Neetel Inside 文芸新都
表紙

ひぐらし特急三行半
東雲、行人帰り

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 少し前、数年相伴してきた妻と、僕は離婚した。
 電車の窓から見える風景は秋色に染まり、銀杏や紅葉が電車風に吹かれて舞っている。俄かに朝づく空気を割いて、「ひぐらし特急」は一本道のレールを我が物顔で走る。山際にのっぺりと顔を出す太陽が辺りを淡く染め上げて、その眩しさに僕は視界を細める。
 早朝にマンションから追い出され、キャリーバッグ一つだけを携えた僕は、始発に乗り、いくつか電車を乗り継いで、このローカル線「ひぐらし特急」に揺られている。もちろんそれは愛称であって、この電車は本来名前も何もない、日暮本線を走るだけの機械である。「ひぐらし特急」というのは地元の人が付けたニックネームで、交通の便が悪く、バスも殆ど通らない日暮町において、電車と言うのが超特急の乗り物だからだった。
 午前七時に走る他称特急は人気が少なく、貸切と言っても過言ではない。車内側面に並べられた赤の座席には、この車両においては僕だけが座っている。どれだけ寝転がってもビスケットを食べ散らかしても諫言を受けることはない。それほど日暮町は廃れきっているし、また同時に全てが寛容である。そこに都市で問題とされる怒りはない。
 また不思議な事に、街では当たり前である車内のアナウンスもない。理由は一日に何度も走る電車ではないこと、日暮本線に駅が四つしかないことが挙げられる。別に乗り過ごしても、折り返しで降りればいいのだから。そもそも客自体が少ないので、降りないでいると運転手から声を掛けられることもあるという。
 電車と言うより、バスに近い。それが、この町に走る「ひぐらし特急」。
 三つ目の駅で降り、僕は電車と同じ方向に歩いて行く。実家は三つ目と四つ目の駅の真ん中にあり、こちらで降りて歩いて帰った方が結果的に早い。別に、もっと電車に揺られて、のんびり歩いて帰っても良かったけど、何か、心の隅っこの方が落ち着かないような、ひっかかれるような気分になって、電車を降りてしまった。
 電波塔と納屋が建っている以外は、ひたすら田園風景が広がる世界。テクノロジー社会に置いてけぼりにされた日暮町は、僕が都会に出た頃、言ってしまえば僕が幼いころからまるで容貌を変えていない。少し歩けば、その様子は両眼にまざまざと映し出される。
 整地されていない道に沿うように草叢が走る。その草叢が、のびのびと拡がる田圃を縁取る。片方の手袋がない案山子。孤独な電信柱。亀が首を出す池。緑を生やした小さな山。その裾にある、昔からの心霊スポットである真っ暗の洞窟。田圃に立つ鷺。純和風の家々。土を被ったビニールハウス。近所のみかん畑。瓦が欠けている古ぼけた公民館。開いているかも分からない駄菓子屋。中身の朽ちた自販機。宗教の看板。錆びついた公衆電話。
 彼らは僕が住んでいた昔から、何一つ表情を変えていない。
 笑顔で、この町を飛び出した僕は、少し、虚ろな表情で帰って来た。
 見慣れた建物が、地平線上に元気な姿を見せる。
 実家は、何年か前に台風で半壊して、その部分をトタンで補強した。元は瓦葺の平屋。北に面した部分がかなりトタンで覆われているが、幸い被害を受けた部分のほとんどが使っていなかった倉庫だったので、大した損害はなかった。むしろ被害を受けたことによって家の整理が出来て、以前よりも住み心地が良くなったかもしれない。そんな我が家も、飛び出した時と何ら変わってはいない。
 トタンの赤錆が、あの時より、増えているだけ。
「――――ただいま」
 今は玄関として使用している勝手口を開き、控えめに言う。しばらく返事はなかったが、土間に入って靴を脱ごうとしていると、居間に繋がる引き戸が開いた。
「寿人……じゃないか。帰って来てたんだな」
「その言葉、唯一の家族に掛ける言葉としてはどうかと思うけどな。兄さん」
 双子の兄の和人。今は親が営んでいた農業を受け継いで、この家に一人で暮らしている。当然農家を継ぐ以上は跡取りが要るわけだが、本人曰く、まだ結婚も何も考えてはいないらしい。四捨五入すれば三十路を迎えると言う、この時期になってもである。
「嫁さんがいないってことは、やっぱり、本当に離婚したんだな」
「ああ、離婚したよ」
 話を受け流しながら居間に上がり、キャリーバッグを置いて、炬燵に篭もる。
 八畳ほどの、一軒家としては決して広いと言えない居間には、僕の贈った時代外れのプラズマテレビと古めいた掛け時計、それにやかんの乗った石油ストーブや食器棚が置かれている。テレビには地元の情報番組が流れている。数年前から番組名も変わっていない。
「帰って来るなら帰って来るで、一言連絡でも寄越せばいいのに」
 若干恥ずかしそうに、和人は流しにたまった食器にかける手を止める。僕はほとんど目を合わせずに、炬燵の中央に据えられたみかんを見つめる。
「連絡したら、兄さん、会話が止まらないだろ」
「止まらないのが、悪いことか? この時世、コミュニケーションは必要だぞ」
「兄さんは少し度が過ぎるんだよ。それにコミュニケーションならもう間に合ってる」
「間に合ってるって、インターネットだろ? お前確か、デザイナーだっけ、仕事」
「そう、Webデザイナー。それこそ、これからの時代は、インターネットが中心だよ」
 和人がコーヒーを淹れて、僕の目の前に差し出す。
「ああ、スティックは三本も要らないよ、一本で良い」
「ん、そうか? 昔はこんな苦い物飲めないなんて言って、すぐに角砂糖をぽとぽとと、」
「もう昔の話だろ、放っといてくれ」
 また、話が長くなりそうだったので、途中で遮ってカップに口を付けた。確かにまだ苦い物は苦手だが、昔ほど嫌いではなくなっていた。どうせ、それほど苦くはない。
「いやー、懐かしいな。お前が帰って来るなんて何年振りだろうか」
 水回りを片付け終えた和人が炬燵に入り、嬉しそうに語りかけてくる。
「お前、出て行ってからは一度も帰って来てないだろ? だからかれこれ……五、六年は経ってるんじゃないかな」
「七年だよ。高校卒業して、すぐに出て行ったろ」
「ああ、そういえば、そうだったかな。いやあ、懐かしい」
 懐かしい。和人がそんな言葉を口にするたび、胸にぽっかりと穴が開くようだった。
「お前が帰って来たと知ったら、おじさんおばさんや、お前の友人も吃驚するだろうな。あの小生意気だった、早く家を出たいだなんて言ってた寿人が、帰って来たーっ、てな」
「……余計な事を言わないよう、しっかりと監視しておくよ」
「ははは、日暮町は狭い。お前が帰って来た事実なんぞ、言わずともすぐに広まるさ」
 和人の言うことは間違っていない。恐らく、家に帰るまでの短い間でも、僕の姿は目撃されている。知った人が顔を見れば、すぐに誰かだなんてわかるだろう。きっと、明日には町中に僕が帰って来た旨が知れ渡っているに違いない。
「ま、せっかく帰って来たんだ。仕事忘れて、ゆっくりしていけよ」
 そう言って和人は僕の方をぽんと叩き、土間にある台所へと戻って行った。
 似合わないエプロンをつけている和人。性格や上背こそは変わっていないが、肩を叩いた手はギターをしてた高校時代と違ってごつごつした農家の手のひらになっていて、家の中でもお洒落だった服装は、泥の付いた動きやすいジーンズに変わってしまっている。農家を継ぐと決めたからには、やはり和人も、変わっていくのだろうか。
 僕は少しだけ安堵を覚えながらも、膨らむ不安に怯えずにいられなかった。
 帰って来た理由を、悟られないようにしなければいけない。
 底に溜まったコーヒーは、砂糖が固まっているのに、少しだけ苦かった。

       

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