Neetel Inside 文芸新都
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インドア・スターゲイザー
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「プラネタリウムに行ってみたい」
 廃屋の天井に白いチョークで星印を描きながら、長谷川はもう何度目かわからない台詞を吐いた。脚立を押さえる俺はスカートの中を見ない様に視線を窓の外に向けていたから、その時長谷川がどんな顔をしてそう言っていたのかはわからない。
「何度目だよ、それ」
「そのくらい本物に期待してるって事」
 今日の分の作業を終え、長谷川は脚立の三段目から飛び降りた。ローファーが床を踏み鳴らして埃が舞う。カビ臭い空気が一層澱む。それなのに振り向いた長谷川は酷く楽しそうだった。とても元が病弱少女だとは思えなかった。
 天井を見上げると、白いチョークの星印は全体の三分の一ほどを埋めていた。最初に比べればだいぶ進んだ物だと思う。ただ、この中のどれがどう繋がって星座を形作るのかは天体に疎い俺にはさっぱりわからなかった。つい先日返ってきた期末テストの理科の点数は平均点を結構な度合いで下回っていて、親にもこっぴどくどやされたのだ。
「本物ってさ、この中のどれがなに座だとかも一々教えてくれるんだろ」
「らしいよ」
 凄いよね、と言う長谷川には、きっとそのガイドは必要ないのだろうなと思った。学年でも下から片手で数えられるくらいの学力で、体育はチームに長谷川がいる方が負けるとまで言われ、友達らしい友達もロクにいそうにない長谷川は、天体に関してだけはそこらの理科教師よりも詳しい。本人は宇宙飛行士か天文学者になりたいとよく言うが、その他の適正がお粗末過ぎて無理だと聞く度に思う。
 廃屋の天井に星を描こうと言い出したのは無論、長谷川だ。都会に出るのに電車で二時間、買い物は郊外のショッピングモール、娯楽と言えば郊外のショッピングモール、休日は郊外のショッピングモールが賑わう。当たり前だが近くにプラネタリウムなんて無い。そんなクソ田舎は空気だけは澄んでいて夜は星が胡散臭いくらいに綺麗に見れるから、わざわざプラネタリウムなんかで人工の星空を眺める必要は無いと言う事なのだろう。
「高校生になったら行こう、プラネタリウム」
「別に今から行ったって良いんだよ、外のアレで」
 長谷川は窓の外に見える俺のスクーターを指差した。悪友が駅前からくすねてきた廃車寸前のオンボロスクーターは、お年玉全額と引き換えに俺の移動手段になった。私服を着て堂々と乗っていれば、案外中学生でも呼び止められたりはしないものだ。こういうオンボロなら持ち主も諦めがついて届け出出さないんだぜ、と悪友は心底楽しそうに笑っていたのを覚えている。
「こんなポンコツで何時間走る気だよ」
「プラネタリウムも行きたいけどツーリングもしてみたい」
「無免の上に二ケツとか見つかった時の事考えたくねぇ」
 ケチ、と言って長谷川は脚立を足で小突いた。コキンと言う金属音が廃屋の中に響いた。陽は沈みかけている。今日はこれで終わり、続きはまた来週だ。
「帰るか」
 長谷川が無言で頷くのを確認して、俺達は廃屋を後にした。ネズミが目を覚ましたのか、ごそごそと言う音が聞こえた。今ではもう二人ともその音にも慣れきっていた。

 目を覚ますと昼だった。休日の午後、穏やかな日差しが腹立たしい。廻る世界は今日も歓喜と希望に満ち溢れ、死んだ魚の目で日々を過ごす人間は活き活きとしている人間の餌として今日と言う日を過ごす。そういう人間もいずれは死んだ魚の目になるのだ、夢に見た過去の自分の如く。腫れぼったい目を擦りながらリビングに降りると、妹が昼のニュースを見ながらズルズル音を立ててラーメンを啜っていた。
『あと数日に迫った観測史上有数の巨大流星群、ハナモゲラ座流星群ですが……』
「なんだその名前」
 流れたニュースにボソリとツッコミを入れるとスープを飲み干していた妹は肩をビクリと震わせ、ドンブリをテーブルに置いて振り返った。
「いつから起きてたのお兄ちゃん」
「今」
 その食い方やめろよみっともないぞ、と言って冷蔵庫を開けると、食料は何も残っていなかった。外じゃちゃんと食べてるし、と返事をする妹が汁まで飲み干していたラーメンが家に残された最後の食料だったらしい。育ち盛りだから仕方ないのかもしれないが、華の女子高生だなんて単語がまやかしに過ぎないと言うのはこの妹を見ていると痛感する。
「見に行くのか、これ」
「当たり前じゃん」
 妹は高校では名前ばかりの天文部に所属しているのだと言う。と言っても高校生が真夜中に学校に集まって真面目に天体観測をする様なわけもなく、今でもニュースの占いコーナーに出てくる十二星座がどこにどんな形であるのか言えるかどうかも危うい。夜の学校と言うちょっとしたファンタジーに酔っ払っているだけなのかもしれないが、それを妹が楽しんでいるのなら俺は何も言う気にはならない。高校生なんて留年しない程度に好きなだけ遊べば良いのだと、一応は真面目に学校に行っていた筈なのに現在無職の穀潰しな俺は思う。
「またバイクで送ってってよ。夜道に女子高生が一人とか危ないし」
 誰もお前なんて襲わねーよと言いたかったがやめた。交通費と言う名目で後でガソリン代を徴収すれば良い。バイトに部活にで肝心な学業の疎かな妹は、無職の俺より遥かに羽振りが良い。収入の有無はかくも覆し難く世知辛い物だ。
「いつも思うんだけどさ、こんな都会で星なんて見れんのかよ」
 煙草を吸いながら東京の汚い夜空を眺める度、昔住んでいた田舎の澄んだ夜空と比較しては汚いナァと溜め息をつく。その溜め息と一緒に吐き出した煙草の煙で視界は一層濁る。プラネタリウムが禁煙なのも頷ける。
 東京に越して来てからは、休日の娯楽を求めて郊外のショッピングモールに足を運ぶ事も無くなった。電車に十分も乗れば大抵の物は揃っていて、その中には勿論プラネタリウムも含まれる。初めて足を踏み入れたプラネタリウムは想像していたよりも全然ちゃちい物で、こんな物に憧れていたのかと昔を思い出して落胆した記憶がある。東京には何でもあるが、結局俺はこっちにやってきて十年、何も見つける事は無かった。
「昔住んでたあの街に比べたら全然だけどさー、なんて言うかイベント? みたいな」
「クリスマスとかバレンタインみたいなもんか、ハナモゲラ座流星群」
「そうそうそんな感じ」
 何を見るかより誰と見るか。そんな感じなのだろう。
 クリスマスの聖ニコラウスやバレンタインの聖ウァレンティヌスと共に、ハナモゲラ座の名付け主も日本の若者の生態を知ったらさぞかし驚くに違いない。
 何を見るかより誰と見るか。俺も最初にプラネタリウムに足を踏み入れた時、隣に長谷川がいたらまた違った感想を持ったのだろうか。連絡先もわからなくなった今となっては、考えても無意味な事だけれども。

「帰るか」
 長谷川が無言で頷くのを確認して、俺達は廃屋を後にした。ネズミが目を覚ましたのか、ごそごそと言う音が聞こえた。今ではもう二人ともその音にも慣れきっていた。
 廃車寸前のスクーターにエンジンをかけるにはコツがいる。窃盗車に鍵なんてある筈も無いので、剥き出しの配線を強く捻る。プスンプスンと情けない音を立てるスクーターと格闘してる間、長谷川は先に帰るでもなく横でそれを眺めている。カップラーメンが出来上がるほどの時間をかけてようやくエンジンを動かした時、長谷川は退屈そうに頭の上で腕を組んでいた。暗い廃屋の中ではよく見えなかった長谷川の顔を傾いていく太陽が照らす。不覚にも心臓が不穏な動きを見せた。悟られたくないと思って顔を逸らした。
「……ツーリングは無理だけどさ」
 不意に口をついて出た言葉は、自分でも続く言葉を考えていない物だった。視界の隅に長谷川が小首を傾げる様子が映る。折角かかったエンジンを止めたくないと思い、そそくさとスクーターに跨りアクセルをふかした。
「その、家の近くまで乗せてくくらいなら」
 どこに目をやれば良いのかわからなくて、弱々しく振動するスクーターのミラーの角度を調節する振りをして誤魔化した。
「充分」
 それだけ言って長谷川は俺の後ろに跨った。ポンコツで老いぼれな窃盗車は喘ぎ苦しむ様な排気音を出す。途中でエンストしたりしなければ良いけど、と情けない心配が脳裏を掠めた。
 ゆっくりと走り出したスクーターは、走り始めてからも普段より更に遅いスピードしか出なかった。自転車とさして変わらない程度のスピードではとてもツーリングとは言えないかもしれない。元よりツーリングのつもりではないのだけれども。
 ドラマやマンガで見るバイクの二人乗りの様にがっしりしがみ付いて来るわけでもなく、自転車の様に横向きに気楽に腰掛けるわけでもなく、長谷川は腰に手を添えるだけで黙っていた。俺が感じている妙な緊張感を長谷川は感じているのだろうか。ただ単に添えられているだけの手が、姿も見えない声も聞こえないその時の長谷川の全てだった。ジャージ越しの腰骨に触れている細く長い指の感触に、生まれて初めてと言えるくらいのもどかしいと言う感覚を覚える。いくらスロットルを開けても速く走らないスクーターに似ていた。
 それでも前に進んでいる限りゴールと言うのは来るもので、しばらくして長谷川の家の近くまで来ると、ここで良いよと後ろから声が聞こえた。聞こえないフリをしてこのまま走り続けたらどうか、そんな思いつきを振り払って俺はスクーターを路肩に停めた。
 じゃまた学校で、と言って手を振って帰っていく長谷川に手を振り返して、俺は反対方向にある自宅に向けて出発した。帰り道の途中でスクーターがポスンと情けない音を立て、そのまま廃車寸前がただの廃車になったのはまた別の話だ。

『ハナモゲラ座流星群ね、これ凄いですよ。百年前にこれが来てたら間違いなく地球滅亡と勘違いされるくらい大量の星が見えます。半端ないです。見えるなんてもんじゃないです、嫌でも目に入ります。見ないと絶対後悔します』
 全米が泣く映画の宣伝文句みたいだと思った。天文の専門家らしい禿げ散らかしたオッサンが唾を飛ばしまくって喋る様子に、特集番組の司会一同は揃ってドン引きしている。興奮して顔を真っ赤にして喋る専門家は、こんな流星群は生きてるうちに二度と来ない、と言う旨を繰り返し強調した。ついに一人で感極まって専門家が泣き出した所で妹がチャンネルを変えた。
「ハナモゲラ座流星群がどう凄いか説明して」
「わかんない」
 不良天文部はあっけらかんとそう返してきたが、元々期待はしていなかった。俺も妹も恐らくテレビの視聴者も「なんかすっげぇ流星群が来るらしいからお祭り騒ぎ」と言う漠然としたイメージしか持っていない。それでも人が死んだ話やら政治家のイザコザの話を延々見させられるよりかはマシだった。人が死んで政治が死んで挙句には動物園で飼ってるパンダまで死ぬこの国のニュースだったが、それならいっそ星が燃え尽きて死ぬニュースの方が爽快感がある気がする。
「お兄ちゃんもどこかに見に行ったりしないの? 凄いらしいじゃん」
「別にベランダで煙草吸いながら見てれば充分だわ」
「勿体無いナァ」
 お前と違って一緒に見る人がいませんので、と言いかけてやめた。人の事情に首を突っ込みたがるような所ばかりはまさに華の女子高生だからだ。
 今でも天体に関する話題を目にすると、かつてのセンチメンタルな感情が呼び起こされる。結局俺と長谷川は甘ったるいラブロマンスやしょっぱい涙の別れの世界に足を踏み入れる事はなく、ただただ週末に廃屋で待ち合わせて時間を過ごすだけの仲を貫いた。連絡も取っていないから、その後にお互いどんな道を進んだかは知らないし知らせていないし知らせる術も無い。それで良かったのだと思う。他の場所に出掛ける事も無ければ学校で会話する事もなく、ただ廃屋だけを繋がりにして構築した世界は、現実とのギャップで虚しくはなれども今は良い思い出だ。
 ただ、相変わらず天体には疎い。七つ下の妹が高校に入って天文部を選んだと聞いた時には多少なりとも驚いたが、まぁ話を聞く限り長谷川のような天文馬鹿はどこにでもいるようなわけもない。長谷川の奇行に付き合ってはいたが、それは別に星が好きだったからでもない。
 長谷川なら間違いなくハナモゲラ座流星群に狂喜乱舞しているだろうと思った。記憶の中のままの中学二年生の長谷川が先ほどの専門家の様に熱っぽくハナモゲラ座流星群の凄さを解説している、そんな様子を一人で勝手に思い浮かべて小さく笑った。
「なに、どうしたのいきなり笑って。気持ち悪っ」
 そう言って細めた目で俺を見る妹だったが、そんな妹でも今の楽しい時間を少しでも多く経験して欲しいと思った。楽しんだ時間は、いくら後から思い出しても瞬間瞬間の劣化コピーでしか無いと、俺はずっと思っている。

     

 長い間人のいなかった机に座る生徒が戻ってきたのは、中学二年目の二学期からだった。それまでは掃除の時の余計な手間を増やすだけだった空き机には、夏休み明けには長谷川と言う女子が座っていてクラス一同驚いたものだ。長い間病気がちで療養生活が長かった長谷川は、当初は病気が完治してやっと普通の学校生活が送れるのだと喜んでいた記憶があるが、一年半の間名前だけしか知らなかったクラスメイトがすんなり馴染めるほど女子のグループ関係は単純な物ではなく、療養中にはロクに勉強もしなかったらしい上に鈍臭い彼女が徐々にクラスで浮き始めるのも無理はなかった事だと思う。かくいう俺も学校ではたまに遠巻きに見遣って、なにやら難しい天体の本を教科書で隠して読んでいる姿を確認する程度だった。
 最初に会話を交わしたのもやはり廃屋での事だった。部活をサボって悪友連中と一通り些細な悪事をした後、アルコールの回った頭で一人自転車を走らせている時。前を通りかかった廃屋から、何やら物音がしたのだ。
 冷静に思い返してみると、廃屋から物音が聞こえても何か面白い事があるかもしれないと結びつけるのはあまりよろしい判断ではない。寝床を探すホームレスかシンナーを吸うチンピラが良いとこだろう。ただその時の俺は慣れない飲酒の高揚感と、貧乏カップルがファックに勤しんでいるのかもしれないなどと言う馬鹿げた妄想に起因する性的好奇心とが相俟って、自転車を停めて中に足を踏み入れたのだ。そして中にいたのはホームレスでもヤク中でも裸の男女でもなく、話した事の無いクラスメイトだったと言うわけだ。
「何してんの」
 不審に思ったままにそう声をかけると、ガタガタと脚立を動かすのに苦労していた長谷川は俺に気付き驚いた顔をした。
「いつからそこにいたの」
「今」
 埃っぽい空気は妙に緊迫していた。長谷川はどう見てもいきなり現れた俺を怪しんでいるし、俺からすれば廃屋で脚立を使って遊ぶ女子中学生の方が怪しい。お互い何を言えば良いのかわからないまま会話の空気を作ってしまったものだから、空気が停滞して動かない。そうしているうちにゆっくりと陽は傾き、窓から差し込む光が俺の顔を照らした。
「赤い」
 は? と思わず聞き返してから、まともな言葉になっていないと思った。理不尽な先輩が後輩を威圧する時の様な口調だった。案の定長谷川は気を悪くしたのか、声を荒げて言葉を継いだ。
「顔が赤い!」
「あ、いや、酒飲んだから」
 そう返した俺の言葉が戸惑いを含んだ物だったからなのか、長谷川の眉根は少し穏やかな形になった。距離を置いて、しかしこちらの顔を観察する様に視線を動かさない。そして俺は軽々しく飲酒の事実を打ち明けて良かったのだろうかと若干の後悔をしていた。
「クラス同じだったよね、名前なんだっけ」
「井手だけど」
「誕生日は?」
「十一月十一日」
 井手なのにさそり座じゃん、と長谷川が言ってからまたしばらく沈黙が続き、ようやく俺は井手と射手座をかけた長谷川のジョークだと言う事を理解したのだった。酷くわかりにくかった。こんな事ばかり言ってるならそりゃ女子の間でも浮くわな、と酔いの残った頭で思っていた。口にしなかっただけマシだ。そしてそれは正解だった。長谷川が勝手に会話を再開してくれたのだ。
「井手君、力仕事慣れてる?」
「そりゃまぁ女子よりは」
 部活で鍛えてるから、とは付け加えなかった。サボってばかりで幽霊部員の俺にそれを言う権利は無いし、そもそも事実ではない。張って格好良いと思う見栄でも無いし相手でもない。
「ちょっと脚立運んでくれない?」
「なんで俺が」
「お酒飲んだんでしょ、バラすよ」
 それはマズい。日頃からろくでもない事ばかりしているから教師に怒られるのは慣れっこだが、それで芋づる式に友人を巻き込んで仲間内での立場が悪くなるのは困る。渋々物が散乱して動き辛い中で錆だらけの脚立を運び出しながら、俺は飲酒の事実を軽々しく打ち明けた事を後悔していた。友達がいない割には積極的に話すんだな、と言う失礼極まりない感想も同時に抱いていたが、こういう変な積極性のせいで友達が出来ていないのかもしれないとも思った。
「で、脚立で何すんの」
「星座を描く」
 それだけ答えて長谷川は脚立に足をかけた。飲酒野郎に加えて覗き魔と評価を下されるのは不愉快だと懸念したが、スカートの中身なんてまるで気にしてない様子で長谷川は軽やかに脚立を登る。夏に比べて段々と日が短くなっていく秋の夕暮れは、もうしばらくすれば夜に変わってしまうだろう。そうすれば本物の星空がいくらでも見れるだろうに、と不思議に感じた。
 天文キチガイ。クラスメイトの誰かが陰でそう長谷川を形容して笑っているのを聞いた事がある。星空が好きなのは結構だが、授業中くらいは授業に集中するように。教師がそう注意しているのも何度か見た。けれど、ようやく天井に手を伸ばす手段を手に入れた長谷川は心底楽しそうだった。制服のポケットからサランラップに包んだ白いチョークを取り出し、鼻歌すら歌いながら天井に星印を描き始める。それは俺には真似できない楽しさの様な気がして、ほんの一瞬、少しだけ長谷川が羨ましく思えた。
 自分たちにとって残された娯楽なんて、ちょっとでも早くこの環境から逃げ出したくて背伸びをしてみるくらいしかない。酒を飲んで煙草を吸って、それらが本当に旨いと思ってる奴なんて、俺が普段一緒にいる十四歳の中には誰一人いないと確信出来る。それでも戦場の兵が身を守る為に銃を掲げる様に、自分たちは精一杯の抵抗の意思を示して缶チューハイを掲げているのだ。それなのに、長谷川は本当に楽しそうに行動する。今チョークを走らせているこの瞬間が本当に楽しくて仕方が無い、そんな顔をして酒を飲んだ事が俺にはあっただろうか。
 見惚れているうちに天井にはいくつもの星印が描かれていたが、それが何座かはわからなかった。時計は無かったが、日が沈んでだいぶ経つ。そんな時間になってから、ようやく長谷川は脚立を降りて体を伸ばした。ご丁寧に長谷川の鞄の中には替えのチョークやら懐中電灯やらが入っていて、作業中にしばしば長谷川はそれを取ってと俺に指示を飛ばした。不思議と苦ではなかったが、長谷川の持つチョークが学校からくすねて来た物だと後で知って呆れた。飲酒に比べれば些細かもしれないけど、お前もやる事やってんじゃねぇか、と。
「今日の分はこれで終わり、ありがとね井手君」
 制服についたチョークの白を手で払いながら長谷川は笑った。また例の笑顔だ。照れ臭くなって視線を逸らしたくなったが、俺がそうする前にそそくさと鞄を手にして廃屋を出ようとする。
「長谷川!」
 呼び止めたのは半ば脊髄反射だ。何事かと驚いた様子で長谷川が振り返る。疲れてはいたが、充足感のある顔だった。何を言うかも考えずに呼び止めたけれど、きっと俺はその顔を見るのを一回きりで終わらせたくなかったのだ。
「次、いつここに来る?」
 そんな感じで、俺と長谷川の廃屋ライフが始まった。

 流星群当日。テレビでも新聞でもインターネットでも散々凄い凄いと煽られていたからか、夜のハナモゲラ座流星群を前にして世間は心なしか浮かれたお祭りムードだった。それは我が家も例外ではなく、当日になって準備を始める妹のせいであれがないこれがないと大騒ぎだ。一人で勝手に混乱しているのかよくわからない物まで鞄に放り込んでいるようで、天文の知識が無い俺でも天体観測に虫眼鏡が必要無い事くらいはわかる。
「御札は持ったか?」
「御札? あー無いから買いに行かないと」
「無いなら塩でも良いんじゃないか」
「待ってお兄ちゃん、それ何に使うの」
「夜の学校と言ったらなんか出るに決まってるだろ」
 少し茶々を入れただけなのに顔面に携帯電話が飛んできた。まだ通話途中だったらしいのに投げつけられたそれからは、部活仲間らしき女子高生の驚いた声が聞こえてくる。通話相手にはこちらの方が余程ホラーに違いない。
「あ、今日送ってってくれるんだよね」
 投げつけた携帯電話の回収がてらに確認をされたので頷いておく。バイクの後ろに妹を乗せて十分ほど走る、それだけでガソリン代の出るちょろいバイトだった。かつては無免許で廃車寸前のスクーターに乗っていた俺も、今ではちゃんと普通二輪免許を持って自分でバイトして買ったバイクに乗っている。エンストした時にも堂々と業者を呼べる。もう道端に盗難車を乗り捨てて歩いて帰る事も無いのだ。
「七時くらいに出るから、ちゃんと準備しといてね」
「随分集まるの早くないか」
 この数日間テレビで見ない日が無かったからか、俺もいつの間にかハナモゲラ座流星群の事は覚えてしまっていた。降り始めるのは午後十一時、そこから数時間に渡り流れ星は見え続け、見込みでは一時間あたり二千個を余裕で越えると言う。おまけに今夜の天気は全国的に快晴らしい。
「そりゃまぁ、色々準備したりご飯食べたり……」
「遊んでるうちに流星群終わってました、とかやめろよな」
 そんなんあるわけないじゃん、と言った妹はそのまま俺の愚痴を電話口の友人に話しながら自分の部屋へと戻っていった。友人が持ち物の確認をしてあげているのかは定かではないが、ひとまず我が家が平穏を取り戻したので良しとする。両親がもう少しおしとやかに教育出来なかったものだろうか。春休みの真っ只中な昼下がり、家にいるのは妹と年中休みな俺だけだった。
 ニートはニートなりに家事をする。そろそろ布団をしまってしまおうとベランダに出ると、なるほど昼下がりの今から既に雲は少しも見えなかった。田舎に比べて東京は星が見えにくいとは言え、この分なら多少は流星群の見え具合にも期待出来そうだった。どうせガソリン代を徴収するのだし、妹を送るついでに軽くバイクを走らせて夜風に当たるのも悪くない。
 長谷川とは結局ツーリングにもプラネタリウムにも行けていない。田舎の不便な生活に耐えかねた両親にとっていきなりの父の栄転、東京への転勤は渡りに船だったのかもしれないが、その分俺は色々な物を中途半端なまま置き忘れていく事になった。それを恨む気持ちは無いが、もしあのままあの田舎に残っていたらどうなっていたのかな、と「良い思い出」のパラレルストーリーを思い描いた事は一度や二度ではない。
 楽しんだ時間は、いくら後から思い出しても瞬間瞬間の劣化コピーでしか無い。
 ずっと自分自身で噛み締めている事だ。呼吸をして栄養を摂取しながら日々を無為に生きる俺は、本当に生きてるのだろうか。今を楽しめずに劣化コピーに縋る俺は、酒や煙草で背伸びをする事しか知らなかったあの時よりも更につまらない毎日を送っているのではないか。白いチョークは無いし、あっても何を描けば良いのかわからない。

     

 田舎で過ごす最後の春休みも終わりに差し掛かった三月。引越しももう間近に迫っていたある日の夕方、長谷川は脚立から飛び降りるなり歓声を上げた。
「完成だーっ!」
「おー、やっと完成したのか」
 週末に数時間ずつ、約五ヶ月をかけて長谷川は廃屋の天井に天文図を描いた。それがやっと今日完成したのだと言う事を、俺は長谷川に言われてようやく理解したのだった。長谷川が既に描いた星と星の間に一回り印を小さくして、或いは色を変えてまた新たな星を書き加えていく度、いつ終わるのだろうと不思議に思っていた。しかしそれももう終わりなのだ。見上げると、もう天井には星が描かれていない所などほんの少ししかない。さながら手製のプラネタリウムだ、と感心した。
「しかしこうやって見ると、まぁ、すげぇわ」
「でしょーもっと褒めろー」
 ニヤつきを隠せない長谷川が気味悪くクネクネと体をくねらせているのを横目で見ながら、俺は感想らしい感想が出せずにいた。中学生でこんなの出来るのは凄いだとか、やっぱり長谷川は俺なんかと違うなだとか、思い浮かぶその全ての言葉が相応しくないように思えて何も言えなかったのだ。
「……井手君の転校に間に合って良かったよ」
 少しだけ落ち着きを取り戻した長谷川の言葉に天井から視線を戻すと、長谷川は笑いながら俺を見ていた。プラネタリウムと長谷川の顔とを交互に見ているうちに、ますます何を言えば良いのかがわからなくなる。
 転校の話は、長谷川には一度も直接話していない。教室でクラスメイトと話す声は聞こえるだろうし、担任も来年度から俺がいないと言う事は終業式でクラス全員に伝えていた。それでも俺は直接長谷川に話す事は出来なかったし、終業式の後でクラスの女子に囲まれて質問攻めにあっている時にも、長谷川は席に座ったまま、昼間に見える筈も無い星を見るかのように視線を窓の外に向けていた。結局廃屋の外ではロクに会話もした事が無い。
「あー……なんつーか、ごめん」
「良いよ良いよ、学校じゃ話し辛かったでしょ」
 そう言って手をひらひらさせる様を見て、言い様の無い罪悪感に苛まれた。話そうと思えば両親に知らされた次の日にでも話す事は出来たし、実際学校でも廃屋でも顔を合わせているのだからその機会はいくらでもあった。引っ越してしまえば顔を合わせる事も無くなってしまう事もお互いに知っていて、それでも話す事が出来なかったのは何故なのだろう。それがわかっていたら俺はきっと最初から長谷川を変わったクラスメイトだとしか認識しなかった気がするのもまた変な話だ。
「明後日さ、夜にここ来て天井見上げてみようよ。灯り持ってきてさ」
 きっと本物のプラネタリウムみたいだよ、と、空気を入れ替える様に、努めて明るく長谷川は言った。その流れに乗らないといつまでも湿っぽくなってしまいそうだったから、俺も何とか笑顔を戻して頷いた。お互いに少しずつ無理をして、それでも何とかして良い形でこの廃屋ライフを終わらせたいと思っているのもお互い同じだった。たかだか十四歳に、他にどんなこれ以上のやり方があると言うのか。
 その日は明後日の夜、二人で夜にこっそり家を抜け出して来る約束を交わして別れた。夜が明ければその日はもう出発の予定日で、泣いても笑ってもお別れだ。最後の思い出作り、そんな単語を思い浮かべて嫌になって頭を振った。それでも現実が変わるわけはない。酒や煙草で抗って見せて現実が変わるわけないのだから、チョークで星空を描いたとしても同じ様に変わらない現実がただそこに在る。そして時間の流れに洗われるうちに角が取れて美化された思い出だけを抱えて生きる。
 それが嫌だ、と漠然とではなく明確に思える様になったのは、俺が長谷川と廃屋での時間を共に過ごして一つ成長したと言える点かもしれない。

 嫌だ嫌だと考えていると、全てを投げ捨てて逃避する癖がある。小さい頃、食べられなかった茄子が晩飯のおかずに入っている度にご飯いらないと言って大騒ぎした、と言うエピソードは今でも両親に話の種にされるし、延々とエントリーシートを書いているうちに腱鞘炎になって就職活動その物を放り投げたりもした。自分でも悪い癖だと思っているが未だに治らない。そういう自分が嫌だと考えているうちに、考える事その物が面倒になって投げ捨てるからだ。
 投げ捨てたまま拾い上げる事の無かった思い出は、十年の間にだいぶ時間の流れに洗われて美化されていた。楽しかった場面ばかりを拠り所にして、自分がやらかした場面と言うのはことごとく忘れている。それを思い出すきっかけになったのがあの日々に二人して夢中になっていた天体だと言うのだから皮肉な物だ。
 結局俺は約束の日、その大事な大事な約束をすっぽかして部屋の窓から雲一つ無い夜空を見ていた。どんな顔をして会えば良いかわからなかった、あの時の自分を問い質したらそう答えるだろう。
 まごう事無きクソ野郎だった。
「お兄ちゃん? ボーっとしてどうしたの」
 支度を終えたらしい妹が、干していた掛け布団を抱えたままベランダで立ち尽くす俺を不審に思ったのか声をかけてきた。いつの間にか穏やかな昼下がりだった筈の空色が、少しずつ夕暮れの朱を混ぜ込んで夜を迎えつつある。言い様の無い巨大な焦燥感が突然ボディブローを抉りこんできて、俺は体が芯から疼くのを感じた。
「送っていくの、中止」
「へ?」
 不思議そうな顔をする妹に冷えた布団を押し付けて、俺はジャケットとバイクの鍵をひっ掴んで家を飛び出した。バイクに飛び乗ってエンジンをかけると、慌てた妹がベランダから顔を出して叫んだ。
「どこ行くの!?」
「プラネタリウム!」
 それだけ叫び返してスロットルを一気にひねった。妹の叫び声はあっと言う間にエンジンの唸り声にかき消されて、そのまま俺は半ば前輪を浮かせる勢いで走り出した。体が熱い。手足が震えている。心臓は鼓動を速く打ち過ぎて死んでしまいそうだ。それで死ぬなら死んでしまえ。
 十年前のあの街に行く為には何時間かかる?
 あの廃屋が十年経っても残っているわけがない?
 そもそも長谷川がいるわけないだろう?
「うるせぇクソ野郎!」
 ヘルメットの中でくぐもった叫び声を上げながら、ひたすら速く走る事だけを考えた。今更あの廃屋に行って何になる、そんな馬鹿げた事をして何になる。十年の間に勝手に社会に洗われて、勝手にクールな顔をする様になった自分に腹を立ててもバイクが速く走るわけではない。いつかの夕方、後ろに長谷川を乗せて走ったオンボロの盗難車の方が全然速く走ってくれていた。
 ハナモゲラ座流星群なのだ。
 大事な約束なのだ。
 これを逃したら生きてる間にはチャンスはもう来ないのだ!
 禿げ散らかした学者のオッサンの言う事は正しかった。見る見ないじゃない、嫌でも現実は目に入る。それでも見なければ絶対に後悔する。そして大事なのは何を見るかより誰と見るかだ。
 跳ね飛ばすギリギリで人を避け、数え切れない程の車を無理矢理追い越し、信号を無視して交差点に突っ込んではクラクションの大合奏が背後で聞こえた。それでもアクセルを全開にして、速く、より速く。今日と言う日を逃したらまた死んだ魚の目で無為に過ごすだけの日々が待っているのだから、例え死んだとしてもブレーキをかける理由はどこにも無かった。
 頭で考えるよりも早く本能で高速道路に飛び込んでからは通行人を跳ねる心配が無くなった分、思い出した様に一気に堰を切って押し寄せてくる自責の念が敵だった。いつから長谷川との日々をただの思い出にしようとしていたのだ。大学生か、高校生か、或いは転校した直後からか。情けなくて涙すら流しそうだが、視界が邪魔されるのはマズいと脳がブレーキをかけたのか、涙腺の熱さに反比例して涙は少しも流れない。代わりに何があっても受け入れてやろうと腹を括り、その直後に料金所が目に入った。腹を括った結果、減速しなかったせいでETCのバーを体当たりで吹き飛ばした。料金が正常に払われている事を祈る。
 目的地へのルートを足りない脳味噌で必死に考え、体当たりの衝撃でふらつく車体を立て直しながら、俺は高速道路を最高速度で飛ばし続けた。空の色はもう黒一色になっていて、走り続けるにつれて少しずつ見える星の数が増えていった。

 廃屋のボロボロになったドアを半ば蹴飛ばす様にして開けると、長谷川は驚いて俯いていた顔を上げた。十年前そのままの姿で俺を待っていた長谷川は、いきなり飛び込んできたフラフラの不審者を若干怯えすら見える眼で見ていた。弱りきった肺で枯れそうな息を吐いている俺は、すぐには話し出す事が出来ない。呼吸が苦しくて仕方ないのだ。
「……誰?」
「井手」
 短く答えるのが精一杯だった。色々な物を中途半端なまま置き去りにした俺は、重荷が無くなったと言わんばかりに身長ばかり伸びた。そんな物なんの意味も無いのだ。脚立を抑えながらチョークを走らせる姿を見守って、盗難車で退屈な田舎の街を走っていた十四歳の俺に比べれば、見てくればかり取り繕うとする今の俺は酷く格好悪いだろう。長谷川がわからないのも無理はなかった。
「えーと、背、伸びた?」
 一昨日そんなだったっけ、と困惑を隠せていない様子の長谷川に覚束ない足取りで近付こうとしたが、酷使した体が疲労の限界で崩れ落ちた。うつぶせに倒れこんで荒い息を吐く俺を細い手が揺さぶる。廃屋の床は十年前と同じように埃まみれでカビ臭かった。
「え、ちょっと、大丈夫?」
「平気、長谷川、灯り」
 テンプレートな外国人のカタコトの様に喋る俺にどこまでも困惑を深めていく長谷川だったが、しばらくしてガサゴソと鞄を漁り始める。ランタンと一緒にステンレスの水筒を取り出して、中身を注いで俺に差し出した。なんとか上半身を起こし、受け取って口に含むと温かさと共に全身に僅かに活力が戻っていく気がした。砂漠のど真ん中でオアシスを見つけた放浪者はきっとこんな感覚だったに違いない。
「ほうじ茶だけど」
「サンキュ、楽になった」
 もう外はとっくに陽が沈んで月明かりだけだ。廃屋の中まで充分な光は届いていない。ランタンのスイッチを入れると、懐中電灯よりも優しいほんのりとした灯りが二人を照らした。暖房器具などあるわけもない廃屋の中も光のおかげで少しだけ暖かみを増した気がする。それでようやく長谷川は笑った。十年前と何も変わらない、十四歳そのままの懐かしい笑みだった。
「なんでそんな死にそうになってるの」
「飛ばしてきたから。だいぶ遅刻したけど」
 平気平気、私もさっき来たとこ。そう言って長谷川はまた笑ったが、本当だとは到底思えなかった。時計や携帯電話は全部家に忘れてきてしまっている。今が何時なのかもわからなかったが、今こうして会えているのだからそれで良いと開き直る事にした。
 いつまでも倒れ伏したままじゃ格好がつかないと思い、体を起こしてなんとか胡座を組む。ランタンを挟んで向かいに座る長谷川と目を合わせて、二人で示し合わせたかの様なタイミングで同時に天井を見上げた。
 色とりどりのチョークで描かれた天文図は、夜中に光で照らしながら見ると本物のプラネタリウムよりも余程綺麗だった。光は弱い上にチョークで描いたから薄くて見辛いし、そもそも本物のプラネタリウムとは仕組みからして全然違うのだけれども。それでも俺が今までに見たどんな星空よりも綺麗だった。本物より偽物を選んだとしても、その偽物こそが価値のある物と言う事もあると思う。
「オリオン座くらいはわかる?」
 名前だけは知っていたが、実際どんな形かはわからなかったので首を横に振った。苦笑いを浮かべた長谷川は、指先で星座線をなぞる様に示しながら一つ一つ星座を解説し始めた。正直説明されても殆ど理解出来なかったが、細く長く白い指先がゆっくりと図形を描く、その動きを見ているだけでも満足だった。
「冬の大三角形の星の名前はわかる? ヒントはカタカナ」
「サイン、コサイン、タンジェント」
 パッと頭に浮かんだカタカナ三つの組み合わせをとりあえず口にしてみたが、どう考えても間違っている。ツボにハマったのか手を叩いて腹を抱えて長谷川は笑い続け、しばらくした後目尻に笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながらまた説明を始めた。本物のプラネタリウムではこんな風なやり取りは出来ないだろう。
 説明を聞き続けていると、夜空には俺が知っているよりも遥かに多くの星座がぎちぎちと詰まっている事を知った。よくよく目を凝らさなければ見えない様な小さな点でさえ図形の一角を為している。その一つ一つに名前があると言う事も知った。星の世界も思ったより窮屈なのだろうか。
 一つ、気になっている事があった。
「なぁ長谷川、ハナモゲラ座ってどれかわかる?」
「ハナモゲラ座?」
 まるで初めて聞くかのような反応だった。そんな反応が返ってきた事が意外で、思わず顔を見合わせる。
「今夜、ハナモゲラ座流星群って言うめちゃくちゃ凄い流星群が降るらしいんだけど」
「何それ初めて聞いた」
「十一時から降り始めて、一時間に二千個とか」
「それじゃ流星群じゃなくて流星嵐だよ。適当な事言って私の事試してない?」
 長谷川は悪戯っぽい目で俺を見る。けれどあれだけ大々的に世間が騒いでた本当の事なのだ。首を傾げていると、ランタンの明りが少しずつ弱々しくなっていった。やばい電池忘れてた、と長谷川が慌てた声を出す。そうして慌てたところで替えの電池があるわけもなく、ほどなくして手持ちの唯一の光源はふっと力尽きた。あちゃーと言う呟きと共に二人して項垂れる。窓から差し込む月明かりはこれから降り始める流星群に遠慮しているかのように弱々しく、どんな顔をしているのかもわからない。
「ごめんね、ちゃんと準備してなくて」
「違う、長谷川のせいじゃない」
「本当はどういう顔で会えば良いかもわからなかった。ランタンと水筒準備するだけでいっぱいいっぱいだったんだよ」
 それでもこうしてここに来たじゃないか、俺はそれすら出来ずに逃げ出したんだぞ。そんな言葉が喉まで出掛かって、けれど割れそうな喉はそれを言う事を拒否した。代わりに首を力の限り横に振ったけれど、この暗闇じゃそれが見えてるかどうかもわからない。
「本当にごめん、最後なのに」
 最後なのに。最後なのに。最後なのに……。
 鼓膜にこびりついて残響していくその言葉が、もう一歩も動く事が出来ないくらいに疲れきっていた体に最後の爆薬を仕掛けた。あとはそれに火をつけるだけで良かった。
「最後じゃない」
 暗闇の中では輪郭しか見えない脚立。部屋の隅に寄せて置いてあったそれは、ずっと抑え続けていたから目を瞑っていても登れる。体に鞭を打ってゆっくり立ち上がると、よろめく体と裏腹に視界はしっかりとブレずに世界を見ている。真っ暗闇の中で横に座る長谷川を見下ろすと、言いたい事は今度は勝手に腹の底から勢い良く飛び出した。
「最後じゃない!」
 そして俺は脚立に向かって思い切り駆け出した。一歩、二歩、三歩。理想的な助走と共に飛び上がると振り上げた左足がしっかりと脚立を踏みしめて、勢いをそのままに俺は駆け上がり、全力で上へと飛び上がる。そのまま重心を回転させると、あとは体が勝手にボロボロの廃屋の天井へと足を伸ばした。
 サマーソルトキック。
 飛び込んできたロシアのレスラーを蹴り返すアメリカ軍人が如く、俺は廃屋の天井を蹴り飛ばした。腐った木材と俺の足が激しくぶつかり、それをへし折る確かな手応えと共に骨が折れる嫌な感触がした。初めて俺は体が成長した事をありがたく感じた。当たり前だが着地には失敗して背中を強く打ち、肺の空気が全て叩き出されて呼吸が出来ず呻く。廃屋全体がミシミシと嫌な音を立てていた。
「何やってんの!」
 駆け寄ってきた長谷川に肩を貸してもらい、廃屋の外へと脱出する。ほどなくして廃屋は盛大な音を立てて崩れ、もはや家の形を為していない残骸の前で俺と長谷川は立ち尽くしていた。折れた左足が騒がしく痛覚を刺激する。ランタンも水筒も、五ヶ月かけて作り上げた天文図もみな下敷きになってぐちゃぐちゃだ。
 ハ、ハハハ、ハハハハハハ。笑い出した長谷川は数秒前まで屋根だったトタン板の上に仰向けになり、一層大きく笑った。足が痛くて立ってられず、俺もそれに倣って隣に仰向けになった。雲一つ無い夜空には本物の星がそれこそ天文学的な数だけ並んでいて、かろうじてオリオン座と冬の大三角形だけは見つける事が出来た。
「病院のベッドで寝てるとね、する事って全然無かったの。テレビはつまんないし、本を読んでも疲れちゃって」
 ひとしきり笑った後、長谷川は話し出した。五ヶ月の成果を台無しにした事を怒っている様子は無かった。俺はただただ長谷川の話に集中しようとした。痛みは依然として激しかったが、空気を読んだのか少しだけ落ち着いてくれていた。
「クラスメイトがお見舞いに来ても共通の話題とか無いから凄く気まずくって。病院じゃゲームも出来ないし」
「で、星ならみんな見れるかな、と?」
「そうそう。窓際のベッドにしてください、ってお願いした」
 星に詳しいクラスメイトなんて一人もいなかったけどね、と言って長谷川は少しだけ寂しそうに笑った。俺も結局最後までその「星に詳しいクラスメイト」では無かったから、生まれた若干の後悔を悟られない様に噛み潰した。
「もう一人ならずっと一人のまんまで良いやって意固地になってたら、あの日酔っ払いが乱入してきたんだよ」
「チョーク盗んだ長谷川もどうかと思ったけどな」
 小さく小突かれた。痛くはなかったが、それとは別に内臓の、特に心臓の辺りが一瞬大きく跳ねた。
「それでも、ただの暇潰しだった筈の事が急に楽しく思えてきたの」
 それを聞いてハッとする。あの日に酒を飲もうと誘ってきたのも、数多の軽犯罪を股に掛ける悪友だった。退屈な日常へのささやかな抵抗だと思っていた酒と煙草とバイク泥棒が、今こうしてこの瞬間に繋がっている。出来すぎた偶然だと小さく笑ってから、心の中で引越しの時にもしなかった感謝の言葉をありったけ送った。
「だから今、本物を眺めて初めて楽しいって思ってる」
 何を見るかより誰と見るか。いつもこの楽しさを感じているのなら、妹はまごう事なき天文部だった。どんなプラネタリウムよりも大きなドームに瞳を映写機にして、それで横に誰かがいてくれるのならばこんなに楽しい物も無い。冷たい夜風が吹き付けて、暖を求めると自然と手は重なった。十一時はもう過ぎたのだろうか。
 すっと、小さく夜空に流れ星の線が見えた。
 それを皮切りに、まるで花火かシャワーの様に次々と星が流れては消える。一時間に二千個どころか、夜空一杯に絶え間なく流れる星が一時間も続けば、きっと万は流れているに違いない。目の前の光景に圧巻されながら、何を話せば良いのか、言葉を懸命に振り絞った。
「本当は今日、俺は『最後』が嫌で逃げ出してたんだ」
 笑うでもなく意味を問い返すでもなく、うん、と長谷川は小さく頷いた。ずっとサボっていた涙腺が今更になって仕事を思い出して、流星群の白い光の束が滲んで帯になる。
「俺、またこっち来るよ」
「うん」
「ツーリング行こう。今度はパクったスクーターじゃなくてちゃんとしたの乗って」
「うん」
「プラネタリウムも一度行こう。思ってたより凄くちゃちいけど、きっと二人なら楽しい」
「うん」
 言葉を継ぐにつれて、声は掠れて震えていった。鼻水をすすり上げると冷たい空気が喉に刺さる。それでも手だけは暖かかった。
「これだけ星が降るなら、願い事も叶えたい放題だよ」
 冗談めかして長谷川が言う、その声も震えて聞こえたのは気のせいだろうか。もしそうなら、申し訳ないが俺が今まで生きていた中で一番嬉しい事だった。
「来てくれてありがとう」
 そう長谷川が言ったのを最後に聞いて、俺はゆっくりと意識の限界を迎えた。

 目が覚めるとベッドに寝ていた。消毒液の匂いが鼻につき、カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しい。左足はギプスが巻かれて吊るされていて、黒のマジックでデカデカと「心配かけんなクソ兄貴」と書いてあった。妹の筆跡だった。
「ご気分はどうですか」
 やる気の無さそうなオッサンがやってきて、白衣とバッジと聴診器でそのオッサンが医者だと理解する。まだ思考はちゃんと働いていないようだった。フレームの歪んだ眼鏡の位置を直しながら、医者は昼の暖かな空気が眠気を誘うと言わんばかりに欠伸をした。
「ここどこっすか」
「病院です。バイクで事故って運ばれたの覚えてませんか」
「いや全く」
 医者はポリポリと頭を掻き、俺がバイクでカーブを曲がりきれず盛大に吹き飛んだ事、数日間いびきをかいて熟睡していた事、その割に怪我は大した事が無い事などを告げた。左足は痛むかと聞かれたが、痛み止めの点滴のおかげなのか特に痛みはしなかった。
「いやーだいぶ無茶したみたいですね。バイクとか道の真ん中で爆発四散してたらしいですよ」
「マジすか」
 最高速度でETCをぶち破った事を思い出し、今頃家に連絡がいっているかもしれないと考えると憂鬱な気分になる。慌てて病室に駆けつけた家族は、いびきをかく俺を見て呆れると共に怒り心頭だったようだ。ギプスに残された妹の落書きがその片鱗なのだと考えると見るのが怖い。
「退院したらまた乗れますよね?」
「それは問題ないですけど、あんだけ派手にやらかしてまた乗るんですか」
「ツーリングに行きたいんです」
 医者は心底呆れた様子で溜め息を吐いた。俺の顔とギプスの巻かれた左足とを交互に見遣り、言葉が見つからない様子だった。医者だからと言っても馬鹿につける薬が無いのは当たり前だろう。自分でも甚だバカな事を言っているものだと思っていた。
「左足の骨折と全身打撲で済んだのは奇跡ですよ本当」
「奇跡っすか……」
 奇跡。あの夜の長谷川との事は、未だにハッキリしない脳味噌でも鮮明に覚えている。しかし俺は途中で事故って運ばれたのだと言う。一体どういう事だと言うのだろうかと考え始めると難しい事を考えるのが嫌になってきて、結局は俺が覚えてるならそれで良いやと思考停止に至った。クソ野郎ここに極まれり、だった。
「ハナモゲラ座流星群、見ました?」
「あーそういえばあの夜でしたね。凄かったですよ。流れた数が予報よりゼロが一つ多かったらしくて」
「ハナモゲラ座ってどこにあるんでしょうね?」
「さぁ? そういうのは星に詳しい知り合いにでも聞いた方が早いんじゃないでしょうか」
 会話が面倒になったのか、適当な返事をした後に医者は去って行った。残された俺はやる事もなく、カーテンを開けて窓の外を眺めていた。昼間に見える筈も無い星を眺めようとしても、やっぱり見える筈も無かった。夜になったら星を見てみようと思う。オリオン座と冬の大三角形はもう見つけられるだろう。

 退院した後、家族の反対を押し切って二台目のバイクを買った。ツーリングの約束は期限を設定していないから、なるべく早いうちに行きたかったのだ。長い事労働から離れているだらけ切った体にバイトは苦痛だったが、それはそれで目的に向けて生きていると言う実感が無かったわけではない。
 久し振りに跨ったバイクに乗って、向かう先は既に決まっていた。今度は最高速度で焦って走る事も無い。料金所をぶっち切る事も、カーブで無理な曲がり方をして事故を起こす事も無い。時間をかけてゆっくりと、何を話すかを考えながら目的地へ向かおうと思う。いないならいないで良い。思い出を後ろに乗せて走るだけでも、きっともうそれを劣化コピーだと思う事は無い様な気がしたからだ。
 季節が流れるのは早い。少しずつ暖かくなっていく夜の空気を肌で感じながら、俺はキーを差し込み、ヘルメットを被った。

 初夏、満天の星である。

       

表紙

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Neetsha