Neetel Inside 文芸新都
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天麩羅学生のうた(改稿版)
一.おとなり

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一.おとなり



 人口190万都市、札幌。北海道全域にヒトやモノを送る心臓部、札幌駅では余裕とブランド物の鞄を持て余した有閑マダムか、そうでなければアベック、アベック、またアベックと全盛期の中村ローズを思わせるようないてまえ不純異性交遊者たちが蔓延っていていつ見ても不快極まりない。
 札幌駅を南下してもこの状況に変わりはなく、やれ大通公園だ、やれすすきのだとこちらも不純異性交遊を求めるのが素敵な紳士たちに少しずつ替わりはしても、嘆息を禁じ得ぬ有様には変わるまい。

 問題は北側であった。栄華を極める駅南側とは打って変わって、北側へ来ると全学部棟がガッカリ名所時計台のレプリカで構成されたという噂がまことしやかに流れる無駄に広いキャンパスが売りの大学と、その周りに大型動物に寄生する虫のようにいくつか建っているちっちゃな大学があるだけだ。学生街らしく猫の額ほどのアパートメントが並び、南北を貫く大きな通りに面して大盛りの料理しか品書きに出ていない店が点々と、今日も腹を空かせて家からやっとのことで出てくる冬眠明けのヒグマにも似た学生共を待ち詫びている。

 吉野は無論、テンプラ学生であったから、冬の間は凍死せじと炬燵から半径1メートル以内にほぼ全ての生活必需品を揃えていた。今後一生開くことの無い教養科目の講義図書、埃を防ぐために掛けた布がさらに埃にまみれて燻ったような色合いを出し始めたプリンタ、たまに札幌駅方面を出歩けば必ず右手に差し出される如何わしい広告のついたポケットティッシュの山など、その他のさしあたり不要な物品は壁際に容赦なく捨て置かれた。窓に厚めのレースを掛けているから、彼ら不要品は真の意味に於いて日の目を見ることは無い。

 取っている授業はいくらかあるのだが、冬学期は生死の懸かった登校を余儀なくされるため、他の授業は自主休講と題して吉野が唯一興味を持っている日本文学史概説の授業だけに出席する忙しない日々を送っている。無論彼には代返とかいう卑怯卑劣極まりない選択肢が無かった。考えてもみなかった。テンプラ学生として潔い姿勢であり、この地で同じように教えを請うた某の言った「のぶれす・おぶりーじゅ」なる境地にもピタリ当てはまるのである。

     

 その日も吉野は昼前にやおら蒲団を持ち上げて折り畳み式ベッドの上に胡座をかいて暫くの沈思黙考、やがてふとテレビに目をやると好みの女優が人生観について語っていたので、おかしな言動を見て嫌いになっては損だと考えた彼は即刻テレビを消そうとリモコンを探す。しかし一向に視界に入って来ない。昨晩は炬燵に入ったまま、しこたま梅酒を呷って知らないうちに眠ってしまい、丑三つ時に下品なくしゃみで目覚め、これではいけないと慌てて蒲団へ滑り込んだ記憶以外は彼の大容量お徳用脳味噌の中には全く無い。いつだったか、JR北海道の誇る最強秘密兵器、区間快速いしかりライナーで小樽に小旅行へ行った折にふと立ち寄った酒造で試飲に試飲を重ねた上、王将戦でもよもやといった熟考ののちにそろそろ女性店員たちの視線もキツくなってきたかと一本買った梅酒であった。吉野は毎度、とても不味そうにそれを飲む。
 捻り出すように欠伸を終え、阿呆の表情で身体をくねらせると、尻におかしな感触がある。その場でむにょむにょ尻を振ってみるとプラスチックのたわむ「きゅ、きゅ」という音がする。かくしてリモコンは救助された。

 やっとの決意で風呂場へ向かい、シャワーを浴びるも脱衣場(脱衣所ほど区切られた大きなスペースも無いのだ)のマットに片足を乗せた瞬間、普段洗濯機の上に置く習慣のバスタオルを今日は忘れてしまった事に気づく。居間で部屋干ししているため、取りに行かねばならぬのだ。彼は全裸で、分厚いレースを一枚挟んで窓の外の銀世界と対峙した。しかし実際には、その寒さのために三途の川と対峙していたことは言うまでも無い。

 着替えを済ませ、炬燵の中で身体を解凍していると、壁の向こう側から談笑する声が聞こえてきた。吉野の部屋は四階の角部屋で、西隣に部屋が一つあるだけなのだが、分け隔てる壁が自らの役割を忘れ、単なるウエハースとなってしまっているため、隣部屋の物音は何をしている時の音かといった程度ならば至極簡単に聞き取れる。読者諸賢にはこのウエハースのもたらす功罪がお分かりであろうか。

     

 吉野がクラーク博士も持て余すほどの大志を抱きつ札幌の地に越して来たのは今から三年程前のことであった。似たような鉄筋コンクリの巨大な塊をいくつか見物し、ここは大学から遠過ぎるだの、できるならバストイレ別が良いだの、挙句の果てには「何となく違う」といった根拠の無い否定まで取り出しては仲介業者を困らせた。家族全員この調子であるあたり、彼の気難しさは両親の性格に依っていることが容易におわかりであろう。かくして竜王戦でもよもやといった熟考を両親共々繰り広げ、如何にも気弱そうな業者が「参りました」と三つ指立てて頭を盤上にゴリゴリ擦り付け始めた頃に漸く決まった物件が、この四方をウエハースで囲まれたアパートメントであった。同じ階の住人は悉く皆ヘンゼルとグレーテルよろしく金やら茶やらに髪を染め、殊更にお菓子の家であることを強調していた。

 彼らへの仲間入りという大志を入学後三日であえなく喪失してしまった吉野は、その後更に「大学に入ればどうにかなるだろう」という儚い望みも打ち捨てられることになる。女性関係も全く無い訳ではないがどうも燻ったままそぼ降る雨に流され、意気揚々と入ったサークルが暗黒企業の如く、とっくに引退したはずの院生古株会員達によって取り仕切られ、少しでも彼らの意向にそぐわない事態が起きれば「休日会議」と題して要らぬ前置きと説教といつまで経っても答えの出ぬ議題に対する議論が行なわれ、その様は教えを履き違えた禅寺での修行かマスターベーションかというものであった。そんなこんなでサークルも辞してしまった。学部内で割り振られたクラスの行事にも進んで参加すること無く、彼の大学生活は綺麗な溶暗を辿っていった。

 それでも根が真面目な性分であった――かどうか、その辺は現在の彼を見ていても皆目見当がつかないのだが、まあ仲間外れで日本かどうかも疑わしいとはいえ、腐っても旧帝国大であるところの門を潜る程度だから、根が真面目だということにしておこうではないか――吉野は、講義には顔を出していたし、朧げに数年後に迫る就職のことや、畏怖すべき教授に誘われている院進学のこと、親との兼ね合いなんかを彼なりに考え、夜毎奇ッ怪な夢を見たりしていた。
 そんな中、誰とも交わりの無い乾いたアメリカの田舎道路のような人生を送っていた吉野に、近からず遠からず、蛇行しながらも不思議な距離感で彼の視界に入ってくる女性がいた。遠藤さんである。

     

 ともすれば蛇行しているのは吉野の人生であった。遠藤さんは丁度忘れた頃に彼の近くに現れた。二年の夏学期のはじめ、クラスが解散してゼミに配属された時、前のコミュニティでも立ち位置はおろか存在すらも不明確なまま一年を終えてしまった吉野は、やはりゼミでも自らの位置取りが掴めず、レーンの内側から屈強なスプリンターに囲まれたままゴールを目指さねばならぬ苦しい展開を強いられていた。そんな夏学期に、ふと取ることにした言語学概論の教室の入口近くに、遠藤さんは座っていた。

 「あ……」
これが彼女を観た吉野の、最初に腹の中で呟いた言葉であった。遠藤さんは果たしてどのゼミに入ったのだろう。学部新入生のおおよそ半数近くが所属するらしい、システム科学系統にでも入ったのではなかろうか。
 ともあれ授業は始まり、中国人の女の教員がポインタで何やら示し始めた。彼は遠藤さんの後ろに座り、筆箱とノートを出したきり、彼女の黒髪を見つめていた。八番講堂のいかにも品のない光を受け、仕方なく照り返す黒髪。時々見つかる毛束から漏れた一本、二本の細い髪の毛。懐にもしも半月型の櫛があったなら。午後の眠たい空気の中で、鈍く光る鼈甲の櫛があったなら。吉野は決して実現しないであろう夢想に酔った。吉野に鼈甲櫛に単衣の着物。意外と合うかも知れぬ。

 授業が終わって、彼がそそくさと八番講堂を後にしようと閉じかかった扉に手を挟めて引こうとした時だった。後方から出てきたのであろう、遠藤さんの姿が隙間から見えたのだった。肩から数センチの位置で切りそろえられた黒髪がすっと後ろに流れる。彼は扉のまだ開き切らないうちに差し身のようにして講堂を抜け出ると、黒髪だけを焦点に据えて彼女の後ろを歩き出した。

     

 遠藤さんは学部棟を出てすぐの自転車置き場で愛車を探している。吉野はもともと大した動機も無しに根無し草の如く黒髪を追っかけ歩いてきた訳で、彼女から少し離れて、いつだったか生協前でこれでもかこれでもかと叩き売られていた中を救ってやった愛機「幌馬車三号」の行方を案じていた。
 思えば札幌駅に行く道すがら、紀伊國屋書店の前で停めておいたはずが帰りにすっかり無くなっていた「幌馬車一号」も、その月の仕送りが出た日に意気揚々と生協前に繰り出して、これまたタイムリーに叩き売られていた所を救ってやったのにもかかわらず、冬の未曾有の大雪によって車体が錆び切ってカゴがひしゃげた「幌馬車二号」も、いずれも彼との二人三脚の……いや、二輪、二脚……まあいいか、彼との生活は儚いものだった。これではいけぬと五人ほどの野口英世を召喚して買い上げた「幌馬車三号」の後輪泥よけには、紛失防止の為にレッドブルのステッカーが貼ってある。これでいつ紀伊國屋書店前に違法駐車しても盗まれる心配は無い。
 吉野は後輪で威勢良くぶつかり合う二頭の牛を確認し、カゴに鞄を入れた。もう遠藤さんは何処かへ消えてしまっただろうか、その姿は一向に見えない。それならそれで良い、と吉野はペダルに足を掛けた。

 「ジャングルのような大学」という形容は至って的確であった。南北に二・五キロという無駄な広大さが運動不足に悩む近郊の老人たちと観光客とを大学へと引き寄せる。博物館あり、原生林あり、重要文化財あり、とその筋の人々には垂涎物なのであろうが、「大学近く」に城を構えたはずの吉野は、何故自分が学部棟のある南端から、メインストリートを自転車で五分近く北上して大学を出て、更に五分かけて城まで帰らねばならぬのか、不条理さすら感じている。
 途中、二十条の大通りで東に一度折れ、コンビニでお気に入りのミルクティーとダイジェスティブビスケットチョコ片面がけとを購入し、まさにルンルンを買っておうちへ帰ろうとでも言ったような気分で、元の通りに戻るために「幌馬車三号」を漕ぎ進めていた時だった。彼の視界を、薄紅色の車体に跨がる黒髪美女が横切った。彼女は青信号の点滅の中をいかにも軽快に走り抜けた。吉野もハンドルをしっかり握り、既に赤に変わった横断歩道を申し訳無さそうに全力で漕いでいく。意外と速度が出ているのか、彼女の自転車には追いつけない。フォームの汚いランナーは、見てくれからして余計な力が入っているのが良く判ると言うが、今の吉野がまさにそれであった。百万回漕いでも、追いつけないような気がする。
 そのうち彼女がするりと右側へ折れた。吉野はふと我に返って自分の曲がるべき場所を越えてしまったと体の悪い表情をした。けれどもどんぴしゃり、彼女が曲がった先は見覚えのある我が城の並びであった。胸を撫で下ろして駐輪場に入りかけた時、そこに彼女の姿はあった。

     

 吉野は自宅の一本北側の通りを走行していた。彼女を見た瞬間、ハンドルを切る手の力が失われていったのだ。仕方なく街区を一周して駐輪場に戻る事にした。
 またいつものように陰気な表情に戻った駐輪場に自転車を停める。小走りで向かうべきか、ゆっくりと行くべきか、迷って足許がもたついた。変な歩き方のまま、吉野はトルソーから玄関に入った。ドアを開けようと取っ手に手を伸べかけたが、郵便受けを覗く彼女を見て、とっさに手を下ろした。彼は階段で四階に上がった。
 吊り橋効果において、被験者は恋愛感情による興奮と揺れる吊り橋に立っていることによる興奮とを取り違えるということが良くあるそうだが、ことこの時の吉野においては、全くの一人相撲である上に、階段を上る興奮と、遠藤さんへの屈折した感情とが一身に満ちていた。もしももう一階上に住んでいたら、きっと吉野は階段の途中で動悸でも起こして救心の世話になっていたことだろう。

 呼吸のリズムが整わないままドアの前に立ち、苦しい胸に更に負担をかけるように息を殺して、廊下の内側の様子を窺った。エレベータが動く音が聞こえる。少なくともエレベータの停まった階のどこかの部屋に彼女は住んでいる。吉野は勢いで自分の部屋がある四階まで上ってきてしまったが、もし彼女が他の階でエレベータを降りたとしたら、またそこまで急いで向かうべきであろうか? 何だか自分でも意味の分からないまま、焦燥感に駆られ、悩んでいた。……それにしてもモーター音が鳴り止まない。最上階である五階には管理人と娘夫婦しか住んでいないのだから、いくら上ると言っても、吉野の今立っている四階まででエレベータは停まるはずであった。この長さは何なのだ?

 時は満ちた。神の国が近づいたかどうかは知らないが、エレベータは確実に吉野に近づきながら、何処かの階で「がっこん」という間抜けな音をたてて停止した。ドアが開き、コツコツと太めのヒールの足音が響く。目の前の磨りガラスごしに、人影が映った。

 状況はここに極まった。ふと足音が止んだ。「きい」とドアノブに手をかける彼女。甲高い声でドアが彼女を迎え入れる。
 今がこのとき、吉野は階段のドアを開けて廊下に入った。
 「ばたん」と、ドアが閉まるのを見た。四〇三号室。吉野の隣人であった。

       

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