味なのだと思い至り、「ああ」と頷いた。普段から僕の家は、親がいないこと、広いこと等を理由に、男友達の溜まり場になっているから、問題なし。
「さっ。飲もう飲もう! どーせ明日も泊まるんだし、楽しくしなきゃね」
なんだか気を使わせてしまったらしい。
僕も、楽しくなれればいいなと思って、ビールをぐいっとあおってみる。お腹がちょっと熱くなった。
■
それから、二時間ほどが経過した後。
僕はというと、全然酔っ払わなかった。缶ビール二本。チューハイを三本ほど空けたのだが、お腹と体がちょっと熱いくらい。
対して、沙苗は。
「うー……飲みすぎたああ……」
と、なぜか潰れていた。テーブルに突っ伏し、先ほどからうーうー唸っている。
彼女はそれぞれ二本ずつ。彼女はお酒に弱いのだろうか。それとも僕が強いのか。基準を知らないので、測れない。
「修吾くん、いける口だったんだね……。釣られて飲み過ぎちゃったよ……」
「そうなの?」
「うん……だと思う……誰かと飲んだことないから、よくわかんないけどさ……」
じゃあ彼女はどうやって酒を覚えたんだろう?
父親のをくすねたりでもしたのだろうか。その想像が割りと現実味を帯びていたので、それで納得することにした。
「血でも飲む?」
沙苗ならそれで具合がよくなりそうだと思ったので提案したのだが、「今飲んだら吐く……もったいない……」と至極まっとうな(のかはよくわからないけれど)事を言って、そのまま黙ってしまった。寝たんだろうか。
「沙苗?」声をかけてみても、彼女は反応を示さなかった。
眠ったようだ。寒くないし、別に何かを掛ける必要はないだろう。僕は立ち上がると、とりあえずお風呂に入ろうと思った。
そういえば、夕方頃にセックスをした後も、お風呂入らなかったな。こういうのって、やっぱり匂いがしたりするんだろうか。嗅いで確かめてみるが、自分ではわからない。うーん……まあでも僕がわかったことないんだし、大丈夫だろう。
でも、あれでかなり汗をかいたのも事実なので、なにせよ早くお風呂に入ろう。
欠伸をして、ダイニングを出る。薄暗い廊下は少し肌寒い。冷たいフローリングの感触を楽しみながら、脱衣所の扉を開き、制服を脱衣カゴに放り込んでいく。
全裸になり、磨りガラスのドアを開いて、風呂場に入る。湿った床が冷たいけれど、すぐにシャワーのお湯で床を暖め、ついでに椅子も濡らし、体にお湯を被った。
髪が垂れてきて、目の前が簾状に黒くなる。それを掻き上げ、適当な所でシャンプーを絞り出そうとしたのだが、その瞬間、後ろから外の冷たい空気と、ドアが開く音。
「やっほ。一緒に入ろ」
「はい?」
彼女は全裸ではなく、タオルを体に巻いていた。
しかし、豊満な胸がその形をタオルで縁取りされたことにより、一層の存在感を増している。
「頭はもう洗った?」
「いや、今から……」
「洗ってあげる」
言うと、彼女は僕の背に胸を当て、シャンプーに手を伸ばし、白濁とした乳液を手の中に落とし、僕の髪をワシャワシャとかき混ぜ始めた。
目を閉じ、彼女の優しい手つきに身を任せた。他人にシャンプーをしてもらうという体験は床屋を除けば初めてだが、なるほどビジネスライクではないサービスというのも、なかなか気持ちがいい。酔ってるからなのか、ふわふわと足元が柔らかくなってきた気さえする。
「上手いね、髪洗うの」
「うん? はは、まあ男の子とじゃあ経験値が違うよね」
沙苗の髪は、かなり長い。臀部に到達しそうなほど。普段はポニーテールにしているから到達はしていないが、髪を下ろしている今は、背中を隠してしまいそうなほどだ。
「シャワー取って」
彼女にシャワーを手渡す。ヘッド部分にあるボタンを押すとお湯が流れ出し、僕の頭にある泡の帽子を洗い流した。
同じ様にリンスを纏った指で髪を梳いてもらい、背中も流してもらう。ボディタオルに削られていく垢。なんだか、自分でやるよりも綺麗になった気がした。
「んじゃ、私もお願いね」
僕の背を小さく押した彼女は、椅子を交代するように促す。
前後の位置が入れ替わり、僕は彼女の長く伸びた茶髪を泡立てていく。
長い髪を洗うというのは、なかなか重労働だった。根本付近は楽だが、毛先に向かっていくと、洗うというか磨くようになってきて、丁寧に掌と指先を使い、枝毛なんかを押さえつけるような感覚だった。
「うん、なかなか上手いよ修吾くん」
「どうもありがとう」
シャワーで泡を洗い流し、次いでリンスとボディーソープで沙苗の体を丁寧に洗った。前は自分で洗うと言い張ったので、僕は一足先に湯船へ入ることにした。
ふう、と溜息。疲れが湯船に溶けていく。
ボディーソープを洗い流した沙苗が、顔だけ僕の方へ向け、「修吾くん、ちょっと詰めて」と立ち上がった。
僕は、湯船の反対側に背をつけ、沙苗と向かい合う形を取ろうとしたのだが、彼女はそれがお気に召さなかったらしく、湯船に入ると、彼女は自分の胸の真ん中を指差し、「修吾くんは、ここに頭置いて」とわけのわからないことを言い出した。
言われたとおりにすると、沙苗が僕を後ろから抱く形になった。
「昔、私はお母さんによくこうしてもらったんだけど、どう?」
「どう、って……なにが?」
「いや、お母さんっぽいかなーって」
ふむ。
僕は考えてみた。母さんのことはもう顔くらいしか覚えていないが、もし、僕の母さんが一般的な親だったなら、幼少期にこういう思い出ができていたのだろうか。
――よくはわからなかったが、こうしていると安らぐのは、確かなようだった。
僕は母さんの事を知らない。
名前はおろか、その肌の柔らかさも、匂いも、何もかも。僕がわかるのは、見た目と、母さんであるという事実のみ。なんで母さんは僕の事を愛してはくれなかったんだろう?
母さんにとって、僕はどういう存在だったんだろう。ただいつも家にお金を置いていくだけ。それだけで、僕は必要とはされてなかったみたいだ。ただセックスの結果生まれてしまっただけで、僕には愛も情もなかったのだろう。
母さん、母さん。何度も名前を呼んでみたけれど、母さんが返事をするわけもなかった。この場にいない上に、いたとしても彼女が僕の声を聞いてくれるわけもなかった。
その時、意識が切り替わるような。頭が状況を認識しようと動き出すような感覚がやってきて、僕の意識を現実へと浮上させた。
けれど、目を開いても、目の前にあるのは黒。暖かな黒。確かな熱を身体全体で感じる。なんだろう。僕はモゾモゾと後ろへ下がる。そこにあったのは、沙苗の顔。僕と目が合うと、「おはよ。よく眠れた?」そう言って、僕を抱き寄せた。
そして、昨日の記憶が引き出されていく。昨日は――沙苗と一緒にお風呂に入った後――結局何回かセックスをした。寝室に行き、お風呂に入ったのが無駄になるくらい汗をかいて、ベットの中でぐちゃぐちゃになった。僕は沙苗の中に、僕の知らない母親を――母性というものを感じて、まるでいままで出来なかったことを、甘えるということを覚えてしまって、とても彼女を求めてしまった。それは少しばかりの恥じらいと清々しさを持ち、僕の記憶へと残った。
「昨日は、なんだかいつもより激しかったけど……なんかあったの?」
「何か、って?」
「何かは何かだよ。私にはわからない何か」
「何も無いさ。僕は何も変わってない」
上半身を起こして、一つ大きなあくびをする。沙苗も僕の隣で起き上がると、布団を胸元まで持ち上げる。どうしてセックスする時はよくても、こういう時は隠そうとするのだろうか?
「今何時かな……」沙苗は、ベットボードに置かれたケータイを取り、開いて時計を見る。「十時……案外早く起きれたね。あれだけしたから、夕方くらいまで起きれないかなーって思ったんだけど。……コーヒーでも飲む?」
「その前に、服を着なよ」
「いや、急なお泊まりだったからさ。持ってきてないんだよね。ワイシャツでもいいから貸してくれない?」
「下着はどうするのさ?」
「洗濯すれば月曜には余裕で乾くでしょ?」
「今日は下着を穿かないで過ごす気か……」
彼女は、裸のまま僕のクローゼットを漁り、灰色のスウェットとトレーナーを取り出し、それを着た。
「私はキッチン行ってるから、ご飯できたら呼ぶね」
「ああ、ありがとう」
僕の部屋から出て行く彼女を見送って、僕も着替えることにした。裸のままで居るというのも落ち着かないので、とりあえずジーパンと適当なシャツに着替えて、リビングへと向かった。
本棚にある適当な小説を選んで、ダイニングのテーブルに座りそれを捲る。朝の読書というのも、なんだか頭の体操みたいで、頭を整理するのにはちょうどいい。僕にとって、人間の心を目の当たりにするのは、そういうややこしさがある。
「できたよ、修吾くん」
僕の前に、コーヒーやサラダ、トーストに目玉焼き。僕が見たこともない『それらしい』食事が並んでいた。まるで、ドラマから抜き出してきたようなそれに、僕は少しばかり驚きを感じる。僕が料理を学べば、いつだって再現出来たもので――けれど、それでは意味が無い。愛情が料理に籠るなんて信じたくないけれど、けど僕にはその言葉の意味がなんとなくわかるから。料理なんてしたくなかった。虚しいだけじゃないか。オナニーみたいで。
食事もセックスも、そういう意味では似てるのかもしれない。三大欲求の二つ。一人で満足に行えるのは睡眠くらいな物だ。もちろん食事だって、一人でも行えるけど、僕は満足したことがなかった。食事には――食欲には――物を食べること以外にも満たさなくてはならない何かがあるのかもしれない。
「食べないの?」
「え、ああ。ごめん。いただくよ」
箸を取って、トーストにサラダを敷いて、その上に目玉焼きを乗せ、頬張った。シンプルながら美味しい。食指が進んで、沙苗が見守る中、ぺろりと平らげてしまった。
「いい食べっぷりだね」
「沙苗の料理が美味しいからだよ」
「はは。白々しいなあ」
本当なんだけどな。しかし、それ以上僕は何も言わない。コーヒーを飲んで、追いかけるように食べる沙苗を見守るだけだ。沙苗と出会ってから――僕の中で何かが狂い始めているのは間違いない。良い事か悪い事か判断する必要もない。変化は常に悪い予兆だ。変化を望む人間なんて、変化に弄ばれた人間だけだ。
「これが夜明けのコーヒーってやつかな? ――って、もう昼なんだけどね」
「今時そんな表現使う人はいないよ。八十年代のトレンディードラマじゃないんだから」
「……修吾くんって、物語の守備範囲広いね。よっぽど好きなんだ?」
沙苗は、リビングの端にある本棚へと一瞥。僕自慢の、本、DVDが詰められたそれは、ある意味、僕が生きてきた証でもある。
母さんから生活費を支給され、やりくりを覚えた僕は、余ったお金で『物語』という物ならなんでも買った。それはひとえに、僕がわからない人の気持ち、心、思考のプロセスなんかを知りたかったからにすぎない。
人は性格と呼ばれる思考の回路と、その回路を走る外的な刺激。そしてそれに対するリアクションさえ理解すれば、それは人間を理解したことになる。
小学生当時の――物語を見始めた頃から、そう思っていた。
人間は電気仕掛け。それは、電子レンジがつまみを捻れば、物を温めるように。あるいは、電話をかければ、つながるように。
僕はそれを、今までずっと考えてきて、しかし誰にも言えなかった事を、沙苗に初めて言ってしまった。なにかの、そう。なにかの気の迷いだったと思う。
「おもしろい考え方だと思うよ?」
意外にも、返ってきた言葉は、好意的な物だった。彼女はにこにこと笑いながら、まるで今日の夕ご飯は何にしようか? と相談するような気軽さで口を開いた。
「あたしは、人がどういう物かなんて考えた事ないし。あー、でも。どうして血を見てみんな気持ち悪いって思うのか、私はよくわからなかったかな? だって、あんなに綺麗なのに」
「僕はなんとも言えないけど。血は、特に好きでも嫌いでもないし」
「そっか。まあ、それだけでも安心だよ。――最初に淫血症だって知ったのは、小学生の時だったかな? 私、車に跳ねられて、血がたくさん出て、それを綺麗だなって思った。ちょっと恥ずかしい話……それが多分、初のオーガズムだったと思う」
「君も筋がね入りだな……」
未だかつて、交通事故で初のオーガズムを済ませたなんて話は聴いたことがない。それが淫血症の方向でよかった。交通事故に遭わないとイケない体、なんて言われたら、さすがに僕はリアクションできない。
「で、まあ血がたくさん出ただけで、なんの異常もないし、傷跡も目立たないくらいまで回復したから、事故についてはもう正直どうでもいいくらいなんだけど。お母さんが「痛かったね。血がいっぱい出て気持ち悪かったでしょ」って。私は、血って普通は気持ち悪い物なんだなって、その時わかった。それから、誰にも言おうとすらしなかったよ。だって、気持ち悪いって思われるのは当たり前だからね。――修吾くん的に言えば、血に嫌悪感って反応があるのは、極めて一般的な回路って証拠なんだよ」
少なくとも、綺麗とか興奮するは、あんまり一般的じゃないよね。
彼女は、苦笑してそう言った。
僕と彼女は、どこか似ているのかもしれない。理解が得られないところ。そして、人としてどこかおかしい回路を抱えているところ。同類というわけじゃない。多分、一番近い言葉は類似品。
運命とか、そういう言葉は信じたくない。世界はあくまで、起こっている事が絡み合い、見えていないところから突然自分の元へ事象が降ってくるから、偶然や奇跡なんて言われているだけで、世界には当たり前にある事だ。
だから、僕と彼女が出会ったのも、当たり前の事だった。その出会いは、ロマンチックとは到底言えなかったけれど。
僕は、突然自分の中で、男性的な欲求が立ち上がるのを感じた。それは本当に唐突だったので、少し驚いたけれど、しかし、彼女も僕を熱っぽい視線で見ている事に気づいて、黙って立ち上がり、彼女の前に立つと、そっと口づけをした。
「んぅ……っ」
沙苗の鼻から漏れた小さな吐息が、僕の鼻を撫でる。沙苗から噛まれる前に、僕は自分で唇を器用に噛んで、咥内にじんわりと血をにじませる。
彼女はそれを、まるで生まれたての犬が母乳を求めるような必死さで啜った。
こくり、こくりと小さな喉仏が上下する。
彼女を椅子から下ろし、僕はスウェットの上から彼女の胸を下から上へ持ち上げるようにした。確かなボリュームが僕の掌を押し返す。
「んっ、――ふあ、ぁ……」
彼女の声が僕の耳を撫でる。覆い被さるように、僕は彼女の肩と頭の間に顔をねじ込み、できるだけ密着し、耳をわざとぺちゃぺちゃと水音をさせながら舐めた。
その音がどうも、沙苗を快感と不快感の狭間に立たせているようで、「や……ぁ……」と、白々しい抵抗で僕の胸をやんわりと押している。
しかし、力と抵抗する意志が足りなさすぎる。
腹とスウェットの間に手をねじ込み、少し固い毛の感触の奥にある、柔らかく塗れた隙間に、指を滑り込ませる。
「あっ……ちょ、急にそんな……」
「うるさいよ。好きにさせて。血を出すのだって、痛いんだから」
そう言うと、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
お詫びというわけじゃないが、もう一度口づけし、血をあげた。その旅に僕の指先に、なにかびくびくと押し返してくるような感触があるから不思議だ。
僕たちはしばらくそんな風にして、互いの熱を互いの体に刻み込んだ。
もう準備できただろう。そう思い、僕は彼女に腰を浮かせるよう言って、スウェットを脱がせ、うつ伏せにし、お尻を突き出させる。そして、外気にさらされた彼女の秘部に、僕の先端をあてがい、そして一気に腰を沈めた。
「うっ……はぁ……んっ、修吾くん……」
真っ赤な顔。汗ばんだ肌。上擦る声。そのすべてが僕を魅了する。
彼女を壊すように、あるいは磨きあげるように、僕は腰を動かした。
肌と肌がぶつかる音。そして、水たまりを踏みつけるような水音。そして、僕と沙苗の息づかいがシンクロする。
「あっ、んん……っ! 奥、来てる、う……っ!」
そして、僕は彼女の肩を掴み、上半身を抱き起こし、後ろから抱きしめるようにする。
「しゅっ、修吾く、ん……っ。な、にして……あ……」
そして、僕はそのまま、膝立ちの状態で、沙苗の膣内へと射精した。
「は、ああ……ん……あったかい……」
沙苗が僕の腕を甘噛みする感触と、妙な倦怠感を味わいながら、僕はそっと沙苗の肩に顎を乗せた。
僕は、僕の中の歯車が狂い始めていることに気づいていた。
彼女のことを、もっと、もっと、知りたい。
名前はおろか、その肌の柔らかさも、匂いも、何もかも。僕がわかるのは、見た目と、母さんであるという事実のみ。なんで母さんは僕の事を愛してはくれなかったんだろう?
母さんにとって、僕はどういう存在だったんだろう。ただいつも家にお金を置いていくだけ。それだけで、僕は必要とはされてなかったみたいだ。ただセックスの結果生まれてしまっただけで、僕には愛も情もなかったのだろう。
母さん、母さん。何度も名前を呼んでみたけれど、母さんが返事をするわけもなかった。この場にいない上に、いたとしても彼女が僕の声を聞いてくれるわけもなかった。
その時、意識が切り替わるような。頭が状況を認識しようと動き出すような感覚がやってきて、僕の意識を現実へと浮上させた。
けれど、目を開いても、目の前にあるのは黒。暖かな黒。確かな熱を身体全体で感じる。なんだろう。僕はモゾモゾと後ろへ下がる。そこにあったのは、沙苗の顔。僕と目が合うと、「おはよ。よく眠れた?」そう言って、僕を抱き寄せた。
そして、昨日の記憶が引き出されていく。昨日は――沙苗と一緒にお風呂に入った後――結局何回かセックスをした。寝室に行き、お風呂に入ったのが無駄になるくらい汗をかいて、ベットの中でぐちゃぐちゃになった。僕は沙苗の中に、僕の知らない母親を――母性というものを感じて、まるでいままで出来なかったことを、甘えるということを覚えてしまって、とても彼女を求めてしまった。それは少しばかりの恥じらいと清々しさを持ち、僕の記憶へと残った。
「昨日は、なんだかいつもより激しかったけど……なんかあったの?」
「何か、って?」
「何かは何かだよ。私にはわからない何か」
「何も無いさ。僕は何も変わってない」
上半身を起こして、一つ大きなあくびをする。沙苗も僕の隣で起き上がると、布団を胸元まで持ち上げる。どうしてセックスする時はよくても、こういう時は隠そうとするのだろうか?
「今何時かな……」沙苗は、ベットボードに置かれたケータイを取り、開いて時計を見る。「十時……案外早く起きれたね。あれだけしたから、夕方くらいまで起きれないかなーって思ったんだけど。……コーヒーでも飲む?」
「その前に、服を着なよ」
「いや、急なお泊まりだったからさ。持ってきてないんだよね。ワイシャツでもいいから貸してくれない?」
「下着はどうするのさ?」
「洗濯すれば月曜には余裕で乾くでしょ?」
「今日は下着を穿かないで過ごす気か……」
彼女は、裸のまま僕のクローゼットを漁り、灰色のスウェットとトレーナーを取り出し、それを着た。
「私はキッチン行ってるから、ご飯できたら呼ぶね」
「ああ、ありがとう」
僕の部屋から出て行く彼女を見送って、僕も着替えることにした。裸のままで居るというのも落ち着かないので、とりあえずジーパンと適当なシャツに着替えて、リビングへと向かった。
本棚にある適当な小説を選んで、ダイニングのテーブルに座りそれを捲る。朝の読書というのも、なんだか頭の体操みたいで、頭を整理するのにはちょうどいい。僕にとって、人間の心を目の当たりにするのは、そういうややこしさがある。
「できたよ、修吾くん」
僕の前に、コーヒーやサラダ、トーストに目玉焼き。僕が見たこともない『それらしい』食事が並んでいた。まるで、ドラマから抜き出してきたようなそれに、僕は少しばかり驚きを感じる。僕が料理を学べば、いつだって再現出来たもので――けれど、それでは意味が無い。愛情が料理に籠るなんて信じたくないけれど、けど僕にはその言葉の意味がなんとなくわかるから。料理なんてしたくなかった。虚しいだけじゃないか。オナニーみたいで。
食事もセックスも、そういう意味では似てるのかもしれない。三大欲求の二つ。一人で満足に行えるのは睡眠くらいな物だ。もちろん食事だって、一人でも行えるけど、僕は満足したことがなかった。食事には――食欲には――物を食べること以外にも満たさなくてはならない何かがあるのかもしれない。
「食べないの?」
「え、ああ。ごめん。いただくよ」
箸を取って、トーストにサラダを敷いて、その上に目玉焼きを乗せ、頬張った。シンプルながら美味しい。食指が進んで、沙苗が見守る中、ぺろりと平らげてしまった。
「いい食べっぷりだね」
「沙苗の料理が美味しいからだよ」
「はは。白々しいなあ」
本当なんだけどな。しかし、それ以上僕は何も言わない。コーヒーを飲んで、追いかけるように食べる沙苗を見守るだけだ。沙苗と出会ってから――僕の中で何かが狂い始めているのは間違いない。良い事か悪い事か判断する必要もない。変化は常に悪い予兆だ。変化を望む人間なんて、変化に弄ばれた人間だけだ。
「これが夜明けのコーヒーってやつかな? ――って、もう昼なんだけどね」
「今時そんな表現使う人はいないよ。八十年代のトレンディードラマじゃないんだから」
「……修吾くんって、物語の守備範囲広いね。よっぽど好きなんだ?」
沙苗は、リビングの端にある本棚へと一瞥。僕自慢の、本、DVDが詰められたそれは、ある意味、僕が生きてきた証でもある。
母さんから生活費を支給され、やりくりを覚えた僕は、余ったお金で『物語』という物ならなんでも買った。それはひとえに、僕がわからない人の気持ち、心、思考のプロセスなんかを知りたかったからにすぎない。
人は性格と呼ばれる思考の回路と、その回路を走る外的な刺激。そしてそれに対するリアクションさえ理解すれば、それは人間を理解したことになる。
小学生当時の――物語を見始めた頃から、そう思っていた。
人間は電気仕掛け。それは、電子レンジがつまみを捻れば、物を温めるように。あるいは、電話をかければ、つながるように。
僕はそれを、今までずっと考えてきて、しかし誰にも言えなかった事を、沙苗に初めて言ってしまった。なにかの、そう。なにかの気の迷いだったと思う。
「おもしろい考え方だと思うよ?」
意外にも、返ってきた言葉は、好意的な物だった。彼女はにこにこと笑いながら、まるで今日の夕ご飯は何にしようか? と相談するような気軽さで口を開いた。
「あたしは、人がどういう物かなんて考えた事ないし。あー、でも。どうして血を見てみんな気持ち悪いって思うのか、私はよくわからなかったかな? だって、あんなに綺麗なのに」
「僕はなんとも言えないけど。血は、特に好きでも嫌いでもないし」
「そっか。まあ、それだけでも安心だよ。――最初に淫血症だって知ったのは、小学生の時だったかな? 私、車に跳ねられて、血がたくさん出て、それを綺麗だなって思った。ちょっと恥ずかしい話……それが多分、初のオーガズムだったと思う」
「君も筋がね入りだな……」
未だかつて、交通事故で初のオーガズムを済ませたなんて話は聴いたことがない。それが淫血症の方向でよかった。交通事故に遭わないとイケない体、なんて言われたら、さすがに僕はリアクションできない。
「で、まあ血がたくさん出ただけで、なんの異常もないし、傷跡も目立たないくらいまで回復したから、事故についてはもう正直どうでもいいくらいなんだけど。お母さんが「痛かったね。血がいっぱい出て気持ち悪かったでしょ」って。私は、血って普通は気持ち悪い物なんだなって、その時わかった。それから、誰にも言おうとすらしなかったよ。だって、気持ち悪いって思われるのは当たり前だからね。――修吾くん的に言えば、血に嫌悪感って反応があるのは、極めて一般的な回路って証拠なんだよ」
少なくとも、綺麗とか興奮するは、あんまり一般的じゃないよね。
彼女は、苦笑してそう言った。
僕と彼女は、どこか似ているのかもしれない。理解が得られないところ。そして、人としてどこかおかしい回路を抱えているところ。同類というわけじゃない。多分、一番近い言葉は類似品。
運命とか、そういう言葉は信じたくない。世界はあくまで、起こっている事が絡み合い、見えていないところから突然自分の元へ事象が降ってくるから、偶然や奇跡なんて言われているだけで、世界には当たり前にある事だ。
だから、僕と彼女が出会ったのも、当たり前の事だった。その出会いは、ロマンチックとは到底言えなかったけれど。
僕は、突然自分の中で、男性的な欲求が立ち上がるのを感じた。それは本当に唐突だったので、少し驚いたけれど、しかし、彼女も僕を熱っぽい視線で見ている事に気づいて、黙って立ち上がり、彼女の前に立つと、そっと口づけをした。
「んぅ……っ」
沙苗の鼻から漏れた小さな吐息が、僕の鼻を撫でる。沙苗から噛まれる前に、僕は自分で唇を器用に噛んで、咥内にじんわりと血をにじませる。
彼女はそれを、まるで生まれたての犬が母乳を求めるような必死さで啜った。
こくり、こくりと小さな喉仏が上下する。
彼女を椅子から下ろし、僕はスウェットの上から彼女の胸を下から上へ持ち上げるようにした。確かなボリュームが僕の掌を押し返す。
「んっ、――ふあ、ぁ……」
彼女の声が僕の耳を撫でる。覆い被さるように、僕は彼女の肩と頭の間に顔をねじ込み、できるだけ密着し、耳をわざとぺちゃぺちゃと水音をさせながら舐めた。
その音がどうも、沙苗を快感と不快感の狭間に立たせているようで、「や……ぁ……」と、白々しい抵抗で僕の胸をやんわりと押している。
しかし、力と抵抗する意志が足りなさすぎる。
腹とスウェットの間に手をねじ込み、少し固い毛の感触の奥にある、柔らかく塗れた隙間に、指を滑り込ませる。
「あっ……ちょ、急にそんな……」
「うるさいよ。好きにさせて。血を出すのだって、痛いんだから」
そう言うと、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
お詫びというわけじゃないが、もう一度口づけし、血をあげた。その旅に僕の指先に、なにかびくびくと押し返してくるような感触があるから不思議だ。
僕たちはしばらくそんな風にして、互いの熱を互いの体に刻み込んだ。
もう準備できただろう。そう思い、僕は彼女に腰を浮かせるよう言って、スウェットを脱がせ、うつ伏せにし、お尻を突き出させる。そして、外気にさらされた彼女の秘部に、僕の先端をあてがい、そして一気に腰を沈めた。
「うっ……はぁ……んっ、修吾くん……」
真っ赤な顔。汗ばんだ肌。上擦る声。そのすべてが僕を魅了する。
彼女を壊すように、あるいは磨きあげるように、僕は腰を動かした。
肌と肌がぶつかる音。そして、水たまりを踏みつけるような水音。そして、僕と沙苗の息づかいがシンクロする。
「あっ、んん……っ! 奥、来てる、う……っ!」
そして、僕は彼女の肩を掴み、上半身を抱き起こし、後ろから抱きしめるようにする。
「しゅっ、修吾く、ん……っ。な、にして……あ……」
そして、僕はそのまま、膝立ちの状態で、沙苗の膣内へと射精した。
「は、ああ……ん……あったかい……」
沙苗が僕の腕を甘噛みする感触と、妙な倦怠感を味わいながら、僕はそっと沙苗の肩に顎を乗せた。
僕は、僕の中の歯車が狂い始めていることに気づいていた。
彼女のことを、もっと、もっと、知りたい。