Neetel Inside 文芸新都
表紙

木野子人
名前もしらない妹

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1
 背中を窓から射す日で暖めながら、ゆっくりと本をめくる。
投げかけた視線からスッーと情報が頭に流れ込んで来る。
手につかんだ一握の砂が少しずつ、その手のひらからこぼれ落ちていくように、ゆっくりと心地良いリズムで、流れてきた言葉は、どこにもひっかかることを知らない。それは僕の中に何も求めることが無いからかもしれないし、もしかしたら、この部屋の静けさも、外がお天気なのも、全てが僕と繋がって調和しているからかもしれない。
壁際にうず高くこんもりとした菌糸の集まりがある。ちょうど納豆のねばねば、あの白い部分を集めたみたいだ。
 突然、それは動き始めた、山になった菌糸の全体の輪郭をたどっていけば、人間の形に見えなくもない、その輪郭がもぞもぞと、今にも這い出す様にふるえだしたのだ。
僕は本をめくる手を止めて、テーブルに置いた栞を挟むと片手でゆっくりと本を閉じ、イスから立ち上がる。

テーブルに残された本、表紙にはへんないきものと書いてある。



 「大丈夫か?」
それまでの落ち着いた優雅な動作からはうって変わって、僕は闇雲に菌糸の中に手を突っ込むと、誕生日プレゼントを貰った少年が包装紙を破くみたいに、急いで菌糸に穴を開けた。呼吸が出来るようにするためだ。菌糸につつまれているであろうそれが、とても苦しそうにもがいているよう見えたからだ。
「ずいぶんとせっかちなんだな」と僕は呟いた。
普通、菌糸の中から産まれくる木野子人(きのこびと)は、じょじょにそれまで行ってきた呼吸法(呼吸法についてだが、これについて研究しているチョ・シャ博士の研究発表によると、分かんないらしいのだ。怠慢というやつだ)から肺呼吸へ移っていくものなのだ。
その呼吸の変化には丸一日かかるもこともある。それほどの時間をかけた後に、完全な肺呼吸が出来るようになって、ようやく菌糸から出て行けるのである。
僕の時もそうだった。
なのに、この菌糸の中から産まれてこようとする木野子人ときたら、身体をすぐに完全な肺呼吸へと移行させたためだろう、菌糸の中で窒息するところではなかっただろうか。 
顔を見てやろう。
男かも女かもわからないのだ。
分からないのには理由がある。産まれる前の菌糸が小学生ほどの高さにしか、まだ成長していなかったからだ。それというのも、二次性徴前の胸にあたる部分はふくらみに欠けて、男とも女とも判別がつきずらかったのだ。それ以外には菌糸に包まれた人間の外観から、性別を確かめるのは難しい。
もし、菌糸のなかで成長している最中の木野子人を無理矢理に外界へ引きずり出せば、たちまちに呼吸困難に陥って死んでしまう。
彼、彼女らは、自分達が産まれるタイミングを、自分自身で決めて産まれてくる。
彼、彼女ら自身が産まれてくる事を決意しなければ、肺呼吸へシフトしていかず、そのまま身体の成長を続けて行ってしまうのだ。 
僕個人の願望としては弟が欲しかった。
もし、弟が産まれさえすれば、僕が産まれる前から決められた運命、一家の伝統、歴史、この家業をおしつけることが出来るかも知れない。
 
 しかし、神様は、僕のお願いを聞いてくださらなかった様だ。



 菌糸の中から産まれてきたのは女の子だった。髪はだらりと地面まで垂れて顔をおおい隠している。背は1.2m程だろうか、体の所々についた菌糸の破片が異臭を漂わせている。
とりあえず、産まれてきた新しい家族、妹に声をかけた。
「おはよう。それにおめでとう。君、いくつになるの?」
「わたし?わたし…木野子人の年齢なら五歳だわ。それと、人間の年齢だと…十一歳。」
「風呂の入り方、分かるか?」
「…分かる」
「だよな。まず、それからにしよう。風呂からあがったら色々な事を説明するよ。よく体を洗って、菌糸を落としてきなよ。」
でも、と僕は思う。
説明は不要かもしれない。
一糸まとわぬ姿の彼女が風呂場へ向かって行くのを眺めながら、この後どうするべきか考えていた。そうだ、名前、名前が必要かもしれない。
名前は考えていなかった、男か女かも分からなかったし、第一、彼女自身が名前をもう既に決めているかもしれない。
木野子人とはそういうものだ。僕自身がそうだったように。



 「名前は?」
風呂からあがるなり、彼女は僕に質問を浴びせかけてきた。
「申し訳ないけど、君の名前を考えていなかったんだ。それというのも…」
話をさえぎって、産まれたばかりの妹は質問をつけ足した。
「あなたのよ。あなたの名前は何?」
「知っていると思っていたんだけど」
彼女は僕の名前を知らないはずはないのだ。
「もちろん知っているわ。でも、新しい家族でしょう? 自己紹介は必須だと思って、あなたから名乗って欲しいの。そしたら私も名乗るわ。」
「それじゃあ君は、君自身で名前を考えて生まれて来てるんだね? 僕と一緒だよ。」
彼女は僕に微笑んだ。
「僕の名前は、聡八。今年で十六になる。君の兄だよ。」
「聡八…いや、お兄ちゃん。あなたなら私の名前が分かると思うの。当ててみて?」
なんだって?戸惑ってしまった。彼女はこの部屋で育まれた菌糸だった。それだから、この部屋で交わされた会話。テレビの声。ラジオの音。そういった物を聞いて育ったはずだった。
答えがあるとしたらその中にあるはずだった。彼女は菌糸の中で五年を過ごしている、ならその五年の中にヒントがあるはずだ。
でも、一体、その中のどこに答えがあるのだろうか。
「考えてみたけど分からないな。降参だ。答えを教えてくれるとうれしい。それに、今、君は名前を教えてくれるって言ったばかりじゃないか。」
「いやよ。」
そう言うと。彼女はイスに座ったままテーブル突っ伏して眠りについてしまった。
木野子人は、産まれてから一週間ほどをほとんど寝てすごす。菌糸から出て肺呼吸に移るというのは、産まれたばかりの赤子と一緒でとても体力がいることなんだ。
しかし、困ったな。普通、産まれたらすぐに、役所へ届けでを出さなければいけない。
何だって彼女はこんな困ったことを言い始めたのだろうか。
そう思いながらも僕には、それが彼女にとって、とても大事な意味を持っているんじゃないか。そう思い始めていた。



 それから一週間がたったころ、晴々とした顔で彼女が寝室から起きてきた。
「おはよう」
「おはよう。一週間というもの、君はベッドで寝たきりだったね。まあ、ときには、ご飯やトイレに起きて来てたみたいだけど。」
「もう、すっかり良い気分。だいぶ、外界の空気に慣れてきたわ。」
コーヒーをカップに注ぎながら、僕は用意していた言葉をゆっくりと小声で何回も復唱した。よし、いいだろう。
「さっそくなんだけど、君の名前を役所に届けなければいけないね。それに学校に行くのだって手続きがいる。君は十一歳で、小学校に通わなければいけない。これは義務教育だ、受けないっていうことはできない。そうだよね?」
無視だった。
彼女は、オーブントースターで暖めたトーストに、バターと苺ジャムをぬり、それを頬張り、冷たい牛乳をコーヒーの入ったカップの中に並々と注ぎ入れて一瞬でそれを飲み干した。
しばらくの間、僕たちは沈黙したまま向かい合って、朝食を摂っていた。互いに口を聞こうとはしなかった。



 僕自身が菌糸の中から産まれたのは、六歳の時だった。
部屋中が春の日差しによって、やさしい暖かい空気が流れていた。
僕の両親は楽しそうに会話をしていた。
今だ。
そう思った僕は、菌糸の中で胎動を始めた。じょじょに肺呼吸に体を慣れさせて行く。
菌糸の中で僕の動きだしたことに両親が気づくと、その日を待ち望んでいたかのように、感嘆の声をあげ、それぞれの準備にとりかかっていった。
純粋な木野子人だった母は、菌糸の前に駆け寄り、僕に向かって言葉をかけてくれた。
父は人間だったので、部屋中を遮光と紫外線、太陽線や放射線が入らないようにスクリーンの機械をうごかすと、スーツを脱いで僕の前にありとあらゆる様々な機械を設置し始めた。
父は木野子人の研究員だったのだ。



 あの時、僕は家族からどんな言葉をかけられただろうか。
今、彼女に話しかけてあげることがどんなに必要じゃないだろうか。
新しい家族である妹ととの、なかなか埋まらない堀を感じて、僕は嘆息した。
「風呂に入ってくる」
妹が、こっちを向いて話しかけてきた。
「お兄ちゃん」
予想外に返事が返ってきた事に僕が驚いていると、彼女は髪を切りに行きたいから、お風呂から上がってきたら、お店まで案内するようにと言うと、また、手元の本に視線を戻してしまった。
「それには夜になるまで待つ必要があるよ」
彼女にはまだ、この世界について様々な説明をする必要があった。
簡単な摂理だった。僕は彼女の兄だったし、彼女(妹)は、まだ、産まれたばかりだったのだから。


 





































 

       

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