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表紙

後藤、家燃えたってよ
第一部 『後藤、家燃えたってよ』

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 突然だが、俺んちが全焼した。


 いや実際、マジで参った。焼け跡は何本かの鉄杭が墓のように残っただけで、元々あった建物がアパートだったのか資材置き場だったのかも分からない有様だった。
 原因は、不明ということになっている。というか、親父の知り合いの刑事さんにそうしてもらった。なぜなら、もうお分かりだとは思うが、俺の部屋から出た不審火だったからである。
 本が燃えちゃったのだ。
 いやホント、前々から片付けようとは思ってたんだけど、まさかこの八月の西日を燦々と浴びた俺の蔵書が発火するとは思わなかった。ちょうど風呂が故障していたこともあって、その日は俺と親父は銭湯にいってたんだが、帰ってきたら勝手しったる我が家は野次馬による衆人環視の下で消防車からの放水プレイをご堪能しておられた。親父は狂気に駆られて笑い出すわ、俺は思わず落とした石鹸を探して坂を転がり落ちるわ、最近越してきた遠山さんはPS3を買ったばかりだったとかでオイオイ泣き出してそれはもうものすげー騒ぎだったのである。実際にお見せできなかったのが残念だが、ひとつ分かったことがある。人死にの出なかった火事は一周回るとなんかもう楽しい。消火活動が終わって一段落した頃にはどっから嗅ぎつけたのか知らんが茂田が焼きそばの屋台を繰り出し、みんなで焼きそばを立食していた。あいつはこの道で食っていけると思う。
 焼きそばを食い終わって、親父と刑事さんが事情聴取しあった結果、どうも後藤んところのせがれの部屋から火が出たらしいということになって、危うくその後の人生を棒に振るところだったのだが、
「まァ、本を読むなんて今時の子供にしては殊勝な趣味から出たことだし、今年の夏の暑さは確かに酷だ。いわば天災だな。調書には、原因不明の不審火で締めておくよ」
 どう見ても雀荘にいるおっさんにしか見えないおっさんに抱きつきかけたのはさすがの俺も生まれて初めてだった。神かと思った。
「被害といっても、隣の部屋の遠山さんのPS3が一番高価だったみたいだしね。他のアパートの住民も見たところケロっとしてるようだから、構わんだろう。ま、今後は気をつけるように。この町の人間は強いからね、これぐらいじゃへこたれない」
「はい、ありがとうございます! このご恩は一生忘れないっす」
 本音を言えばこの国の警察組織って割りといい加減なんだなとか思っちゃってたけども、我が身の可愛さには代えられん。遠山さんの私物とかホントどうでもよかった。俺は、俺に前科がつかなければそれでいいっ……!
 そんなことを思いつつ割りと小さな事件で済んだことにホッとしていた俺だったのだが、しかし現実は全然好転してなどいなかったのだ。
 住む家がないわけである。
「親父、どうする?」
 うちの親父は根無し草で、頼るべき親戚などはいない。どこをどうほっつき歩いてきたのか、今でこそ軽トラ転がして運び屋まがいの仕事をやっているらしいが、それだってどこまで正規の仕事なのやら。赤いぐちょぐちょが詰まった黒いゴミ袋を運搬していてもおかしくない。そんなわけで家が燃えたからといって頼れる人間はちょっと思いつかなかった。お袋の家系からは、俺たち親子は事情があって絶縁されていたりする。
 親父はちょっと悩んだが、
「ま、なくても困らんだろ。俺は軽トラで寝るし」
「いや困るだろ。この熱気で車の中で寝たら死ぬだろ」
「はっはっは、まァ死んだら死んだでその時だ」
 これである。ちょっと昭和の人間のテンションと体力にはついていけない。親父は死なないだろうが、俺は間違いなく死んじゃうので、どうやら新居が見つかるまでの仮暮らしにアテをつけなきゃいけないのは俺だけらしい。
 俺は屋台を畳み始めた茂田に擦り寄った。
「茂田ァ」
「死ね」
 とりつく島もない。お前はそれでも人間か。畜生が、ぺろっと指をなめて売上数えやがって。人んちの火事で稼いだ金じゃんそれ。分け前くれよ分け前。
 俺がそう言うと茂田はグルルルルルと虎のように唸った。まるでメシを取られそうになった子猫のよう。人間ってきたない。
「分け前はいいからよゥ、おまえんち住まわしてよ」
「無理に決まってんだろ。うちには姉ちゃんがいるんだぞ」
「いいよ、俺おまえんとこの姉ちゃんと結婚する」
「けっ。いいぞいいぞ、できるもんならな。酔っ払ったあの人の『噛み癖』に耐えられるやつがいるとは思えん」
「え、噛み癖?」
 茂田は巾着袋に売上を突っ込むと、それを肩にひょいとかけた。ハチマキを巻いた額のすぐ下で、いわくありげな眼光がきらりと輝く。
「こないだ、うちの姉ちゃん高校の頃の同窓会があったらしくてさ」
「いきなりなんの話だよ」
「まァ聞けよ。……姉ちゃん、結構飲んだみたいで、その日は夜中の三時頃に帰ってきたんだ」
「ふうん。そんで?」
「夜中の三時だから俺も寝ぼけててさ。まァ呻き声が姉ちゃんのだったから別に不安とかはなかったんだけど、電気つけずに玄関まで歩いたんだ。なんかその晩だけ電気つけるの忘れてな。で、姉ちゃんのそばに近づいたら、つるっと足が滑ったんだよ。なんか、足元にぬめぬめしたものが広がってて」
「…………。……で?」
「で、ちょっと俺ビビってさ。姉ちゃん何これ、姉ちゃん、って声かけたんだけど、姉ちゃんぐったりしてて動かないんだ。俺さすがにやべえって思ってさ。大丈夫か姉ちゃん、って呼びかけたんだ。でも、反応しなくて。俺ほんとにやばいって思って、そん時にようやく電気つけたんだ」
「…………」
「そしたら玄関が、血だらけ。うわって思って、倒れこんでる姉ちゃんを抱き上げたんだ。どっか刺されたりしたんじゃないかって。そこは弟だし、まァ、心配したわけよ。そしたら……」
 茂田はそこで、ちょっと言葉を切った。まるでその話をすると自分まで血を流すのだとばかりに。
 俺は、先を促した。
「……そしたら?」
「そしたら、血の出所がさ……姉ちゃんの口、だったんだ。でもな、変なんだよ。ぱっと口の中見てもどこも怪我してないんだ。でな、俺、姉ちゃんの顎にほとんど顔突っ込むみたいにして覗き込んでたんだけど、見えたんだよ。……姉ちゃんの奥歯に、人間の、に、人間のさ……!!」
「…………っ!!」
「……ま、そういうわけだ」
 茂田はあっさりと話を切って、屋台をバラした木材を乗せた台車を押し始めた。俺はなりゆきで被っていたほっかむり(銭湯に持っていった手ぬぐいである)を地面に投げつけた。
「どういうわけだよ!!」
 茂田は悲しげに首を振った。
「ここから先は聞かない方がいい……」
「このままじゃ俺は野宿でおねしょプレイする羽目になるわ! こんな夜更けすぎにおぞましい実話のたまいやがって、どうしてくれる!!」
「他んとこ頼れよ。横井んとことか」
 茂田が面倒そうに言う。俺はぺっとツバを吐いた。
「横井だァ? あの野郎は今頃酒井さんとよろしくやってらァ」
 結局、ちょっと前の紫電ちゃん里帰り事件の後、横井と酒井さんは付き合うことになったらしい。
 まァ意外とおセンチなところのある横井はまだ手を出していないらしいが、どうせ今頃は家族ぐるみで線香花火を乳繰り合わせたり縁側の蚊取り線香のそばで膝枕してもらったりしているに違いないのだ。
 そんなやつに助けを乞うくらいなら俺は死ぬ。
「わがままなやつだなァ」
「うるせえ!! いいから泊めろ泊めろ泊めろ!! おまえんとこの姉ちゃんは嫁にでも出せ」
「出せるもんなら出してるって。あの人の前でその話題やめろよ。こないだ二個上のサラリーマンに『将来性が見えない』って言われて振られたばっかだから」
「どんな逢瀬を重ねたら男の方から将来性について口出しするような事態になるんだ?」
「それを聞いちゃったからウチの親父はいま入院してるんだよ……」
 俯いた茂田の横顔に、男の悲しさを見た。こないだ走っていった救急車ってそれか……世の中のオトンは娘に不用意な一言を言いがちだからなァ。
「そういうわけでウチは無理。黒木は?」
「試合が近いってんで東京のジムにスパーリングパートナー探しにいった」
「あー、来月が試合なんだっけ。チケット買ってやろうぜ」
「うん。いや違う、いまは黒木の話はいいんだよ。何を本気で帰ろうとしてんの? 俺の宿が決まるまでは帰さないからな!」
 このままこの即席焼きそば立食会が解散したら寂しさで俺は死ぬかもしれない。八百屋の萬田さんとかもういねーし。あのオッサン、瓦礫の撤去とか何ひとつ手伝わずにマジで焼きそばだけ食って帰ったな……男の人たちは割りとみんな手伝ってくれてたのに……くそっ、まずいキャベツ売りやがって!
 後ろ髪を実際に引っつかんで茂田を引き止めたが、結局なんやかやと理由をつけられて逃げられてしまった。男の友情は眠気には勝てないということを痛切に思い知った八月一日の晩である。ちきしょう。
 意気消沈して、ホントにどうしようかとしょんぼりしてたらポンと肩を叩かれた。振り返ると、例の優しい刑事さんだった。確か名前は、城島さん。
「城島さん……俺、喰える野草とか全然知識ないんすよ」
「思いつめすぎだろ後藤くん……」
 城島さんがちょっと引いている。いや実際、喰うもんなくなったら誰かの家から塩借りて葉っぱ喰うしかねーし。家がなくなるって、そういうことよ。
「やっぱり、行くアテはないのかね?」
「ちょっと思い当たらないっす。まァ、あんまり無茶いって泊めてもらうのもアレなんで……」
「とは言っても、どこにも泊まらんわけにはいかんだろう。まァ、君のお父さんのことだから新居ぐらいは一月もあればどこからともなく見繕ってくるとは思うが、それまでがな……」
「はい……親父のフリーダムさにはついていけないっす」
「私は君のお父さんとは古い馴染みだが、彼はどんなに金がなくとも家だけは確保してくる男だったが、そのあたりは遺伝しなかったようだね」
 どんな遺伝子だよ。
 城島さんはしばらく夏の夜空を見上げていた。さそり座は、今夜も赤い目玉をぎらつかせている。
「よし、決めた。後藤くん」
「はい」
「うちに来なさい」
「……え? いいんすか? 俺と城島さんってぶっちゃけ他人ですけど」
「私がその気まずさに耐えて発言しなかったと思うのかね」
 なんかものすげえ理屈で睨みを利かされた。すんませんした。
「いやー、ありがたいことはありがたいんですけど、マジでお邪魔しちゃっていいんすか? 俺、炊事も洗濯も家事と名のつくものは全部いい加減ですよ? アイロンがけとかする意味ねーと思ってるし」
「予想はしていたが父親にそっくりだな……まァ、家のことを無理に手伝えとは言わないよ。自分にできることは自分で勝手にやってくれればいい。それに、なんといっても家をなくしたばかりなんだからね。ちょっとぐらいのわがままは大目に見るさ」
「うわっ、ありがとうございます。なんか俺、やる気出てきました!」
「なんのやる気かよく分からんが……ではいこうか、後藤くん。私の家は、東高のそばでね、ちょっと歩くが我慢してくれ」
 東高といえば、近頃腕に巻いていた包帯がかぶれて皮膚科に通っていると噂の紅葉沢さんがゴロついてるあたりである。厨二病でも恋がしたいのブルーレイ焼いてくれないかってツイッターで@飛ばしたんだけど無視されたのでちょっと俺は今紅葉沢さんに含むところがある。俺のことすぐリフォローするし。ちょっとNTRのよさについて木村と三時間くらい語っただけなのに……
 まァ、とにかく。
 俺はなんとか、今晩の夜風をしのぐ宿を得られたのであった。


 ○


 城島さんの家は俺が住んでいたところと似たような、どこにでもあるありふれたアパートだった。『ばくち荘』というらしい。取り締まった方がいいと思う。
 カンカンカン、と金属の階段を登って二階へ。外付けの洗濯機が並ぶ中、一番奥の部屋を城島さんがガチャンと当てた。俺は寄り道して買ったピザの箱を抱え直した。
「いやあ、配達専門のピザ屋でも店ん中に入っちゃえば売ってくれるんすね」
「はっはっは、警察手帳が役に立ったよ」
 何か間違っている気がするが、この町に住んでいると何が正しいのかたまによくわかんなくなる。まァ俺が正しいんだろう。
 ただいまー、と城島さんが部屋の中にぬっと入っていった。誰もいない家に挨拶するなんて可愛いところがあるなァ、などと思って俺も城島さんの愛嬌に乗った。
「ただいまー」
「おかえりー」と中から声。
「いやー散々な目に遭ったようちが燃えちゃってさァ」
 と言いつつ、俺は居間のちゃぶ台の上にピザの箱を置き、片手拝みに礼をして部屋の隅に積んである座布団を拝借してケツに敷いて、そして目をぱちくりさせてこちらを見ている十七歳くらいの女の子と真正面から向き合った。
 すらっとした背筋に沿って流れる、真っ黒なポニーテール。
 ちょっと丸めだが小ぶりな鼻。
 目は意志を感じさせるアーモンド形で、首筋にほくろがひとつあった。
 …………。
「えっと」
 女の子が言う。どうしていいかわからないといった体で、いつの間にかステテコ一丁になっている父親を見上げる。
「お父さん、あの、こちらはどなた?」
「ん?」と城島さんはスーツをハンガーにかけながら背中で答える。
「お父さんの古い知り合いの後藤くんの息子さんだ。さっき自宅が全焼してね。行くアテがないそうだから、しばらくうちに住まわせてあげることにした」
「そ、そうなんだ……」
 俺と女の子は生き別れになったが無事に再会を果たした兄妹のような、ぬるっとした緊張の中でお互いにニヘラっと愛想笑いを交わした。
 交わしつつ、俺は思った。
 ……城島さん。
 歳頃の娘さんがいるのに、男の子を居候させたら駄目ぇっ……!!


     




「はい、後藤くん。アイス、これでよかった?」
「え? ああ、いいよ。ありがとう」
 俺は笑顔で、桜乃(さくの)ちゃんからアイスを受け取った。今日は髪を結ばずにふわっと流している桜乃ちゃんは、ニコッと笑って俺の隣のベンチに腰かけた。
 俺たちの前で、噴水が空に喧嘩を売り続けている。
「おいしいね、チョコミント」
「そうだね」
 そう言う俺の顔のとろけ具合はチョコどころではなかった。グラタンか何かである。
「私、前からここに座ってアイス食べてみたかったんだ。でも、一人で座ってたら寂しいやつだと思われちゃうじゃない? だから我慢して、あそこのトイレで食べてたんだ」
「桜乃ちゃん、公衆トイレでアイスを食べる方が難易度はずっと高いと思うよ」
「そうかな? ふふ、褒められるとなんだか照れちゃうな」
 ビタ一褒めてないんだけど、可愛いから許す。だってこの子は俺の正義だもん。正義に逆らうのよくない。ふふ。
 冷たいね、そうだね、などと言いつつ肩を触れさせあい、通り過ぎていく夏を無駄にするばかりの連中の視線を一身に浴びながら、俺は思う。
 ああ、幸福だ、と。
 城島さんが家を出た後、「コミュニケーションをとらない?」と気まずさをまったく恐れていないアグレッシブさで桜乃ちゃんから提案された時はどうなることかと思ったが、特に会話が途切れることもなく、自己紹介まじりの雑談などをしながら市立公園にやってくることが出来た。まるで神様が台本を用意してくれていたかのよう。ありがとう神様、やっと俺に惚れたか。
「それにしても驚いたよ」
 俺は溶けたアイスでべとべとになった左手をこれから話す話題に見立てて、慈しんだ目で見つめた。
「まさか城島さんが刑事じゃなかったなんて」
「ちょ、ちょっとその話を掘り返すの? もう、後藤くんのいじわる……」
「ははっ、ごめんごめん」
 とは言えびっくらこいたのも事実なのでちょっと説明しておこう。ここに来るまでに俺はふとあることに気づき、それを桜乃ちゃんに質問してみたのだ。
 その質問とは、
「――火事って消防の仕事じゃねーの?」
 その問いかけに桜乃ちゃんは悲しそうに俯いて、こう返してきた。
「気づいてしまったのね……その真実に……」
 そんな重たい話題だったかと首を捻ったが、桜乃ちゃんは遠い目をして、話し始めた。
「実はね、私のお父さん、刑事じゃないの」
「え……? どゆこと?」
「つまり、あの警察手帳は、ドンキホーテで買ってきたコスプレグッズってこと……」
 その意味するところは、ひとつ。
「……え、何、じゃあ城島さんって火事の現場で刑事のコスプレしてただけの危ない人ってこと?」
「うん。よく見てれば気づいたと思うよ。お父さんの視界に入らないようにちゃんと仕事してる消防の人たちの姿が……」
 そういえば視界を黒い影が時折通り過ぎていたような。ノリよすぎだろ消防隊員。
「どうしてまたそんなことに……?」
「実は五年前に、お母さんが亡くなったの。それでお父さん、それまではたんぽぽに刺身を乗せる仕事してたんだけど、ちょっと頭がおかしくなっちゃって」
 どうでもいいけど俺そのたんぽぽ買ったことあるわ。
「仕事もやめて、独り言も多くなって。最後にはわけもわからず壁に頭をぶつける始末……!」
 わっと顔を覆う桜乃ちゃん。俺はどうどうとその肩を叩いてやった。
「元気出して。元気スタンダップ」
「うん……ありがとう。それでお父さんの中の狂気もスタンダップしちゃってね、ある日いきなり、自分は警察官なんだーって言い出して。本当は公務員になりたかったみたい。その夢を、自分の夢の中でだけお父さんは叶えたの……」
「そうだったのか……」
 つまりうちの親父もそれを知っていて口裏を合わせていたのか。ちょっとなんかくすぐったい感じの感動を覚えた。
「大変だったんだな……」
「まァ、お母さんがキャリアウーマンでお父さんの七倍くらい稼いでたから、生活に困ったりはしなかったけどね。親戚の人たちも親切にしてくれてるし。夏にはお母さんの実家からスイカが届くんだ。そのうち来ると思うから、一緒に食べようね、後藤くん」
 そう言って桜乃ちゃんは、辛い記憶を思い出したばかりだというのに、俺にひまわりのような笑顔を咲かせてみせてくれたのだった。俺も十七年間という短い時間を過ごしてきて、いろいろな人間を見てきたが、彼女ほど出来た子にはお目にかかったことがない。彼女のために何か出来ることはないだろうか。そう思った俺の目に飛び込んできたのが、ちょうどワゴン屋台を展開していたアイス屋さんだったのである。
 もちろん、俺が奢った。
 桜乃ちゃんはアイスをコーンまでしっかり食べ終えると、小指で自分の口元の食べかすをぬぐって、ぱくりとクチに含んだ。俺がじっとそれを見ていると、みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
「み、見たね?」
「見ちゃいました」
「もぉー……そういう悪い後藤くんなんて、こうなんだから! うりうり」
 桜乃ちゃんは俺の脇腹をさわさわとくすぐってきた。俺はたまらず身を捻る。
「や、やめろって! 公衆の面前でそんな!」
「関係ないよーだ。後藤くんも恥ずかしい思いすればいいんだ! えいえい」
「くひゅっ……ちょっ、やめ……ほんとに……やめ……」
 ベンチの上で昼間から絡みあう俺たち。とても初対面とは思えぬ仲のよさである。俺は思った。
 この子こそ、俺の嫁さんになる子なんじゃないか、と。
 長かった。
 実に長い十七年間の嫁探しだった。
 小学二年生で引っ越してから丸々九年。パンチで教室の壁に穴を空ける女のお目付け役になってしまったばかりに女子からは距離を置かれ男子からは一目を置かれ、とうとう出会えた金髪美少女は俺が手懐けた化物を左ジャブのみで沈めるさらなる化物というくそみそカーニバル。クラス委員長はホストに金を貢ぐし、後輩はエスパーポケモンばっかりだし、やっといいなと思えた子はダチの妹でしかも兄貴に惚れてる禁忌の少女。まともな女の子はいないのか。その問いを誰よりこの俺が抱き続けていたことだろう。おまけにこの夏初っ端からツレの一人が彼女持ちになるという凶報まで耳にして俺のメンタルは限界に近かった。
 だが、神様は俺を見捨てなかったのだ。天使は今、俺の腹の上で馬乗りになりながら俺に笑顔のシャワーを降らせている。天使の向こうに優しく燃える太陽が見えた。が、雲もないのに光が翳った。
「楽しそうなことしてるね」
 ぞっとするような冷たい声。桜乃ちゃんがビクッと肩を震わせて、振り返った。俺は桜乃ちゃんを押しのけるようにして、上半身を起こした。
 金髪の少年が、くちゃくちゃとガムを噛みながら、俺たちを見下ろしていた。
 どこかで見た顔だった。
「あっ、お前、吉田くん!」
 金髪の少年が怪訝そうに眉をひそめた。
「は? 何、お兄さん。俺のこと知ってんの?」
「知ってるも何も……」と言いかけて、俺は口を噤んだ。
「誰なの、後藤くん?」
「知り合いの知り合いさ」
 間違ってはいない。だが、向こうは俺のことを知らないはずだ。ちょっと前に沢村という手から火が出るぐらいしかとりえのない俺のクラスメートが、この生意気な中学生と戦争状態になったことがある。俺はそれをホットケーキを食いながら眺めていたのだ。噂によれば吉田くんは入院しているところを賊(しげたのあねき)に襲われ再起不能になったと聞いていたが、成長期の子供はちょっとやそっとじゃ死なないらしい。
 そうとも知らない吉田くんはぺっとガムを吐き(←いけない)、俺にメンチを切った。
「ちょっとさァ、もう少し周りに気を遣ってくれないかなァ。公衆の面前で真昼間から見せつけちゃってくれてさァ。意味わかんねーんだけど」
「ちょ、ちょっと! 私と後藤くんはべつにそんな……」
「こっちがムカつくって言ってんの。黙っててくれる?」
「あ、はい……」
 しゅんとする桜乃ちゃん。俺は吉田くんの胸倉をつかんだ。
「おい、お前!」
「なんだよ?」
「桜乃ちゃんがしゅんとしちゃったじゃないか。よくやったぞ」
「ご、後藤くん!?」
「しゅんとしてる桜乃ちゃんも可愛いよ」今日の俺はスラスラである。
 桜乃ちゃんはぽっと頬を染めて身をくねらせ、やだもう後藤くんったらと身体中で示している。こいつチョロイ。
 吉田くんはまたそれでイラっときちゃったみたいで、
「もう許さね。来いよコラ。喧嘩で決着つけようぜ」
「いいけど、おまえ手から炎出るじゃん。ズルくね?」
「なんで知ってんだよ!?」
「お前が俺の友達ボコってんの見てたからだよ。よーし、生意気な中学生にはお仕置きしないとな」
 俺は両手にぺっぺとツバを吐いた。吉田くんがあからさまにナメた態度で俺を見下ろしてくる。
「へっ、俺に勝てるのかよ。言っておくけど手加減なんてしねーぜ」
「どーかな。ま、デートを邪魔された男としては勝たないといけないんでね」
「言ってろ。死んだって知らないからな!」
 前置きして、吉田くんは両手を構えた。俺はハッと何かに気づいたような顔をしてみせ、吉田くんの右手を指した。
「お前、手にハナクソついてるぞ?」
「え、うそ」
 自分の顔面の前に手をかざした吉田くんに、俺は思い切り振りかぶった右ストレートをぶちこんだ。

     






 俺の右をもらった吉田くんはたたらを踏んだ。が、残念ながら大したダメージはなかったようだ。軽くかぶりを振った吉田くんはきっと俺を睨む。
「てめえ……やりやがったな!」
「ハナクソをほじったことに心当たりがあるお前が悪い」
「…………」
 吉田くんは頬を染めている。愛いやつめ。
 両手を広げると、その掌から煌々と小さな炎の柱が燃え上がった。ちりちりと火花が散り、桜乃ちゃんが可愛い悲鳴を上げて飛び退った。
「くそっ、このトンデモ人間め。いったい身体の中にどんな臓器があればそんなもんが手から出るんだ」
「才能と一緒だよ。出来るやつにはなんで出来るのかわからねえんだ」
 ムカつくこと言いやがって。パンピーの俺をあてこすってんのか。くそっ、それにしても熱い。夏なのに目の前で焚火なんかしやがってコノヤロー……俺んちには今クーラーどころか家そのものがねえんだぞ? とはいったものの、この殺気ぷんぷんの不良クンをどうにかしないことには無事におうちの焼け跡に帰ることすら出来ない。それに桜乃ちゃんも見捨ててはおけないし。
 さて困った。パイロキネシスト相手に手ぶらの俺がどう闘ったものか……炎ね……炎……ふむ……
 よし。
 整いました。
「何ボサっとしてんだよ? 来ないならこっちからいくぜ!」
 吉田くんが両手の炎を頭上で組み上げ、ハンマーのように振り下ろした。業火の直球が俺に向かって驀進してくる。だがそんなものに付き合ってやることはない。
 俺は背後の噴水にざぶんと飛び込んだ。
「何!?」
 結構この噴水は底が深い。俺は亀や鯉やおまじないで投げ込まれた硬貨がきらめく水中を潜って、吉田くんの炎弾を避けた。炎弾は噴水する天使像に激突したらしく、陶器の破片がバラバラと水中にゆっくりと落ちてきた。あいつ無茶しやがって。公園の景観が台無しじゃねーか。
 ぼやける視界の中、吉田くんが噴水の縁に顔を覗かせた。何か喚いているが卑怯だとかなんとか抜かしているんだろう。馬鹿が。ルールも決めてねえ喧嘩で汚ぇも糞もあるか。
 俺は噴水の底に両手を突いて、後ろも見ずに思い切り足を蹴り上げた。
「へぶっ!!」
 今度はまともに決まった。鼻っ柱にいきなり俺の足を蹴りこまれたものだから、吉田くんからしたらたまったものじゃない。俺が噴水から上がると、吉田くんはしりもちを突いて鼻血を噴いていた。ちょっと涙目になっている。俺は前髪をかきあげながら敗者に言葉をくれてやった。
「いちいちモーションがデカすぎんだよ。もう少し考えてから動かねえと文化部にだって勝てねーぞ?」
「こ、この野郎……!! いまぶっ殺して……」
 立ち上がろうとした吉田くんに俺はタックルをかました。肩で顎をかち上げたので後頭部を地面に打ちつけた吉田くんは一発で目を回した。その隙に俺は吉田くんの脇に膝をがっちり詰め込んで、ケツを相手の腹の上におろし、マウントポジションを取った。吉田くんが我に返った時にはもう状況は動かなかった。
「はァい終了ォ」
「なっ……て、てめえ何者だ……!」
「お前より二個上のガキかな。そんなことよりてめーもう俺とあの子のデート邪魔すんなよ? 俺はいまひょっとするとモテ期かもしれないんだ。もし上手くいかなかったらお前のモテ期も邪魔してやる。いいか、俺は容赦しない。どこまでも追い詰めて邪魔する。覚悟しろ」
 吉田くんは生唾を飲み込んだ。ふふふ、俺の脅し文句が少しは効いたらしい。俺は根に持つタイプだからな。
 が、そこで油断したのがまずかった。吉田くんは全身全霊で身を捻り、俺のマウントから逃げた。転がり落ちながらも頑張れば外されちゃう自分のマウントがちょっと恥ずかしい。体重がないとはいえ、俺が戦闘メンバーに加われなかったのはこの辺の詰めの甘さにあるよなァ。まァいいか。俺はもともと頭脳労働者だから弱くたっていいのだ。
 俺の拘束から脱出した吉田くんは肩で息をしながらも、まだその目から殺気は消えていなかった。ちっ。
「頭に来たぜ……もう容赦しねえ。おまえたち、出て来い!」
「な、なんなの……?」
 そばに来た桜乃ちゃんが俺の袖を掴んで震えている。確かになんなのって感じだ。今時「おまえたち!」もないよな。
 だがそんな時代錯誤も田舎町の常、茂みからワラワラと中坊たちが飛び出してきた。
「ふふふ、終わったな。こいつらは俺の親衛隊『グラウンド・ピラーズ』だ!」
「地柱であてこするならガイア・ピラーズの方がよくない?」
「そうかな? いやそうかなじゃねえ。何言わせてんだてめえ!!」
 吉田くんは顔を真っ赤にしている。ノリいいなこいつ。
「吉田くん、こいつぶっ殺しちゃいましょうよ。うちらのチームのことナメすぎっすよ」
 と赤毛の少年が言う。ガイア・ピラーズの面々はどいつもこいつも奇抜な髪をしている。髪の色で人間を差別したりしたくないが、それでもやっぱりなんとなく圧迫感を感じる。ウーム。俺も精進が足りねえな。
「後藤くん……」
 ひしっと桜乃ちゃんが身体を圧迫してくる。真綿のような胸が右肘に当たって俺はもうちょっと駄目かもしれない。
「吉田くん! あいつこの期に及んでイチャついてます!」
「吉田くんが最近彼女に振られたからってあてこすってんすよ!」
「ちょっ、おま、余計なことを言うんじゃねえ!」
 吉田くんの左フックが緑色のモヒカン少年にラビットパンチで突き刺さった。うわひでえ。後頭部への打撃は駄目だろ。俺もさっき似たようなことやったけど。
 俺は桜乃ちゃんを手で制した。
「下がってて、桜乃ちゃん」
「後藤くん……」
「ここは、俺に任せて」
「そんな! 駄目だよ、私、誰か人を呼んでくるから! ……あっ」
 駆け出そうとした桜乃ちゃんをナントカカントカーズの一人が阻んだ。下卑た笑いを浮かべている。本当に中学生かこいつ。どう見ても桜乃ちゃんにエロ同人みたいなことをしようとしている顔である。
「無駄だよ。こいつらは地元でも(たぶん)有名なワルなんだ。獲物を仕留める手順くらいは覚えてるさ」
「そんな……」
「大丈夫。荒事ならこっちも慣れてる」
 俺はシャツのボタンを一つ外して、一歩、連中の方に踏み出した。
「ふふん、覚悟は出来たみたいだな。ボコられる覚悟が」
「そいつはどーかな」
 俺は人差し指を一本、立てた。腕組みをした吉田くんが怪訝そうに片眉を上げる。
「……それはなんのつもりだ?」
「見ての通りだ。一対一でやろうぜ」
「馬鹿言うな、なんでそんな不利な条件をこっちが飲まなきゃいけないんだ」
「そうでもねえよ。ま、話題作りのゲームみたいなもんさ」
「話題作り?」
「そう。なんていってもお前らみたいなガキのチームは、地元でも知名度がすべてだ。さっきそこの赤毛も言ってたろ? チームはナメられちゃいけないって。それなのにお前、こんな白昼堂々、女の子の目もあるところで一方的に俺をボコボコにする気か? いけないなァ、広がるぜ、そういう噂は。インフルエンザみたいにな」
 吉田くんは、黙っている。俺は続けた。
「でも、もしタイマンでボコしたっていうなら、多少はみんなの見る目も変わってくる。ああ、なんだかんだ言いつつも、やるときはやるんだなってな。クチではお前らのことをあしざまに言っていても、心のどっかじゃ頼りにしている。強いっていうのはそういうこと。知名度っていうのはそういうもん。……なりたくないのか? そういうチームに」
 すでに吉田くん以外は、俺の話に飲まれつつある。目がきらきらとしてきた。可愛いもんだぜ。
「……それで? だからといってお前みたいな悪知恵の働くやつとタイマンなんか出来るかよ。泥かぶったらこっちの恥だ」
「だから、ハンデをやるって言ってんだ。さっきのはまァ、正々堂々の殴り合いじゃなかったからな。チャラにしてやるよ。その上で、俺はお前らと勝ち抜き戦でやってもいい」
「……つまり一対一でやり合って、あんたが勝ったらこっちは次の相手を出せる、と?」
「おうよ。どうだ、悪くないだろ? お前らはたった一人、この俺だけを倒せばいいんだから。ただし! ……お前ら合計で十人くらいいるみたいだが、俺とやるのは五人までだ。それ以上は疲れちゃうからな」
 吉田くんは腕組みを解いて、首をごきりと鳴らした。
「疲れる程度で済めばいいけどな」
「ってことは、やる気と見ていいのかな?」
「ああ。おい、ヨシノブおまえいけ」
「おっけい、リーダー!」
 赤毛のヨシノブがファイティングポーズを取った。
「だ、駄目だよ……後藤くん……喧嘩なんていけないよ……」
 桜乃ちゃんが家に帰ったらオヤツがなかった子供のような顔で俺を見上げてくる。俺はその頭をポンポンと叩いた。
「まァ見てな。一発で終わらしてくるからさ」
 俺もヨシノブにならって、ファイティングポーズを取った。左手は軽く持ち上げ、右手は顎の前。体重は後ろ足に、ステップは軽く。ガキの頃はチビスケの悪魔が「あそぼ?」と言い出したら日暮れまで相撲を取らされていたこの俺だ。どつき合いは苦手だが出来なくはない。
 俺はヨシノブにちょいちょいと手招きした。
「かかってきな。オープニングブローはくれてやる」
「てめえ……!!」
 頭に血がのぼったヨシノブが一気に突っ込んできて、大振りな左フックを見舞ってきた。ふっ、見え見えだぜ。俺は苦笑しながら悠々とダッキングし、相手の懐に入ろうとした。狙うは右ボディ。みぞおちイタダキだぜ。
 そして想定通りに俺はダッキングし、ひゅんと風の切れる音を聞き、右テンプルにしこたま体重の乗ったヨシノブのパンチをモロにもらった。まだ苦笑したままの俺の身体が横倒しになり、ごろりとその場に転がった。星が散りまくっている視界の中で、逆にあっけに取られているヨシノブの顔だけがやけにはっきり見えた。桜乃ちゃんの悲鳴が聞こえる。俺は最後の力を振り絞って、ヨシノブに親指を立てて見せた。
「いいパンチ……だったぜ……!」
 我に返ったヨシノブとその仲間に脇を固められ、俺は吉田くんの前に正座させられた。
「どういうことだこれは」
「後藤くん、後藤くーん!! いやあ、離してぇ!!」
 桜乃ちゃんが悲鳴を上げているが、緑のモヒカンと紫のオカッパにやはり脇を固められて拉致られた宇宙人みたいに足をバタバタさせるほかない。俺はそんな哀れな少女にぺロリと舌を出して見せた。
「すまん、負けちゃったぺろ」
「負けちゃったぺろじゃねえ!!」
 なぜか吉田くんに怒られた。
「てめえ……あれだけ大言吐いておきながらなんだこれは。マジになった俺らの方が恥ずかしいぜ……やっぱ弱いんじゃねーかアンタ」
「思ってたよりヨシノブのタッパがなくてな。ダッキングしたらかえってフックをもらう位置に頭を下げちゃったんだぜ」
「なんの経験があったんだか知らんが、それがアダになったらしいな」
「ぺろぺろ」
「舌ぶち抜くぞ?」
「ごめん」
「けっ……ふざけやがって。もういい、そのツラ歪ませてやんよ」
 吉田くんはパチンと指を鳴らした。するとガイア・ピラーズの面々が揉み手しながら忍び足で桜乃ちゃんに近寄っていった。
「な、何するの……?」
「こうするんだよ」
 言うと赤毛のヨシノブがニタニタ笑いながら、ポケットからバタフライナイフを取り出した。む。ちょっと危険なものを持っているじゃねーか。少しナメてたぜ。そういうのを持つタイプは紫電ちゃんが取り締まってたはずだが、どうやら学校じゃそこそこいい子を演じているようだな、ヨシノブ。
「いやあああああああああああ!!」
 ヨシノブが桜乃ちゃんの服を胸元からそのナイフでかっさばいた。桜乃ちゃんはシャツの上から薄手のミニパーカーを羽織っているだけの軽装だったので、一発で破られたシャツの下から桃色のブラジャーと、それに守られた胸がたぷんと飛び出した。
 俺は息を呑み、くすくす笑っている連中に思わず叫んでいた。




「何をしている、もっとやれ!!!!」




「…………」
「…………」
「…………」
 ガイア・ピラーズの面々まで口をつぐんでしまった。
 ひっく、ひっく、とすすり上げているのは当然だが桜乃ちゃん。
 涙目になって、俺に問いかけるように小首を傾げている。
「後藤くん……そういう人だったんだね……」
「違う。誤解だ。俺を、俺を信じてくれ!!」
「俺らが言うのもなんだが、どう考えても誤解じゃないと思うぞ……」
 吉田くんの声が人気のない公園を一筋の風となって吹き抜けていく。
 俺は下唇を噛んで呻いた。
「違うんだ……これは何かの罠なんだ……」
「往生際の悪さもここまで来ると潔いな」
「くっ、貴様らのような悪がいるからこんなことに! 逃げるんだ桜乃ちゃん、自分の力で! あっ、ヨシノブ痛い痛い。肩が極まってる肩が」
「極めてンだよ!」
「うう……すまん桜乃ちゃん」
「吉田くん……こいつ頭おかしいんすかね?」と青のモジャモジャが言った。だが吉田くんはしばらく考えるように俯いた後、首を振った。
「こいつ、演技だ」
「え……?」
「わざと俺たちの戦意を殺いで、この場をやり過ごそうとしてるんだ。畜生、気づくのが遅れたぜ。道理でナメた態度を取ってられるわけだ。全部演技なんだから」
 俺はビックリした。なぜって、マジで全部誤解だからだ。俺は超理論に到達した吉田くんを呆然と眺めてしまった。中学生の発想力は無限大過ぎる。
 吉田くんはつかつかと俺に歩み寄ると、容赦のない左ボディを俺に叩き込んできた。
 さすがに効いた。
「カッ……ハ……」
「ナメんなよ。おいタカヒコ、その女のパンツ脱がせ」
「え……?」と青モジャ。
「俺らに逆らうとどーなるのかやっぱ徹底的に教えねーと駄目だ。写メ取って地元中にバラまいてやる」
「そ、そこまでやることはないんじゃ……」
 ボディブローが肝臓に来ちゃった俺は呼吸困難で喋れないが、念は送れた。がんばれタカヒコ、お前にはいま、桜乃ちゃんの股間のプライバシーが懸かっている。
 が、タカヒコは吉田くんのビンタ一発で自分の意見を屈した。暴力って単純。
 これ以上殴られたくない一心でタカヒコはしゃがみ込み、桜乃ちゃんのスカートに手を伸ばした。
「いやっ、やめて、やめてよ、へんたい、きちく、ちかん、ばかばかばかばかあ!! たすけてっ、たすけて後藤くん! いやあああああ!!」
 俺は吉田くんを睨んだ。
「おい……一つ言っとくぞ」
「なんだ? 負け惜しみなら聞いてやるけど」
「後悔すんなよ」
 吉田くんは鼻で笑った。俺はなんとか隙を見てヨシノブたちの拘束から逃れようとしてみたが、向こうもそれを読んでいてここぞとばかりにガッチリガードを固めている。どうしようもない。物理的に俺にはこの極めから逃げられる手段が、ない。
 そして、運命の時は訪れた。






 ところで皆さん、強い、ということはなんだと思いますか。
 難しい問いかけだと思う。
 一生かかっても、答えは出ないのかもしれない。
 それでも俺は、十七年間生きてきて、強いうということがどういうことか、なんとなくイメージだけは掴んでいる。
 それは、不利、ということ。
 誰がどう見ても不利な状況。どう頑張ったって勝てないもの。そういうものに抗うことが、強さだと俺は思う。
 いま、俺の目の前に強さがあった。
 それは、確かに不利を負っていた。すぐそばに、どう頑張っても勝てないものがあるのに。どう見ても届かないものがあるのに。それは、高みを目指していた。
 すぐそばにある、生足。
 それに届くことは、決してできない。色も、太さも、大きさも。
 けれど、それは諦めなかった。だからこそ、その色と、太さと、大きさを得られたのだと思う。諦めなかったから。負けてたまるかという気持ちがあったから。それは意識にのぼることのない、身体の本音。生物の気持ち。
 桜乃ちゃんが、パンツを下されて顔を覆って泣いている。俺たちは、呆然としてその股間に目を奪われていた。誰かが呟いた。
 でかい、と。
 ――――否。
 問題は、そんなことじゃない。
 ある、ということが問題なのだ。
 それは、すぐそばに二本もの強敵が脇を固めながらも、自分の存在を全身全霊で叫んでいた。俺はここだぞと。俺は負けないぞと。ああ、負けてはいない。不利だからこそ、最初から苦もなく勝てる存在にはない輝きがある。その色は黒く、太さはコップのよう、そして大きさは、大きさは――
 俺たちは誰も、何も言わず、ただ静かに、おのれの股間に手をやった。そして知った。
 世界の、大きさを――――……
 俺とガイア・ピラーズの面々が溶けるようにその場に崩れ落ち、けものが強者に腹を見せるように頭を垂れた後も、桜乃ちゃんの号泣は終わらなかった。




 桜乃ちゃんは、男の子だった。

     





 俺は今、自分で吐いた吐瀉物をぞうきんで拭いている。普段意識していないファミレスの床、その木目を丹念に自分のゲロごと拭く。黄水をぶちまけた直接的原因である脇腹はいまだにジンジン痛む。
 それというのも、俺と桜乃ちゃん(♂)と吉田くん一派はとりあえずファミレスでメシを食いながら状況を整えようという話になったまではよかったのだが、ファミレスに入った途端に桜乃ちゃんが一人のウェイターにわっと飛びつき、
「アケミさあん! この人たちが、この人たちがあ!」
「どうしたのサク? ……ちょっとあんたたち、これどういうこと?」
 身長180センチのイケメンが女言葉でドスを利かせてくるなんてホラーを通り越してスプラッターである。桜乃ちゃんが早口にこれまでの経緯をオカマ仲間のアケミさんにぶちまけ、そうして職務放棄したアケミさんの左ミドルをもらった俺はものの見事にお昼時のファミレスの床に盛大に嘔吐したのだった。アケミさん超つええ。
 だが、そんな大騒動を起こしたにも関わらず俺たちは店を追い出されず、普通にボックス席に案内された。周囲の客も外回りのリーマンっぽい男性たちは嫌そうな顔をしているが、おばさんやヒマしている大学生っぽい女の子は俺のゲロを見たはずなのに平気でイタリアンハンバーグをモグモグやっている。女は強し。
 俺は自分で蒔いた種(ゲロ)を拭き終わり、ボックス席に戻った。
「大丈夫すか後藤さん……すいません、なんか流れで後藤さんだけ左ミドルもらうことになっちゃって」
「気にするな吉田くん……俺は先輩だからな。後輩を庇うのはそこそこ当然だ」
「ご、後藤さん……! ううっ、俺、後藤さんのこと勘違いしてました。ホントすいませんでした」
 ちきしょうべらんめえ、とでも言いたげに吉田くんが手の腹で涙を拭う。吉田くん一派は桜乃ちゃんの股間のマンモスで世界の大きさを知り、続いてアケミさんの左ミドルで現実の深さを知り、すっかり従順になっていた。負けた途端に子分になるやつってまだいたんだね。
「俺のことはいいよ」俺はナプキンにぺっとゲロの残り汁を吐きながら言った。
「それより、ヨシノブは大丈夫かな」
 俺と吉田くんはトイレの方を見やった。アケミさんの左ミドルが俺の肋骨でビッグバンを起こした後、ヨシノブは気分の不調を訴えて仲間に連れ添われながらトイレにいっていた。桜乃ちゃんもトイレにいっていたが、当然のように女子トイレの闇の中へ吸い込まれていった。股間のマンモスは女の子らしい。
「どうすかね……超青い顔してましたけど。でも気持ちはわかりますよ。俺だってアレを思い出すと……」
 吉田くんは頭痛を覚えたように額に手をやった。周囲の取り巻きたちも思い思いに疲労の色を見せている。
「凄かったな……」
「凄いってレベルじゃないっすよ。人間かどうかってレベルでしたよ。馬ってあれぐらいなんでしたっけ」
「いや分からんが、少なくとも人間のモノの中では最高峰……金取れるデカさだったな」
「問題は見世物にすると風営法に引っかかることですね……」
 絶対に問題はそこじゃねーだろと思ったが俺は黙っていた。ヨシノブが、トモノリに肩を支えられながら戻ってくるところだったからだ。足元がふらついているヨシノブが、俺の前の席に座った。吉田くんは隣のヨシノブの背中をさすってやっている。
「大丈夫か、ヨシノブ」
「…………」
 ヨシノブは教室の机の中にエロラノベを置き去りにして帰ってきてしまったときのような顔をしている。さすがに俺も他人事とはいえ心配になってきて、ヨシノブの肩を揺すった。赤髪がふわふわと揺れる。
「おい、ヨシノブ。しっかりしろ」
「……先輩」
「どうした」
「俺っ、俺ぇっ……!!」
 ヨシノブは感極まったようにテーブルに突っ伏してすすり泣き始めた。
「怖い、怖いんです、俺……!!」
「大丈夫だ、アレはもうここにはないんだ。もう終わったんだよ……」
 ヨシノブはまるで俺が間違っているとでも言うかのようにぶんぶんとつむじを振った。
「あ、あんなに大きなモノ初めて見た……。俺、ガキでした。なんにも分かってなかったっ……!!」
「ヨシノブ……」
 チンコ一つで大げさだなァとちょっと思ったが、まァ十五歳っていうとエヴァにも乗れる歳頃だしな。確かに俺もアレがそそり立った日には、世界がどうなってしまうのか分からない。
 それにしても、吉田くんに後悔するなよとは言ったものの、まさかあんなに早く後悔する羽目になるとは。適当に喋ったセリフが変な伏線みたいになっちゃってなんか気恥ずかしい限りだ。
 俺と吉田くんがヨシノブをあやしていると、料理を乗せた台車がガラガラとウェイトレスに押されてやってきた。チラっと見ると見覚えのある足だったので誰かと思って見上げると天ヶ峰だった。なんだ天ヶ峰か。
「なんだとは失礼だなー。てゆーか後藤、超お店迷惑」
「悪いと思ったから自分で拭いたんだろーが」
 俺はウェイトレス姿の天ヶ峰を睨んだ。生意気にカチューシャなんてつけやがって。黒のスカートも短いし、動いているから暑いのか胸の第三ボタンまでを開けていてピンクのブラがチラ見している。痴女め。
「お前今日シフトだったのかよ」
「夏休みだからねー」何を勘違いしたのか天ヶ峰はスカートを摘んでポーズを取った。
「いつもよりも多めにシフトを組んでもらっているのだ。……あっ、おごんないよ?」
「お前、誰から聞いてそんな言葉を覚えたんだ」
「後藤」
 俺は思わず顔を手で覆った。過去の自分に思いを馳せると涙が出てきてしまうからだ。天ヶ峰が覚えてしまうほどにそんな言葉を使わざる得なかったなんて……可哀想な俺。
「ホラ後藤、肘どけて」
「ん」
 天ヶ峰が俺たちの前に次々と料理を置いていく。ハンバーグ、ラーメン、ステーキ、しゅうまい……それにしてもなんとかパッカーズの連中はよく喰うなァ。若いからかな。
 そして最後に、俺の前に置かれたのは、緑色のスパゲティだった。
 俺は黙って、吉田くんを見た。
「…………」
「勝手に頼んじゃいましたけど大丈夫っすよ先輩。俺のおごりです!」
「てめえ俺がいまゲロ吐いたの見てたよな」
 俺は吉田くんの胸倉を掴んだ。吉田くんは金髪をぶんぶん振って両目を><にして抗う。
「違うんです! 美味しいからっ……ここのミントスパゲティは本当においしいからっ……!」
「うっすらとした黄緑色のスパとウンコの破片みてーなチョコチップが俺にはどうしてもゲロに見えて仕方がないんだ」
「ちょっと後藤! うちの店の料理をゲロとかウンコとか言わないでよ!!」
「お前の声が一番デカイんだよ!! 仕事に戻れボケ!!」
「うっわひっど何その言い草!? 料理持ってきてあげたのにー!」
「それが仕事だろ?」と言ってから、俺も自分がバイトしてる時にそういうことを言われるとひどく傷つくので、ちょっとモヤっとした。相手が天ヶ峰だったからよかったものの、他の女子とかに言っていたら思わず謝っていただろう。
 しかし天ヶ峰は結構本気でぷりぷりしたらしくウルフカットの髪がたなびくほどの勢いで頭を振ってつかつかと立ち去ってしまった。キッチンに戻り際に俺の方を振り返って思い切り「べーっ!!」とあかんべえをしていった。最後にちょっと笑っていたが、台車を忘れていっているという凡ミスと、キッチンからちょっと顔を見せていた店長の村上さんが店の中でウンコだのゲロだの叫びまくっていた従業員に静かな殺意を抱いているのが見えたので、あとでこってり絞られるはずである。マジざまあ。いくら天ヶ峰でもバイト先の店長には勝てないからな。
 などと、俺が二秒くらいの間に物凄く長いセリフを考えて一人ウケに入っていると、吉田くんが言った。
「喰わないんすか、それ」
「喰う」
 俺はフォークをパスタにブッ刺してクルクル回し、口に運んだ。せっかくおごりだしね。据え膳喰わぬは男の恥。いざ参る。
「いただきまーふ」
 ふ、で喰った。
 モグモグと黄緑色のパスタを咀嚼する。
 うーむ。




「まっっっっっっっっっっっっずっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」




 ブフォッ、と俺は思い切り麺を噴いた。
 死ぬかと思った。
 こ、この料理オリーブオイルの代わりに洗剤を使ったとしか思えねえ。俺は慌ててお冷を口に含んでそれを窓の下の植え込みに吐き捨てた。血が混じっていた気がするが見間違いだろう。村上さんは自分の料理をウンコだのゲロだの言われて怒る前にウンコとゲロくらいには食べられるものを客に出して欲しい。マジで何をどうしたらこの味になるんだ?
 俺は一息ついて、口をまたナプキンで拭うと、改めて自分の前の二人を見る機会を得た。
「…………」
「…………」
「…………」
 俯いたままのヨシノブは頭からゲロのようなものをかぶってどう見てもいじめられた子にしか見えない。その隣の吉田くんは顔面から俺の噴出を浴びて顔面が黄緑色になっている。コーティングされた顔の筋肉がぴくぴくしているのを見るとどうもキレかかっているようなので、俺は窓を叩き割って逃げる準備をした。素手はちょっと無理なので、天ヶ峰が忘れていった台車の引き出しを使うつもりだ。
 吉田くんが搾り出すように言う。
「……先輩、これを耐えることが、大人になるってことなんですかね」
 俺は重々しく頷いて、答えた。
「そうだよ」
 全然そんなことはないと思う。

     




 トイレから戻ってきた桜乃ちゃんの目がマジで赤かったので俺たちは平伏せざるを得なかった。
「いや、でもホントの女子じゃないし……男なんだから別によくねっすか」
「タカノリ……お前は何も分かってねえな。人間ってのはな……」
 俺は先輩として折檻しようとし、紫色のオカッパ頭をしたタカノリを振り返ったが、その時にはもうタカノリは俺の視界にはいなかった。足元からばきりごきりとイヤな音がしてきたので見下ろすと天ヶ峰が「たとえ、たとえ股間に何がついてたって心は女の子なんだよ!」とぷりぷり怒りながらタカノリの生肌をぷりぷりと剥いていた。一瞬で地獄絵図である。俺は見なかったことにした。
「いいか、ガイア・ピラーズのみんな。人間なんて元々いい加減な生き物なんだから、初めて会った人を自分の杓子定規で判断したりしちゃ駄目だぞ」
 みんな青ざめながら頷いてくれたので俺は満足だった。ソフトモヒカンのマコトだけが人間海老になったタカノリを見て植え込みに嘔吐していたのが残念だ。このぐらいの惨劇で吐くとかねえわ。ガキかよ。
 俺はパスタの残りをフォークにくるくる巻きつけながら桜乃ちゃんに向き直った。
「桜乃ちゃん、俺は本当に気持ち悪いなんて思ってないぜ」
「あ、ありがとう……」
 とは言ってくれたものの、どちらかと言えば桜乃ちゃんが俺に引いている顔をしていた。何故だ? 人間って難しい。
 桜乃ちゃんの帰還に伴い俺の隣に移って来ていた吉田くんが、「さて」とテーブルの上で両手を組み、気息を整えた。
「説明してもらいましょうか」
「…………」
 桜乃ちゃんはさすがに吉田くんにはあまりいい感情を持っていないらしく、ぷいっと顔を背けてしまった。日焼けしたように頬が赤く染まって、目尻からは遅刻してきた涙が滲み始めている。可愛い。滅茶苦茶にしてぇーけどあのデカさだと俺が滅茶苦茶にされちゃうよな。
「桜乃ちゃん、俺も好奇心からってワケじゃないけど、やっぱ知っときたいな。桜乃ちゃんがどうして女の子の格好するようになったのかを……」
 タカノリのために呼ばれた救急車が表に来る頃になってようやく、桜乃ちゃんは重い口を俺たちのために開いてくれた。ちなみに客を三枚に下してしまった天ヶ峰は村上さんに怒鳴りに怒鳴られてクビを言い渡されていた。村上さんももう少しオブラートに包めばいいのに、堰を切ったように天ヶ峰が今までどれだけ使いづらい人材だったかを早口でまくし立ててしまったためにとうとう天ヶ峰の堪忍袋が爆発した。お家芸の怪力を頼み、その場でボックス席を掴んで高々と持ち上げる。指が刺さった部分が亀裂が入ってピシピシ鳴っている。天ヶ峰は顔を真っ赤にして、フーッフーッとやばい感じの息を吐きながらそんなに言うことないじゃん的な泣き言を叫びながらボックス席を床にへたりこんだ村上さんめがけて振り下ろした。天ヶ峰がノーコンだったからよかったものの、ボックス席はすぐそばでビックリしていたカップルを叩き潰しただけで済んだ。誰かと思えば横井と酒井さんだ。どこで乳繰りあっているのかと思ったらこんなところでハンバーグをツッツキ合っていたとはな。マジざまあな最期である。まァ酒井さんも女子だしボックス席が振り下ろされたくらいじゃ死にはすまい。横井は知らん。
 その最中に絶対重傷のタカノリがガイア・ピラーズの何人かに付き添われながら救急車で搬送されていったり、一人でメシを喰っていたばあさんが数珠をすり合わせながら念仏を唱えていたり、とにかく面白情報が多すぎて俺の耳は半分も桜乃ちゃんの話を聞いていなかったわけである。マジごめん。
 まとめると、奥さんを亡くした城島さんは勢い余って警察のコスプレをし始めただけでなく、マジで頭がおかしくなってしまったんだという。妻そっくりの息子を見て一度襲いかかったらしく、桜乃ちゃんは若さゆえの過ちを最大限に発揮して実父を組み伏せたらしいが、その時に頭を思い切り床に打ちつけたものだから一周回ってまた城島さんの脳味噌は誤作動を起こし、今度は息子を娘だと勘違いしてしまったらしい。
「奥さん亡くしたらそれぐらいなりますよ。うちのじいちゃん、ばあちゃん死んだって電話もらった瞬間に倒れてそれっきりでしたもん」
 追加のステーキをモグモグ喰いながら吉田くんはそう評した。まァ確かにそうだ。城島さんは気合の入ったキチガイかもしれないが、少なくとも冷たい人間じゃない。それだけで充分だと俺は思う。
「……というわけで、私、というか僕は、本名は桜央(ろお)っていうんだけど、お父さんの前では、桜乃になったの。それがいつの間にか、本筋の人になっちゃて」
 やだ、恥ずかしい、と桜乃ちゃんは両手で口元を隠した。ぎゅってしたい。
「話は分かった。苦労したんだな桜乃ちゃん。とりあえずこれをやろう」
 俺は吉田くんのステーキから一切れブッ刺して桜乃ちゃんに差し出した。こういう時は喰いモンに頼るに限る。吉田くんは金持ちの余裕からか「いっすよいっすよ持ってっちゃって」というジェスチャーを肩を揺さ振って繰り返している。話の分かるセレブだ。
「ところで桜乃ちゃん、その胸は……?」
 吉田くんが「そうそうそれが聞きたかった」とフォークを振り回しながらジェスった。いいからお前早くステーキ噛みきれよ。いつまで噛んでんだよ。
「これ、本物みたいでしょ」
 桜乃ちゃんは二百円増しで特注した肉まんのようなおっぱいを両腕でたぷんと持ち上げた。
 ぶしゅッ
 おっといけない。俺は鼻血が出てきてしまったのでナプキンでそれをざっと拭った。桜乃ちゃんがビックリしている。
「ご、後藤くん大丈夫!? 刺激が強すぎちゃったかな」
「いや、ちょっと熱気にやられただけだ」
 俺は顎でフロアの方をしゃくってみせた。
 店内は騒然としている。
 というのも天ヶ峰が村上さんをボコボコにして窓から放り出したあと、従業員の一人を人質にとってキッチンに立てこもったために機動隊が出動してきているからである。照明の落とされた店内は薄暗く、外からパトランプの赤い光が斜めに内装を切り裂いては表に出て行く。なんだかスゲーことになってきてガイア・ピラーズの面々は震えているが俺はこんなもん慣れたものである。俺に言わせれば店内に配置された機動隊の面々が持っているシールドは軽すぎて天ヶ峰のパンチを防ぎきれないだろう。あいつ瓦割りと同じ感覚でシールド砕くし。
「そんなことよりおっぱいの話をしようぜ」
 俺の言葉に吉田くんが力強く頷き、桜乃ちゃんは困惑して眉をひそめている。美少女を困らせるのって、いいよね。
「それって偽物なんだよね」
「あ、うん……特注で頼んだの」
「最近はそんなリアルなのも作れるんだな。それ、シリコンとかゴムじゃないだろ?」
 桜乃ちゃんはちょっと嬉しそうに頷いた。
「分かる? これはね、豚の脂肪細胞を使ってるんだ。といっても遺伝子組み換えしてあるから、人間のそれに近いんだって。ネットで桐島ラボってところが受注してくれてるの」
 犯人発覚。
 あンの野郎、最近やたら胸でかくなったと思ったらそれか。夏前はAだったのにこないだ見たらFぐらいあったし。牛乳のおかげじゃねーじゃねーかあのウソツキめ……
 不覚にもおっぱいの大きな桐島にときめいていた俺は騙されていた怒りに震えていたが、桜乃ちゃんはそれを何か誤解したらしい。そっと俺の顔を覗きこんで、
「……見る?」
 俺は顔を上げた。キッチンで銃声がしたがそれどころじゃない。
「本当か! 本当におっぱい見せてくれるのか!」
「う、うん。偽物でよければ……ていうか、見たいんだ、やっぱり?」
「本物とか偽物とかどうでもいいよ。真実は俺が決める」
「先輩、見事なまでのクソヤローっすね」
 俺は吉田くんの脇をくすぐって黙らせた。
「黙れ後輩。本物と見紛うたゆたうおっぱいだぞ! 仮に粗末な本物がそのへんに転がっていても俺は科学の結実を取る。さ、見せてくれ桜乃ちゃん」
 貸した金を取り立てるように手を招いた俺に、桜乃ちゃんは暗がりの中でも分かるくらい恥ずかしがりながら、手を服の中に突っ込んだ。なんだか水着に着替える時の女子みたいでスゲー興奮した。だが興奮しているのは俺だけじゃないらしく、キッチンから獣の咆哮と共に四、五人の機動隊員がおばさん犇くバーゲンセールに突っ込んだ素人のように吹っ飛んで戻ってきた。天ヶ峰の姿は見えないが、こんなばいともできないんじゃどこもわたしをやとってくれないと金切り声で叫び完全にヒステリーを起こしていた。確かにあいつはどこのバイトもこんな感じでクビになりまくってはいるが、煮詰まりすぎである。ちょっと落ち着けよもう。
 まァ慎ましい胸がAとBの境目をブレードランナってる女子のことなんぞどうでもいい。
 ごとり、と置かれた偽乳を、俺と吉田くんは固唾を飲んで見下ろした。
 こ、これがおっぱい……なのか……
「……触ってもいいか?」
「ど、どうぞ……」
 どう見ても「触っていい」とは思ってなさそうなツラだったが構うもんか。
「どっちからいく」
「じゃあ俺、左からいきます」
「よし、俺は右な」
 俺と吉田くんはそろそろと手を伸ばして、脱着式おっぱいに触れた。


 たゆんっ……


「うっ……くっ……!」
 俺は左手で顔面を覆った。
 涙が止めどもなく溢れた。
 これが、おっぱい……っ!
 なんて……なんてやらけえんだ……!
 俺の隣では吉田くんも鼻水を垂らして、おっぱいを揉みしだいている。
「先輩っ、俺っ、俺こんなやさしいかたちに触ったの初めてっす……!」
「そうだろうな。俺もそう思うよ……」
「あ、あの後藤くん? それに吉田くん? なんか反応おかしくない?」
「おかしくねえよ!」俺はテーブルをドンっと叩いた。桜乃ちゃんはビクっと震えて俺に警戒しきった視線を向けてくる。それも無理はないと思うが、それでも俺には今、行動を感情で制御できるような余裕なんてなかった。右手の中の愛と幻を確かめながら、俺は感極まった。
「畜生……畜生、こんなっ、こんな優しいものがあるのにどうして世界から争いが無くならないんだっ……!」
「も、もしもーし? そんな大袈裟なことですかー? さ、桜乃は困惑してますよー?」
 ちょっと俺たちと他人になりたがっている桜乃ちゃんの気配を感じつつも、俺と吉田くんはおっぱいから手を放すことができなかった。ハタから見ているやつがいればおっぱいを触りながら俯いている俺たちは何かおっぱいに悪いことをしてしまってそれを悔いているようでもあっただろう。それはひょっとしたら真実だったのかもしれない。俺たちは、この柔らかさに応えるものを何も持っていないガキだったのだから……
 そして向こうは向こうで状況が進展していた。具体的に何が起こったか。
 キッチンにロケットランチャーがぶちこまれた。
 調理用のガスボンベか何かに引火したらしくキッチンとフロアの半分が吹っ飛んだが、そんなことはどうでもよかった。俺は咄嗟の機転を利かしておっぱいで自分と吉田くんを爆風から守った。
「すげえ……見てみろ吉田くん。キズ一つつかねえ」
「当たり前っすよ。ロケランなんかに負けてておっぱいが勤まるかってんですよ!」
 乗せた俺も悪いとは思うが吉田くんはどうも頭のネジが一本どこかへ飛んでいってしまったらしい。爆発の轟音で鼓膜をやられたのか、耳からだらっだら血が出ている。脳味噌も一緒に出てきてんじゃねーのかコイツ。
 俺は桜乃ちゃんのおっぱいに満足したので、それを返却した。
「ありがとう。いい経験になったよ」
「そ、そう……それはよかった……です」
 桜乃ちゃんは戸惑いながらも自分のおっぱいを装着し直した。その手つきがブラつける時とそっくりだったので俺はたっぷりと目のアフターケアを楽しんだ。こういう時に女子ってスゲーなって思う。桜乃ちゃんは男の子だけれども。
 さてそろそろ退散しないと不味いかなと思い、瓦礫になった辺りを見回すと、パイプやら鉄釘やらが飛び出した建材の下から、ぷはあっと横井が飛び出してきた。
「よう横井。生きてたか」
 横井はぺっぺと口に入った砂を吐き出しながら、涙目で叫ぶ。
「てンめェ後藤! 天ヶ峰がここでバイトしてるなんて聞いてねーぞ!」
「そりゃお前が彼女できて浮かれてただけだろ。俺はちゃんとメール回しといたぞ」
「そんなの彼女とメールしてたらお前のメールなんか埋もれていくわ!」
 専用フォルダ作れよ。
「う、うーん」
 酒井さんが瓦礫の中から顔を出した。
「あ、後藤くんだ。こんばんはー」
「うるせえババア。失せろ」
「ちょっ、ひどいないきなり! 私が何か悪いことした!?」
「ツバつきに用はねー。消えろ」
「ほ、ほんとに後藤くんってブレない男(ひと)だね……」
「そんなことよりお前らも急げよ。もうすぐ天ヶ峰が本格的にブチギレるぞ」
 俺は割れ残っていた窓ガラスを蹴破って、桜乃ちゃんと吉田くんを外に脱出させながら横井と酒井さんに肩越しに忠告した。
「えっ、この騒ぎって天ヶ峰さんなの?」
「あたりめーだろ機動隊が来てんだぞ。てかさっきあいつにボックス席振り下ろされてたろうが」
 酒井さんはてへっと舌を出して見せた。
「えっとね、純くんのことしか目に入ってなかった、かな!」
 殺すかコイツ。
「横井てめえそれ以上ニヤけたら貸してる二万を今ここで取り立てる」
「ごめん」横井は去勢されたように静かな顔立ちを取り戻した。精悍でさえある。
「でも、何が原因なの? 天ヶ峰さんだってバケモノじゃないんだから、怒るのにはきっと何か理由があるはずじゃない」
「バイトをクビになったんだよ」
「え……ここを? そんな……」
 そんな……っていうか、多分明日からこの店自体がねーけどな。空見えてるもん。
「何したの? あんなに頑張って働いてたのに」
「私語。あと勢い余って客を剥いた」
 酒井さんは目をまん丸にして叫んだ。
「そ、それだけのことで!?」
 ごめん、もっかい言ってくれる? よく意味がわかんない。人間を剥くのってそんなポピュラーなミス?
「酒井さんだけは普通なんだっていつだって俺は心の底では信じてたよ。信じてたのに」
 横井が叫ぶ。
「おい後藤! 俺の彼女の悪口はやめろ!」
 もう何がなんだかわかんねーよ。
 酒井さんがすっくと立ち上がった。
「酒井さん」
「友達が落ち込んでるのを放ってはおけない……純くん、あたし、いってくるね」
「かおり……!」
 横井が酒井さんに手を伸ばそうとして、振り払われた。
「やめて。触れ合うのは、もう一度出会った時にしよ」
「そんな……おまえ、死ぬ気か!?」
「友達を見捨てるよりはいいよ」
 止めないで、と背中を向けた酒井さんを、横井は後ろから抱きしめた。
「純くん……? やだ、やめてよ……あたし、勇気でなくなっちゃう……」
「帰って来い」
「え?」
「帰ってきたら、この続きをしよう」
「……うん」
 そう言って、酒井さんは駆け出していった。半分ぶっ壊れたキッチンに向かって。そこから響いてくる、友達のすすり泣きに向かって。
「信じてるぜ……かおり。お前はやれば出来る子だ、って」
 ふっとどこか寂しげに笑う横井。その顔は、晴れ晴れしく、胸を張って恋人の門出を祝っていた。
 俺は、そんな横井の脇腹におもっくそ気合こめたボディブローをぶちこんだ。
「げっぶぉ!?」
 リバーに入ったのでいい感じに胃液を吐きながら身体をくの字に折り曲げた横井に俺は容赦しなかった。打ち上げ気味のショートアッパーを左右で細かくまとめて横井の顔面にお見舞いしてやった。嵐のような連打に矢も盾もたまらず腕で顔を隠した横井が叫ぶ。
「あ、あと五秒! あと五秒だけでいいから、この茶番の余韻に浸らせて!」
 茶番だってことは分かってたんだな。


 そして、茶番は始まった時と同じくあっという間に終結した。
 横井に覆いかぶさり睨みを利かす俺の髪をかすめるようにして、ロケット弾がキッチンの暗がりに向かって飛んでいき、確実に女子二人を巻き込む位置で爆裂した。
 天ヶ峰は親を呼ばれた。



 ○



 小中高、いずれにしてもガキの喧嘩は親が出てくると決着である。わりとこの街の親父連中は怒らせると怖いので、家まで話が伸びるとお互いにちょっとやべえなってことになってくるのだ。
 とはいえ、天ヶ峰の親父さんは海外にいるので、呼び出されるのは当然あっちゃんママだ。関係各所にぺこぺこと頭を下げている姿はご近所として胸が痛むものがあった。馬鹿娘はといえばロケランのせいで半裸になり警察から借りた毛布を肩からかけてまだベソをかいている。泣くなよもう。しかしまァ確かにコイツが社会で全うに働いていくのは無理なのかもしれねえなァ。くそっ、アイツがベソかいてると小学生の頃を思い出して俺はなんかケツの穴がかゆくなっちまうのだ。
 酒井さんはロケランの打たれ損で気絶し横井がおうちに持って帰り(死ね!)、吉田くんたちは脱帽のジェスチャーをして解散していった。明日はタカノリのお見舞いにいく予定だという。タカノリも心無い一言のせいで寿司のネタみたいにされちゃって可哀想になァ。口は災いの元である。


 俺と桜乃ちゃんは粉々になったファミレス跡地を、道路を挟んで見やっていた。自販機のそばの縁石に肩を並べて座って、夏の虫の声を聞いている。
 俺の目は、警察の真似をしている城島さんに注がれていた。今度こそ刑事事件なので警察の人が来ているのだ。なるほどよく見てみると確かに周りの刑事からシカトされている。スゲー可哀想。マジでキチガイみたいな扱われ方じゃん。
「あれが、私のお父さん」
 桜乃ちゃんは自販機で買ったコーラをこくっと飲みながら、ふっと笑った。
「キチガイでもね、頭おかしくてもね、あれが私のお父さんなの。私は、それが全然イヤじゃないんだ」
「……そっか」
「でも、後藤くんは気を遣っちゃうよね。もうウチにいると」
「いや、そんなことねーよ。俺は……」
 と、言いかけて、逆なのだと気づいた。
 どっちかだけなら、よかったのだろう。
 親父がキチガイか、それとも息子がオンナノコか。
 どっちかだけなら、ギリギリ、知られてもなんとかごまかしきれたというか、容認できる範囲だったのだろう。
 でも二つ知られては、一緒にはいられない。
 俺がじゃない。
 向こうがだ。
 俺は、桜乃ちゃんの方を見られなくなって、ぷいっと顔を背けた。左右を森に挟まれた深夜の国道の果ては、暗闇に吸い込まれてしまっていて、見通すことができない。
「一晩泊めてくれてありがとう」
 俺がそう言うと、桜乃ちゃんは「ん」とだけ答えた。
 それがさよならの合図だった。
 俺は立ち上がった。
「……いくの?」
「ああ」
「いくアテは?」
「ない」
 俺はポケットに手を突っ込んで、歩き始めた。自販機のそばのスポットライトから出る間際になって、思い出したように振り返る。
「一宿一飯」
「……え?」
「一宿一飯の恩義は、必ず返す」
 桜乃ちゃんは、ぷっと噴出した。そして髪が流れるほどに小首を傾げて見せて、最高に可愛く笑ってみせた。
「カッコイイよ、後藤くん」
 女の子に「うるせえ」と返すわけにもいかない。
 俺は黙って、円い光の中から退場した。
 夜空を見上げると、深海のような濃い青の中に、星がチカチカと瞬いていた。
 夏だった。








『後藤、家燃えたってよ』

 第一部 完

       

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Neetsha