Neetel Inside 文芸新都
表紙

天麩羅学生のうた(改稿版)
四.かべどん(終)

見開き   最大化      

 この年の七月下旬から八月にかけて、北海道は異例の――といっても、もはや毎年気象予報で「異例の」という言葉を聞いているものだから、何をもって「例」とするのかがさっぱり解らないのだが――暑気が続き、アイスも脳髄も融けるような毎日であった。
 吉野の脳髄も、止せば良いのに流行に乗り、融けて鼻から流れ出て、ティッシュを見た彼は卒倒……というのはさすがに冗談で、夏風邪にかかって青っ洟をぐずぐずとさせていた。脳髄は無事だった。もっとも、無事だからといって十二分に活用されるのかと言われれば、その可能性は限りなくゼロに等しいのだが……。
 それでも、昨年の冬学期に取っていた日本文学史概説の教授に好印象でもって迎えられたこともあり、今日も衰弱した身体に鞭打って、この夏学期ただ一つだけ受講している現代文学の講義に出席していた。
 太陽が真上に昇る時間帯に、わざわざ吉野は自転車で帰った。この時間帯の食堂は人が矢鱈に多くて、とてもじゃないが独りぼっちが座れたものでは無いのだった。
 最寄りのコンビニに寄り、サンドイッチとのむヨーグルト、そしてアイスバーをレジカウンターに置く。
「五三六円です」
財布を見ると、五百円玉に十円玉が一枚きりであった。
「あ、あ……すいません」
吉野は苛立ちながら、アイスバーを除くように言った。その代わりに、何か……振り返り、視線を動かしていると、見覚えのあるケミカルなパッケージ。「見切り品」と書かれたワゴンの中に、「ねるねるねるね」が鎮座ましましていた。こんな物が見切り品になるのか、吉野は不思議に思ったが、そんなことで間を取っている暇は無かった。
「代わりに、これ」
語尾の無い、ぶっきらぼうな言葉とともにレジにうっちゃられた「ねるねるねるね」は、文句も言わずに「六七円」の値を付けられた。

 幌馬車三号を停め、玄関の郵便受けを開けると、如何わしい広告が滝のように流れ出た。吉野は頭に血を上らせながら一枚一枚五本の指で鷲掴みにし、くしゃくしゃに丸めながらエレベータに乗った。四階に着き、一番奥のドアを開け、くしゃくしゃにしたチラシをゴミ箱に放り込むと、なんだか異様に腹が立っている自分に気がついた。
 何なんだ、この日々は。何がしたいのだ、俺は。何のために、生きているのだ……



 ひとつ吠えた。開いた窓から筒抜けなのはわかっている。もひとつ吠える代わりに、ベッドに向かって携帯電話を投げつける……手元が狂った。リリースポイントがやや上になり、ベッドに叩き付けられるように設定された直線軌道は、そのまま斜め上にスライドされ、着弾点が壁に変わった。



 鈍い音とともに、ウエハースが割れた。タッチパネルの上半分がめり込んだ壁の破片が、壁の向こう側、隣の部屋へと突き抜けていく。……そして、拳骨大の穴が空いた。



 「わ、え、ど、どうしたんですか?」吉野が補完しながら聞き取った叫びはこうだった。
肝を冷やした吉野は穴の向こう側に向けてただただ謝るばかりだった。女性はその謝罪にすら戸惑う様子であったが、ふと吉野の顔を見て、目を丸くした。
「子供助けた人、ですよね」
「はい?」
「それも、たまに授業、一緒ですよね」
「はい」
「となり、だったんですね」
「はい……」
「文学部、ですか」
「は……で、でも、天麩羅学生ですから」
 吉野はそう言って、穴の向こうの彼女を穴の空くほど見つめた。
 彼女は不思議そうにこちらをじっと見たあと、目を細めた。

       

表紙

江口眼鏡 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha