『the fool ボンドの海と貝の塔』
ボンドの海を知っているだろうか。その名の通り乾きかけたブヨブヨのボンドで出来た海で、どこからどこまで続いているのかは誰も知らない。海辺は全てコンクリートで出来ていて、当然潮の満ち引きも存在しない。
海の中には固まった恐竜や猿がたくさんいる。きっと俺もこの海に落ちたら、あいつらみたいにゆっくりボンドに飲み込まれて身動きが取れなくなって、最終的に下世話な化石みたいになってしまうんだろうなと思う。
それらの「化石」の中に人間がいないのは、俺達がそれだけの想像力と知恵を持ってるってことなんだろう。猿の脳みそでは容量が足りなかったんだ。
俺はたまに、このボンドの海が猿を人間に進化させたのではないか、と思う。
俺の家は海の真ん前にあって、今は娘と2人で暮らしている。妻は娘が産まれてすぐ他に男を作って消えてしまった。きっと今はボンドの海が見えない場所で幸せに暮らしているだろう。
家の前には細長い橋がある。橋はボンドの海を渡る唯一の手段だ。さっきも言ったとおりボンドは乾きかけてブヨブヨなので、泳ごうものならたちまち「化石」達の仲間入りだし、船を浮かべたらそのまま沈んでいく上、漕いだらオールが折れてしまう。
橋の向こう側には小さな孤島があって、そこには縦に細長い三角錐のような形をした「貝の塔」がある。この塔は巨大な一つの貝殻で出来ていて、窓は一つもない。
塔の扉の前にはグリーという名前の門番が立っている。彼の仕事は20歳以下の人間を塔に入れないこと。大体毎日夕方6時頃までボーっと扉の前でつっ立っていて、時間が来ると鍵を閉めてさっさと帰ってしまう。
塔の内部は真っ暗闇で、懐中電灯かランタンを持っていかないと何も出来ない。それから門番に渡す少しの入場料が必要だ。塔に入りたがる人間が20歳を超えているかをどうやって確認しているのかは分からない。
でも「20になる誕生日の1日手前に行ったら追い返された」という話を聞いたことがあるので、何か年齢を見分ける手段があるのだろう。ひょっとしたら生まれつきそういう能力を持っていたのかも知れない。
塔内部には人肌と磯の匂いを足して割ったような生暖かい匂いがする。安心する匂いだ、という奴もいれば、吐き気がするという奴もいる。まあ、人それぞれだが、俺は嫌いじゃない。
明かりを頼りに塔を一階ずつ登っていくと、徐々に部屋が狭くなっていく。外から見たとおり貝の塔は円錐の形をしているからだ。
14階まで登ったあたりで、大人の身体なら身動きがほとんどとれないくらいに狭い。当然それ以上登るなんてことも出来ない。
塔には20歳を超えた大人しか入れないから、塔の15階に行った奴は誰もいない。15階まで登ることが出来るのは、痩せっぽちの子供か小さな動物くらいだ。子供は何度も言うように塔に入れないし、動物は喋らない。
でも俺は、一度だけ15階まで登ったことがある。8歳の頃、この細長い身体と大人びた悪知恵を使って。
あの頃の俺は見渡す限りボンドとコンクリートに囲まれた世界に飽き飽きしていて、塔の15階にはまだ見ぬ素晴らしいものが隠されていると信じていたんだ。
当時の門番は・・・そういえばジャックと言う名前で、無口な中年だった。彼を手懐けるのは意外と簡単に出来た。彼が俺の母親に密かに恋しているのを知っていたから。俺は母親の結婚指輪と引き換えにして、塔に入ることが出来た。もう一度言うが、あの頃の俺は世界に飽きていたんだ。
8歳の俺が塔に入ると、真っ暗闇の筈が何故か薄明るかった。切れかけの白熱灯のような、妙に落ち着く明るさだった。匂いも、今よりもっと素敵なものに感じられた。
俺はワクワクしながら急いで塔を登った。言い忘れたが、上の階と下の階を繋ぐのは垂直に立てられた梯子だ。子供の体で何度も梯子を登るのは大変だったけど、当時の俺は全く疲れを感じなかった。興奮していたのだ。
あっという間に14階に辿り着いた時、8歳の俺は少し恐怖を感じた。子供の身体とはいえ流石に窮屈だが、梯子を登る分には大丈夫そうだ。15階にはなんなく辿り着けるだろう。
だが、もし15階に何もなかったら?それにそもそも、15階が最上階だなんて誰も言っていない。15階より上があった時、俺はどこまで登ることが出来るのか・・・身動きが取れなくなるほど狭くなった時、まだ上の階があったら・・・?
俺は世界の退屈さを認めたくなかった。だからこそ15階に何もなかった時、俺はこの先どうやってこの世界を否定すればいいのか・・・。
しかし、8歳の俺は世界を否定しつつも心のどこかで「きっと本当は素晴しい世界がある」と信じていた。だから10分程迷った後、力強く梯子に手をかけた。
ゆっくり自分を焦らすように梯子を登っていく。あと11段・・・5段・・・1段・・・ついた。
結論を言うと、15階に期待した「素晴らしい」ものはなかった。ただただ、尖った天井があった。その天井は、俺が貝の先端まで来たことを表し、15階は最上階だったことを理解させた。
しかし、期待したものはなかった。それどころか、何もなかった。しかし、8歳の俺は不思議と落胆しなかった。この巨大な塔を最上階まで登りつめた達成感と、それによる心地良い疲労感。俺は、満足していた。
その瞬間、今まで薄明るかった塔の内部が徐々に暗くなり始めた。完全に真っ暗になっては塔を降りることができない。俺は焦って、天井に一瞥を送り急いで塔を降りようとした。
その時、天井に「the fool」と掘られているのを見た。
そして41歳になった今、俺は再び塔に登っている。なんとなく、思いついたから、だ。大人になった俺は、入場料でタバコを一箱買えると思うと金を払うのが億劫になったので、門番のグリーに娘の写真を渡して無料で入場させてもらった。彼が娘に恋しているのを知っているから。
あの頃と違って内部は真っ暗闇だった。俺は懐中電灯を点けてゆっくりと塔を登った。
そうして14階に辿りついた時、あまりの窮屈さに愕然とした。俺は未だに痩せっぽっちで、その上子供の頃の14階の記憶があったから。子供から大人になるっていうのは、何かを失うことなんじゃないか、と思った。
分かっていたことだが、これでは15階には登れそうもない。そう思ってふいに足元を照らした時、床に掘られた「the fool」の文字に気付いた。まさかと思って下の階に降りて床中を懐中電灯で探すと、やはり13階にも「the fool」の文字が掘られていた。俺はほとんど確信に近い思いで一階一階の床をくまなく確認した。すると、どの階にも「the fool」の文字があった。12階にも、11階にも、10階にも、9階にも、8階にも7階にも6階にも5階にも4階にも3階にも2階にも・・・。1階以外の全ての階に「the fool」の文字があった。
その瞬間、生暖かい塔の匂いにいきなり吐き気がして、俺は急いで塔を出た。扉を出たところで膝を付いて息を切らしていると、門番のグリーが消えていることに気付いた。
そして、塔の外壁のいつもは門番がいて見えない部分に、またも「the fool」の文字を見つけた。俺はなぜだか少し、絶望した。
落ち込んでいいのか、どうすればいいのか、自分でも分からない面持ちで橋を渡り家に帰った。ボンドの海に沈んでいる恐竜や動物に何故だか笑われている気がした。
そうして家に帰ると、娘がグリーに犯されていた。グリーは獣のように娘の上で運動をし、娘は赤く腫れた頬をして泣いていた。グリーは運動に必死で、俺に気付くことはなかった。俺はおもむろに玄関先にあったワインの瓶を手にすると、娘が「お父さん」と言い終えるより先にグリーの後頭部を殴った。急に頭を殴られたグリーが物事を認識する前に、立て続けに3、4初瓶を振り下ろした。
安物の鐘のような音が連続して鳴り響き、気付くとグリーは娘の中で死んでいた。瓶は骨より硬し。俺は、驚く程無表情で彼を殺し、娘を救った。
その後、グリーの死体を娘と2人で家の外に運び出した。娘はしばらくの間俺の胸で泣いていたが、その内泣くのをやめて、「数に入れなきゃ、こんなのなんてことないわ。」と言った。娘は処女だったが、精神的に既に「女」だったのだ。私は娘を抱き締めてやりたかったが、娘とグリーとの行為を思い出すとどうしてもそれが出来なかった。私は娘に触れたくなかった。なぜなんだろう・・・。
死体を外に運び出すと、次は海辺まで持っていった。ボンドの海近くには現在私たちとグリーしか住んでおらず、グリーは死んでしまったので人に見られる心配はあまりなかった。
それから2人で一緒にグリーの死体をボンドの海へ投げ込んだ。グリーの身体は、まだ温かいままズブズブとボンドの海に沈んでいった。その時、ボンドの中にいた恐竜が急に動き出して、グリーを食べてしまった。乾きかけのボンドの海に血は流れない。傷口は全てボンドによって塞がれてしまうから。
ボンドの海の生き物は「化石」なんかではなく、まだ微かに生きているのだ。俺はそれを、8歳の頃母親が父親を殺して同じように死体を処理した時に知った。
これから何度、グリーを食べた恐竜と目を合わせるのだろうか。ボンドの海の中で、猿が「the fool」と呟いた。