Neetel Inside ニートノベル
表紙

Nightmare Diver
少女のバイロケーション

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次の日の朝もまたなかなかの快調だった。寝不足のような頭の重さ自体は完全に消えていないのでここ最近と比較して、というわけだが。
朝起きた時には、親とドクター桐島が家にいなかった。母親がいつも朝早いのは知っていたが、医者も朝寝坊できない仕事なのだろうと改めて感じさせられる。
新婚夫婦は確かにいなかった。が、1人の少女が制服の上にエプロンを着て、まるでお尻をゆっくり揺らすように揺れながらフライパンで炒めものを作っていた。
「……でぃ・もーると、べね!」
「グラッチェ。気分はよさそうね」
「……チョコクッキーと一口チョコ、いちごのポッキー」
「兄さんはあんまり食べなかったわよね、お菓子」
完璧な確信が得たわけではないが、コレ以上の疑惑は堂々巡りだろう。
妙に様になったような発音でスクランブルエッグを更に盛りつける紫苑ちゃんは僕と違って目覚めバッチリだった。あの夢の中で僕とずっと話していたにもかかわらず、眠そうな表情は見せていない。僕よりもあの夢を長いこと見続けいているから慣れっこなのだろうか。
いや違うのかもしれない。そもそもの話、僕の睡眠不足みたいな怠さは1年前から毎日見ていた明晰夢がそもそもの原因だった。あの夢を見るようになって更に酷くなっただけで根本的原因はアレのはずなのだ。あの夢を見ていることだけが睡眠不足みたいな症状が出るのと一概に言えないのではないだろうか。
でも酷くなっていることを考えると、更に夢の内容がいいと症状が軽くなっていることを考えると……、
「兄さん、早く食べないと遅刻するわ。私の中等部時代から続く無遅刻無欠席記録を破るつもりかしら?」
「いや1人でいきゃいいんじゃないの。まだ眠いし、ふあぁ……、ゆっくり行ってもいいだろ」
「私達は兄妹なのだから一緒に行くに決まってるじゃない。そんな兄妹がいるのなら連れてきてほしいわ」
「前の席の子とかそうじゃねーの」
妹はなかなかのギャルゲー脳だった。
「朝しっかり起きて頭動かせば眠気も取れるわ。まず顔を洗いにいってらっしゃいな」
「……わかったよ」
まるで手のかかる子供を相手取るような、朗らかな表情の妹に逆らう気力もないので素直に従うことにした。
妹というか、何というか。立場的にジワジワとあちらのほうが上になっているような気がするけど。昨日から僕はいつも下手に回っているような気がしてならない。いつの間にか完全優位になっているなんてことにならないように兄の威厳作りに勤しむ必要が出てくるであろう。
「洗ってきた……? それでは、頂きます」
「……いただきます」
僕と紫苑ちゃんはテーブルに座って手を合わせ、律儀に作法を守って朝ごはんにありついた。
昨日までは1人で食べることになっていたからか朝食すら抜くときも多々あり、食べる時でも冷蔵庫の中にあったものをチンして台所にあるスプーンなどを取って台所で立食していたこともあってか、テーブルに座ってゆっくり食べることも久しぶりな感じがする。
1人だと何かと手を抜きがちになる。朝もろくな食べ方をしていなかったから、体調不良が悪化していたのではないかと言えることもあるだろう。
生活習慣の改善で少しでも良くなってくれるといい。そうなったらますます紫苑ちゃんに頭が上がらなくなりそうだけど。
「兄さん……卵が口についてる」
「ん? あっマジか……」
「じっとしてて」
「は? あっ……おい」
細くて白い人差し指が僕の口元をなで、卵を接着させて持っていく。クスっと微笑みながらスクランブルエッグの欠片を指の腹に、コレは今まで貴方の唇のそばについていたのよ、と見せつけるように載せる。
「ん……はむっ……ちゅっ。……ちょっと塩を効かせすぎたかしらね?」
「……」
兎にも角にも、このスキンシップ過剰気味な妹への耐性をつけなくてはいけない。新たな問題提起は決まりつつあるようだった。

「兄さん、準備はできた?」
「もう大丈夫だ」
妹の宣言通り、僕達2人は揃って登校することになった。
誰かと登校するなんて小学生以来だったからか、いつもと違う微妙な居心地悪さを感じていた。例えば2人の歩幅差とか、その場に華を添えるような話題だとか。どちらも気にしなくてよかった独り登校の時を考えると、アレは居心地が良かったのだと感じる。
「……兄さんはいつも1人で登校してた?」
「ま、まあ。近所に一緒に行くような奴もいない」
僕の家は学園から20分弱くらいのマンションで、そのンションから5分くらい歩いたところに駅があるので少し歩けば生徒の人通りは多くなる。そんな街路を年がら年中うつらうつらとしていそうな男と小柄の可愛い女子が肩を並べて歩いている。要するにこの時点でチラチラとこちらに目線を向ける人が見えるようになってきた。色恋沙汰に一番目ざとくなる歳ごろなのだから仕方のない事だろうけど。こちらはただの新米兄妹なので勘違いもいい所であり、迷惑もいい所である。
「そういえば兄さん、昼間に眠くなったりとかすることはあるの?」
「昨日は昼飯食ったら即眠くなって5,6時間目の記憶はあの廊下だった」
「……それは満腹になったからじゃない?」
「満腹の眠気程度で2時間ぶっ通しで眠り込むほど眠くならないだろ……」
「それにしても兄さんのは本当に重いわね……私も眠くなるようなことはあったけど毎日あったわけじゃないし」
「……」
結局あの夢が関係しているのだろうか。もしかしたら1年の時見ていたあの明晰夢も、実はあの夢の世界と同じだったという可能性もあるのではないか。ならどうして急に同じような夢にしかならなくなったのかという話に戻るのだけど。
とにかく、あのヘアピンのおかげで僕は助かった。あの世界は誰も居ない世界だという僕の諦めを覚ましてくれたのはあのヘアピンだったからだ。あの夢に苦しまなくなっただけでいくらか気分も良くなってきたことだし、しばらくは平穏が訪れることだろう。
「あれ……?」
「どうしたの?」
「……紫苑ちゃんは、ヘアピンを投げ入れたって言ってたよな?」
「あのテレビに、ね」
「……」
「え……どうしたの?」
僕は紫苑ちゃんが夢の世界の僕の部屋にあったテレビに移る廊下にクッキーを投げ入れて、映像に映し出された廊下にクッキーを落としてみせた。実際に見たのだから疑いようがない。
それじゃあ、あの人影は……。 その時僕が落とし主としていたあの人影は……
「何者?」
僕がそう呟いた途端、僕達2人を危うげに走る自転車が追い越した。ふらふらと補助輪を初めて外す子供が運転するみたいに走る自転車は直線軌道から徐々にずれ、歩道脇にある電信柱に
「ひゃっ!」
激突して紫苑ちゃんが素っ頓狂な声を上げていた。
「……痛あっ!」
あまりスピードは出ていなかった。それでも追突の衝撃でドライバーは自転車から投げ出され、思いっきり地面にたたきつけられていた。
「兄さん……今の人、居眠り運転じゃなかった?」
「……え?」
「ふらふらと走っていたのにすぐに軌道修正したような様子もなかったから……そう考えたのよ。眠いとまぶた塞がって前見えなくなるだけじゃなく、正確な判断もつかなくなるわ」
「……とにかく助けるぞ」
居眠り、という言葉に僕は人事でない雰囲気を感じていた。朝眠いといっても普通なら危険だと思えば自転車を使わないと思うし、人通りが多い道を通行するのなら尚更そう思うだろう。
「見て見ぬ振りは出来ないものね……ねぇ、大丈夫?」
転んだ人は学園の制服を着用していて、紫苑ちゃんと同じリボンをしていたことから1年生であることがわかった。
腕と脚を強く打ちつけて擦ったのか、青痰の上に擦り傷を作っている。強く痛むようなら絆創膏だけでは物足りないだろう。
「……紫苑ちゃん」
「何?」
「その子様子を見ててあげてくれ。その散らかってるものを片づけたりとかさ」
「兄さんは?」
「あそこのコンビニで包帯とか絆創膏とかあれば買ってくる。派手目にぶつけてたからな……ちょっと心配だ」
「分かったわ」
紫苑ちゃんの返事を聞いてからすぐにコンビニへ向かった。そこまで走ってすぐの場所で事故を起こしたのが不幸中の幸いだろうか、往復するのに時間はかからなかった。
「痛た……」
「ただいま……あの、傷を消毒とかするからさ、ちょっと失礼するよ」
左腕と左膝に1箇所ずつ。アルコールはなかったのでミネラルウォーターで洗い流してから絆創膏、更にテープを巻いてその上を包帯で保護する。
「あ、あの……」
「痛むか? 心配ないように巻いとくからもう少しじっとしていてくれ」
「あ、うん……痛っ!」
「……」
不謹慎にもミネラルウォーターで洗い流している時に身体がピクッと痙攣したように震えたのに萌えてしまった。よく見たらなかなか可愛い女の子だ。髪はショートで顔つきもやや中性的な面もあり、ユニセックス的な魅力を感じる。しかし身体つきはやはり女の子であり、紫苑ちゃんより高めでスレンダー気味に、でもメリハリはあった。
「兄さん……?」
「ん……?お二人さんはご兄妹?」
「あ、ああ……まぁ」
包帯をぐるぐると巻き、端を解けないように固定する。中等部時代の部活動の経験が生きた瞬間であった。あの時は自分のために巻くことが多かったけれど。
「ふわぁーびっくりした……。あ……お二人さん、本当にありがとうございました!」
「わ、私は特に何も……」
「散らかった荷物を片づけたりしてくれたよ! そういえば一年生なんだね……お名前は?」
紫苑ちゃんが頬を掻きながら答えた。
「私は桐島紫苑。1-5よ」
「あたしは1-3の小松七海」
「お兄さんは……?」
「俺は2年の鈴川準一」
「今日のところは私が居眠り運転して事故ったところをお助けいただき、本当にありがとうございました!なんで今は平気なのにこんなぼーっとしちゃって……あれ?今何時?」
頭を下げた後、スイッチを切り替えたように表情を変えてバッグのポケットに手を突っ込む。携帯を探すより僕が自分の腕時計を見て教えたほうが早いだろう。
「えっと……8時ちょうどくらいだけど」
「ぬわーっ! あたし朝練あるからこの辺で!!! 急がないと遅刻する-!!」
予想以上にタイムロスしていたらしく、びっくりした表情で回れ右をする。そして自転車に跨って颯爽と駆け出した。
と思っていたら、すぐに折り返してくる。
「あ……このお礼は必ずさせてもらいます!! 鶴は必ず恩を返すのですよ~」
七海ちゃんは自転車にまたがった姿勢で言い、初速から最高速をださんばかりに急加速して去っていった。
「……知ってる子……じゃないよね?」
「え、ええ。それよりも……」
何か腹に一物を抱えたような表情だった。
それには僕も思わないこともないような感じなのは間違いなかった。
「私の言ったとおりでしょ? 無関係とは……言いたくないわね」
「居眠りか……」
七海ちゃんもまた、あの明晰夢のような夢を見始めているのではないかという疑い。その疑いがシロであって欲しいと願う僕達だった。

―――

「鈴川……? お前呼ばれているぞ」
「は……?」
昼休み。生徒の敵である数学の授業を終え、船を漕ぎかけているところをクラスメイトの旧友に呼ばれた。廊下へのドアを見ると下級生の女の子が1人顔を出している。
言わずもがな、紫苑ちゃんだ。
「鈴川……なんでまた急に下級生の女の子?」
「さぁ」
「いっつも寝てるくせにナマイキなやつめぇ……。あの可愛い子俺に紹介しろ! してくれたら今日お前が寝てた分の授業の板書見せてやるぜ!」
「今日はお前が寝てただろーが」
旧友を半ば無視してドアの前で待つ下級生の元へ行く。下級生が上級生の教室へ訪問するのは、しかもその相手が部活動や委員会活動もしないような人だからか、とにかく目立った。
「兄さん、お弁当食べましょ?」
可愛らしいランチョンマットに包まれた大小2種類の弁当箱。僕より早起きしていた紫苑ちゃんは甲斐甲斐しくも弁当を作ってくれていたようだ。
この子は何故こんなに張り切っているのだろうか。新しい家族とはいえ、完全に今まで他人同士だった僕に何故こんなにも献身的なのか。僕がお兄さんになっただけで。
ちょっとよくわからない。
「ありがと……」
「一緒に食べましょう? どこがいいかしらね……兄さんならやっぱりトイレかしら?」
「人がいつも便所飯してるみたいな言い方やめてくれます!?」
やっぱりそうでもないのではないかと思わないこともなかった。
「だって兄さん一人ぼっ……」
「いやいるよ!?友だちいます!……いるんじゃないかな」
旧友2人を強く思い浮かべておく。
「兄さんは一人ぼっちじゃないわ……私がいるもの」
「今言われても嬉しくねーわ」
それよりも本当にどこで食べようか。いつもはこの教室で購買のパンを貪っていたのだが、ここで雑談している間にもこちらの様子を見てくる人は少なくなく、つまりなかなか目立ってしまっている。
この手のイベントめいたものには、灰色の学園生活を送っていた僕には無縁のものであり、それに対する適応力など皆無に等しい。妹ができるということ、全国のお兄様はこういうアドリブ力というものを試されるのだろうか。そもそも兄と一緒に弁当を食べようと教室にやって来る妹はいるのだろうか。
「弁当を食べる場所と言ったらやっぱり屋上よね。それとも生徒会室かしら?」
「ウチは屋上立入禁止だし、俺は生徒会員じゃないからな」
眼の前にいる義妹はまさしくその妹であった。
「鈴川」
旧友の1人がいつまでもドアを跨いで喋りっぱなしの僕達に近づいてくる。
「いいよなあこんなカワユイ後輩に……弁当だとォ!? クッソ羨ましすぎて俺を憤死させるつもりかシネシネ! あ、どーも、わたくし、鈴川の唯一無二の大親友で相川と申します。弁当可愛いね!美味しそう!」
「ふーん、代親友ですって?」
「親友の代わりってことか。僕そもそも友達少ないしなあ」
「鈴川くん!今日から俺達は運命の赤い糸で結ばれた親友だ!そしてこの後輩さんを俺に紹介して!」
「結ぶ相手間違ってんぞ」
下心を包み隠さず露見させる自称親友の頭の痛くなるような発言が頭のなかで蠢く眠気と混じって大変不快な気分になりながら、弁当を落ち着いて食べられそうな一番の場所は食堂くらいしかないだろうと結論付けることにした。

―――

教室の皆が部活へ向かったり家へ帰ろうと動き出す放課後のことであった。
「スミマセーン!先輩方の中に鈴川準一様はいらっしゃいませんかー!」
拡声器から発されたとばかりによく通る声が教室の隅々まで行き渡り、大人しそうなクラスメイトさえもビクッと震える。その一声で教室の流れを全て僕とその声の主に集約させた張本人は部活へ向かおうとする旧友を捕まえていた。当然、このクラスで一番に僕との交流がある2人は顔を歪めて僕の元へ駆け寄ってきた。
「すーずかわくーん、あの子……誰よ?」
「弁当持ってきた後輩に続いてまたですか鈴川さん! え?なんでお前なの? 最近お前女運よくね?」
「……」
旧友にはとりあえず無視を決め込んで、僕は昼休みにそうしたように、教室のドアをまた跨ぐ。
僕を呼んだ彼女は、朝電信柱に追突して転んだ女の子だった。名前は確か小松七海とかいったと思う。
「おおーあたしの命の恩人さん! あの時はどーもありがとうございました! というわけで不肖小松七海、アニキに恩返しをしにきたのであります!」
「あー……なるほど」
「あーなる?」
チャチを入れる旧友というガヤにローキックを入れておく。
「つーかどういうことなんだよ? また可愛い後輩じゃねーか! 何したんだよ鈴川、教えろ、教えてください!」
「……」
「それでですねアニキ、本日のお礼をしたいのですが……コレでいかがでしょうか!?」
七海ちゃんが財布から取り出したものは少しクシャクシャになって撚れた紙切れだった。紙切れは全国に展開するドーナツ屋のチェーン店のクーポン券のようで、それが丁度2枚ある。
「アニキはドーナツ好きですか? あたしポンデリングが好きなんですよー」
「ありがたいことだけど……」
いいのかなって僕は思った。
僕は、お礼が貰いたいから人を助けたかったわけでは決してないし、彼女とはこれっきりだと思っていた。あの場で助けたのは、見過ごしたら居心地が悪くなると思っただけだ。スルーする僕を他人が見て「何故お前はあの子を助けないんだ」と思われたくなかっただけだ。人を助ける僕はスゴイ、聖人だ、なんて自分で自己満足の材料を作りたかっただけだ。凡人だから少しでも自慢できる要素を作りたかっただけなのだ。
だから、お礼を受け取ることに躊躇する。
「あんな可愛い後輩がいておきながらデートですかいい身分ですね鈴川さん……クソックソ!」
「なんでや!受け取ればええやん!何をそんな苦笑いしとんねん!」
「お前らみたいに二つ返事で受け取ることなんて無理なんだよ……」
神経質なのかもしれないけど、これもあの夢の経験のせいで何でもかんでも慎重になってしまう。
「め、メーワクでしたか……? 確かにアニキとあたしは初対面で馴れ馴れしいかもしれませんが……これもいい機会なのです! おばーちゃんが言っていた、人の出会いは……えっと、えっと……千載一遇です!」
「なんか微妙に間違ってるっていう反応の取りづらい答え止めてほしい」
僕はチャンスか何かと思われているのだろうか。
「アニキが何か難しいことを考えてるのかわかりませんが、ドーナツ食べたくはないですか!? あたしは最近部活漬けで全然いけてなかったんですよー」
「部活……? そういえば今日は」
「今日は5,6時間目顧問の授業をおもいっきり寝ちゃったばかりに怒られてしまったのです。学業をおろそかにするような奴は部活1日禁止だ、って言われちったのです」
「……」
七海ちゃんはうなだれるように言って、一つ欠伸をした。
「5,6時間目ぐっすり……やっぱ七海ちゃん、その誘い乗る」
「ありがとうございますー! それではアニキ、早速行きましょう! ポンデリングがあたしたちに食べられたくて待っていますよ―!」
「……」
七海ちゃんは本当に寝起きなのか疑わしいくらいに力強く僕を引っ張っていく。僕よりも速く走るんじゃないかという勢いで、足がもつれながら僕はやはりギャラリー視線を独り占めしながら、日が傾き始める校舎を疾走していった。

―――

学園から5分くらい走ったところにある(歩けば10分弱)ビル街の一角。僕が住むマンションからは反対の方向に大手ドーナツチェーン店はあった。灰色の学園生活を送っていた僕は当然、行ったことはない。ドーナツが食べたければコンビニで袋売りされているもので済ます。
「ささ、先輩は何が食べたいのですか?」
「まぁなんでもいいんだけど……」
適当に上の棚にあったドーナツを適当に3種類選び、追加でコーヒーを頼んだ。七海ちゃんはポンデリングというドーナツを5つ。どうやらコレがかなりのお気に入りの様だ。
「うわあ……久しぶりのポンデリングだぁ……ぢゅるり」
正直自分が行きたかったのではないかと思った。でも僕は何も言わないことにする。
七海ちゃんがどんな目的はあったのかなんて正直どうでもいい。僕も久しぶりにコンビニドーナツよりマシなドーナツを食べる機会ができてよかったとは少なからず思う。
それよりも、確実に、速く確かめたいことが彼女にあった。
「あのさ」
「ふえぇ? ろうしたん……んぐんぐ……れすか?」
「とりあえず口に入ってるもの処理してから話す」
口いっぱいにポンデリングを頬張っている彼女はいくらか幼く見えてドキッとしてしまった。妙な気持ちを押し殺して僕は再度彼女に聞く。
「5,6時間目ぶっ通しで寝てしまった……みたいなこと言ってたよね?」
「えっと……はい!そうです!それで顧問に怒られてしまったのです!」
「5,6……」
凶兆がゆっくりと過ぎっていくような雰囲気を感じた。僕も昨日は5,6時間目を眠りこけていて、記憶といえばあの廊下で迷っていたことしか無い。
「ホントに有り得ないんですよ! あたしはあんまり勉強とか得意な方じゃないんですけど……でも、それでも寝ちゃうなんてことは殆ど無かったんです!退屈でしょうがない数学の授業とか頑張って起きてますよ!」
「お、おう。そりゃエラい」
「それなのに、あの時だけふっと急にまぶたが重くなったような感覚が……それで気づいたら顧問の……東尾先生って知ってます? 先生に起こされて大目玉ですよ……」
悔しそうに語る七海ちゃんの話を聞きながら、僕は探るように彼女に食い入る。
「その5,6時間目寝ちゃったことほじくり返すようでちょっと悪いとは思うんだけどさ……」
「いえいえ、あたしが勝手に喋っていることですし」
「その……もしかして、夢か何か見てた?」
彼女の表情が一瞬止まったかのように見えた。
「夢……?夢……夢……」
七海ちゃんは視線を上に向け、頼んでいたオレンジジュースをチュルチュルとすする。次に僕に視線を戻した時に同時にオレンジジュースのボトルを離した。
「夢……そうなんですよ、あたし変な夢見てたんです。夢……だったんでしょうか?」
「それ……ちょっと詳しく教えてくれないか?」
僕の心の前を通過していこうとする不安が立ち止まり、僕の方を向いているように感じた。
「うーんと、よくわからないんですけど……。何故か夢であたしは黒い布を被ったような人とバドミントンの試合してて……あっ、あたしバドミントン部なんです。そうそう、多分練習試合です! それで、その人と戦ってて、スゴイ強かったんですよその人。……人?」
「黒い布被ってたって……顔はわからなかったのか」
「そうです。えっと……舞台とかに出てくる黒ずくめの衣装着た人で……」
「黒衣のことか? 歌舞伎とかの裏方の」
「はい!そんな感じです! その黒衣さんがめちゃくちゃ強くて……それにスゴイ不気味だったんです。あたしの戦法を尽く真似してきて……でもスッゴい楽しかった! 真っ向勝負が出来たって感じで! まぁ夢の中だったんですけどね……でもよかったなあ。あの黒衣さんとまたやりたいなあ……」
「……」
その黒衣とやらのバドミントンがやたら楽しかったのか、身振り手振りも大仰にして語る七海ちゃん。僕とは違い、夢の中で随分と楽しむことが出来たようである。3つ目に差し掛かろうとするポンデリングを手元でくるくる回しながら七海ちゃんはまた続ける。
「あたしって夢を見ることって殆ど無いんですよ。でもあの時の夢はまるで夢じゃないみたいにリアリティがあって……あの夢また見たいなあ。部活はしたいから授業中に夢をみるのはもう勘弁ですけどね……えへへ」
チョコレートがかかったドーナツをひと齧りし、続けてブレンドコーヒーを少し飲む。
リアリティのある夢。僕と紫苑ちゃんが見たあの夢との共通点。あとは黒衣とバドミントンで試合、というのもだいぶ気味が悪くなってきそうな光景である。
とはいえ、七海ちゃんが見た夢と僕達が見ている夢が同じ種類かどうかなんて断定はできないだろう。夢見の経験がない七海ちゃんが見た夢なので印象に強く残ったからリアリティも強く感じられたというか、そういう風に錯覚したと取れなくもない。
「そういえば……何故紫苑ちゃんを呼ばなかったんだ?」
「しーちゃんってアニキの妹さんでしたよね。……アレ?名字が違いませんでした? アニキは鈴川でしーちゃんは桐島……でしたっけ?」
「勝手にあだ名呼びしていいのか……ああ、ちょっと面倒な事情があって」
「……あんまり首突っ込むようなことでもないんですか? 正直に言うと気になりますけど」
「シリアスなものでもないけどね……昨日から義理の妹になっただけ」
「そーですかぁ」
しかしそのしーちゃん、紫苑ちゃんにも話を聞いてもらいたかったかもしれない。あの子は僕よりも夢に詳しいので七海ちゃんの夢がどうなのか別の角度からアプローチできたかもしれない。今の僕では内容を聞いて今夜紫苑ちゃんに確かめさせることしか出来ない。
「それで、紫苑ちゃんは」
「ああ、しーちゃんは教室にいなかったのです。すぐに教室に向かったのですが既に帰ったと言われて……」
「……あ」
朝一緒に登校したのだから、もしかしたら下校することになるかもしれないと思っていただけに、何故紫苑ちゃんが一足早く帰ったのか、今更疑問に思えてきた。携帯を取り出してみると、昨日の夜に登録した彼女のメールアドレスからのメールが1件はいっていた。野暮用につき先帰らせてもらうとのことらしい。
「んで、なんで夢の話なんですか、アニキ?」
「……あ、いや。今朝スゴく眠そうだったから。それで転んだんでしょ?」
「ああ! だからでしたか! そうなんですよもう……今朝はすんごい眠くて……あ、そういえば昨晩も夢を見ました」
「!?」
「あ、アニキ!?」
思わず身を乗り出した。あまりにも突然、勢い良く乗り出したがために驚かすことになってしまった。
「あ、いや……悪い。それで、その夢は?」
「いや……それがどうも思い出せないというか……見ていたのは確かなんですけど……あれ? 夢を見ていたんだっけ?」
腕を組みながら、七海ちゃんが何度も首を傾げる。前かがみになったり、少し後ろにのけぞったりしながら、その度に彼女の身体がせわしなく動く。
「うーん……思い出せません……」
「いや、無理しなくていいよ。夢を思い出せないことなんていくらでもある」
「でも気持ち悪いですよねそれ……ああ、しかもそのせいかは知らないですけど今朝ほとんど眠れなかったみたいに眠くて……」
「……」
「アニキはわかりますか? 夢に興味があるみたいですけど……」
「……いや、なんというか」
もしかしたら、また明日になれば正体がわかるかも知れない。
その前に紫苑ちゃんに、夢の中の紫苑ちゃんに会えるのなら会っておこうと僕は思った。

     

「おかえり、兄さん。どこへ行ってたの?」
七海ちゃんとドーナツ屋で別れ、真っ直ぐ家へ向かうこと30分。春の太陽が赤みを増して西へ沈みかけようとする頃合いだった。玄関のドアを開けると朝見たばかりのエプロンルックで出迎える妹の姿があった。
制服エプロン。制服という女の子的な側面と、エプロンという家庭的な、もっと言えば主婦的な面の融合。絶妙な二方向からのアプローチに魅了される男の子は数知れないだろう。
「そろそろ何か言って欲しいわね。ねぇ、このエプロンどうかしら?」
妹、紫苑ちゃんがつけているエプロンは薄い紫色、言うなれば紫苑の花みたいな色で胸当てまで付いているタイプだった。
「腰回りに巻きつけるだけの、ああいうのはエプロンって感じがしないわよね」
胸当てのないものだってちゃんとしたエプロンなのだが、でもエプロンといって思いつくのはやはり胸当てまであるものだろう。腰回りだけのものはシャツが汚れてしまうのではないかと思う。
「んで、どうかしら? なんだか微妙に目をそらされてるように感じなくもないんだけど」
「今朝だって制服エプロンだったろ……。それにエプロンしてたって制服汚すかもしれないんだから着替えたほうが良くないか」
「ファッションは我慢だってテレビで言ってたわ」
「我慢することはないから着替えてらっしゃい」
僕は昨日新しく出来たらしい部屋に紫苑ちゃんを押し込んで部屋に戻った。さり際に少し紫苑ちゃんの部屋も覗いて見たが、いつの間にか部屋には彼女の私物が置いてあり、完全に彼女の部屋となっていた。いつからあの部屋は空き部屋ではなくなっていたのだろうか。
授業中か僕が夢現にいた合間にでも引越し作業は住んでいたとでも言うのだろうか。
ブレザーをハンガーに掛け、ネクタイを取ってブレザーがかかっているハンガーに一緒にかけ、Yシャツとスラックスの姿でベッドにダイブする。家に入ったあとから沸々と湧き上がるみたいに眠気が大きくなってきていた。眠気は加速度的に大きくなって、ベッドにダイブしたのも半ば無意識の行動だ。ただひたすら、眠くてしょうがない。
「ふわぁ……今は、6時半前……ああ、コレ逆だ……5時半過ぎ……か」
今にも落ちていこうとする、鉛のように重くなった目蓋が完全に閉じて数分もすれば眠ったような状態になる。実際は明晰夢のようなあの夢のせいで眠れているようでさっぱり眠れていないような状態になるのだが、だから眠った所で大して休めないのは知っている。ここ数日はいくらか気持ちがマシになったのも、いつもよりはいい夢を見られただからだ。いつもいい夢を見られたらいいのだけど、そう甘いものでもないだろう。
完全にまぶたが落ちる、その瞬間まで僕は眠っていく自分の意識を第三者が観察するように見ながら、あの夢を何か知ることが出来れば、と思い続けた。

―――

「……?」
目覚めると、僕は立っていた。いや目覚めると、というより意識が戻ると、と言い換えたほうが正しいだろうか。寝ていたところを目覚めたというより、画面が切り替わったかのように意識が戻ってきたように感じたのである。
そこはひたすらに真っ黒な光景だった。黒いだけで真っ暗ではない。決してあの赤と黒のチェックの部屋ではなかった。
「……また辺鄙なところに」
ゆっくりと僕は歩き出す。今すぐ痛い思いをさせられるような酷いところでなければ、夢の世界なら慌てることもない。
「……今度は何が起こるんだ。七海ちゃんに会ったからか?」
紫苑ちゃんの名前を呼んでみたものの、返事は当然ながらない。彼女は寝ていないのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれない。というか、今彼女がいないということは、昨日夜見た夢の紫苑ちゃんは本物だということだろう。夢の世界で本物を語るというのも奇妙すぎる話かもしれないけれど。
少し歩き続けていると、まるで霧の中から現れたみたいに、誰かが姿を表した。
「……ねえ」
「……」
その子は色素が極めて薄い髪の色をしていた。癖っ毛でウェーブがかかったみたいなロングヘアーで、黒の和柄を基調とした着物に女袴という大正ロマンを彷彿させる服装だった。その割には本人自体はいくらか幼く、七海ちゃんや紫苑ちゃんより確実に年下に見える。背は紫苑ちゃんと比較しても結構小さいだろう。つぎはぎのような模様がいっぱいのうさぎのぬいぐるみを抱いていたからか、尚更幼さが強調されていた。格好だけ見ればだいぶ大人っぽいような気もするが。
「ちょっとキミ、こっちに来てくれないかな?」
「……」
兎のぬいぐるみを抱きながら、僕を見つめながら、その小さい子は僕を真っ黒な部屋の中で呼ぶ。
「……僕さ、知らない人にはついていかないようにしているんだ」
「それを今言っちゃうのかな!? 悪いことしないからちょっとついてきてっていうの!」
彼女が機嫌を悪くしてしまいそうなので少し近づくことにする。
「なあ、ここは……」
「ここの床、触ってみて」
僕が彼女に問う前に、女の子はしゃがんで床を触った。人差し指、中指、薬指の三本で床を押すけれど、何も変化はない。
「ココ。貴方は私のすぐとなりを、同じように触ってみて」
「は、はぁ……」
やたらと急かす彼女に従って床を押す。もしかしたら彼女の言うとおりにしたら何か変化が起きるのではないかと思ったのだが、結果は何も変わらず、だった。この真っ黒な部屋は何の変化もない。
「じゃあ、ここはどこなのかちょっと思い浮かべてみて? どこでもいいよ」
「はぁ……? どこでも?」
「うん。簡単に思い起こせるところがいいかな」
明るい彼女の声色に従い、僕は言うとおりに、簡単に思い浮かべられるところを思い起こしてみる。
「そしたら……この手から何か脈みたいなものが、何かの振動が伝わってくるでしょ?」
「……あっ」
言われてようやく実感できる僅かなものだけれど、床がなにか脈動してるみたいに、震えのようなものが伝わってきた。トクントクンと、一定のリズムが指を伝う。
「その脈に合わせて指で押して。そして私が合図したら……さっき言った、ココがどこなのかを強く思い浮かべて」
「は、はぁ」
まるで僕に何かをさせたいみたいだ。彼女は何かを誘導しようとしている。夢の中だから多少のお遊びは構わないのだけれど、自分が大きく被害を被るようなことはしたくはない。ただでさえ休めないという不快感があるのに、それを更に上乗せするようなことは勘弁願いたい。
「じゃあ行くよ……3,2,1,ハイ!」
「3,2,1、ンッ!」
大正ルックの彼女に疑問を抱きながらも言われたとおり、脈に合わせて3本指で床を押し込む。最後の脈でココがどこかを強く思い浮かべて押した。
「……なんにもないけど」
「あれ? まぁいいか……とりあえずもう1回、いいかな?」
「……まぁ」
もしかしたら集中できていなかったからかもしれない。多分このままだと集中できないかもしれないだろう。
「……何がさせたいんだ? 正直割とどうでもいいけれど、なんか気になって」
「……やっぱりおかしいと思うよね。でもちょっと協力して欲しいんだ」
ずっと床を押していた指を離し、顔の前で手を縦向きにして、謝るように顔を立てに軽く振る彼女。
「悪いようには絶対にしないから。成功したらいくらでも教えてあげるよ」
「……」
すこしすまなそうな、苦笑いを浮かべながらも、彼女は僕から目を離さなかった。顔の距離が無意識なのか、妙に近かった。青みがかかった双眸の中心にある瞳は、まるでキャッツアイのような模様に見えた。
「もう一度行くよ……3,2,1,ハイ!」
「……3,2,1,ハイ!」
床から感じる微弱な脈動に合わせて床を押し、最後のリズムで強くこの場所を思い浮かべる。が、何も起こらない。手からは相変わらず生き物のような脈動を感じて、辺りは真っ黒い部屋のままである。
「強く思い浮かべてって言ったけど……思い浮かべるだけじゃなくて、指に想いを込めて、床に打ち込むようにしてみて」
「わかった」
女の子は緊張した時にリラックスするときにするみたいに、深呼吸をする。
「もう一度……3,2,1,ハイ!」
「3,2,1,ハイ!」
今度は想いを打ち込むように、床の脈に合わせ、彼女に合わせて打ち込んだ。
「んんっ?」
明らかな変化だった。3本指から伝わる床の脈動が強くなった。先程までは微弱、リラックスしている時に心臓に手をおいた時に感じる心臓の鼓動よりも弱いくらいの鼓動だったものが、これから衆人環視の中で何か一芸でも披露する時の心臓の鼓動みたいな強さになっている。ここが僕と女の子しかいなくて静かだからか、鼓動の音が耳に伝わってきそうなくらいに、その鼓動は強かった。
「こ、コレって……」
「……うん! 完全に成功ってわけじゃないけど……あともう一回くらいやれば」
女の子は僕と一緒に震える真っ黒な床を見つめ続ける。血管のように何かが浮き出てきたりはしないし、目に見える形で床が振動しているわけではないから見た目では変化がわからない。床と接触する足からは伝わってこないので、あくまで指を押し込んだ場所だけが脈動をしているようだ。
「コレが最後かな。いくよ……?」
「……うん」
左手の人差し指、中指、そして薬指を立てる。それらの指の腹を脈打つ床に添える。彼女は右手で同じように床に添える。
女の子と僕が、真っ暗な部屋で縮こまる。
「3,2,1,ハイ!」
「3,2,1,ハイ!」
命があるような床に、心臓マッサージするように押し込んだ。
「んむっ!?」
想いを込めたツボ押しの直後だった。
爆裂するような鼓動、その後に部屋全体の空気が震え、部屋全体が振動を起こしたような音が木霊した。床からの脈動はもはや脈動なんて言う弱い鼓動ではなくなり、添えた指を押しかえさんとするばかりに震え、その強さは指の腹を貫通して骨までその鼓動を届けと言わんばかりだった。それまでに巨大化した鼓動は足でも十分に感じる。というより、震えは部屋全体で起こっており、足どころか、腕、身体、頭、耳、全ての触覚が鼓動を感知していた。
「成功だよ!予定では1発で成功させるはずだったんだけどね……」
互いに鼓動の起こし合い、共鳴そして共鳴と連鎖する。バイブレーションする部屋は、やがて地震のような地鳴りを響かせる。ミシミシと足元から地割れのような亀裂がくもの巣のように広がっていき、割れた隙間から白い光がこぼれてくる。亀裂は壁を這い上がり、天井を伝って視界全ての黒に白い亀裂が、人が歩くスピードくらいの速さで走っていく。降ってくる亀裂が走って落ちてきた塵は空気の震えによって複雑怪奇な軌道を描いて落ちていく。あっという間に白い亀裂が部屋全体を取り囲み、今にも崩落しそうな、不安感をガンガンに煽ってくるような風景だった。
「……こ、コレって……」
部屋の変化に目を奪われていた僕は、ここで初めて女の子の存在を思い出し、首を右に振った。が、彼女はいつの間にか姿を消していた。さっきまで部屋の崩落を一緒に見届けていたと思っていた。いなくなっていたと思っていた。
「今日はこの辺までかな」
左耳からあの女の子の声がした。当然僕は左側を向くけれど、彼女を視界に捉えることはなかった。
「今日のことはとりあえず、誰にも言わないでね。また昼に会お!」
今度は左右両方の耳から。というより、頭上から振りかかるような角度だった。
「ちょっとまった! あんたは一体誰……うわっ!」
床が爆発した。比喩でもなんでもなく、後頭部の方向を振り返ろうとした瞬間だった。一部分から瓦礫のように分離した黒い床の欠片が弾けて吹き飛び、それが床のそこかしこで、更に壁でも同じように瓦礫が弾け、天井でも爆発したように瓦礫が吹き飛んでくる。
「うわっ! なんなんだコレは……!痛……くはないけど」
黒い床の欠片はまるで軽石のような軽さで、大きなものでもダンボールをぶつけられた程度の衝撃だった。しかしそれが四方八方から飛んでくるために鬱陶しさが半端ではない。そもそも目に入って傷ついたら、軽い材質でも失明する可能性も否定出来ない。僕は目を閉じて頭を両手で保護しながら弱々しく歩くしかなかった。そんなことをしていたら、足元で急に振動が起こった。
「わわわっ!」
爆裂したような振動で足元が掬われ、身体がよろめいて倒れようと傾く。受け身を取ろうとすると、顔面に瓦礫が飛んできた衝撃でバランスがまた崩れて右側頭部を打ち付けるように転んだ。
「く、クソ……」
側頭部を打ち付けた衝撃で頭がグラグラする。部屋の振動は僕が転んでいた瞬間にピークを迎えていたのか、少しずつ破裂音が小さくなっていっていた。破裂の余波が倒れた身体を打ち付け、天井からは瓦礫が降ってくる。
「……」
振動が完全に収まるまで僕は瓦礫に埋もれ、振動になす我儘にされることにした。部屋の震えが収まり、僕は瓦礫を払って立ち上がる。背中はコルクをひたすら投げつけられていた程度の衝撃なのでたいしたことはない。それよりも側頭部と右耳がジンジンと痛んだ。
「ったく……何だったんだ?」
あの女の子はいなくなり、真っ黒な部屋は崩壊して、僕はそれに巻き込まれた。文句の一つも言いたくなるような、ひどい夢だった。
「そもそもここは一体どこだったんだ……」
部屋が崩れ落ちたということは結果的に外に出たということだ。目を明けたらここがどこだったのか、僕はわかる。
「は……?僕の、部屋?」
見慣れた風景だった。それこそ、簡単に思い浮かべられるところと言われて即答できる景色だった。妄想と現実が混同してしまったのではないかと思うくらいに。
「なんで。お、おい……これはどういう……」
ここで僕の意識は切り替えられた。

―――

「黒衣とバトミントン……?」
夕食時。焼き魚と厚揚げ豆腐の味噌煮、お吸い物、ご飯という純和風の献立を囲みながら僕はドーナツ屋で七海ちゃんから聞いた夢の話を紫苑ちゃんに話している。
「まぁ夢の中といえば夢の中っぽいよな……ん、この味噌煮程よく甘くていいな。味もしっかり染み込んでるから淡白な豆腐と……んん、美味い」
「なかなか面白い光景よね。だって黒衣って浄瑠璃の裏方の……あらこの芸人懐かしいわね」
「ちょうどいいタイミングだな」
テレビでは一昔前に流行った芸能人の今を取材するという内容のバラエティ番組が放送されていた。
「それで……他には?」
「そのバドミントンの練習試合スゴく楽しかったって言ってた。他の部員とやる練習試合よりやりがいがどうのこうのって……スズっ」
お吸い物を啜り、湯のみに入れたコーヒーを続いて啜る。昼寝からの目覚めがいつになく悪かったので少しでも眠気を発散できるように、と紫苑ちゃんがブラックでかなり濃い目に入れてくれた。僕はミルクと砂糖をいつも入れて飲むタイプである。口の中がジンジンとするようにイガイガした。
「ああそういえば……今日の今朝ふらふらしていた原因だったのがさ……どうやら昨晩の眠りがどうも良くなかったみたいな言い方してた」
「どういうこと?」
魚の身をほぐし、湯気の立つ白米の上に載せて口に運ぶ。適度な塩加減が白米と絡み合ってたまらない。
「どういうことというか……夢を見ていたけど夢の内容を覚えてないみたい。随分頭抱えて悩ましい感じだったけど」
「夢の内容を覚えてないって別によくある話じゃない」
「それなのに眠気がとれていないっていうのが気持ち悪いんじゃないか?」
「それもそうね。何の夢を見ていたのか気になるわ」
「寝た時にまたあの部屋にいけたなら、それもわかるんじゃないのか?」
あの部屋というのは夢の中の僕の部屋のことだ。昨日の夢で紫苑ちゃんは僕の部屋にあるテレビを使って僕がかつて彷徨っていた赤と黒の格子模様の廊下を映し出し、僕が脱出する足がかりを作ってくれた。アレを同じように使えば夢の中の七海ちゃんを探すことが出来るかもしれない。最も、それはあの夢の世界に入れば、の話なのだけれど。
と、ここまで考えた所で何故僕らは七海ちゃんに気にかけているのかと疑問に思った。
「わたしたちのお仲間になるかもしれないわ。それだけでも十分じゃない? それに、もしあの夢の世界で厄介なことになったらいずれあの子交通事故起こすわよ」
「……ま、知り合いが交通事故起こしたなんて気分が滅入るよなあ」
大怪我してきて松葉杖ついて登校してきたクラスメイト、なんて何度か経験があるけれど本当に痛々しそうだった。包帯まかれている人を見るのはどうも身構えてしまう。
「とにかく確認できるのは恐らく夢の中になるわ。もし彼女が厄介なものに絡まれていたら……」
「そりゃ助けるしか無いだろ。見て見ぬ振りは出来ない」
「面倒くさそうに言うのね」
「そりゃ厄介なことになってないほうがいいだろ。たまたま夢見が悪くて寝不足みたいになったっていう方が」
最後に残しておいた焼き魚の皮を食べて茶碗に箸を並べて置いた。
「ごちそうさま。後片付けは僕がやっておくから運んでおいて」
「なぁに兄さん? ちょっとお兄さんアピール?」
上目遣いでウィンクする義妹を無視して食器の下洗いを初める。
「ふふっ、さり気なく優しいところ、わたしは好きよ?」
そのさり気なくドキッとするセリフは本当に止めて欲しい。僕はこれからもこの義妹のからかいに付き合っていかなくてはならないのだろうか。僕の心は紫苑ちゃんに慣れてくれるのだろうか。
「無視しないでよ~。あ、ご飯茶碗は先にぬるま湯でつけたほうがいいわ」
「お、そうなのか。……ってちょっと紫苑さん」
「なぁに? わたしは兄さんに食器の洗い方を改めて教えようとしてるのよ? やり方はわたしに合わせてほしいわ」
「それでも教え子に合わせて教え方を変えるのが先生ってもんじゃないのですかね」
近い。とにかく近い。食器を洗おうと流しの前に立つのが僕で、紫苑ちゃんはエプロンを付けて僕のすぐ隣、隣というか、密着して食器を拾い上げる。紫苑ちゃんが少し屈むようにしているので脇腹辺りに彼女の、エプロン越しでも主張する胸、マシュマロが弾んで僕を弄ぶ。
「あててんのよ」
「襲うぞ?兄なめんなよ?あぁ?」
「お母様とお父さんが黙ってないと思うわ」
「……」
よく汚いと評判の大人の権力、それを借りる子供のほうが汚いように見えるけれど多分この考えは間違っていないと思う。そもそもこの場合僕がどう転んでも悪くなると脊髄反射レベルで導き出せるのでどうしようもないのだ。
「普通に教えて下さい。覚えろって言われたら覚えることに定評があります」
「仕方ないわね……わたしは兄さんとフランクに接したいだけなのに」
「お前のフランクって何……」
夕食後の茶碗洗いの講義は妙に長く続くことになった。
「……おぉー、こうすれば簡単にツルッツル」
「今まで何でもかんでも力任せに洗ってきたからいけないのよ……」
そして、皿洗いした日も夢はやってくる。

―――

「兄さん、おはよう」
「おはようって挨拶すんのおかしいと思うけどおはよう」
今回は既に僕の部屋にいた。勿論夢の世界の、である。
「実際の僕の部屋にはコーヒーなんて置いてないんだけどな……とりあえず飲む?」
「戴くわ。それで、早速やってみる?」
「そのテレビってさ……」
ケトルの電源を入れて湯を沸かす間にテレビのリモコンをとって操作し始めてみる。昨日紫苑ちゃんがやってみたみたいに、番組表を開いてテレビ局を選択してみる。司会者が小さな掃除機を褒めちぎっているテレビショッピングが放送されていた。
「……コレって誰かの夢? ……誰の?」
「……普通のテレビショッピングじゃないの? 誰かが写っていたり変な演出とかしていなければ、だけれど」
そのまま小さな掃除機のプレゼンを聞いていたが、ただこの掃除機がスゴイということしかわからなかった。至極普通のテレビショッピングだった。
「……失敗?」
「やっぱりわたしがやってみるわ。ちょっと貸してみて」
結局、リモコンは紫苑ちゃんの手に渡って、彼女はついさっき僕がやったような、同じよ操作をした。TVモニターは一瞬の砂嵐の後に、赤と黒のあの廊下を映し出していた。他のテレビ局を選択しても全てあの廊下か、この部屋を映しだした。先ほどのテレビショッピングは決して映しだされない。
「それ紫苑ちゃんしか操作できないってこと?」
「……そうみたいね。よくわからないけどどうなってるのかしら」
つくづくおかしな夢だった。少し冷静になって考えて見れば、テレビを使ってある特定の場所や誰かがいる場所を特定できることが出来る、なんて夢みたいだ。
「おまけに画面にものを突っ込めば……」
手に持っていたカップをテレビ画面に突きつけて押しこむと画面が水面に小石を投じたみたいに波打ってカップがズブズブとゆっくり沈んでいく。ここでカップを放せば、画面の向こう側にカップは落ちていく。
「そろそろあの子の居場所を特定しましょう。兄さんどいてくれるかしら?」
「わかった」
紫苑ちゃんがテレビ画面にリモコンを向けて番組表を画面に映す。リモコンをテレビに向けたまま目を閉じ、そのままゆっくりと画面が動いていく。とあるテレビ局でカーソルが止まって、紫苑ちゃんがリモコンの決定ボタンを押した。
『さてさて、本日最後の商品となりますのは、このマイナスイオン発生装置付きの空気清浄機です!』
「……あれ?」
「……うーん? コレじゃないわ」
再び番組表画面に戻して選択し直す。
『ホント戦場は地獄だぜ!フゥハハハーハァー!』
「あの子がこんな血生臭い夢に巻き込まれてるとか嫌すぎるんだけど」
「まぁ違うでしょう……。この場合だと真っ先に本人の姿が映し出されるはずだから……」
その後何度もチャンネルを選択し直すも、彼女の夢まで行き当たることはなかった。全て見たことある映画やドラマ、アニメ、またはなんとなく展開が読めそうなテレビショッピングやバラエティ番組が流れ、七海ちゃんへの足がかりになりそうな映像は決して流れることはなかった。
「うーん……わたしが彼女をよく知らないからかしら? 兄さんはドーナツ屋でお礼されたからイメージできるかもしれないけど、わたしは今朝介抱したくらいだったし」
「七海ちゃんはバドミントン部で……ああ、そういえばアニキって僕のこと呼んでたな」
アレは結局何だったのだろうか。アニキと呼ばれるのが嫌とかではなくて、普通同じ学園の年上の人を呼ぶ時は先輩というのが普通だろう。
「へぇ~それで兄さん、鼻の下伸ばしていたのね?」
「いや家帰ってからお前の前で思い返したりしてないけど」
「妹分が新しく出来て兄さんは楽しそうね。ここにきて兄さんシスコン街道を行進中」
「俺はまだ妹にデレた覚えはない」
話は脇道へそれながらもリモコン操作は止まっていない。少しでも七海ちゃんへのイメージを膨らませられたら良かったのだが、僕が話し聞かせる程度では何も変わらないようだ。
「わたしが実際に彼女と話してみないとどうしようも無さそうね。だから明日の昼休み、彼女の教室に行きましょう。七海さんクラスはどこだったかしら?」
「僕は覚えている……たしか3組じゃなかった?」
「もどかしいけれど今日はどうしようもないわ。後は適当にテレビでも見ながら過ごしましょ」
「仕方ないか」
紫苑ちゃんが番組表画面から切り替えて、チャンネルを適当に回して深夜バラエティをつけた。
「それとも、やっぱりあの子はこの夢とは無関係かもしれないじゃないか?」
「それも多分有りそうだけど……その結論は明日彼女の事知ってからでもいいんじゃないかしら? もしかしたら、このテレビを今後使う機会も出てくるだろうし、色々と試してみたいというのもあるわ」
「そっか」
少なくとも、この夢では結論を出すことが出来ないということだ。明日紫苑ちゃんが七海ちゃんに会って彼女のことをよく知った後でまたテレビを操作させよう。
「あれ? ということは……紫苑ちゃんはどこまで僕のことを知っていたの?」
僕とあの廊下がテレビに映ったという。少なくともあの時の紫苑ちゃんは僕のことを七海ちゃん以上に知っていたということであるが。
「根掘り葉掘りの葉掘りって、何かしらね?」
「いや、どこまで知ってるの……?」
「19XX年12月23日生まれ。身長は170cm、体重は57kg、座高は85cmで血液型はOのRh+。母子家庭で父親は物心がつく前に離別している。中等部まではバスケットボール部に所属、高等部以降は部活には無所属である。好きな食べ物はうな重と山芋を摩り下ろした鉄火丼。好きなタイプは黒髪ロングの大和撫子風で、好きなぱんつの柄は……」
「ちょっとちょっとちょっとちょっと!どこまで知ってるの!あ、いえ結構です!言わなくていいです勘弁して下さいおながいします」
「お母様とは本当に仲良くしたいわぁ」
良く言えばお茶目な母親は本当に根掘り葉掘り、この義妹に僕のことを喋っていた。たしかにそこまで知っていればイメージするのも簡単だろう。どうせその際に顔写真か何かで姿も確認されていることだ。
頭痛の種から目をそらしてテレビ画面に注視することにする。
「キャー怖いー!」
「ハ・ナ・セ! つーか怖いってちょっと顔がアレな芸人が顔面ドアップで映ってるだけだろ……って十分怖いな」
手がかりらしい手がかりは得られなかったが、新たな目的は生まれた。人や場所を映し出す僕の部屋のテレビの仕組みもわかった。あのテレビは基本紫苑ちゃんしか操作できず、更に対象の人柄を十二分に飲み込んでいないと映らないかもしれないということだ。それも含め、全部わかるようになるのは明日の夜だろう。
こうして、騒がしい夜は更けていく。

―――

       

表紙

風見陽withスプライト 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha