――時の流れは、誰も止めることはできない。
小さいころに父さんからさんざん言われてきた言葉だ。人生はとても短いから、1分1秒を大切にしなさい、今この瞬間を大切にしなさい。そういったことを言いたかったのだろう。
画家であった父さんは、私が小学3年生の時にこの世を去った。あまりにも突然すぎる死だった。作品作りの途中、行き詰ってしまったのか外で散歩をしている途中で交通事故に巻き込まれたのだという。
事故の連絡を受けた母さんと私はすぐさま父が搬送された病院に行き、そのあまりにも無残な姿を目の当たりにした。母さんはその場にしゃがみ込み、嗚咽を垂れ流していたのを今でも鮮明に覚えている。
「母さん母さん、お父さんはどこにいるの?」
当時の私は、目の前に「ある」父さんの姿をよく認識できていなかったらしい。母さんはその質問に答えることはなく、私は不安でいっぱいになり、ただただ同じ質問を繰り返していた。
病院から帰宅すると、私は実は父さんは家に帰っているのではないのかと思い、父さんの部屋へと足を踏み入れた。扉を開いた瞬間から油絵の独特の臭いが嗅覚を襲ってきた。最初は臭いを我慢することで精いっぱいだったが、だんだんと慣れはじめ、辺りを見渡した時にそれを発見した。
白いキャンバス。
パレットにはいくつもの色が出されているのに、肝心のキャンバスには何も色塗られていなかったのだ。私は、数分か、数秒か、はたまた数時間かその白いキャンバスを見つめていたと思う。
そんな時、私は父さんのあの言葉を思い出した。
時の流れは、誰も止めることはできない。
その言葉が頭から離れなくなり、なぜだろうか、それから私の心はぽっかりと穴が開いたようだった。
今でもよくその言葉を思い出すことがある。そんな時、私はほんの少しだけ胸が痛むのだ。
春の温かかった風も、だんだんと暑さを増してきていた。冬の制服ももうすぐ終わり。あと少しで、夏がやってくるのだ。
私、白井琴音(しらい ことね)は高校3年生で、もうすぐやってくる文化祭と近い未来待ち受けている大学受験に半分胸を躍らせ、半分憂鬱にこの春を乗り越えようとしている。
「琴音ー、文化祭の出し物、どれに投票するの?」
髪を二つ結びにしたクラスメート、赤木優香(あかぎ ゆうか)が隣の席から身を乗り出して訪ねてきた。
今このホームルームではクラスの出し物を決めようとしているのだ。
「私はあまり仕事とかしたくないし、休憩所に入れようかと思ってるよ」
「え、えー! それ一番つまらないじゃん! もう今年で華の高校生活が終わるんだよ!?」
私の机をバンバンと叩きながら、優香は不満そうに口を尖らせた。横目で黒板を確認する。黒板には出し物のいくつかの案が書かれていて、右から順にたこ焼き、焼きそば、小物販売、占い、休憩所とある。
「琴音、高校生活をよく振り返ってみなさい」
「え、なんで?」
優香は小さくため息を吐くと、「いい?」と人差し指私にに向け説教の語りだした。
「高校で何かに没頭したことある? 部活は入った? バイトした? 学業の成績は? 琴音は帰宅部だし、バイトもしてないし、勉強だって赤点こそ取らないけど、決して優秀ではないでしょう? 今の琴音に女子高生って肩書きを取ったら何が残るの?」
「えっと、それは……」
教室では他のクラスメートが賑やかにしている中、私は優香の視線と圧力に押され、体を小さくしていた。額からは冷や汗が垂れ、優香を直視できず床と優香を交互に見やる。
「ない、ないでしょ。真っ白でしょ。思い出の1つも語れない学生生活なんて、あまりにも寂しすぎるよ。だから、さ。一緒に占いに投票しようよー」
優香の言葉は私の心を強く締め付けた。たしかに私は学生生活で語れるほどの思い出は築き上げてきていないのだ。それは紛れもない事実なのだ。
でも事実だろうが何だろうが、私は優香の「真っ白」という言葉に反感を覚えずにはいられなかった。
「い、いいよ! そこまで言うなら占いに投票するよ! 私の学生生活が真っ白だなんて、絶対に思わせないからね!」
頭に、あの白い、時の止まったままのキャンバスが映し出された。
私は、白いままのキャンバスは嫌だ。時の止まったキャンバスは嫌だ。ただそれだけの理由だったが、私を奮い立たせるのには十分だった。
そして、数分後に行われた投票で私は占いに票を入れたのだ。
出し物はたこ焼きに決定した。