黄金の黒
第四部 『FORCE ROUND』
攻撃方法など限られていた。
スタイル・『リベリオン』。
都市を貪る炎が飢(かつ)えに負けて、ついに光をも吸い尽くしてしまったかのように、やけに薄暗くなった小さな天地を黒鉄鋼は駆け抜けた。全力全開のスプレイをかけっ放しにして、雑に書き流した線のように突っ走る。
すぐそこに、敵がいる。
気障ったらしい策などない。張り詰めた緊張の糸が少しでも解れれば、その瞬間に意識がブラックアウトするのは目に見えていた。冷え切った汗が飽きもせずに額から流れっぱなしになっている。振り払う暇も惜しい。
すでに敵の射程距離に入っていた。
天城燎に残された二つの白から、火球の散弾が横殴りに降り注ぐ。十三方向。かわせない。充填してある三つの拳をすべて犠牲にしても九発はもらう。鋼の眼が引きつりながら見開かれ、その処理能力を総動員して、火球の弾道の中に隠された、九発貰うところを七発で済むコースを見抜き出した。躊躇わずに突っ込む。
閃光。
立ち込めた爆煙を充填し直した黒で振り払って切り裂き、視界を回復させた時にはもう、天城燎は充分なバックスプレイをかけて悠々と距離を取った後だった。鋼の胸に悪酒のような苦味が残った。これだ、と思う。
これぞ、ホワイトゼロ・ブラックスリーの殺し方……。
左手/ジャブが死んだ鋼には、距離を取られれば撃つ手がない。下手に押し引きの駆け引きを仕掛けたところで絡め取られて撃滅される。仮に弾幕を切り開いても敵は常にバックスプレイをかけて一定の距離を保ち続ける。
この単純明快な負け方をどうにかできない限り、黒鉄鋼に生き残りはない。
天城燎の白が、炎をチャージし始めた。撃った。
鋼には何もできない。
再び、自分の拳を犠牲にして、弾幕の中でもっとも被弾率の少ないエリアに突っ込んだ。衝撃と轟音が何重にも積層された。最善の道を選んだところで被害は決して軽くない。まるで性質の悪いイカサマだった。くそっ、と呻く。
天城燎のジャブは、ショットガンの弾道のように、散らばり、不規則だった。しかし、一見すると不明瞭な意味の裏に必殺の意図が徹底的に隠蔽されているのが鋼には分かる。いっそ集中砲火してくれた方がまだやりやすかった。天城燎のジャブは確実なダメージのみを視野に入れていた。全弾必中などさせる必要はない。たとえ一発でもヒットさえすればそれで充分。
もうすでに、半ば勝負は決まっているのだから。
(……くそっ!)
少なくとも嬲り殺しではない戦闘の態を為すためには、まず距離を潰さなければならないのに、それすらもままならない。ひたすらトライ&エラーを繰り返し、敵がケアレスミスをして弾幕に小さな風穴が開くのを待ったところで、あの天城燎がそんなヘマを打つとは思えないし、それに何より、この体調――長期戦などこちらから願い下げだった。
一体、どういう按配なのだろう、と鋼は思う。
一発ももらいたくないジャブを、自分から七発も喰らいにいかなければならないとは。ガッツやスピリットでどうにかできるレベルを超えている。顔が粟立つ。もう何年も眠っていないような気がする。限界など、第3ラウンドのどこかに置いてきた。
それでも、天城燎のパイロを五発も六発も喰らっても、鋼の氷は砕けなかった。
砕けなかったのだ。
(――まだ、やれる)
これはもう、こう考えるしかない。
つまり、いるのかどうかも分かりはしない神様が、こう言っているのだ。
お前が勝て、と。
いいぜ、と思う。すべてのパンチはリズムと振動。その基本原則に変わりはない。
チラリ、と鋼の眼が、すぐそばにそびえているモニュメントのスパイラルを見やった。そして次に、自分の左腕に巻かれた腕時計を見た。気持ちが乗って、あまりにも強く視線を注いでしまい、ハンドキネシスの余波が時計の文字盤とベルトを弾き飛ばした。しかし、砕け散った時計は最後の役目だけは果たしてから落ちていった。
残り時間は――ジャスト五分。
それだけあれば、充分だった。
天城燎の白が拒絶の炎を虚空に布陣する。酸素を噛み殺しながら迫り来る炎の流星群を、しかし、鋼は回避もしなければガードもしなかった。鋼の黒は、すべてどこかへ消え失せていた。殉教者のように、鋼が眼を閉じる。
爆発。
虚空に浮かんだ燎の白の指先が、神経質そうにピクついた。黒煙が晴れた時、そこに誰もいなければ、勝負は終わりだ。
この、あまりにも長かった三十分間に、決着がつく――ひょっとすると二人のボクサーだけでなく、一発一発の拳やパンチだって、それを待ち望んでいるのかもしれない。
黒煙がかき消すようにふっと晴れた。鋼は、そこにいなかった。だから天城燎の白は、追撃を加えなかった。ただ戸惑ったように虚空に漂っていた。そこには、見慣れないものがあったから。
何かの滑走路に似ている。銃身を半分に切って割ったもののようにも見えたし、異国の小屋の屋根にも見えた。それは、モニュメントのスパイラルの切れっぱしだった。
言うまでもないが、シールドだった。
緩やかなカーブを描いたスパイラルの表面から、黒い指先が壁の節穴のようにいくつもいくつもチラリと見えていた。何らかの象徴/シンボルというものは、特に核シェルターのように『耐久性』を売りにしている場合、そう簡単には壊れないように出来ている。引っぺがすのに少し時間がかかったが、周囲に煙の残滓が充満していたおかげで助かった。
さて、このシールド。
どうやら天城燎のパイロキネシスにも『耐久』できるようだった。
ありがたいことに。
鋼が笑い、
左手が発狂した。
弾幕の布陣などお構いなしに集中砲火でシールドめがけてパイロを豪雨のように連射した。が、そのすべてをスパイラルの盾は弾き返し、そして鋼は突撃を決断した。全力全開のスプレイダッシュ。光り輝く風の軌跡を残して、一直線に鋼は燎との距離を殺した。スパイラルのくぼみに恐ろしいほどの偶然を伴って、鋼の氷殻がはまり込んだ。天城燎自身は、まだ反射的にパイロを撃ち放っただけで、回避するところまで意識が回っていなかった。氷坂美雷の舌打ちが聞こえる。
盾が砕け散るほどの一撃が、凍てついた双球の間で炸裂した。さすがにスプレイ・フルブラストでのキスショットにはスパイラルも耐え切れず、甲高い音を立てながら即席のジグソーパズルへと成り果てて、その衝撃の余波を無数に散らばる破片でもって知らしめた。キスショットは成功した。だが、鋼はそのまま衝撃だけを相手に伝わせたまま自分の氷殻は離脱させるような『撃ちっぱなし』にはしなかった。続行だ、と思った。
脳味噌が軋む音が聞こえてくるような過集中をスプレイダッシュにぶち込んで、ダムを決壊させるほどの濁流のように風の暴力が鋼を再加速させた。二人の氷殻はいまだ接触状態にあり、どちらも一層のアイスが完全に亀裂に覆われて白裂化/フラッシュホワイトしていた。そのまま緩い角度で無人の都市へ流星のように落下していき、高層ビルの何本かを続けて貫きへし折りながら駆け抜けていった。そのまま突っ走っていればやがて地面へ激突していただろう、しかし、燎はこの土壇場でなんとかスプレイを自分と相手の隙間の中にねじ込み隙間を作り、氷殻をスリッピングさせて弾けるように鋼のキスショットの軌道から逃れた。サードフライのように打ち上げられた燎の氷殻は都市の上空スレスレまで上昇したところで逆スプレイをかけてその回転を止めた。さっと水を一滴、パレットに垂らしたように燎の氷殻から亀裂が消え去り、透明さを取り戻した。ようやく露見したその表情は焦燥と恐怖で醜く歪んでいた。視線の先では、勢いを止めきれなかった鋼のアイスが残していった破壊の痕跡が舞い上がる粉塵となって立ち昇っていた。ごくり、と燎は生唾を飲み込んだ。
一体どこの誰だ。
アイツがもう、立ち上がれないなんて言ってたヤツは。
なぜだ、と燎は思う。
なぜ闘える。
なぜ倒れない。
致命傷だったはずなのだ、第3ラウンドのあの一撃は。絶対に立ち上がれるはずがないのだ。氷殻越しに言語野を迸った衝撃がブラックボクサーを即死させていて然るべきだった。美雷のすべては杞憂で終わらなければならなかった。ヤツは、ヤツは俺に殺されるべきだった。なのに。それとも、知っているのか?
――俺の名前を?
実名報道はされていないはずだ。事故の関係者にも父親が金を配って口止めさせた。それにヤツは事故直後から腑抜けになって自分のアパートに閉じこもっていたと何かの噂で聞いたことがある。向こうのセコンドから俺の名前を聞いていたとしても、それが、『右腕の仇』とすぐに繋がるはずはない。それとも、セコンドが気を利かせて教えたのか? いや、俺の名前以上のことは、たとえピースメイカー級であっても余所のラボの人間には伝わらないはずだ。あるいは、右腕のことは知らなくても、ヤツのスパーリングパートナーを痛めつけてやったことがネックになっているのか。たかだ他人が傷ついたくらいで、本当にあそこまで力を発揮できるものなのか? そんな御伽噺みたいなことが?
いずれにしても、
「……こんなやり方してたら、あいつも死ぬぞ」
気がつくと、毒づいていた。
「……死んでもいい、ってことか? ……クソが、どういう神経してたら『自分が死んでもいい』なんてことになるんだよ!!」
動揺を沈静させることを提案、という毒にも薬にもならないブレインの精神波に苛立ち、同じ波長で怒鳴り返した。
『そんなことより、美雷はなんて言ってる!? 俺はこのままフレイムチャージしてていいのかよ!!』
『氷坂様からは、作戦行動の新しい価値基準は提示されていません』
『このままでいい、ってことか?』
『はい』
このままでいい。
このままで?
本当にこれでいいのか、と燎は焦りを覚えた。結局、フレイムチャージは破られてしまったではないか。モニュメントのスパイラルを引っぺがしてシールドにあてがう、などという奇策に頼った戦法とはいえ、事実、燎は決して軽くないダメージを受けた。それなのに、『このままでいい』とは、一体全体どういうことだ? 氷坂美雷らしくない。あの女なら、一度下手を打った戦術はどれほど精緻であろうとゴミのように破棄して振り返らない気がする。そう思考回路が巡った瞬間、燎の意識は飛躍した。笑えない想像が胸を満たした。
氷坂美雷は、使えないものは簡単に廃棄する。
それが物体だろうと戦術だろうと、……人間だろうと。
まさか。
(……呆れられたのか、俺は?)
(何度指示を与えても、必殺のチャンスを逃し続け、第4ラウンドまでズルズルともつれ込んでしまったブラックボクサーには『新しい指示』など出しても、無意味だと?)
(どうせ、失敗するから?)
(期待にそぐわないから?)
燎は、噛み千切れるほどに唇に歯を立てた。
(舐めやがって……!!)
これほどの屈辱は、無かった。
涙さえ溢れた。あわてて右袖でごしごしと顔を擦った。
悔しくて泣くなんて、生まれて初めてのことだった。しゃくりあげそうになるのを意地で堪える。
だが、一滴の屈辱を流すごとに、切歯の覚悟が決まっていった。
見せてやる。殺してやる。そう思った。
あの男を倒せば、認めてくれるんだろう。いくら氷坂美雷が狂気の天才であろうと、実際に闘っているのはあの女じゃない。自分だ。自分がヤツの首を獲って帰れば何も言えないはずだ。そこからさらにゴチャゴチャ抜かすようなら、今度こそ許さない。飼犬のように惨めに屈服させてやる。泣いても喚いても逃がしはしない。その傷つきやすい身体に教えてやる、誰が一番強いのかを。
そのために、あの男を倒す。
倒さなければならない。
絶対に。
黒鉄鋼が、炎上する都市から一筋の紺碧の線を引いて、上昇してきた。二〇〇メートル差で睨み合う。燎は思う。パイロじゃ駄目だ、と。
有効な戦術であることは百も承知。二度とスパイラルのシールドになど誤魔化されるつもりもない。それでも、フレイムチャージには限界がある。理由は二つ。一、シンプルに一度突破されていること。別のやり方で二度目がないとは言い切れない。二、もし突破されてしまった場合、ノックアウトされる危険性が高い。黒鉄鋼はどう思っているのか知らないが、少なくともフレイムチャージをしている間、燎は決して湯船に浸かったような気持ちでいられたわけではない。
強すぎるのだ。
黒鉄鋼のパンチが。
第4ラウンドになって、あろうことか、ヤツの強打はさらに威力を増していた。一体どんな魔法を使ったのか知らないが、火球を処理する動きを遠目に見ても、それは明らかだった。ただ、相変わらずの大振りではある。そのせいでパリングし切れなかったジャブも多い。だが、もしヤツが単騎で突破してくれば、そんなものは関係ない、ノックアウトされかねない強打が自分の周囲を怒り狂ったスズメバチのように縦横無尽に飛び回るのだ。懐に潜り込まれた時のことを考えると、白を比較的遠距離に配置するフレイムチャージは決して頼りっぱなしに出来るスタイルではない。元々、左利きでもない限り素のパンチ力は白より黒の方が威力はある。純粋な攻撃力だけなら、下手に白が残っているよりも黒がある方が優れているのだ。
不安要素はそれだけではない。
燎にも蓄積されているダメージ、それはセンスや素材とは無関係な物理的な問題だった。
――栄養失調。
頭脳を酷使するこのブラックボクシングでは、補給された栄養分を餓えたシナプス群が簡単に喰い尽くしてしまう。インターバルごとに氷器に封入された栄養剤を使用することは出来るが、その燃費の悪さを補い切れるほどではなかった。
脳が、喘ぎ始めていた。
燎が、鼻を擦った。袖がほんのり、赤く染まった。
必ずしも、長期戦はこちらが望む通りの結果を生まないかもしれない。
ならば。
懲りずに『リベリオン』のスタイルを取って接近してくる黒鉄鋼のプレッシャーを氷殻の全周で感じながら、燎は、思い切ったスタイルを構えた。嫌な汗が、不思議と心地いい。
白を前線へと配置させず、氷殻のそばに付き従えた。そしてそのまま、炎を纏わせる。パイロフィストだった。
それも二発とも。
斜め後方の左右に控えさせておいた黒を燃え盛る白のそばへ置き直す。背後と左右はこれでガラ空き、むしろ望むところ。
スタイル・『リベリオン・チャージ』。
黒鉄鋼のさらに上を行く、薄装捨身の攻性陣形。
これで距離は自然に死ぬ。動けば当たるような接近戦。だが、それでいい。がら空きの懐に潜り込まれる心配はこれで無くなった。身じろぎしただけでアイスを突き合わせるほどの近距離ならば、双方共に被弾しかねない。その代わり、現状は変わった。黒鉄鋼の顔色も変わった。燎の口元が引き攣った微笑を浮かべる。
確かに、凄いハードパンチャーだ。
だが、勇気さえあれば、あの強打は怖くない。誰がどう見たって、あの男に出来ることなんて実質的にはもう残ってはいないのだ。不調の黒は空振るばかり、頼みのエレキもシフトも使い果たし、白もすべて潰された。何が出来る? あの男に。冷静に考えてみれば分かる。
手負いの獣の最期の咆哮は、負け犬の遠吠えと同じ残響なのだ。誤魔化しだ。ハッタリだ。
オリてたまるか。
四拳を構える。その指先を、ちょちょいと曲げる。
鋼は迷わなかった。
三発の拳を取り巻きにして、一直線にキスショットで構わないとスプレイダッシュをかけてきた。反撃を喰らっても距離が今より詰まればいいという突撃だった。燎は素直に反撃した。
その一発が問題だった。
ばキャッ……と、鋼の氷殻が撃たれた。軽く弾けた氷の球は、よろめくように後ろに下がった。その過透明な氷の中で、まるで自分の顔を撃たれたように黒鉄鋼が呆然としていた。パンチを撃った燎すらも戸惑っていた。なぜならその一発は、黒鉄鋼をよろめかせたパンチは、
完璧な、『ジャブ』だった。
(ジャブ? ジャブだと?)
燃える拳をスウェーバック・スプレイを小刻みにかけて直撃スレスレの回避を見せながら、鋼のアタマの中はさっきもらった一発のことで塗り潰されていた。今までの、どこか素人くさいパンチもどきとはわけが違った。パイロキネシスで作られた贋物などでは断じてなく、それは、本物のボクシング技術に裏打ちされた、正真正銘のジャブだった。
効きが違う。返しが速い。
ついに回避し切れず、突き刺すようなジャブが命中するたびにピシリ、ピシリと鋼の氷殻に深々と亀裂が刻み込まれた。破れかぶれで手持ちの黒を振り回し、白を叩き潰そうとしても、しっかりと引き手を取られたパイロフィストはあっという間に鋼の拳のリーチから逃れ去っていった。重たく残るダメージだけを置き土産にして。
そのジャブは、元日本王者・黒鉄鋼の眼から見ても、速く、重く、そして痛かった。切れるパンチと言っていい。
そして、
(ジャブ、ジャブと来て、返す刀の――
……ストレートか!!)
振り抜かれた天城燎の黒を一発、貰った。木こりが斧で大樹を切り倒したような嫌な音がして、氷殻から冷たい破片が飛び散り、鋼自身も弾き飛ばされた。直撃した拳から相手の気持ちが伝わってきた。
拳は、楽しい、と語った。
気持ちは分かる。いい手応えの残るパンチを初めて撃った時、嬉しくないヤツなんていない。鋼は吹き荒ぶビル風に逆らわないように弱くスプレイをかけて、高層ビルの一柱に鈍角で接地し、コンクリートの表面に逆剥けたカサブタを残してようやく停止した。虚空に居残っている天城燎と、その氷殻を取り巻く四拳を見上げる。
脳裏に、拳の幻影が乱舞していた。
(……まさかヤツは、俺の白(ひだり)がこれまでのラウンドで見せてきた動きをトレースしたのか? こんな、こんな短期間で、あっという間に俺の『パンチ』をコピーしたって?)
ふざけるな、と思う。黒鉄鋼のパンチはジャブだろうがストレートだろうが、たかが見聞きしただけで盗まれるほど安っぽくはない。だが、これは――……
滴りっ放しになっている鼻血を何度も素手で拭いながら、鋼は唇を噛んだ。
マイナス要因は、急激なレベルアップを遂げた天城燎のボクシング技術だけではなかった。背後を捨てた天城燎のW2B2を睨みつける。
一番恐れていたことだった。
『リベリオン』を『リベリオン』で返されることは。
逃げ腰の相手を追うのは、ある意味では簡単だし、シンプルだ。しかし、開き直って攻め気を攻め気で返されれば、後はもう純粋な力の差が勝敗を分ける。ここから先はより一層の地獄になる。黒鉄鋼の対戦相手はそういう選択をした。正真正銘の我慢比べだ。お互いに髪を掴み合って引き抜きまくっていくようなもの。手傷を負いながら、我武者羅に闘い続けるしかない。最後の一本、どちらかの魂の緒が引き千切られるまで――そんな醜い世界でも、
俺は全然構わない、と鋼は思った。
天城燎のパイロフィストがピク、と動きかけた瞬間、驚いた猫のように鋼は再びスプレイをかけて飛翔した。針で突くような正確さで撃ち出されたパイロフィストのジャブを二つ揃えた拳のガードのミートの広さを利用してパリングし、そのまま相手のフォローの黒/ストレートも氷殻をスリッピングさせて間髪の差で切り抜け、燎とキスショットする寸前に残った最後の手持ちの黒をショートアッパーでその氷殻めがけて撃ち上げた。弾かれた。衛星/サテライト・ポジションに着いていた燎の黒が綺麗な右フックで鋼の黒を横から弾き飛ばしていた。鋼の隻腕がグローブホルダーに伸びる。ジャブのパリングに使った二つの黒は片方が消し飛んでいた。充填できる、だが遅かった。児戯のような単純さで、双球の間に待ち構えていた燎のパイロフィストが、素晴らしいジャブを鋼の氷殻に突き刺した。衝撃で細かく割れた氷の中の鋼の姿が五十にも百にも増えた。ようやく充填された鋼の黒を横目にパイロフィストはくどいほどのジャブの連打を相手の氷の球に見舞った。稼げる内にダメージを稼ぐつもりだった。鋼の黒がパイロフィストと氷殻の間に割り込んできて、そのジャブを受け止められてやっと、燎は白を引いた。
引き手を取りながら、燎は思った。
やばい。
楽しい。
こんなに楽しいことがあったのかと思う。
闘いながら自分が強くなっていくのがわかる。
それは、どんな官能より甘く、鋭い、喜びだった。
もうすぐだ。もうすぐそこに匂い始めている。
対戦相手の死の匂いが――……
産毛を総毛立たせながら、燎は、次のジャブを撃とうとした、しかし、
白は、動かなかった。
「――――?」
訝しげに、自分の燃える拳を見やった。何か焦げ臭くもあった。死の匂いよりも、もっと俗悪で、下劣なその匂いは、特殊繊維で織り上げられた手袋が少しずつ燃えていく匂いだった。
黒鉄鋼の黒だった。
燎の白をがっしりと掴まえている。
ジャブが、撃てない。
それは、単純明快な、パンチのメカニズムだった。
氷像の中の細かく砕けた鋼が笑うのが、見えた。その唇が無声で囁く。
(確かに筋は悪くねえよ)
(けどな、)
(……お前、いったい誰に『パンチ』を撃ってんだ?)
プライドがある。
鋼の黒が、掴み取った炎の塊をさらに握り締めた。そのまま掌を返し、ムチのようにしならせて、手中の白手袋を燎の氷殻めがけて投擲した。
外れるような距離ではなかった。
自分の白手袋の裏拳をまともに喰らった燎の氷殻は一発で白裂化して弾き飛ばされた。カウント・ゼロのW0B3まで追い詰められたブラックボクサーが叩き出せる最高峰のダメージだったはずだが、鋼はその結果を見て舌打ちしていた。
しくじった、と思う。
視線が、投げつけた燎の白に釘付けになっている。モロに当たりこそしたものの、白は破裂せずに残っていた。これならその場で握り潰してしまった方がよかったかもしれない。そうすれば敵をW1B2にまで追い込めた――与えたダメージと相談すればどちらが良手だったかは、判断が難しいところだったかもしれないが、少なくとも黒鉄鋼のボクサーとしての直感は今の一手を『悪手』と断じたようだった。
そして、それは正しかった。
白裂化した氷殻を持ち前のタフネスで一瞬にして掃き払った燎は、思った。
まだか、と。
まだ足りないのか、と。
フレイムチャージという消極的戦法を捨て、リベリオンを張るほどに自分を追い詰め負い込み、それでもなお、届かないのか。
あの男には。
ゲホゲホと、珍しく咳き込みながら、燎はアタマの中に問いかけた。
『……ブレイン、指示をよこせ』
『新しい戦闘指標は、提示されていません』凍てついた声が答えた。
『このくそったれ、バラバラにして豚か牛にでも喰わすぞ。今の状況が見えてないのか? 「フレイムチャージ」も、「リベリオン・チャージ」も、撃ち破られた。俺に何かかける言葉があるはずだ。かけなきゃいけない言葉が……』
『ありません』
『お前じゃねえ、美雷に聞いてるんだッ!!』
『ですから、氷坂様の言葉をそのままリアルタイムで、お伝えしているのです。……「あなたにかける言葉などない」、という言葉を……』
すうっと、心の中で何かが冷えた。耳の奥で轟、と血液が圧力を増して通り過ぎていくのが聞こえた。顔が引き攣る、
腹が据わった。
無事だった四拳を揃い集めて、周囲をサークリングさせる。
それ以外は何もしない。燎は、ただその場に沈んでいかない程度のポップ・スプレイだけをかけて、漂流していた。
遠目に見ている鋼が、気味が悪くなるほどの沈黙の果てに、燎の四拳が動いた。恋人のように、鏡合わせのように、白と黒が手を組み、ダイヤモンドよりも硬く結びつく。
燎は、スタイルを変えた。
第3ラウンドで見せた、双拳の構え。それが二つ。
重ね合わされた拳の輪郭は、もはや『メイス』。
単純計算で二倍になった拳の質量は、外せば恐怖を、当たれば破壊を発散する歪な死の球形。それが緩く回転しながら、燎の左右でとびきりの使い魔のように控え、付き従う。
エレキなどかけなくとも、そのコンビネーションはすでに最悪の凶器。
スタイル・『ダイヤモンド・アイズ』。
柔らかな眼球からスクイズされた涙滴が、傷跡のように燎の顔を何度もなぞる。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。理解されない苦しみが、共感されない激情が、青年になりかけたこの少年の身体を揺るがせ、這いずり、絡め取った。細く震える息が長く、唇から吹き漏れた。本物の拳を充血するほど握り締め、それでも埋まらない怒りを小さな太陽と化した二発の拳眼に注ぎ込む。どうして分かってくれないのか、どうして認めてくれないのか、原始的な絶望が熱波となって、極光のプロミネンスを少年の拳に宿らせる。もっと、もっとだ。
もっと炎を、
あの男を焼き尽くせるくらいの、
眩い炎を――…………
天上に輝く二粒の煌球。
それを見て、眼を細めて、鋼は笑った。
いよいよ死ぬかもしれない。
そんな鋼のすぐそばで、欠けた腕の幻を補う影のように、三つの黒手袋が拳の座を作り、漂う、その中の一つが、
ぱリッ、
と。
細かく小さく瞬烈な、紫電の緒を放った。
どれほど絶望的であろうと、馬鹿馬鹿しくなるほど勝ち目などなくても、逃げることは出来ない。諦めることは許されない。
これが、黒鉄鋼の最終ラウンドなのだから。
第5ラウンド用のアイスピースはもう無い。使ってしまったものはどう頑張っても戻って来ない。スパイラル・モニュメントに次の雷/ゴングが落ちれば、その瞬間、黒鉄鋼の敗北が決定する。それは、生き恥を晒す以外の何事でもなかった。それなら不様な屍を野晒しにした方がずっとマシだった。脳裏に蘇る、真っ赤に染まったトイレの個室。瞬間的に噛み締めた奥歯が砕けて鮮血が溢れた。だから、
鋼は逃げた。
真っ直ぐ逃げた。
まともにあのスタイルとやり合えばどうなるのかは、第3ラウンドで吐くほど思い知っていた。無為無策は本当の逃げになる、だから、どうしてもファイトプランが必要だった。たった一つの策でよかった。
時間が流れていく。
天城燎の絶対攻撃のスタイルから撃ち落された拳眼が、スプレイダッシュをかけた鋼の氷殻をかすめるようにして過ぎ去った。一発、二発、と連続して回避したが、三発目は直撃した。
その三発目は、天城燎の撃ち下ろしのキスショット。
己自身すらも一発の拳と見立てたかのように、どこかの誰かとそっくりな突撃を燎は敢行した。爆炎の都市めがけて、鋼は燎の氷殻に圧倒されていく。唇から、競り上がって来た胃液がまた漏れた。脱出手段はリスクと抱き合わせになっていた。
だが、やるしかなかった。
鋼は、落下方向にそのまま被せてスプレイダッシュをかけた。双球に絡みついた危険な速度が、さらに増していく。が、その接触面積は少しずつ減少していった。少なくともこれでキスショットではなくなった。そのまま鋼は地面と激突する寸前に全神経を磨り潰しながら急上昇した。方向など構っていられなかった。いくつかのビルを崩壊させながら、天然の火炎に多少の火傷(てきず)を貰いながら、なんとか距離を取った。そして笑う、
燃え盛るビルの森の梢の中で、何もなかったかのように、天城燎が空中に立っていた。
ダメージは、見えない。
脱色しすぎて白っぽくなった髪、その向こうで輝くほとんど赤色の染眼。健康的に焼けた肌を玉のような汗が滴っている様は、本物のボクサーのよう。
黒鉄鋼を相手に取って、もう二十分以上も闘い続けているこの少年は、じっと己の敵を静かに見ていた。
いい眼をしていた。
違う出会い方をしていれば、鋼が鍛えてやりたくなるような顔つきに、天城燎は成り始めていた。
双方の眼下、黒く燃える瓦礫の中から、回避されてそのまま隕石のように落下した二粒の煌球が、見ているだけで咳の出そうな灰塵を巻き上げながら、本体のそばへと舞い戻った。それらが微動だにするだけで、熱波に大気がよろめいた。
ブレインとのリンクが切れてしまったのが悔やまれる。ポップ・スプレイをかけたまま、鋼は苦み走った笑顔のまま、冷や汗を垂らした。
ハッキリ言って、あのスタイルにどう対応すればいいのか、正解が見えて来ない。
当たり前だが、あんな手を組んだ状態から繰り出されるパンチはボクシングには存在しない。もし冗談でもプロのリングであんな構えを取れば、二分の一秒を待たずにその男は黒鉄鋼にノックアウトされる。間違いなく。
だが、これはボクシングであってボクシングではない。
これは、六つの拳と六つの異能を駆使したルール無しのサイキック・ファイト。
答えは、自分で作り上げるしかなかった。
鋼は、己の黒をそばへグッと引き寄せた。気づいているのかいないのか、やはり、時折その拳から小さな紫電が走る。
鈍く輝く瞳が、天城燎の組み合わせられた拳眼を見つめていた。
あれを狙うしかない、と思った。
拳眼をかわし、捌いて、その隙間を縫って本体を攻撃するよりも、まず反撃手段を奪ってしまった方が確実だ。すでに天城燎はW2B2。拳眼を各個撃破すればW0B2。
そこまで追い詰めることで出来れば、勝ったも同然だった。
ここまで来れば、もう言葉はいらない。
倒すしかないのだ。
倒すしか。
燎の拳眼がジャブよりも重く、ストレートよりも大きいパンチを繰り出した瞬間、鋼はスプレイダッシュで飛び出した。燎もそれを受けて立つ、下手に受身に構えて不意打ちのキスショットを貰うより、自分から半ば貰いにいった方がかえって損傷を軽微に抑えられる――そんな悪魔の計算に基づいた綺麗な暴力が鋼を撃った。構わない。とにかく接近戦で黒を三つ振り回し、氷殻のそばに留め置き、そして機会に出くわせば迷わず拳眼を殴滅する。それしかない。
そして、そのチャンスは、およそ三十七秒後にやって来た。
○
薬品の匂いを嗅ぎながら、八洲は目を覚ました。ああ、起きてしまったのかと気が滅入った。眠るのだって一仕事なのだ、特にこういう白(しろ)しかない部屋で、同色の重たいギプスに身体を固められている時などは。治療を受け始めたから何日経ったのか、投与された鎮痛剤の副作用で記憶がぼやけてイマイチ思い出せない。
だから、自分のベッドのすぐそばに、見知らぬ男が立っていることにも、霞んだ反射神経はすぐに対応してくれなかった。八洲は細かく震える黒目で、ようやく男を見上げた。
ドブネズミ色の髪をした男だった。寝覚めの眼には、どこかの銀河の星雲よりも明るく見える蛍光灯の逆光のせいで、表情はよく分からなかった。ただ、その男は、普通なら血の赤い線が走っているはずの白目が陶器のように真っ白で、そのくせ生身のままだった。
獣色の髪をうざったそうにかきあげた後、男は身を乗り出して巨大な医療器具に閉じ込められた八洲を見下ろした。その声は、目の粗いヤスリで適当に磨いたように渋く擦り切れていた。
「君を電化製品にたとえれば、修理するより交換してしまった方が早いだろう」
いきなりモノにたとえられた。
「だが、君はいいブラックボクサーだ。ああ、無理に喋ろうとしなくていい――私は何度も、君の試合を見ていた。君は何度も、いい試合を見せてくれた。そうとも、君はあっさりと処分してしまうには惜しい素材だ。実に惜しい男だ」
八洲は瞼を何度も開閉させて、記憶の箱の中から男の印象に合った人物を引っ張り出そうとしてみたが、どうしても他人だという結論しか出て来なかった。
「生きていたいかね」
八洲は、なぜそんなことを聞くのか、という疑問を視線で男に返した。
クスリでアタマがどれほどぼやけてしまっても、指一本でも動ける限り、生きていく気分だった。何か、男の言った「ぶらっくぼくさあ」という聞き慣れない言葉に近いところにある記憶が、八洲の脳を焦燥感で一杯にしていた。
男は、満足そうに頷いた。
「君みたいな男は減った。私が学生時代を流離っていた頃は、もう少し面白いヤツがいたものだが、彼らはみんなどこへ行ってしまったんだろうね。ナカジマミユキの『地上の星』を聞いたくらいじゃ、埋められない損失だ」
男は、ぺたぺたと八洲の身体を覆っている精密機械を触り始めた。それに語りかけるように言う。
「君を、元通りにしてやろう。私は外科は専門じゃないんだがね、ま、なんとかなるだろう。……嬉しいかね? それとも不安かね? どれ」
男は、八洲の許可も得ずに、その口を覆っていた酸素吸入マスクを取ってしまった。
「こんなものは外してしまった方がいいんだ。……私の持論だがね」
途端に、生きる苦しみが八洲の肺を満たした。呼吸器を風が通り抜けるたびに、刺すような痛みが全身に走った。惨めな呻き声が漏れ出し、自分の手では拭うことも出来ない涙が目尻から流れた。
だが、生きている気分だった。
「いくつか使えなくなったパーツをレプリカと交換するかもしれないが、仕上がりの綺麗さは保証しよう。かえって以前より頑丈になるかもしれないな。ま、ブラックボクシングにあまり本体の頑健さは関係ないのだが」
八洲は、男をじっと見た。
男は、くすぐったそうに笑った。
白痴を誘惑する悪魔のような、心地いい笑い方だった。
「安心したまえ。私の誇りを賭けて君を治そう。……こういうセリフを吐いたら一度、もう負けるわけにはいかないのさ。なぜなら私は、プライドだけで生きている男だからな。君や、彼らと同じに」
意識が朦朧としてきた。
男の眼もそれを確かめたようだった。くたびれた白衣の裾を翻して、背を向けた。そして、おや、とサイドテーブルに乗った古臭いブラウン管のテレビに視線をかけた。
「なんだ、テレビがあったのか。丁度いい、私が準備を整えるまで、これで暇を潰していなさい。それにしても、ひどい病院だな。こんなものがあるなら点けておけばいいのに。これじゃ患者が退屈してしまう」
男は、どれ、とテレビのスイッチに指をかけた。肩越しに振り返って、微笑を見せる。
「いま、面白い番組がやっているよ。これを見ないのは、もったいないよ」
そして、プツン、と音を立ててテレビが点いた。獣色の髪の男は、干上がった水のようにその場から立ち去った。
テレビが、光と音を放ち始めた。
八洲は、動くはずのない首を、そろそろと持ち上げた。
よく見知った男が、その番組には出演していた。
○
いくつかのパンチを交換しあった後、不意に燎の拳眼が動かなくなった。
青みがかった炎を逆さにしたようなポップ・スプレイをかけたまま、鋼も空中に止まった。
(なんだ――? 疲れたのか?)
まさかそんなこともないと思うが――分からない。
距離は、そこそこ充分にあった。敵の拳眼が、構えを取った。
遠すぎる。
長距離攻撃/ロングショットだろうか、と鋼は訝った。なんにせよ、いきなり出すには大きすぎるビッグパンチだ。それに、ぐっと構えた拳眼と鋼の氷殻の間にもう一つの拳眼が挟まってしまっている。あれでは綺麗に撃ち抜けない。
正確な読みだったが、それこそが、鋼の張り詰めた肩をほんの少し軟化させた。
させてしまった。
罠だった。
構えた拳眼が、鍬を振るうようなフォームでパンチを出した。拳そのものの軌道は何も破壊せずに終わった――だが、
纏っていた『パイロフィスト』の炎を、そのまま拳の形を残して撃ち放った。
単発の『ヒートファランクス』として考えていい。チャージされた高威力の炎拳が、もう一つの拳眼に直撃しそうになった。鋼はその段階で、ほんの僅かでも相手を軽んじるのをやめにするべきだった。何もかもが甘かった。
大輪の花が咲き誇るように、拳の顎(あぎと)がカパリと二つに分離した。その狭間を極彩色の一撃が、小さな焔の子孫をブチ撒けながら怒涛の如く駆け抜けた。思わず息を呑む、鋼の氷殻に、
直撃した。
分厚い爆炎と黒煙に飲み込まれた鋼とその氷殻は、即席の煙幕の中からフェイントで三つの拳を差し出し、撃墜されつつ、本体は決して少なくない出費を払いながらも間隙を縫って天城燎が作り出した包囲網を突破した。鋼は軽く背後を振り返りながらスプレイダッシュで加速した。
(――俺も大概だが、向こうも相当だな)
痛い目には遭ったが、今度は逆に即興のフェイントで燎の不意を突けそうだった。拳を一瞬で三つまとめて再充填。
構うことはなかった。
手当たり次第に振り回した。
たとえ自分の拳が無残に砕け散ろうとも、鋼は新しい拳を充填するのをやめなかった。
その無力さを虫唾が走るほど噛み締めながらも。
――そして、眩暈を起こすような三十七秒がやっと過ぎ。
三度目の白裂化から黒鉄鋼が立ち直って、二発のパンチを、四度のフェイントを、六方向へのプレッシャーをかけ終わった、そのすぐ後だった。
激戦の果ての空白。触れ合うような距離で鋼の黒が燎の氷殻を狙う軌道に乗った瞬間が偶然、生まれた。燎がそれを嫌がり、バックスプレイで離脱した。
その刹那、詰め将棋は成った。
鋼の黒の拳の先に、示し合わせたかのように燎の拳眼が燃えていた。
まず一つ。
鋼は黒(みぎ)を撃った。
入った。コークスクリュー気味の右ストレート、それを解き放った瞬間、鋼の全身に確信が流れた。
これはいい、と。
恐らくボクサーにしか分からないその手応えは鋼を戦慄させるに充分だった。不調の黒、ギリギリ一杯の剃刀パンチ。魅入られたように鋼の両眼が燎の煌球から外れない。
当たれば壊れる、
壊せる、
――垂涎の一瞬。
そして、
何か、見落としたのかと思った。
瞬きするよりも速く、それは終わっていた。渾身の黒は、暴君の一撃にカウンターを喰らって爆裂死散し、木っ端微塵に吹き飛んだ。組み合わされた拳が鋼の氷殻を微かにかすめ、それだけで鋼は手痛く大きく弾かれた。急制動をかけはしたが、すぐには動き出せなかった。
まるっきり、第3ラウンドの再現だった。
受けたダメージよりも、潰された黒よりも、手酷く鋼の精神は、いやファイトプランそのものが磨耗した。半ば呆然としたまま、炎と風に炙られて倒壊していくビルの隙間で一つの習慣のように失った拳を充填し直しながら、鋼は自棄を起こして惨めに吼えた。悪戯に喉が傷んだ。
どうかしていた。
黒鉄鋼の渾身の、恐らく二度とは再現できない、今撃ち放てる限りのベストショットが、効かなかった。それどころかカウンターさえ喰らった。どうにもならない。事実上、たった今、天城燎の白(ひだり)を壊すことは黒鉄鋼には不可能だということが証明された。
もし、これ以上に威力のあるパンチを撃ちたいとなれば、それは拳と本体の差をゼロにするしかない。
つまり、氷殻の中からパンチを撃つしかない。
出来るはずが無かった。
誰かが笑っている気がした。
こうべを振り、敵を睨む。
追撃してくる拳眼の連撃をジグザグ・スプレイで避け、かわし、見切り、いなし、捌き、逸らし、防御しながら鋼は思う。
まだだ、と。
まだ、俺には手段がある。
諦めてたまるか。
逃げてたまるか。
誰がなんと言おうと、止めようと、俺は最後までやる。
そう思った。
もはや黒を振り回して攻撃する意味さえ朧な戦闘の中で、鋼の脳裏に、八洲の声が蘇ってきた。いつかのスパーリングの後、二人でシャワーを浴びながら、八洲は言ったものだ。
キスショットは、と。
――なァ黒鉄、キスショットは、タイミングとアングルとダメージを恐れないクソ度胸がモノを言う。けどな、俺はこう思う。一番大事なのは――『速度』だと。
速さこそ、と遠い記憶の中の八洲は続ける。
――そうだ、速さこそ、キスショットに求められる全てと言っていい。スプレイダッシュより速く、落下速度より重く撃たれたキスショットは、あらゆる些細なセオリーをも吹き飛ばす最高のキスショット――……ま、そんなのカンタンに出来たら、誰も苦労しないんだけどな。
何か言い返した、あの頃の鋼を、八洲は笑った。
――ふざけんな。俺が編み出せなかった技を、そうやすやすと新人のお前に考えつかれてたまるかよ。いまいち分かってねえようだから改めて聞くけどさ、お前な、……俺をいったい誰だと思ってんだ?
剣崎八洲。
十六戦十三勝一負二分のブラックボクサー。
やろうとして容易くマネできるようなものではない。
それは、誰が見たって、指でなぞりたくなるほど立派な戦績だった。
その男が、今、何も出来ずに白いベッドの上で、延命装置をべったり身体に貼りつけながら、横たわっている、
そんな時に、そんな瞬間に、
敵を前にして、この俺は、
どうして負けることなど出来るんだ――……?
見慣れぬ不気味な軌道のパンチを無意識で避ける。かすめていく死が恐怖を繁殖させる。
構わない、いくらでも根を張れ、俺を苦しめ苛み続けろ。
俺は、その『上』をいく。
それだけのこと。
鋼はぺっと唾を吐いた。
確かに凄いハードパンチャーだ、と奇しくも相手と同じことを鋼は考えた。だが、あのスタイルは振りが大きい、隙も多い。質量も破壊力も二倍にはなったのかもしれないが、おかげでこちらにも一つの利点が得られた。
それで充分。
押してやる。
視線が交錯する。拳眼が今度こそトドメを狙って動き出す。それを見て、鋼は呟いた。
イロイロ見せてもらったが――結局は、
「お前の技は、もう超えた」
あとは、それを証明するだけだった。
フックよりも小さく、利き腕よりも強い奇妙な二重のパンチが鋼を狙って虚空を突進した。鋼はそれを今度こそ避けなかった。ギリギリまで引きつけた。重要なのは精密動作性――それさえあれば難しくはない。拳が重なっているということは、相手に触れられる面積が広いということ。
パリングしやすくて仕方がなかった。
仲良し小良しに揃えさせた鋼の黒が二つ、真横から掌底よろしく燎の拳眼を弾き飛ばした。そのままがっしりと拳眼を掴み、道連れに落下していく。壊せなくてもいい、戦線から離脱させられただけで充分。
状況は煮詰まった。
黒鉄鋼、天城燎、それぞれの手持ちのナックルは最後の黒と一発の双拳。あとは虚空に互いが在るのみ。
滲んだ太陽に似た、四つの視線が交錯した。
二人は、数万分の一秒だけ、これから起こることについて思考した。
燎の考え方は正しい。
燎は、真っ直ぐに、残った拳眼をストレート調で撃ち放った。下手にスタイルを崩して白と黒に分ければ、鋼が間違いなくその呼吸の間を使って、ちょうどその頃に地面と激突するなり拳眼のパイロフィストに燃やし尽くされるなりして、消費された黒をすべて再充填させて垂涎の白を撃破しよう――そうして来ることは眼に見えていた。ゆえに、黒に当たれば当座のガードを破壊でき、本体に当たれば尚良しの強行軍でストレートを撃つというのは、ほぼ正解と言ってよかった。過ちがあるとすれば、それはもう、
『回避』と『攻撃』を噛み合わせたキスショットをこの期に及んで考え出した、黒鉄鋼が悪いと言うしかない。
タネはこうだ。
――この際、ガードに残した黒はどうでもいい。燎にささやかな報酬としてくれてやってもいいし、せいぜい疑似餌の役割でも果たしてくれれば問題ない。重要なのは、確実にこちらが一呼吸を回避に割かねばならない、と燎が誤解しているということ。そこを突けば確実にキスショットを当てられる、それも効果的な威力を伴って。では、どうやってそんな曲芸じみた真似が出来るのか。簡単なことだった。
鋼は、スプレイダッシュをアンバランスにかけた。通常とは違った風をかけられた氷殻は、迫り来る拳眼のストレートを間一髪で回避しつつ、緩やかな弧を描いて燎の氷殻を撃つコースに乗った。キスショットが元々はビリヤードから由来する言葉である以上、この一撃はこう呼ぶのが相応しく、かつ分かりやすいかもしれない。
黒鉄鋼は、『マッセ・ショット』をかけたのだ。
本場のそれと同じく、土壇場の一発勝負で二度とは出来まい。だが、鋼はそれをやった。斜め上からの急襲をかけつつ、グングンと燎の氷殻が近づいて来て、敵の表情が弄ばれる粘土細工のようにスローモーションで変化していくのを見ながら、グローブホルダーから左手で手袋を二枚千切って空に放った。再充填、
キスショット。
双方、一撃で白裂化した。その瞬間を鋼は捉えた。激突する寸前、再充填したばかりの二発の黒を燎の氷殻の左右に据えておいた。これが最後の味つけだった。
「かあ――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
もはや余力を残す必要はなかった。
双球が磁界に取り込まれたようにくっついたまま、小さな流星になった。あらゆる神経を絞り尽くす。鋼はキスショットしたまま、勢いを殺さず、衝撃を伝導しつつ、天城燎の氷殻を左右から二つの拳で押し潰そうとした。
洒落にならない攻撃だった。
恐らく中身は相当に恐かったはずである。もし、この状態で氷殻が砕かれればブレインの悠長なカウンターシフトキネシスによるサルベージなど到底間に合わなかったはずだ。三方向からの多重攻撃。挟まれ、圧倒される氷殻がどんどんひしゃげて歪になっていく。
鋼は思った。この距離なら精密動作もハンドパワーも充分以上だ、壊せる、
壊せるはずだ。
これを粉々にすれば全てが終わる。
全てが。
もはや視界は真っ白だ。何も見えない、分からない。視神経を浮き彫りにしたような細かい亀裂がどこまでも薄く広く張っていった。
身に纏う重力が手加減知らずに増していき、意識が白熱し思考が破裂し、そして最後に残った感覚で、ただ音だけが聴こえるばかり。
餓えたように、片方だけ残った聴覚に、鋼は全神経を注ぎ込んだ。聴こえてくるその音は、幼い雷の産声にも似た破砕音。
ピシ、ピシ、ピシリと。
氷殻が磨耗していくその小さな音が、少しずつ少しずつ、大きくなっていく、その瞬々が永遠に思えた。
まだか、まだか。
まだ砕けないのか。
悪魔に魂さえも売り渡したくなるような、身を焼く焦燥感が鋼を燃やした。
砕けろ、
砕けろ、
砕けろ、
砕けろ――――!!
一秒が過ぎ、二秒が過ぎ、三秒が過ぎて、
遅すぎたくらいだった。
黒鉄鋼のパリングからとっくに解放されていた天城燎の煌球が、逆上がりに昇って来た神罰のように燦々と燃え盛りながら、災厄を撒き散らす対戦相手の氷殻をアッパースイングで撃ち上げた。地獄の逡巡の末に、一秒前にすでにガードに回していた鋼の黒がかろうじてクッションの役目を果たし、その氷殻は粉砕されることなく、曇天近くまで跳ね上げられた。バックスプレイをかけて急制動をかけ、血走った眼で真っ黒な都市を見下ろした鋼は、ふ、と笑った。
恐らく相当、効いたのだろう、ふらつきながら弱々しいスプレイで、燎の氷殻が手頃なビルの上に接地していた。もう褒めるしかなかった。
結局、砕けなかった。
こちらの信念という氷の方が、今にも砕けそうだった。
やられた。
――まさか、耐え切るとは。
ふ、と意識が消えかかった。やばい、と思った時には絞り尽くされたようにポップ・スプレイが消失し、鋼の氷殻はゆっくりとした確実さで落下していった。辛うじて割けた神経が弱々しいスプレイの吐息を何度も左右にかけ、手頃なビルの上に鋼は氷殻を着地させた。そのまま、どっと膝から倒れこんだ。支えに立てた左手にボタボタと汗が滴った。眼を瞑る。
確かめるまでもなかった。
――思い出せない。
その言葉が思い出せない。スプレイという通称ではない、その異能の本当の名前。どれほど記憶のオモチャ箱をひっくり返しても、どうしてもそれだけが出てこなかった。理由は明晰だった。
人類の頭脳にあるブラックボックスは、左の言語野に埋め込まれている。
ゆえに、酷い損傷を受けたり、使いすぎた異能は、その言葉が一時的に記憶から消し飛ぶ。あたかも同じ文字をずっと眺めているうちに、その意味が掴み損ねていくように。
ゲシュタルト崩壊。
風が死(や)んだ。
恐る恐る、鋼は視線を上げた。虚空には、再び復活してきた天城燎の氷殻がスプレイダッシュをかけてこっちへ飛翔してきていた。二粒の小太陽が、精神の波長を凍結させて創られたアイスキネシスを美しく照らし出している。本当にタフなヤツだと思った。
さて、
どうする。
もう、透明な翼は無い。空を飛ぶ夢は醒めた。後に残ったのは、氷の盾が一枚と幻の拳が三つ。雷の槍も炎の雨も神の脚すらも使い果たした。手元に残った貧しいカードで、あの少年をノックアウトしなければならない。
あと、百秒足らずで。
燎が戦闘機のように突っ込んで来る、そして先行している拳眼がスイング・モーションに入った。このまま殴られればデタラメな照準でも木っ端微塵だ。
脱出経路は、たった一つ。
(――――っ!)
メキリ、と。
鋼は、自分の氷殻の背面を、黒の拳でクラッチング/鷲づかみにした。傷口を自らの指で抉るようなその所業で、氷殻が白裂化した。構わない、脱出経路はたった一つ。
正面突破。
振り抜かれた拳眼の隙間を縫って、まるで先刻の燎の『クワガタ撃ち』の意趣返しとばかりに、鋼の氷殻が突進した。
鷲づかみにした、『拳』そのものを推進力にして。
不恰好な飛空の夢だったが、しかし、
それが返す刀のキスショットになった。
双球がこの第4ラウンド何度目になるのか分からない真向衝突を引き起こし、互いに弾かれ、二手に分かれた。鋼の氷殻は手近なビルの屋上にめり込み、燎はそのまま綺麗に吹っ飛ばされて、ニュートラル・ピラー近くまで流された。誰もが動揺するしかないような、この状況で燎は驚くべき時間の使い方をした。彼の頭脳は天才的な飛躍を見せて、急制動の逆スプレイをかけるまでに、これから展開されるであろう試合の光景を予見した。まず、黒鉄鋼のスプレイが死んだことを誰よりも早く知覚した。エアロキネシスを発動すれば必ず確認できる風の粒子が消えている。つまりヤツは手持ちの拳を使って擬似スプレイをかけてきただけだ。そのおかげで、キスショットになりこそしたが、さしてダメージは受けていない。不調の黒ではこちらの真芯を撃つ軌跡を取れなかったのだ。この時点で、ほぼ自分側の勝利が確定したと見ていい。
問題は、近づいて殺すか、遠くから殺すかだけだった。
それもすぐに答えは出た。動けない相手にどうしてわざわざ近づく必要がある? 見栄えのいい完全決着など必要ない。
確実に殺す。
もう誰にも、餓鬼扱いなぞさせはしない。
燎は血走った眼を光らせながら、逆スプレイをかけて氷殻の制御を取り戻し、ニュートラル・ピラーの巨大な影の中に埋もれながら、その眼光を一点集中で身動き出来なくなっている一五〇メートル先の黒鉄鋼に突き刺した。ぺろりと唇を舐めて、勝利の味を楽しみながら、燎は思った。
標本にしてやる、それも最高の炎の槍で。
虚空に充填された拳眼を、再び四つの拳に分けた。W2B2。黒を一つ気休めのガードに割いて、残った三つの白と黒でフレイムチャージをかければそれで終わりだ。風を亡くした男を相手に攻め気の姿勢など必要なかった。燎は猛獣のように笑った。
かつて。
ありとあらゆる絶望を世界にバラ撒いた伝説のパンドラの箱の底には、最後に一つだけ『希望』が残されていたと言われる。
しかし、その『希望』がどんな災厄をもたらすのかは、語り残されていない。
だからここにあえて記そう、それは、
――『盲目』という名の災厄だと。
燎の眼は曇っていた。どこかで視界の中には入っていたはずだ。だが、真剣勝負のハイ・プレッシャーが彼の眼を曇らせた。いや、正確にはその奥にある『希望』の炎が、あまりにも眩しく燎の眼を焼いていたのだ。だから燎は決定的瞬間まで気づけなかった。
黒鉄鋼が、『ノーガード』であることに。
まさか、ビルの屋上に一粒の氷殻だけを纏ったきりにしているはずがなかった。周囲の黒煙と爆炎を上げ続けているビル群のどこかに三つの拳を、少なくとも一つは本体回収用として接近した位置にマウントされているはずだった。それが合理的な戦闘というものだが、しかし、鋼はそんなものは前からクソだと思っていた。合理的であることと実戦的であることは違う。だから、たとえ危険を孕もうと、ギリギリまで効果的な一撃にヤツは拘った。その結果、とあるパンチを解き放った。
現役時代に何百回も、何千回も、何万回もストライキング・ミットに叩き込んだそのパンチを――
狙うは、一八〇メートル前方にある、天城燎の背後に位置するニュートラル・ピラー。転送座標として使用されるその巨大な建造物は、射程限界を逆手に取った『右』と『右』と『右』のトリプル・フックをまとめて三段側面に撃ち込まれ、
天城燎の氷殻を巻き込みながら、
完全に崩壊した。
「――――ッ!!」
獣色の雪崩に飲み込まれた燎は、粉塵と轟音によって一時的に戦場の情報から隔絶された。
この瞬間こそ、全てのラウンドの運命を変える、まさに決定的な瞬間だった。この期を逃しては次は無かった。やるしかなかった。
最初は希望によって、そして今は粉塵によって、盲目にされた天城燎の眼が理解の色を取り戻す前に、どうしても撃たなければならない一撃が黒鉄鋼にはあった。
鷲づかみにはせず、足方向から氷殻を黒でふわりと持ち上げて、スパイラル・モニュメントの頂点まで黒鉄鋼は上昇した。何もかもがジオラマ臭く視えるその高みで、鋼は自分の氷殻をセットした。脳裏によぎるは、即席のシールド。あのピッタリ氷殻がハマったくぼみ。
銃身に弾丸が装填されるように、螺旋の果てに、黒鉄鋼は『己自身』を詰め込んだ。平蜘蛛のように這い蹲り、左手一本で身体を構え、じっと視線を真赤な金属に降らせている。
思う。
予感だけは、第4ラウンドの初めからしていた。
――エレキが撃てるんじゃないか、と。
期待したくなるようなその希望があったからこそ、最終決戦のダメージにも鋼は耐えられた。黒の拳から紫電が瞬く度に、破れかぶれの一発逆転を狙いたくなった。
それにも、耐えた。
全ては、この瞬間のため。
ルイは、無理だと言った。アイスピースをダブルショットしたところで、エレキも撃てなければ攻撃力も上がらないと。
だがそれは、間違いかもしれない。
誰に分かることでもきっとないのだ。
ちっぽけな人間の頭脳の中の、たった二十ナノメートルしかない神経の連鎖の奥で、本当に何が起こっているのかなんて、誰に視ることが出来るものか。
涼虎は言った。
もう一度、リングにあげてくれると。
それは、黒鉄鋼には不可能だと診断された言葉だった。
その不可能が、すでに崩れ去ったのだ。
ならば、どんな種類の不可能だろうと徹底的に調べ上げ、ボコボコにし、かすかな可能性の穴を空けてそれを押し広げてやればいい。元々、このあまりにも途方もない実験は、それを趣旨としていたのではないのか。
そう思えば、俄然やる気が湧いてくる。
一発。
一発だ。
一発でいい。
たった一発の奇跡/エレキさえあれば、俺はあの男を倒してみせる。何があろうと、どんな条件だろうと関係ない。たった一発――それでひっくり返してこそ、それこそが、それだけが、
ボクシングの、醍醐味。
撃てば、ただでは済まないだろう。
それでも――
鋼は、生唾を飲み込んだ。
ゴクリ、と。
その唾が、三分前にアイスピースの溶液が通った経路を辿って、鋼の食道を流れ落ちた。その風が吹き込む臓器の中は、まだ猛毒の気配を残したままだった。
ピースメイカーならば誰でも知っている。
アイスピースは『塗り薬』である、と。
これが、この猛毒が効き目の薄い経口投与で使用されている最大の理由だった。通常の風邪薬などは、口から飲み込んで胃を通り、肝臓や小腸で薬の一部が分解されてしまうため、効力も弱く、また効き始めるのに時間もかかる。その時間、おおよそ三十分から六十分。どう頑張っても連続して服用するブラックボクシングには間に合わない。かといって、静脈注射によるアイスの投与では被験者のブラックボックスを最初にノックする『味』を与えることが出来ない。舌先に残留したその反射反応からキスで逆算試算し、ミストを作ることも困難になる。ゆえに、どうしても経口投与で静脈注射と同じ薬効を得る必要があった。
それを解決したのは、世界で最初のピースメイカーだった。
彼は、ショートカットした。
『食道に触れた瞬間に、薄いカーテンをすり抜ける霧のように薬を浸透させ、肝臓も小腸も血管も無視して脳へと続く脊髄に達してしまえばいい』
そう言った。
そしてそれを実現した。
アイスピースは喉の奥の奥に塗りたくる薬であり、そしてその内容物である神経伝達物質の紛い物は、肉体を邪魔な人海のように掻き分けて、その向こうの脊髄に執り憑き汚染し一直線に頭脳へと、そして運動性言語野のブローカ野、感覚性言語野のウェルニッケ野を含み繋ぐ一帯のブラックボクシング領域を占める『ミラーニューロン』へと辿り着く。
薬とは、嘘つき物質である。
自分は本物だ、と偽って、細胞にある受容体(レセプター)の差し出した手を握る。がっしりと握り締め、その細胞を作用させる。そういう薬物を『アゴニスト』と言う。ドーパミンアゴニスト、セロトニンアゴニスト……本物の名を冠される宿命にあるそれ/It。
そして、アイスピースに含有されるアゴニストは、『ライトニング・アゴニスト』と呼ばれている。
『鏡』を騙すからである。
ミラーニューロンの受容体に嘘をつき、アシッド顔負けの幻覚を見せ、囁く。
これは現実だ、と。
オマエがこれまで映してきたものこそ『偽物』なのだと。夢物語の方が硬く重たく封印され続けてきた『真実』なのだと。もう遠慮することはない、我慢することもない。だからこれから仲良くやろうぜ、俺とオマエで一緒に――
鏡を騙す光の悪魔は、そう囁く。
そしてミラーニューロンの、モノマネ細胞の奥で氷漬けにされていた重く冷たい扉が分厚い音を響かせながら開かれる。イオンチャンネルと呼ばれるその扉が開け放たれ、夢のインパルスが脳という原野を疾焼し拡散し展開する。受容体と手を組んでいる相手がイカサマ師であるとも気づかずに。
だが、この受容体こそが『七発目のエレキキネシス』を撃てない最大の原因だった。受容体には限りがある。カモがいなければ稼ぎを得られぬ賭博者のように、投与されたアイスピースも受容体がなければ作用を働かせることが出来ない。正式な研究成果はまだ挙げられていない、だからここでは氷坂美雷の未だ誰にも打ち明けられていない推論を真実として採る。
『人間の脳には、七発目のエレキキネシスを撃つ受容体がそもそも足りていない』
これが、彼女が六発しか撃てないアイスピースを愛する宿敵に叩きつけた理由だ。
ならば。
『アイスピースに騙されてくれる受容体を増やすことが出来れば、理論上はいくらでもエレキを撃つことが出来る』
――とも言える。
キーワードは、『自己触媒機能』。
自己触媒では、結果そのものが過程の促進をさらに早めるプラスのフィードバックとして作用する。
ミラーニューロンを、特に『黒の拳』を扱う受容体を増加させるにはどうすればいいのか。
筋肉ならどうだろう。
欲しければ鍛えるだろう。
何度も何度も使うだろう。
諦めることも嘆くこともせず。
使い続ければ、筋肉は応えてくれる。
強くなる。
それと同じだ。
歴とした神経学における一つの現象。
受容体が神経細胞の環境状況に応じてその数を増やすことを、こう呼ぶ。
『アップ・レギュレーション』。
それが、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
嘆きも諦めもせずに『不調の黒』を使い続けた黒鉄鋼にしか撃てない、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
七発目のサンダーボルト・ライトの正体だった。
増加した受容体をキックするには、それを充分に補うアイスピースの過剰投与が不可欠だった。たったひとつのアイスでは、溢れた受容体と繋ぐ手が足りなかった。どうしても《ゴールド・ブラッド》の『ダブルショット』が必要だった。
そして、奇跡はいま、手元にある。
撃てば死ぬかもしれない。
そんなことは分かっていた。
止まらない鼻血が、拍動を強打する心臓が、振戦し続ける左手が、それを教えてくれていた。
それらを全てガッツで捻じ伏せ、
磨り潰し、
押し殺す。
それでも消えない。無くならない。
そこから先は、覚悟で埋める。
視界の先に破壊から生まれた積乱雲が渦を巻いていた。その中に、天城燎がいる。相手の姿は見えない、だが、スプレイのせいで渦の巻き方に癖があった。
一秒の死闘は、平穏な十年に匹敵する。
これまでのラウンド全てを意識的・無意識的にそこに焼きつけてきた黒鉄鋼の両眼が、判断していた。天城燎がどこにいるかを。
不可能ではない。
飛んでいる虫を掴み取れるなら、
穴が空くようなジャブを蜂のように撃てるなら、
出来る。
ボクサーなら、それが出来る。
そして、黒鉄鋼はボクサーだった。
今でも。
――あなたはこれから世界(うえ)を狙う人だ。こんなところで死なせはしません。
そうだ。
黒鉄鋼はボクサーだ。
だから、許すことが出来ない。
許すことだけが、どうしても出来ない。
――必ず。
――必ず、世界を獲って下さいね。
氷殻の背面に設置した黒に、ぐっと力を込める。幻想の筋肉に架空の異能が流れ込む。溢れ出した紫電の熱さを眼球の奥で感じながら、過透明な氷殻の向こうにいる男について、考えた。
お前は、右腕の仇だ。
お前は、八洲の仇だ。
そして、何よりも、
お前は、人殺しだ。
あの日、死んだのは俺の右腕だけじゃない。
お前は、あの人を殺したんだ。
忘れてないよな? 少年A。
お前は、あの日、人を殺したんだ。
俺のファンだと言った人間を。
本当に、
自分の身内を殺されて、よくも今まで、
黙っていられたものだと思うよ、この俺が。
だから、負けられない。
負けられないんだ。
絶対に。
ああ、そうだ。
見てるか、八洲。
病室の、備え付けのモニターは、俺の姿を映しているか?
ぼぉっとして見逃すなよ。
今から見せてやる。
俺が編み出した、最速のキスショットを。
氷殻の推進力を、拳に重ねて雷撃までも加算する。
アイスとエレキの合わせ技――第3ラウンドの別解答。
お前はバカだと笑うだろう、このスタイルこそ、愚者/オレの一撃。
彗星落し。
――照準は、目標点からほんの少し左下に。
まともに狙って当たるなどともはや信じることはできない、着弾点観測/スパーリングは充分済ました。
イヤになるほど。
この一発だけは必ず当てる。
俺の身体にまとわりついた、期待という名のベルトに懸けて。
――今度は、外さない。
そして。
五月蝿いほどに発火した金色の羽虫が、拡散するのをやめて収束する。稲妻の触媒と化した黒の拳が呼吸するように膨れ上がる。氷殻に添えていた掌を撓め、過冷却されたそれに五指を突き刺した。甲高い破砕音が鳴り響き、視界が巨大な白亀に染まった。左のテンプルで悪魔が囁く。
撃て。
電光石火、
黒鉄鋼のキスショットが、天城燎の氷殻を直撃した。
真っ赤な風が吹いている。
朦朧とした意識の中で、横殴りの熱波が皮膚をチリチリと焦がす感触を味わう。左手で焼けた産毛と肌に触れようとして、光に撃たれたような激痛が身体の一部を貫いた。顔を無造作に引っ張られたように烈しく歪めて、戦慄し続ける左手を、おそるおそる、痛む右の脇腹に添えてみて、鋼は初めて気がついた。
自分の腹から一本の鉄の棒が生えていることに。
――なんだこれ。
奇妙な冷静さがあった。他人事のように、貫かれた腹部を見下ろしていた。滲んだ銀色の金属を赤黒い鮮血が流れ落ちていく。じわじわと現実感が増殖し、風の唸る音が身体に直に響いた。……身体に? 直に?
氷殻が、消滅している。
手持ちの黒は、全て消し飛んでいた。
剥き出しの生身のまま、黒鉄鋼は無人の都市のストリートに跪いていた。アスファルトは砕け、割れ、隆起しては陥没して四方八方に真っ黒なクレーターが出来ていた。鋼のぼうっとした視線がそれらをひとつずつ見送っていく。パイロキネシスの猛火に襲われたビル群はほとんどが瓦礫と化し、復元建材は粉々に砕け散り、含有する鉄とマグネシウムを高熱に焼かれて黒ずんでいた。死にかけた炎に取り囲まれた黒い砂漠に浮かぶ、岩盤のようなアスファルトの断片。そこに鋼は両膝を突いていた。そして迷子のように頼りなく揺れる視線が、一柱の傾いたビルで止まった。
そのビルには亀裂が入っていた。よく見ればそれは小さな穴で、出来たばかりらしくまだその周辺から瓦礫の粒が零れ落ちていた。何かがあのビルを貫いたのだ。何が?
自分が。
空論に溺れる賢者のように鋼は、最後の力でなけなしのブドウ糖を脳髄にくれてやることに決めた。燃費の悪い思考が一段飛ばしで加速していく。……あの穴を開けたのはたぶん自分だ。だが、アイスキネシスを展開したままでは、あのビルの穴はもっと巨大になっていたはずだ。つまり自分はアイスを分解して、あのビルに突っ込んだのだ。恐らくは、……直前に自分が何をしていたのか思い出せないが、相当のダメージを受けていて、アイスを纏ったまま激突すれば、クラッシュすると判断したのだろう。アイスがクラッシュすれば、負ける。負ける……
……傷口が燃えるように痛んだ。
なぜ、あんなビルに突っ込む羽目になったのか。ス……イは? ああ、そうか、駄目だ思い出せない。飛行能力は失われていた。かわせない。いや、それなら何故、俺は空中にいたんだ。
キスショット。
そうだ、と鋼は思った。俺はキスショットをしたんだ。そしてそれは成功した。キスショットの衝撃でぶつかり合った双球が二つに分かれ、自分はビルへと激突するコースに乗った。そして咄嗟にアイスを分解した。生身でビルに突っ込み、そして鉄パイプを一本腹に引っ掛けながらも、地面に再び戻ってくることが出来た。そういうことらしい。
だが、どうして……
俺がキスショットをすると決めたなら、それは最後の一撃だったはずだ。相手に直撃したなら実験は終わっていなければならない。だが、俺は回収されずにいる。……段々思い出してきた。エレキとアイスの合わせ技。最終最後の全力疾走/ギャロップを俺はかけたのだ。アレが当たったのなら、決着はついているはずだ。アレは俺の、俺にしか撃てない『魔法のパンチ』だった。
打ち鳴らされた銅鑼の余韻のような、低く重苦しく掠れた声が口から漏れた。言葉など出てこなかった。鋼は顔を伏せた。自分がここにいること。その最終結論はひとつしかなかった。
出力が、足りなかったのだ。
確かに七発目のエレキキネシスをトリガーすることは出来た。でなければ飛べなくなった自分にキスショットが撃てるわけがない。だが、それはあくまで引鉄が落ちた程度の衝撃しかもたらさなかったのだ。オリジナルに比べれば数万分の一スケールの、稲妻のレプリカ。それを推進力に据えた氷殻の突撃は、おそらく、通常のキスショットと同威力にしかならなかった。
老いさらばえた光速の、末路は惨めの一語に尽きた。
失敗(しくじ)った。
最後の最後で。いや、他に打つ手があったとは思えない。ああするしかなかった。言い訳ではないが、他にもっと上手いやり方があったというなら教えて欲しかった。誰に? 分からない。分かりたくもない。
沸騰した脳髄の衝動に任せて、腹部から鉄パイプを容赦なく引き抜いた。ぶしゅっ、と小気味いい音がして、ボタボタと重たい血が泡立ちながらアスファルトに零れ落ち、抜いたパイプには臓物の欠片がへばりついていた。それを一瞥して、屑のように投げ捨てた。乾いた音が鳴った。腹から流れ出した真紅の泥を鋼は左手ですくった。燃えるように熱い。まるで溶鉱炉から溢れ出した溶岩だ。それがべったりと左手を赤く包んだ。だが、そんなことはどうでもよかった。
鋼の眼が、刺すような光を放っていた。
その先に、満身創痍の敵が在る。
息切れするかのような断続的なホバースプレイ。白裂化したまま表面積の半分も元に戻らなくなった氷殻装甲/アイスキネシス。残った白と黒の四拳はだらりと力なく凍球のそばに垂れ下がり、指先を極限まで弛緩させている。
天城燎は、肩で息をしながら、それでも尊大に灼熱の地獄を睥睨していた。隈の浮き上がった顔の奥で、言葉が燃えている。
どうだ?
俺は、凌いだぞ。
これからどうする?
黒鉄鋼。
笑うしかなかった。
ここまで来て、続行とは。
つくづく噛み合わせの悪い相手だ。
諦めたように、それでいてどこか嬉しそうに、鋼は左手を腰に回した。西部劇のガンマンのように。攻撃するために。もはや雷撃も氷撃も風撃も炎撃も掌からつれなく滑り落ちた。残っているのは、拳撃だけ。
だが、それすらも希望的観測に過ぎなかった。
獰猛な真実だけが、左手の指先に纏わりついた。
ゾッとした。
さすがに冗談だと思った。
冷や汗を垂らしながら、重力に逆らえなくなったように、眼球を下方へ回す。焦点の合わない瞳が、揺れながら絶望のスナップショットを撮った。
ベルトに引っ掛けてあるはずの、グローブホルダーが無かった。
それも左右両方。
……答えは、すでに分かっている。
だが、どうしても認めたくなかった。
あるわけがない、あっていいはずがない、そんな理不尽な負け方は。
そんなくだらない、決着は。
だが、現実は変わらなかった。
アイスを分解して生身でビルに直撃すれば、無料(ただ)では済まない。衝撃は全身を隈なく打ちのめすだろうし、それは鋼だけでなく付随するパーツにも及んでしかるべきだ。
たとえば、グローブホルダーのフックが外れてしまうとか。
しかも、両方。
血まみれでなければ左手で顔を押さえていたところだ。
再び沸騰しかけた脳髄が、しかし、沸点に辿り着く前に鎮まった。
ぺたん、とアスファルトに捺した赤い左手に篭っていた力を、抜く。半ば自棄気味に視線を流して、虚空に氷の壁を再展開しようと神経を集中させたが、結果は虚しかった。
呼吸を整え、
鋼は考える。
八洲は、
八洲は、あとどれくらいで再起できるだろうか、と。
一ヶ月? 二ヶ月? それとも半年?
いずれにせよ、充分だろう。
……この実験の映像を見て、天城燎の『対策』を練るには。
もし八洲がこの闘いから、ほんの少しでいい、勝利に繋がる何かを探し出してくれたのなら。
いよいよ訪れた俺の犬死にも、きっと少しは意味があったのだ。
それでいい。
――なるほど。
これが『死ぬ』ということか。
どんなものかと思ってみれば、これが俺たちがギリギリ一杯まで眼を逸らしてきたものの正体か。
恐ろしいというより、嫌な気分だった。
べたべたして気持ち悪い、泥まみれのまどろみだ。
黒天の下で、天城燎の氷殻が雷光と紅焔の輝きから気まぐれな乱反射を繰り返している、それを無力なまま見上げて、鋼は笑った。
それは、死者のように硬直した、象牙色の微笑/アイボリーグリン。
『次』は、こうはいかない。
お前がお前である限り、いつか誰かがお前を倒す。
この世界は、そういう風にできている。
天城燎は、第4ラウンドの初めに断行された、黒鉄鋼の《ゴールドブラッド》のダブルショットに気がついていなかった。つまり、この段階――生身の鋼と氷殻の燎が睨み合っているこの状況――で、まだ『第5ラウンド』があると思っていた。しかしそれでも、何の確証などなくとも、警戒していたし、恐れてもいた。
黒鉄鋼の『七発目のエレキキネシス』を。
皮肉な話だった。鋼の彗星落しは、そのあまりの威力の無さから、『ただのキスショット』として燎に認識されていた。本来は推進力として追加補填されるはずだったスプレイ・フルブラストが完全に欠損していたのも痛い。粉塵の巨雲の中で、燎にエレキキネシスの稲光は届かず、氷殻に炸裂した衝撃はせいぜい風の代わりに拳を推進力にしたあのキスショット――その角度を少々気を利かした方向から放った程度。そのため燎は、黒鉄鋼がすでに七発目を撃ったことを知らない。ゆえに、恐れる。
可笑しなことに、この時点で両者とも、ここで白か黒かを着けなければ危ういのは自分だと思っていたことになる。
燎は、すぐには攻めなかった。
眼下の黒鉄鋼は、腹腔から血を流し、グローブホルダーを失い、アイスキネシスも構築せず、空手で跪いている。すでにシフトカウントもゼロで緊急離脱することもできない。スプレイダッシュも使用不能になっていることは確認済み。
それでも、全てが巧妙なブラフでないとは言い切れない。
この一瞬のために――膨大な布石の果てに積み上げたこの土壇場で、あの男が決して切り返して来ないと誰に言い切れる? こちらに白は二つ残っている、それでパイロの雨を降らせてやれば、もし本当に黒鉄鋼がすでに戦闘不能なのだとしたら、……ケリが着く。今度は右腕だけでなく、黒鉄鋼に残された四体(したい)はまとめて爆裂四散するだろう。
だが、もし氷殻はいまだ健在で、スプレイダッシュさえ使えるとしたら? 爆煙に乗じてこちらの不意を――分かっていても突かれてしまう不意を――狙って、最後のキスショットを仕掛けられれば、今度こそ燎のアイスは耐え切れず倒れるようにクラッシュアウトするだろう。いや、それだけで済めばまだ僥倖だ。
キスショットなどかなぐり捨てて、粉塵に紛れ、あのサンダーボルトを捻じ込まれでもしたら、きっとブレインの鈍磨な強制転送など間に合わない。アイスを砕かれ、その衝撃で脳神経を末端まで焼か焦がされ、天城燎の肉体は粉々に吹っ飛ぶだろう。
燎は、動けなかった。
この状況、
甘く動けば、必死の泥沼になりかねない。
視線で威圧し、少しでも時間を稼ぐしかなかった。
攻め手に移れるだけの自信をかき集めるだけの時間と思考が必要だった。
燎の深々とした視野が冥府の底のような無人の都市を飲み込む。もし、サンダーボルトを撃ってくるなら、空手のままでは不可能だ。手袋を隠し持っているという線は薄い。なぜなら、恐らくグローブホルダーを失ったのは偶発的な事故だからだ。鋼が貫通した傾いだビルの七階の床、まるで捧げられたように、燎から丁度見える位置に鋼が紛失した二個のグローブホルダーが打ち捨てられ、フックされた黒の手袋を花のように散らしていた。燎は容赦なくパイロのジャブを二連射してそのビルを轟音と共に爆砕した。影のように静まり返った黒鉄鋼が、それを見ている気配がした。
これで全てのグローブは焼き尽くされた。
残る可能性は、グローブホルダーの紛失などとは無関係に、あらかじめ黒鉄鋼が野戦ズボンのポケットに非常用のグローブを隠し持っていた場合だが、その真偽の簡単な確かめ方がひとつある。これだ。
燎は、自分の黒に向かってパイロを撃った。
爆裂。
粉々になった黒が風に舞って散っていく。これで燎には黒をひとつ再充填できるストックが出来たことになる。そして、その枠を使ってハンドキネシスの波動を、鋼の左ポケットに集中して解き放った。氷殻を喪失する隠されたデメリットのひとつだ。相手のハンドキネシスが、アイスキネシスによる精神波堤に防がれず、自身のグローブホルダーにフックされている手袋に距離次第ではかかってしまう。そしてこれは、届く距離だった。
黒鉄鋼のポケットは、膨らまなかった。
燎は注意深く、その周囲にも、風の悪戯で流れ飛んできた手袋が埋もれていないかどうかハンドキネシスをかけて精査した。よく眼を凝らした。見逃したでは済まされない、目視することは必須ではないが、ある程度の『確信』を注ぎ込まなければ、手袋は充填されない。そして燎は判定を下した。
無い。
黒鉄鋼は、手袋を所持していない。
サンダーボルトが撃てるとしても、出来るのは同一カウント消費のシフトキネシスまで。あの死に体の男がたかが九〇メートル移動したところで、燎は高空から一八〇メートル範囲のフレイムチャージで全てを一層焦土らしくしてやるだけだ。生身の身体で凌ぎ切れるほど天城燎の焔(ひだり)はぬるくない。たとえ氷殻を再展開できたとしても、依然として優位はこちらだ。
問題ない。
攻めていい。
攻めていいのだ。
あとは、必要なのは、そう、本当に、
勇気だけ――
最終最後の攻撃手段は、もう心に留めてある。
キスショットだ。
黒鉄鋼が何をして来ようとも、その全てを覚悟して、キスショットを叩き込む。パイロによる爆煙の充満を極限まで嫌った結論。眼は逸らさない、最後まで標的を見据え続ける。恐らく何らかのダメージは受けるだろう、だがそれを覚悟できないようでは黒鉄鋼は倒せない。肉を切らせる程度ではまだ足りない、骨を砕かせ鋼鉄の魂を撃破する。それこそが、この膠着状態を突破して、第4ラウンドを最終回にする最強の一手。
そうとも。
美雷なら、きっとここで――
その時だった。
『マスター』
燎のブレインが思念波を飛ばしてきた。燎の心臓が跳ねた。
そして、ただ次の思念を待った。
『美雷様からの、メッセージです』
凄い奴だと思う。
ここ以外にない、という絶好のタイミングだった。そうだ、その通りだ。
天城燎が氷坂美雷の言葉を死ぬほど欲していたのは、この瞬間を除いて他になかった。
燎は祈った。
頼む。
キスショットだと言ってくれ。
俺は正しいと言ってくれ――
その願いは、通じた。
『スタイル・キスショット』
その言葉一枚で、快感物質が燎の頭蓋を紫色に染め上げた。全ての恐怖と焦燥が融解して消滅した。拳のように硬く重たい視線が、歪むことなく光の経路を辿って、揺るぎなく、黒鉄鋼へと接続した。燎は笑う、心の底から。
俺は油断しない。少しも安心などしない。
捨身で闘い続けてきたお前は、きっと指一本でも動く限り抵抗するのだろうから。
だから、甘んじてその最後の一撃を受けようと思う。
それを凌いで、耐え切って、今度こそ、この長かった二人だけの戦争に終止符を打ってやる。
燎は軽くアッパースプレイをかけて上昇した。眼下の、豆粒のような黒鉄鋼の首がわずかに動いた。
これが最後だ。
俺のアイスは砕けない。
砕けるものか。
咆哮搏撃、
燎は最後のスプレイダッシュをかける前に、右手でホルダーから手袋を一枚千切り取った。当たり前のようにそれを背後に放り捨てる。今まさにスプレイダッシュをフルブラストするという一瞬――念のためだと言わんばかりの、黒の充填のモーション。
それこそがトラップ。
黒鉄鋼が何を考えていようと、エレキがあろうと無かろうと、黒が欲しいのは変化しない条件だ。
ならば、いっそくれてやればいい。
充填せずに黒の手袋を背後に打ち捨てておく。自殺行為のような、敵に塩を送る行為、しかしそれこそが最後の布石。
黒鉄鋼が何を思案していようと、この虚空に漂流する空(から)の手袋を見れば、絶対に全てのプランをかなぐり捨てて充填させるはずだ。そしてその時に気づくのだ。
拳と燎を結ぶ射線の果てに自分の身体があることを。
エレキを撃てようが撃てまいが、撃とうが撃つまいが、その一瞬、どう足掻こうとも黒鉄鋼の行動は完全に停止する。思考も回転せずに凍結する。その時にはもう遅い。破れかぶれの反撃が出来ようが出来まいが、あらゆる全てに先んじてこの俺のキスショットが奴の身体を木端微塵に破壊する。
結局は、勝負というものは、
バカみたいに強い奴が、
バカみたいに押して、
バカみたいに勝つ。
それだけのこと。
だから、
勝つのは俺だ、この一発を耐え切って、その向こう、見えているぜ――
――俺の勝利と栄光が!!
氷坂美雷は、椅子にじっと座っていることが出来ない。こればかりはどう頑張っても直せなかった。両膝を揃えて両拳をきちんとその上に揃えておく。そんな簡単なことが、この天才には最後まで出来なかった。だから、この史上最大の戦闘実験が終結を迎えようとしている今も、痛むように左足を突っ張り、右足は駄々っ子のように転送座の縁(へり)に押しつけ、右手でかばうように自身の白衣とその身体を抱き、そして左手を左目の前で蜘蛛の巣にして張り巡らせていた。その奥で呼吸する紅焔のように明滅する眼が、一瞬たりとも逸らされずにプラズマディスプレイを見上げていた。
身動きが出来ない。
呼吸することさえ怖かった。
いまにも、理不尽な何かが、逆らいがたい大きな力が、理解できない理屈で持って、美雷が積み重ねてきた全てを暴風のように吹っ飛ばしてしまうような、そんな気がしていた。毛穴からは汗が滲んで湿っぽく、左胸の奥で心臓が泣き叫んでいる。その全てがこう言っていた。早く決着とやらをつけて、この『ストレス』から自分を解放してくれと。お願いだと。後生だと。
黙ってろ、肉体(ボディ)。
お前なんかに、この一瞬の重さも価値も分かってたまるか。
黒鉄鋼だ。
あの黒鉄鋼と、いま自分は闘っているのだ。
全てが終わるまで、誰にも口出しなどさせはしない。たとえそれが自分自身の悲鳴だろうと――関係ない。踏み潰す。
最後の指示は出した。恐らくその必要はなかったが、せめて自分の意思がプラセボ偽薬になるならと。
手駒はいい。よく動く。
このままいけば、倒すだろう。
天城燎――予想以上の掘り出し物だったことは認める。純粋な学者の眼から見れば、黒鉄鋼とは比較にならない喉から手が出る天然素材。EPSDになることはなく、そこにこの格闘性能が積み重なれば、理想的と言っていいブラックボクサーだった。
おかげでイカサマも容易く出来た。
美雷は右手の指先をじゃれつかせて、手中のアイスピースを弄ぶ。
後々になって効果が増してくるから遅効性、と言えば、まァそうだろう。だが、あえてこう言いたい。
これは恒常性のあるアイスピースだ、と。
一度服用すれば、常にブラックボックスがノックされた状態で『固定』されるアイスピース――それはまだまだ研究段階、今のところ致死率絶対(デッドエンド)の欠陥品。効果も薄く、正規のピースの百分の二しかブラックボックスが励起しない。不老不死を得るために水銀を飲んで死ぬような連中以外は眼もくれない、だがそれこそ、そういう危険な薬こそ、決してESPDにならない素材に服用させたい代物だった。だからわざわざ大勢の人間がいるところに放り込めば絶対に揉め事を起こす人間にアイスピースを『お守り』などと飾り立ててくれてやったのだ。そして燎は案の定、あのパーティ会場でアイスを使って七研のブラックボクサーを再起不能同然にした。
あれから、天城燎のブラックボックス野は覚醒したまま、眠っていない。
そして彼は砂糖一粒ほどもそれを負担にしていない。通常人ならすでに死んでいる。
この恒常性のあるアイスピースを服用した天城燎は、正規のアイスピースを併用して、その異能のポテンシャルを2%ほど向上させた。
2%
たったそれだけのわずかな駄目押しがなければ、もっと簡単にこの実験は黒鉄鋼の勝利で終了していたかもしれない。攻防極まったシーンはいくつもあった。あの徹底的なまでの攻撃性から導き出される戦闘スタイルに美雷のボクサーは何度も何度も苦しめられた。第1ラウンドでエレキカウントを愛しまずに見せつけられたサンダーボルト・ライトで意気地を挫かれ、ビルの森へ叩き落として圧迫をかけても捨身のサイクロン・ストレートにシフトをかけて逃げられ、それどころか舌の根も乾かぬ内にサンダーボルトをダブルで消費して一撃必殺を決めにきた。たぶん神経がどうかしている。高空から火炙りにして地上へ追い込み、シフトの位置を読んで白を三つまとめて殺しても、あの男は闘うことをやめなかった。ギリギリまで追い詰めたはずだった。W0B3という絶望的な姿勢になってもあの男は考えるのをやめず、抗うことをやめず、拳を振り回し続けた。だから第3ラウンドの結末で、『黄金の炎(ノヴァ)』を直撃させた瞬間は絶対の勝利を確信した。しない奴はいないと思う。殺したはずだった。
それでもあの男は、第4ラウンドにやってきた。
撃てるかどうかも分からない、七発目の輝きを過信して。
氷坂美雷は、遠い記憶を思い出すかのように、双眸を霞めた。
――本当に。
本当に強い男だった。
黒鉄鋼。
ここまで、ここまでやって、ようやく追い詰めた。あの男が万全の体勢だったら、1ラウンドでこちらの負けだったはずだ。とてもESPD直後で半死半生の男には思えない。そういうところはあの頃とまったく変わらない――どれだけ減量しようとも、きっちり仕上げてリングに上がっていたあの頃と。
嫌味なくらいだ。
だからこそ――許しがたい。
右腕を失って、ボクサーとしての誇りを剥奪されて、それでもなお、あの男が呼吸をし続けていることがどうしても我慢ならない。理解できない。死なねばならない。絶対に。
偽物なんかに用はない。
美雷は思う。
他人を許す奴はいつか絶対に自分も許す。
拳で口に糊した男が、よくも。
よくも。
ずいぶん回り道をしたのは知ってる、だからこそ、これで終わりにしてやる。
無駄にはしない。
この経験は、必ずいつかの糧になり、氷坂美雷が『上』へいく、確かな縁(よすが)となるはずだ。絶対になる。ならなくてもそうする。必ず叶える。迷わずに、真っ直ぐに。
自分は、回り道などしない。
美雷は息を呑んだ。その眼にスプレイ・フルブラストをかける天城燎の影が映り込んでいる。
夢に追いつく。
恋焦がれるほど憧れたあの男に。
今が今じゃなくなる瞬間――もうあと少し、あの呪わしい、老いぼれた時の針がその手を軽く押すだけで、扉が開く。
真実の扉が。
その先にあるのは、美雷が焦がれた問いの答えだ。
黒鉄鋼は、あの男は、
まじりっけなしの黄金か?
それともただの紛い物か?
今に分かる。すぐ分かる。
いずれにせよ――――
壊れないのが不思議な密度で、美雷は自分の腕時計を見た。
あと十秒。
そして実際、
決着は、その十秒で片がついた。
チャンピオンの試合は、ノイローゼになるまで見た。
思えばあの頃が一番辛かった。具合はいつでも最悪で、ストレス性の胃腸炎にかかって下痢をくだしまくり、そのくせ減量はちっとも上手くいかず、スパーリングでパートナーに押され、右拳は残ったダメージでギクシャクと機械仕掛けのようにしか指が動かせなくなっていた。練習は厳しさを増していき、疲労がそれをあっという間に追い越して背中も見えなくなっていた。
まともに眠れた日なんてなかった。地獄というのは、こういう暮らしのことを言うんだと思った。
それでも、王者の試合のビデオは一日の終わりに必ず見た。
絶対に見た。
真っ暗な自分のアパートの部屋のなか、頭から毛布を被って、膝を抱え、青白い輝きとギリギリまで抑えられた音量を流し続けるテレビ画面をじっと見つめていた。テレビは二台あった。片方は王者の試合が、もう片方は自分の試合が再生されていた。どうせひどい空腹で眠れはしないのだが、これなら同じ時間で二つの試合が見れるのだ。とても効率的。だが、なぜか誰にも賛同してもらえないやり方だった。
右脳と左脳のように連結されたテレビ画面の中で、王者と挑戦者がそれぞれ別の試合をいつもやっていた。
それを見ながら、初めてボクシングをやった日のことをよく思い出した。
死ぬほど走ったし、壊れるほど殴ったし、意識が飛ぶほどぶん殴られた。
一ヶ月もしないうちにやめようと思った。
これほどまでに過酷な練習が待ち受けているとは、たかだか十五のガキには想像もできないことだった。
それは、人間の肉体を限界まで酷使する生き方だ。
眼を閉じるだけで瞼の裏に鮮明な悪夢が蘇った。早朝から鳥の声がしてはすぐに走り始め、その熱が冷めないうちにジムワークが始まる。殺気だった先輩たちの中に放り込まれ、ロープに埋め込まれるほど殴られ、気絶しては水をぶっかけられ、足を掴まれてリングから引きずり下ろされる。本物のボクサーは強いなんてものじゃなかった。光としか思えない速さで切れるパンチを連続して叩き込み、そこから相手がどう反応するか、それをどう沈没させるかを明晰な機械のように判断しながら相手を追い詰めていくボクサーは、よく出来た人形のように均衡のとれた『戦うフィギュア』だった。
眼を開けると、テレビの中にもそれが映っていた。
最高級の戦うフィギュア。
それが相手か自分かは、これから決まることだった。
衰弱し切った顔つきで、もうすぐ他人事じゃなくなる死闘を見るでもなくぼうっと眺めながら、いつも思っていた。
本当に倒せない相手なんだろうか、と。
誰もが、
誰もが、お前にはできないと言った。
お前と闘う王者は、国内四階級を制覇し、プロ戦績も五十戦を超え、この防衛戦が終わればいよいよ世界へと進撃する――そういう誰もが認めるチャンピオン。まだスタイルすら固まっていないお前のような新人に容易く崩せる男じゃない。せいぜい偉大な男の胸を借り、その減らず口を塞いでもらえ、そうすればお前の多すぎる災難も鳴りを潜めることだろう。
それで鳴りを潜めるのは、どう考えても自分の腕に思えた。
あまりにも鋭い王者は、いつでも見ることができる最強の悪夢は、いつも試合の前に胸の前で十字を切ってからリングに上がっていた。ロッキーもやったし、伝説的なJライト級の名チャンプもやっていた。それを見て、また思った。
俺は神様には祈らない。
あれからも、
いつも考えている、本当に、
本当に俺には無理なのか。
何もかも、出来もしないことなのか。
俺はあの頃から、何一つとして変わっていない、
だったら。
できるはずだ、できないとは言わせない。
勝てない奴にも勝たなきゃならない、なぜって、
それが、
唇がかさつく。流れた汗で眼が曇る。
身体が冷たい。喉はからから。
破れた鼓膜の向こうから、彼女の声が蘇る。
――なんで死んでくれなかったんですか?
なるほどな、
じゃあ何か。
あの時、死んでおけばよかったってか?
ふざけろ。
この程度で終わってたまるか。
そうだ、この程度で――
こんなところで。
前を向け。眼を開けろ。
雷鳴まであと少し、
黒鉄鋼と天城燎の、黒鉄鋼と氷坂美雷の、
そして、
黒鉄鋼と枕木涼虎の、
最後の十秒間だった。
鋼は、思い出す。
○
先輩に――鋼がプロライセンスを取る前に引退してしまったが、よく面倒を見てくれた先輩に、こんなことを言われたことがある。
バッティングはパンチだと思え。
そうすれば、ボクサーのカラダは自然と、拳だろうが頭突きだろうが、かわす動きをするんだと。
天城燎はすでに、最後の一撃のモーションに入っていた。
スプレイダッシュ・フルブラスト。
見上げながら、思う。額から流れた汗が鼻筋を伝う。
あのキスショットを、『パンチ』と見なせば。
あれを『パンチ』だと考えれば。
動けないボクサーにもできることが、一つだけある。
――クロスカウンター。
それは、相手のパンチに合わせて自分の拳を叩き込む最強のカウンターブロウ。
当たれば確実に相手を粉砕する。
そのためには、どうしても、
右拳が必要だった。
左じゃ駄目だ、左じゃ足りない。
可能性は、ある。最初から眼の前に。
だが、それは弾薬(ナックル)を名乗るには、あまりにも揺らぎ過ぎていた。どれほど神経を過集中させても、何度試しても、それを充填させることはできなかった。
時間があれば、脳を出し抜くこともできたかもしれない。
しかしもう、人生は煮詰まっていた。
左拳を握り締める。沸騰した思考を混ぜ繰り返す。
この架空の拳を満たすには、普通のやり方をしていては無理だ。この一撃を放つには、もう一度だけ、生きるか死ぬかのギャンブルをする必要がある。
なぜならそれは、上手くいくかどうかなんて、誰にも分からないのだから。
当たれば再起、
外せば。
鋼は笑った。
思えば、
こんなことばかりしてきた気がする。
涼虎は言った。
脳を、
脳を『ノック』する……
左拳をピクシスに固める。
恐怖はない。
全ては、自分が本物かどうかを決定づける試金石。
偽物なんかに用はなく、餓(かつ)えて欲するは、答えのみ。
果たしてどっちが強いのか。
その答えを探すため――
鋼は、呼吸を石ころ一つ分だけ吸い込むと、
自分の左拳を己が脳鉢に叩き込んだ。
一発で、脳震盪を起こした。
一発で脳震盪を起こした。
極値の振動が脳髄を駆け抜け、白みがかった神経細胞を黒過ぎる衝撃が塗り替えていく。現実を修正しようとするホワイトと空想を書き尽くそうとするブラックが形而の上で激突し、連結したシナプスの導火線が異能の感覚を起爆した。凍りついていた脳の不可侵領域が解凍されていき無限の空想が溢れ出す。透明な光の爆発が視覚野を埋め尽くし、玉虫色の星雲が一鎖り流れた。いつか黒鉄鋼と呼ばれていたことのある男は、それを掴もうと左手をありもしない場所へ向かって伸ばした。粉々になった見当識そのものを真紅の手形が掴もうとする。暴風のような睡魔に襲われるが、反逆しないわけがなかった。だが掌は光に触れることなく、その歪な模造品に届いただけだった。絶対零度を結晶化させたような切れのある冷たく透明な壁にぺたりと左手が当たった。そこには何もないはずだった、だが、確かに感じた。それがそこにあるのだと。
それが全てだった。
かつて黒鉄鋼と思われていた男は、ぐっと存在しない壁に掌を押しつけた。狂気に彩られた真紅の手形は異なる宇宙にしかない物質のように極立っていて、瞼のように赤く、ザラつき、濃やかで、起伏があった。神経に繋がったままの肉片のように、それは生命の鮮烈さを刻んでいた。赤く、赤く、赤い、そしてどこか透き通った黒さを綯い混ぜにしたそのシルエットは――
そもそも、手形に右手も左手もない。
それはただの勝手な決めつけ。名前をつけることによって潰された可能性の芽。
脳震盪を起こした人間には、それが分からない。
ただ手形だと思う、その純粋な視線こそが、
最終手段の攻撃行為。
真紅の手形から、ずるりと湿った音を残して、生身の手が抜き取られる。脱皮された抜け殻のようにそこに残された手形は、その向かおうとする指向性を逆方向へ転換させていた。
それはもはや左手ではなかった。
空隙は、満たされた。
拳を握る。
赤みがかった、その黒を。
現実色の水滴が眼球に注し込まれたように、視界が一気に晴れ渡る。コンマ二秒進むのに万物が力を貸さなくてはならないような濃密な時間の中で、取るべきモーションはボクシング・パンチ以外に存在しなかった。そして拳があるべき位置に収斂した瞬間、脳髄の中で第二の衝撃波が奔流した。呼吸が止まる、拍動が痛む、そして理解する。産まれた時には隠されていた、生命の箱の中の緑がかった潜在能力を。その全てを。
まず、外殻が創られた。拳を表にして下がった黒、その手首から吐息のように細かな白銀の粒子が零れ出し、何もかもを氷結させていく未知の溶岩のように肩鎖関節の傷痕へと逆流した。冷気が肩口から伝導し、それは痛覚に似ていたが、本番はこれからだった。腕の輪郭を取り戻した氷殻の中に、小さく細かく速く瞬く何かが生まれ始めていた。青白い怒りの破片のような何か、それは空想から変換された電漿(プラズマ)だった。電離されているものは何もなく、それでいて全てが電離されていた。イオンが焼ける甘い匂いが嗅覚神経そのものから発生して止まらなかった。
発狂が継続する。完全に透明なグリッドを共鳴加熱されて推進力を得た双振りの先駆雷(ステップトリーダ)が突き進み、二重に絡みつき巻き合いながら透明な容器に充満し、瞬雷の紋章で織り上げられた神経樹として、毀れて逆剥けた電子の骨としての役割を兼ねた。それらが『肘関節』に当たる部分で完全に融合した。氷殻から構成される、結晶化されたプラズマシェル・ブリットが一極眩く輝き唯一無二の太陽を転写する。あとは一直線だった。擬似神経を構成する光のシャワーが腕殻を乱反射しながら肩鎖関節を直撃した。七色の激痛が爆発し脆弱な神経を灼熱させ、有難い、おかげで腹部の貫通孔も鳴りを潜め、虹色の意識が完璧に覚醒した。今なら分かる。この腕が誰の腕かが。
氷に包まれた巨人の拳が落ちてくる、それを視ながら、測っていた。
すべてのパンチはリズムと振動。
その基本法則に変わりはない。
取り戻したものは、究極の正距離(アルトラ・レンクス)。
氷の檻に阻まれて、最後まで得られなかった本物の位置関係。
それが今、この手にある。
正直に言う。
腕が鳴る。
そして、
そして、自分の脳で測り取った運命の砂時計の残り時間がゼロに落ちた時、黒鉄鋼は、その一撃を放った。何もかも読み切って、何もかも賭け切って、全てのガッツを右足に注ぎ込む。倒れるような超低空姿勢でアスファルトから反発力を齧り取る。そしてある一瞬、特異の一点に拳の軌道がカチリと嵌め込まれた瞬間、直撃が確定した。
その姿は、ありし日の影。
不滅の王者の自慢の拳。
正真正銘、混じりっけなしの。
オープンガードから撃ち上げる、スリークウォーターのそのショートアッパーは、彼にこそ相応しい名前で呼ばれるべきだろう。
黄金の黒、と。
しかし。
ボクシングにラッキーパンチは存在しない。
ボクシングにラッキーパンチは存在しない。
あるとすれば、それはボクサーが積み重ねた練習の賜物。
それはパンチに限った話ではなく、ガードにも宿るのだ。
黄金の黒は、確かに天城燎のアイスに突き刺さった。
――積み重ねられた、三枚の拳越しに。
燎のW2B1全ての拳が、黒鉄鋼の拳を遮った。全ての拳を突き破った黄金の黒は、しかしそれでも燎の氷殻を砕けなかった。白裂化したアイスは撓壊しながらも、その外殻を守り抜き、根っこを撃ち上げられて弾き返された。粉々になりかけた白銀の視界の中で燎は思った。
読み切っていたわけじゃない。
ただ、脳(からだ)が自然と動いた。
二度と再現できないだろう、瞬間的な強ガード。
いずれにせよ、耐え切った。
全ての拳を失いながらも、勝負を続行させることが燎にはできた。
何を喰らったのか、どんなパンチだったのか少しも分からなかった。あまりにもそれは速すぎた。スピードの向こう側を捉えられる視神経は正常な感覚の中には存在せず、そして燎はどこまでもリアリストだった。現実主義者でなければ自暴自棄になどなりはしない。戦争に派手な勝ち方など必要ない。相手の必殺を耐え切って、自分の殺戮を押し当てる。
それが全てだ。
これで終わりだ。
健全な右腕を振って、白裂化を吹き払った。視界が蘇る。燎は笑った。牙のような犬歯を剥き出しにして、血走った眼を皿のように広げ、瞳孔が異様に輝いていた。
だが、その眼は何も捉えなかった。
いなかった。
黒鉄鋼が、どこにもいなかった。
脊髄に冷たい恐怖が充填され、理解の羽虫が怖気を震う。
太陽があれば、影が見えたかもしれない。
黒い雲海を背負った、その男の影が。
燎は地の空を見上げた。そして全てを理解した。風を死なせた男が空中にいる理由など『己の拳にしがみついた』以外になかったし、すでに落下体勢に入ったその男に対してこの位置から自分にできることが何もないことも一瞬で分かった。
そして、その神がかった相対関係もすぐに理解できた。
燎の眼光が、右斜め上へ飛ぶ。
そこには、歯牙にもかけられなかった囮のグローブが熱風を喰らって漂っていた。
欲しい場所に、欲しいものがあった。
○
黄金の黒を撃った瞬間、ガードされ、悪魔じみた過集中によって維持されていた氷結の腕殻が粉々に砕け散った。中身の電漿も絶縁された世界に飲み込まれて脆くも消えた。鋼は痛恨のボディブローを喰らったように顔面の筋肉を痙攣させて苦痛に耐えたが、それでも眼光だけは死んでいなかった。それが、ゆるりと回転しながら飛び去っていこうとする、糸の切れた風船のような黒をぎっしりと捉えていた。
自分が自分じゃなくなるのは、もうたくさんだった。
左腕の脇を締め、顎を引き、腰を入れながらジャブを撃った。木葉さえも封じ込めるその左ジャブが、力なく開かれた死骸のような黒を掴んで一瞬で戻ってきた。黒の拳がぴくりと動いて息を吹き返す。そうさ、と思う。俺はまだ死んでない。
生きてる限り、闘い続ける。
黒の拳が左手首を掴み返した。そのまま力任せに振り抜かれて、鋼の身体は幼児の我侭に付き合わされた人形のように空中へ飛んだ。世界が逆転する。弾き返された燎の氷殻が頭上に見えた。背景は燃え盛る地の底。やるべきことはたったの一つ。
そして腹を決めた鋼の首を、囮として撒かれていたはずの手袋を裏切って充填された燎の黒が急襲した。その小さな残像が二人の虹彩に反射していた。普通の人間には回避することのできない角度から撃たれたスクリューブローだった。ライフルの弾丸のように回転した黒い拳がゆっくりと、鋼の頭蓋へと接近していった。風圧で鋼の左テンプルに血も出ないような深い裂傷が開いた。
それだけだった。
スクリューブローは耳が痛くなるような風切音と鋭い痛みだけを小さく残して、鋼の後方へと消えていった。鋼は傾けていた首を元に戻した。
ヘッドスリップ。
どこにでもいる天才には出来ない、基本的な、それでいてボクシングの本質を突いた技術。
パンチをヘッドから逸らすこと。
あとはボディを鍛えれば、そのボクサーは理論的には誰にも負けない。
絶対に。
視線の先に、敵がいる。
眼が合った。
何度目だろう。
憎しみも悲しみも感じなかった。
純粋な戦争なんてそんなもの……だが、やれば一つだけ分かることがある。
どっちが勝つのか。
これだけは絶対に答えが出る。
飽くなき好奇心を持つものだけが、それを手にする。
もし美雷が燎に言いえた助言があるとすれば、不可能と理解しながら、こういうしかなかっただろう。
あの男に一秒を与えるな。
ボクシングにおける一秒は、
遅い。
ゆえに、だから、
もう誰にも止められない。
砕けるほどに組み合わせた拳を握り締める。
右と左の合わせ技――
このあまりにも長く続き過ぎた勝負の解答を、黒鉄鋼は、
満身創痍の全てを込めて、
クスリまみれの夢で出来たアイスに向かって、叩きつけた。
鏡の割れる音がして。
自壊する惑星と同じに、それは悲しく憐れな壊れ方をした。
剥片が瞬き、そこにはもう誰もいない。
煌めく音と舞い踊る光の中で、鋼は薄く眼を閉じ、無人の氷の核をすり抜けて、ブーツの底をすり減らしながらアスファルトの舗道の上に着地した。そのまま慣性を身体の中から流し抜き、よろめきながら左手で地面を突いた。叩きつけた左が痺れた痛みに震え、衝撃で破裂した鮮血の黒の名残が指先から滴った。うなだれたその背中に無数の氷の破片(アイスピース)が、妖精の祝福か拍手のようにぶつかった。ぱらぱらと。ぱらぱらと。ぱらぱらと――それは、
勝利の雨だった。
核戦争が終わったのに生き残ってしまった時のように、何も考えられなかった。
よれよれの白衣を引っ掛けた肩が鷹を乗せたように傾ぎ、いまにも笑い出しそうな膝に支えられて、美雷はモニターを見上げていた。無人の都市の火勢は衰え、雨上がりのような白い光と静けさだけがそこには映っていた。
震えていた掌が、小さな拳を握る。
パンドラの箱の底を見た気持ちだった。
なんて綺麗なんだろう、と美雷は思った。あんなやり方があるなんて、想像すらもしていなかった。――己の左拳を頭蓋に叩きつけ、その衝撃で力技も力技にブラックボックスを再解放し、アイスピースだけではこじ開けられなかった最後の壁を撃ち壊した。科学的な理論に裏づけされてもいなければ、再現性もおそらくない、あの瞬間にしか存在しない奇跡の異能。氷晶が幻想の右腕を構築し、その内側に電漿の神経と筋肉と骨格が充填された。アイスとエレキの誤作動によって。誰が見ても間違ったやり方で。
そして取り戻された右から撃った、最強無敵のスマッシュ・アッパー。
不調の黒。
その正体は、右腕を失ったことによる左脳の地図の再配置などではなかった。
ただ、あるべき位置にそれがなかったことによる違和感が、雨が降ろうと雪が舞おうとサンドバッグを殴り続けた男にしか発現しない拳のクオリアが、最後まで正しいものを要求していただけのこと。
そしてどんなブラックボクサーだろうとそうであるように、脳から近ければ近いほど、架空の拳の威力は増す。
それを二連撃も喰らえば、突き崩されない物質など存在しない。
たとえそれが、最高級の天然素材であろうとも。
美雷はようやく、誰かが白衣の裾を引っ張っていることに気がついた。
振り返る。
転送座から鮮血の航路を蛇のように引きずりながら、燎がすぐそばまで這って来ていた。
「びっ……らひっ……」
美雷はかけていた眼鏡を透かすように眼を細めて、燎の容態を診た。
眼球がてんでばらばらの方角を向いていた。鼻糞混じりの鼻血が栓の壊れたように流れ出し、冷たい床を真っ赤に濡らしている。何か喋ろうとするたびに口蓋の中の吐瀉物を咀嚼してしまっていた。
見る影もない。
だが、誰だっていつかはこうなるのだ。
いつかは。
数秒前まで燎だった何かが呻いた。
「だずっ……げてっ……おでっ……いっだい……どうなっ……で……」
いったいどうなって?
そんなこと考えるまでもない。美雷は思った。アイスキネシスのクラッシュアウトで同調共鳴していた脳神経組織が過剰なサイコキネシスのバックドラフトに襲われて壊滅したのだ。大脳も小脳も左右まとめて崩落し、大寒波を浴びた針葉樹林のように脳の冬が訪れた。
あとはもう死ぬだけだ。
もちろん、今すぐ集中治療室に送り込めば生命だけは助かるかもしれない。循環器系を司る脳部位も焼灼されたからたぶん死ぬが、美雷が物凄く頑張れば植物人間くらいには出来るかもしれない。そしてあと二十七年間くらい彼のためだけに研究を積み重ねればわずかな意識を回復させてやることも出来るかもしれない。だが美雷には、そこまで自分が努力してやるほどの価値が生きるとかいう悪い夢にあるとはとても思えなかったし、それは今後も変わらないだろう。
美雷はなんの感情も交えず、自分が踏み潰して真っ二つになった虫けらが動かなくなるのを見守る子供のように、死んでいく燎を見続けた。やがて動かなくなったそれが断末魔に吐き飛ばした鮮血でべったりと穢れた白衣を摘むと、彼女は言った。
「洗濯しなきゃ」
それが全てだった。
氷坂美雷から天城燎へと贈った、別れですらない何かは。
赤黒く染まった手を白衣で拭うと、もう固まってしまったモニターをなおも美雷は見上げ続けた。
百年も、そうしていたような気がする。
それから美雷は、ようやく何か言いかけ、躊躇い、唇を噛み、息を呑み、また何か言いかけ、――最後にふ、と笑った。
その左目から熱い涙が滴った。
「やっぱり強いや、チャンピオン」