僕は大学生の時に少し事情があって、できるだけ多くのお金が必要だった。
借金取りに追われるというほどの緊迫した状況ではなかったけれど、馬車馬のごとく働かなければ生活を維持できないという程度には追い詰められていた。
大学を休学し、アルバイトを掛け持ちして1ヶ月に300時間以上は働いていた。主な勤務先は時給の良いテレアポだったけれど、それ以外にもカフェやら深夜のイベント会場の設営やらをこなす結構ハードな毎日だった。
そんな掛け持ち先の一つで、とある特殊な接客業を経験した。断っておくと非合法だったりいかがわしかったりする職業ではない。世間の人から白い目で見られるような仕事でもない。だけどおそらくはかなり珍しい部類に入るものだと思う。
これからするのはそんな仕事で起こった不思議な出来事と、それに関するある人の話だ。
僕は当時の困窮の原因である出来事や過労で生来弱かった神経を更に摩耗させてしまいひどく精神的に不安定な状態だった。
当時の症状としては躁鬱や離人症に近い症状、視線恐怖やアルコールへの依存などがあり、本当に辛い毎日だった。
件の仕事では夕方からの勤務のためかあまり忙しいということはないのだけれど、それでも数少ないお客さんの視線が怖くて笑顔を作れないなんていうことが沢山あった。なので普段つけているコンタクトを外して勤務していた。裸眼視力は0.05を切るくらいなので、書類仕事をこなすときなどのために眼鏡も常に携帯していた。
ここからが不思議な出来事の話で、もう営業終了間際になろうかというある夜のことだった。
勤務先は屋内で、営業終了5分前からお客さんが中に残っていないように従業員で分担してあらかじめ決められたルートで巡回し、全てのお客さんが帰ったことを確認したらその日の営業は終了になる。
巡回業務に行く前に書類を整理したり簡単な清掃や翌日の準備をしたりしていた。そろそろ時間だな、と思いまだお客さんと会う可能性も考えた僕はかけていた眼鏡をポケットに仕舞って通路に出た。
そうすると、巡回のスタート地点の方向に歩いて行く人影が見えた。
どんなお店や施設でもそうだと思うけれど、こういった巡回は一番最後までお客さんが残ってしまう可能性のあるトイレか、最上階の階段の行き止まり等入り口から最も遠い位置からスタートするのが基本だ。この時には僕は最後にトイレに駆け込むのかな、仕事が延びないといいな、ぐらいにぼんやりと考えていた。
スタート地点のトイレは丁度通路が直角に折れ曲がる角に面しており、トイレの中が無人であることを確認してから、二人の従業員が同時にトイレを背にして巡回を始める。つまり巡回を始めた後は従業員とすれ違わない限りトイレには入れないということになる。
その日も僕がスタート地点に到着するときには既にもう一人の従業員が待機しており、開始時刻まで1~2分時間があったため少し世間話をしていた。
その人はユウさんといい、そこでは先輩ではあったけど年齢が近いこともあって以前にも何度か話したことがあった。
そろそろ時間だな、という時に先ほどの人影が気になってユウさんに聞いてみた。
「そういえばさっき、こっちに誰か来ませんでした?スタッフさんなら良いんですけど、お客さんだと面倒ですね」
「いや、誰も来てないけど?それより今日は眼鏡かけてないの?かけた方がいいと思うよ?」
「え?なんでですか?そんなに似合ってます?」
「いや、そういうわけじゃないけど・・・拾得物とか見落としたら困るんじゃない?」
誰も来てない、というユウさんの言葉は引っかかったけど、その時は裸眼だったし見間違えたんだろうと納得した。
それに、ユウさんが言うにはその日は酷い雨と風で電車が止まっているらしかった。
「壊れた傘とか何かの隙間に捨てられてるかもしれないしさ。」
その言葉に押し切られて、どうせ誰とも会わないだろうと自分に言い聞かせて眼鏡をかけた。
視界が鮮明になる。すこし息が苦しくなった。
「さ、ちゃっちゃとやっちゃいますか。」
その頃は見知った人の視線を受け取るのもかなりの苦痛だったのだけど、僕の肩を叩きながら笑うユウさんの横顔は少しだけ他人のそれよりマシだった気がする。
その日のトイレ内の点検は僕の担当で、ユウさんは入り口で待機していた。
「見落とし無いように、しっかりね!」
そんなことを言われながらまずは男子トイレの点検を始める。
鏡台前、鏡台下の棚、用具入れ、個室、全て異常はなかった。懸念していた傘も無かった。
次に女子トイレに入り、同じように鏡台から点検を始める。異常は無さそうだ。
このトイレには全部で5つの個室があり、全て洋式だった。
個室のドアを開け、タンクの影にも携帯電話などが落ちていることがあるため少し屈んで確認する。
1つ目、異常なし。2つ目、異常なし。
3つ目の個室で屈んで立ち上がろうとした所で酷い眩暈と立ち眩みに襲われた。
連日の疲れが溜まっているのか、殆ど目の前が真っ暗で気分が悪い。壁に手をつきながら何とか立ち上がり呼吸を整えた。耳鳴りまでし始めていて、これは失神してしまうんじゃないかと慌てて眼鏡を外し、目を瞑って目頭を揉みながら深呼吸をした。
10秒ほどすると少し気分が良くなったので、ゆっくり息を吐きながら重い瞼を開く。
なぜか目の前に顔があった。
真っ白な顔に、白目を全て塗りつぶしてしまったような大きな黒い瞳で僕の目を凝視していた。
喜びや悲しみは勿論、恨めしいとか、怒りとか、そういった感情が全く感じられないような無表情で、ただただ僕の目を覗き込んでいた。いや、違う、覗き込んでいるのは僕だ。どうして僕は目を見ているんだ。怖いはずなのに。そうだ、怖いんだ。どうして。今は何もかもぼやけて見えるはずなのに。怖い。怖い。怖い。
頬に鋭い衝撃が走って、僕は意識を取り戻した。
「お、起きた起きた。いや、目は開いてたか。なんて言うんだろうなぁこういう時。」
ユウさんに頬を張られていたらしい。いつの間にかトイレの外の通路に引っ張りだされていた。隣では警備員の人だろうか、紺色の服を着た人が屈んで、大丈夫か、と声をかけてきた。
大丈夫です、と返事をしたかったが咳き込んでしまった。
「無理して答えなくて大丈夫だよ。ちょっと気分が悪くなっただけらしいんで、休憩室で休ませてきますね。巡回の引き継ぎだけお願いします。」
ユウさんは警備員さんにそう言うと僕に肩を貸して立たせてくれ、そのまま休憩室まで連れて行ってくれた。
僕は何が起きたのかもわからないまま、ベンチに横になりユウさんが差し出したお茶をストローで啜っていた。
徐々に恐怖が蘇ってくる。
あれは、あの出来事は何だったのだろう。
一体何が起きて、僕はユウさんに外へ引きずり出されたのだろう。
夢だったのだろうか。過労のあまり見た幻覚だったのだろうか。
「あれほど、眼鏡を外すなといったのに。」
ユウさんが真っ直ぐにこちらを見ながら言った。僕は俯いたまま、顔を上げることができなかった。
「何で・・・ですか?何なんですか?」
僕は痛む喉を締めあげながら、絞りだすような声で問いかけた。
これほど漠然とした質問しか思いつかないほど、疲弊し、混乱していた。
「起きた出来事だけ説明するね。君が女子トイレの点検をしている時に勢い良く扉を閉める音がしたから、何か起きたのかと思って中に入った。そうすると個室が一つ使用中になっていて、呼びかけたけど返事はなかった。扉をよじ登ってみたら、これ。」
そう言ってユウさんが差し出したのは、切断された僕のベルトだった。
「君が中で首を吊っていたので、切っちゃいました。で、外まで引きずり出して、往復ビンタ。以上。」
訳が分からなかった。
首を吊った?誰が?僕が?
「発見が早くてよかったね。君もあいつの仲間入りだったよ。」
「あいつ?」
「見つめられたんでしょ?」
幻覚じゃ無かったのか。それにどうしてユウさんが知っているのか。
色々な疑問が浮かんでは消え、どれから聞けばいいのか分からなかった。
「詳しい話はまた今度してあげるよ。とりあえず、これ。」
そう言ってユウさんは自分が身に着けていたストールと眼鏡を差し出した。
「痕残ってるから。それと、これは伊達だから周りの目も気にならないからかけときなさい。お礼は今度一杯奢ってね。じゃあ、お先に。」
そういってひらひらと手を振ると、本当に帰ってしまった。
休憩室から通路に出た瞬間、ユウさんが一瞬身体を強張らせたような気がしたが、そのまま足早に立ち去ってしまった。
僕は混乱した頭を持て余しながら言われたとおりに伊達眼鏡をかけ、ストールを巻いた。
身体が怠くて、とても家まで帰る元気は無かったのでその日は近くの漫画喫茶に入り寝てしまった。
どうしてユウさんは僕が眼鏡を外す理由を知っていたのか。
どうして僕が自殺を図ったことを警備員さんに伝えなかったのか。
その時は何故か気にならなかった。疲れていたからだろうか。
これが、僕がユウさんと深く関わることになった最初の出来事だ。
そしてこの出来事があってから、僕は度々不思議な夢を見るようになった。
夢のなかで見知った人の後ろ姿を見つけて、声をかける。そして、相手が振り返る直前で目が覚めるという夢だ。
目が覚めた時には全身に汗をかいていて、身体は冷えきっている。
僕は振り返るその目を見たら、どうなるのだろうか。