Neetel Inside 文芸新都
表紙

「心が欲しいのです」
「行方の話」

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   「行方の話」


 夜も随分と更けた頃、鵠沼は漸く目的の場所へとたどり着いたことを知った。月夜の光が山の滑らかな輪郭をなぞり、深緑の木々が風に依って揺れる。
 葉の掠れる音がすぅっと、静寂にスッと切れ目を入れるように流れ、そして消えていった。
 森林地帯の中央をごっそり抉り取ったように存在するその盆地は、まるで時代から弾き出されてしまったかのように大人しく、生気すら感じさせない冷たい空気が村中を這いずり回っている。点在する一軒家、大半を占める田畑等を何度か見回す。村民の表れる様子は無い。まいったな、と鵠沼は口をへの字に曲げ、ポケットから携帯を取り出しディスプレイを覗きこんだ。反応を示さない電波に冷たい視線を投げかけた後、鵠沼は小さく嘆息した。
 入り口に立ち続けていても仕方がない。兎にも角にも目的の家屋に向かわなければならない。男は身体を一度ぐるりと回すと手にしていたキャリーケースの柄を握り直すと、温かい食事のことを考えながら再び歩き始めた。
 元々愛車に乗ってここまで来る筈が、相手方にどうやら外部の者を招く懐の広さはないらしく、整備した様子の無い悪路にハンドルを取られてしまった。幸い自身に怪我は無かったが、自慢の愛車のフロントはすっかりへしゃんこで、騙し騙しに行けるかとも思ったのだが終いには煙を上げてどうにも動かすことができなくなってしまい、徒歩を選ばざるを得なくなってしまった。
 事故を起こした場所からこの村までの距離が然程遠くなかったことが唯一幸いだった。ただ目的の家に到着したらレッカーの手配と知人に迎えの手配をしなければ……。
 羽虫の音が騒々しく響く畦道を歩き、一軒家を見つける毎にその表札を確認しては違うと首を捻ってまた歩き出す。コンクリートよりも幾らか柔らかな土道に初めは感謝していたが、その柔らかさ故の不安定さに、寧ろ今は足をとられ余計な体力を使わされている。舗装された道のなんと素晴らしいことだろう。

 暫く歩き続けるうちに、林道が見えてきた。
 ここまで見かけた家屋の表札とアポイントメントを取った名前とが一致しなかったことと、他よりある程度整備された道を考えると、住まいは確実に存在し、更にそれが何かしらこの村で上位の立場にある者の家屋であることが推察できる。元々鵠沼が予定していた相手はこの村の主である。成程村の最奥に家を構えていてもおかしくはないのかもしれない。
 夜更けの冷たい空気も流石に辛くなってきた。そろそろ目的の家に失礼したいものだ。鵠沼は身体を抱きしめ何度か擦り、それからキャリーケースの冷たい柄を再び握り直して林道に足を踏み入れた。

 暫く歩いたが一向に道は開けない。左右は幾つもの巨木が太い木の根を地面にびっしりと張り付けて立ち臨み、頭上ではそれらから伸びた幹、そして葉が空を塗りつぶし、月光の入る隙さえも埋め尽くしていた。天然のトンネルのようなものだ。
 流石に歩き疲れて鵠沼は傍の樹木に身体を預けると煙草を取り出して火を付ける。自然には似合わない煙が鵠沼の口から立ち上り、そして霧散していった。鵠沼は煙草を吸い尽くすと、行く先に目を向ける。
 暗闇が口を開けて今か今かと獲物―この場合は鵠沼の事になるのだろう―を待ち構えている。慣れ切った村民に比べたら、都会の味はさぞかし美味かろうな、と肩を竦めながら鵠沼は小さく呟くと、火の消えた煙草を入念に巨木に擦り付けた後地面に投げ捨て踏みつける。
 巨木が律儀に列を成している林道を再び歩き出す。時折聴こえる風の音で葉の擦れる音が暗闇に流れ込み、空気に溶けていく。あるのは一本の道と、暗闇だけ。
 先の見通せない道を鵠沼はそれでも歩き続ける。途中でネクタイを緩め、ボタンを二つ開けたが、しかし息苦しさが消えることは無かった。この周囲の雰囲気にやられてしまっているのだろう。

 数十分程、だろうか。
 漸く先に暖かな光を見て、鵠沼は安堵に胸を撫で下ろす。同時に抱え続けていた息苦しさも嘘のようにすっと溶けて消え、棒のようになった足は軽くなる。やはり行き先が見えるだけで心持ちも変わるものだと鵠沼は一度伸びをすると、林道を通り抜けた。
 林道の先には、立派な一軒家が一つだけ構えられていた。まるで隔離された村からも「隔離」されているようだ。
 漆塗りの屋根が特徴的な一軒家で、丁寧な塗装までされている。玄関先は蛍光灯で照らされ、扉も現代的なものだ。此の村には不釣り合いなほど都会的なその外見に、鵠沼は怪訝な顔を思わず浮かべてしまった。
 彼は警戒するように慎重に歩み寄り、表札の名前を確認する。
――確かに、連絡を受けた名前だ。
 尋ねた家が現代的な造りであった事もあるのだろう。鵠沼は吸い込んだままの呼吸を吐き出し、ネクタイとシャツのボタンをぴっちりと直してから漸く玄関横のインターホンに指を伸ばした。
 伸ばして、止める。
 現世から隔絶されたようなこの村で、何故この家だけがこれほどまでに整っているのだろうか。それまで見てきた家屋は、どれも見窄らしく、何かの拍子に壊れてしまってもおかしくないものだった。理由に関して思い当たる節はあったが、それでもこれほど隔絶されていると妙な不安を抱いてしまう。
――私は、何かに化かされているのではないか。
 浮かび上がった疑問はまさに泡沫のようなものだった。鵠沼は今まで目に視えないものなど存在する筈がないと考えてきた。触れることもできないようなものを信じていたらキリがなさすぎる。
 だが、こうしてどうにも不釣り合いな存在を目の前にすると、そんな夢幻のような出来事があるのではないかと思ってしまう。ああこうして人は騙され、在りもしない幻想に取り憑かれてゆくのか、と男はほんの少しだけ、泡沫にしがみつこうとする彼らの心理を理解することが出来た気がした。
 何を物思いに耽っているのだ、と彼は首を振って両頬を軽く叩いた。じりじりとした痛みを頬に感じながら、鵠沼はようやくインターホンを押した。
 インターホンの平凡な音に思わず気が抜けてしまいそうになる。何が幻想だ。やはりネガティブな考えは何一つとして良い事を残さないものなのだな。鵠沼は高鳴る胸に手をやって何度か呼吸をし、それから反応が無い事に眉を顰めると、もう一度インターホンを押した。
 気の抜けたインターホンの音がもう一度響いて、それからはあい、と女性の高い声が帰ってきた。
 とたん、とたん。
 床を小走りする音が次第に近づいて、やがて扉の曇りガラスの前に女性らしい細身の白いシルエットが現れた。
「どちら様です?」
「お約束をさせていただいていた、鵠沼と申します。随分と遅くなってしまって申し訳ありません」
 ああ、鵠沼さんですが。女性の声はそう言うと錠を落として扉を開けてくれた。
 出てきた女性は少し歳のいった中年女性で、曇りガラス越しの輪郭から浮かべていたイメージと反して大分皺とたるんだ肉のついた女性だった。白いネグリジェを身に付けた女性―恐らく家主の妻だろう―は柔和な笑みを浮かべ、さあさあと手招きする。
 鵠沼は言葉に従うまま彼女の家に上がり込む。
 なんてことはない。洋風の住まいだ。ワックスが丁寧にかけられたフローリングに洒落た小型のシャンデリアが反射して映っている。村民がある限りの情報を元に形にした結果の洋風な住まいを表現した結果なのだろう。
 こちらです、と言われるままに玄関から伸びる廊下を歩いて行く。確かに随分と大きな家だとは思ったが、これほど廊下が長い造りとは恐れ入る。扉、絵画、扉、絵画と律儀に飾られた廊下の奥にやってくると、女性は扉を開く。そして柔和な笑みのまま彼を手招きした。
「さて、鵠沼様。ようこそいらっしゃいました」
 招かれた先はリビングだった。中央の長いテーブル、その上に等間隔に置かれた銀の燭台には火が揺れ、目の前の席に用意された食事に細長い影を落としている。風情を楽しみたいとでも思っているのか分からないが、全体の照明は抑えめだ。
 どこまでも「西洋」をリスペクトするその造りにうんざりしながら、彼は長テーブル一番奥にどっかりと座る男性―家主だろう―に目を向ける。ブルーのガウンを着たその男性は揺れる燭台の灯りの下でワインを傾けていた。脂肪のたっぷりのった肉体がワインと共に揺れている。
「素敵なワインですね」
 家主に向けて適当な言葉を口にし、扉の傍にキャリーケースをどさりと乱暴に置くとネクタイを外した。突然の男の行動に小さく眉を顰める男性であったが、一度俯き、再び顔を上げた時には再び笑みが張り付いていた。
「よく来て下さった。鵠沼君」
「少し遅れてすみません。無事に到着することができて本当に良かったです」
 彼はそう言って用意された席にどかりと座り込む。目の前に置かれた料理はどれも形だけは高級そうだった。グラスの注がれたワインを手に取ると鼻を近づけ、若干量を口にすると飲み込む。どうにも好きになれそうにない。これより旨い酒ならコンビニにも置いてあった。彼は一体どこからこのワインを仕入れているのだろう。
「この村はすっかり閑散としていてね。若者もすぐに出ていってしまう」
「あれだけ暗く冷たい空気が吹いていれば誰だって温い場所を求めたくなるものですよ」
 流石に不躾すぎただろうかと思ったが、家主はごもっとも、と陽気に頷きワイングラスを傾けた。彼の西洋かぶれな様にだんだんと苛立ってきて、男は胸元から煙草を一本取り出すと口に咥え、燭台に顔を近づけ、煙を吐き出した。
「……始めにこの話を聞いた時は、正直なところ驚きました」
「だろうね。皆そうやって食い付くんだ。そして奇跡と祭り上げていく」
「彼女は、ある意味では奇跡ですよ。よくそんな状態で生き続けられたものだ」
 鵠沼は目一杯吸い込んだ煙を吐き出す。
「それで、会わせて戴けるんでしょうね?」
「勿論」
 男性はそう言って微笑んだ後、少しだけ悲しそうな顔を浮かべ、それからワインをぐいっと飲み干した。真紅をした液体がするりするりとグラスから消えて、最後には透明な空の杯だけが残った。
「ただ今日は夜も深い。娘も眠ってしまっているのでね。君が急いでいないようならできれば会うのは明日にしてもらえないだろうか」
 鵠沼は頷いた。できれば早めに会いたいと思っていたが、到着した時間も時間だ。それに随分と疲れた。ぐっすりと眠りたい気持ちも強かった。
「妻に部屋を一つ用意させました。今夜はそこでゆっくりとお休みになってください」
 家主の言葉と共に彼の妻がお辞儀をした。たるんだ肉がまた揺れる。鵠沼は二人の外見に目を細めなら、好みに反しているワインをぐいと一息に飲み干すと、笑顔を作った。
「ええ、是非」

   ・

 客間はリビングや玄関よりも幾分かマシな作りで、初めあのチカチカするような色合いの中で過ごさなくてはならないことを不安に思っていたのだが、開けてみればモノトーンのシックなデザインの部屋で、ベッドやテーブルも随分とシンプルなものだった。流石の西洋被れも客に押し付けるような考えは持っていないようだ。彼はベッドに腰掛けると、部屋の隅に置かれたキャリーケースを見つめる。
 ここに来ることに何一つ後悔が無いと言えば多分嘘になるだろう。この家で起きる出来事は、鵠沼を含め様々な人物の行き先を変えてしまう可能性がある。勿論奇跡と称される少女でさえも変わってしまうかもしれない。
 果たして自分の選択はこれでいいのだろうか。
 考えながら鵠沼はふと煙草が吸いたくなって、部屋の窓を開けた。
「……の為を思ってなんだこれは」
 煙草を咥えたところで聞こえてきた声に、鵠沼は動きを止めた。
「私達の幸福はそれしかないんだ。こうしてやることで、例え君の心が失われてしまったとしても……」
 ああ、と鵠沼は目を閉じた。そうか、隣は娘の部屋なのか。にしても窓を開けただけで声が聞こえてしまうとは。拘るわりにこの家屋も案外軟いのかもしれない。
「私達の幸福は、それなんだよ……」
 懺悔のように呟かれる言葉を聞きながら、鵠沼は肺一杯に煙を吸い込み、吐き出した。深緑の揺れる樹木に、濃紺に染まった夜空に下弦月が光る。其の中を白濁がゆらりと泳ぎまわる。その景色を汚すように吐き出されたその煙は、自分が吐き出したものだ。鵠沼はぼんやりと煙で台無しになった景色を眺めた。
「貴方の心が欲しいのです」
 鵠沼は小さな声で呟いてみる。どんなものよりも残酷な要求だという自覚ははっきりと持っていた。
 何もかもを差し出し、正真正銘その「身」を以って人々を救う奇跡の「死なない」少女と、鵠沼は対面する。そして自らの要求を告げなくてはならない。

 少女は、とある童話をもじってとある渾名を着けられていた。

――盲目で幸福な王女。


       

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